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いつも夢図書をたずねてくださって ありがとうございます。
さて、今日からしばらくナツヤスミ。 魔女3人は、ちょっとお休みします。 再開は、たぶん、9月10日頃。 12日は仲秋の名月だそうですね。
では、行ってきます。 (と言って近くの温泉にでも行くのだろうか)
─お天気猫や マーズ、ナルシア、シィアル
そして月日は流れた。 18年という、またもや長い時間が。 しかし、今回流れたのは、本のこちら側。 ゲドたちのいる世界では、時は流れなかった。 そうして、この最終話は、大人の物語になった。
原題は『テハヌー』。 謎の鍵となる言葉なので触れないでおくが、 かつて「喰らわれし者」であった巫女テナー(アルハ)の 再登場は、ながらく待ち望んでいたものだった。
ゲドとともにエレス・アクベの失われた腕輪を探し出し 凱旋してからは、別々の道を歩いてきたテナー。 彼女は、ゲドが願った通り、自分の人生を生きていた。 こうあるべき、という姿にとらわれず、25年の歳月を。 (※3巻では17、18年ということだった) ゲドが大賢人として過ごした半生を、 彼女がどんな風に過ごしたか、それはファンタジーの枠を超えた 女の物語となって、リアルな回想で紡ぎ出されてゆく。
王子アレンとの大冒険で 魔法使いとしての運命を終えざるを得ず、 いまや抜け殻のようになったゲドと再会したテナーは、 孤児の少女テルーを加えて、ひとつの家族をつくってゆく。
そう、まるで大企業の頂点に立った戦士が 定年で職を解かれ、生きがいと自信のすべてを失ったときのように、 ゲドは故郷の島、ゴントに戻ってきたのだった。
第一巻で少年ゲドを見出し、最初の指導をした ゴントの孤独な魔法使い、オジオン。 彼がこの巻では重要な役割をもって登場し、表舞台から去る。 ゲドは別世界から来たテナーを、その師のもとに預けていたのだ。 生まれ故郷であり、尊敬する師と、運命の女が暮らす島へ、 ゲドはついに帰った。 これまで何度も、果ての地からこの世界に帰ってきたように。 そして、新しい物語がはじまる。
フェニミズムや暴力、家族の絆、社会と個人の関わり。 そうしたいかにも日常的な現実世界に混じり合う、 魔法と竜の存在する世界、アースシー。 ゲドの内面はテナーとの関わりによって明かされていくが、 この本の主人公であるテナー自身の内面は、 栄光の地位を捨て俗世に埋没して生きる 40過ぎの女性の声として語られ、 ありふれていながらも共感をおぼえる。 誰も、ファンタジーの主役としての彼女が 現実に選んだ人生を否定できないという意味でも。
最後には壮大なファンタジーに戻り幕を下ろすのだが、 こんな風に時を重ね異種の文学に転生した児童文学もまた、 例がないのではないだろうか。
3冊目の『さいはての島へ』でゲドが故郷へ向けて 帰って行く姿を目にしていた私たちは、この本のいう「帰還」の 意味を、おぼろげながら知っていた。
さらに、ひとりの人間としての物語へ、 ゲドは帰っていったのだった。 そしてそれこそ、3巻の旅をともにした私たちの 願いでもあったのだ。(マーズ)
『帰還─ゲド戦記4 最後の書』 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン / 訳:清水真砂子 / 出版社:岩波書店
一度は見たや、海に浮かぶモン・サン・ミッシェルの城。 かの名高い湾で潮に襲われ溺死した当主、 ブルターニュの歴史ある領主館に各国から呼び集められた一族、 館の地下に埋められていた古い骨 ──その骨は大戦中レジスタンスに暗殺された SSの突撃大隊長のものなのか?
