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夢の図書館新館

お天気猫や

-- 2001年06月29日(金) --

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『永遠の仔』

☆私たちが、永遠に受容されるということについて。

去年の今頃、ドラマで見ていた。 途中から見始めたので、細部が分からないままで、 図書館に借りに行っては見たが、 ずっと、ずっと、先まで、予約で一杯だった。 新聞や雑誌で見かける書評の印象では、 「癒される魂」「魂の回復」「救済」の物語だと思っていたが、 ドラマで見る限り、ただただ、重くのしかかる、 数々の心の傷に、見ている私も気が滅入ったりもした。 最終回まで見て、確かに、 「魂の救い」というもののドラマだということは分かったが、 ドラマ自体も、面白くは見たが、 釈然としない思いもあった。

そして、今更だが、 やっと、上下2冊、共に分厚い原作を読み上げた。 何度か、読み返し、特にラストを丹念に読み返し、 釈然としなかった思いが解消された。 当然であるが、ドラマはダイジェスト版として、 忠実に、小説の輪郭をなぞってはいたが、 傷つき、救いを求める人々の心の内のすべてを 描き切ることができなかったのだ。 それは、きっと、活字でこそ、 濃密に語り尽くすことができるのだろう。

救いというと、 私は、亡くなった祖母の、 手のひらのぬくもりを思い出す。 祖母との思い出のすべてが、 感受性が強すぎ、かといって、 自分の思いをさらけ出すこともできなかった、 子ども時代の私を 慈しみ、包んでくれたぬくもりである。 子どもの頃、 ほんとうにつまらないことで、 意地を張ってしまい、母と口げんかをしてしまった。 悔しかったのと、どうして、こんなことで、 したくもないけんかをしたのかと、 情けない思いに涙をためていた。 もちろん、誰にも涙を見られないように。 気にしてないそぶりをする。 その時、そっと、後ろから、 祖母が私の頭を包み込むように、 手のひらをのせた。 それだけだった。 祖母も、何もいわなかったし、 私も、何もいわなかった。 ただ、あっと思うまもなく、涙があふれた。 モノクロームの写真のように、 色もなければ、音もない思い出に、 温もりだけがあふれ、 今でもあのときの安堵感は、鮮明である。

あのとき、 子どもながらに、 人には、ありのままの自分のままで、 そっくりそのまま、受け入れられ、 許される場が必要なのだと、 もっと、要領を得ない言葉であったが、 心から、そう思った。 祖母は、いつでも、私を私のまま、 私の情けない思いも、頼りない思いも、 激しい思いも、寂しさも、 どんな思いでも、受け入れてくれる、 「場」だった。 だから、祖母を亡くした時の、喪失感は大きかった。 その時の私の年齢からも、 まさに、「子ども時代」が終わったのだと痛感した。

『ネバーランド』(恩田陸 / 集英社)を読んだ時も思ったが、 悲しみも、汚れも、苦しみも、 あらゆるネガティブな感情のすべてを、 誰しも、受容して欲しいのだ。 誰かに、心の奥底に、しまい込んだ秘密ごと、 そのまんまの自分を丸ごと、受け止めて欲しいのだと。 日々、負うささやかなかき傷でさえ、 私たちの歩みを止めてしまうことはたやすい。

『永遠の仔』で描かれる悲しみはあまりにも深い。 「わかるよ」と言ってしまえば、嘘になってしまうほど、 それは、重苦しい悲しみだ。

けれど、人は大なり小なり、いつも、 救いを求めているのだと思う。 「救い」という言葉は、大げさかもしれないが、 誰だって、自分を受け止めて欲しい。

私たちは、今や、あまりにも不器用で、 自分の、ささやかな悲しみを語ることすら難しい。 あるいは、日々に押し流されていき、 そういう気持ちに気づくことすら、困難かもしれない。

それでも。 いや、だからこそ。 『永遠の仔』を読み終わり、 「誰かから受け入れられ、 まるごとの自分を肯定されることが大切なのだ」と、 いろいろな言葉で、そう考え、 つたない言葉で、こう表現することしかできない。(シィアル)


『永遠の仔』 著者:天童荒太 / 出版社: 幻冬舎

お天気猫や

-- 2001年06月28日(木) --

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☆大江健三郎体験。

あの有名な、ホルマリン漬けの死体プールで アルバイトする学生の話が 『死者の奢り』だということは 知っていたけれど、読んだのは初めて。 これが、誰それの小説にあった、というよりも、 誰かに聞いた"ちょっと怖い話"として流布している怪談の もとネタである。 どの短編もセンセーショナルで、 体臭と恥辱と肩すかし(或いは裏切り)に満ちている。

当然、一冊しか読んでいないのだから、 現在の大江健三郎を知らないし、 (顔は一時よくテレビで見たが) 何を語れるわけでもない。

もともとこの文庫本は、弟の置いていった 本のなかから拾い出したもの。 古今東西の名作本を漁った時期があったらしく、 一冊だけ大江健三郎があった。

これらの作品が発表されたとき、 どれほど文壇や世間をどよめかせたかは 想像に余りある。

けれども大江健三郎の芯は、センセーショナルな 状況設定や描写ではなくて、樹木の皮に擬態しながら そっと息をしている蛾のように、 短編のところどころにクリップで留められたかのような、 どこか心弱いため息のような、 いくつかの一文のかもし出す力なのだろう。(マーズ)


