紫
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寝倒しました。
四月最後のこの日を…。
なーんて、最後の日でも最初の日でもどうでもいいことです。
とにかく、今はすっかり元気・元気!
まだリンパ腺が腫れていますが、明日からは大丈夫でしょう。
ということで。
おやすみ。
ここ数日、またリンパ腺が腫れていることは気づいて、注意はしていたのですが、とうとうまた熱が出てしまいました。
なんとも情けない。
やはりたとえ暖かくなってきたとはいえ、ちゃんと布団の上で寝ましょう。
おやすみ。
大阪に住んですぐに気づいたことは、「アーケードのある商店街が多い」ということです。
いろんな店が軒を連ねていて、活気があって安くて、楽しい。
スーパーのようにイッキに何もかもが揃う簡便性はないけれど、八百屋さんや魚屋さん、かまぼこ屋さん、豆腐屋さんたちと、会話をしながら、ときには調理の仕方やおいしい食べ方などを聞き出して、買い物できます。
小さなたこ焼き屋さんも必ずあります。
たこ焼きが「好き」というより、「食べるのが当たり前」という感覚で、たこ焼きを買っていく人たちにつられて、ついつい買ってしまいます。
家族で切り盛りしている店の、その役割分担の息のよさについつい見とれてしまったり、雑貨屋さんの品揃えに店主のこだわりを感じたり、道のまんなかで井戸端会議をしている人たちを邪魔っけに感じたり。
でも、このどやどや・わさわさとした感じの人ごみに、妙に懐かしいぬくもりを感じるのは、なぜでしょう。
デパートの人ごみとも通勤ラッシュの喧騒ともまったく違う、地元の人たちの「気配」がたくさんつまっている「アーケードのある商店街」。
最近、よく行く「アーケードのある商店街」は、迷子になりそうなくらい広くて、1日時間をつぶせそうなくらい、おもしろいお店がいっぱい。
私が飽きるのが先か、つぶす時間がなくなるのが先か、結果は目に見えています。
それはそれで、よし、としましょうか。
ここ数日のほんのすこしの「不安」は、まだ胸の内。
笑っていれば、そのうち消えていくでしょう。
おやすみ。
2003年04月26日(土) |
手ぬぐいに書かれた言葉 |
「勧酒(かんしゅ)」
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
晩唐の詩人、于武陵(うぶりょう)の有名な漢詩です(注:横に読みます)。
この詩が書かれたTシャツを1枚持っています。
旅先で着ていると、みんなにしげしげと眺められます。
やはり漢字はインパクトがあるのでしょう。
この詩が書かれていた日本てぬぐいも持っていました。
お風呂で使うと泡立ちもよく、しかも乾きやすいので、旅には必需品でした。
何年か前に、小樽の宿で作ってもらったもののひとつ。
それをとある温泉に忘れてきてしまいました。
もう手に入りません。
車で小一時間ほど走ってから気づきました。
でも取りに帰る気も、電話で問い合わせる気も起こりません。
来るものは拒んでも、去るものは追わないつもりの私。
追っていれば、私の「人生」も今とは違っていたのでしょう。
この詩のいちばん最後の行のような気持ちになるまで、まだまだ先は長そうです。
「サヨナラだけが人生だ」
おやすみ。
注釈)
上の漢詩を書き下してみると、こうなります。
君に勧む金屈巵(きんくつし)
満酌辞するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨多し
人生別離足る
この漢詩に、井伏鱒二がつけた訳がこれまた有名です。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
最近、ゆっくり歩いたことはありますか?
