今でこそ福岡も民放テレビ局が5つになり、ほとんどの放送が東京と同じ日時に見られるようになったが、昔は悲惨であった。 ぼくが小学生の頃は、まだ日テレ系とテレビ東京(当時東京12チャンネル)系の放送局がなかった。
ぼくは当時プロレスが好きでよく見ていたのだが、リングなどの専門誌はG.馬場やA.猪木の日本プロレスの記事が中心だった。 福岡には日テレ系の放送局がなかったので、日本プロレスをやっておらず、TBS系の国際プロレスしか見られなかった。 華やかな馬場や猪木の中心の日本プロレスに比べると、サンダー杉山や豊登中心の国際プロレスは子供心にも地味に見えた. 16文やコブラツイストの代わりにこちらで見られたのは、雷電ドロップやさば折りであった。 そういえば、シャチ横内という人の十字チョップという訳のわからない技もあった。 デストロイヤーやボボ・ブラジル,フィリッツホン・エリックなどは、雑誌でしかお目にかかれない。 かなり悔しい思いをしたものである。
そういう状況も小学6年の秋には改善された。 日テレ系の福岡放送が開局したのだ。 これで念願の日本プロレスが見られるようになった。 金曜夜8時、あの「チャーンチャ、チャーンチャ、チャッチャチャッチャチャン・・・」というテーマソングの嬉しかったこと。 G・馬場がいる。A・猪木がいる。大木金太郎やヤマハブラザーズがいる。まだ吉村道明も現役だった。 でも不思議に思ったことがある。 国際プロレスを見慣れたぼくには、日本プロレスのマットが狭く見えたことだ。 特にG・馬場が大きすぎるので、そう感じたわけではないが。
さて、福岡放送の開局で面白いことがあった。 アニメ(当時はテレビマンガといった)「巨人の星」のことである。 福岡放送が開局するまで「巨人の星」は、TBS系のRKB毎日で金曜午後6時30分からやっていたのだが、これはもちろん一週遅れの放送だった。 福岡放送開局と同時にRKBは打ち切ると思っていた。 それが2〜3ヶ月継続したためにこの事態が起きた。
これは、ぼくたちの小学校(いや県内全部の小学校でそうだったのかもしれない)では大事件だった! 「巨人の星」は日テレ系では土曜午後7時からやっていた。 この時間帯の放送しか見られない人は、星飛雄馬の一球を一週間待たなくてはならなかったのだが、福岡の人間はこれを翌日に見られたのだ。
この事態が起きてから、「巨人の星」を見る方法が三通り出来た。 一つは、毎週2度見る方法。 前回の復習をして本編に入る、という見方だ。 この方法が一番多かったような気がする。
もう一つは、毎週1度(福岡放送かRKBかで)見る方法。 これは少数派だった。塾通いの人がこの方法をとっていたようだ。
最後は、一週おきに見る方法。 この事態を最大限に利用する方法で、週2度よりも新鮮味がある。 ただしこれをやってしまうと、学校で話題についていけなくなるし、何よりも学校ナあらすじを聞いてしまうので毎週見るのと何ら変わりはなくなってしまう。いや、中途半端な情報のためそれよりもさらに面白さは半減する。 ということで、この方法を取る人は、ぼくの周りではいなかった。
それから20年後、TVQ(テレビ東京系)開局の時はこういうことはなかった。 唯一(?)の人気番組「開運!なんでも鑑定団」は、TVQ開局後に始まっている。 もし、開局時に既に始まっていたのなら、こういうことになったかもしれないが。
それにしても、「巨人の星」が本家日テレ系の福岡放送で始まってからも、しばらく放送を続けていたRKB毎日の意図はなんだったのだろうか。 今でも、ぼくの中では謎なのである。
ぼくはかなりひどい白髪頭だ。 顔は若いつもりだが頭がいかん。 白髪は二十歳前後から出始め、三十歳の頃はブラックジャック状態だった。
原因は色々考えられる。 まず遺伝。 これはどうしようもないだろう。
次にシャンプー。 ものの本を読むと、今のシャンプーは髪を痛めると書いてあった。 毎朝洗っていたので良くなかったのだろう。
最後に白髪染め。 効果覿面だった。 三十代後半に染めていたことがある。 皮膚の炎症を起こしたのでやめたのだが、色が落ちてくると今まで黒かった所までが白くなっていた。
ここまできてやっと『今後は時間がかかってもいいから、地道に白髪と取り組もう』と思うようになり、「安心」とか「爽快」とかいう本に目を通すようになったのだった。 そこに書いてあった、「米ぬか」「きな粉ドリンク」「黒ごま」「アロエ」「しょうが」といろいろやってみたが効果は現れなかった。 いや、多少はあったのかもしれないけど、あまりに白髪が多いので目に見えなかったのかもしれない。 シャンプーもシャボン玉の石鹸シャンプーに変えてみた。 おかげで髪は健康になったみたいだが、白髪は治らない。 髪を引張って血行をよくすれば治ると言われてやってみたこともある。 が、やりすぎて頭が変形したように思える。
ある時開き直って「おれは白毛人だ!」と言うことにした。 他人から「頭が真っ白やね」と言われても「これは民族の血が流れているからしかたがない」と言っている。
とはいえ、何かいい方法が本などに載っている時にはすぐに飛びついてしまう。 ちょっと前にやっていたのが、オーストラリアで開発されたヘアオイルで、これを使うと毛根に栄養が与えられ、髪が元の色に戻っていくということであった。 取引先の人が「実験台になってくれ」と言うので引き受けたのだが、なぜかしっかり料金を取られた。 発売開始が1957年で全世界1000万人の愛用者がいるということだ。 その愛用者のほとんどが治っているらしい。 しかし考えてみると、1957年というのはぼくが生まれた年で、そんなに長い間愛用されていて、しかもそのほとんどが治っているというのなら、なぜもっと早く日本で話題にならなかったのだろう。 毛生え薬とかはすぐに話題になるのに。 「白髪は毛があるからいいじゃないか」という潜在的なものでもあるのだろうか?
