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魔女の学校、おもしろそう、ということで またまた図書館から借りてきた。
ドジなやせっぽち魔女ミルドレッドが主人公。 高い山のてっぺんにある、 カックル先生の魔女学校を舞台に 物語は進んでゆく。 彼女には帰る家がない。 さて、最初におぼえるのは、ホウキの乗りかた。 仲良しのモードと、いじわるをする優等生の魔女。
この展開、どこかで。 そう。 ハリー・ポッターの「魔女版」。 というより、こちらの日本語版が1987年なので、本家。 勝手にそう思って読む楽しみもある。
魔女の学校では、黒い仔猫を一人一匹ずつもらえる ことになっている。黒猫にはホウキに乗って 一緒に空を飛んでもらったり、いろいろと 役割があるものなのだ。 それにしても、すごい数の黒い仔猫が必要だなぁと 心配していたら。 ミルドレッドのもらった仔猫は──読んでのお楽しみ。
担任の魔女はハードブルーム先生。 髪をひっつめ、やせて背が高い先生は、 きびしくて特にミルドレッドには冷たいが、 盛装をすると立派な魔女になる。 彼女の消え方が、とっても気に入った。
読み終わった今、ちょっと後悔。 シリーズ第2作も、一緒に借りるべきだった。(マーズ)
『魔女学校の一年生』 著者・絵:ジル・マーフィ 訳:松川真弓 / 出版社:評論社
マーケティング関係の本は、 人のおすすめとか書評とか、そんなきっかけで、 仕事上年に何冊かは読む。 それでも、内容が面白くて一気に読めてしまうという 本書ならば、マーケ業界の人でなくても楽しめると思う。
この本は東京の大書店の棚から選んできたもの。 無知なため、森さんが相当有名なマーケッターであることも 発行数のきわめて多いマーケティングのメルマガを 発行していることも、後から知った。 (中身のある本というのは装丁から透けて見える というのが持論なので、パッと見て選んだ)
現在はコンサルティング会社を起こされていて、 もともと大手メーカーでブランドマネジャーもされていた という経歴から、広告関係の文章もかなり説得力がある。 (なぜか誤字脱字とともに日本語の校正不備もあり、 文脈に響く場合もあったのは残念だが)
そもそも、マーケティングとマーケットリサーチを 同じ概念としてとらえている人はとても多いし、 マーケティングという言葉に拒否反応を示す人も多い。 私も以前は企画書の「戦略」という言葉に拒否反応があったが、 マーケティングの極意はまさに、勝つための戦略・戦法である。
世界は複雑に過ぎる。 そこに万能薬のマーケ理論などなく、いかにケースに応じた 理論や戦法の組み合わせで戦うのか、 自分の身丈に合った戦法や市場の常識を 知っていて悪いことはない。 経営者が自社の位置付けや価値を 正しく知らないために戦法を誤り、 時代を読み損ね、企業の明日を路頭に迷わせることだって あるわけだし、大手企業でもそういう失敗は多々ある。
もちろん、そうしたノウハウとは まったく別のアプローチから同じ結論に達する場合も あるとは思うが、裏づけがある「読み」には 何よりも説得力があるのである。
実際、一道で達人とされるキャリアがあれば、 対象の概要を見ただけで、何が問題なのかは、それはわかる。 そこに理論やデータの裏付けが取れて初めて、 クライアントは納得するのである。 ただし、理論が正しく、データも正しい場合は、である。
本書がさまざまな戦略事例や理論を切り口にして 読者に教えてくれるのは、 ただ「あるべき」マーケティングだけではない。
ものごとの背後にある「真実」をつかめ、 という指令である。(マーズ)
『シンプル・マーケティング』 著者:森行生 / 出版社:翔泳社
スウェーデンで発掘された土器のかけら。 ある女性が、そのかけらから時間を超えた メッセージを読み取った。 そして紡いだ物語がある。
紀元前2500年、今から4500年昔、 その地で実際に起こったかもしれない物語。 起こらなかったかもしれないが、 起こりえなかった物語ではない。 家族と離れた12歳の少年ローが経験する、 絶望と孤独、そしてサバイバル。
ローは、羊を飼う一族の長の妻が 何度も流産を繰り返したのち、 どこかから連れて来た「異質な」子どもだった。 やがて、いやおうなく一族との別れの日が来る。 物語の最後に、土器のかけらは 大きな意味をもってよみがえる。 波に乗った漂流物が浜辺へ流れ着くかのように、 未来へと運ばれる少年ローの運命。
人は自分のいるべき場所を、 ことばにはできなくても知っているのだ。 信じたくなくても、今いる場所が ほんとうにその場所なのかどうか、 深いところでは知っているのだ。
誰にとっても、 なつかしい浜辺で目印になっている 歌う木があるのかもしれない。 その声を、眠りのなかで 誰しも聴いているのかもしれない。(マーズ)
『歌う木にさそわれて』 著者:マルガレータ・リンドベリイ / 訳:石井登志子 / 出版社:徳間書店
鯨統一郎さんです(何故か条件反射的に笑ってしまう)。 店の常連客が持ち出す謎をこれも常連の一人が解決する 黒後家蜘蛛の会タイプの連作ミステリですが、 読者が気を張って作者の作った謎を解く必要はなくて 作者が自分に課した枠をクリアするはなれ技を やんやと見物すればいい、鯨統一郎さんらしい仕掛けです。
その課題は、 有名なメルヘンを犯罪的に解釈する、 そのメルヘンと同じ構造として解かれる事件は 不可能アリバイトリックである、 そのアリバイトリックは解説の有栖川有栖さんが かつて分類した九つのパターンにあてはまる、 というもの。 あてはめて作られた事件はやはりちょっと 無理をしているものもあるので、 一番の楽しみどころはやっぱり童話の意味する犯罪性ですね。
謎を解くのは俗世を離れたお嬢様女子大生、 場所はちょっとこだわりの日本酒バー、 常連二人とマスターの42歳厄年トリオは 毎回毎回懐かしTVクイズ番組とか一発ヒット曲とか 同世代ネタで盛り上がり、 毎回日本酒講座も一席あるし、 マスターおすすめ産地の美味おつまみも出るし、 お馴染みミステリのタイトルがミステリファン受け用に 本文中に紛れ込ませてあったりして、 趣味の合う方には盛り沢山のサービスが いろいろ御用意されておりますよ。 あれ、あなた日本酒苦手なんですか? それなら大丈夫、お酒が駄目なのにバーに来て 毎回水を飲みながらおつまみ食べてる常連さんもいるくらい。(ナルシア)
『九つの殺人メルヘン』 著者:鯨統一郎 / 出版社:光文社 カッパ・ノベルス
名作と言われる古典推理小説は
内容はすっかり忘れているものの、
子供の頃かなり読んだと思っています。
父が本格ファンだったので家の本棚は
クイーンやカーに埋め尽されていましたから。
でもこの1953年のアメリカ探偵作家クラブ賞受賞作、
現在においてもミステリ・ベストテンに必ず数えられる
古典の傑作は家に無くて読んだ事がありませんでした。
何故かって?