おどろおどろしいゴシック・ミステリの道具立ては揃っています。 そして古い白骨が語るその素性を暴くのは 我らが「スケルトン探偵」ギデオン・オリバー教授。 退屈な会合をサボる機会を狙っていた快活なアメリカンコンビ ギデオンとFBI捜査官ジョン・ロウは クロワッサンがクレープがチーズがおいしい、 景色がいいなあ、警部さん堅苦しいな、などと 思いっきり観光しながら骨と殺人事件の謎をおっかけて、 最後はお待ちかね豪奢な客間で 関係者全員の中で「君が殺しましたね」。 いいな先生楽しそう、私もそんな旅行がしたいですよ。 って、ギデオン命も狙われたんだったっけ。
謎解きそのものは割と簡単に分ってしまうし、 欧州的な重厚な雰囲気や苦いユーモアはありません。 でも軽快に読めて素直に笑えて、 ついでに骨に関しての法医科学的専門知識も身に付く (身に付けて実際何に使うんだ)という ちょっとお得なアメリカ・ミステリです。(ナルシア)
『古い骨』 著者:アーロン・エルキンズ / 出版社:ハヤカワ文庫
旅に出るなら全てを捨てて新世界への旅に出よう。 時は1921年、大西洋を横断する豪華客船の中で起きた殺人事件、 乗り合わせた英国の名警部が捜査に乗り出す。
ところが。タイトルから判る通り、 この名警部真っ赤なニセモノ。 成り行きで警部になりすましている男は 実はとんでもない秘密を抱えて船に乗っていた。
この作品が書かれたのは1982年、 以来評価の高い時代ミステリです。 「黄金の20年代」の雰囲気たっぷり、 タイタニックにチャップリン、若い富豪や詐欺師や女優、 しかも全編ひねりの効いたコメディ仕立て。 私はロマンス小説は読まないのでぴんときませんが、 詳しい人は思い込みの劇(はげ)しい可愛いヒロインの 愛読書の数々で更に笑える事でしょう。
船に弱い人も社交嫌いの人もラウンジに出て 乗客達の駆け引きを見物しましょう。 何か気がかりがおありですか? 大丈夫。なんにも心配いらないんですよ。 大丈夫大丈夫、アメリカに着けば万事が全て上手く行く。(ナルシア)
『偽のデュー警部』 著者:ピーター・ラヴゼイ / 出版社:ハヤカワ文庫
『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫)において予告された 未だ書かれざる伝説の本『三月は深き紅の淵を』 四部作の一編となる『黒と茶の幻想』、 季間雑誌に一年間連載されていたものが (一回休んだので一年以上)今回完結しました。
高校を卒業して20年、気のおけない仲間達 利枝子・彰彦・蒔生・節子の四人が 屋久島旅行を楽しみます。 旅のお伴はそれぞれが心にかけていた ちょっとした不思議や大きなクエスチョンや お互いの過去における秘密。 謎の美少女・憂里の暗い影も伴って 四人は連れ立って屋久島の深い原生林と それぞれの心の森に分け入って行きます。
え、誰が殺されるの?と思われそうな状況設定ですが、 大いなる森は誰も殺さず光り射す外界に彼らを返します。 連載一回ごとに屋久島のハイキングの描写あり、 「なんだったんだろ、あれ?」というような 身の回りの小さな不思議の楽しい謎解きあり、 互いの性格洞察もなかなかひねりが効いています。 しかも毎回語り手が変わるので それぞれが心の中に長年抱いていた謎が 友人達の会話の中で解決してゆく、 周りからは相変わらず謎のままなのだけれど 本人だけはショックを受けつつも大きな満足を得る。
大人の落ち着きと高校時代の情熱、 不思議な恋愛と大自然の美、 全部いっぺんに味わえる恩田ミステリ新作、 まだ連載が終ったばかりで纏めて読む事は出来ませんが、 いずれ単行本化されますのでお楽しみに。(ナルシア)
『黒と茶の幻想』 著者:恩田陸 / 出版社:講談社
こうして、エンピツを借りてから1年がたとうとしています。
書評を毎日やろうなんて、編集長が言い出したときは まさかこんなに続けて読み書きできるとは おそらく猫やの誰も思っていませんでした。
日々の積みかさねって、こわいほどです。 こんな風に貯金がなぜできないのか、私は不思議でなりません。 (ほんとに貯金は自分でやると失敗するのです)
本を読んだら、感想を書く。 それだけのことですが、それなりに続けることで 筋肉がついてくるんですね。 仕事でも書くわけだけど、それとはまたちがう。 同じ書くでも、アプローチはまったく逆かもしれない。
私の場合、だいたい、夜中に30分くらいで一気に書いてます。 本を読みながら、ツボをおさえる癖がすっかり身に付いてしまいました。 まぁ、3人ともそうでしょう。
ごくたまに、何本も貯金ができると、それはうれしい。 なんだか、この1年間、夢の積み立て貯金をしているみたいで、 ずいぶんいろんな本に旅ができたのも、貯金のおかげかも しれません。
マイエンピツに登録してくださっている方々にも、 この場を借りてお礼を言います。
「ありがとう」
そうそう、更新時間は、だいたい、午前0時を回ったあたりです。(マーズ)
今度の旅は、最後にして全存在を賭ける冒険。 第二話から流れた時間は、ひと息に17、8年。 予想はしていたものの、やはり少し切ない。 こちらの時間では、ほんのさっきまで、 失われた腕輪を手にしたテナー(アルハの真の名)と 一緒に凱旋の旅をしていたゲドなのに。