私は、ときおり意識的にゆっくりゆっくり歩きます。
たとえば、松葉杖をつきながら、山のなかを散策していたときのような気持ちで…。
ゆっくり歩くと、今まで見過ごしていたいろんなものが見えてきます。
子どものころによく摘んでいた花や、アスファルトの模様、どこからきたのかさまよっているような蟻(あり)、少し高い空や、大きく見える雲。
伊豆にある熱川(あたがわ)の病院にリハビリ入院した期間は3カ月。
ここまでくるのがとてもとても長かったです。
足の装具を補助するための松葉杖。
これでも、歩けるようになったことに喜びを感じていました。
そんなときに見た桜やつつじは、「まだまだがんばれ」と応援してくれているようで。
そして、花の名前を知っているようで知らなかった私に、いろんな人がいろんな植物を教えてくれて。
あの日、目の前の暗闇と激しすぎる頭痛と嘔吐に、「死」の恐怖を感じることがなければ、私は、つつじを「キレイ」とは思っても、つつじの「がんばれ」を聞くことはなく、今まで生きてきたのかもしれません。
そろそろ、長岡天神のつつじが、見ごろですね。
小人(こびと)さん、どうもありがとう。
もう夕方にさしかかったころ、まだ何にも食べていないことに気づきました。
卵とツナとたまねぎがあったので、塩味のスパゲティを作りました。
久々に作ったけど、なかなかおいしくできました。
ビンボー学生だったころは、2キロ150円の業務用のパスタを買ってきて、具なしのスパゲティをよく作っていました。
まずくはなかったけれど、なんとなくむなしかったです。
むなしい料理といえば、「しょうゆごはん」とか「具なしおにぎり(海苔なし)」「ホットケーキミックス2枚分を3食に分けたやつ」「具なし味噌汁」「納豆だけ(ごはんなし)」……ほかいろいろ。
むなしくなるので、このへんで。
幸い、飲食店でバイトを始めたため、このむなしさは長続きはしませんでしたが。
今では、具が入ったパスタを作ると、とてもぜいたく気分になれます。
たとえネギだけでも。
生活のどん底を知るということは、いいことだ。
きゅうっ
と胸が締め付けられたと同時に、思いきり声をあげて泣きたくなりました。
なーんにもなーーーんにも、わかってなーーーーいっ。
初めて勤めた会社に、沖縄出身の同期がいました。
沖縄に行ったことも、沖縄育ちの人と話したこともなかった私は、彼の存在がとても驚異でした。
ゴミのことを「塵(ちり)」と言ったり、パスタのことを「麺」といったり。
自家製の油味噌をくれたり、沖縄人の集まりに連れて行ってくれたり。
初めて食べたソーメンチャンプルは、その後、私のよく作る料理のひとつになりました。
沖縄県人会のバレーボール大会にも参加しました。
広い体育館で、誰かが三線を弾き始めると、それに合わせて誰もが歌い始め、あちこちでみんなが踊りだします。
(全身で故郷を愛しているんだ…。)
自分の故郷の歌に合わせて踊る彼らの姿に感動し、遠くの地に来てもどこからともなく集まってくる県民性をうらやましく思い、そして自分を振り返りました。
私は故郷を懐かしくは思うけれど、それほど愛してはいません。
故郷にまつわる歴史は好きだけど、それは「私のもの」ではありません。
だから、故郷のことを聞かれても、歴史の教科書のような話しかできません。
「素もぐりすると、サンゴがキラキラ光ってキレイさー」
「沖縄の男子は、親の名前を一文字必ず受け継ぐのさ」
「祝いの席では、必ず踊るさ。こうやってさ…」
楽しそうにうれしそうに「自分の故郷」について語る彼。
沖縄を知らなかった私は、ときどき、その「熱さ」が面倒くさくなったこともありました。
その後、何度か沖縄を旅したり、沖縄の人と話したりするにつれて、彼から教えてもらった沖縄がずいぶんと色濃くなり…。
何年か前に沖縄に戻り、今は一児のパパとのこと。
男の子だったら、きっと名前に「興」という字がついているのでしょう。
今だったら、もっともっと彼の話に耳を傾けることができたのに。
今日の夕飯は、ソーメンチャンプル。
沖縄が私の故郷ではないけれど、とてもとても懐かしい味がしました。
仲の悪い兄妹、と思っていました。
よくけんかをしては、泣かされていました。
反抗期のころの兄には、近づくのも怖いくらいでした。
それでも、私はよく兄の真似をしていました。
音楽や映画にしてもテレビ番組にしても、ゲームにしても本にしても、兄が興味をもつものは、自然と私も興味をもちました。
