2002年12月31日(火) |
2002年度総決算号ーベスト30 |
2002年度に日本で公開された新作映画の中から筆者の選ぶベスト30をご披露しよう。その前にまず今年のワースト作品から。これは「サイン」と「模倣犯」で決まり!詳細は6/15と9/21のエンターテイメント日誌に書いた。
さて、現在のところ不本意にも見逃している主要作品としては「至福のとき」「刑務所の中」「天国の口、終わりの楽園。」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「ゴスフォード・パーク」「月のひつじ」「まぼろし」などがある。だからこれらについては語る言葉を持たない。
ベスト30それぞれの詳しいコメントはこちら(←クリック)にまとめて書いたのでご覧あれ。今までエンターテイメント日誌で触れられることのなかった作品についても、想いのたけを綴っている。
1.なごり雪 2.クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦 3.ピンポン 4.マイノリティ・レポート 5.マルホランド・ドライブ 6.スター・ウォーズ エピソードII 7.活きる 8.ブラック・ホーク・ダウン 9.阿弥陀堂だより 10.害虫 11.8人の女たち 12.たそがれ清兵衛 13.キューティ・ブロンド 14.少林足球 15.ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 16.ロード・トゥー・パーディション 17.ビューティフル・マインド 18.ハリー・ポッターと秘密の部屋 19.メルシィ!人生 20.エトワール 21.ロード・オブ・ザ・リング 22.助太刀屋助六 23.OUT 24.仄暗い水の底から 25.息子の部屋 26.バイオハザード 27.ダーク・ブルー 28.ノーマンズ・ランド 29.突入せよ! あさま山荘事件 30.オースティン・パワーズ ゴールドメンバー
我ながら<エンターテイメント>であることにこだわった、なかなかオーソドックスな選択になったように想うが如何だろうか?
2002年12月29日(日) |
ハンガリー映画の現在 + 予告 |
ナチスに翻弄される舞台の名優を題材にした1981年のハンガリー映画「メフィスト」はアカデミー外国語映画賞を授賞した力作であった。
その後時代は大きく動いた。ハンガリーは最早共産党政権ではなくなり、国民は自由を勝ち取った。そして1999年に「メフィスト」の監督イシュトヴァン・サボーが世に問うたのが「太陽の雫」である。これは20世紀という時代を激動のハンガリーで生き抜いた、あるユダヤ系一家の親・子・孫三代にわたる壮大な叙事詩である。レイフ・ファインズが一人三役で力演している。
確かに見応えのある作品なのだが、なにしろ登場人物が長い年月とともに世代交代していくので、誰が主人公ということもなく観客が感情移入しにくいのがこの映画の最大の難点である。そういう意味ではクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」を連想した。映画製作者の意図としては本作の真の主役はハンガリーという国家の苦難の近代史であり、ユダヤ人の受難史ということなのだろう。
しかしその意図を十分に汲んだ上でも、どうしても釈然としない違和感が残るのである。この映画はオーストリア/カナダ/ドイツ/ハンガリーの合作である。つまり現在のハンガリーではこの3時間に及ぶ大作を撮るだけの製作費を到底捻出することが出来ない経済状況にあるのだろう。だから外国の資本に頼よることになる。さらに映画の世界的マーケットを考えた場合、ダイアログは英語で撮らざるを得ない。主役のレイフ・ファインズをはじめ、レイチェル・ワイズやウィリアム・ハートなど主要なキャストは英米の俳優たちで占められている。自分の祖国ハンガリーを描く為に外国に全てを依存し、(ファウストがメフィストフェレスにそうしたように)魂を売らざるを得ないイシュトヴァン・サボーの心情を考える時、余りにも切なくて胸が痛む。
余談だがレイフ・ファインズは「シンドラーのリスト」ではナチスの将校を演じていたのに、今回は迫害を受けるユダヤ人役というのもなんだかなぁ・・・
予告:大晦日の日に今年度の筆者の選ぶ映画ベスト20+@を公表する。乞うご期待。
