エンターテイメント日誌

2001年07月24日(火) 夏の映画。(7/25に加筆しました)

夏が来たら想い出す映画をあれこれと。

「菊次郎の夏」
北野武監督は「ソナチネ」「キッズ・リーターン」で映画作家としてのピークを迎え、その後は次第に低落傾向にあるというのが僕の評価である。日本のマスコミは、ベネチアでグランプリまで獲った北野監督に対し批判することがタブーになっているみたいだが、ここでハッキリさせておこう。最新作「BROTHER」なんて単なる「ソナチネ」の自己模倣である。詰まらない駄作。
さて「菊次郎の夏」だが、これも創意工夫のない弛緩した凡庸なロード・ムービーであるが、その退屈さを補っているのが久石譲さん作曲の音楽だ。一陣の風が吹き抜けていくような何という清々しさ!夏になると聴きたくなる名曲である。TOYOTAカローラのCMで一躍有名になったのでお聴きになったことのある方も多いだろう。ちなみに一度「菊次郎の夏」を音声オフにしてご覧になるといい。久石さんの音楽がどれだけこの映画を救っていることかよく判るだろう。

「転校生」
僕が高校生の夏出会い、大林映画と尾道の魅力に引き込まれた我が青春のかけがえのない映画である。からっと晴れ渡った夏の印象。

「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」
いまもって岩井俊二監督の最高傑作。上映時間50分のTV用映画だが、少年の日の忘れることの出来ない一夏の想い出が、その中に凝縮されている。何という映像の美しさ、そしてあの頃の奥菜恵は何と可愛らしい少女であったことだろう。この映画を観る度に、切なくて胸が締めつけられる。

「太陽の少年」
少年時代、悪友たち、憧れの少女、プール、燦々と照りつける太陽…。まるで「打ち上げ花火」と姉妹のような映画である。中国映画からこのような瑞々しい青春映画が生まれるとは想像だにしなかった。この映画で描かれる夏の特徴はその透明感にある。純度の高い名作。

「がんばっていきまっしょい」
四国は松山を舞台に、ボート部に青春をかける高校生の物語。今まで紹介した作品と異なり、この映画では少女たちが主人公になっているのが特徴である。ロケーションも効果的だし、田中麗奈をはじめ少女たちが純朴で良い。如何にも田舎の高校生といった雰囲気であり、何処か懐かしい。ともすればノスタルジーに溺れかねない題材を、主人公たちにある一定の距離を置き客観性を失わず描いた演出も見事であった。ストイックな抒情がここにある。

「スタンド・バイ・ミー」
どうして夏の映画というと少年少女が主人公の映画ばかり思い浮かぶのだろう(笑)。不思議なものだ。主題歌がとても印象的な映画。ベン・E・キングが唄った1961年のヒット曲だが、あたかも映画の為に書かれたかのように馴染んでいる。



2001年07月13日(金) <A.I.>の矛盾点を斬る!

前回の日記からの続き。今回は映画の核心部分に触れているので、「A.I.」をこれからご覧になろうという方はここから先、読まれないことをお勧めします。

映画の主人公、自意識を持った人工知能ロボット、デイビットは途中出会ったロボット、ジゴロ・ジョーの助けもあってマンハッタンまで辿り着くのだが、実はデイビットを造ったサイバトロニクス・ニュージャージー社のホビイ博士が影で操作して、そこまでデイビッドを導いていたことが分かる。ここで決定的なプロットの矛盾が生じてくるのだが、ジゴロ・ジョーが最初からホビイ博士の意思で行動していたというのなら、彼が無実の殺人罪で警察に追われ、その過程でデイビッドに出会ったというエピソードは一体何だったのだ!?余りにも辻褄が合わないではないか。

潜水艇で水没したコニイ・アイランドの青の妖精に漸く巡り会ったデイビッドは本当の人間になれるよう妖精に祈り続ける。やがて氷河期が訪れ二千年後、彼は心優しいエイリアンに「発掘」され、再生されるのだが・・・
氷河期が直ぐにやってきたとしても海水が全て凍り付くには相当な時間が掛かるだろう。百歩譲って仮に最速百年で凍結したとしようか。デイビッドやテディが錆びなかったのはまあ未来ロボットということで大目に見るとして(^^;、木造にしか見えない青の妖精像が腐らず、塗られたペンキも退色せず長期間水没していたというのは余りにも奇妙なことだと想う。

エイリアンはテディが持っていた髪の毛(化石でもないのによく二千年も朽ち果てなかったものだ)からデイビッドの「お母さん」のクローン再生をしてくれる。しかしエイリアンの技術を持ってしてもクローン再生された人間の生命は二十四時間しか持たない。デイビッドはその束の間のひとときを初めて本当の子供のように「お母さん」と過ごす・・・皮肉なことに所詮代用品の「子供」に過ぎなかったデイビットは結局、やはり代用品であるクローン人間の「母親」でしかその心の傷を癒されないのである。
ちょっとした科学的知識があれば明白なことだが、クローンといっても、いきなり成人になるわけではない。胎児、乳児…という風に成長の過程を辿らなければならないはずである。だから「お母さん」の年齢にまで辿り着くためには二十数年掛かるのである。これは先の述べた「クローン人間の寿命は二十四時間」ということと明らかな齟齬を来している。それから当然のことだが遺伝子には言語の情報は組み込まれていない。言葉や記憶は生まれて以降、人間が自らの経験で獲得していくものである。では「お母さん」に言語やデイビッドとの記憶を教育(インプット)したのは誰なんだ?エイリアン!?これまた奇妙な話である。

「A.I.」はSFであり、いってみればおとぎ話(それも、ある種絶望的な)である。固いことを言うなという声も聞こえてきそうだ。確かに映画は花も実もある絵空事。しかし、やはり「虚構の中のリアリティ」というのも必要不可欠なものではなかろうか。架空の世界にかりそめに遊ぶとしても、そのひとときだけは上手に騙して欲しい。それが上質なエンターテイメントというものだろう。その点「A.I.」の脚本は矛盾だらけであり、スキルに欠けると想うのだ。

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