『死者の奢り・飼育』 著者:大江健三郎 / 出版社:新潮文庫

お天気猫や

-- 2001年06月27日(水) --

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『猫の宇宙』

赤瀬川原平さんは例によって私が勝手に 「師匠」と心に決めた人の一人である。 何の師匠かと言ったら「観察」と「表現」。 こう書くとなんだか凄そうだけど、 「観察」は目があれば誰でも出来る事で ぼーっと縁側で電線に飛んで来る鳥を 見ているだけで立派な観察である。 「表現」では赤瀬川さんは普通の芸術家のように 絵具やら木材やらも使うけれど ただ仲間と何かするだけとか写真を撮るとか、 あとよく「言葉」を使っている。 言葉を使った表現は良い。 なんといっても原価がタダだ。 そのタダでしかもごく普通の素材を使って赤瀬川さんは 見た事や思った事をぴたりぴたりと表現する。 達人だ。 高価で特異な素材媒体を使わなくったって 「表現」は出来るものなのだ、と 貧乏ではないがビンボー症な学生だった私は いたく感じ入ったものだ。

あと一つ大事なのが、「気の抜け具合」。 バブル真只中の都心の一人暮らしで、物欲に踊らされる人々の 渦に巻き込まれる事なく、日々まるっきりマイペースの 街歩きが楽しめたのも、師匠とお仲間の書物の薫陶の賜物である。 後年「老人力」で世間の人々がその気の抜け具合力の抜け具合に 感銘を受けてこぞって赤瀬川さんを崇めたが、そんなのは遅い。 師匠はずっと昔から存分に抜けている。


とはいえ、ここまで気が抜けてていいのだろうかこの写真集。 猫の写真集‥‥と言うには猫が主役というアングルではない。 しかも大半は置き物の猫。 じゃあ世界各国から集めた赤瀬川コレクションの写真集? かというとやっぱり置き物猫もあまりはっきりとは映っていない。 それならお馴染み路上観察系写真集? でもあんまりぱっとしない物件ばっかり。 どうって事ない路上物件の脇にちょこんと置き物猫が居る。 どうやら路上観察のついでに撮った 生き猫の映っている写真を集めて 写真集にしようとしたら足りなかったらしい。 それで手持ちの置き猫を路上に置いてみたらしい。 で、そこにちょこっとキャプションをつけてみる。 そうしたらいきなり、ちっちゃいながら「宇宙」が生まれる。 おおっ。


デジカメを手に入れたらこんな事やってみたいな。 本職でもあり中古カメラマニアの赤瀬川さんは ちゃんとしたライカやイオスで撮影しているけれど 私がそんな事をしたらフィルムがもったいない。 このへんが「達人」と「そうでない人」の違い。(ナルシア)


『猫の宇宙』 著者:赤瀬川原平 / 出版社:中公文庫

お天気猫や

-- 2001年06月26日(火) --

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☆ネットの中身になる。

日々、仕事でも趣味でも検索サイトにはお世話になっている。 よくわからない物ごとの意味など知りたいときは、 「○○とは」とか、キーワードに工夫して検索し、 出てきたものをいくつか参照して吟味し、 正解にたどりついたり。

こんなことが数年前よりもずっと正確に できるようになったことはありがたい。 古いことは文献や本が頼りだが、新しいことはネットに軍配。 功罪はあるとしても、ネットの情報源は、日々増えているし、 数が増えることで当たりも多くなる。

ときどき、猫やの本部(笑)にある膨大な(といってもいいかな) テキストデータの一片が誰かの検索に引っかかって、 たどりついて感謝のことばを残していかれたりすると、 やっていてよかったと思う。 このエンピツで更新した固有名詞なども、けっこう新しいのまで 検索にひっかかってくるし。

営業用サイトに、お褒めの言葉とともに無断引用されていたり することもあるけれど、まぁ、実害がない場合は クレームはしない。 しないけれども、ちゃんと定期的にチェックできるのは 検索サイトのおかげである。

猫や本部は最近月1回しか更新していないが、 日記だの書評だので、日々ネット世界にULされていく情報は当然ある。 そういうことを続けること──情報の発信もとになる、 データベースの多様性に貢献すること──も、 こういうサイトを運営する以上は、するべきなのかなと思う。

実際、その人がその言葉を発してくれていなかったら 知りえなかった情報がある。 たとえ1行でも、それは有効なのだ。 だからこそ、内容の真贋もだいじだけれど、それは検索する側の その後の調査力にもよるので、悪意さえなければ 100%正しくなくても許されるんではないかなとも思う。 それよりも、全体のデータをゆたかなものにするための 一歩を、記しつづけることは、 こうしてお世話になっているネット世界への 個人的なお返しでもあるんだなと思う。 人それぞれ、考え方はちがうと思うけど。(マーズ)

お天気猫や

-- 2001年06月25日(月) --

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『親子ネズミの冒険』

ゼンマイじかけの父さんネズミと息子のネズミは、 ちょうど「高い高い」をするかのように両手が つながって、向き合ったブリキの人形。

誰かが父さんの背中のネジをまいてくれれば、 同じ動作で動くことができる。 誰もネジをまいてくれなければ、何年でもじっとしている。 自分では動けない彼らが、まるで人間と同じように だいじなものを求めて、運命に挑む。 足りないものを探すという本能を生まれながらに持って。

店に並ぶ多くのおもちゃのひとつである彼らが、 人間に買われて外の世界に出て、 まさに艱難辛苦の末に、ちりぢりぼろぼろになっていた 仲間のおもちゃたちと再会し、 外見はまったく違う母親さえ得て、 旅の途中で出会った動物仲間も一緒に、 「家族と家となわばり」をかたちづくる。

おもちゃや動物を主人公にした 児童文学の形ではあるが、 子どもに読み聞かせようなどとしたら、 涙もろい方は先へ進めなくなるかも。

ネズミの親子や登場人物たちの 何気なく語る言葉や行為の裏と表に、 幾重もの意味が込められ、運命の糸は巧みに織り込まれ、 彼らが次々に体験する風景は、 まさに世界最底辺の巡礼でもある。