早速ぼくはこのヘアオイルを使っていることをみんなに公表した。 このヘアオイルは約3週間で効果が現れるということだった。
一週目は何も変化がなかったようだった。 ところが、使って2週目に突入した時に「髪が黒くなってきたみたいよ」などと言われるようになった。 「冗談やろ。そんなに早く効果が出るわけないやん」と答えていたが、内心は喜んで真っ黒い頭の自分を想像していた。 また、会う人会う人に「最近、おれ なんか変わったと思わん?」などと言っては、頭が黒くなったのを認めてもらおうとしていた。
3週目に入った。 「やっぱり、黒くなっている」と言われた。 さらに、真っ黒くなる自分の頭を想像した。 さあこれからだと思った時、ヘアオイルが切れてしまった。 「一ヵ月半は持つと言ったやないか」と取引先に連絡した。 取引先は「一日どのくらいお使いですか?」と聞いてきた。 「片手の半分くらい」と答えると、「それは使い過ぎです。人の2倍は使っていますね」と言われた。 使い過ぎとは思わない。 全体に行き渡らせようとするとそのくらいの量が必要になってくる。 結局3週間で終わってしまった。
このヘアオイルは1万円する。 安月給のしがないサラリーマンにとって月1万円は痛い。 『まあいいや、中途半端に治って霜降りみたいな頭になったら、かえって老けて見られる』と自分を慰め、続けることを断念した。
で、今はまた白毛族になっています。 民族の血だからしかたがない、か。
いろいろな本を読んでいてわかったのだけど、江戸時代は予想に反してわりと自由だったようだ。 獄門はりつけというのはめったになかったというし、思想も自由(キリスト教義を除いては)だし、町民は洒脱だし、生まれ変われるなら江戸時代がいいと思っている。 人々は日の出とともに起き、日暮れとともに眠る、そんな鳥みたいな生活をしていたようだ。 これが一番無理がなく、疲れないんですよね。 やはり江戸時代が一番だ!? でもよく考えてみると、政治の中心地で見る今の時代区分方式で言えば、実は今も江戸時代なんですね。 おそらく何百年か後にはそうなっているだろう。
考古学を無視して書いていきます。 縄文時代のイメージというと、「縄文土器、採集・狩猟」が主であろう。 縄文時代は一万年続いたといわれているが、一万年もの間、土器の製作や採集・狩猟だけの停滞した生活を送ったわけではないだろう。 なぜなら人間というのは、よりよいものを求める実験好きな動物だからだ。 そこには文学や芸術や科学もあったはずだ。 「何も残ってない」という理由だけで、原始時代だと決めつけてはならないと思う。 それは、「解明されてないから」という理由だけで、超常現象を否定するのに等しい。
縄文時代、今の歴史時代より遥かに長い年月、きっと今に残るものがあるとぼくは思っていた。 最近、ようやくその答が見つかった。 彼らは実に貴重な遺産を後世に残してくれているのだ。 それは、生命にかかわる一番大切なもの。 そう、「水」である。 彼らは彼らの科学で「山は樹を生み、樹は水を生む」という理を知っていた。 彼らは、いたるところに山を造り、樹木を植え、水を生んでいった。 (よく山に行くと、神社や祠を見かけるが、あれは造山や植樹の記念碑だとぼくは思っている) それにしても、貴重すぎる遺産だ。 現代の浅はかな知恵で、破壊してもよいのだろうか?
浦島太郎伝説、もしかしたら本当にあったことではないかと思い始めている。 最近ある人から聞いた話である。 その人が幼いころ、一人の女の子が行方不明になったそうだ。 裏山に遊びに行ったまで情報を得られたので、町内あげての大捜索が行われたが、ぜんぜん見つからない。 二日が経った。 町内の人が諦めかけていたとき、山道をその女の子が降りてきた。 多少スリ傷などはあったが、いたって元気だった。 その子に事情を聞いてみると、「山に遊びに行って、ある女の子と出会った。その子と二時間ほど遊んでいたが、日が暮れてきたので帰ってきた。」ということだったらしい。 それを聞いて、浦島伝説もあながちうそではない、と思い始めたわけである。 そういうことって本当にあるんだ。 ぼくは超常現象を否定しないから、素直にそう思います。
余談だが、竜宮城の乙姫様の衣装、昔から絵本等でイメージされている衣装のことだが、ぼくにはどう見てもチマチョゴリに見えるのだが…。
今の歴史が始まって以来最悪の出来事といえば、1945年8月6日と8月9日の米軍による原爆投下だろう。 このことに関して、米国は一貫して、戦争を早く終わらせるためとしていたが、何をかいわんやである。 日本人の中には「犠牲となった人には申し訳ないが、あれは仕方のなかったことなんだ。戦前誤った道を歩いていた日本を、米国が正しい方向に導いてくれたのだから。原爆はそのための一つの手・にすぎない」という人もいる。 騙されるな!! 奴らは、属う種類の原爆を広島と長崎に降らせたんだよ。 これは戦争終結のためというより、実験じゃないか。 戦争終結のためなら、広島に落とした後に、「このまま戦争を続ければ二度目もあるぞ」と強く警告すればよかったはずだ。 日本の降伏後、上陸した奴らは広島と長崎に急行し、原爆が生態系に与えた影響を克明に調査したはずだ。 いや、今もまだ調査しているのかもしれない。
もう一つ言えることがある。 米国は日本人を動物と同等に見ていたということだ。 何十万人の人間を人体実験の尊料として使い、何も悪びれずおれるというのはそう思われても仕方のないことだろう。 とにかくドイツやイタリアには用いなかったのだから、少なくとも人種差別がそこにはあったはずだ。
