先々週だったが、象の夢を見た。 友人宅から帰る途中、歩道を歩いていると、象が2頭、車道を全力で走ってきた。 そして、ぼくの横を駆け抜けていった。 その2頭の象はアフリカ象だった。 別に襲われはしなかったのだが、空恐ろしくなった。 そしてその気持ちのまま、目が覚めたのだった。
象を夢見るなんて初めてのことなので、これは何かあると思い、さっそく夢占いで調べてみた。 だが、大した意味はなかった。 自分が襲われない限り、悪い暗示ではないというのだ。 しいて言うなら、疲れているとのことだったが、ウォーキング以外は、さして疲れるようなことはしてない。 そこで、「大したことはない」と自分に言い聞かせておいた。
今朝のこと。 夢の中で誰かに向かって「頭が痛い」と言った。 その瞬間、場面が変わった。 横には嫁ブーがいた。 買い物に行く途中だったと思う。 横断歩道で信号待ちをしていると、またしてもアフリカ象が2頭走ってきた。 すると今度は逆方向から大きなヘビが出てきた。 二者は横断歩道でかち合ってしまった。 それから、象とヘビのにらみ合いが始まった。 ヘビが頭を持ち上げると、象はヘビを踏みつぶそうと足を上げる。 するとヘビは、頭を引っ込める。 そのやり取りが何度か続くうちに、信号が青になった。 ぼくと嫁ブーは、象とヘビの争いを横目で見ながら、横断歩道を渡った。 そこで目が覚めた。
目が覚めてみると、夢の通りで頭が痛かった。 ということは、象と頭痛に何か関係があるのだろうか? いや、それはないだろう。 前回は、別に頭は痛くなかったのだから。 …などと、いろいろ考えているうちに、何十年も忘れていたことを思い出した。
ぼくが保育園に通っていた頃だったと思うが、えらくアフリカ象を恐れていた時期がある。 おそらくテレビか何かで、「アフリカ象は凶暴」と言っていたのを聞いて、恐くなったのだと思う。 寝る時に、いつもアフリカ象がアフリカから走ってくるような気がして眠れなかったものだった。 「アフリカ象は恐くない」と自分に言い聞かせていたが、それでその妄想が消えることはなかった。 結局その妄想は小学校に上がるまで続いていたのだった。
もしかして、今頃その妄想が復活したのだろうか? だが、今は別にアフリカ象は恐くない。 さすがにダッシュでそばを走られたら恐く感じるだろうが、それは大型のトラックが猛スピードで横を走り抜けるのと同じ恐怖である。 では、そのアフリカ象は何を意味しているのだろうか? やはり疲れだろうか? もしそうであるとしたら、今の生活のいったい何が疲れを作っているのだろうか? まさか読書ではないだろう。
小学生の頃、隣の町内に『鬼太郎』というあだ名の子が住んでいた。 目が異様に大きく、少し出目ぎみだった。 その印象から『鬼太郎』というあだ名が付いたのだと思う。 いつもグジグジして何を言っているのかわからず、そのために友だちもいなかったようだ。 町内が違っていたので、ぼくたちの遊ぶ場所には来なかった。 が、たまに来ると、いつも騒ぎを起こしていた。
ぼくたちがよく遊んでいた公園の横に、カツという友だちの家があった。 カツは同じ野球のメンバーで、よくいっしょに野球をしていたのだが、夏のある日、いつものように野球をやっていると、メンバーの一人が、 「カツ、鬼太郎がおまえの家の庭におるぞ」と言った。 みんながカツの家のほうを見てみると、鬼太郎は長い棒を持って何かやっていた。 カツは慌てて家に戻って行き、みんなはカツのあとを追った。
カツの家に行ってみると、鬼太郎は手にビワを持っていた。 カツの家の庭になっているビワを、例の長い棒でつついて落としたもののようだ。 「おまえ、ここで何しよるんか?」とカツは言った。 「何もしよらん」と鬼太郎が答えた。 「『何もしよらん』があるか。そのビワどうしたんか?」 「この家の人にもろた」 「何でこの家の人にもらえるんか?」 「ここ友だちの家やけ」 「そうか。じゃあ、その友だちの名前を言うてみ」 「ブツブツ…」 「あっ、聞こえん!」 「ブツブツ…」 「わからんのやろうが。ここはおれの家たい。おまえはおれの友だちなんか?」 「‥‥」 鬼太郎はずっと下を向いたままで、ブツブツ独り言を言っていた。 そしてカツからさんざん文句を言われ、逃げて行った。 鬼太郎は方々でこういう騒ぎを起こしていたのだ。
鬼太郎の起こした事件で忘れられないことがある。 あれはお盆のことだった。 ぼくたちが、いろいろな町内の盆踊りを見て回っている時のことだった。 ある町内の盆踊り会場が、踊りもせずに、何か殺伐とした雰囲気になっている。 ぼくは、その町内の知り合いの上級生を見つけ、尋ねてみた。 「○○君、何かあったと?」 「おう、鬼太郎がおるやろ」 「うん」 「あいつが、砂をレコードめがけて投げつけたんよ。それで演奏がストップした」 「え、鬼太郎が。で、あいつどこ行ったん?」 「走って逃げて行った」 「そうなん」 「見つけ出して、ボコボコにしてやる」 と、上級生は息巻いて、鬼太郎を探しに行った。
その後、その上級生と鬼太郎の間に何があったのかは知らない。 ただ、その日を境に、鬼太郎はぼくたちの前から姿を消したのだった。
ぼくはこれまであまり小説というものを読んだことがない。 一番本を読んでいた20代・30代は思想書、宗教書、ビジネス書、エッセイなどを主に読んでいた。 小説は、中学生の頃に夏目漱石、高校生の頃に遠藤周作(ユーモア小説のみ)、20代前半に歴史小説や若干のSF物を読んだくらいだ。 なぜ小説を読まなかったのかというと、人の作った物語に価値を感じなかったからである。
40代に入ると歴史書を中心に読むようになった。 学生時代に途中までしか習わなかった、近代史を完結させたかったのだ。 これが46歳頃まで続く。
その後、興味はマンガのほうに移っていった。 『20世紀少年』が発端になった。 それ以来、これまで読み逃していたものを買い集めて、何度も何度も読み返した。 人の作った物語という点からすればマンガだって同じなのだが、マンガのほうは読むのに時間がかからないし、画だけ見てもある程度内容は把握できる。 マンガにだって、人生もあり、思想もある。 画がある分、その印象は深い。
マンガを読み出してからしばらくは、歴史書も読んでいた。 だが、好きな著者の分はあらかた読んでしまったので、興味が薄れていった。 そのため、ここ2年ばかりはマンガばかり読んでいた。 こればかりは何度読んでも飽きない。 プー太郎生活のよき友となってくれていた。
ところが最近、映画やドラマを見ると、必ずといっていいほど原作が読みたくなるのだ。 それで、今まであまり読んだことのない小説を読むようになった。 最近読んだ本は、『いい女』『嫌われ松子』『地下鉄に乗って』『手紙』などである。 映画やドラマで内容は知っているものの、活字で読むと、また趣が違ってくる。 微妙に内容が変わっていたり、原作に存在しない人物がドラマには出ていたりで、そういうのを確認しながら読むのもまた楽しい。 当分、小説から離れられそうにない。
ただ、小説を読むのに、けっこう時間がかかってしまうのが難点ではある。 まあ、最初に読んだ『いい女』の時に比べると、早く読めるようにはなってはいるが、それでも1冊につき2,3日を要してしまう。 20代に歴史小説を読んでいた頃は、1日に2冊は読むことが出来たのだ。 やはり、読書にも慣れというのがあるのだろう。
2006年11月27日(月) |
イオン八幡東店に行く |