そして、私の琴線にふれてやまないのは、 親子のネズミが──親子として作られ、 手がつながっているというだけで この二匹だけが、名前もないこのおもちゃ同士だけが、 生きていくすべての前提として、 互いに相手を親であり子であると 信じ込んでいることなのである。(マーズ)


『親子ネズミの冒険』 著者:ラッセル・ホーバン 訳:乾侑美子/ 出版社:評論社

お天気猫や

-- 2001年06月22日(金) --

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『待ち暮らし』

医者の林(リン)は、意に添わぬ結婚をした郷里の妻との 離婚が成立するのを18年、待った。 看護婦の曼娜(マンナ)は、林との未来を信じて、18年待った。 林の妻、淑玉(シュエイ)は、夫のやさしさを18年、待った。

そして18年の後、何が変わったか? 何が失われ、何が得られたのか? そんな疑問の答えを想定しながら、ページをめくる。

原題は"Waiting"、中国出身の作家ハ・ジンが 米国に渡り、英語で書いた小説の翻訳。 『待ち暮らし』というタイトルは秀逸で、 待っているのは林と曼娜だけなのかと思うのだが、 本当の意味で待つことの重さを知っているのは 最後には離婚される纏足の妻であり、彼女だけは 待つことで何かを得たように思われる。

この物語は男性である林を主人公にして描かれているが、 読者の多くはおそらく、いつのまにか女性二人の視点に立って、 林のあずかり知らぬ内情を手にし、焦燥するだろう。 「そんな言い方はないだろう」と思いながら。

3人を取り巻く全世界、中国という強大な国の空気も 狂気も熱情も、映画のように自然に入ってくる描写。 文革当時の中国で、建前のモラルがいかに強力だったか、 そのために費やされた18年でもあるのだった。

待つ身は長い、それでも 待ち暮らす間は楽しい─夢がさめるまでは。

本書は全米図書賞、PEN/フォークナー賞を受賞。 中国ではいまだ、出版されていないという。(マーズ)


『待ち暮らし』 著者:ハ・ジン / 出版社:早川書房

お天気猫や

-- 2001年06月21日(木) --

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『あかりのレシピ』

お部屋の模様替えをしたいなあ。 でも家具を買い替えるのは大変だし、 ファブリック類も結構高い。 だったら、ライトを変えましょう。 夜のお部屋の雰囲気を変えるのに 一番手っ取り早いのは照明を変える事。 暑くなってきたから今流行りのアジア風や さらりと和風に合うナチュラルテイストのあかりはないかな。 和紙や自然素材を使った照明は人気ですが、 職人技やアート系のものは高価です。

‥‥自分で作っちゃおうかな。

ありましたありました、 簡単な手作りライトの指南本。 床置きスタンドのほんわかあかりのつくりかた。 自分で作ったら燃えちゃうかも、という心配に対する注意、 ホームセンターで手に入れた部品で作るライト本体、 そしてお待ちかねお好みのシェードの作り方。 風船をふくらませて作るまんまる和紙シェードや 木の枝はっぱの陰影に富んだシェード、 凝り性のハンダづけワイヤーアートのシェードに ペットボトルのわっかにいろいろ貼るだけの簡単シェード。 紹介されるあかりだけじゃなくてこの本も いかにも手作りの素朴さ丁寧さが満ちています。

うちには小さなスタンドライトがあるから、 あれの笠をはずしてシェードだけ作ればいいんですよね。 どんなシェ−ドを作ろうかなあ、 今、庭の青紅葉も綺麗だし、ハーブも大きく伸びているし、 ハンダで付けるワイヤーワークは前からやりたかったし、 ‥‥と悩むうちにも夜は更けてゆきます。(ナルシア)


『あかりのレシピ』 著者:橋田祐司 / 出版社:マール社

お天気猫や

-- 2001年06月20日(水) --

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『クマのプーさんティータイムブック』

☆この本は、買わなくっちゃ。  
−紅茶や絵本、それから、イギリスが好きな人におすすめ−

おなじみのミルン&シェパードのクマのプーさん(→岩波書店) と、 おいしいティータイムのレシピの絵本。(→amazon) 小さなサイズが、さらにかわいらしさを倍加させる。

前々から、気になっていたのが、 近所の図書館にあったので、 お試しに借りてみた。 思った以上にかわいく、 パラパラとめくりながら、 目に付いたレシピを、 自然と作ってみたくなる。 だから、いつも手元に置いておきたい。

プーの物語から、 お茶や、おやつのほのぼの楽しいシーンを 案内してくれているのは、 紅茶のお店「カレルチャペック」の オーナー 山田詩子さん。 この絵本の中の たくさんのおいしいレシピは、 その妹さんの山田協子さんの作です。

「おいしいもの」をたくさん知っているのは、 幸せなことだなあと、 絵本に一杯詰まったレシピやら、 プーのお茶会を眺めながら、 しみじみ思う。 「おいしい顔」というのが、 かつてCMであったけれど、 そばに誰かいるから、 「おいしい顔」を見てもらえるんだよね。 ひとりでも、おいしいお茶はおいしいけれど、 ひとりで、ゆっくり飲む紅茶も好きだけれど。 お茶会は、ひとりでは開けない。 この絵本の素敵においしそうなレシピは、 (しかも、シンプルでカジュアルだ!) 仲良しで、わいわいとおしゃべりしながら、 楽しみたい。 言うまでもないことだけれど、 「おいしいもの」というのは、 レシピだけのおいしさじゃなくて、 それを一緒に楽しむ人が、 −それは、友達かもしれないし、恋人かもしれない。 あるいは、家族だろうし、これから、仲良くなっていきたい人たち。− いるということのすばらしさ。