その逆は、けっしてありませんでしたが。
世間のいろんなものが、直接ではなくて、兄というフィルターを通じて私のなかに入り込んできたように思います。
だから。
急に「一人」になったとき、私を守っていたフィルターがなくなったとき、私のなかに屈折した自立心と、頑丈な壁ができたことを、今もはっきり覚えています。
まだ、私には養われていなかった判断力と決断力が、急に要求されはじめた毎日に疲れたからでしょう。
さすがに今はもう、フィルターを求めることはありませんが、それでも、たぶん、今も兄が興味をもつものは、納得はせずともだいたいは理解できると思います。
それが「兄妹」なのでしょう。
仕事の手を休めて、ふと目の前のカレンダーを見ました。
「お誕生日、おめでとう。
一歩一歩をたいせつにできる1年になることを
祈っています。
妹より。」
2003年04月19日(土) |
ふわ、ふわ…、ふわ、ふわ…。 |
断片的にふわ、ふわ、の続きます。
少し頭が疲れてきたので、今日はぐっすりおやすみ。
こんな感覚って、変かしら。
突然に、でも以前から約束していたかのように、夜桜見物に行きました。
裏山をずっとずっとのぼっていったところにある「桜の苑」。
ちょっとした名所とのことです。
ほのかな月明かりと持っていた懐中電灯で照らされたソメイヨシノ。
昼間の桜とはうってかわって、誰にも見つからないように静かに静かに咲いているかのようでした。
「花は盛りに月はくまなきものを見るものかは」
桜の季節になると、徒然草のこの段を思い出します。
散りかけの桜や、少し雲のかかった月もなかなかいいよ、と教えてくれた兼好法師。確かに、朧月のやさしい明かりや風が吹けばいっせいに舞い散る桜吹雪の激しさは、見応えたっぷりです。
「万(よろづ)の事も、始め終りこそをかしけれ」
「切ない気持ち」が大事だ、と男女の「情」を例に挙げて語っている兼好法師。
徒然草を中学校で習ったときには、よくわからなかったことも、だんだんと歳を重ねるに従って、少しずつ見えてくるものがたくさんです。
今日は、朧月夜にはっきり見えない満開の桜。
さて、兼好法師はいったいどう表現するのでしょうか。
「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは」
想像する美、思い焦がれる気持ちが大事、なんだろうな、今日の夜桜を見て思いました。
深夜になりましたが、おやすみ。
昼を少し過ぎたころ、電話が鳴りました。
「キャッチボール、しませんか」
一度は断ったものの、この快晴のなか、部屋のなかで黙々と仕事を続けているのがイヤになり、息抜きがてらに外に出ました。
太陽の下で、3人でキャッチボール。
けっして上手ではありませんが、とてもいい息抜きになりました。
ピアノを習っていたためか、子どものころは、母は私に野球どころか町内会のソフトボールでさえさせてくれませんでした。
そのためか、私は不本意ながらも簡単なゴロでも、「わ!」「きゃっ!」と逃げ回るかわいらしい女子高生に育ちました。
大学に入り、「わ!」「きゃっ!」なんて似つかわしくないほどビンボー学生になってようやく「このままではいけない!」と思いました。
3年の夏、4日間の体育の合宿のあいだに友に特訓してもらい、ようやくできるようになったキャッチボール。
力こそないけれど、初めてグローブで相手の投げた球を受けたときの感動は忘れられません。
周りには、やはり「わ!」「きゃっ!」と言って逃げ回っている友たちがいたけれど、そんな彼女たちよりも少しだけ強くなった気分でした。
そんな些細なことを思い出しながらのキャッチボール。
どこかだれかの車のボンネットに球を当てて、急いで帰ってきたことは、3人が同時にみた白昼夢なのでしょう。
地図を見るのが好きです。
地図、というより、地名を見てその土地の歴史を想像することが楽しい。
区画整理で、どんどん地名が統合されてきていますが、交差点の名前や学校の名前に面影が残ります。
私の高校も、その地名はないけれど、その土地にある古墳から名づけられました。
自分が住んでいる街の地名もよく調べます。
たとえば大阪の梅田は、泥田を埋め立てたことから「埋田(うめだ)」になり、のちに「梅田」となったと聞きました。
ついでに手持ちの地名の本を見てみると、「道頓堀」は「大坂の陣」の直前に安井道頓さんによって掘削が始められたから。
