エンターテイメント日誌

2001年06月30日(土) スピルバーグ、キューブリック、そして手塚治虫の落とし子=<A.I.>

「A.I.」・・・時空を越える壮大な物語。そのスケールに気が遠くなりそうだった。SFXも勿論凄い。「A.I.」は確かに観るに値する優れた作品であるとは想う。と同時にしかし、物語の主題自体は日本の漫画で育った者にとってはありきたりであることも確かである。

人間が作り出したロボット。そのロボットが真の人間として愛されたいと希求する・・・これは実は故・手塚治虫さんが繰り返し描いてきた主題である。「鉄腕アトム」だってそうだ。大体亡くなった子供(映画では不治の病で治療法が見つかるまで冷凍睡眠させている)の代用品としてロボットが造られるという設定がそっくりである。半世紀も前に書かれ、今年アニメーション映画にもなった「メトロポリス」だってテーマは「A.I.」と何ら変わりはない。「A.I.」の独自性といえば、そのテーマに「ピノキオ」と「オズの魔法使い」(エメラルド・シティ→ルージュ・シティ、ブリキ→ジュード・ロウ演じるジゴロ・ロボット、涙を流すライオン)のテイストを加えたという事くらいしかないのである。そこに物足りなさを感じるのだ。

この映画を企画したキューブリックは「2001年宇宙の旅」を製作時に、全米でテレビ放送されていた「鉄腕アトム(Astro Boy)」を観て、手塚治虫さんに映画の美術担当を依頼してきたそうである。しかし当時虫プロの社長でもあった手塚さんは日本を離れるわけにはいかないと断られた。だから「A.I.」に手塚テイストが入っていても何ら偶然ではないのである。「A.I.」はキューブリック、スピルバーグ、そして手塚治虫の3人が生み出した子供なのだと僕は考える。特にこの作品の持つスケール感や深遠さは、手塚さんの「火の鳥<未来編>」を思い起こさせた。

「A.I.」の最大の弱点はスピルバーグ自らが書いた脚本にある。自作の脚本を彼が執筆するのは「未知との遭遇」以来だが、スピルバーグ自身の原案による「未知との遭遇」とは異なり、キューブリックの意向も生かさなければならない今回の仕事はやりにくかったのではなかろうか?台詞も十分練れていないと想うし、プロット自体に余りにも矛盾点が多いのが残念であった。この事に関しては、現時点で未だ映画自体をご覧になった方がそう多くないと想われるので後日改めて論じる事にしよう。

「A.I.」の完成度は決して低くはないが、これが「未知との遭遇」や「E.T.」を越えたとはとても言えまい。米国マスコミの評判はすこぶる良い様だが、この程度で万が一にもアカデミー作品賞なんか受賞したら本気で怒るからね(^^;。1982年にアカデミー会員は「E.T.」を見捨てて愚鈍なる「ガンジー」に作品賞や監督賞を贈った。「ガンジー」受賞について当時ニューヨーク・タイムズ紙は「オスカーはノーベル平和賞と取り違えているみたいだ。『E.T.』こそ<映画>だ。『ガンジー』はくたびれた絵の詰まった教科書である。」と書いた。今更罪滅ぼししても、過去の過ちを取り消すことなど出来はしないのだから。

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2001年06月27日(水) ムッシュ三谷のレストラン

三谷幸喜さんは現役で、世界最高のコメディ・ライターである。このことは誰も否定できないだろう。本人は自作を「シチュエーション・コメディ」と称していてマスメディアもそれを鵜呑みにしているが、騙されてはいけない。三谷コメディに対しては「スクリューボール・コメディ」こそ、その名称が相応しいと想う。

