北野武の「座頭市」を観た。意外に金髪の主人公が時代劇に違和感なく溶け込んでいた。そんだけ!(by ペコ「ピンポン」)
・・・でまぁ、そんだけじゃこの日誌の愛読者に申し訳ないのでもう少しだけ。
北野武という監督はその処女作「その男、凶暴につき」から、物語を語るという行為を端から放棄している。その姿勢は「座頭市」でも変わらない。例えば浅野忠信が演じる浪人の妻(夏川結衣)なんか全く必要のないキャラクターである。かえって浪人が独り身の方が物語がすっきりするだろう。それから悪党の陰の親玉は誰か?というミステリ仕立てが全く機能していない。だって顔を隠しても声が柄本明だって最初からバレバレだもん(笑)。あ、これネタバレじゃないからね。だってそれに気付かないなんてよっぽど鈍い間抜けしかいないから。あと親を殺されて復讐に燃える姉弟の詰まらないエピソードがだらだらと長すぎる。くどい!‥という訳でベネチアで賞を獲ったからって恐れをなして誰も正面切って書いてないけれど、僕はここに宣告する。この映画の脚本は屑である。いつも通り北野のギャグは冴えなくて笑えないし。北野武をあたかも神のように崇拝するヨーロッパ人ども(+それに追従する日本のマスコミ)の神経が僕には全く理解不能である。
確かに土砂降りの中の決闘シーンなど映像はスタイリッシュだ。でもそんだけ。この主人公、ターミネーターみたいに強すぎてカタルシスが全くない。アッサリ瞬時に決着がついちまう。時代劇にタップなどミュージカルを盛り込んだことが話題になっているが、所詮STOMPの真似だしねぇ。嘘だと想うならここの"watch trailer"をクリックしてごらん。まあ僕は根っからのミュージカル大好きっ子だから、愉しまなかったと言えば嘘になるけれど。確かにSTOMPと時代劇と融合させるというアイディアは悪くなかった。以上。
2003年09月27日(土) |
加椰子 rebirth <呪怨2> |
さあ、溜まったレビューを手短に、短期間で一挙放出。
東映ビデオからオリジナル・ビデオ(OV)として発売された「呪怨」は背筋が凍りつくような掛け値なしの傑作だった。「リング」に匹敵するジャパニーズ・ホラーの代表作。何と言っても猫少年こと俊雄クンと加椰子のキャラクター造形が傑出していた。「怪猫有馬御殿」など入江たか子さんの化け猫シリーズからの日本怪奇映画の伝統を引き継ぐというその心意気も清々しかった。
しかし、劇場版「呪怨」の出来にはがっくり来た。まず虚仮威しで底の浅い清水監督のショック演出が、ワン・パターンでちっとも怖くない。映画半ばで飽きてきて、寧ろ失笑してしまう。不気味でなければいけない俊雄クン役が今回は可愛らしい男の子で、これも幻滅。予算が増えて奥菜恵や伊東美咲などアイドル女優が出演するので演出が遠慮がちで、思い切ったエグイ描写が出来ていない。そして前作ではどうして加椰子や俊雄クンが人々を襲うのか、その理由が曖昧で、不条理な恐怖があったのに、劇場版では説明過多でかえって理に落ちて詰まらなくなってしまった。
だから「呪怨2」には全く期待していなかったのだが、今回はなかなか頑張っており失地回復していた。オリジナル・ビデオ版の恐怖を100%とすると、劇場版「呪怨」の出来が60%、「呪怨2」が85%くらいか。まずのりピーという旬の過ぎた、今では売れていない元アイドル(=二流のタレント)を起用したのが成功した。演出に遠慮がなくなり最後はぐちょぐちょの血まみれ!よくぞここまで頑張った。加椰子や俊雄クンの攻撃も理不尽さを取り戻した。時間の流れを細切れの断片にして、それをシャッフルしパズルみたいに並び替えて(時間軸をずらして)観客に提示するというやり方はOVからのこのシリーズの特徴だが、今回はそれが効果的に活かされていて物語に工夫があった。恐怖の見せ方にもバラエティが出てきて飽きさせない。まあ、最後の落ちは初めからミエミエとは言え、なかなか情け容赦がなくて面白かった。