サスペンス物なので、トリック重視の父の趣味には
合わなかったんでしょう(笑)。
先日ハヤカワのフェアで書店に平積みになっていて、 やっと読む機会にありつきました。 主人公は南方で日本兵と闘い心の冷えた復員兵。 自らの美貌と知能を頼りにのしあがろうとする 『赤と黒』のジュリアン・ソレルタイプ、 ターゲットは大企業の社長令嬢、 終戦直後のアメリカで青年の野心が巻き起こす 恐るべき犯罪。
なんとなくセピア色の古風な映画のトーンを 自分でイメージしながら読み始めたのですが、 すぐに頭の中の映像は現代風にさし変わってしまいました。 実は半世紀前の裕福な家庭の子弟の通うキャンパス・ライフが 現在の日本の大学生活と大差ないのです。 出版当時読んだ日本人はその風俗に驚いたでしょうが、 私達はかえってリアリティを持って読む事ができます。 青年の野心とお嬢様の不用意さの生み出すドラマも 過去にも現在にも通用する説得力がありますし、 人物の細やかな仕種が生み出す不安感や ショックを与える構成の上手さも申し分ありません。 これがやはり「古典」として残る作品の底力なのでしょう。
全ての終幕となる舞台が「◯◯◯」というのは この小説から生まれたアイディアなのでしょうか。 だとしたらこの舞台が後世の映画に与えた影響を考えると もうそれだけで一生分の著作権料を貰ってもいいのかも。(ナルシア)
『死の接吻』 著者:アイラ・レヴィン / 出版社:ハヤカワ文庫
実在の人物の身辺に架空のキャラクターを設定して その人物への憧れを描き出す久世氏お得意の作劇法、 最近評判の作品は芥川と幼女の物語なのだそうですが、 今回文庫になった『謎の母』は太宰治と女学生の交流です。
日本は戦争には敗けましたが、 15歳の女学生、さくらちゃんは元気です。 毎日お寺の長い石段を駆け降りて女学校に行って お友達とお喋りをして道草しながら石段を登って、 お父さんと弟と子犬のご飯の支度をしたり だらしなくて情けない酔いどれ文士の面倒を見たり チェホフを読んだりちょっと退廃的な流行歌を歌ったり。 さくらちゃんってば、おかあさんみたい。 ぐったりと崩折れた無頼派作家を胸に抱き、 自分達二人の不思議な姿をピエタになぞらえる聖母です。
まだ梅雨の明けない雨の日に電車を待ちながらこの本を読んでいて、 気が付いたら私が乗り込んだ電車は目的地の二つ前止まりでした。 う。私もまた恥を増やしているよさくらちゃん。 雨は止んだので線路沿いの濡れた青葉の道をずんずん二駅歩きます。 私の胸にもぱたぱたとセーラー服のスカーフが はためくような気分になります。 太宰ファンはこの本でそこここに嵌め込まれた 太宰作品の反射が楽しめるでしょう。 一方解説の川上さんや私のように太宰があんまり辛い人は、 久世氏のさくらちゃんと一緒に 顔を上げて昂然と歩めば良いのです。(ナルシア)
『謎の母』 著者:久世光彦 / 出版社:新潮文庫
6月27日、トーベ・ヤンソンさんが亡くなった。
子どもの頃、『ムーミン』が好きだった。 よくテレビも見ていた。 好きだったけど、何となく苦手だった。 好きだったと、思いこんでいただけで、 ほんとうはやはり、かなり、苦手だったかもしれない。 ムーミンが、嫌いだったわけではない。 いま思えば、『ムーミン』の世界というのは、 何か悲しいものがあって、 見終わるといつも心に何かがひっかかっている、 そんなもどかしく、ビターな世界であった。
いま販売されている、 各種キャラクター商品はかわいいけれど、 スナフキンもかなり好きだけれど、 『ムーミン』の世界は、 決してかわいいだけのものではなかった。 アニメの中でも、 ニヒルに描かれていたスナフキンが、 そのビターな世界の象徴といえるだろうか。