(1) 今月の22日にスペースワールド隣に開店した、イオン八幡東店に行ってきた。 いつも行っているイオン若松店に行くつもりで家を出たのだが、せっかくだからということで行ってみたわけだ。 オープンしてすでに6日経っているし、今日は平日なので、それほど客はいないだろうと踏んでいたが、甘かった。 駐車場は満車状態だし、店内のどの売場にいっても人が多い。 行ったのが昼時だったので、食堂街も人が溢れている。 この状態を見ると、オープン初日の人出は、先日行った起業祭よりも多かったのではないだろうか。
(2) ぼくがそこに行った理由は、もちろん買い物だったのだが、別にも目的があった。 昨年の12月までいっしょに働いていたパートさんが、そこに転職したと聞いたので、顔を見に行ったわけだ。 売場は衣料品のところと聞いていたのだが、その衣料品がいくつも別れている。 何度か売場を回ったがいない。 「しかたない、パンツでも買って帰ろう」と、紳士用品売場に行ったら、そこにいた。 ぼくはパンツを持ってレジに並び、声をかけた。 聞けば、他にも何人かそちらに移ったと言う。 そこでその人たちを捜してみたのだが、見あたらなかった。 まあ、それは次に行く時の楽しみにとっておくことにしよう。
2006年11月26日(日) |
頑張る50前!(2) |
(1) あと1年足らずで自分が50歳になるなんて、何かピンと来ない。 子どもの頃に50歳といえば、おっさんを通り越してじいさんだと思っていたものだが、その時が自分に迫っていることが、信用できないのだ。
そこに到達するためには、かなり長い時間がかかるだろうと思っていた。 ところが、過ぎてみるとあっという間だ。 確かに10代の頃はけっこう昔に感じるが、20代30代はつい昨日のことのように感じる。 そのせいで、80年代以降の歌は、今でも最近の歌だと思っている。
(2) これまで、一番時間が長く感じたのは、小学4年生の時だった。 月曜から土曜までみっちり授業がある。 その上、週3回はそろばん塾に行かなければならない。 特に木曜日はいやだった。 日曜日までは、その日を含めるとまだ三日もある。 授業はみっちり6時間、終わるとそろばん塾だ。
この日は宿題の量も多かった。 その宿題というのが、漢字の書き取りで、ぼくはこれが大嫌いだった。 他の宿題、例えば算数なら、クイズ感覚で解ける問題もあったので飽きは来なかったが、漢字の宿題はそうはいかない。 とにかく、同じ漢字をひたすら書くという、地味な作業をしなければならないのだ。 やっているうちに、下腹がムズムズしてきたものだった。 そういった理由から、木曜日は朝から憂鬱で、学校に行くのに足が重かった。
(3) よく年齢を聞かれることがある。 どうもぼくは、年よりも若く見られているようだ。 正直に本当の年齢を言うと、いつも相手はびっくりする。 そこで「この白髪見たらわかるでしょ?」と言うと、「いや、白髪なんて関係ない。そんな色に染めている若い子もたくさんいますから」と答える。
何年か前に、高校生から「しんたさんとしゃべっていると、なんか友だちとしゃべっているみたいな気がする」と言われたことがある。 それはそうかもしれない。 やることはガキみたいだし、学生みたいなしゃべり方だし、今でもその頃と同じ夢を持っているし、考え方もそう変わってないし、趣味もほとんど変わらない。 その上、今の学生と同じマンガを読んでいる。 だから、そう思えるのだろう。
『頑張る40代!』と銘打った日記(ブログ)を始めて、もうすぐ6年になる。 毎日書くことを目標にやってきた。 まあ、更新が遅れることあったものの、とりあえず日にち的には埋めているので、それは良しとしている。 ただ、内容のほうが、年を追ってだれ気味になっている。 ちゃんと書いているのだが、最初の頃と比べると、今の内容はうすっぺらく感じてしまうのだ。 何とかしようと試みたことはあるのだが、そうすると肩に力が入ってしまい、ろくなものが書けない。
さて、その『頑張る40代!』だが、最終回、つまり49歳最後の日まで、すでに1年を切ってしまっている。 あとちょっとということだ。 しかし、その「あとちょっと」が問題なのだ。 この先何を書いていくのかが、わからないでいる。 この日記は、基本的に「思い出」と「思想・主義主張」を中心に書いているのだが、思い出にまつわることは、もうほとんど書き尽くしているのだ。 また、これまで書いてきた思想や主義主張が、たった1年でコロッと変わるとは思えない。
ということで、最後の1年は日常に起きたことを書きつづっていくことだけしか出来ないだろう。 今狙っている仕事がうまくいけば、また新たな展開に持っていけるのだろうが、今のところは何ともしようがない。
ま、あと1年、50前男の日常なんて面白くないでしょうが、よかったら読んでやってください。 もしかしたら、突然変異するかも知れませんので。
月に二度ほどハローワークに行っている。 今日も行ったのだが、なかなか琴線に触れるような企業は見つからない。 年齢が年齢だから見つからないわけではない。 年齢は関係なく、ぼくが適職だと思っている販売、営業、事務といった職種の登録数が少ないのだ。 しかも、登録している会社は、3ヶ月前とほとんどいっしょである。 こういう職種は人気がないのだろうか? それとも登録している企業の人気がないのだろうか?
そういえば30年前にも職安に通った時期があるのだが、あの頃二度スカウトマンに声をかけられたことがある。 最初の人は笑顔で「いい仕事見つかりましたか?」などと言って近づいてきた。 ぼくは無愛想に「いいえ」と答えた。
「今は不景気だからねえ」 「そうみたいですね」 「ところで君は営業とか興味ない?」 「営業ですか?」 「営業と言ったって、別に難しいことをするわけじゃないんよ」 「何をするんですか?」 「カタログ持って、一軒一軒家を回るだけ」 「売らんといけんのでしょ?」 「いや、別に君が買ってくれと言う必要はない。君は主婦ウケする顔をしているから、カタログ持って行くだけで、あちらから売ってくれと言うと思うよ」 「何のカタログを持っていくんですか?」 「ミシン」 「いや、いいです」 「君ならいいセールスマンになれると思うんだがなあ…」 そう言い残して、彼はどこかへ行った。
ぼくが職安から出ようとした時、ロビーから例のスカウトマンの声が聞こえてきた。 他の人に声をかけているようだった。 彼に気づかれないように近づき、それとなく聞いてみると、 「…君は主婦ウケする顔をしているから…」 と、ぼくに言ったことと同じことを言っていた。 彼の目には、他人の顔はすべて主婦ウケする顔に映ったのだろう。
もう一人のスカウトマンは、えらく体のがっしりした人だった。 その人は遠くからぼくをじっと見ていた。 ぼくがその視線に気づくと、彼は近寄ってきた。 「君はいい体してるねえ。何かやってるの?」 「高校時代に、柔道をやっていましたけど」 「柔道か、それは頼もしいねえ。実はね、君にピッタリの仕事があるんだよ」 「何ですか?」 「自衛隊」 当時のぼくは自衛隊に対していい印象を持っていなかったので断ったが、今なら行っていたかもしれない。
こういうスカウトマンは、今でもいるのだろうか? ハローワークに行くのは今日で6回目だが、いまだそういう人にはお目にかかってはいない。 まあ、この白髪頭だから、近寄ってこないだけのことかもしれない。
ウォーキングだが、いまだ足の痛みが残っているため、満足な距離を歩いていない。 とはいえ、二三日前からは神社の帰りに、少しだけ遠回りしている。 前は歩けば歩くだけ痛みが増していったのだが、ウォーキングを再開してからは、痛むのは靴が足に馴染むまでの間だけで、あとはあまり痛みを感じないのだ。 どうしてあまり痛みを感じなくなったのかというと、それは歩き方が変わったからだ。