プーに限らず、外国−特に英国−の絵本や物語には、 おいしいシーンがたくさん出てくる。 (おいしいかどうかはちょっと「?」だが、 有名なところでは、『不思議の国のアリス』のお茶会など) そんな、物語の中の"おいしい"シーンを辿っていくのも ちょっとしたお楽しみといえるかもしれない。

そんなことを考えながら、 お腹をすかせている私は、 楽しいお茶会の主催に、ちょっと意欲を燃やしつつある。

ティタイムについて / パンとトースト / スコーンとマフィンとクランペット / ジャムとバター / サンドイッチ / クッキーとビスケット / ケーキとペストリー

お腹が鳴ってくるでしょう? 梅雨の止み間に、お茶会をしませんか?(シィアル)


『クマのプーさん ティータイムブック』原案:A・A・ミルン / 絵:アーネスト・H・シェパード / 訳:山田詩子 / 出版社:BL出版

お天気猫や

-- 2001年06月19日(火) --

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『ウィッチ・ベイビ』

『ウィーツィ・バット ブック』シリーズ第2作。 主人公のウィッチ・ベイビは、 ウィーツィたち家族の暮らすコテージの玄関に 捨てられていた赤ん坊。 「黒い子羊」ウィッチ・ベイビは、 魔女ヴィクサンと、ウィーツィのパートナーである マイ・シークレット・エージェント・ラヴァー・マンの あいだにできた子どもだ。

この突拍子もない家族のなかで 成長してゆくウィッチ・ベイビの、自分さがしの 物語は、ウィーツィの少女時代のそれよりも、 せつなくて痛くて、熱い。 いつも事故や犯罪や災害の新聞記事を 切り抜いてはベッドサイドに貼り付け、 それでやっと眠れるウィッチ・ベイビ。 失敗ばかりしているように見えるけど、 何が本当にだいじなのか、 生まれつきわかっている不思議な女の子。 ウィーツィの本当の娘、チェロキーよりも どこかウィーツィに似ている ウィッチ・ベイビ。

この世界をのぞいている私たちは みんなそのことを知っているけれど、 教えてあげることはできない。 彼らがいずれそのことに気づいて、 ハッピーでクールになるってことも、 知っているから。(マーズ)


『ウィッチ・ベイビ』 著者:フランチェスカ・リア・ブロック / 出版社:東京創元社

お天気猫や

-- 2001年06月18日(月) --

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『ウィーツィ・バット』

ハリウッドに暮らす高校生の少女、ウィーツィと その友人ダークが探し求め、ついに見つける 新しい「家族」の神話。 ウィーツィにとって、他のなんにもいらない目標、 自分が何になればいいのか、それよりも 大切なものは「家族」さがしだった。

発表されるや全米でティーンの人気をさらった 『ウィーツィ・バット ブックス』の第一巻である。 私はこの本を、図書館の子供向けおすすめコーナーで 見つけ、ぱらぱらとめくっただけで借りてきて、 読み始めてから図書館の人が内容を知らなかった ことに気づいた。

ときに意表をつくファンタジックな急展開や社会問題にも ふれながら、主人公たちの撮り続ける映画のように 不思議な色彩にあふれ、映像的に進むストーリー。 COOLを合言葉に、1行ごとちりばめられたL.A.のライフスタイル。 だからとっても、カタカナの多い本でもある。

インディアンに「はまっている」 ウィーツィが探し求めた理想のパートナーの名は、 マイ・シークレット・エージェント・ラヴァー・マン。 もしもこの物語に、正面きって「悪」が入り込んだら、 これはまた類まれな都会のハイ・ファンタジーになるのだろう。

ある日、ウィーツィがとつぜん出会った マイ・シークレット・エージェント・ラヴァー・マンの 深い緑の瞳のことを考える。 「ジャマイカにいるのかな。ここにはいなさそうだもん」と 言っていたウィーツィの驚きを、なお想う。(マーズ)


『ウィーツィ・バット』 著者:フランチェスカ・リア・ブロック / 出版社:東京創元社

お天気猫や

-- 2001年06月15日(金) --

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☆『小説家を見つけたら』

今回は例外的に、「読み日記」ならざる「映画み日記」。 小説家の出てくる映画、ということで。

映画『グッドウィル・ハンティング』では数学の天才少年(白人)が、 本作では文芸の天才少年(黒人)が主人公。 みごとな対である。 どちらも、ある相手に出会って、天賦の才能を外に向ける。 ある相手──この場合は、ブロンクスで隠遁生活を送る カリスマ老作家、ショーン・コネリー演じるウィリアム。

人生、上から下は見えても、下から上は見えない。 頂上にいる者は、ふもとでアルプスの道を目指す日々を知っている。 いつか、どんなに短い期間であれ、ふもとの道をたどった ことがあるからこそ、頂上にいるのだ。

いやきっと、ほんの少し標高が上がってさえ、 見上げる目には霧がかかってしまうのかもしれない。 だから、前を歩く才能を理解できずに否定する。 だとすれば、お互いに理解できる存在というのは、 ほんとうに同じ標高に立つ者だけということになる。

しかも、頂上をめざす欲求は生まれつきである。 ただそう生まれついているのだ。 頂上を望まず、野で平和に、ある意味では聖なる生活を 送る欲求と同じに、それは誰にも止められない。

老人にとっての若者。 時間の頂上に老人はおり、若者は登り口にいる。 立っている標高(視線)が仮に等しくても、若者には経験がない。 かつて来た道は、そこに見えている。 見えているからといって、足元の大石小石を 踏み越えるには、若者の足で歩くしかない。 足をすべらせたときに、手を差し出すべきかどうか。 かつて選んだ分かれ道の、もう一方が見えないように 老人にとって、死の意味だけはわからない。