今から数千年後、今の歴史を失った後の話である。 ある考古学者が、我々の時代の地層を調べていた。 この学者は以前、その地層から偶然民家跡を発見し、そこから発掘された茶碗や湯呑を見て、この時代も縄文や弥生と同じく土器を中心とした生活が営まれていたとして、「陶磁時代」と名づけた有名な学者であった。 「なんだこの鉄の線は?」 見ると、二筋の鉄が道のように張り巡らされていた。 その後、その鉄の道は日本中いたるところで見つかった。 「先生、何でしょうか、この鉄の道は?」 「うん、私の判断したところによると、これは城壁の跡だと思われる。おそらく外からの侵入を防ぐための。」 翌日の新聞は大々的に発表した。 「あの鉄の道は、古代の城壁の跡だった!」と見出しの打たれた記事には、「この張り巡らされた鉄の道を見れば、その当時日本がいくつもの国に分かれていたことが理解できる」と書かれていた。 このことは学会に発表され、その後定説になった。 かくて我々の時代は、JRや私鉄の線路の発見のせいで、卑弥呼の時代と同じ扱いとなってしまった。
さて、その後その考古学者は、東京と名古屋と大阪と福岡に屋根付きの巨大な広場を発掘した。 「おお、これは古代の宗教の祭祀場に違いない。ここは神聖な場所だ。おそらくその当時の日本は大きく分けると四つの国に分かれていたのだろう。そして、その国の首都にはこういう大きな祭祀場がある、ということがわかった」 かくて、ドーム付きの野球場は、その学者のせいで宗教の場とされてしまった。
※現在の考古学では、何か施設が発見されると、軍事施設や宗教の場になってしまいます。 それ以外に人間の営みはなかったのでしょうか? もしかしたら、軍事施設とされているところは実は古代のテーマパークの一部で、祭祀場とされているところは古代の大宴会場だったりして。
十七条憲法、どうして今の法律家や歴史家は、この憲法を重要視しないのだろうか。 三法−仏法僧−のことさえ解決すれば(つまり政教分離)、今でも十分に通用する憲法だと思う。 三法は、生きがい・教養・他人を尊重する、に置き換えたらいいだろう。 おそらく太子もその意思だったのじゃないだろうか。 伊藤博文の英独受け売りの安直な明治憲法、アメリカ押し付けの現憲法、どうしてこの二つだけを憲法としているのだろう。 どうして、わが国の聖人が作った尊い遺産を無視するのだろう。
漢の昔、かの劉邦が「法は三法」と言ったが、わが国の法は「和」のみでいい、とぼくは思っている。
【1】 江戸の昔から、邪馬台国の場所について、いろいろ論争がなされているようです。 ぼくの結論から言うと、邪馬台国はなかった。と思っています。 いや、邪馬台国という国名がなかったのです。 邪馬台国、いかにもうさんくさい名前でしょう? だいたい「文字もなかった(ぼくはあったと思っていますが)」とされていた時代に、漢音の国名なんかあるわけないじゃないですか。 「魏志倭人伝」これがまたうさんくさい! 当時の大陸は魏呉蜀、いわゆる三国志の時代です。 そんな三国鼎立の一触即発の時代に、東方の僻地に調査を命じられる奴なんて、ろくな奴じゃなかったはずですよ。 一応、調査には来たんでしょうね。 おそらく彼は一番近い九州にたどり着いたんだと思います。 そこで、「ここはなんという国であるか?」と尋ねたのです。 そこの住民は「ヤマトったい」と九州弁で答えたのです。 これを聞いた調査員は長居もせずに、本国に帰ってしまった。 ろくな奴じゃないから、道程も適当に報告し、その国名も聞いたまま「邪馬台の国」と報告した。 と、いうことだとぼくは思っています。
【2】 卑弥呼というのは、天照大神のことだと言う人がいる。 これは当たっていると思う。 ただ、「邪馬台国の女王」だとは思ってはない。 おそらく、例の調査員が「どういう国なのか?」と尋ねたとき、「ヤマトったい」の人がわが国の神話を語ったのだと思っている。 例の調査員は、その話を現実の話だと勘違いしたのだと思う。 そうであれば、そいつのおかげで日本の歴史は捏造されたことになる。 返す返すも、ろくでもない奴である。
一ヵ月半はあっという間に過ぎていった。 結局このバイトは、以上のようなことの繰り返しで幕を閉じた。 今考えると変化のない毎日だった。 でも、前にも書いたが、ぼくはこの仕事が気に入っていた。 社会に出る感触を肌で味わっていた。 給料のありがたさを知ったのも、この時が初めてだった。
バイトが残り一週間になった頃から、「これが終わったらどうする?」とかいう話をSさんやIKなどとしていた。 Sさんは「ここが終わったら、旅に出る」と言っていた。一つのバイトが終わるといつも旅に出ているとのことだった。 IKは「すぐに就職を探す」と言っていた。 ぼくはそこからのことを考えられずにいた。 Sさんみたいに旅に出ることも、IKみたいに就職を探すことも、ぼくには考えられなかった。 何かやり残しているような気がしてならなかった。 結局は「また流れに任せて生きてみよう」というところに落ち着いた。 ラジオから、ふきのとうの「風来坊」が流れていた。
完
さて、この駐車場で一番暇だったのは、警備員と警察官だった。 警備員はいつも駐車場の中をうろうろしていた。 よく「今日は暇だったから、この中を○周しましたよ。ははは」と言っていた。 その間、ぼくたちは客との格闘をしていたのだ。 「あの人は何の警備に来とるんやろう?」と、よく言っていた。
一方、警察官は土日祭日だけの登場だったが、仮設事務所の机の前でふんぞり返っていた。 何もせず、煙草ばかりふかしていた。 おかげでサブリーダーのシャツは焦がすし、ろくな人たちではなかった。 駐車場内で接触事故が起こった時も、「またヘタクソがぶっつけやがって―」と言いながら、事故処理をしていた。