城東区にある「新喜多(しぎた)」は、川を新田に開拓した鴻池新十郎さん、鴻池喜七さん、今木屋多兵衛さんの名前から一字ずつとったものとのこと。
「尼崎(あまがさき)」は、昔は「海崎」「海人崎」「海士崎」とも書かれていたそうです。昔は漁民全体を「あま」と呼んでおり、「崎」は岬のことで、海に突き出た場所。つまり「漁民が住む海に突き出た土地」になります。
東京と比べて関西は、読み方の難しい地名が多いように思います。
その歴史の古さから見ても当然なのでしょう。
あまりに古すぎて、当時を想像するためには多大な労力を要するけれど、調べれば調べるほど、知れば知るほど街が喜んでいるような気がします。
今では地図を開くときは、だいたい車のなか。
道に迷いそうなとき、迷ったとき、迷いすぎでいったいどこにいるのかわからないときが多いため、歴史のなかにひたっている場合ではありません。
「飲みたい気分」という1通のメールから、こじんまりとしめやかに飲み会になりました。
近所のコンビニでつまみになるようなモノを吟味しつつ買い集め、お皿に移して見栄えのよい肴にし、残り物の酒を並べて、さて、飲み会開始です。
いつもよく顔を合わせては呑んでいる面々ですが、少人数になると話題も変わります。
かなり深夜から始まったこの飲み会。話の合間にちびりちびりとお酒を飲んで、ときどき豆腐や漬け物をつまんで。
いいペースで酔いがまわり、いい感じでそれぞれの眠りにつきました。
今日の会は、◎(二重丸)。
なんとなく、ふわふわしたような感覚は、病み上がりだからでしょうか。
東京の中野に住んでいたころ。
日当たりのいいベランダは、植物でいっぱいでした。
学生時代に母がもってきてくれた「金のなる木」や、春になると必ず実を結ぶイチゴ、自分の初めての転職を機に買ったカランコエ、シクラメン、桔梗(ききょう)、アジサイ、季節によってキュウリやパセリ、シソ、ネギ、チューリップ、ミニバラ、マーガレット…etc.
雪が降ると新聞紙をかぶせ、夏場は、水やりを忘れないようにして。
今以上に忙しい毎日だったはずなのに、すくすくと植物が育っていったのは、きっとあの日当たりのよかった部屋のおかげなのでしょう。
私は、あの部屋が今も大好きです。
去年の秋、マンションの壁の塗装工事で、金のなる木を残して、カランコエやシクラメンがとうとう枯れました。
あの部屋の思い出が遠ざかっていったような気がして、なんとなくしょんぼり。
いえ、しょんぼりの原因はもっとほかにもあった秋でしたが。
それでも、もう自分で世話をしなくなって3年。
ホントは、もう愛着もなくなりかけていたころでした。
「ほら、がんばってるよ」
今日、お昼ごはんに、おいしいさぬきうどんを食べていたら、母がベランダからひょっこり顔をのぞかせました。
「種が落ちていて、葉っぱが出てきたよ」
母が持つ鉢には、シクラメンの葉が、小さく開いていました。
「こっちは、カランコエ。土のなかで寝てたのかな」
……。
小さくなったけれど、以前と同じくらいしっかりと根付いているシクラメンとカランコエ。
きっと、毎日ベランダに出て世話をしている母のために、この長かった冬を地面の下でじっとがんばっていたのでしょう。
(ありがとう)
と心のなかでつぶやくと同時に、なんとなく置いてきぼりにされたような気持ちになりました。
私って、春がきたことにも気づかずに、まだまだ地面のなかにいるみたい。
ちょっと階段を上り下りすると、めまいがしました。
久々に体を動かしたからでしょう。
早く慣れようと、何度も往復したら、ますますぜいぜいしてきました。
それでも熱はすっかり下がりました。
ご心配をおかけしました。
午後になってから、お風呂に入りました。
久々に体重計に乗ったら、2キロほど痩せていました。
このまま維持できればいいな、とのんびり考えましたが、きっと無理でしょう。
生野菜がおいしくて、バクバクと食べました。
これで、たぶん、明日には、もっともっと、元気になっていることでしょう。
でも、5分に一度のため息モードは、まだしばらく続くのでしょうか。
ため息を一つつくたびに、幸せが逃げる、と聞いたことがあります。
幸せが逃げないために、だれか私のため息を、食べてくれないかな。
今日はまだまだ本調子ではないので、変、な日記です。
おやすみ。
アサイチで体温を測ると、なんと40度!