ローク島の学院で多島海アーキペラゴの 揺るぎなき大賢人となったゲドは、もう初老の姿である。 若かった頃のゲドを知る私たちには、 なんと枯れて映ることだろう。 その彼が魔法世界をおびやかす異変の重大さに気付き、 たったひとりの供を連れ、 どことも知れない、さいはての海域へと旅立つ。 もしも帰れなかったら、世界は文字通り滅びるのだ。
旅をする船は、ゲドの小さな「はてみ丸」。 連れは、エンラッドから来た少年王子、アレン。 彼がこの書の主人公でもある。 不可侵の運命の糸がたぐりよせるように、アレンは時を逃さず ローク島にやってきたのだった。
出会いの場面から、アレンのゲドへの崇拝は 「恋にも似ている」とあるが、その気持はなんとなく理解できる。 ただ一緒にいるだけで、こちらの魂レベルまで上げてしまうような 迷いのない尊厳を感じさせる人物というのは、 この世界にも確かにいるから。
そんな人物、しかも多くを語らない人物との、あてどない旅。 アレンの想いも、旅を進めるにつれ、変化していく。 それは、アレン自身の成長と重なって、 さいごまで恋わずらいのように胸を焦がす。
彼らが訪れた島々で目にするのは、 少しずつあるいは突然に、魔法のことばや技を忘れ、 存在自体が忘れられていく魔法使いやまじない師たち。 商いも作物も、人々の手仕事も狂い始め、 だれもが信じていた平和は遠くへ去り、 世界はどこかに開いた穴から、闇へと崩壊を始めている。
そして、竜たちでさえ。 太古のことばを話し、炎を内に燃やす、 おおいなる存在でさえも おびやかされる日がやってくる。
この書では伝説の竜たちに近く会えるのも楽しみのひとつ。 彼らの生態、というのもおかしいが、 竜とはこんなふうな生きもの、というイメージが これまで以上に固まると思う。
不安と絶望に満ちた旅の途上で、ほとんど見せることのない ゲドの胸中を一瞬だけ読むことができる。 あの第二話から最後の物語へ、 生身の人間としてのゲドがもう一度見たいという私たちの願いは、 かすかな希望の光をあたためるのであった。(マーズ)
『さいはての島へ─ゲド戦記(3)』 著者:アーシュラ・K・ル=グウィン / 訳:清水真砂子 / 出版社:岩波書店※2001年改版
春のことだった。 『クリスマスに少女は還る』のキャロル・オコンネルの 新作を書棚に見つけた時には、小躍りをしてレジに直行した。 袋から出すのももどかしく、大喜びで読み始めたのだが、 なかなか読み進まずに、気がつくと、8月になっていた。
主人公キャシー・マロリーは、 強烈な個性を持った鮮烈な美女である。 その美しさは、 一度見たら、もう一生忘れられないほどで、 とてもじゃないが、隠密を旨とする 張り込みや尾行には使えたものではない。 しかも、彼女の生い立ちは、 ストリートチルドレンで、 養い親マーコヴィッツ警視に出会ったときには、 その強烈な個性はできあがっていた。 彼女の倫理観、社会観はかなり歪んでいる。 盗みやハッキングなんて問題じゃない。 彼女ほど、警察官には向かない人間もいないだろう。 性格的にも、人間として毀れているから、 常識的なコミュニケーションは難しい。
しかも。 天才的な頭脳の持ち主ときている。 けれど、マーコヴィッツ夫妻の惜しみない愛情で 包み込まれて育った彼女は、 常人には理解しがたい歪みを残しながらも、 彼女なりに、愛に応えようとしている。 所々に描かれる、 彼女とマーコヴィッツ夫妻のエピソードは、 あたたかで、ほろっとさせられる。
けれど、常人の理解を超える存在たるマロリーは、 こちらの感情移入を許さない、 厳しいキャラクターである。 主人公に共感・共鳴しつつ本を読むタイプの私にとっては、 正直言って、 このシリーズが面白いのか、面白くないのか、 よくわからない。
物語は、彼女の育て親であるマーコヴィッツ警視が 殺人事件の捜査中に殺されたことから始まる。 殺人事件は4件の連続殺人事件へと発展していき、 事件を追うマロリーにも魔の手が迫る。
読むのにずいぶんと時間がかかった。 途中長いこと中断したのも、興をそいだのだろう。 なかなか取っつきにくかったが、 意外にも、読み進めば進むほど、加速度がついていった。 あんなに手間取っていたのが嘘のように、 一気にラストまで読み進んでいく。
その理由の一つに、 マロリー以外の魅力的な人物の存在がある。 それが、チャールズ・バトラー。 マロリーの破壊的なキャラもユニークで面白いが、 さらに、魅力的なのは、 愛すべき男、チャールズ・バトラー。 マロリーの友人にして、 まるで嘴のような巨大な鼻を持つ男。 マロリーに心奪われながらも、 自分の容貌故、 友達以上の関係になることは絶対ないと確信する男。 容貌だけでなく、 他にも奇怪な能力−直感記憶−を持つ男。
魅力ある人物の存在が 物語をぐいぐいと読み進めていく原動力となった。 その他にも、 もちろん、マーコヴィッツ警視を殺した 連続殺人の犯人も気に掛かるし、 登場する霊媒やイリュージョンも興味深い。 マロリーと育ての親であるマーコヴィッツ夫妻との 愛情深いあたたかなエピソード。 読むべき点はたくさんある。
それでも、正直に言うと。
原題は『MALLORY'S ORACLE(マロリーの神託)』 読み終わって振り返ってみるに、 原題の指し示すこともわかるようなわからないような。 やはり、なんというか。 どうにも、むずがゆいような読後感なのである。(シィアル)