その歩き方というのが、「かかとを意識して歩く」歩き方だ。 これまで歩く時は、いつも足の裏全体で地面を踏みつけていた。 それを、まずかかとで地面を踏んで、体の移動に伴い、その重心を土踏まずからつま先に移動していくようにしてみた。 すると、痛みを感じなくなったのだ。
別に、意識してこういう歩き方に変えたのではない。 痛みをかばって歩いているうちに、いつの間にかこういう歩き方になってしまったのだ。 そのため、この歩き方でいいのかどうかという不安はあった。 もし悪ければ、他の部分が痛くなってくるから、それが恐いのだ。
そういう折、その不安を払拭してくれるものが届いた。 今日のことだ。 ウォーキングから帰ってくると、ポストに一通のDMが入っていた。 うちの家族がひいきにしている明太子屋さんからで、年末売出しのカタログが入っていた。 開けてみると、そこにはカタログの他、もう一枚パンフレットが入っていた。
それを何気なく読んでいると、何とそこにウォーキング時の歩き方が書いてあるではないか。 『歩幅を広げ、かかとから着地して、つま先から大地を蹴るような歩き方』 ぼくはあまり歩幅は広げないが、かかとで着地しつま先で蹴るのは同じなのだ。 ということは、ぼくの歩き方は正しかったということになる。
この歩き方で20分ウォーキングをすると、1万歩歩いたのと同じ効果があるという。 なるほど、ぼくがこの歩き方をするようになってからは、神社の行き帰り程度の距離を歩いても疲れるようになった。 このパンフレットを読むまでは、痛みをかばう歩き方をするせいだと思っていたが、そうではなかった。 神社の往復がだいたい30分だから、この計算で行くと1万5千歩歩くのと同じくらいの運動をしていたわけだ。 しかし、痛みをかばう歩き方が、理に適った歩き方だというのもおかしな話である。
最後に、明太子屋さん、ありがとうございました。 いろいろ勉強になりました。
30年前の今頃は、必死に『三国志』を読んでいた。 繰り返し繰り返し、10回は読んだと思う。 そのせいで、妙に天下人になったような気がして、大きな顔をして日々を過ごしていたような気がする。 ブルースリーの映画を見た後に、強くなったような気がするのと同じである。 ちょうど浪人中だったのだが、これがいけなかった。 「おれにはやるべき大きな仕事があるんだから、勉強なんて馬鹿らしくて出来るか」などと思ってしまったのだ。 正月までこの状態が続いた。
『三国志』を読みだしたのはその年の10月だったが、それ以前に読んでいたのが『中原中也詩集』で、こちらは8月中旬、つまりお盆から読みだした。 これまた勉強を妨げるのにはもってこいの本だった。 それを読んで中也に傾倒してしまい、中也であろうとしたのだ。 詩風を真似し、生活態度を真似した。 その年譜に「大正9年 …このころより読書欲起こり、学業を怠る」とあるのだが、それまで真似してしまったわけだ。 それから『三国志』と続いたわけだから、その間、つまりその年のお盆から翌年の正月までの約5ヶ月間、まったく勉強しなかったことになる。
正月を過ぎてようやく目が覚めて焦りだすのだが、元々学業の才能を持ち合わせていないぼくが、そんな時期から勉強を始めても、間に合うわけはない。 落ちるのも当然である。
さて、読書の方だが、現実に目が覚めてからまったく読まなかったわけではない。 勉強の合間合間に読んでいた。 だが、以前のようにそれに「なりきる」まで深く読みはしなかった。 そういう読み方になるのは、受験後に『織田信長』を読み出してからだ。 またもや天下人である。 しかも、今度は気が短いときている。 現在、ぼくには短気なところもあるのだが、それは信長になりきっていた時代の後遺症である。
二年前に一家総出で、秋月に行ったことがある。 11月のこの時期だったと思うが、『紅葉の名勝』があるとテレビで紹介されていたので、行ってみようということになったのだ。 高速を使うとさほど時間もかからないのだが、そうすると時間が余ってしまい「せっかくここまで来たんだから、○○に行こう」などとなりかねないので、この時は国道を使ってのんびりと行くことにした。 秋月に着いたのは、出発してからおよそ2時間後だった。
さて、秋月は普段でも観光客が多いのだが、やはりテレビの効果だろう、この時はさらに多くの人が来ていた。 メイン通りは人でごった返しており、なかなか前に進めなかった。 嫁ブーは「さすがに紅葉のシーズンやね」などと言って感心していた。 ぼくたちは流れに押され、別に目的にはしてなかった史跡の観光ばかりして歩いた。 その折々に周りの木々を見てみたのだが、紅葉はおろか、まだ緑だらけだった。
茶店で休憩し、それからようやく紅葉を訪ねることにした。 ところが、テレビで見た『紅葉の名勝』がどこにあるのかわからない。 そこで茶店の人に聞いてみた。 「ここの先を左に折れて、まっすぐに行くとお寺があります」 と言う。 どうやら、そこが『紅葉の名勝』らしい。
茶店の人が言ったとおりに歩いていくと、遥か向こうにお寺らしきものが見える。 「ああ、あそこやん」 と、ぼくと嫁ブーは率先して歩いていった。 あぜ道を抜け、民家を抜けて、山道にさしかかったところにそのお寺はあった。
小さなお寺だった。 一面木々に囲まれて、なるほど『紅葉の名勝』と言われるだけのことはある。 しかし、それは赤く色づいていれば、の話である。 その時、若干色づいた部分はあったものの、まだどの木も緑色に覆われていたのだ。 テレビではあんなに赤く色づいていたのに、もう終わったのだろうか。 いや、それはないだろう。 ぼくの中の常識では紅葉が終わると、あとは散るばかりで、緑に色づくなどということはない。 ということは場所が違うのだろう。
ぼくたちはいったん茶店のところまで戻り、その場所を探してみた。 だが、周りの山の中にも、赤く染まっているところはない。 しかたなく、帰路に就いたわけだが、何か釈然としないものがあった。 テレビで見た、あの赤く染まった風景は何だったのだろう。 確かにテロップでは秋月となっていたし、レポーターもそう言っていた。
その二年前の疑問がようやく解けたのだ。 実は先日テレビを見ていて知ったのだが、秋月の紅葉はこの時期ではなく、もう少し後らしいのだ。 11月下旬から12月にかけてらしい。 つまり二年前、あと一週間ほど遅らせて行けば、『紅葉の名勝』にお目にかかることが出来たわけだ。 ということは、テレビは「紅葉すればこうなります」と、その前の年あたりの画像を見せていたのだろう。 画像だけ見て、早とちりしていたわけだ。
(1) 昨日の記事に、久しぶりにコメントがついた。 記事とは直接関係ないようだが、興味深かい話だ。
コメントを読んでもらったらわかるだろうが、先日起きた、北九州の小学校で起きたたかり事件についての話である。 後に校長が自殺したせいで、全国ニュースになったあの事件だ。 やはり、たかられていた生徒は自殺まで考えていたのだ。
ぼくは昨日の友人も含めて、友人を一年間に三人も自殺で失ったことがあるのだが、そのショックは計り知れないものがあった。 友人のぼくでさえこんなふうだったのだから、死なれた親御さんはたまらないだろう。 それを考えると、今回親御さんは、早い段階で事件を知っておいてよかったと思う。 そのおかげで、かわいい子を死なせずにすんだし、事件が明るみに出たわけだからだ。