そして、出会いはフィフティ・フィフティである。 もしどちらかが道を登りすぎたら、 すぐに分かれ道がやってくる──心の旅でも、時間の旅でも。(マーズ)


映画『小説家を見つけたら』 監督:ガス・ヴァン・サント

お天気猫や

-- 2001年06月14日(木) --

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『陰陽師・付喪神ノ巻』

平安時代を描く。
なんといっても、このたびのブームの元祖は読み応えがある。 元祖やら本家やら亜流やら、いろいろあるらしいが。

陽が落ちて、野原をそのまま移したような庭を ながめつつ、蝋燭のあかる縁側で酒を酌み交わす── 陰陽師・安倍晴明と、貴公子・源博雅。 誤解を恐れずにいえば、 他人を容易に信じない天才肌の魔法使いと 他人をとことん信じる天才肌のミュージシャン貴族、 どちらも若くて美形。お互いがいることで救いを得ている。 何かというと一緒にいて、女性関係はどこ吹く風。 このコンビの成り立ちは、もともと非常に 少女漫画的な要素が強いと思う。

すでに私の想像するビジュアルは、岡野玲子の絵の世界と 完全に重なっているのだが、数年間青年誌に連載していて いまは少女漫画に移ったとはいえ、 岡野は本来、少女漫画のスターである。

作者公認でもあるし、おおかたの 読者にとっても、どちらが先でも良くなっているのだろう。 夢枕獏は、漫画が追いついてきたので 急いで小説の話を進めていると、この3作目の 後書きに書いている。

小説のほうには小説の、漫画には漫画の それぞれの作法でしか表現できない「なにものか」がある。 ちゅっと鳴く妖怪の声であったり、冷たい視線であったり。

そしてやはりこの小説には、 その時代、その場所に生きていた人々の、 鬼となってもまだ生々しい、想いが漂う。

短編集の随所に歌が読み込まれているのも一興。 その方面に造詣のない私でも、平安時代というものを 現代の横にあるものとして想像することができる。

ちなみに、私のお気に入り短編は、 鬼が歌を詠む「ものや思ふと……」である。(マーズ)


『陰陽師・付喪神ノ巻』 著者:夢枕 獏 / 出版社:文藝春秋

お天気猫や

-- 2001年06月13日(水) --

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『六番目の小夜子』 (2)

☆転校生はいつだって、ミステリアス。

私は固め読みが好きなようで、 週末の連休、恩田陸ばかり読んでいた。 別に意図したわけではないが、 手に取った順に、 『ネバーランド』→『球形の季節』→『六番目の小夜子』 という順に読んだ。 結果として、新しいものから、古いものへと遡っている。

確かに、 「不思議」は無しで、 小説として一番繊細で、 少年たちの心の奥底を掘り下げた、 「醸造」された完成度の高いものは『ネバーランド』であろう。

『球形の季節』と『六番目の小夜子』は、 同じスタイルと、共通するエレメンツがちりばめられた 二卵性の双子の小説だと思う。 噂話や伝説など、都市のフォークロアが、 物語の重要なベースとなっている。

『球形の季節』は、こなれている。 超常的な要素があるけれど、 非常にストーリーの流れがいい。 それに比べると、 『六番目の小夜子』は、著者のデビュー作で、 現在の版が、大幅に加筆修正されたものであるとはいえ、 流れに強引なところもある。 そういうこなれの良くないところが逆に、 読む方にも張りつめたものをもたらす。 一作目というのは、 「巧さ」より、「勢い」があるところがいいし、 アイデアも、斬新で、 やはり、物語の核心部分にせまる、劇中劇ともいうべき、 学園祭での、劇の上演シーンが面白かった。 NHKの少年ドラマシリーズで ドラマ化されていたことも知っていたが、 見てみたいと思いつつも いつものように、「何となく」見過ごしていた。 『六番目の小夜子』は、構成や仕掛けがいい。

実は、私の好きな順番は、 『六番目の小夜子』、『球形の季節』、『ネバーランド』 という順番である。 『六番目の小夜子』は、不思議と日常のバランス。 謎とその答えのバランス。 それらが、私にとっては、ちょうどであった。 楽しんで読めた小説であった。(シィアル)


「六番目の小夜子」(1)へ

『六番目の小夜子』 著者:恩田陸 / 出版社:新潮文庫

お天気猫や

-- 2001年06月12日(火) --

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『ネバーランド』

☆少年たちの透明な悲しみ

人生の中で、子供でいられる時間は短い。 その当然、子供であるべき時間をも、 子どもとして過ごすことが許されない少年や少女がいる。 子どもとしてあることが、 可哀想なほど、過敏な心を持ち、 何をするにしても、無邪気なままではいられない、 そんな子どもたち。 あるいは、周囲の大人たちによって、 傷つけられ、子どもであることを容赦なく、 奪い取られた子どもたち。

現実の世界はくすんでいる。 澱のように、どんどんと、日々の疲れが溜まっていき、 中野重治ではないが、 悲しみも、なんだか薄汚れて見えてしまう。

小説の中、 少年たちは、そのまだ薄い肩には 重すぎる秘密を担い、 ほんとうの思いを隠している。 人を傷つけることで、 さらに己を深く切り裂き、 胸を締め付けられながらも、 語りたいのに語りようのない、 秘められた悲しみには、 無頓着な風に笑う。 それでも、ひとりになれば、 思いの底に深く沈み込んでいくのに。