『氷の天使』 著者:キャロル・オコンネル / 訳:務台夏子 / 出版社:創元推理文庫2001
第一巻であれほど苦しい旅を共にした魔法使い、 ゲドが出てくるまでに、90ページも待たねばならない! 本は222ページしかないのに! なんとグウィンは周到なのだろう。
この物語の主人公は、アルハという15歳の巫女。 魔法使いの暮らすアースシーとはまた異なる世界、 アチュアンの神殿で墓所を守る、 闇に使える僕として選ばれた少女である。 ダライ・ラマの転生を思わせるような、巫女の輪廻。 途中まで、もしやゲドはほとんど出てこないのだろうか、 とまで思ったのだが、ある一点に期待していた。 それは、ゲドが魔法のあかりを持っていること。
やはりゲドはいた。
私たちの時間ではつい昨日、影との戦いに勝った
年若きゲドが、本のなかの時間では、少し時間を置いて、
もはや若すぎはせず、相当の地位を得ながら
なお定住せず、冒険の途上にあることを知る。
大巫女として権力を持ちながら実質は囚われ人のアルハ、 彼女の無知と高慢さは、ゲドにとって そのまま少年時代の自分を突きつけられでもしたような 出会いだったのではないだろうか。
話がそれるが、地下にとらわれる黒い人、という構想は 戦時中、黒人兵を捕虜にした人里離れた村で、 監視役の少年の視点から描いた大江健三郎の短編「飼育」と 奇妙に通じるものがあり、つい発表年を比べる。 大江健三郎がだいぶ先であった(安堵)。
ゲドの物語に戻ろう。 タイトルの「こわれた腕環」については、第一巻ですでに 登場し、強い磁力を発している宝物なので、 巫女と魔法使いの続編をグウィンは予定していたのだと 思うが、いやはや、こんなにゲドにしてやられるとは 思いもしなかった。 ゲドという魔法使いは、そういうヤツなのかもしれないが。 この物語で彼が主人公アルハの人生の導き役であっても、 それを補って余りある言葉をゲドは口にする。
二つに割れた腕輪を合わせる場面。 あんなことを言われたら、 どんな女性でも答えはひとつである(笑)。(マーズ)
『こわれた腕環─ゲド戦記(2)』 著者:アーシュラ・K・ル・グウィン / 訳:清水真砂子 / 出版社:岩波書店
ドイツの昔話に題材をとった絵本。 リスベート・ツヴェルガーの、 繊細でデフォルメされた絵柄は この変身物語にぴったり。 特に魔女の姿が奇怪で人外なところが一興。 そういえば、昔、NHKの人形アニメでも 放映されていたっけ、と思い出す。
いじわるな魔女の呪いにかけられてしまうから、 おいしくて不思議な香りのスープなんか、 ごちそうになってはいけない。 でないと、7年間も魔女の館にとらわれて働かされたあげく、 鼻の異様に長い、醜い小人に姿を変えられてしまう。 主人公の少年ヤーコプのように。
変わり果てた姿に、両親にも息子だとわかってもらえない。 仕方なく、7年の間リスの姿でおぼえさせられた 料理の腕だけを頼りに身を立て、公爵の料理番になる。 いまだ息子を亡くして嘆いている両親と 同じ町で暮らしながら、である。 これが日本だったら、息子が動物になっていても、なんとなく 気持が通じて家に入れてやったりするのだろう。 でもそれだと、息子は動物のままで一生終わることになりかねない。
やがてヤーコプは、同じく魔法でガチョウにされた魔術師の娘を助け、 協力して呪いを解く。後半は運命と闘うのである。
この物語は、ラングの集めた世界童話全集にも載っていて、 ストーリーはほとんど同じなので、ハウフはこれを元に 書き起こしていると思われる。 ツヴェルガーはイソップやアンデルセンなど 昔話に題材を得た絵本を多く手がけているが、 ラングの名前がこの絵本にないのは、ちょっと残念。
昔話でありながら、主人公の少年の前向きな意志は ハウフ作のほうが意識されているのは解説にもあるとおり。 ラング版とのちがいは主に名前で、
主人公ヤーコプ(ハウフ):ジェム(ラング)
魔法の花ニースミトルスト:スーゼライネ
魔術師ヴェターボック:ウェザーボールド
といったように変化している。 魔女には名前がなく、年取ったいじわるな妖精らしい。 ちなみに、ガチョウになっていた娘の名は、同じくミミ。 そして、ミミとヤーコプ(ジェム)が お互いの魔法が解けて自由になったあと、 どうなったのかに触れていないのも、同じ。 ミミの父親である魔術師は、娘の命を救ってくれた ヤーコプにお礼の贈りものはするのだが… そんなことが気になるのはお節介だろうか? 特にラングのお話では、そういう風に出会った二人は さいごに結婚してめでたしめでたし、が定番なので、 物足りないような、言外のなりゆきに思いを馳せるような。
芸は身を助けるだの、後悔先に立たずだの、 かわいい子には旅させよ、だの、 いろいろなことわざが浮かんでくる絵本である。(マーズ)
『鼻のこびと』 絵:リスベート・ツヴェルガー / 文:ヴィルヘルム・ハウフ / 訳:池内 紀 / 出版社:太平社
※「ながい鼻の小人」(ラング世界童話全集(1)・『みどりいろの童話集』収録 / 出版社:偕成社文庫)
図書館の書棚から、とっさにすばやく 抜き取ったこの本の作者は、 『卵と私』シリーズのベティー・マクドナルド。 彼女の本が、こんなところに。 卵シリーズ以外の本を読みたいけれど、 日本語では読めないんだろうと決めつけていた。