死んでしまうと、あとでどんな調査をやっても、なかなか真相まではつかめないものだ。 昨日のぼくの例もそうで、「原因はおそらくあれだろう」くらいしかわからなかったのだ。 その原因がぼくたちとは関係ないところにあったのだが、「さて真相は?」というと、実はいまだにわからないのである。
(2) しかし、まさかあの事件を世に知らしめた方が、このブログの読者である「だいきちさん」だとは思わなかった。 まさにグッドジョブである。
さて、その「だいきちさん」には申し訳ないが、本文を何ヶ所か訂正させてもらった。 実名が書かれていたからだ。 しかも、メールアドレス付きで。 こういうのは危ないので、勝手に訂正させていただきました。
(3) ところで、最近はいろいろと教師の低落が話題になっているが、先日テレビを見ていると、ある教師が「教育基本法改正なんかやっても、問題は解決しない」などと言っていた。 では、どうすれば解決するのかということには一切触れないで、グチばかりこぼしている。 こういうのがいるからダメなのだ。 これまでやってきたこと、すべてにメスを入れないと問題は解決しない。 教育基本法もその一つなのではないのだろうか。
保育園の年少の頃だったが、ぼくはいつも隣の席の男からいじめられていた。 彼は何かあると、すぐにぼくをつねるのだ。 彼はいつも爪を伸ばしていたので、つねられたところから血が出てしまう。 それを見て泣いていた記憶がある。 ただ、いじめられていたのはぼくだけではなかった。 けっこう彼からつねられた者もいたようで、彼は乱暴者として通っていたのだ。
年長になると席替えがあったため、いじめは受けなくなった。 というより、彼自身が大人になったのだろう。 そういうことをしなくなったのだ。 とはいえ、あの時代のことを思い出してしまうので、そいつのそばには近寄らないようにしていた。
その男とは小学校もいっしょだった。 クラスが違っていたためか、あまりいっしょに遊んだ記憶がないのだが、なぜかそいつはぼくに優しかった。 しかし、ぼくの中には、まだ保育園年少時代の記憶が消えてなかった。 そのため、どこか敬遠していた感がある。
中学1年の時、ようやくそいつと同じクラスになった。 家が近かったせいもあり、よくいっしょに遊んだものだった。 ただ、保育園年少時代とは、立場が逆転していた。 とはいうものの、ぼくは別に彼をいじめていたわけではない。 彼をからかって遊んでいたのだ。
2年、3年で、またクラスが別れたため、再び遊ぶことがなくなった。 だが、それは敬遠していたためではない。 ただ、いっしょに遊ばなくなっただけだ。 友好関係は健在で、会えば笑顔の応酬をしていた。 しかし、それも3年の2学期までだった。
3年の2学期に、突然彼は学校に来なくなったのだ。 病気だとかいじめられたとかいう噂が立ったが、実際のところはいまだにわからない。
それからおよそ半年後、高校の入学式の前の日だった。 家の前の公園で友人と遊んでいると、彼が通りを歩いているのが見えた。 元々色白の男だったのだが、その時はさらに白く、なぜか澄んで見えた。 いっしょに遊んでいた友人と「声かけてみようか」と言い合ったのだが、二人ともその顔を見て躊躇してしまい、声をかけそびれてしまった。 それが彼を見た最後だった。 数日後、彼は自殺した。
そのことは先の友人から電話で聞いたのだが、自殺だけでも充分にショックを受けたのに、友人はさらにショックなことを言った。 「あの時、おれたちが声かけんかったけかのう?」 この言葉がぼくの胸に突き刺さった。 もちろんその程度で死ぬわけはないのだが、原因がわかるまでぼくは真剣に悩んだのだった。 本当にいらんことを言ってくれたものだ。
(1) 昨日からウォーキングを再開した。 しかし足が痛みが残っているので、無理をせず、神社の往復だけにとどまっている。 時間にすれば30分程度、しかも足の痛みをかばうのでスピードは出せない。 つまり、ダラダラと歩く散歩に過ぎないということである。
もちろんこの程度だと体は温もらないから、汗はかかない。 ということは体重も絞れないし、脂肪も燃えないということだ。 早く足を治して、こんな慣らし運転みたいなウォーキングから脱却したいと思っている。
(2) その足だが、四、五日前に比べると幾分良くなっているとは思う。 だが先にも書いたように、痛みがなくなったわけではない。 長く歩いていると、その痛みは増してくる。 そのせいで、長く歩くと、足を引きずるような歩き方になってしまう。 やはり完全に治るまで、歩かないほうがいいのかもしれない。
とはいえ、何もしないとまた元の体重、元の体脂肪率に戻ってしまう。 まあ、家の中で別の運動をすればそんなこともないのだろうが、ラジオ体操をやっても足が痛むのだから、その際は足に負担のかからない運動をしなければならない。
では、そういう運動とはどんなものがあるのだろうかと考えてみたが、足を使わない上半身の運動に限られる。 そういう運動にはどんなものがあるのだろうか。 ぼくが思いつくのは、柔軟体操や腹筋運動くらいである。 ぼくの一番苦手な運動である。 ということは、おそらく長続きしないだろう。 やはり足を早く治すことに専念するしかない。
歌詞を作るのは本当に難しい。 この3ヶ月ずっと歌詞作りに悩んでいるのだ。 詞に意味を持たせようとすると堅苦しくなる。 かと言って、考えないでやるとまとまりがなくなる。 スラスラと詞が書けていた昔が懐かしい。 あの頃はおそらく素直な気持ちを持っていたのだろう。 だから、無理なく書けたのだと思う。 それが出来ないのは、いろいろな経験やプライドが邪魔しているからだ。
さて、今日はちょっと指向を変えてみた。 今まで詩的な歌詞を書こうとしていたから出来なかったのだ。 詩作をしなくなって、もう5年経つ。 このブランクが容易に詩的歌詞を書かせてくれないわけだ。 それなら散文的歌詞にしてしまえと、今日試験的に書いてみた。 せっかくだから思い出エッセイにしたのだが…。
『星のきれいな夜』 店に入ったのが11時だったから もう電車は走ってないだろう タクシー代は持ち合わせてないし こうなったら家まで 歩いて帰ることにしよう
ここから家まではけっこう距離があって 休まずに歩いても2時間はかかる だけど今日は酒がしこたま入ってるし 早くて3時間というところだろうか 足がふらついて目もうつろだ
そういえばあれはいつだったろうか パチンコで有り金全部すってしまい 今日と同じように歩いて帰ったことがある どこかに金は落ちてないかと 下を向いて歩いていったんだった
だけど下を向いて帰るなんて 今日はとても出来そうにない ただでさえ気分がよくないんだから 下を向いて歩いてなんかいたら いつか潰れてしまうだろう
それにしても今日は星がきれいだ 寒さのせいで空気が澄んでいるんだろう こんなきれいな星が見れるなんてこの町も まだまだ捨てたもんじゃないと 感心しながら歩いていく
昔、小倉で飲んで、歩いて家に帰った時の思い出を綴ってみたのが、こういうのならわりとすんなりと書ける。 詩的歌詞を再び書けるようになるまで、この路線でやってみようと思っている。
以前毎日5件以上かかっていたいた勧誘電話が、今月に入ってからまったくかからなくなった。 ぼくはそういう電話に対し容赦なく悪態をついていたのだが、てっきりその効果が上がったのだと思っていた。
だが、どうもそうではなかったようである。 実は、先月末に嫁ブーが電話帳への登録を抹消していたのだ。 そのため、今月から104上のデータはなくなった。 冒頭に書いたとおり、勧誘電話かからなくなったのは今月に入ってからだから、時期が符合する。
ということは、104から各企業にデータが流れていたことになるが、実際はどうなのだろうか?