三谷さんの魅力が最大限に生かされるメディアはなにか? 
「古畑任三郎」や「王様のレストラン」を代表とするテレビ作品? 
それとも「12人の優しい日本人」「ラジオの時間」そして今回の新作「みんなのいえ」等、映画作品? 
いや、そうではないと僕は断言する。やはり三谷さんの書く舞台作品こそが一番輝いている。「笑の大学」「君となら」そしてミュージカル「オケピ!」の抱腹絶倒の面白さときたら!…何という高揚感。至福の時。演劇の魅力ここに極まれりである。ご覧になったことのない方は是非一度体験されることをお勧めする。(ただし、現在PARCO劇場で上演中の「ヴァンプショウ」は駄作だった。これは再演するに値しない作品だと想う。)

さて「みんなのいえ」だ。とっても可笑しいし、ほのぼのとしたホーム・コメディの秀作だと想うのだが、一方、三谷さんの実力はこの程度ではないという気持ちも心の何処かにあるのは確かである。むしろTV放送されたこの映画のメーキングの方が爆笑ものだった。イギリスのある番組の特派員が日本に取材に来たという設定で、三谷監督や出演者たちが英語でインタビューの受け答えするという設定になっているのである。もちろんこれはパロディで、質問も答えも三谷さんが執筆したものを英訳しているのだ。今回の映画は暖色系の色使いに拘ったそうで、北野映画の<キタノ・ブルー>に対抗して「近い将来、世界は<ミタニ・オレンジ>と賞賛するだろう。」と得意げに語っている三谷さんが、とても愛おしかった(笑)。最高に笑えたのは他の出演者が英語で喋っているのに、八木亜希子さんだけフランス語でインタビューに答えていたこと。これがまたほんわかした雰囲気の彼女に似合っているものだから、三谷さんの慧眼に唸らされた(^^;。

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2001年06月23日(土) イタリア映画の神髄(おまけ:A.I.先行オールナイト)

今日は「A.I.」先行オールナイト、「マレーナ」「みんなのいえ」と、一気に3本も観て多少疲れた(^^;。でも3作品とも愉しめたので心地よい疲労である。ネタが出来たのでこれからしばらくは立て続けに更新しますよ(^^;。乞うご期待。

「A.I.」は先行<オールナイト>と称しながら、朝から晩まで上映していた(笑)。恐らくこれには裏がありそうだ。先行オールナイトの動員人数は全て初日の動員数に加算されるそうである。例えば同じスピルバーグの「ロスト・ワールド」は2週に渡り<先々行オールナイト><先行オールナイト>を行い、そのおかげで空前の初日動員人数の記録を作った。だから<先行オールナイト>を朝から晩まで展開すればそれだけ初日の動員人数が膨れあがるという仕組みなのだ。そんなセコイことしてまで記録を塗り替えたいのかねえ。オマケに「本日は特別興業なので各種割引は一切使えません。」と1800円取られて腹が立った(^^;。思い上がるなよ、ワーナー・ブラザース!!

映画の方は確かに優れた作品だと想うが、かなりプロットに矛盾があり、SFとしても整合性に欠けるのでスピルバーグの過去の傑作「未知との遭遇」や「E.T.」を越えたとは想わない。詳しくは後日論じよう。

「マレーナ」は久しぶりにこれぞイタリア映画!という作品に出会ったという想いを強く抱いた。燦々たる陽光。シチリアの風景が限りなく美しい。そして陽気で開けっぴろげな人々。興奮してビシバシ子供をひっぱたく父親も如何にもイタリア人気質で微笑ましい。大らかな性描写さえ、往年のイタリア映画「青い体験」などを彷彿とさせ、なんだか懐かしさを感じた。ヒロインのモニカ・ベルッチは全く僕の好みではないし美人とも想わないが、ソフィア・ローレンの再来と言われるだけあって、大柄でいかにもイタリア女優という雰囲気を醸し出していた。そしてファシスト党の台頭と敗退、連合軍の進駐という歴史の流れが巧みに物語に組み込まれていたと想う。ヒロインが集団リンチを受ける場面は好きになれないが、救いのある結末となっているのが清々しい後味を残してくれた。そして嗚呼、モリコーネの心に滲みる音楽よ!