児童書のコーナーにあったとは。 内容は、もちろん児童書。 卵─のように徹底的な辛らつさは、さすがにないけれど、 子どもたちの描写にかけては、 主婦作家の面目躍如。
やさしいけど魔女めいた、独り暮らしの ピグルウィグルおばさんが、町の子どもたちの 悪い癖を、おばさん独特のやり方で、ひとりずつ 完璧に治していくというお話だ。 子どもたちはおばさんのことが大好きだから、 困ったパパやママは、おばさんに助けを求める。 でも、ここで大事なのは、パパやママが おばさんのいうことを信じて実行することだ。 子どものいないおばさんに何がわかる、 なんてだれも言わない。 おばさんは、だれよりも多くの子どもを 友達として見ているし、今までにもいろんな町で どうやら子どもたちをこうして魔法にかけてきたらしい。
おばさんのやり方は、決して楽な方法ではなくて、 当の子どもにとっては、なかなかつらいクスリでもある。 このお話を読んでいると、 ああ、子どもの頃って、とつぜん、お転婆の度が過ぎたり 悪い癖が身について、親を困らせたりしたっけ、と思い出す。
さて、この本の読まれた履歴には謎がある。 年に何回か貸し出されていたのが、 なぜか平成5年から13年まで、つまり2001年に 私が借りるまで、8年間ものあいだ、だぁれも借りていない。 その間、いったいどこでどうしてたんだろう。 「図書館じゃ、よくあることよ。」 ピグルウィグルおばさんのやさしい声が、 電話の向うから聴こえたような気がした。(マーズ)
『ピグルウィグルおばさん』 著者:ベティー・マクドナルド 訳:中山知子 / 出版社:学習研究社
「妖女」と聞くと、どうしても、 「妖女メドゥサ」を思い浮かべてしまう。 加えて、「妖女」と聞いて、すでにタイトルは、 「呼び声」をかたくなに「叫び声」として誤解し続けていた。 かくして私の思うところの、 『妖女サイベルの叫び声』がどんな物語であるかは、 容易に想像していただけるのではないだろうか。 そういう理由で、今まで読む機会がなかったのだ。
岡野玲子の『コーリング(1)〜(3)』を読み終えて、 その美しい世界を堪能し、充分に味わい尽くした後で、 このマンガの原作が『妖女サイベルの呼び声』であると知った。 岡野玲子のイマジネーションの美しさに圧倒されていた私は、 原作も読みたい、そう思うと同時に、 いまさら原作を読んでも、 この物語を豪華絢爛な絵物語として、 知ってしまった今では、 原作はモノクロームの色あせた下絵に過ぎないかもしれないと、 危惧もしていた。
けれども。 言葉には、言葉だけが持つ、美しい魔法がある。 次々と惜しげもなく、流麗に言葉はつづられ、 言葉を越えた、深い美しさをたたえる世界が眼前に広がる。 美しさには、際限がないのだと、 言葉の力に、作家のイマジネーションに、しばし声を失う。 言葉がかき立てる、想像の翼にも、限界はなかったのだ。
隠者として暮らす、エルド山の妖女(魔術師)サイベルが、 人界に触れ、はじめて愛を知り、はじめて憎しみを覚える。 憎しみの果てに、愛をも失い、すべてを失った後、 また愛を手に入れる話である。 愛らしい少年や、誠実な賢者たる騎士、 物知りで世話焼きの年老いた魔女や、 古の吟遊詩人の詩の中に住まうけものたち。
言葉は、今までに見たことがなかったような、 すばらしいタペストリーを織り上げていく。 頭の中で、想像して織り上げたタペストリー、 その現物が、岡野玲子のマンガかもしれない。
あるいは、岡野玲子の絵を見て想像したタペストリーを、 ほんとうに手にとって、その糸の一本一本まで、 細かく、自分の目で追い、手で触れ、 匂いさえかぐことができるのが、原作なのかもしれない。
原作を書店で見かけることは少ないが、 けれど、原作を読むのと同じ喜びが、『コーリング』にはある。 決して、原作のダイジェストでも原作の代用品でもない。 原作に忠実なのに、 そこには、『コーリング』の中だけにしかない、 オリジナリティが確かにあるのだ。 原作は手に入りにくいかもしれないが、 『コーリング』を読むことができるのはしあわせだ。(シィアル)
・『妖女サイベルの呼び声』著者:パトリシア・A・マキリップ /
訳者:佐藤高子 / 出版社:ハヤカワ文庫
・『コーリング』(全3巻)著者:岡野玲子 / 出版社:マガジンハウス
付記:『妖女サイベルの呼び声』は、Kinokuniya BookWebやAmazon.co.jpで、
入手できるようです。
人生のハードルは、時として非常に高い。 ハードルというよりも、遙かに見上げる壁、 ということもしばしば。
自分を貫こうとすれば、 いや、貫きたい「自分(の思い)」があれば、 しばしば嫌というほど、「壁」に突き当たってしまう。 それはもちろん、大人だけでなく、 少年だって同じ。
『バッテリー』を3冊全部読み終わって、 しみじみ、人生の「障害物競争」について考えた。 ほんとうに。至る所、障害物だらけ。 もちろん、少年だって。
少年は野球をしたいだけ。 自分の野球。 マウンドからキャッチャーのミットへ、 ただボールを投げる。 シンプルだ。 チームがどうとか、学校の方針がどうとか。 先輩とか後輩とか、そんなこと関係ない。 ただ野球をしたい。