いやはや参拝どころではなかった。 朝、嫁ブーを送った足で神社に向かった。 9時半頃神社に着いたのだが、そこで予想してなかったものを見てしまい、出直すことにした。 予想してなかったものというのは、幼稚園のマイクロバスである。 これが神社の駐車場に駐まっているということは、境内にはたくさんの園児がいるということだ。 その中に割り込んでいって、お参りする気にはならない。 ということで、近くのスーパーに行きジュースを買って、いつもの貯水池で時間を潰した。
1時間後、もういいだろうと神社に引き返してみると、境内から先の幼稚園とは違う幼稚園の園児が下りてきていた。 おそらく1時間の間に入れ替わったのだろう。 「ということは、今がチャンスだ」と思い、そこに車を駐めようとした。
ところが、あいにく駐車場は満車だった。 個人の参拝客が駐めていたのだ。 しかたなく、近くの本屋に車を駐めることにした。 5分後、神社に着いたぼくは、境内に向かった。 途中、何組かの参拝客と会ったのだが、どれも七五三らしく、子どもの写真を撮っていた。
さて、境内に入り手を洗おうとした時、後ろにある本殿のほうが妙にがやがやしだした。 振り向いて見てみると、何と30人ほどの幼稚園児が本殿の前に並んでいるではないか。 その周りには、数組の個人参拝客がお祓い待ちしている。 これではなかなか前に進めない。 参拝を待っていてもいいのだが、こんな子どもばかりのところに、おっさんが一人立っていると怪しまれてしまう。 そこで、心の中で柏手を打ち、心の中でお参りして帰ることにした。
境内を出てみると、神社横の企業の駐車場に、幼稚園のマイクロバスが駐まっていた。 今お祓いを受けている幼稚園のものだろう。 そういえば、このあたりは人口が多いせいで、たくさんの幼稚園や保育園がある。 今日はそれら全部がこの神社に来るに違いない。 おそらく神社側は、幼稚園ごとに時間を割り振りして対応しているのだろう。 そして、その合間に個人のお祓いをしているのだろう。 ということは、今日は一日空いている時間はないということだ。 待たなくてよかった。
しかし、参拝客は多いとは思っていたが、まさか幼稚園児が総出で来るとは思ってなかった。 CMではないが、まさに「予想外です」である。
昨日に引き続き足が痛い。 そのため今日は、毎日参拝している神社には車で行った。 朝、嫁ブーから「何も痛い足を引きずってまで神社に行くことはないやん」と言われたが、願掛けしているので、これだけは欠かすことが出来ない。
その神社通い、ある人から「神社には午前中に行ったほうがいい、午後からだと願掛けの効果がない」と聞いたため、午前中にすますように心がけている。 だが、あくまでもそれは心がけだけである。 実際は、神社に着くのはいつも正午を過ぎている。 午前中はいろいろ用があって忙しいのだ。 最初のうちは「これでは効果がない」と思っていたが、よく考えてみると、正午過ぎならまだ許容範囲なのである。 なぜなら標準時とこちらの時間は約16分の差があるからだ。 つまり、12時16分までに神社に行けば、午前中に行ったことになるのだ。
その神社には参拝の仕方が書いてあって、「軽く一礼。二礼二拍手一礼。軽く一礼」となっている。 これを初めて見たのは十数年前である。 その時「こんな当たり前のことを、何で書く必要があるんやろうか?」と思ったものだった。 宗像大社や太宰府天満宮といった、大手の神社もこのお参りの仕方なので、それが当たり前だと思っていたわけだ。
ところがある時、それが当たり前ではないことを知った。 何年か前に宇佐八幡宮に行った時だった。 周りの参拝客がみな「パン、パン、パン、パン」と四度柏手を打っているではないか。 「おかしいことしよるなあ」と思っていると、そこに「二礼四拍手一礼」するように書かれていたのだ。 そこで皆と同じように四度柏手を打ったのだが、数を間違えそうな気がして、どうもしっくり来なかった。
あとでパンフレットを見てみると、出雲大社もこのやり方らしい。 神社によって参拝の仕方が違うのだそうだ。 例えば伊勢神宮は神職は八拍手するらしい。 四拍手でも数を間違えそうになったくらいだから、八拍手だとぼくなら確実に間違えてしまうだろう。
さて、明日は七五三である。 ということは、参拝客が多くなるということである。 困ったなあ…。 いや、別に参拝客が多くてもいいのだが、お祓いを受けている人がいると困るのだ。 前に参拝に行った時に、お七夜のお祓いを受けている人がいた。 その神社は本殿が狭いものだから、殿上のイスがお賽銭入れのところに並べてある。 そこに座ってお祓いを受けていたので、ぼくはその人のお尻を拝んでいる格好になってしまったのだ。 せっかく拝むのだから、人のお尻ではなく神様を拝みたい。 明日は、なるべく朝早く行くことにしよう。
靴が合わないのか、歩きすぎなのか、それとも歩き方がおかしいのかはわからないが、足が痛い。 これまで痛みというのは、いつもふくらはぎの筋肉痛だった。 ところが、今回の痛みは、これまで何ともなかった右足甲の筋である。 これが歩くたびに痛むわけだ。
その痛みが重しの役目をしているのだろう、歩く速度がかなり遅くなった。 これまで1時間で歩けたコースが、昨日今日は1時間20分かかっている。 しかもスピードが落ちているせいで、汗をかかないのだ。 三日ほど前までは、いくら風が冷たくても、20分も歩けばドップリ汗をかいていたのだが、それが今は1時間歩いても汗は出ない。
歩くたびに痛く、汗をかかないとなると、やっている意味がない。 これは何とかしないと、現在唯一やっている運動であるウォーキングまでがおっくうになってくる。 これまでの経験から言えば、おっくうさを感じたものが長続きしたためしがない。 そう感じてから日をかけず、やめるのだ。 やめてしまうと当然のように肥満がやってくる。 そればかりか、血圧の心配もしなければならなくなる。
そうなると困るので、とりあえず痛みをなくそうと、昨日から湿布をしている。 ところが、これがまったく効き目がないのだ。 痛みが引くどころか、逆に増しているような気さえする。 今日なんかは、ウォーキングペースで歩く時だけではなく、普通に歩くのさえ痛くなっていた。
湿布も効かないとなれば、残された方法は一つしかない。 それは休養である。 なるべく足に負担をかけないようにする作戦である。 だが、それやる場合、注意しないとならないことがある。 それは期限を定めずに休むと、ぼくの性格上そのままやめてしまうということだ。 そうならないためにも、期限をつけて休養しないとならない。 一週間だとちょっと長いし、再開した時にきつくなる。 やはり三日ぐらいがちょうどいいだろう。 その間、本でも読んでいることにする。
(1) この頃、マンガが映画化やドラマ化にされることが多い。 今やっているドラマでいえば『のだめカンタービレ』や『鉄板少女アカネ!!』 などがそうだし、ちょっと前では『花より男子』がそうだった。 こういうドラマは話の展開がいかにもマンガチックではあるが、かつての実写版と呼ばれた映画やドラマほどは荒唐無稽でなくなっている。
とはいえ、元がマンガだと知っているものだからから、どうしてもそれと比較してしまい、結局は「原作のほうがよかった」というふうになってしまう。 ということは、元がマンガだと知らずにその映画やドラマを見たとしたら、つまり先入観を持たずに見たとしたら、案外新鮮みがあって面白いかもしれない。