2002年12月21日(土) |
今一番お洒落な映画。 |
どの時代にもそれを観る行為自体、そしてそれを語ることがお洒落と見なされる映画がある。過去の例を挙げるなら例えばリュック・ベッソン監督の「レオン」がそうであり、岩井俊二の「スワロウテイル」もそうだった。最近の端的な例は勿論「アメリ」であり、これは<アメリ現象>とまで称されるほどの爆発的ブームを巻き起こした。
そしていまそういうムーブメントの最前線に位置する映画がフランス映画「8人の女たち」である。これを知らないお父さんたちは年頃の娘から馬鹿にされるし、観ていない者は時代遅れの烙印を押されるのである。当作品を上映中の東京の映画館では初回上映から立ち見の出る大盛況が続いており、本国フランスでは「アメリ」を抜くオープニング記録を樹立したという熱波が日本にも着実に押し寄せてきている。
確かに観に行った映画館の客層は女性客が大半であり、20-30代を中心に上品な中年の女性たちの姿も少なくなかった。「この中で『アメリ』も映画館へ観に行った人は?」と質問を向ければ間違いなく8割以上の人々が手を上げるだろうという雰囲気だった。
映画は一応ミュージカル仕立てだが、8人の女たちが次々にソロを披露するという構成でデュエットなど重唱はない。唄の入り方は唐突だし所詮唄と踊りは素人の女優たちなので、ミュージカル映画としての観念からすると決して上出来とは言えない。まあウディ・アレンの「世界中がアイ・ラヴ・ユー」とかケネス・ブラナーの「恋の骨折り損」程度のレベルである。
しかしこの映画の最大の魅力は8人のフランスを代表する女優たちの共演であり、そのアンサンブルの華麗さ、見事さにはただただ舌を巻き、その豊饒なる味わいに圧倒されるばかりである。嗚呼、その艶やかさときたら!それは喩えるならば8本の名花の如し。だからオープニング・タイトルで女優一人ひとりの名前にそれぞれ別個の花が添えられているという粋な演出が見事にはまった。「アラビアのロレンス」など男しか登場しない映画というのは過去にあったが、女だけ(唯一登場する男は後ろ姿のみ)という例も珍しい。
特筆すべきはファニー・アルダンとカトリーヌ・ドヌーブという二大女優の夢の共演。この「隣の女」と「終電車」というフランソワ・トリュフォー監督の名作に主役を張った女優たちが花火を散らすのである。なんたるスリリング。そしてドヌーブとダニエル・ダリューといえば先にジャック・ドゥミ監督の名作「ロシュフォールの恋人たち」で共演している。そしてこの「8人の女たち」で女優たちが身にまとう色彩豊かな(テクニカラーの)衣装たちは、明らかにドゥミの「ロシュフォールの恋人たち」や「シェルブールな雨傘」を連想させる。そういう風にこの作品にはトリュフォーやドゥミたちが撮った往年のフランス映画への敬意がいっぱい積み込まれているのだ。
ちなみに「ロシュフォールの恋人たち」や「シェルブールな雨傘」でのドヌーブの唄は吹き替えだが今回は地声で唄っている。
エマニエル・べアールは撮影時37歳とは到底信じられない若々しさ、そしてその色気に悩殺された。それから何といってもヴィルジニー・ルドワイヤンのピンクの衣装がとっても女の子らしくて可愛かった。
これは密室劇なので当然舞台化しようという動きは出てくるだろう。しかし、この映画が見応えあるのは素晴らしい女優たちのお陰なのであり、舞台化するのならばそれ相応の大女優を結集しなければ空疎なものにしかならないだろう。
2002年12月15日(日) |
フィルムかデジタルか? |
「スター・ウォーズ エピソード2 クローンの攻撃」DVDを購入した。そしてそのとてつもない高画質に息を呑んだ。これは映画館で(三回)観たフィルムのクオリティを遥かに凌駕している。衣装の細かい模様や、人物の背景などが恐ろしく鮮明に描出されているのである。暗闇での撮影においても、DVDではフィルムのように輪郭が不鮮明になることがない。ちなみに視聴したのはわが家の32型ハイビジョン・テレビ(ソニー)である。
この高画質の秘密は間違いなく、ジョージ・ルーカスがソニーに依頼して特別に開発されたデジタル・ハイビジョン・カメラがエピソード2から採用され、撮影が行われたからに違いない。つまり撮影時に一切フィルムが用いられていないのである。だからDVD化に際し、digital to digitalで情報がやり取りされるので画質の劣化が皆無なのである。