そんなシンプルな思いなのに、 シンプルすぎて、伝えるべき言葉も出てこない。 それが主人公、原田巧。 父親の転勤にともない新しい街の、新しい中学へ進学。 捕手・永倉豪との出会い。 最高のバッテリーになる予感と裏腹に。 遠ざかる、マウンド。 管理教育の壁。先輩のいじめ。 野球をしたいだけなのに。 ストレートな思いは、激しすぎて、 仲間まで傷つけてしまう。 誰も、ヒーローではなく、 どこにも、ヒーローは現れないから、 一つずつ、ゆっくりと、解決して、 前進していくしかない。
カテゴリーは、児童文学であるが、 すそ野は広いと思う。 中学野球が舞台になっているが、 少年の友情・成長物語としてだけでなく、 野球が好きな人も、きっと満足するだろう。
ずっとずっと、 これから先も、 少年たちの成長を見守っていきたい。 読後さわやかな一冊。(シィアル)
『バッテリー (1・2・3)』 / 著者:あさのあつこ / 出版社:教育画劇
いつか訪れることを夢みている国。 わたしにとって、この本が、その国だった。 いま第一話を読み終えて、 ─いや、読み進む旅の途中で、いくたびも、 心のみならず、身体までふるえさせていたが─ 内なる楽器が言葉に共鳴し、鳴り響いている。
もっともっと前に、読みたかった本ではあった。 それでも、きっとこの本は、年齢に関係なく 受け入れてくれるだろうと知っていた。 グウィンの書いた他の作品を読みながら、そう確信し、 いつか、読める時がくるのを待っていた。 そんなふうに思える本が、どれくらいあるだろう。
タイトルに戦記とあるので、ずっと、古い英雄の時代、 国々の興亡戦を描いた年代記だと思っていた。 原題は、『アースシーの魔法使い』。 たしかに、そのままだとわかりづらい。 幾多の島々からなる古い世界を舞台に、 魔法使いに生まれついた少年ゲド(ハイタカ)が みずからと戦いながら成長していく物語である。
そして、重要なテーマとして、 「ことば」が選ばれている。 たとえば、主人公のゲドという名は、本来、本の表紙に 堂々と書かれるものではない。それは真の名だから、 本当に信頼のおける相手にしか教えることはない。 通常はハイタカという名で暮らしている。 「人の本名を知る者は、その人間の生命を掌中にすることになる」 (本分111P)という魔法世界なのである。
北方の寒村に生まれ、やがて魔法使いに見出され、 ローク島にある「学院」で魔法を学ぶハイタカ。 師匠たち、友人や敵。 やはりここにも、ハリー・ポッターにつづく黄金の道が見える。 師匠たちの言葉は深く、多くを語らず、そしてやさしい。 ありありと目に浮かぶ、島々の姿。 知恵は知恵のままに、光は光、影は影、 愚かさは愚かさのままに描き出す、 まさに魔法の筆力。 描かれた世界の背後に、 大いなる女神の吹かせる風にも似た、 宇宙のひろがりと摂理が感じられるという安心感。 創造者のふところの広さがあるからこそ、 その一部であるこの本が生き生きと脈を打つ。
生来の傲慢さから取り返しのつかない事態を招き、 すべてを失いかけたゲドが、放浪の果てに得るものは。 それは、同じ旅を共にした「読者」からの、 魂を込めた抱擁であるのだろう。
夢だけでなく、生きているあいだに、 魂の糧となる書物に出会う幸せは、 決して少年少女だけのものではない。(マーズ)
『影との戦い─ゲド戦記(1)』 著者:アーシュラ・K・ル・グウィン 訳:清水真砂子 / 出版社:岩波書店
※初版1976年、2000年7月改版発行
ここで書いている書評は、 (私は「読後の思い」と呼んでいるが) ストックが何本かあることもあるが、 だいたいにおいて、その日暮らしの自転車操業である。 だいたいにおいて、電話等でMと、 今日どうする? 今日のある? ない? じゃあ、何とかする。 と、UP直前に、魔法のように編み出している。
でも。 そううまくいかない日もある。 今日がそうである。 じゃあ、今日は私がと。 引き受けたはいいが、 昨日の『ヴァン・ゴッホ・カフェ』と違い、 (昨日は快調だった。) 今日は、詰まっている。
唐突だが、多分。 落雷でモデムがダメになったショックもある。 昨日から今日にかけて、頭の中の95%は、 これをどう解決しようかという悩みに占められている。 だから、落ち着いて集中して、 思いをまとめることができない。
それから。 何と言っても。 最近、本を読みすぎているのだと思う。 後から、後から、やって来る、新たな感動や興奮に、 その前に読んだ本へのあれこれの思いが、 新しい本のために、上書きされていってしまう。 あまりにもったいないことだと思っている。
さらに。 本を読むスピードも加速度的に速くなってしまうのも いけないと思う。 じっくりと、行間を読むひまがないのだ。 ずっと昔読んだ、椎名誠のエッセイに、
―友人の○○は、30分で推理小説を読み終わるが、
惜しむらくは、犯人をしばしば間違えている―
という一文があった。 最近よくこの一文について思うのだが、 まさに、今の私である。 流石に、30分で読み終わる、ということはないが、 乱読、速読で、ふっと振り返ってみると、 とどのつまりの結論をすっぽり忘れていることが多い。 それこそ、あれ、犯人って誰だっけ? 結局、一番大切なことって、何て言ってたっけ。 首を傾げ、頭の中で本のページを繰っている。 まったく、愚かしいことである。自分ながら。