子どもだったので、当時はよくわからなかった。 微妙な加減の陰りや、 日々の中で、ささやかにそして、 着実に降り積もる悲しみの存在には、 気づきもしなかった。 人生のもの悲しさの「ヒント」が、 『ムーミン』にはあったような気が、今はしている。 特に、大人になってから、 『ムーミン』のパペット・アニメーションを初めて見た時には、 何がというわけではないのに、 あまりにも、もの悲しくて泣きたくなってしまった。 その時のエピソードも、音楽も。 どうしようもなく、悲しくて胸を締めつけた。 そう、何がひっかかるのかというと、 それは、「孤独」だ。 淡々とした、静かな語り口。 それは、『ムーミン』以外の小説にも共通している。 小説にも、パペット・アニメにも、 常に「孤独」が描かれているのだ。
子どもの頃、「孤独」の意味を知らず、 何となく、居心地の悪い悲しみを感じた。 大人になって、「孤独」の意味を知り、 どうしようもない悲しみをこらえきれなかった。
そしていま。 ヤンソンが描いていたことの中には、 「孤独」を愛する強さ、 が、あったのではないかと、そんな気がしている。
ムーミンには、いろんなエピソードがある。 たくさんの仲間たちがいる。 もちろん、陽気でにぎやかなキャラクターだって。
それなのに、私の中に残ったのは、 せつないようなもの悲しさと、 孤独、を思う気持ち。 ヤンソンさんの小説の基調には、 「孤独」を尊重する思いがあるのではないだろうか。
ヤンソンさんの訃報。 孤独の意味。 私にとってのムーミン。 そして、ヤンソンさんの小説。
とりとめもなく、そんなことを考えつつ、 手を合わせ、目を閉じる。(シィアル)
・「クララからの手紙」 訳者:冨原眞弓 / 出版社:筑摩書房
・「たのしいムーミン一家」 訳者:山室静 / 出版社:講談社e.t.c.
100円Shopにも、いろいろな本が置かれています。 もちろん、100円。 名作童話絵本や、料理、実用の本。 どれも、薄いぺらぺらの本でしたが、 私が見た限りでは、オールカラーでした。
私が持っている100円Shopの本は、 カードサイズの小さなクッキングブックや お茶の種類や入れ方などを紹介したカラーの本も、 1冊、100円です。 もっとも、この本は、100円Shopではなく、 大きな書店の文具コーナーで 半額にディスカウントされていたものと、 有名な紅茶チェーンの店頭で、 紅茶や中国茶のガイドブックとして売られていたのものです。
でも、私の持っているこれらの本も、 大手100円Shopチェーンで売っています。 でも、おもしろいことに、 私はとりあえず、書店で買ったので、 このクッキングブックの出版社は元の出版社名になってます。 (定価200円と書いてあるのもあります。) でも、同じものなのに、100円Shopのものは、 もともとの出版社名の代わりに、 大手100円Shopチェーンの店名が印刷されてます。 このクッキングブックが 100円Shopの店内に並ぶにあたっては、 きっと、さまざまなドラマがあったのでしょう。。。 本も、人間も、人生、いろいろな転変があるのですね。
ところで、この100円のクッキングブックですが、 何品か試しましたが、おいしかったです。 簡単にさっさと作れるものをチョイスして買いました。 写真も食欲をそそるし、作り方もわかりやすいです。
♪100均ショップで買おう♪
・家でできるお店のデザート
・お酒と一緒にめしあがれ
・おいしい朝ごはん
・スピードメニュー
・休日のブランチ
・フライパンひとつでできるメニュー
・・・我ながら。 どうやら、本格指向の人間ではありません。(シィアル)
舞台は悪夢屋敷。 大晦日の夜、魔術師と魔女を主役に、 お付きの猫とカラスが裏の主役となって、 生き残りを賭けたタイムレースが始まった!