DVDの高画質に心底驚かされた初めてのソフトはピクサー社のCGアニメーション「バグズ・ライフ」であった。これはその後発売された「トイ・ストーリー」シリーズも同様なのだが、フルCG作品ということでフィルムを介さずにコンピューターから直接DVDを製作している為に、その超高画質が実現したのである。しかしまさか実写でそのレベルに到達する作品が登場しようとは夢にも想像だにしなかった。常に時代の最先端を走るルーカスおよび、その配下の特撮工房ILMの意気込みと成果にただただ頭が下がるのみである。
このようにフィルムレスで撮影された映画は、当然映画館でもフィルムに焼き付けず、直接デジタル上映されたほうがより原版に近い鮮明な映像で観ることが出来る。これは「DLPシネマ」(←クリック!)と呼ばれ、日本でもエピソード2は全国10ヶ所でDLP方式で上映された。実はDLP版では編集も異なり、フィルム版にない場面があった。例えば映画のラストでアミダラとアナキンの義手が手を繋ぐショットである。これらは勿論、今回のDVDに収録されているので、フィルム版しかご覧になっていない方はDVD版も必見である。
残念なことだが遂に一世紀の栄光を保ち続けていたフィルムはいま、デジタル映像のクオリティの前に完全に敗北した。映画の撮影機材および映画館からフィルムが消え、ハイビジョン・カメラによる撮影とデジタル上映が主流になる時代を迎えるのはそう遠くはないだろう。
ところが一方、非常に興味深いのはルーカスの朋友であるスティーブン・スピルバーグ監督が将来デジタル撮影に踏み切るかと記者に問われ、「僕は最後までフィルムにこだわって撮り続けるだろう。」と答えていることである。スピルバーグは今でも8mm少年の心を持ち続けており、真のフィルム・メーカーなのだ。ここにふたりの資質の違いが伺われる。
それにしても、現在企画が進行中のルーカス製作総指揮、スピルバーグ監督による「インディー・ジョーンズ4」はどうなるのであろう?フィルムで撮られるのか、はたまたデジタル撮影になるのか?どちらの意向が尊重されるのか、今後の動向が注目される。
2002年12月08日(日) |
ヒッチコックへのオマージュ<マイノリティ・レポート> |
映画「マイノリティ・レポート」は名義上、フィリップ・K・ディック原作となっている。しかしその本質は最新のSFXを駆使して往年のヒッチコック映画への熱いオマージュを捧げることにあるのは間違いない。そういう意味でスティーヴン・スピルバーグ監督と音楽を担当したジョン・ウイリアムズは確信犯である。今回のジョンの音楽がヒッチと何作にもわたりコンビを組んでいた作曲家、バーナード・ハーマンの響きを連想させるのは決して偶然ではないだろう。そこにはある意志が読み取れる。
ジョンはスピルバーグと自分の関係について、嘗てこう述べている。「私とスティーブンの友情はもう20年以上も続いています。これはあのヒッチコックとハーマンという偉大なるコラボレーション(共同作業)でさえ蜜月が10年余りしか続かなかったことを考えると希有なことであると想います。」
スピルバーグはヒッチが遺作「ファミリー・プロット」を撮っている時、その撮影所の見学に足繁く通い、それを煩く感じたヒッチが外へ追い出したという有名な逸話がある。また、「ジョーズ」や「E.T.」などで彼が愛用している逆ズーム←クリック!(人物の背景だけが遠ざかったり近づいたりする映像表現)という手法は実はもともと映画「めまい」でヒッチと撮影監督のロバート・バークスが生み出した撮影法なのである(余談であるが「逆ズーム」という日本語を命名したのは大林宣彦監督。日本では大林監督が初めてCMで用い、劇場映画デビュー作「HOUSE」や「時をかける少女」などで印象的にこの手法を用いている)。
今回の「マイノリティ・レポート」に関して言えば、まず主人公が無実の罪で殺人犯として追われるというプロットそのものが「北北西に進路をとれ」「三十九夜」「逃走迷路」などヒッチが最も得意としたジャンルなのである。そして冒頭における殺人の場面の眼鏡の使い方、さらに殺人現場近くに回るメリーゴーランドといえばヒッチの「見知らぬ乗客」を彷彿とさせる。また、ハサミを用いた殺人といえば「ダイヤルMを廻せ!」である。これほどまであからさまにその愛情は示されているのである。傘の群を俯瞰ショットで捉えるのは勿論ヒッチの「海外特派員」からの引用である。そう、俯瞰ショットが多用されているのもスピルバーグ映画としては珍しく、これも本作がヒッチコック映画へのオマージュであるという動かぬ証拠なのである。