本当は「呪怨2」「ファム・ファタール」「座頭市」など既に観ていてレビューをアップしないといけない作品が溜まっているのだが、今はとにかくロボコンだ。これは前回の日誌(←未読の方はクリック!)からの続きである。
9/13日と14日の週末興業成績ランキングを見てがっくりきたのは公開初日を迎えたばかりの「ロボコン」がランク・インしていないことである。「踊る大走査線」はともかく、「座頭市」「呪怨2」や上映5週目の「ゲロッパ!」よりも成績が悪いということは一体全体どういうことなんだ!?まあ、同じく初日を迎えたモー娘。の「青春ばかちん料理塾/17才・旅立ちのふたり 」も入っていないから良いか…って、そういう問題じゃないだろ(笑)!「ロボコン」みたいな傑作がヒットしていないというのは返す返すも無念である。「座頭市」ごときよりも何倍も面白いのに。という訳で今はとにかく声を大にして応援を続けたい。
「ロボコン」が興行的に成功出来なかった原因は東宝の宣伝戦略の失敗もあるのだろうが、タイトルにも一因があるのではないかと推察する。例えば僕らの世代から言えば「ロボコン」で連想するのはロボット・コンテストではなく、子供向けテレビ番組「がんばれロボコン」の方だもんな。石ノ森章太郎さんがデザインしたロボコンは当時の子供たちのアイドルだった。だから「ロボコン」=お子様向けという印象を最後まで払拭出来なかったのではなかろうか?
ちなみに「がんばれロボコン」でロビンちゃんを演じた子役、島田歌穂さんは後にミュージカルの大スターになり「レ・ミゼラブル」のエポニーヌ役で一世を風靡。同役のソロ・ナンバーOn My Ownをエリザベス女王の前で唄うという輝かしいキャリアを築いた。閑話休題。
さて、映画「ロボコン」の劇中、ヒロインの長澤まさみが山口百恵の「夢先案内人」(作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童)を唄う場面がすこぶる印象的だったことは前回の日誌で書いた。実は今年、山口百恵はデビュー30周年を迎え、たとえばそれを記念した24枚組のボックス・セット(定価29,800円)が発売され、なんとオリコンのヒット・チャートで8位にランクインするという快挙を成し遂げた。未だに彼女の人気は衰えることがない。同時期にスペシャル・プライスで再発売されたあの武道館における伝説のさよならコンサートを収めたDVDが丁度手元に届いていたので、「ロボコン」を観終え帰宅して直ぐに鑑賞した。
本当に山口百恵は大スターだったと改めて認識した。引退時弱冠21歳。そんな若さを全く感じさせない成熟した大人の女の色香。そして心に染み入る唄の数々。そこに込められた深い情感。引退後23年間一切マスコミに登場しない潔さも素晴らしい。なかなか出来ることではない。歌謡界の原節子と呼んでも大げさではないだろう。また、今回さらに感銘を受けたのは作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童のコンビ作の唄の完成度の高さである。是非このふたりには今後もミュージカルの世界などで活躍してもらいたい。
小学生の頃、山口百恵は僕にとって掛け替えのないアイドルだった。「赤い衝撃」「赤い疑惑」など彼女が出演したテレビシリーズは毎週欠かさず観ていた。あれから四半世紀が過ぎたが「百恵ちゃん、大好き!」という気持ちは今も全く変わらない。そのことを再確認した僕は、自分自身のことを愛おしく、そして誇らしく想う。これは決してノスタルジイではないだろう。