そう。 だからこそ、こうやって、しばし、立ち止まり、 思いをめぐらしながら、今日読んだ本について、 何かを書きつけておく時間は、 私にとってはとても大切である。
この書評(あるいは読後の思い)の書き方は、 三者三様で、私のスタイルは、 自分の思い(あるいは、First Inpression)を ☆印で1行に集約することである。
ずいぶんと考え、結局、あちこちと思いは彷徨い、 今日のところは形にならなかった。 そう遠からず、ということで。とりあえずの、今日の思い。
『バッテリー』 ☆ 少年の越えるべきハードル。
『氷の天使』 ☆ 面白いのか、面白くないのか、よくわからない。
『カラフル』 ☆ そう、人生は、いろんな色であふれている。
思いの集約はできたのだが。 なかなか、細部がまとまらない。こういう日もある。(シィアル)
ときどき、偶然か、必然か、 思いもよらぬ時に、素敵な本と出会うことがあります。 偶然と必然の関係については、映画『ハムナプトラ2』でも、 「偶然と必然の境は微妙だ。」という言葉がありました。 手に汗握りながらも、その通りと、相槌を打ったことでした。
『ヴァン・ゴッホ・カフェ』と出会ったのは、まったくの偶然でした。 でも、読み終わったときには、出会う必要のあった本だったことが、 よくわかりました。この本との出会いは必然だったのです。
ヴァン・ゴッホ・カフェは、古い劇場だった建物の片隅にあります。 そこでは、毎日すてきな魔法が、ごく、ふつうに起こっています。 だから、お客さんの誰も、大騒ぎはしません。 だって、みんな、ヴァン・ゴッホ・カフェには、 いつだって魔法があることを知っているから。 いつもキラキラした、すてきな秘密がひそんでいるから。
『ヴァン・ゴッホ・カフェ』は、 わずか100P弱の、数十分もあれば読み終わる児童書です。 でも、ページをめくるたびに、 ヴァン・ゴッホ・カフェの魔法は、 ページからあふれてきて、私の心をほぐしていきます。 読み終わって、本を閉じたときには、 ちょっと涙ぐんでしまいました。 でもそれは、悲しくてじゃなくて、 ヴァン・ゴッホ・カフェの魔法が私にも届いたからです。 あたたかくて、力強い魔法です。
きっと、ページを開く人それぞれに、 いろんな魔法が動き始めるでしょう。 ページを開きながら、どきどきと待っていればいいのです。(シィアル)
「クララはいまになにか起こる、きっと起こると思いながら、どきどき待っているのが好きでした。どきどき見まもっているのが好きでした。」(本文P49より)
『ヴァン・ゴッホ・カフェ』 著者:シンシア・ライラント / 訳者:中村妙子 / 出版社:偕成社
グリーン・ノウシリーズ第二作。 前作で、グリーン・ノウというホーム、 保護者となるオールドノウ夫人を得た少年トービー。 待ちに待った寄宿学校の春休み、 グリーン・ノウの家で起こる 不思議な出会いと発見の物語。
時間や空間、属する世界を超えて交歓する 子どもたちの相呼ぶ魂。 今回の、過去からの子どもは、 目の見えない少女スーザンと、使用人で黒人の少年ジェイコブ。 ジェイコブは、オールドノウ船長によって奴隷市場から 救われ、スーザンの世話をする役目を与えられる。
前回とちがうのは、今回の子どもたちは、 ただ時間を超えて現代のトービーと出会っていること。 最後には、幸せを得た二人のその後の人生が オールドノウ夫人によって語られる。 それは私たちにとっても、トービーにとっても救いだ。
スーザンとジェイコブには、 未来の少年トービーの来歴を 説明してくれる存在はいないのだが、 きっと二人はいつの日か、当たらずとも遠からずの 結論を得るのだろうと私は思う。
「ウズラおばあちゃん」と親しみを込めて呼ばれている オールドノウ夫人が炉辺で物語る過去のエピソードは 前回以上にリアルで、ボストン夫人とイメージが重なる。 練りあげた構想の確かさを、しっかりと 感じさせる語り部である。
そして。 光あるところに影はある。 スーザンの母マリアと息子セフトンの治らない病。 彼らは家長であるオールドノウ船長の正しさや、 スーザンの純粋さ、向上心を陰で笑いものにし、 ぜいたくやお世辞や世間体を愛している。 児童文学というジャンルは、善や美を描く同じ筆で、 これほどまで愚かさや悪をも描けるのだと いうことを思い知らされる。
もしも、子どもの頃よくそうして遊んだように、 目を閉じてすべてのものを感じようとしてみれば、 この物語のなかでスーザンが感じている 世界の確かさが、きっと大人にもわかると思う。 スーザンのように、 木のぼりをするまでの勇気が もてるとしたならば、その大人は 世界を信じ、愛されている人だ。(マーズ)
『グリーン・ノウの煙突』 著者:L・M・ボストン / 訳:亀井俊介/ 出版社:評論社
メリングの新作『夏の王』が出た! 思いもよらなかったので、嬉しくて、 日中の仕事関係のいろいろによる「意気消沈」も忘れ、 PCの前で、ちょっぴり、小躍りをしてしまった。 メリングはケルト・ファンタジーの作家で、 いままでに 『妖精王の月』『歌う石』『ドルイドの歌』 の3作がある。 新作を長いこと待望し、 あまりに長いこと待っていて、 待っていたことすらもう忘れていた。 だから。 喜びもひとしおなのである。
