頑張る40代!plus

2006年10月31日(火) 昼ドラにハマっている

最近、昼のドラマにハマっている。
夜のドラマに比べると洗練されてはいないが、内容自体は夜ドラよりもずっと面白い。
また、夢がある。

会社を辞めてからずっと見ているわけではない。
7月中旬までは、家にいてももっぱらラジオを聴いていたので、一人でいる時はテレビを付けることはなかった。

とはいえ、嫁ブーが休みの日にはいつもテレビが付いている。
たまたまそれを目にした時、『がきんちょリターンキッズ』というドラマの予告を見てしまった。

辺見えみり扮する、何ごとも「ま、いいか」と諦めてしまう優柔不断な主人公が、自分の結婚式当日にひょんなことからタイムスリップして、16年前に戻るという内容だった。
ぼくはこういうタイムスリップものが好きなので、とりあえず1,2回見てみることにした。

見てみるとこれが面白い。
配役もいいし、これは見続ける価値があると判断して、見続けることにした。

このドラマが佳境に入った頃、その前の時間帯(午後1時)で『スイーツ・ドリーム』というドラマが始まった。
デパート勤めの3人の女性が、脱サラしてスイーツショップを起ち上げ成功を目指していく、という夢のある内容だった。
ぼくはこういう夢のあるドラマも好きなので、これまた見ることにした。

ということで、午後1時から2時までは、すべての作業をやめて、ドラマを見るようになった。
もちろん、ウォーキングの時間帯も、それらのドラマに合わしている。
先月末で『がきんちょ…』が、先週末で『スイーツ…』が終わってしまったが、その後のドラマも面白いので見ている。
最近の夜ドラは、2,3の例外を除くと、内容もないし夢もないように思う。
そのせいだろうか、視聴率も下がっていると聞く。
もし面白さあり、夢ありの昼ドラをそのまま夜に持ってきたら、もっと視聴率が稼げるのではないだろうか?

さて、何で昼ドラのことを書く気になったのかというと、ニュースを見ていてちょっと面白いことがあったのだ。
そのニュースとは、先日茨城の高校校長が自殺したニュースである。
昼ドラと何の関係があるのかというと、実はこの校長の家が、『がきんちょリターンキッズ』の舞台になった大子町だったのだ。

『がきんちょリターンキッズ』では、主人公が16年前の大子町の実家にタイムスリップし、そこで幼い頃の自分や友人、また家族に揉まれながら「決して諦めない心」をつかんだのだった。
そして現代に戻った主人公は、東京から大子町に生活の場を移し、そこで起こる数々の問題を解決していくという内容だった。

校長先生は、同じ大子町で「決して諦めない心」を失ったのだろうか?
せっかくドラマで大子町のイメージが上がったのに、これで下がらなければいいのだが…。



2006年10月30日(月) ただの趣味です

現在オリジナル曲が200曲近くあるのだが、まだ歌詞の付いてない曲や曲として完成してない曲を含めるとその数倍の数はある。
そういう曲をどうやって記録していたのかというと、カセットテープに吹き込んでいた。
ぼくは楽譜が書けないので、それしか方法がなかったわけだ。
ところがテープはすぐに伸びたりカビが生えたりするので、永久保存には向いてない。
現に何本かのテープはダメになった。
これは聞いている時に、テープがヘッドに巻き付いてしまったためである。
すぐにダメになったテープに入っていた曲を思い出しながら録音し直したのだが、元通りになったわけではない。
何曲かは抜けてしまっているのだ。

貴重な記録をこういうことで失うのは実に悔しいものである。
そこでコピーをとっておくことにした。
コピー、つまりダビングである。
そうすれば、仮にダメになっても、もう1本テープがあるから大丈夫だからだ。

しかし、この場合難点がある。
それは、音がかなり劣化してしまうということだ。
記録しているのは、ほとんどが学生時代のもので、その頃録音に使っていた機材はナショナルのラジカセだった。
こればかり敵のように使っていたため、かなり音が悪くなっているのだ。
しかも、カセットテープのお荷物であるヒスノイズ付きである。
それをダビングするのだから、とても聴けたものではない。

「これは困った、テープ以外に何かいい方法はないだろうか?」と探したのだが、カセットテープに変わるものが見つからない。
しかたがないので、ハイファイビデオに収めたりもしたのだが、これとてビデオテープを使用するので、永久保存は出来ない。