仕事の内容は先に書いたとおりで、簡単に言えば駐車料金をもらう仕事だった。 入場口で車を止め、「駐車料金300円になっております」と言い、料金をもらうのだ。 先にクレーム処理と書いたのは、この駐車場の存在はポスター等で謳っていたが、駐車料金のことを書いていなかったために起こった。 すべて市の責任である。
入る客入る客に「ええっ!? ここは駐車料金取るんか!? そんなことどこにも書いてなかったぞ!」と言われ、いちいちそれに応対していかなければならない。 土日祭日ともなると入場者数も多くなり、すぐに駐車場付近は渋滞になった。 これもポスター等にちゃんと掲載していたら、客とこちらのやりとりの時間分の渋滞は避けられたのかもしれない。
あまりに「駐車料金がいるんか!?」といわれるので、ある日(たしか雨の日だったが)とうとうぼくは切れてしまって、「どこの世界に駐車料金を払わんで駐車できるところがあるかー!?」と大声で怒鳴ってしまった。 その客も頭にきたのか、車から降りてきてぼくに掴みかかろうとした。 たまたまそこに警備員が通りかかったため、その客は警察と勘違いしたのかすぐに車に戻り、300円を払って駐車場の中に消えていった。 おかげで大事には至らなかった。
また、こういうことがあった。 元々、その駐車場は西鉄の土地を市が借りた臨時のものだった。 ある日、大分ナンバーの高級車が入ってきた。 ぼくはいつものように「駐車料金300円いただきます」と言った。 すると、その車に乗っていた中年のおばさんが騒ぎ出した。 「まあ、ここは駐車料金取るんね。そんなこと聞いてなかった。さっそく○○(北九州市長)さんに言わないと」 「いや、この土地は西鉄の土地だから、市とは直接関係ないですよ」とぼくは答えた。 「じゃあ、××(西鉄社長)さんに言わないと。こんな所で金儲けしてるなんて」とおばさんは言った。 この時もぼくは頭に来て「市長でも社長でも言ってください! とにかく300円払って下さい!」と言った。 そのおばさんは、ブリブリ文句を言いながら300円を投げるようにしてくれた。 シャトルバスに乗ってからも文句を言っていた。 バスの運転手さんもムッとしていた。
それから何時間かして、駐車場を閉める間際にそのおばさんは戻ってきた。 笑顔でバスから降りてきたのだが、会場に忘れ物をしたらしく、また騒ぎ出した。 「会場に戻って下さい」と運転手さんに掛け合っていたが、「もうこのバスは戻りません」と言って相手にしなかった。
今度はぼくたちの所に来て騒ぎ出した。 ぼくたちも相手にせず、「もうここは閉めますよ。早く車を出して下さい」と言って、あとは知らん顔をしていた。 おばさんはしぶしぶ車に乗り込み出て行った。 ぼくたちは、「いい気味だと言い合った。
この駐車場のメンバーは、バイトが5名警備員が1名の計6名だった。 さらに土日祭日には警察官2名が参加した。 すべて男で、仮設の事務所はいつも狭かった。 バイトのリーダーは大手企業を定年退職した人がやっていた。 サブリーダーは塾の先生。
その下にぼくを含めた若手3人がいた。 若手の一人Sさんはぼくより一つ年上で、今で言うフリーターをやっていた。 この人もぼくと同じく中原中也のファンであった。 よく中也論を闘わした。 また、マンガがいかに人生において役に立つか、を教えてくれたのもこの人だった。 若手のもう一人IKはぼくと同い年で、家が近かったせいもあり、すぐに仲良くなった。 このバイトの間、ぼくはいつもこのIKと行動をともにした。 IKとは、その後10年近く付き合いがあったが、IKが結婚してからは会っていない。
古い話なのでよく覚えていないが、中国展のバイトは9月10日前後から始まったと思う。 本番が9月15日からだったので、その約一週間は研修期間になっていた。 この研修期間のことは何も覚えていない。 たぶん大した研修ではなかったのだろう。
そこ仕事の割り当てが行われたのだが、ぼくの仕事は駐車場の整理だった。 勤務地は、小倉駅前の会場から4??5km離れた所だった。 そこは臨時の駐車場で、来場客はそこに車を置いて、シャトルバスで移動するようになっていた。 駐車料金は300円だった。 この駐車料金をめぐってクレームが続発し、ぼくたちはその応対に明け暮れした。 結果的には、駐車整理とは名ばかりで、クレーム処理がぼくたちの仕事になった。 しかし、ぼくはこの仕事が気に入り、約1ヵ月半休まずに働いた。 いや、仕事が気に入ったというより、仕事の出来る喜びを味わっていたのだろう。
国旗掲揚台事件があってから何日か後、ぼくはバイトを辞めた。 別にクビになったわけではなく、次のバイトの採用が決まったからだった。 でも、嫌気がさしていたのは確かだ。 結局警備のバイトは8月から9月の中旬まで、競艇の開催日が1週おきにあるため実質3週間働いたことになる。 やる気のなさから抜けきれなかったために、このバイトは何も得るものはなかった。 また、浮いた存在になってしまっていたせいか、人間関係も築けなかった。
さて、このバイトを辞める前に、ぼくはあるところの面接を受けていた。 「北九州市政だより」で募集していた中国展のバイトだった。もちろん市の仕事だった。 期間限定だったため始めは躊躇したが、とりあえず受けてみようという気になったのは、先に書いた通り警備のバイトに嫌気がさしていたためだが、それと同時に警備会社の面接に受かった時の感触を忘れないうちにもう一度味わいたかったというのもあった。 つまり勝ち癖をつけたかったのだ。