私は、ケルト系の物語が大好きだ。 きっかけは、映画『フィオナの海』に遡る。 いまから何年前になるのだろう。 ケルトブームの初期の頃だと思う。 上映会の会場では、ケルト関係の本が展示即売されていた。 『フィオナの海』の原作本をはじめ、 興味深いけれど、どの本もハードカバーの本で、 ちょっと、お試しに読んでみるには、高価であった。
そんな中に、一冊だけ文庫本があった。 数冊単位に積み上げられた本の谷間、 一冊だけ残っていたその本は、 『ジャッキー、巨人を退治する!』
ケルトとどう関係があるのか、 『ジャックを豆の木』を模した表紙からは想像がつかない。 ほんの少し迷ったけれど、 他に手ごろな価格の本がなかったことと、 最後の一冊(あるいは一つ)、に私が弱いことと、 何より、多分。 今日買わなかったら、 書店の無数の本の海から、この背表紙を見つけることは、 もう絶対ないだろうという確信から、 せっかく出会ったこの巡り合わせは 意外と大事かもしれないと、 一瞬の間にいろいろ考え、結局、購入した。
ケルト系妖精・魔法の世界がベースにある現代ファンタジー。 それが『ジャッキー、巨人を退治する!』であった。 実際に私を、ケルトの世界に引き込んだのは、 『ジャッキー』の著者のチャールズ・デ・リント。 『ジャッキー、巨人を退治する!』を手にしたあの瞬間、 それは、まさに、「新しい扉を開ける本」との ラッキーな出会いの瞬間であった。 あの時、デ・リントを読むことがなければ、 メリングを読むことも、 ケルト系ファンタジーに引き込まれることもなかっただろう。 一気に、ケルトのハイ・ファンタジーにのめり込み、 デ・リントの小説を全部読んでしまった頃、 さらに、ケルト系ファンタジーを読みたくて、 書店の棚を舐めるように、探し続けていた時、 O・メリングとめぐり会ったのだった。
デ・リントのファンタジーは、現代的で、 例えればスピーディなロックの世界だ。 それに対して、メリングのファンタジーは、 (何の例えにもなっていないが、) 正統的なケルト音楽が行間から聞こえてくる感じかな?(笑)
で、ずいぶん、前置きが長くなり、 バランスが悪いのだが、今日は、O・メリングの新作、 『夏の王』が出て、もう、嬉しくてたまらない!という話である。 私は紀伊国屋WEBの会員なので、 リコメンドサービスというのを利用している。 好きな作家やジャンル、気になるキーワードを登録しておくと、 登録作家や関連ジャンルなど、登録項目に関連した新作が出版されると、 WEB上でお知らせがあるのだ。
デ・リントは、なかなか新作が訳出されない。 メリングも、新作が出なかった。 両作家とも、登録しているのだが、 この4-5年、ずっと新作が出ないままである。 もう、半ばあきらめていたので、 今日初めて知り、ほんとうに嬉しかった。 メリングの本は物語だけでなく、どれも装丁が美しく、 4冊目のこの本も同様で、手に取るのが楽しみである。 とにかく、私は嬉しいのだというのが、今日の主旨。
常日頃から、本の内容を直接語ることの少ない私だが、 今日も、本の内容には触れずに終わる。(笑)
とはいえ。 デ・リントやメリングの個々の本の魅力や、 ケルト・ファンタジーについては、 いつかまたの機会に。(シィアル)
■ O・R・メリング / すべて講談社
・『妖精王の月』
・『歌う石』
・『ドルイドの歌』
・『夏の王』 NEW
■ チャ−ルズ・デ・リント / すべて創元推理文庫 (入手不可)
・『リトル・カントリー(上)(下)』
・『ジャッキー、巨人を退治する!』
・『月のしずくと、ジャッキーと』
山田風太郎氏が亡くなりました。 稀代の奇想娯楽小説家、 戦後何度もブームを巻き起こしては消える究極のキワモノ、 平成の世においては恐るべき天才老人、 その実変わる事なく冷え切った死への眼差しを持つ作家。
東京でB29を見上げていた医大生は、 驚天動地の仕掛けで戦後ミステリ界に登場し 無敵の面白さの娯楽作品群を生み出します。 実は私は子供の頃こっそり家にあった 「忍法帖」シリーズなどを隠れて読んでいたのですが、 子供ゴコロにもさすがにこれは「有害図書」であろう、と 長い事「山田風太郎を読んだ事がある」事を 人には喋りませんでした。 しかし心秘かに思っている訳です。 アダルト向けコミックスさながらのトンデモない小説ですが、 この作者はなんというか、芯のところが私に近い。 そして、凄い。
20代のデヴュー当時から飄々として作品内で「死」を弄び、 著名人の臨終の様子をコレクションし、 72歳で晩飯を食べられるのも「あと千回」というエッセイを 連載しはじめその最中に病気になっては評判になり、 周囲の人達も巻き込んで死を眺め語っていた風太郎先生。 70歳代の老人を大いに語って結局80歳代のお話は 聞き損ねたのが残念な享年79歳。
風太郎先生のファンはみんな聞きたいですよね、 「で、山田さん、実際にはどうでした」 でも、もう答えては貰えない。 では皆さん、風太郎先生を偲んで 明け方にウィスキーで乾杯(ナルシア)。
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管理者:お天気猫や
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