その数字だけで、もう起き上がる気力をなくしました。
いえ、数字を見ても見なくても、体全体が痛くて喉も痛くて、まともにまっすぐ歩けませんでしたが。
病気になると、普段は見えないやさしさとたくさん見えてきます。
そして、普段だときっと甘えないだろうやさしさに、素直に甘えられます。
たとえば、突然に、でも待ちわびていた「スープの出前」とか、みんなの温かくて毒舌な「見舞い言葉」とか、仕事の納品を手伝ってくれて、しかも病院にまで付き添ってくれたコビトさんとか。
温かくてさりげない、「一人じゃないんだな」と思えるやさしさです。
逆に、「やっぱり一人なんだな」と感じてしまうこともあります。
夕方に行った病院で打った注射が効いたのか、三種類の錠剤が効いたのか、夜になってからずいぶんと元気になりました。
まだ食欲はあまり出ませんが、きっと明日には心も体も元気になっていることでしょう。
明日から再び、うがい励行、です。
一つの大きな仕事が、今日終わりました。
午後になってから、最終チェックを終えて、納品完了。
あとは、出版社の編集担当者におまかせです。
なんとなく気分が晴れ晴れしないのは、きっとこの喉の痛みと微熱のせい?
仕事場に戻り熱を計ると、なんと37.5度!
まだまだ上り調子のようです。
久々の季節熱ならいいのですが、まだなんとも言えません。
連日の仕事と遊びの疲れがイッキに出たのでしょう。
久々の低温消毒に体が驚いているので、今日のところは、
おやすみ。
風邪は予防がイチバンですよ。
「泥棒でもいいから、誰かにそばにいてほしい」
大学に入って間もないころ、真剣にこんなことを考えたことがあります。
寂しくて寂しくて仕方がなかった春。
寂しさのあまりに、体の震えが止まらず、まだ知り合って間もない大学の友といっしょにいても、まだ乗り慣れない西武新宿線のラッシュのなかにいても、涙がとめどなくあふれてきました。
家の近所の電話ボックスに、毎日、コレクトコールをかけに行っていました。
電話に出た祖母の口からは「若いときの苦労は買(こ)うてでもせよ」と一言。
その言葉を聞くために、また次の日もその次の日も電話をかけていました。
部屋に電話がついたのは、その半年後。
そして、部屋に泥棒が入ってくれたのは、その3年後。
もちろん、うれしいのは電話がついた半年後のほうです。
そしてこれまたもちろん、どんなに寂しくとも、今は泥棒には入ってほしくありません。
おやすみ。
花粉症とばかり思っていたら、少し風邪をひいたようです。
少しの寒気と喉の痛み。そして微(かす)かな熱。
少し前はでは、季節の変わり目になると、高熱を出していました。
年に4回、40度以上の熱が私を襲います。
全身の皮膚がびりびりと敏感になり、布団がすれても痛いくらいです。
それでも、1〜2日でさーっとひいてしまうその熱は、まるで私を体のなかから低温消毒しているかのようで、「新しい季節」を迎える準備をしているように感じていました。
今日は、いつもの季節熱とはちょっと違うみたい。
きっとこの大雨のせいで、体が冷えたのでしょう。
温かい温かいスープを飲んで、心も体も温まりたい。
花粉症がひどくなってきました。
毎年、この時期は悩まされます。
だから、今日の日記はおやすみ。
はーっくしょんっっっ!
根を詰めすぎず、すぐに飽きることもなく。
適度がいちばん。
その適度の度合いがよくわからず、結果としては根を詰めてしまうワタシ。
何事も三日坊主はいけませんが、三日坊主でいいこともあるのでしょう。
おやすみ。
2003年04月05日(土) |
夜桜をキャンセルした夜 |
夜桜の約束を、キャンセルしました。
仕事が詰まっていたこともあるけれど、主な理由は「なんとなく」です。
急にごめんなさい。
「なんとなく」の理由もわかっているけれど、それも「なんとなく」言いたくありません。
勝手でごめんなさい。
キャンセルの電話を1本入れて、少し車のなかで「三宅伸治」を聴きながらぼーっとして、部屋に帰って今度は「ハシケン」を聴こうとしていたときに、「トントントン」と音がしました。
振り向くと、そこには「干支(えと)で一つ上」の友が立っていました。
思いがけない訪問がうれしくてうれしくて。
その友としばらく話をしているうちに、「私って『一人になりたい』ふりをして、ホントは誰かに見つけてほしがっているのかも」と思いました。
だとしたら、私ってとっても依存心が強くて後ろ向きでしかもあまのじゃく?