そういう時に世に出たのがMDである。
『ディスク』『デジタル録音』、探していたのはこれである。
さっそくぼくはMDの機械を購入し、カセットテープに入っている曲をすべてMDにダビングした。
その時はそれで満足したのだった。

ところがパソコンを始めてからは、録音や再生にパソコンを利用するようになり、そのせいでMDを利用することがなくなった。
カーオーディオもCDオンリーだから、MDは使えないし…。
ということで、MDも無用の長物化してしまったのだ。

そこでそれらの曲すべてを、パソコンにうつし変えることにした。
パソコンに入れておきさえすれば、いろいろ便利である。
何よりも「その曲」が聞きたい時に、すぐに取り出すことが出来るのがいい。
もちろんMDでもそれは出来るのだが、その際まず「その曲」が入っているディスクを探すことから始めなければならない。
その点パソコンは、そういう面倒がない。
保存しているフォルダがわからなくなっても、検索すれば一発で出てくるのだ。

さて、そんな化石化した利用価値のない曲を、時間をかけて何百も保存して、いったい何になるのかというと、とりあえずは何にもならない。
「青春の遺産です」とでも言えば格好もつくのだろうが、そんないいものではない。
ただの趣味である。



2006年10月29日(日)

ぼくが歩いているコースは大きく分けると、イオン回りのコース、産医大回りのコース、学術研究都市回りのコース、JR鹿児島線沿いのコースの四通りある。
この中で一番時間がかかるのが学研都市回りで、1時間20分近くかかる。
けっこう起伏があってきついコースなので、ここを歩くのは週一回くらいにしている。
またJR鹿児島線沿いのコースは、空気があまりよくないので、気分転換したい時以外は歩かない。
ということで、普段はイオン回りか産医大回りのコースを歩いている。

昨日と今日は、イオン回りのコースを採った。
昨日は買い物目的もあったのだが、今日は寝不足だったため、途中で休憩したいという理由でそのコースを歩いたのだ。
イオンにはベンチがあるし、スポーツドリンクなども売っているから、休憩するにはもってこいなのである。

ぼくは昼前に歩いている。
その時間帯、平日はいかに集客力を誇るイオンといえども、さほどお客さんは来ていないようだ。
だが、土日はさすが多い。
昨日も今日も駐車待ちの車が、道路上にあふれていた。
こういうのを見ると、「歩いてきてよかった」と思うものだ。

しかし、歩きの場合、店内に入るとちょっと困ったことがある。
それは汗である。
歩いている時はそうでもないのだが、レジなどで立ち止まった時に、どっと汗が出てくるのだ。
別に店内にエアコンが入ってないわけではないのだが、汗の量が多くて、エアコンの風ぐらいでは引かない。

で、何で汗が出ると困るのかというと、レジに並んでいると、後ろに並んでいるお客がぼくの首筋にドップリと流れている汗や、濡れているシャツを見て怪訝な顔をするのだ。
その視線に耐えられないというわけである。
まあ、気にしなければいいのだが、気にすまいと思うと、余計に気になるのだ。

これに懲りて、タオルを持参していこうといつも思っている。
ところが、ハンカチすら持つ習慣がないので、つい忘れてしまうのだ。
まあ、ポケットに入れなくても、首にかけて行けばすむ話だが、それはあまり好まない。
ぼくが歩いている時間帯にウォーキングをやっているのは、年寄りしかいないため、仲間と思われてしまいかねないからだ。
こういう時、頭が白いのは損である。

やはりぼくたちの年代のウォーキングは、早朝とか夕方にやったほうが様になっているのかもしれない。



2006年10月28日(土) 迷惑メール

今月中旬ぐらいから、女性の名前で頻繁にメールが入ってくるようになった。
開いてみると、これが出会い系のお誘いメールである。
「今、○○駅にいます。会えませんか?」
「寂しい…」
「たまには夫以外と…」
「M子のわたし。S夫さんをさがしてまーす」
などなど、よくこんなことを臆面なく書けるなあという内容ばかりである。

もちろん、そういうところに登録した覚えはない。
つまり、これは迷惑メールなのである。
ただでさえメールが多いのに、こういうメールが毎日入ってくるものだから、メールソフトはパンク寸前になっている。
どうにかしないと、ちゃんとしたメールも受け取れなくなってしまう。

ということで、さっそく受信拒否の設定をすることにした。
ところが、こういうメールはいちいちメールアドレスが違っているので、一つ処理したら終わりというわけにはいかないのだ。
設定件数にも限度があるし、何よりも面倒である。