(2) 今日、スカパー!で『ガラスの脳』という映画をやっていた。 他に見るものがなかったので、しかたなくそれを見ていたのだが、これがけっこういい映画だった。 最近は日本映画が全盛だと言われているが、なるほどこういう映画をやっているのだからそう言われてもおかしくはない。 などと納得しながらその映画を見ているうちに、おかしなことに気づいた。 なぜかぼくは、この話の展開を知っているのだ。
その映画を見るのは初めてである。 ということは、かつて原作を読んでいるということだ。 しかし、いつどこで読んだのかという記憶が定かではない。 では、その原作が誰のものであるかというと、それも思い出せない。 ただ、それは小説ではない。 ということはマンガだ。
ぼくが読んだ範囲でこういう生命・病気・愛をテーマにしたマンガを描くマンガ家は、一人しかいない。 手塚治虫である。 そこで、新聞の束の中に埋もれていたスカパー!の本を引っぱり出し、原作者を調べてみた。 やはりそうだった。 だとすれば、原作は家にあるということだ。 と、探してみると、あった、あった。 これには感動した。
いい作品というのは、マンガだとか映画だとかいう枠に収まらないものなのだ。 いかにもマンガチックという作品も楽しいが、やはりぼくは枠に収まらない作品のほうが好きである。
(3) これはマンガではないが、美空ひばりの大ヒット曲に『柔』という歌がある。 実はこれ、同名のドラマの主題歌として作られたものだったのだ。 現在はそうではないが、当時はドラマの主題歌などは、歌としてのランクが低く見向きもされなかった。 ところが、『柔』はそうではなかった。 作品のスケールが大きすぎて、ドラマのテーマソングという枠に収まらなかったのだ。 その結果が、その年のレコード大賞だった。
2006年11月11日(土) |
フォークリフトの資格が無効になった |
今日の朝刊を見てびっくりした。 何と、昨年苦労して取得した、フォークリフトの資格が無効になったのだ。 その資格は新日鐵で受講して取得したのだが、今回の無効はその新日鐵の不手際から起きたらしく、そこで取得した人全員の資格が取り上げられたらしい。
新聞では「指導者の資格をもつ講師が立ち会わずに、実技講習を行っていた」となっている。 あの時講習場で「下手くそっ!」だとか「おまえはもう受けるなっ!」などと、さんざん悪態をついていたおっさんは指導者の資格を持っていなかったのだろうか? こちらも相手が正規の講師と思っているからこそ、我慢していたのだ。 もしそれが偽講師だったとしたら、叱られ損だったということになる。
それもこれも、新日鐵という企業の体質からきているのだ。 「新日鐵のやることはすべて正しい」という思い上がりが、こういう事態を招くわけだ。
新日鐵には、そこの社員というだけで尊大に構えている輩がけっこう多くいるらしい。 新日鐵の関連会社に勤めている知り合いがいるのだが、その人は新日鐵の社員から「誰のおかげで飯が食えると思っとるんか?」と言われたことがあるという。 また、新日鐵社員とトラブルを起こした際、その新日鐵マンから「おまえのところのトップは、うちから行った○○さんやったのう。言いつけてやるぞ」とも言われたという。
「鉄は国なり」の時代はとうの昔に終わっているのだから、そろそろそこに勤める社員も考え方を改めないと、世間から反感を買うことになるだろう。 こちらのシルバー人材センターで、一番役に立たないのは、新日鐵のOBだと言われている。 とにかく能書きが多く、動こうとしないのだそうだ。 会社は、偽講師を使って資格を取らせる暇があったら、世間に適応する社員の育成をすべきである。
それはそうと、ぼくは持っている四つの資格のうち一つを失ってしまったわけだ。 まあ、これから先、おそらく必要とならない資格だから、なきゃないでもいいのだが、履歴書の資格・特技の欄が一行空いてしまうのはちょっと寂しい。
先日の願いが通じたのか、夜から雨になった。 しかもカミナリまで混じっている。 昨日の夜もカミナリが鳴っていた。 今日のニュースでは、福岡県沖でかなり多くの落雷があったらしい。 集中して聞いてなかったので定かではないが、確か800回くらいあったと言っていたような気がする。
海にカミナリが落ちるとどうなるのかはよくわからないが、夏場はよく海水浴客が落雷で死んだというニュースが入ってくるくらいだから、電気が海水を走るのだろう。 とはいえ、建物などはないわけだから、とりあえず火事になったりはしないだろうし、この時期夜に海で泳ぐ人はまずいないだろうから、そこに船でもない限り人には害はないように思われる。
ただ、その近辺で泳いでいる魚は感電死することが考えられる。 800回も落雷しているのなら、かなりの数の感電死魚が浮かぶはずだが、そういうニュースはなかった。
さてその際だが、もしそこを電気クラゲが泳いでいたらどうなるのだろうか? やはり感電するのだろうか? 自分も放電するくらいだから、感電してもうまく放電して害を逃れるのかもしれない。 かつて読んだ『マカロニほうれん荘』というマンガに、カミナリが直撃して主人公の膝方歳三が怪獣になり暴れまくるシーンがあったが、電気クラゲも同じようにエネルギーを吸収して巨大化…、てなことはないと思う。
しかし、そうなったら面白いとは思う。 「玄界灘上にクラゲに似た大怪獣出現。電気ビームで航海中の船を次々と襲う」という通報が入り、海上及び航空自衛隊が最新鋭の兵器で退治するのだ。 そのシーンを円谷プロが撮影・編集し、劇場公開すれば大ヒット間違いなしである。
2006年11月09日(木) |
職安で意外な奴と会った |
ハローワークで意外な奴に会ってしまった。 今日は失業保険の認定日でハローワークに行ったわけだが、いすに座って順番を待っていると、向こうの方から「しんたさーん」と大きな声でおらびながらノシノシと歩いてくる奴がいるではないか。 先日結婚したタマコである。
「おまえはこんなところで何しよるんか?」 「私も会社辞めたんよ」 「えっ?辞めたんか?」 「うん」 「何であんないい会社辞めたんか?」 「よくなかった。好かん人が多かったしー」 「どこに行っても好かん人は多いわい」 「でも、しんたさんのところで働きよった時はおらんかったもん」 「おまえねぇ、バイトと社員じゃ違うやろ」 「そうなん?」 「社員の場合、その店だけじゃなくて、本社とか他の店とかと関係があるやろ。おれは、そこに好かん人がいっぱいおったわい」 「ふーん」
「しかし、こんなところで会うとは思わんかったの」 「前にも会ったよ」 「おれは知らんぞ」 「しんたさん、気がつかんでさっさと歩いていったやない」 「声かけんけよ。まさか、おまえがこんなところをうろつきよるとは思わんやろ」
「しかし、おまえ、あの結婚式は何か」 「良かったやろ?」 「おまえのキスシーン見に行ったわけじゃないんぞ」 「感動したやろ?」 「するわけないやないか」 「もしかして、笑いよったと?」 「当たり前やないか。おかしくてたまらんかったわい」 「信じられーん」 「それと、名前呼ばれたらちゃんと『はい』と言わんか」 「言ったやん」 「『はい』じゃなかったやろ。『あい』やったやないか」 「言うてないもん」 「神父が『誓いますか?』と言ったら、声を裏返して『あい、誓いまーす』とか言うし」 「‥‥」
結局今日は、タマコを家まで送ってやった。 しかし、タマコ、たかだか職安に行くだけなのに、えらく荷物が多かった。 別に買い物をしたわけでもなさそうだし、いったい何を持って行っていたのだろう?