サカシマな了見の持ち主である魔術師と魔女が 生き残るためには、ある契約にもとづいて、 世界におおいなるわざわいをもたらす必要があった。 試験の前夜、何も勉強をしていない学生が 見るような悪夢である。正攻法ではどだいムリなのだ。 相当なワルモノである彼らをしても 追いつかないほどの邪悪な契約を結び、それを 迫る取立人と、その雇い主の存在もまた、悪夢である。
もし、午前0時の鐘が鳴り終わる前に ある魔術が完成しなければ─つまり、 良い願いであれ悪い願いであれ 願った願いをすべて逆にかなえる魔法のカクテルが 首尾よくできなかったならば、 「契約」によって彼らは破滅する。
じつは、猫のマウリツィオとカラスのヤーコプは、 動物最高評議会から送られてきた 監視役の動物スパイ。 いかな魔術師と魔女といえども、市民の監視団体のような 動物最高評議会の抗議には弱いらしく、 スパイと知っていながら猫とカラスをかわいがる振りをしている。
たがいに相手を出し抜こうとする黒魔術師イルヴィツァーと 伯母で金魔女のティラニア。 いずれ地獄に行くことは二人ともわかっている。 そういう風にしか生きられないのだから。 それは遅ければ遅いほどいい。
そんな彼らの猫なで声を信じきっていると見せかけ、 その裏をかいて、世界を守ろうと闘う二匹。 人間がだれひとり、気づかないところで、 機知と勇気で世界を破滅から守ろうとする彼らを、 やはり、だれかが見守っている。
魔術師と魔女が魔法のカクテルをつくるくだりは、 巨人エンデの本領発揮といったところ。 魔法のカクテル、もしも目の前にあったら、 あなたは何を願うだろう? またの名を 「ジゴクアクニンジャネンリキュール」…(マーズ)
『魔法のカクテル』 著者:ミヒャエル・エンデ 訳:川西芙沙 / 出版社:岩波書店
『寒玉楼』は、クラシックな大河恋愛物語である。
作者・瓊瑤(チョンヤオ)は、台湾・中国で、 爆発的な人気を誇る作家で、 恋愛賛歌・恋愛至上主義・波瀾万丈の物語が、 この作家の人気の理由だという。 で、この『寒玉楼』であるが、 見事に恋愛至上主義を貫いている。
1910年(清国・宣統2年)、北京。 皇帝の親族たる頤(イー)親王の娘・雪珂(シュエコー)と、 その乳母の息子・亜蒙(ヤーモン)との身分違いの愛が 生み出す悲劇。
「楓は霜を経て紅葉し、梅は雪を経て香る! 雪の中の玉は、きっと寒さに耐える!」 それが、身分違いで引き裂かれる 恋人・亜蒙の別れの言葉であった。
恋愛至上主義小説といっても、 ハーレクインとはまた違って、 格調の高さや、はしばしに繊細な美しさが見られる。 「雪珂」は、「雪の中の玉」という意味だそうだ。 美しい名前だ。 恋人の名を織り込み、 悲しみに耐えよと、雪珂を力づけようとする、 亜蒙の別れの言葉もまた、切なく美しい。 封建主義時代の純愛物語なのだ。 だが、純愛は、どうしようもなく、 残酷で、引き裂かれた恋人たちだけでなく、 周囲の者たちをも、容赦なく苦しめる。 恋人と引き離された雪珂は、 親が決めた婚約者のもとに嫁ぐが、 亜蒙への愛を貫くために、 結局は、婚約者を傷つけ、 憎しみの淵へと突き落としてしまう。
確かに、純粋すぎるともいえる雪珂たちには、 あまり、感情移入はできなかった。 どうして、そうなるの?と、 ため息をつきたくもなった。 しみじみと、 愛は「奪う」ものだとも感じさせられる。
時代がかった物語であり、 共感できない面も多々あるが、 それでも、とても興味深く面白く読めた。 図書館で借りた本であるが、 平成6年に購入されたこの本は、 まだ4回しか借り出されていない。 しかも、そのうちの2回が私である。 (前回平成6年に読まずに返却した。) やはり『寒玉楼』という、 美しい題名にひかれて借りたのだった。 表紙の、赤い服を着た雪珂の絵も目をひくのだが、 それでもやはり、地味な印象だ。 読んでみると、「クラシック」は新鮮である。 馴染みのなかった「世界」が、 ページをめくるたびに、眼前に現れるのだ。 地味であるが、私にとっては価値ある一冊であった。
こういう、図書館の中で埋もれている 読むべき本に出会えることほど、嬉しいことはない。(シィアル)
『寒玉楼』 著者:瓊瑤(チョン・ヤオ) / 訳者:近藤直子 / 出版社:文藝春秋
いま思っても、20年くらい前までの料理本は、 写真が、ぜんぜんおいしそうじゃなかった。 つくろうという気力をそがれる以前に 食欲を減退させるような本が多かった。 そういう意味では、最近の料理本業界の進歩は すばらしい。 料理写真の伝える味とにおいは、 大きな購買動機になる。 そして、簡単にできそうなレシピ満載とくれば、 鬼に金棒なのである。
料理の得意な人や日常料理をせざるを得ない人には 言い訳にしか聞こえないだろうが、 じぶんは決して料理が不得手なのではなくて、 親から受け継いだ技術とか、毎日料理する義務がない =経験値が少ないだけだと思っている人は、 男女問わず、けっこういると思う。 食べることに執着が少ないから、積極的には なれなくても、味覚はうるさい困った人。 ここにも一人いる。
だから、「もう少し上手になりたい」という ささやかな野心は、決して、本格的に料理を学ぼうという 熱意にはならない。 でも、それでも、 簡単に、手際よく、センスよく、おいしいものを 魔法のようにつくってみたいという願いは ずうっと持っているのである。
この本のレシピは、ほんとうに100文字。 どれもが、つくってみたいな、つくれるかも、と じぶんの台所、じぶんの包丁さえ持たない私の野心をくすぐる。 一部、あえてはみ出した「100文字ちょっとレシピ」もあって、 それをまた100文字にちぢめて遊んでみたり。
さて、ほんとうに100文字でおいしいものが 未熟者にも理解できただろうか?