面接には汚いなりをしていった。 サンダル履きで、ジーンズを捲り上げ、首にはタオルを巻いて面接に挑んだ。 面接は5人単位で行われた。 一人一人に質問をしていった。 ぼくへの質問は「体力がありそうですねえ」だけだった。 ぼくは「はい・・・」と言っただけだった。 次の人へ質問は移り、およそ10分ほどで5人の面接は終わった。 他の人への質問はぼくよりは長かった。
おそらく落ちただろうと諦めていたら、8月末に採用通知が来てしまった。 まったく、5月に受けた26回の面接はなんだったんだろう、と思わずを得ない。 ぼくはこの時から現在に至るまで、バイトを含めて二十数回の面接を受けたが、落ちたのは、失業保険を受けるためにたてまえの面接をやった2,3度ぐらいで、あとは全部受かっている。 中国展の面接に合格したことが、今でも大きな自信になっている。
自販機の仕事は本当に退屈だった。 BGMにポール・モーリアの「オリーブの首飾り」が繰り返しかかっていた。 このときから、ぼくはこの曲が嫌いになった。 この曲を聞くと、大半の人はマジックショーを思い浮かべるだろう。 でも、ぼくは夏の競艇場の自販機を思い浮かべる。
「オリーブの首飾り」を午前10時から午後3時まで聞いて、そのあと4時半に帰るまで場内の後片付けや清掃などをする。 その中に国旗を降ろすという仕事があった。 国旗掲揚台から国旗を降ろすという単純な仕事なのであるが、ここでまたぼくは問題を起こした。
ある日「国旗を降ろしてきて」と例の上司から言われ、ぼくは事務所の2階にある国旗掲揚台に行った。 降ろそうとするとハンドルが回らないので、事務所に戻り「あのー、ハンドルが回らないんですけど」とぼくは言った。 上司は「そんなことはないやろ。力を入れんと回らんよ」と言った。 「力は入れてるんですけど」 「じゃあ、力の入れ方が足りんとよ」 「そうですかねぇ」と言って、ぼくは2階に行った。 やはり回らない。 また上司の顔を見るのが嫌だったので、今度は力任せに回してみた。 すると、真鋳で出来ているハンドルが折れてしまった。 『あーあ、どうしよう』 とりあえずぼくは事務所に戻り、上司に報告した。 「えぇっ!? 折れるわけないやろ。真鋳で出来とうのに」と言いながら上司は2階に向かった。 「あ??あ・・・ 何で折れたん?」 「力を入れて回したらこうなったんです」 「力がありそうに見えんのやけど・・・ しょうがない。もういいよ」と上司は憮然とした顔で言った。 その日以来、国旗は降りなかった。 バイトをやめて1ヶ月ほど後、この競艇場の前を通ったことがある。 競艇期間ではなかったのに国旗はあがっていた。
さて、求人チェックは毎日やっていたのだが、なかなかこれはというバイトに巡り会わない。 7月末、ノイローゼ生活に飽きてきた時に一つの求人広告を見つけた。 A競艇場の警備員募集だった。 競艇の開催期間に人員整理をする仕事だった。 簡単そうな仕事だと思ったぼくは、早速その会社に連絡を取った。 そして2ヶ月ぶりに面接を受けた。 結果は採用だった。 履歴書を見るなり「来週から来て下さい」と言われた。 「何でこんなに簡単に受かるんだろうか? 前の26回はなんだったんだろう?」とぼくは思った。 とりあえずそこでバイトすることにした。
警備員といっても、周りは年寄りばかりだった。 二三人ほど若い人間がいたが、休憩中にいつも本を読んでいるぼくを見て「あいつ変わっとる」などと陰口をたたいていた。 そいつらとは友達にならなかった。 さて仕事のほうはと言えば、これがまた退屈な仕事で、入場券の自動販売機の前に立って見張りをするだけだった。 これを30分して15分休憩する。一日この繰り返しだった。 最初は、開場前入場ゲート前に並んでいる客の整理をやらされていた。割り込みがないか見張るのである。 「もし割り込みをする人がいたら注意するように」と言われていた。
このバイトを始めて2日目に割り込みを見つけた。 やくざ風の男だった。 『これは注意しないと』とぼくは思い、「割り込まんで下さい!後ろに行って下さい!」と大声をあげて言った。 すると、そのやくざ風は「コラ??、誰に口をききよるんか!」と声を凄んで言った。 「あんたに言いよるんですよぉ。割り込むなっち言いよるでしょうが!」とぼくは応戦した。 「おい、ここでそんなこと言いよったら、命がいくつあっても足らんぞ!」 「わかったけ、後ろに並んで下さい!」
そのやりとりを見ていた上司が血相を変えて止めに入った。 「ここはいい。事務所に戻って」と言った。 納得のいかないぼくは「あんたが注意せえと言うたんでしょうが!」と上司にも食いついた。 顔色を変えているのは、ぼくとやくざ風と上司の3人だけで、それを見ていた多数のお客は笑っていた。 ということでぼくは自動販売機の仕事に回され、客の整理は二度とさせてもらえなかった。
この2ヶ月間何もしていなかったのかといえばそうではなく、読書と求人チェックだけは欠かさずやっていた。 その頃はもう中也の詩は一段落しており、代わって中国思想シリーズへと突入していた。 「自分を鍛えなおさなければ」といった意味ではなく、なにか心の拠り所になるものを求めていたのだ。 一種ノイローゼ気味な生活の中に、どこか心を遊ばせようとしていたもう一人の自分がいたことは嬉しい。 もしこのバランス感覚がなかったとしたら、今頃こうやってHPの更新をしている自分なんかいなかったと思う。 おそらくもう死んでいるか、廃人同様に生きているかしていただろう。