透明でしなやかで、 せつないけど、清々しい。

ただ、彼らが抱える悲しみを共有するには、 私は随分と遠くにいる。 悲しみの耐性があるとはいっても、 彼らより、もっと悲しい思いを 私はもう、知っているから。

最後まで書いて、 ふと、『永遠の』」(天童荒太 / 幻冬舎)を思い出した。

子どもでいられるというのは、 人生の中での、かけがえのない宝物だと、 今になって気付く。 子どもでいることも、結構しんどかったのに。

P.S. 著者によると、 『トーマの心臓』 (萩尾望都 / 小学館 )をやりたかったのだそうだ。 繊細できれいで、秘めた悲しみに沈む少年たち。 男子校で、寮生活で、古めかしい校舎。 現実には、なさそうで、やっぱりない、ネバーランドだ。(シィアル)


『ネバーランド』 著者:恩田陸 / 出版社:集英社

お天気猫や

-- 2001年06月11日(月) --

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『球形の季節』

☆思春期の悲しみとフォークロア

一時期、都市伝説に凝ったことがある。 そういうのがブームだったこともあるし、 私自身も「口裂け女」の洗礼を受けたことがあるからだ。 あの頃の空気は、ざわざわとしていて、 ざらついている。濁音の印象。

JRの駅の通勤ラッシュ。 人が次々と、駅から押し出されていく。 夥しい、人の列。 私も、その中の一人なのだが、 こうやって思い起こす時は、鳥の眼のように、 高みから、ちっぽけな人間を見下ろしている。 当時の鼻持ちならない高校生の傲った目線であり、 つまりは、それが、当時の私の悲しみだ。 日常というのは、ちっぽけなもので、 私も、その中の一粒にすぎない。 駅からそれぞれの目的地に急ぐ、 人々の顔が、判然としない。 その他大勢の人生なのだ。 そして、その一部。 そんな中、いつもと違う、一日があった。 それは一週間だったかもしれないし、 一ヶ月だったのかもしれない。 夏の頃か。 まことしやかに、「口裂け女」の話がささやかれる。

○月×日、駅前に口裂け女がいたとか。  
昨日、友達の友達の○○ちゃんが追いかけられたとか。  
○月△日くらいに、どこそこに現れるらしいとか。

こんな時に、女子校に通っている友達は情報通だった。 女子校ではもっとかしましく、噂が炸裂していたのかもしれない。 あるいは、彼女自身が、「オリジナル」の噂の源だったのか。 そして、もちろん、自分の学校の友達にその話をするのだ。 コピーはコピーを生み、 それぞれのフィルターを通り抜けた話は、 新たな「オリジナル」となる。

「口裂け女」の噂話は、それは噂ではなく、 確かに、リアリティのある、 まさにその瞬間が、現実であった。 ぬるい日常に、突然投げ込まれた非日常。 話が荒唐無稽であればあるほど、 非・日常度は高まり、 それによって、生き生きと、 つまらなかったはずの日常が息吹を取り戻していく。 もしこれが、(妥当なたとえ話が思いつかないが) シュガーコーティングされた神隠しの話なら、 ささいな悲しみに満ちた、このつまらない日常から、 さらっていって欲しいと、 当時の少女は願ったかもしれない。 連れ去られた向こうに何があるか分からない。 何があるか分からないから、夢想するのだ。 今と違う人生を。 あれが、思春期というものだったのだ。 もし、連れ去られたとしても、 もし、違う世界へと紛れ込んだとしても、 そこに住み着けば、それは日常となり、 だんだんと、ぬるく、停滞していくことを今は知っている。 そんな風に、年を重ねていったのに、 あの頃の悲しみがまだ、胸の奥に残っている。

『球形の季節』を読んでいて、 日常からTakeOffしたいと願った、悲しみを思った。 そう望む者もいれば、それを望まない者もいる。 ファンタジーの衣を取り除くと、 そういう思いの話なのだろうと、とりあえず、独り言ちた。(シィアル)


『球形の季節』 著者:恩田陸 / 出版社:新潮文庫

お天気猫や

-- 2001年06月08日(金) --

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『2000年目のプロポーズ』(2)

☆恋愛の醍醐味は?

時の彼方から現れた男性。 もちろん彼は、最初から「恋人」というわけではない。 むしろ、突然過去から降って湧いた男性に対し、 恐れやとまどい、まったく違う価値観や世界観に驚き、 お互いに反発しあう。 そういう二人が、さまざまな困難や事件に巻き込まれ、 一緒に乗り切っていくうちに、 やがて互いへの信頼感が芽生え、それが愛情へと育っていく。 当然、二人の距離が縮まっていく過程は、 長い、長い物語となる。 それが、この"タイムスリップな"恋愛物を読む醍醐味。

以前、取り上げた、これらのジャンル(!)の本は、 確かにどれもが分厚かった。 やはり、異世界から来た男性と、 うち解け心が通うようになるには、 それ相応の時間とエピソードが必要なのである。

だが、そういう意味では、 『2000年目のプロポーズ』は、薄かった。 これという大きな困難を乗り越えることなく、 割と簡単に、ヒロイン・メガンと魔神ギルガメッシュ(通称:ジル)は お互いに引かれあっていくのである。 今まで読んだ"タイムスリップな"恋愛物の中でも、 呪いをかけられた魔神とのロマンスというのは、 設定からして群を抜いて、ユニークな物だ。 なのに、ストーリーの平易さは、 「ロマンス」に落ち、それが成就することが前提の ハーレクインロマンスだからかもしれない。

じゃあ、おもしろくなかったのかと問われれば、 いや、面白かった、と一も二もなく、答える。 だって、ほんとに、面白かった。 ただ、アン・ライスといい、 リンダ・ハワードといい、 先に読んだ物が濃すぎたのだ。 あるいは、ジュード・デヴローは、 日本でこそ、翻訳されている本は1冊きりだが、 アメリカでは多くの本を出している、巧みな語り部のようだ。 読んだ順番は最後であったが、 この本は、"タイムスリップな"恋愛物の入門編、という位置である。 なかなかに、この世界も奥が深く、 ハードルは高いのである。