最初につくったのは、鮭の南蛮漬け。 もちろん、今までのレパートリー外。
不思議なことに、思った以上においしかった。 仕上がりもキレイだったのは感動。
川津さんのいうように、料理は愛情だけで なりたつものじゃない。 基本の技術があってこそ。 料理するには、やっぱり自分の包丁が欲しい。 次の100文字レシピまでに、小ぶりの包丁を探そう。(マーズ)
『100文字レシピ』 著者:川津幸子 / 出版社:オレンジページ
『魔女の宅急便』の3巻。 3冊目ともなると、そろそろマンネリかなと、 軽い気持ちで手に取った。
開いた途端、 そのビターさに、ページをめくる手も止まる。 5月に読み始めたのだが、 どうも気が乗らなくてストップして、 その後は、 仕事のが忙しかったり、 別の本を読んでいたり、 あれやこれやで、 読みあがったのが、今日であった。
コリコの町の暮らしにもすっかりなじみ、 たくさんのともだちや仲間、理解者ができた、 魔女のキキ。 宅急便の仕事も順調で、平穏な毎日。 でも、そこに、12歳の女の子ケケがやってくる。 謎がいっぱいの少女、ケケも、魔女なのだろうか? 一つの町に魔女はひとり。 自分の居場所や大切なものをケケにとられるのではないかと、 キキは不安に飲み込まれていく。
自分の「居場所」ということを考えると、 おとなになって久しい、 この年でも、不安になることがある。 ときおり、自分の大切なものを 他人に取られてしまうんじゃないかと、 とても心配になる。 頭ではわかっていても、 きれいごとではすまない、 日々のどろどろとした、葛藤。
そういう、苦い思いを、つきつけられてしまった。 しかも、容赦なく、 ストレートのど真ん中で、痛いところをついてくる。
おとなになっても、おろかなことを繰り返す。 ほんとうに、穴があったら入りたいと思うようなこと。 わけもなく、他人に気おくれしたり、 意地を張ってみたり。 自分に自信がもてずに、 誰かをやっかんでいる。 もちろん、そんな自分は嫌だ。 どうしようもなく、恥ずかしくなって、 消しゴムで、きれいさっぱり消してしまいたい。 そんな日々を積み重ねている。
もちろん、一番いいのは、 そういう、おろかな自分を越えていくことだろう。 しっかりと自分を見つめ、 精神的にも、大きく成長できればいうことはない。
でも、私は、 このどうしようもなくおろかで、 弱点の多い、自分の「小ささ」も好きである。 ときおり、そのおろかさは、 (大げさではあるが) 一生懸命に生きていることの証であり、 自分ながら、このおろかさを愛しく思ったりしている。
理想の自分になることは素晴らしい。 けれど、 おろかで恥ずかしい自分を受け入れていくことができてこそ、 初めて、そこに「アイデンティティ」も確立できよう。
自分が自分に出会うとき、 そこに「アイデンティティ」が生まれる。(シィアル)
『魔女の宅急便 その3 ―キキともうひとりの魔女』 / 著者:角野栄子 / 出版社:福音館書店
『ゆかいなゆうびんやさん』シリーズの アルバーグ夫妻の本なので、 ほのぼのとしたかわいい、緻密なお話だろうと 読み始めた。そしたら。
泣いた泣いた泣いた。 後半のある場面で、スイッチが入って とまらなくなってしまった。
訳者の井辻さんは書いている。 「人類の本棚には、ぬいぐるみ文学という 奇妙なジャンルが存在します」と。 私はこれの前提として、おもちゃ文学というものが あるのだと、最近立て続けに読んだ本を振り返って思う。 そして、おもちゃが主人公の本では、 人間以上に残酷な運命に翻弄させることができる。 おもちゃは痛みを感じないし、 ばらばらにされるまで死なない(気絶することはあるらしい)。 おもちゃが主人公の本は、深くて意味深長で、 泣かされる本になりやすいのだ。 (脇役でロシアの入れ子人形、マトリョーシカが よく出てくるのはなぜか?お約束なのか?)
ぬいぐるみ工場でつくられた主人公のクマくんは、 自分のことしか考えない、うぬぼれやだった。 その理由は。 顔を縫った「仕上げ屋さん」の手かげんが狂ったから。 縫い目がふたつ、狂っていただけで。 それだけで、クマくんの中身も決まってしまった。 そこから、クマくんの「そ、そこまで…」な 人生が始まるのだった。
私をして、ぼろぼろ泣かせた クマくんのぼろぼろ人生が。 でもちゃんとハッピーエンドが待っている、 それもおもちゃ文学の決まりごとなのだろう。(マーズ)
『だれも欲しがらなかったテディベア』 著者:ジャネット&アラン・アルバーグ / 訳:井辻朱美 / 出版社:講談社
散文の名手石川淳が、日本で最も早く散文的表現を 用いた作家として高く評価しているのが意外な事に上田秋成。 上田秋成といえばもうなにをおいても『雨月物語』、 私の幼少時の短編恐怖小説体験の原点でもありますが 今回は鬼気迫る完璧な造形の『雨月』とは異なって なんというかのびのびとした語りの『春雨物語』を。
三島由紀夫は『春雨物語』を「絶望の果ての産物」と見ていますが、 我が身における文学的理解を愛読書に反映させる必要の無い私等には 『春雨』はシニカルな視点ではあるけれども人をくった 結構楽しいエンターテイメントとして読めます。 現代人はかえって虚構としての冷笑や残酷に 慣れているせいもあるのでしょう。 上皇の人柄のせいでノリが悪かった薬子の乱(血かたびら) 帝の仲良しの遊び人は後の僧正遍昭(天津乙女) 紀貫之の帰京の船を襲って文学談義をして帰る酔狂な海賊(海賊) なんだか憎めない人物ばっかりで。 そして石川先生が「珍しい江戸の散文」と絶賛したのが 「樊かい」(字が出ません、『かい』は口編に會)。