それにしても、ぼくとタマコは認定日がまったく一緒の日なのだ。 ということは、次の認定日にも会うということである。 「食事に連れて行け」だの「酒おごれ」だのうるさいから、次回以降は早めに行って、さっさと帰ることにしよう。
嫁ブーとぼくは、それぞれに必需品を持っている。 嫁ブーの場合、それは耳かきである。 ほとんど癖になっているようで、毎日二三度は耳かきを耳に突っ込んでいるようだ。 使っている耳かきは竹製で、もう数年同じ耳かきを使っているのだが、すでに黒ずんでいる。
そのせいでもないが、ぼくはその耳かきは使わない。 いや、その耳かきのみならず、耳かき自体を使うことはない。 以前は使うこともあったが、一度耳かきで耳をかきむしって以来、使うことをやめた。 今ではもっぱら綿棒を使っている。
一方ぼくの必需品はというと、孫の手である。 ぼくの場合は嫁ブーのように癖にはなってないのだが、やはり日に二三度は孫の手で背中をかいている。 孫の手がうちに登場したのは昨年の秋である。 その頃、背中上部に痒みを覚えるようになり、百円均一で買ったのだ。 それ以来、ぼくの必需品となったわけだ。
その痒みだが、最初は垢でもたまっているのかと思い、風呂に入ると必死に背中をこすっていた。 さすがにその時は痒みもおさまり気分もいい。 しかし、時間が経つとまた痒みがやってくる。 背中に何か出来ているのではないかと思い、嫁ブーに背中を見てもらったのだが、「別に何もないよ」と言う。 「ということは時期的なものだ」と思い、特に薬を使用することもなく放っておいた。
ところが、今年に入ってもなかなか痒みは治まらない。 そういう時にムヒソフトのCMを見た。 かいてもかいても痒みが治まらないのは、「かゆみ肌」のせいだというのだ。 かゆみ肌は乾燥肌が進化したものらしい。 そういえばぼくは、冬場はいつも乾燥肌で悩んでいる。 と、何気なく背中の痒い部分を触ってみると、カサカサしているように思える。 「なるほど、痒みの原因はこれだったのか」
それ以来、保湿成分を含んだクリームを背中に塗るようになったのだが、まったく効き目がない。 そこで、とうとうムヒソフトを試してみようと思うようになった。 ところが、そう思うのはそのCMを見た時だけである。 試してみようと思って以来、何度もドラッグストアなどには行っているのだが、その時は違う目的で行っているため、ついそのことを忘れてしまうのだ。
今度はムヒソフトを買う目的で、そこに行くことにしよう。 そして早い内に「かゆみ肌」を治しておくことにしよう。 この痒みをいつまでも放っておくと、冬場にはえらいことになってしまう。
今日は東京時代の友人A君の誕生日である。 A君は女好きで、よく自分が泣かした女の数を自慢していたものだ。 そのへんは硬派だったぼくと対照的だったのだが、同い年ということも手伝ってか、行動をいつも共にしていた。 歌舞伎町のパチンコに毎日いっしょに通ったり、雀卓を囲んだり、ドライブに行ったりと、A君との思い出はけっこう多い。
その中でも一番印象に残っている思い出が、N美のことだった。 東京時代に、ぼくはN美という女性から一度喫茶店に行っただけで「付き合っている」と勘違いされ、その後大事件(?)に発展する。 その事件を解決してくれたのがA君だった。 そのあらましは、2003年3月16日の日記に書いているが、A君がいなかったら、大変なことになっていただろう。 もしかしたら、今なおそのことで悩んでいたかもしれない。
さて、ぼくはそのA君からお金を借りたままになっている。 実は東京を離れる1ヶ月ほど前に、ぼくは歌舞伎町のパチンコ屋でスリに遭い、キャッシュカード、丸井のカード、それと現金2万円の入った財布を盗られてしまったのだ。 すぐにキャッシュカードと丸井のカードは使用不可の手続きを取ったので、その方面の被害に遭うことはなかったが、盗られた現金2万円は戻ってこなかった。
実はその2万円は、生活費だったのだ。 他に持ち合わせもなく、それから先どうやって過ごすかと悩んでいた。 そういう時だった。 A君が「しんた、このお金は返さなくていいから」と2万円を貸してくれたのだ。 ぼくが「もらうわけいかんから、借りとく」と言うと、A君は「いや返さなくていいよ。その代わり、しんたがレコードを出したらただでくれ」と言う。 その時ぼくは「わかった」と応えたが、いまだにレコードを出してない。
今後どうなるかわからないが、とりあえず今のところはレコードを出す予定もない。 このまま借りっぱなしでいることは心苦しいので、どうにかしてA君の消息をつきとめ、2万円+αを返したいと思っている。
それはともかく、A君、49歳の誕生日おめでとうございます。
朝起きてから、まず見るのが空である。 天気が気になるのだ。 澄んだ青さだとホッとする。 だが、灰色に染まっていたら憂鬱な気分になってしまう。
以前はそこまで天気を気にしなかった。 気にするようになったのはウォーキングを始めてからだ。 雨が降っていたりすると、傘を差して歩かなければならない。 ただでさえ傘の差し方が下手なのに、ウォーキングでそれをやるとすると、おそらくはびしょ濡れになるだろう。 かといって、カッパなどをまとってまで歩きたくない。 ということで、雨の日は休むことにしようと思っていた。
ところが、そのウォーキングを始めてから1ヶ月ちょっとになるが、まだ一度も休んだことはない。 その間の朝空は大半が青かった。 何日か灰色に染まることもあったが、歩く頃には晴れ間が見えていた。 それで気分よく歩くことができたわけだ。
さて、この1ヶ月ちょっと、ぼくの記憶では雨が降った日は三日ほどしかない。 それもいつも半日程度しか降らず、終日雨だったことはない。 この調子でいけば、休まずにウォーキングを続けられるだろう。 だが、この調子でいけば、間違いなく給水制限になるだろう。
給水制限なんかされると、困ることになる。 インスタントラーメンは作れなくなるし、トイレを流すことも出来なくなる。 何よりも困るのは、ウォーキング後のシャワーである。 汗びっしょりで帰って来るものだから、シャワーを浴びないとやってられないのだ。 この時期だから、風邪を引いてしまいかねない。
こうなれば憂鬱だなどと言っておれない。 週二度ほどでいいから、雨が降ってくれんかなぁ。
このところ毎日歩いているが、不思議に思っていることがある。 それは日曜日とその他の日との雰囲気の差である。 平日は慌ただしく感じるが、日曜日はのんびりとした感じがするのだ。 確かに平日と比べると日曜日は車の流れが違うし、人の歩き方も違っている。
だが、違うのはそういう人為的なものだけではない。 日曜日は空ものどかであるし、空気も柔らかく感じる。 うちの近所では平日だと聞こえないトンビの声が、日曜日には聞こえたりする。 カラスの鳴き声も日曜日は殺伐としてないし、小鳥のさえずりも日曜日はのんびりして聞こえる。 つまり、自然界も日曜日モードなのだ。
もしかしたら、ぼくが日曜日を意識して見るから、そう思うのかもしれない。 しかし、そればかりではないような気もする。 日曜日は、家でくつろいでいる人が多い。 そういうくつろいだ『気』が空に伝わり、空気に伝わり、鳥に伝わって、日曜日ののんびりした雰囲気を作っているのではないのだろうか。 そう考えると、なぜ江戸時代がのどかだったのか、という理由もわかるような気がする。
昨日、起業祭から帰ってきてからしばらく寝ていたのだが、目が覚めてみるとどうも右肩の調子がおかしい。 腕を回すと「コキコキ」言うのだ。 こういう状態になった時は、決まって痛くなる。
異変に気がついてから2時間後、予想通り肩は痛くなった。 こうなると腕が上にあがらない。 歩く時にはうまく腕を振れなくなるし、車をバックさせる時にはうまくハンドルを切れなくなる。 また、衣服を着たり脱いだりする時も非常に苦労する。
五十肩? いや、これは五十肩の症状ではない。 五十肩の場合は腕が後ろに回らなくなる。 だが、今回は後ろは大丈夫なのだ。 痛み方も、五十肩の場合は肩が抜けるような痛さだが、今回は筋を痛めたような痛さである。 ということで、おそらく今回の痛みは四十肩のものだと思う。