で、小さな発見。 過去から現れる彼らヒーローは、 結構、アルマーニやラルフ・ローレンがお気に入り。 ギルガメッシュしかり、ニコラスしかり。 まあ、揃いも揃って、伊達男なのである。 余計な話ついでに、 ヒロインのメガンという名。 今ひとつ、ピンとこなかったのは、 ジノだの、メガンだのという名に原因がある。 どうも、私の中ではロマンティック指数の低い名なのである。 けれど、メガンというのは、 流行の今風の名で、 イギリスの女性の名前Top10に名を連ねていた。 意外であった。 私の「日本の耳」に、馴染みがないだけであった。 でも結局、こんな風に今まで知らなかったことを 知り得たことで、私にとっては、かなりお得な本でもある。

やはり、この本は出会うべくして、出会った大切な本である。(シィアル)


『二千年めのプロポーズ』 著者:ダーリーン・スカレーラ / 出版社:ハーレクイン

お天気猫や

-- 2001年06月07日(木) --

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『桃花源奇譚』

☆贅沢な望みをいえば、さらに「ロマンス」も!

時代は宋。 もちろん、舞台は中国。 皇位継承問題と、桃源郷伝説。 命を狙われ追われる少年は白公子、 運命に導かれ旅する少女は陶宝春。 彼らを助け、共に旅する魅力的な面々と、 殺し屋や怪しげな仙術師、 さらには、あくどい宦官たちに、 西太后張りの恐ろしい皇后。 桃源郷の謎に近づくと共に、 戦いも熾烈を極めていく。

人物はもちろんのこと、 井上祐美子の描く中国は、いつも魅惑的だ。 今までに読んだ何冊かの本も、 いずれも宋を舞台とする。

私にとって、 中国史の中で、宋という時代は地味な印象で、 これといった魅力を感じられなかった。 「内憂外患」−それが、私の宋に対する認識。 内政では、文治主義に失敗し、 外交政策でも、失策を重ね、窮地に追い込まれていく。 どうにも、「薄い」印象の時代であった。 なのに、井上祐美子の語る「宋」時代は、 かつて、世界史の教科書で数ページ読んだことがあったくらいの、 そんなつまらない「宋」ではない。 確かに、大変な時代ではあったが、 人々が生き生きと生きている、血の通った「宋」である。 教科書には結果(宋の行く末)が出ているが、 誰もが、最初から負け試合をしているわけではないし、 それが負け試合だと分かっているにしても、 己の運命を賭けて、必死で戦っているのだ。 そういう、人々の、 いや、時代の、呼吸が伝わってくる。

冒険。裏切り。妖術。母恋物。 そして、若干の恋物語。e.t.c. 4冊には、さまざまなエンターティメントの要素と 宋の空気がたっぷり詰まっている。 毎月、次の巻が出るのがとても待ち遠しく、ハッピーだった。

それでも。 もっとロマンスも、堪能したいと思ったのも事実。 でもまあ、そう思う私が、かなり欲張りなのである。(シィアル)


『桃花源奇譚(全4巻)』 著者:井上祐美子 / 出版社:中公文庫  
(1)開封暗夜陣 / (2)風雲江南行 / (3)月色岳陽桜 / (4)東京残桃夢

お天気猫や

-- 2001年06月06日(水) --

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『二千年めのプロポーズ』 (1)

☆願いは叶うためにある。

・・・というのは、本書の主人公メガンのことであり、 この本を探し続けて、やっと手に入れた私のことである。

まず、最初に、いかに私がこの本を読みたかったのか、 切々と述べたい。

(1) 時空を越えた恋愛もの  (→ 詳しくはこちらを ) 私の特に好きな、 荒唐無稽の、ロマンティックなジャンルである。 今まで読んだこの系列のラブストーリーのヒーローは、 過去の人物(王侯貴族)であったが、 この本では、さらにすごく2000年前の魔神(しかも王族)である。 もう、これだけで、読みたくないはずがない。

(2) とにかくおもしろいという風評 以前に、このジャンルを検索した時、 偶然にHitして、この本自体を知ったのだった。 これを読んだ人たちの感想は、 誰もが、とてもおもしろいと、満足度が高かった。 念のため、さらに、 amazon.comで、 原作"A man For Megan"をチェックしてみる。 すると、やっぱり、評判がいいようで、★★★★★であった。 これは、必読の一冊であると、確信に至る。

(3) レアなハーレクインもの この本を手に入れるべく、調べていて分かったのだが、 ハーレクインは一度、買いそびれると、手に入れるのが困難らしい。 この本の発売を知ったのが、発売後すでに、2-3ヶ月。 通常の本なら、問題なく手に入れることができるのだが、 ハーレクインでは、すでにこの時点で、手遅れという状態。 ハーレクインは、雑誌のように、その発売時期に入手しなければ、 すぐ、棚から入れ替えられてしまう。 おまけに、出版社にも、ほとんど在庫をおいていないということで、 とにかく、入手が難しいという。 以後、大きな書店に行くたびに、ハーレクイン専用の棚を見て回った。 しかし、常に最新刊のみが並ぶだけであった。 もちろん、古書店も探した。 近所の古本屋さんのハーレクインの棚にも、探している本はなかった。 だから、どうしてもなければ、最終的には、 洋書(amazon.comで入手可)でもいいから、 とにかく、何としても、読みたいと、そう、決意していた。

そして、先日(2001/05/31)。 灯台もと暗し。 実家の側のショッピングセンター内の小さな書店は、 はっきりいって、営業努力がなされていないので、 書棚の本の回転は良くない。 黄ばんだ文庫本やら学参が、埃をかぶっている。 ふと、目の前の書棚に目をやると、 今までに見たこともないほどの大量の、ハーレクインが! おお!!と、期待に目を光らせ、探そうとする前に、 『二千年めのプロポーズ』が、 くっきりとボールド体となって、目に飛び込んできた。 幸運に胸が打ち震えた。 という言葉が決して大げさでないほどに、 私はうれしかった。 → 物語そのものについては、次に続く。 (シィアル)