「はんかい」の物語は今で言うピカレスク・ロマンでしょうか、 腕自慢の無法な若者が神様に罰を当てられ、それでも懲りずに 父母を殺し郷里を出奔し盗賊の仲間となり子分を作り盗みを働き ‥‥と言うといかにも殺伐とした話のようですが、 不思議な事にこの主人公、調子に乗るけれど筋は通すし 人なつこいし頭は切れるしいかにも憎めない、 秋成得意の底光りのするような迫力ある美文は消え失せたかわりに 疾走する悪党達の痛快無類なアクションが 飾り気なく勢い良く語られています。 石川淳の訳ののびやかさの印象も大きいのでしょうが、意外でしょ。
惜しむらくはこの「はんかい」いいかげんなところで止めている、 石川先生は散文の発展が止まってしまった事を大変惜しがっていますが、 私だって惜しいと思いましたよ、 お城破りくらいやって欲しかったなあ(そうじゃなくて)。 この作品を読んでから『紫苑物語』を読むと 石川淳の追求した「散文」による精神の運動の表現というものが どういったものだったのかよく分ります。 死せる秋成、生ける石川を奔らす。(ナルシア)
『新釈雨月物語 新釈春雨物語』 著者:上田秋成 訳者:石川淳 / 出版社:ちくま文庫
前回の『教養としてのまんが・アニメ』の序で 大塚氏が今の若い者が古典を知らないのは事実だけれど それは彼らの責任ではなくて、 前の世代が大量の情報だけ与えておいて 「伝える」という努力を怠ったからだ、と 言った意味の事を述べています。 人気のサブカルチャーですらこの状態ですから、 「日本文学」なんて言った日には
‥‥引かないで下さいよう。 じゃあちょっと若い者(笑)に「伝えて」みましょうね。 「昭和三十年代初頭の日本現代文学に鮮烈な光芒を放つ 真の意味での現代文学の巨匠・石川淳の中期代表作」 ああ、逃げないで〜。 やっぱり「文学」「巨匠」は威圧感がありすぎるかな、 これじゃあ与えるだけの情報でしかないですね、 なかなか気軽に読んで貰えなさそう。 それじゃあ、アナーキズム寄り無頼派仏文家の散文の到達点‥‥ だから。逃げないで。 いわゆる「名作」を手に取ってもらうというのは難しいですね。
じゃあこういうのではどうでしょう。
『もののけ姫』はここにいる。
人と獣の交錯する世界、
月の光に聳え立つ岩山に
狙い誤たぬ弓の名手は渾身の矢を放つ(紫苑物語)
山に住まう神々の眷属は滅びるのか。
人間達は武を用い策を用い古い神を殺す(八幡縁起)
怒りに身を焦がし風の様に駆ける獣の力を持つ姫、
そなたは生きよ。
各集団の思惑が三つどもえに入り乱れ
風狂の僧は嘯く(修羅)
表層に現れた事象だけ拾い上げても 宮崎駿監督のアニメーション映画『もののけ姫』に似た世界ですが、 実際に読んでみると無駄のないしなやかな線描によって まさに、かのアニメーションを彷佛とさせる 人物群像が躍動しはじめます。 登場人物達や舞台は特に細部を描写されるわけではないのに その情景はまざまざと眼前に現れ、 その立場とお互いの関係性が物語を動かし、 その動きと言葉によってそれぞれの望むもの、思う事が くっきりとした軌跡となって現れてきます。 花と恋われ鬼と怖れられ、獣のごとく疾駆する姫の、 かおかたちについては語られぬのにその横顔の美しい事。
これが往年の文学作品? こんなマンガのようなアニメのような シンプルで力強く面白い話が? かつての文学の中に存在した激しく動的な部分は 映像メディアの技術の進歩に伴って 文章表現以外の分野に移動してゆき、 取り残されたいわゆる文学は 対抗上文字でのみ表現できる内面性あるいは 文章としての前衛性に重きを置くようになって、 それを私達は「現代文学」と思ってしまったのかもしれません。
あるいは高度経済成長の果ての安定期には顧みられなかった、 混沌の世において良くも悪くも自らの強靱な意志でもって 生き抜く者共の無頼な寓話的物語が この世紀末─初の現代に再び意味を持ってきたのでしょうか。 現実的に考えると彼らの突き詰めた覚悟は心底畏ろしく 到底真似し得ぬものなのですが、 その冴え渡る動き、的確で意表を突く会話のカッコいい事。 どうでしょう、少しは伝わった?読みたくなった?(ナルシア)
『紫苑物語』 著者:石川淳 / 出版社:講談社文芸文庫
ここ十年のミステリ復興に際し、 「今の若い読者は『古典』を知らない」 「◯◯(古典作品)も読んだ事がないのに ミステリ作家志望などという若者が多い」 といった批判の声が多く聞かれました。
同じ傾向はマンガやアニメ、ジュニア向け小説といった いわゆるサブカルチャー系列の作家を目指す若者達にも顕著らしく、 専門学校で彼らに講義をした際、当然知っていると思われた 「(まんが・アニメの)古典を知らない」学生達とのすれ違いに ガクゼンとした著者達はいわゆる「おたく的教養」を後世に 伝えるべく決然としてキーボードに向かいました。 ガイドブック的知識の伝達ではない形で、次の世代に 当時自分達が「古典」の何に感動したのかを具体的に「伝え」ようと ──当初は、その目的であったのでしょう。
実際、本書の第二部、アニメ論においては 編集者のササキバラ・ゴウ氏が日本が世界に誇る アニメ作家ひとりひとりの作品における姿勢や方法論を 手堅く解説していて、 アニメ作家志望者にむけての教科書としてばかりでなく、 昔TVで見ていた私等にも子供ごころになんとなく 気になっていた点がつまるところ 「作家性」よるものだった事を納得させてくれてます。