その頃は格式ばった孔孟には興味はなく、自由奔放な老荘ばかり読んでいた。 漢文で習った老荘というのは何か古めかしく堅苦しい感じがしたものだが、現代語で読む老荘は新鮮で面白く且つためになる。 この老荘学習は、ぼくのその後の人生において大きな影響を与えた。 老荘の言葉を勉強したということにはさして意味はないが、自分の人生や経験に照らし合わせながらする勉強がある、ということを発見できたことは大きい。 これに比べると、受験のためにする勉強というのはなんとくだらないことなんだろう。 これからのち、ぼくはそういった意味での勉強ばかりやって、今に至っている。
バイト探しは、大学受験と同じように次から次に落とされて、数えてみたら3週間で26回落とされていた。 「照和」の翌日から、ぼくは外に出ることをやめた。 いや、外に出ることが怖くなったのだ。
こんなことは初めてだった。 電話に出るのにも、びくついている状況だった。 どんなに晴れた日でも、フィルターがかかっていて、見るもの見るものが暗く見えた。 自分の世界に閉じこもってしまい、ヘンな夢ばかり見てしまう。
昔のことを思い出してばかりいた。 高校時代の仲間達は今頃どうしているんだろう? きっと充実した青春を送っているんだろう。 彼らとぼくのどこがどう違うのだと、運命を呪ったりもした。 このままの状態で、何も出来ず一生が終わるんじゃないかと思うこともあった。 友人が遊びに来たりすることもあったが、以前のような付き合いが出来ない。 たまに行きつけの喫茶店に行ったりもしたが、「あんた暗いねぇ」などと言われ、また落ち込んでしまう。
当時の写真を見てもやはり暗い。 今でもこの時代をぼくの人生から削除したい、と思うことがある。 本当に辛い時期だった。 何もしないぼくを見て、親はいつも小言を言った。 けんかになった。 怒りは親に対してのものではなかった。 自分の運命やふがいなさに対してのものだった。 こんな状態が5月末から7月末までの2ヶ月間続いた。
さてゴールデンウィークが終わりバイト探しを再開したが、相変わらずやる気が起きない。 面接を受けるのは受けた。 だが、こんな状態の人間を雇う企業なんかどこにもない。 職種も一貫したものがなく、手当たり次第だった。 あるオーディオメーカーの販売員派遣会社を受けたのだが、その時「君はこういう仕事には絶対に向いていない」と断定された。 でもそれから数年後ぼくはそういう職種に就いており、その時の評価は「販売の仕事をするために生まれてきた男やね」だった。 その時の状況で、評価が180度変わってしまう。おかしなものである。
最後に目先を変えて、福岡天神にある『照和』というライブハウスに挑戦してみた。あわよくばここで雇ってもらおうという考えだった。 ここはチューリップや井上陽水などを世に出した伝説のライブハウスで、アマチュアミュージシャンの聖地である。 汚い格好をして行った。 頼み込んで20分ほど歌わせてもらった。 が、気分が乗らない。反応もよくない。 結局期待していた「歌いに来て下さい」という声はかからなかった。
その夜電話が入った。 伯母からだった。 内容は、「じいちゃんが死んだ」だった。 祖父は1年程前から入院していた。 死因は老衰だった。 好き勝手に生きたのだから、いい人生だったのだろう。
翌日バイト先に電話して、休みを取らせてもらうことにしたが、「もういいです」と言われ断られた。 初七日がすみ、またバイト探しを始めた。 アルバイトニュース,新聞の求人欄,職業安定所などの情報を元に、これはというところを手当たり次第に電話しようと思った。 が、やる気が起きない。 また明日、また明日ということで先延ばしにし、5月になった。 親にはゴールデンウィークが終わったら真剣に探すからといいながら、家でギターを弾きボーっとしていた。
その翌日、とにかく何かしないとと思い、アルバイトニュースを片手にバイト探しを始めた。 もう4月に入っていた。 アルバイトニュースを開いてみると<小学館>という文字がぼくの目に飛び込んできた。 『おお、これは幸先いい。しかも職種が企画と来ている』 出版関係に興味を持っていたぼくは、すぐにここを選んだ。
電話してみると「面接するから来てくれ」ということだった。 ぼくは慌てて履歴書を書き、その会社まで持っていった。 そこにはスーツを来た5,6人の男性社員がいた。 面接らしきことをして,「明日から来てくれ」ということになった。 『何だ。面接なんか意外と楽やん』とたかをくくった。 この慢心が後々命取りになるのだった。
そのおみくじが現実になる時が来た。 3月、受験した大学に全部落ちた。 真っ暗な時代が幕を開けた。
受験したすべての大学に落ちたことで、「もう大学なんかに行くものか!」という気分になっていた。 「とりあえず夜間の短大でも入って、そこで将来のことを考えたらどうか?」という知人の助言もあり、近くのK短大を受けることにした。
ここは願書を出すだけでOKという短大で、授業料もさほど高くなく、場所は家から1、5Km位の位置にあった。 ぼくは自転車で願書を取りに行った。 退屈そうな男の事務員が、面倒臭そうに「ああ、ここを受けるんかね。ふーん」と言いながら願書をくれた。 家に願書を持って帰り、早速書き始めた。
翌日、願書の続きを書いていると突然テレビから「北九州市にあるK短期大学が倒産しましたというニュースが流れてきた。 唖然としたぼくは「あのおっさん何も言わんかったやないか!」と文句をいいながら願書を破り捨てた。 「さあ、どうしよう?」 ぼくはそこからのことを何も考えられずにいた。
浪人1年目の正月(昭和52年)に太宰府天満宮に行った。 ここは好きな場所で今でもちょくちょく行っているが、この時は受験生だったので、それまでとは違う何か張りつめたものがあった。 「天神様、奇跡が起こりますように」と祈り、おみくじを引いた。 一瞬固まってしまった。 <大凶>だった。 「これはいかん!方位が悪かったんだ」と思い、慌てて電車に駆け込み、福岡市内へと向かった。