こういう知識を持ち合わせていない愚鈍な映画評論家の中には、上辺だけ眺めて本作を小規模で迫力の無いミステリイと批判している者もいるが、全くもっておめでたいとしか言いようがない。そこに巧みに仕組まれた仕掛けを理解すれば、「マイノリティ・レポート」の奥深さ、その映画愛が貴方の心を打つことであろう。
2002年12月04日(水) |
宇多田ヒカルと<たそがれ清兵衛> |
宇多田ヒカルが自身のホームページ上で山田洋次監督の映画「たそがれ清兵衛」について感想を寄せている。タイトルは「TGSとSBK」。TGSは「たそがれ清兵衛」、SBKは「スケボーキング」を指しており、今、宇多田がはまっているものだそうだ。
宇多田は、同作に触れるくだりでこう語る。「TGSって言ったら貴方!”たそがれ清兵衛”ですよ!たそがれ清兵衛っっ!」「いやあ、美しい宮沢りえさん目当てで観に行ったんだけど、大切なことだけを大切にしたシンプルなストーリーに、泣いてしまったよ。イイこと言うんだなぁ、これがっっっ」
僕はこれを読んで呆れ果てた。なんでわざわざ英語読みにして略語化するんだ!?TGSをわざわざ「たそがれ清兵衛」と説明するのなら、最初から単に「たそがれ清兵衛」だけでいいじゃないか。大体純日本的な時代劇だし。英語表記にする意図が皆目分からない。
宇多田は世界自然保護基金チャリティーイベントに出演した際、恵比寿のウエスティンホテル東京で開かれたその会見では、競演する米女性3人組、TLCと米グラミー賞歌手、モニカ続き、コンサートへの意気込みを聞かれて、「えっと、あの…日本語でやると他の方たちがわかんないから、ちょっと失礼かと思うので、英語でやろうと思います」と英語で応対した。日本のファンに対して失礼という感覚はないのだろう。
また、"SAKURAドロップス"という唄をリリースした時、何故SAKURAが日本語ではなくローマ字表記なのかと訊かれて、「その方が曲に相応しいと思ったから。」と答えている。
つまり彼女は日本語を使うよりも英語にした方がおしゃれ、あるいはカッコいいと勘違いしている軽薄な女なのだと僕は想う。宇多田よ、貴女は純粋な大和撫子ではないのか?なんでそんなに米国人に媚を売るのか?そんなやり方が真の国際化だとでも信じているのか?母国語をも大切に出来ない民族の行く末は滅亡しかないと僕は信じて疑わない。
さて、横道にそれたが、その「たそがれ清兵衛」である。
僕は山田洋次監督の映画は大嫌いだ。その左翼思想がいつも鼻につくからである。山田監督が左翼映画作家であることの証拠は沢山ある。まず選挙の時はいつも日本共産党を応援するメッセージを寄せている。そして現在北朝鮮との合作映画の企画を進めているという報道も記憶に新しい。ちなみに検索エンジンGoogleで<山田洋次>と<左翼>というキーワードを掛け合わせると118件ヒットし、<山田洋次>と<共産党>では194件ヒットすることからも明らかであろう。
大体、山田監督は東大出身のエリートのくせして、庶民派を気取るところがいかにも胡散臭い。有名な寅さんという存在は定職にもつかず、放浪の旅を続けるといういわば社会主義思想の<ユートピア>に住む住人なのである。「学校」など常に労働者階級を主人公とし、名作と言われる映画「幸福の黄色いハンカチ」で山田監督が最後に風にはためかせたかったのはハンカチではなく、実は赤旗であったと僕は信じて疑わない。
しかし、余りにも「たそがれ清兵衛」の評判が良いので仕方なしに観に行ったのだが、観終わって今回は大変悔しい想いをした。文句のつける隙がない、傑作と認めざるを得なかったからである。
確かに山田映画らしい左翼思想の片鱗はある。たとえば組織の論理に翻弄される個人の悲劇を描いている点、宮沢りえ演じるヒロインが武家の生まれながら禁じられている庶民の祭りを見物に行く場面などである。しかし、本作ではそれが決して声高な主張にはならず、エンターテイメント作品として見事に調和がとれた仕上がりになっているのである。主人公の言いたくても言えない恋の想いが切なく、決闘場面も緊張感があり、娯楽作品として純粋に面白かった。
こんなことは癪だから本当は言いたくはないのだけれど仕方がない。「たそがれ清兵衛」は必見の名作である。
|