『二千年めのプロポーズ』 著者:ダーリーン・スカレーラ / 出版社:ハーレクイン

お天気猫や

-- 2001年06月05日(火) --

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『フィツジェラルド短編集』

「氷の宮殿」「冬の夢」「金持の御曹司」「乗継ぎのための3時間」「泳ぐ人たち」「バビロン再訪」
ここに収められた短編である。 タイトルは多くを語る。 代表作の「華麗なるギャツビー」を読んでいないのは めずらしいのかもしれないが、いつか読もうと思いながら。

20世紀前半のアメリカ社会、 そこに本当に生きていたかのような人々。 いや、これらの物語を読んだアメリカ人の多くが、 そこに自分たちの社会の夢の香りを読み取ったからこそ、 フィッツジェラルドは「アメリカ」なのだろう。

私は自分が南部育ちなもので(笑)、 「氷の宮殿」で、結婚のために北部の都会へ 行きながら、ジョージア州の南のはしの町が 忘れられなかったサリー・キャロルの話が好きだ。

そういう、両極の場面を行き来する人々が 主人公に選ばれている、古きよき亜米利加の社会。 社会のピラミッドの上のほうの、 ちょっと今の日本からは想像できないような。

世間に求められたハッピーエンディングに 迎合せざるを得なかったという作家のジレンマも 偶然過ぎる男女の再会といった結末に 感じられはするけれど、この時代の多くの職業作家は、 そうした制約を受け入れ、課しながらも、 だからこそそのなかに自分にしかできない 文学作品としての輝きを焼き付けることに、 いっそう熱をいれたのではないだろうか。(マーズ)


『フィツジェラルド短編集』 著者:フィツジェラルド 翻訳:野崎孝/ 出版社:新潮文庫

お天気猫や

-- 2001年06月04日(月) --

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『人魚とビスケット』

☆奇妙な味わいの物語。

『人魚とビスケット』−不思議なタイトルである。 ちょっと、ファンタスティックなものを想像したが、 海洋冒険(遭難)サスペンスである。

 第二次世界大戦のさなか、  
避難民をのせた船がインド洋で撃沈され、  
ゴムボートで、運命を共にすることになった四人の男女。  
それぞれ、「人魚」、「ビスケット」、  
「ブルドッグ」、「ナンバー4」と、仮の名前で呼び合う。  
思い出したくもない、恐怖に満ちた、漂流の日々。  

苦しみの果てに、やっと救助され、  
忘れるために月日は流れたのたのに。  
1951年、ロンドンのデイリー・テレグラフ紙に  
掲載された個人広告。  
「ビスケット」が「人魚」に会いたいと呼びかける奇妙な広告。  
忘れたい過去ほど、執拗に、  
平穏を願う現実の日々を、追いかけてくるのかもしれない。  

漂流中の四人に何があったのか。  
今、過去の出来事をめぐって、何が起ころうとしているのか。

この本は、随分前(1955年の作品,1957年刊行)の小説が、 最近、復刊されたものである。 古さは感じない。むしろ、風変わりな味が新鮮ですらある。 書店の本棚には、思いもよらない、おもしろい本が 偶然、手に取られる瞬間を待っている。 手に取り、撫でさすり(!)、実物を愛でる楽しさは、 残念だが、Web上の書店では味わえない。 あの日本屋さんに行って、平積みにされた山を見なければ、 読むことのないままだった。

本との出会いは、必然と偶然。 基本的には、Web上の書店は好きだが、 本屋さんには、本屋さんにしかない、喜びがあるのだ。(シィアル)


『人魚とビスケット』 著者:J.M. スコット / 出版社:創元推理文庫

お天気猫や

-- 2001年06月01日(金) --

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☆乱読では、何も残らない。

4月、5月。 時間を埋めるために、本を読み続けた。 あまりに、本を読みすぎたために、細部が抜け落ちていく。 じっくり味わうべき場面でも、先を急いで読み飛ばす。 さて、最近、この「夢図書」に、本の感想を書いてなかったので、 じゃあ、私がいっぱい本を読んだので、引き受けましょうと、 仲間内で、言ってはみたものの、 さて、何を書こうか。 いや、何を読んだっけ。 と、心許ないことこの上ない。 また、似たような本をこれでもか、これでもかと、 いっぺんに読み続けている。 もともと、私の読書にはそういう傾向はある。 そのとき興味あるジャンルの、 似たような本を固め読みするのだ。

「情報」をストックするという意味では、 こういう読書は、正しい(らしい)。 できるだけ関連した書物を一気に読むことで、 数冊の本の内容を、本を越えて、 体系的にとらえることもできるのだ。 だが。 情報収集のための読書ではない場合、 あまり、いい本の読み方ではなかった。 一言で言うと、もったいない本の読み方。 じっくりと、一つの物語を掘り下げるでなし、 ただ、ストーリーを追っているだけであった。 いや、むしろ、ストーリー云々よりも、 ファンタジーの文法というか、 「普遍的な」世界観というものが、 数種類の類似テーマの本を読んでいて見えたような気がする。 まあ。 それはそれでおもしろいことであった。 主人公の気持ちとリンクする間なく、 作者の主人公の動かし方の方にリンクしてしまうのは、 物語の中に入り込めずに、 外から物語の構成を眺めているからだろう。

物語の中に埋没する読書。 私にとっては、最高に贅沢な読書である。
最近では、なかなかそうもいかないが。(シィアル)

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