天神に着き、警固神社におみくじを引きに行った。 また固まった。 <大凶>だった。
何かの間違いだと今度は住吉神社に行った。 勘弁してくれ。 またまた<大凶>だった。 泣きたい気持ちで愛宕神社に行き、「これが正しいんだ」と念じながらおみくじを引いた。 結果は<凶>だった。 目の前が真っ暗になった。
予備校時代というのは、ぼくにとって小学校から続く一つの流れに過ぎなかった。 何ら生活に変わりはなかった。 相変わらず怠け者だった。 好きなこと以外にエネルギーを使うことをせず、暇があれば寝てばかりいた。
さて、一年間全然勉強しなかったのかというと、そうでもなかった。 受験前の一ヶ月間はみっちりやった。 1月に高2の同窓会があった。 みな大学や短大に行っている。 予備校通いはぼくを含めて3,4人しかいなかった。 引け目こそなかったが、やはり何かが違う。 何か余裕みたいなものがあって、充分青春している、という感じがした。 またこいつらと真剣に遊びたいな、という気持ちでいっぱいになった。 でも、そうするためには大学に入らなくてはならない。 そのためには受験というものに興味を持たなければならない。 もうその頃には、予備校には行ってなかった。 一生懸命勉強している人の邪魔をしたら悪い、という理由で勝手に退学したのだ。 「飽きた」というのが本音だったのだが。
とにかく机に向かった。自宅浪人の開始である。 まず不得手科目の克服だ、と英語の参考書を開け取り組もうとした。 その時、ぼくはふと英語の前にもっと不得手なものがあることに気がついた。 「そうだ! おれの一番不得手なものは勉強だったんだ!」 もう笑うしかなかった。 勉強の仕方がわからない。 かといって、今さらそんなことを言っても始まらないので、英語は「試験に出る英単語]]で単語だけ覚えることにした。 日本史は、年表を覚えることに専念した。 意味もなく年表を覚えるのも重労働だった。(後年大の歴史好きになるのだが、この頃はまだ何の興味もなかった) 国語は、詩作と姓名判断でまかなった。 受験勉強とはいっても、一夜漬けを一ヶ月続けたに過ぎなかった。 結局、また落ちた。
詩と読書とギターの予備校時代・・・ いや、もうひとつあった。 姓名判断である。
ぼくは自分の名前が嫌いで、いつか名前を変えてやろうと思っていた。 予備校に入った頃、野末陳平さんの「姓名判断]]という本を買った。 それから姓名判断を、自分で研究するようになった。 今でもそうだが、とくに自分の興味あることに関しては、人の受け売りが嫌だ。 とにかく自分流を作り上げようとする。 姓名判断もそうだった。 オリジナルを作ろうとした。 これは今もって完成していないのだが、いいところまでは来たつもりだ。
姓名判断はいい勉強になった。 それから何年か後、社会に出てから一応名刺交換をする身分になった時に役に立った。 初対面の人の性格や行動がわかるのだ。一目名前を見るだけでいい。 とくに性格は、外れた覚えがない。
予備校時代、この姓名判断の勉強が意外なところで役に立った。 国語である。 姓名判断をやっていると、自然に漢字を覚えるという特典が付いてくる。 ぼくが国語だけ偏差値が良かったというのは、姓名判断と無縁ではなかった。
この頃から中原中也に傾倒していった。 中也の年表を読んでいくと、彼も文学にのめり込み学校の成績ががた落ちになっていった、と書いてあった。 単純なぼくは「おれと同じやん」と、中也と同じ道をたどっている自分を誇らしげに思っていた。 中也、中也の毎日だった。
中也のどこに傾倒していったのか? 詩、それだけです。(生き方などはあまり参考にはならなかった) ぼくは予備校時代まで、詩は作っていたものの、人の詩集なんて読んだことがなかった。 詩を作り始めたのは高校の頃からで、吉田拓郎の歌から入った。 その後ボブ・ディランに走り、ディランのわけのわからない詩を真似ていた。 無理矢理韻を踏ませたり、内容が突然飛んだりで、今読んでもよくわからない。(そういえば、ディランがあるインタビューで「ぼくの詩はでたらめです」と言っていたのを本で読んだことがある。) 詩を読むとなるとチンプンカンプンだった。
これはすべて現国のせいだと思っている。 だいたい詩の鑑賞というのは、読む人それぞれで感じ方が違うのであって、決まった答なんかあるはずもない。 それを重箱の隅をつつくように、「この言葉は何を象徴しているか?」とか「作者の意図するものは何か?」なんてやるものだから、暗号解読みたいな読み方になってしまう。 ということで、詩を作るのは好きだが、読むのは嫌いという状態に陥っていた。 その状態を救ってくれたのが中也の詩だった。
予備校帰りに本屋に立ち寄った時、中原中也という変な名前が気になり、その本を手にとってみた。 『朝の歌』や『臨終』という教科書に出てくるような作品で始まっていたせいもあり、相変わらずぼくは、―「この言葉は何を象徴しているか?」読み― をやっていた。 うんざりしてページをめくっていたら、『頑是ない歌』他数編に出会った。 暗号解読なんかとは程遠い詩だった。 「愚痴じゃないか。愚痴を詩の形に並べただけだ。こういう詩もあるんだ。これは面白い」とぼくはその本を購入し、それ以来中也への傾倒が始まった。 自ずと自分の作風も変わっていき、この長い浪人時代が終わるまで、ずっと愚痴ばかり書いていた。 投稿もこの頃から始めたが、当時のぼくの詩を読んだ人は、ぼくの愚痴を読んだことになる。