大林宣彦監督は「さびしんぼう」というタイトルの映画のヒロインをさがして、当時デビューしたばかりの山口百恵という少女に逢ったという。結局その時点では映画「さびしんぼう」は実現に至らなかったのだが、その少女を気に入った大林監督は彼女を「グリコ」のCMに起用、そこで百恵は三浦友和という青年と初めて出会うことになる。1974年のことだった。その後このゴールデン・コンビによるシリーズは何年間も続き、ふたりの愛はそこで育まれた。
三浦友和は大林監督の劇場映画デビュー作「HOUSE ハウス」(1977)に友情出演し、大林監督は友和・百恵の結婚前のプレゼントとしてふたりが共演する映画「ふりむけば愛」(1978)をサンフランシスコで撮った。以降も友情は続き、三浦友和は大林監督の最新作「なごり雪」でも主演している。この名作「なごり雪」で友和と共演したのが当時まだ13歳だった長澤まさみ。そして今度はそのまさみが「ロボコン」で百恵を唄う。不思議な縁(えにし)である。
映画は繋がっている。
2003年09月15日(月) |
本年度NO.1の青春映画現る!<ロボコン> |
今回の日誌を読んでいる者に告ぐ。こんなレビューはさっさとうっちゃって直ちに映画館に駆け込め!「青の炎」と並ぶ、邦画における本年度最高の収穫、「ロボコン」をゆめゆめ見逃すな。
筆者が気になるのは映画初日にシネコンで「ロボコン」と「座頭市」のはしごをしたのだが、北野映画にしては珍しく(いや、初めて)大人気で指定席扱いだった「座頭市」と比較して、自由席の「ロボコン」は空席が目立ったこと。しかも「ロボコン」は昼間のみの上映で夕方以降は別番組に切り替わっている。まるでお子様向けのアニメか怪獣映画みたいな扱いなのだ。ここで断固強調しておく。「ロボコン」は中高生の少年少女が観ても勿論感動する名作だが、これは<かつて高校生だった大人たち>のための清々しい正統的青春映画でもあるのだ。口コミでこの映画の素晴らしさが広まり、ロングランに繋がることを切に願う。
念のため確認しておくが「ロボコン」とはロボット・コンテストのこと。映画の公式ホーム・ページはこちら(←クリック)。
まず筆者が気に入ったのが脚本&監督を担当した古厩智之さんの生きる姿勢である。古厩監督は自主映画出身で、大学時代に撮った16ミリ短編「灼熱のドッジボール」が、'92年ぴあフィルムフェスティバル(PFF)でグランプリを受賞。その奨学金で'94年に長編映画「この窓は君のもの」を創った。「この窓は君のもの」を筆者は観ているのだが、片田舎を舞台にした瑞々しいヒロイン映画であり、主演の女の子がとても魅力的に描かれ非常に好ましい印象を覚えた。この作品で古厩監督は日本映画監督協会新人賞を受賞している。
しかしこの人の偉いところはこのとんとん拍子の成功にも決して自分を見失わず、奢ることがなかった点である。その後プロの現場を学ぶため助監督として数々の映画で7年間修業したそうだ。そして満を持して世に問うた「まぶだち」はロッテルダム国際映画祭でグランプリを受賞、この監督の郷里・長野県を舞台に少年たちが生き生きとしたこの青春群像劇は日本でも高く評価され、キネマ旬報ベストテンでは7位に入選したのである。
PFFからは沢山の監督が生まれ、続々と劇場映画デビューしたが、その大半は1,2作撮っただけで瞬く間に消えていった。つまり感性だけならば一度くらいは素人でも優れた作品が創れるのだが、技術が伴っていないので大抵は<一発屋>で終わってしまう。これは映画に限ったことではなく、例えば文学の世界では「太陽の季節」でセンセーショナルなデビューをした石原慎太郎氏をはじめとして歴代の芥川賞作家たちも受賞後が続かない<一発屋>が多かったことと決して無関係ではない(かつて「なんとなくクリスタル」で文藝賞を受賞した田中康夫という一発屋もいた)。古厩監督が選んだ道が正しかったことは「まぶだち」と今回の「ロボコン」で鮮やかに証明された。