そんな自分に気づいたことは胸にしまっておいて、それでも友と話し続けた時間が、今日の私の「なんとなく」の理由が、なんとなく消えていきました。
どうもありがとう。
夜桜組は温泉に入るとのこと。
私は、明日の仕事のためにもう寝るとしますか。
おやすみ。
「あっという間に桜が咲いたね」
母が、窓の外を眺めながら言いました。
その言葉につられて、窓の外に目をやると、そこは春まっさかりでした。
「でも、この雨で散るね」
独り言のように続けざまにつぶやく母。
それでも、その言葉には寂しげな感じはなく、むしろ桜が咲いて散っていくという一つの春のイベントを楽しんでいるかのように聞こえました。
母は、私にいつも来(きた)る季節を感じさせてくれます。
それは、ほかの人からは感じたことのない季節です。
母の言葉で私に伝えられる季節は、ときどきとてもせつなく、そしてとてもたいせつなものに思います。
「でも、この雨で散るね」の言葉のなかに、母が何を感じていたのか。
いっしょに住んだ時間は短くとも、なんとなくわかるのは「親子」だからでしょうか。
「桜が咲いて、散っていく」という当たり前のイベントが、今日から私のなかで「特別なもの」になりました。
気心知れた仲間と飲み会でした。
数カ月に1度、定期的に開かれるこの会。
その顔ぶれに、心が和みます。
「飲み会」は大好きです。
お酒を飲む、というよりも、みんなとわいわいすることが楽しい。
普段はしない話しがたくさん飛び交います。
普段とは違う表情になります。
他部署の人たちと交流でき、なおかつ楽しすぎるこの会。
そういえば去年の今ごろ、この人たちに送別会を開いてもらいました。
あのときの「うれしい気持ち」があるから、この温かい人たちと「また会いたい」と思えるのでしょう。
ホントはあの日、「きっともうこの会には呼ばれないんだろうな」と、ちょっと寂しい気持ちになったことは、今も変わらず「ねえさん(姉さん?姐さん?)」と呼んでくれる彼らには言えません。
彼らは、私のよく言う「居心地のいい場所」の一つです。
「おかえり」という言葉はもちろんないけれど、心が「ただいま」と言える場所なんだろうな、と、帰りの電車のなかで思いました。
温かい温かい気持ちをありがとう。
4月2日
菜種梅雨(なたねづゆ)というのでしょうか。
今日は、ずっと雨でした。
菜の花が咲きそろう今ごろの季節に降る雨は、せっかくの春の気分がほんの少し後ろ向きになります。
けっして雨がキライなわけではありません。
学生時代までは、傘をさすのがキライで、ある程度の雨なら傘をささずに歩いていました。
今もずぶ濡れになって歩くのは、苦ではないけれど、風邪をひきたくないのであまりしません。
子どものころ、空を見上げて雨や雪が落ちてくる瞬間を見るのが大好きでした。
自分に向かって降ってくる雨を見ていると、体が宙に浮いて、ふわふわ、ふわふわ、と空に向かって進んでいるような気持ちになりました。
今日は、大きな大きな桜の木を眺めながら、久々に空から落ちてくる雨の粒を見つめました。
薄墨色の花をつける大きな大きな桜の木は、ホントはもうとっくの昔に枯れてしまっているはずの木。
人工の手術を受けて、どんどん寿命を伸ばしています。
桜の木の寿命が、平均で何年かはわからないけれど、なんとなくこの薄墨色の花をつける桜は、菜種梅雨という季節をもう感じていないような気がしました。
そんな私も、久々に見つめた雨の粒は、私を空までは連れていってくれませんでした。
忙しくて忙しくて忙しくて仕方のなかった3月が終わりました。
今日から4月です。
それでも、まだ今週いっぱいは、仕事に追われます。
今日も徹夜で仕事です。
それでも気分が前を見ているのは、やっぱり春だからでしょうか。
悲しいことは春の陽気であたためて、うれしいことは、春の風にのせて広めて。
さて、これから私の生まれた季節がやってきます。
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