さて問題(笑)は第一部、まんが論パートの書き手、 今やまんが原作および小説家としてカリスマ的人気の 元かなりアヤシイ漫画雑誌編集者大塚英志氏、 彼の語る戦後まんが論は古風でありながら それゆえ現代においては特に意味深いと思われる視点で展開します。 それは「身体性」。 果たしてこれが次世代作家に古典を読ませる 契機になるかどうかは別問題として(それが当初の目的では?)、 だいたいテキストに引かれている作品になじみのある私などは なるほどなるほど、そうきたか!と膝を打つ事度々。
手塚治虫によって「記号的身体」(マンガっぽい絵)を 与えられた戦後マンガが、その内面を表現しようと苦悩し 「生身の身体」を得るための葛藤を、 壮大にかつ妖しく描く歴史ミステリ(違うだろ)! 大塚の操るキーワード「アトムの命題」とは、 「フロルの選択」とは。 そして「教養」というタイトルに込められた真の意味は。 ‥‥という読み方は御本人の意図した事では 全くないのでしょうが、一つ一つの作品が 「紹介」としてよりは「証拠」として読めるので ミステリ的な角度でも楽しめてしまうのです。
「Please make me a real boy」 今年の主力映画の主人公のセリフですが、 日本のまんがは五十年以上この願いを抱いてきたのでしょうか。(ナルシア)
『教養としての〈まんが・アニメ〉』 著者:大塚英志+ササキバラ・ゴウ / 出版社:講談社現代新書
英国の児童文学の伝統、 といったときに必ず出てくる名作といえば。 やはり、このグリーン・ノウシリーズは外せないだろう。 ということは重々知っていながら、 今回が初めての体験。
そしてまたボストン夫人といえば、 かの林望さんが英国で夫人の「マナー・ハウス」 (物語の舞台となる館のモデル)に 下宿していたのも有名な話。
62歳で書いた作品が、一躍古典になる英国風不思議。 主人公は、母に死別し、父の愛情を失い、 保護者をなくして帰る場所のない少年、トーリー。 その少年を受け入れ、保護者となってゆく 大おばあさんの、オールドノウ夫人もまた、 主人公である。
物語のなかで息づくのは、キングの『シャイニング』を連想させられる ような生垣動物たち、生きた動物たち、ずっと昔の子どもたち、 歩き出す聖像、悪魔の木… そうしたすべてをリアルに描くために、 この孤独な二人の魂の寄り添う過程が重ね合わされている。
古くて大切な形あるもの、ないものを知っている この人が描いたからこそ、 簡潔な表現のなかに、 その年齢まで持ちつづけている子ども時代が いきいきと大きく小さく、きらめくのだと知った。
トーリーの屋根裏部屋で灯る、彼の大好きな 「夜明かしろうそく」の不思議な影のように。(マーズ)
『グリーン・ノウの子どもたち』 著者:L・M・ボストン / 出版社:評論社
こんな薄っぺらい文庫で二回分かせぐとは ふとい了見だ、と思われるかもしれないが、 私はこの本のイラストも好きなのだ。 あの妙な人顔の猫の作者、山口マオさん。 巻末対談で川上さんと山口さんはお互いを 「枯れた味わい」と言って誉め合っている。 川上さんのヘンな話に輪をかけてヘンな絵、 絵どころか勢い余って立体オブジェまで作ってしまって、 それが文章と渾然一体となるレイアウト、 さすがだ。
私が房総に住んでいた時、 青い海沿いの道をずっと南の端の燈台まで行って 折り返してくるのがお気に入りのドライブコースだった。 その長い長い海岸線の途中の漁村に数年前、 観光客の立ちよれる気のきいた物産館が立てられた。 大きな体育館のような建物のなかに白いコンクリートの プールのように大きな生け簀があって、 その中には外房の魚がいっぱい泳いでいる。 生け簀の周りは小さな乾物屋やおみやげ屋や雑貨屋が バザール風に並んでいるのだが、その中の一軒が妙に あっさり素朴なのに垢抜けている。 山口マオさんのショップ「海猫堂」だった。
それ以来毎回海猫堂で藍色や茶色の木版風の ポストカード等を買いこんで、 かどっこのカフェでカプチーノを飲みながら 虹色に変化する空と暮れ行く海を眺めるのが ドライブ帰りのおきまりとなった。 いつもぱさぱさの紙の買い物袋に入れてくれる チラシ『海猫通信』も手作りの素朴さで、 それでいてやっぱりレイアウトが洒落ていて秘かに楽しみだった。 いつかTシャツやカップもあ、版画も買おう、と狙いながら 田舎の生活ではあまり贅沢な物は買わなくなるので そのうちそのうちと思っているうちに 私はまたずっと遠くに引越してしまった。
山口マオさんは自画像に片手を上げた人顔猫を描く。 それを見ると私もついつられて「やあ」と片手をあげてしまう。 『椰子・椰子』の変な絵と変なオブジェを見ていると 自分でもこんな変なモノが作りたくなる。 本文を読むとやっぱり変な夢を見て 変な文章が書きたくなるから 薄っぺらくても気に入った本を読むのはなかなか忙しい。(ナルシア)
『椰子・椰子』 著:川上弘美 絵:山口マオ / 出版社:新潮文庫
私の見る夢は結構おもしろい。 あんまりおもしろいので続きをもっと見ようと寝直して さらに滅多にないような夢を見たりする、幸せな質である。 これは折角だから書き残しておかなくてはと いつも思うのだが、もともと日記すらろくにつけられない ずぼらな性分なのでなかなか実行に至らない。