僕はジョゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」を今でも心底愛してるのだが、その後の「明日を夢見て」や「海の上のピアニスト」等、ノスタルジーに溺れた後ろ向きの姿勢にウンザリしてしまっていた。特に「海の上のピアニスト」は、生涯船の中から外へ一歩も足を踏み出せない主人公だなんて、おとぎ話にもなってないし全く感情移入できない。ただただ感傷的でアホらしく、大嫌いだ。だから「マレーナ」には正直全く期待していなかったのだが、少年の初恋の想いが素直に伝わる生き生きとした青春映画になっており、久しぶりにトルナトーレの作品に好感を持てたのが嬉しかった。

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2001年06月06日(水) 手塚治虫の21世紀

手塚治虫という人は20世紀における日本、いや、世界で他の追随を許さないNO1の漫画家であった。「メトロポリス」「ロスト・ワールド」「来るべき世界」「ジャングル大帝」「ロック冒険記」「リボンの騎士」「どろろ」「ブラック・ジャック」「三つ目がとおる」「アドルフに告ぐ」「ブッダ」そして「火の鳥」シリーズなどの目映いばかりの傑作群を読んでなお、この厳然たる事実に異議を唱える人は前に進み出て欲しい。

しかしながら、アニメーション作家としての手塚さんに真の才能があったかと問われると心許ないのも確かである。それは「鉄腕アトム」などの低予算商業作品のみならず、世界各地の国際アニメーション映画祭で受賞した「展覧会の絵」「ジャンピング」「おんぼろフィルム」「森の伝説」など意欲的な実験作品を含めてのことである。金持ちの道楽と言っては気の毒だが、手塚さんが日本のアニメーションの発展に貢献した部分は極めて少ないと言わざるを得ない。ただ、自分のプロダクションが倒産してもなお、マンガで稼いだお金をアニメーション制作のために湯水の如くつぎ込んでいたその情熱には頭が下がる想いはするのだが。

手塚さんの死の際、宮崎駿さんがアニメーション作家としての手塚さんを徹底批判して世間をアッと驚かせたが、「漫画家としての手塚治虫には到底敵わない。だからアニメーション作家としての手塚を否定することからしか自分の創作活動をはじめることが出来なかった」という宮崎さんの屈折した想いがヒシヒシと伝わり、それはそれで愛情に満ちたみごとな追悼文になっていた。

だからもし、手塚さん自身が現在公開中の映画「メトロポリス」に関わっていたなら、皮肉なことにこれだけの完成度には至らなかったであろう。

世間のこのアニメーションへの批判はおおむね大友克洋氏による脚本の不備に集中している。プロットの交通整理が不十分で後半、物語が破綻しているのは確かである。ヒロイン「ティマ」のキャラクター設定も曖昧だ。それでもなお、僕はこの映画が内包する情熱的な輝き、疾走感、そしてなによりも手塚作品への限りない敬意を高く評価したい。原作に登場しないロックを加えたことも大友氏の愛情ゆえだろうし、ヒゲオヤジ、ケンイチ君、ハム・エッグ、アセチレン・ランプなどお馴染みのキャラクターが原作のまるっこい描画そのままに画面の所狭しと大活躍するのがなによりも嬉しい。特に断末魔の場面でランプの後頭部の蝋燭が点灯したのには思わずニヤリとさせられた。虫プロにいたこともあるというりんたろう監督の面目躍如である。CGをふんだんに使った背景画の美術の完成度も極めて高く、その緻密な画面に目を瞠った。モブ(群集)シーンも凄い。SFアニメーションならやはり日本が完全に世界をリードしているということを改めて痛感させられた。

「メトロポリス」、これは世界に問うて決して恥ずかしくない傑作であるとここに断言しておこう。そしてもっと多くの人々が手塚ワールドの素晴らしさを知ってくれますように。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]