五十肩といえば、昨年の春から今年の春にかけて、ぼくは五十肩に悩まされている。 腕が後ろに回らないだけではなく、例えば壁などに腕が触れただけで肩に激痛が走ることもあった。 必死に痛みに耐えながら、腕を回したり、筋力トレーニングをやったりしてリハビリをやっていたのだが、なかなか治らなかった。 ようやく治ったのを自覚したのが今年の5月、それも会社を辞める直前だった。 倉庫に移った端はまだ痛かったから、倉庫の仕事が五十肩を治してくれたのだろう。 そう考えてみると、神様は粋な人事を施してくれたのだ。
さて、四十肩だとすると、さほど痛みは続かないだろう。 これまでの経験からすると、長くても三日もすれば治ってしまう。 しかし、三日も痛い思いはしたくない。 そこで、リハビリをすることにした。 こういう場合、鉄アレイのような重い物を持って、肩を動かすとすぐに治ると聞いたことがあるので、それを実践してみることにした。
ところが結果は最悪だった。 痛みがひどくなり、体を横にしても肩が疼くのだ。 しかもその痛みで気分まで悪くなる有様だった。 しかたなく昨日は早めに寝ることにした。 就寝前は歯を磨くことすら出来なかった。
朝になっても痛みは続いた。 だが、昨夜ほどではなかった。 気分の悪さも治まっている。 そこで、例のごとくウォーキングに出かけた。 しかし、痛みが完全に治まったわけではなかった。 腕を振ると、やはり痛みが走る。 そのため腕の振り方がチグハグになってしまった。
今はというと、何とか痛みは治まっている。 肩の「コキコキ」もなくなった。 まだ少し違和感は残っているが、これは昨日の鉄アレイの後遺症であるから気にはならない。 この調子だと、おそらく明日には完治するだろうから、今日は何もせずに寝ることにする。
今日から『起業祭』が始まった。 いちおう北九州では秋の風物詩となっている。 元々は官営八幡製鉄所の創業を記念した製鉄所の祭だったのだが、いつからか製鉄所の手を離れ、市民の祭となった。 そのため元々は製鉄創業の日である11月18日を中心とした三日間に行われていたものが、文化の日を利用して行われるようになった。
ぼくが子どもの頃は、その創業日である18日は学校が休みになっていた。 「明日は起業祭で学校は休みです。必ず保護者の方と出かけるようにしてください。決して友だち同士で行くことのないように」 毎年その前日の全校放送で、先生はこんなことを言っていたものだ。
その頃の祭は、見せ物小屋や出店がたくさん出て、かなりの賑わいだった。 見せ物小屋はサーカス、モーターショー、お化け屋敷が中心で、メインステージでは有名な歌手のコンサートも行われていた。 また出店のほうは、かなりの広範囲でやっていた。 ぎっしりと沿道を飾る出店には夢があった。
さて、今日久しぶりにその起業祭に行ってきた。 別に行きたくはなかったのだが、うちは八幡製鉄所の遺族会に入っているため、毎年慰霊祭に呼ばれている。 これまでは母が行っていたが、今回は母の都合が悪く、ぼくが行くことになったわけだ。
その慰霊祭だが、昔に比べると規模が小さくなった。 以前は2時間の式典で、近郊の神主と僧侶が毎年交代して慰霊を行っていた。 ところが、最近はそこまで長くやらないようだ。 今日の式典時間は1時間だった。 神主や僧侶は来ず、祝詞やお経の代わりにキーボード奏者の暗い演奏が行われていた。 その合間に、新日鐵の業績の報告などが行われ、最後に献花で締めくくられた。
昔は「ご起立下さい」「黙祷して下さい」「ご着席下さい」と繰り返しやっていたが、そういうのもなくなったようだ。 また、慰霊祭特有とも言えるナフタリンの臭いもなくなっていた。 以前、多くの遺族は礼服や紋付きなどで来ていたために、そういう臭いが会場に立ちこめていた。 最近は、みなラフな格好で来ているようだから、そういう臭いもなくなったのだろう。
さて、祭の方だが、これがまた昔と比べると閑散としたものだった。 まあ、初日の午前中だったから人出が少ないのはわかるが、出店の数がえらく減っていたのだ。 以前は所狭しと出店が軒を連ねていたものだが、今日は出店と出店の間には多々隙間があった。
イベントのほうも、パンフレットを見ると、カラオケ大会なんかが中心で、えらく興ざめしたものに思えた。 かつては市の一大イベントであった起業祭だが、今は市民の文化祭に過ぎないのだろう。 ちょっと寂しい。
嫁ブーは、ぼくが日記を書いている時間帯(午前1時〜3時)にはすでに寝ているが、途中必ず一度目を覚ます。 別にぼくのことが気になって目を覚ますわけではない。 トイレに行っているのだ。 就寝中に二度トイレに行く人は『頻尿』だと言われるが、嫁ブーはあと一歩のところまできているようだ。
しかし、嫁ブーの場合、それは病気だとは言えないかもしれない。 嫁ブーは若い頃によく膀胱炎になっていたが、それが今でも尾を引いているのではないだろうか。 寝ている時に何となく尿意を催している気がして、それで目を覚ましてしまうのだと思う。
昔、ぼくは冬になるといつも頻尿になっていた。 こたつが原因である。 寒がりのぼくは、いつもこたつに潜り込んでいた。 ちょうど膀胱あたりにヒーターがあったため、その熱で膀胱の機能が狂ったのだと思う。 しょっちゅうトイレに行っていたものだ。
ところで、「疲労のせいで丸一日目が覚めなかった」などという話をよく聞くが、その人は寝ている間尿意を感じなかったのだろうか? いや、丸一日小便をせずにすんだのだろうか? もしかしたらその人は、一日ぐらいは小便をしなくても何ともない人なのかもしれない。
では、一週間意識不明だった人はどうだろうか? さすがに一週間小便をせずにすむ人などいないだろう。 ということは、寝ている間に排出しているのだろうか? そういうことであれば、当然意識不明中に看護師などからパンツを脱がされて、おしめをあてられるわけだ。 それはちょっと嫌である。 一週間意識不明になるのはやめることにしよう。
意識不明といえば、自由に霊界に出入りしてその見聞録を著したスウェーデンボルグという人は、霊界に行っている間、何日も意識不明の状態になっていたらしい。 この人の場合、自分の意思で意識不明になったわけだが、その間の排出物はどう処理していたのだろうか? 自分でおしめをあてるなどの準備をしてから、霊界に行っていたのだろうか? 謎である。
宗像大社に行ってきた。 毎月1日と15日に行くようにしているのだが、ここ最近はさぼっていたので久しぶりの参拝となった。 その宗像大社では今日から菊花大会をやっていた。 だが、ぼくはそういうことに興味がないので、長居せず、自分勝手なお願いだけして帰った。
その帰りのことである。 参道の池に鯉がいるのだが、そこで子どもたちが餌をやっていた。 餌を投げると、そこに大量の鯉が「カッポ、カッポ」という音を立てて群がってくる。 そういう風景をしばらく眺めていたのだが、鯉というのはその模様の優雅さに似合わず、実に意地汚い生き物だという感じがした。
尾ひれで近くにいる鯉をはねのけて餌を採ろうとするし、餌に届かない位置にいる鯉は、飛び跳ねて、餌付近にいる鯉に体当たりして餌を横取りしようとしているのだ。 その池には鯉だけではなく亀もいるのだが、鯉はその亀を尾ひれで追い払い、決して餌場に近づけようとはしない。 まあ、そういった姿が自然の本来の姿だと言ってしまえばそれまでだが、見ていてあまりいい気持ちはしなかった。
鯉といえば、由布院で見た鯉はすごかった。 決して狭いとは言えない池で飼育していたのだが、池の隙間が見えないほども鯉がいたのだ。 餌を与えると、鯉は一斉に暴れ出し、水しぶきがかかる。 異臭がしていたし、気分が悪くなったものだ。
やはり鯉を見るなら、澄んだ川や水路を少数で優雅に泳いでいる姿を見るほうがいい。 そうやって見せている観光地には魅力を感じるものだ。 水の清らかさもアピールできるので、いい印象を与える。 津和野や島原はそういうところだった。 津和野は和紙作り、島原は水の良さをアピールするために、鯉が効果的に使われているわけだ。
ただ、実際は、鯉は汚い水の中でも生息するというから、水のきれいでないところが『鯉の里』などと言って売りだそうとすると、返って逆効果になるらしい。 そういえば、どぶ川で錦鯉が泳いでいるのを見たことがあるが、なるほどいい印象は受けなかった。
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