四十年以上も夢を書き付けた明恵上人は さすがにお偉い方だ、と拝んでしまう。 しかも、夢を夢らしい独特の手触りを残して 記すというのもなまなかな技ではない。 本邦きっての名文家、我らが内田百鬼園先生か 世界の奇才夢の図書館ルイス・ボルヘス館長か そのくらいの文才は欲しい、って無理でしょう。 第一私の夢は百鬼園先生のようなねばりつくような不安感や ボルヘス館長のような仄明るい喪失感みたいな 負に近い感情はなくてただ呑気におもしろい。 しかし不規則な睡眠をとる学生生活や 夜遊びする都会の勤め人生活を終えて 田舎で朝日にあたる健康的な生活を始めたら 残念な事に夢はあんまり見なくなった。
芥川賞受賞で川上弘美さんの作品を知った時、 なんだか気の合う文章だと思った。 目がさめているときに考えて書く 彼女の言うところの「うそばなし」でも この世のものではなさそうな妙な動物や もう死んでいる人が普通にやってきて 一緒にゴハン食べたりしているが、 新刊文庫の『椰子・椰子』は 最初から最後まで変なモノ達との とっぴょうしも無い日常をあっさりとつづった日記だ。 百鬼園の『東京日記』の不気味でないタイプというか。 巻末の対談を読んだらやっぱり「夢日記」がはじまりだという。 いいな川上さんおもしろい夢をみられて、 おもしろいおはなしが書けて。
しかも本文のレイアウトとイラストが やっぱりお気に入りの山口マオさんなので、 この本の話はもうちょっと続く。(ナルシア)
『椰子・椰子』 著:川上弘美 絵:山口マオ / 出版社:新潮文庫
実に、これで三度目の書き直しである。 これまでに、二度、この本の感想を書きかけ、挫折した。 二度とも、80%は、書き終えているのだが、 どうも、うまくまとまらずに、その度ごとに、 新たに書き直している。 これが、三度目。
とても読みやすい本で、面白かった。 読後、将来の自分の展望に対して、 ポジティブな姿勢でいたいと思う、 元気をもらった。
なのに、なぜ書けないのか。 (↑今も、現在進行形の思いだ。) 一つは、この本を読んだことで、 伝えたい思いが、 私の中にたくさん蓄えられたからだろう。 あれも、これも、書こうと思い、 結局、収拾がつかなくなるのだ。 この限られたスペースで、 何もかも伝えようというのが、 そもそも無理で、 つまりは、本を読んでもらえば、 分かってもらえることなのに。 さらに。 二つ目としては、 きっと、著者の松永真理さんに刺激を受けすぎたのだろう。 自分の思いをうまく伝えたい。 もっと、うまく語りたい。 もっと、もっと、上手に書きたい。 そういう気持ちが強くなりすぎたのだろう。 肩にも、キーを打つ指にも力が入りすぎ、 なかなかうまく、書き進められない。
つまり、この本は、 私をそういう思いにさせた本。 何かを始めようとする人には、 前向きな元気をくれるだろう。 職場でもっと理解されたいと、 そうすれば、もっと力が発揮できると、 そう思っている人は、 きっと、羨ましくなる。
この「iモードの生みの親」である松永さん。 松永さんのすごさは何だろうか。 一番の才能は何であろう? もちろん、創造力、クリエイティビティだろうが、 私は、松永さんの明るくポジティブな性格、 −陽気で天真爛漫な点こそ、天賦の才ではないかと思う。 プレッシャーに耐えうるしなやかさ。 決して卑屈にならない、前向きな明るさ。 そういう、伸びやかな天性のものを持っているところ。
「新規事業立ち上げのバイブル」と、広告されているが、 私は、「人間の魅力」、というものについて考えた。 松永さんだけでなく、その仲間−上司や部下−も含めて。 新規事業の成否は、 やはり、人材、人集めにあるのだろう。 リクルーティングに関して、 松永さんが、『七人の侍』になぞって語っていたのが、 興味深かった。 黒澤の名作『七人の侍』を、 リクルーティングの物語と分析したセンスにも、 感服している。
刺激的な本であった。 (シィアル)
『iモード事件』 著者:松永真理 / 出版社: 角川書店
「一年間に渡る連載中は、とうとう最後まで一通も 者からの手紙が届かず、たいへん孤独でしたが、…(略)」 と、後書きに書いているのを読んで、 心中、うるうるっとしてしまった。
本書は、『Further sight-旅のかけら-』と題し、 毎日中学生新聞に連載していた短編を 再編したもので、一篇の長さは原稿用紙3枚(なのだそうだ)。
タイトルにあるように、すべてこれ、 旅を題材にした、かつ奇想天外で不条理で おかしくもやるせないショート・ショート。 これを読んだ中学生がなぜ反応しなかったのか、それは おおいなる疑問だが、その問いに答えが 与えられることはないのだろう(=森絵都風)。 そしてまた。 眉毛犬ログがヒマラヤをめざしていたころ、 このわたしがヒマラヤの映画を見るために お茶を飲んでいたことは、旅のシンクロでもあった(=森絵都風)。
ところで、気になったことがあった。 砂漠で遭難する真面目な少年の旅を描いた 「究極の選択」を最初にもってきたのは、 なぜなのだろう。 わたしと同じように、このストーリーに、 すべての始まりを感じる作者の意図なのだろうか。(マーズ)
『ショート・トリップ』 著者:森 絵都/ 出版社:理論社
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管理者:お天気猫や
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