監督が公式ページに寄せた一文をここで引用しよう。 本物の高専生たち…長澤、小栗、伊藤、塚本の自由な感情…それらに映画を撮らせてもらいました。ありがとう。 なんと謙虚で美しい言葉なのだろう。監督の人柄が偲ばれて、もうこれを読んだだけで心打たれた。
さて前書きはこれくらいにして肝心の「ロボコン」である。またまた田舎町が舞台である(都会で撮らないその頑なさも好ましい)。今回選ばれたのは山口県徳山市(現周南市)。その高等専門学校生たちが主人公だ。彼らの服装は学生服であり、ある時は作業服だ。決して洗練されていないし、むしろ野暮ったい。でもそこが良い。ヒロインの長澤まさみが海や工場を見下ろせる小高い道を自転車で駈け抜ける映像を見ただけで「嗚呼、これぞ青春映画だっ!」と溜め息が出る。今関あきよし監督の「アイコ16歳」や大林宣彦監督の「さびしんぼう」「ふたり」などの例を挙げるまでもなくヒロイン映画に自転車は必須アイテムなのだ。古厩監督の「この窓は君のもの」にも自転車のシーンがあったことを懐かしく想い出した。
「アイコ16歳」では名古屋の高校の弓道部が舞台となった。そしてあの不朽の名作「がんばっていきまっしょい」は四国・松山を舞台にボート部に青春を賭ける女子高生たちの物語であった。「ウォーター・ボーイズ」はシンクロナイズド・スイミングだ。実はこのように運動部を題材にした青春映画の傑作は沢山あるのだが、理数系の青春が取り上げられるのは映画史上今回が初めてではなかろうか?そういう意味でも非常にユニークな映画であるといえよう。
ロボコンという競技は決して勝敗が総てではないんだという哲学が、映画でも実に分かり易く丁寧に描かれており、感銘を受けた。映画の現場でも長澤まさみは実際にロボットを操作したという。そのガッツに力いっぱい拍手を送りたい。本当に良いものを観せてもらった。心からありがとう。
映画の冒頭でヒロインが分厚い眼鏡をかけて登場し、一見堅物のように描いておいて、その後彼女が眼鏡を外すと絶世の美女に変身するという手法は「白い恐怖」などでアルフレッド・ヒッチコックが編み出し、後の監督たちが模倣している有名なテクニックだが、「ロボコン」ではそのバリエーションとして男の子に引用しているのがすこぶる面白く、非常に効果的だった。
ロボットおたくの先生のキャラクターも微笑ましかったのだが、なんといっても最高だったのは敵対するチームのキャプテンを演じた荒川良々(あらかわよしよし)。もうまるで、彼が演じた映画「ピンポン」の<キャプテン大田>がそのまま転校してきたのではないかという絶妙なるキャラクターで爆笑の渦に巻き込んでくれた。とぼけた味があって、まことに得難い役者である。必見。
余談だが劇中で長澤まさみがトラックの荷台で山口百恵の「夢先案内人」を唄う場面がある。カラオケで百恵の唄は彼女の十八番とか。しかし、百恵が引退した時(1980年)彼女はまだ生まれてもいなかった筈。どこで覚えたんだ!?・・・面白い娘である。
正に快挙である。
筆者は先日、6/28の日誌でタイム・スリップSF映画究極の名作、「ある日どこかで」への想いを切々と語った。そして遂にたった今、その国内版DVDの発売が決定したという喜ばしい一報が届いたのである。
是非こういうものが欲しい、商品化してもらいたいという夢を投稿し、そのユーザーからの声をメーカー側と直接交渉してくれる「たのみこむ」という素晴らしいサイトがある。そして「ある日どこかで」を熱烈に愛して止まない沢山のファンからの熱い声が届きDVD化が実現したのである!詳細はこちらをクリック。インターネットというメディアがその特性を最大限に発揮した吉報、画期的な事件である。
ようやく昨年、創元推理文庫から出版されたこの映画の原作の解説として寄せられた瀬名秀明さんの一文をもう一度ここで引用する。これ以上にこの映画の本質を的確に表現した言葉がないからである。曰く、「これは奇跡の作品である。」