しかし、やはり大学には合格しなかった。 母は「いつも勉強せんでギターばかり弾いとるけ落ちるんよ」と言って、何も同情しなかった。 結局、予備校に通うことになった。 が、ここでも勉強しなかった。 朝は遅刻し、昼飯を食ったらすぐ帰る生活が始まった。 遅刻は毎日で、予備校とは直接関係のない清掃のおっさんからも顔を覚えられ、「おう、また遅刻か」と言われるようになった。
授業にも実が入らず、詩を作ったり歌をうたったりしていた。 第一回目の公開模試の時だったと思うが、、数学がまったくわからず、時間がきても白紙状態だったことがある。 『どうせ白紙なんやけ、出さんでもいいやろ』と思い、答案用紙をくしゃくしゃにして家に持って帰った。 その夜、担任から「数学の答案用紙が出てないけど、どうしたんか?」という電話があった。 「はあ、全然わからんかったけ、持って帰りました」と答えると、担任はあきれた声で「はあ、そうですか」と言って、電話を切った。 翌日、いつものように遅刻して予備校に行ったぼくは、教室のドアを開くなり大爆笑の出迎えを受けた。 よく見ると担任がぼくのほうを指差しニヤニヤしている。 後で友人に「何があったんだ?」と聞くと、「担任が『昨日の模試で、数学がわからんと言って、答案を出さずに帰った奴がおる。白紙でも答案は出すように』と言った時にお前が入ってきた。そこで担任が『こいつです』と言ったので大爆笑になった」ということだった。
予備校時代はよく本を読んでいた。 そのおかげかどうかはわからないが、国語が異常によく、偏差値が東大の合格ラインに達していた。 しかし、英語と数学が最低の偏差値で、この成績で入れる大学なんてなかった。 他の教科は日本史がかろうじて平均以上だったぐらいだ。 勉強しないくせにこの結果を見て「おれには国立文系は合ってない!」と勝手に決めつけ、教科の少ない私立文系に移籍した。 結果は同じで、ここでも勉強しなかった。
ぼくはわりと長い浪人時代を経てきている。 昭和51年春から昭和56年春までの5年間だ。 進学校だったにもかかわらず、ぼくは高校三年になっても進路が定まらなかった。 担任から「しんた、お前はどうするんか? 進学か?就職か?」とよく聞かれたものだった。 そのたびにぼくは「さあ?どうしましょうか?」と、他人事のような返事をしていた。 親が進学を希望していたので、とりあえず進学希望としたものの、音楽と文学にうつつを抜かしていたぼくに、合格する大学なんてあるはずもなかった。
課外授業や模試なんかも一切受けたことがなかった。 担任も、ぼくがいつもボーっとして勉強してないのを知っていたので、一般受験は無理だと思ったのか、F大の推薦入学を薦めた。 「どうだ、推薦にしてみらんか?するならすぐ手続きをとってやるぞ」 ぼくは『どうでもいいや』という気持ちで「じゃあお願いします」と言った。 「そうか、そうするか。よし、それなら・・・。・・・・・締め切りは今日やった。まあ、一般受験で頑張れ」 担任はその後、ぼくの進路について、とやかく言わなくなった。 一般受験と決めてからも、ぼくは何も勉強しなかった。 相変わらず、課外も受けずに、早く家に帰ってはギターのコピーや作詞作曲などをしていた。 そんなことをしながら三学期になった。ぼくの関心事は「大学に受かるか」よりも「無事卒業できるか」だった。 『卒業できないと、カッコ悪いな』ぐらいの感覚で、ギターを引く合間に少し勉強した。 何とか卒業は出来た。
モリタ君がぼくの部門にいたのは半年ぐらいだった。 組織の変更に伴い、ぼくは楽器部門を離れた。 同時にモリタ君は商品の荷受けのほうにまわされた。
そこでのエピソード。 お客さんが買っていった商品に不良が出て、配送の人が交換して持って帰ってきた。 「おい、モリタ。不良品ここに置いとくぞ」と配送の人が言った。 「はい。これは不良品ですね。わーかりましたっ」とモリタ君は元気よく答えた。 それから2,3時間ほどして、その商品の部門の人が商品を引き取りに来た。 「モリタ君、さっき配送の人が不良品を持って帰ってきたと思うんやけど・・・」と聞くと、モリタ君は「知りません」と答えた。 そこでその部門の人は、配送の人に問い合わせた。 「確かにモリタ君に渡したよ」と配送の人は言ったが、モリタ君は「そんなこと知りません」と言った。 でも、不良品を持って帰った時のやりとりを見ていた人がいたので、モリタ君の嘘はすぐにばれた。 モリタ君は不良品の行方の追求を受けることになった。 結局不良品は捨てたということだった。 モリタ君はみんなからボロクソに言われ、弁償することになった。
この事件から少ししてぼくは会社を辞めた。 ぼくの送別会にはモリタ君も参加していた。 しっかりヘタな歌を聴かされた。 その後モリタ君と会うことはなくなったが、ある時風の噂でモリタ君が会社を辞めたと聞いた。 コックになると言っていたそうだ。 おそらく、履歴書には「特技:料理」と書いたのだろう。
朝礼時はいつもラジオ体操をやっていた。 モリタ君はその時も、みんなの前でやらされていた。 体が堅く動きがぎこちなかった。ロボコップが体操をしているように見えた。 みんなはそれを見たいため、いつもモリタ君を体操当番に指名した。 店長が「今日の当番は誰か?」と聞くと、決まって「モリタ君ですと言う声が聞こえた。 店長もそれを見たかったのだろう。「そうか、モリタか」と言いながら嬉しそうな顔をしていた。 体操が始まると、誰も真面目にせずにモリタ君の手や足の動きを見ていたものだった。
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