そして奇跡は今、ここに起こったのである。ラフマニノフが作曲したラプソディの、映画全編に流れるあの甘美で切ない旋律が鮮やかに甦る時が来た。
貴方に問う、「観ずに死ねるか?」と。
井筒和幸監督の映画で僕が今まで観た作品は
「晴れ、ときどき殺人」 「マル金(キン)マル貧(ビ)の金魂巻」 「二代目はクリスチャン」 「犬死にせしもの 」(当時まだ無名だった今井美樹が娼婦役で登場し、オール・ヌードを披露して話題に)
としょ〜もない駄作ばかりで、実は監督の代表作と言われる
「ガキ帝国(1981) 」 (主演は島田紳助・松本竜介 ) 「岸和田少年愚連隊(1996)」 (主演はナイナイ) 「のど自慢(1999)」
を何故か観ていない。ちなみにこの三作はいずれもキネマ旬報ベストテンに入選している。
だから井筒さんは笑えない喜劇<もどき>を撮る才能のない監督で井筒映画は登場人物が全員躁状態で怒鳴りまくり、全然台詞が聞き取れない暴力的で下品なクズ映画だと信じて今まで生きてきた。
さらに「東方見聞録」事件が監督のイメージを悪化させていた。その事件とは…
平成3年9月21日、静岡県駿東郡小山町上野の奥の沢川で劇場用映画「東方見聞録」(ディレクターズカンパニー製作。井筒和幸監督、緒方直人主演)のロケに来ていた俳優・林健太郎が川の深みにはまって溺れ病院に運ばれたが意識不明の重体。後に死亡。同県御殿場署の調べによると武者が滝つぼに落ちるシーンの撮影のため鎧をつけた同俳優が滝つぼに入ったところ、突然流されたらしい。 この記事の参考文献はこちら
そして翌年この事故の管理責任を問われ、井筒和幸監督と小笠原直樹助監督は書類送検されたのである。 この件に関しては井筒監督に弁解の余地はないだろう。杜撰な安全管理体制のせいで死者を出したのだから。ものを創るということの恐ろしさを知らぬ傲慢な男。こうして井筒という人の人間性への不信から、この事件以降僕は彼の映画から遠ざかっていた。
これは最近になって知ったのだが、「東方見聞録」事件の後、製作会社ディレクターズカンパニーは倒産。結局遺族に関する補償は全面的に監督が負担することになったそうだ。そしてその補償金を支払う為に、手っ取り早く稼げる手段として井筒監督はテレビに頻繁に出演するようになり、辛口トークで人気を博し、また一方で反感を買い、少なからぬ敵をつくったのである(参考記事はこちら)。
さて評判の「ゲロッパ!」である。これはもう素直に面白かった。劇中何回もゲラゲラ笑かして貰った。ファンキーで、それでいてホロリと泣かせる場面もあり、喜劇映画として出色の出来。また、日本映画には少ないセミ・ミュージカル仕立てというのも気に入った。踊りまくる西田敏行と岸部一徳が最高!藤山直美まで踊るのにはもう吃驚。また、「ガキ帝国」以降友好関係にある吉本興業の協力がこの映画をさらに豊かにしているという印象を受けた。ただしナイナイの岡村が演じたキャラクターは意味不明。
過去自分が引き起こした災厄の贖罪を果たしつつ、それでも人間喜劇を捨てなかった井筒監督は今回、本当に良い作品を撮ったと想う。必見。
余談だが、常盤貴子の娘を演じた太田琴音ちゃんがおしゃまで、とても可愛かった。この子の天才子役ぶりは「ペーパームーン」のテイタム・オニール(アカデミー助演女優賞受賞。撮影当時9歳)や「グッバイ・ガール」のクイン・カミングス(アカデミー賞ノミネート。当時10歳)に匹敵する20年にひとりの逸材と断言しても言い過ぎではないだろう。
2003年09月03日(水) |
欧州映画の邦題に物申す。 |
「トーク・トゥー・ハー」、「オール・アバウト・マイ・マザー」、「オープン・ユア・アイズ」…これらはスペイン映画である。
「ライフ・イズ・ビューティフル」、「ニュー・シネマ・パラダイス」…これらはイタリア映画である。
しかし、何故これらの邦題は英語をカタカナ表記したものなのか??
配給会社の宣伝部はまず適切な日本語で邦題をつけるように最大限努力すべきである。それを放棄するのは怠慢以外のなにものでもない。しかし、百歩譲って原題至上主義も容認することにしよう。最近ではハリウッド映画も日本語に置き換えられず、ただ英語の原題をカタカナ表記したものが多いのは確かである。まあそれも時代の流れなのだろう。
だが上に挙げた例は原題ですらないのである。だってもともとはスペイン語やイタリア語なのだから。「ニュー・シネマ・パラダイス」ではなく「ヌーヴォ・シネマ・パラディソ」でなければ理屈が通らないだろう。結局これらはアメリカ公開時に英語に訳されたタイトルをカタカナ表記しているのである。日本人はどうして此れ程までにアメリカ至上主義、英語至上主義の売国奴に成り果ててしまったのか?ほとほと情けない。もしこれらの事態をおかしいと感じないのなら、貴方の感性は完全に狂っているとここで警告しておく。
なお、中国映画「HERO」は「英雄」という漢字を併記しているから許す(笑)。
さて、スペイン映画「トーク・トゥー・ハー(原題Hable con ella)」のお話である。ペルモ・アルモドバル監督は前作「オール・アバウト・マイ・マザー(原題Todo Sobre Mi Madre)」では男性にも潜在的に在る母性も含めて、総ての<母なるもの>への賛歌を奏でたのだが、今回の新作では女性への崇拝、憧憬を高らかに謳い上げている。今回彼がこだわるのは<母なるもの>といった観念ではなく、具象的に女体の造形美そのものであり、彼が希うのは劇中のサイレント映画「縮ゆく恋人」が象徴するように母胎回帰なのである。
もの言わずベッドに横たわるレオノール・ワトリングの裸体が息を呑むほど美しい。むしろ彼女の肉体を獲なければ、この映画の成功はなかったと言い換えても良いだろう。
ワトリング演じる眠れるバレリーナ、アリシアを愛し、献身的に看護し語りかけ続けるベニグノ、そして女闘牛士リディアを愛し、それゆえに植物状態になった彼女に語りかけることも出来ぬマルコ。このふたりの男は一見、対称的に見える。しかしアルモドバルは映画の最後に、ふたりとも自らが創り出した幻影を抱いていただけで、結局は一方通行の愛を注いでいたに過ぎなかったことを明らかにする。その転換が真に鮮やかであった。これならば、スペイン語で書かれながらも米アカデミー脚本賞を受賞したという輝かしい栄光も実に大納得である。傑作。
余談であるが、チャーリー・チャップリンの娘ジェラルディン・チャップリンがこの映画にバレエの先生役で出演しており、久しぶりに彼女の元気な姿が見れて懐かしく、嬉しかった。彼女が映画デビューしたのが父と共演した「ライムライト」(1951)。当時彼女は7歳くらい。その後も映画史に残る名作「ドクトル・ジバゴ」(1965)や「愛と哀しみのボレロ」(1981)等の出演作を僕は観ている。しかし、彼女がスペイン語を喋れるとは吃驚したなぁ、もう。
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