何かいい方法はないかと探してみたら、ある共通項があった。
それは文中に書いてあるURLの存在である。
ほとんど同じURLになっている。
「興味のある方はこちらに」などと書いているから、メールはそこに登録した人からのものだろう。

ということは、そこに文句を言ってメールを出させないようにすればいい。
だが、迷惑メールを送らせるようなところが、そう簡単にこちらの言い分を聞くわけはないだろうし、このURLをクリックすることで自動登録でもされたらコトである。

とはいえ、せっかくつかんだヒントなのだ。
これを利用しない手はない。
要は、文中にこのURLを含むメールを拒否すればすむ話である。
と、サーバーを開いて設定することにした。

ところがである。
現在ぼくが利用しているサーバーは、送信元や宛先、題名などでの拒否設定は出来るものの、本文中の文字列では設定が出来ないようになっていたのだ。
ついでに他に利用しているサーバーを調べてみたのだが、出来るのはYahooメールだけだった。
ということは、先方にYahooのほうに送ってもらえばいいのだ。
しかし、先方に「こういう事情ですので、Yahooのほうに送って下さいませ」とも言うわけにもいかないし…。

そこで、思い切って送信元のドメインで設定することにした。
実は、メールアドレスはまちまちなのだが、ドメインだけを見ると、なぜかたったの3つしかないのだ。
大手プロバイダのものばかりである。
そのドメインのメールを切りさえすれば、迷惑メールはこなくなるわけだ。
そのサーバーに入ってくるメールは、ほとんどが企業からのもので、プロバイダドメインのメールが入ってくることはないから、問題はない。
これで、しばらくの間は迷惑メールが入ってくることはないだろう。



2006年10月27日(金) 唐揚げ定食が食べたい

毎日1時間のウォーキングと、昼飯抜きの生活が続いている。
おかげで9月頃まで背中についていた贅肉はほぼなくなり、腹回りの贅肉も少しは減ったようである。
この生活をやめてしまうと、また元通りになってしまうだろうから、やめるわけにはいかない。

さて今日のこと。
いつものようにぼくは昼飯を抜き、1時間ほど歩き家に帰った。
今日は嫁ブーは休みで、ぼくが帰った時には寝ころんでテレビを見ていた。
ぼくが帰って来るなり、嫁ブーは「ちょっとこの番組見て」と言う。
何かと思って見てみると、福岡市内にある料理屋の紹介をしており、そこのメイン料理である唐揚げ定食をレポーターがおいしそうに食べていた。
それを見て、急に腹が減ってきた。

いつもならこういう場合、買い置きしてある「ぽたぽた焼」を2,3枚食べて空腹をしのぐのだが、あいにく今日はそれを切らしていた。
そのせいで、無性に唐揚げ定食が食べたくなってしまったのだ。
そこでぼくは嫁ブーに聞いてみた。

「このへんに唐揚げ定食を出す店あったかのう?」
「唐揚げ定食…、ああ、これ見て食べたくなったんやろ?」
「おう」
「ここで食べたら、また太るよ」
「晩飯抜けばすむことやないか」
「そりゃそうやけど」
「唐揚げ定食、どこかあったかのう?」
「ケンタッキーに行けばいいやん」
「ケンタッキーと日本の唐揚げは違う」
「うーん。急に言われても出てこんねえ…」

「しかたない、あそこに行くか」と、ぼくは嫁ブーを誘って車に乗り込んだ。
「どこに行くと?」
「峠ラーメン亭」
「え、あそこまで?」

峠ラーメン亭とは、このブログで以前、チャンポンがおいしいと紹介した店である。
店の名前が『峠ラーメン亭』となっているが、扱っているのはラーメンやチャンポンだけではない。
普通の定食もあるのだ。
その峠ラーメンは市外にあり、家からだと車で30分近くかかる。
唐揚げ定食ぐらい、そんなに遠出しなくても、近くにあるだろう。
だが、それを探して回るとなると、とても30分では見つからない。

ということで、車に乗ってから30分後に峠ラーメン亭に着き、それから10分後に、念願の唐揚げ定食を口にしたのだった。
その味は絶品だった。
いや、もしテレビを見ずに唐揚げ定食を食べていたら、おいしいとは感じても、絶品とまでは感じなかっただろう。
やはり食べたいものは、食べたい時に食べるのが一番おいしいということである。
もちろん晩飯は抜いた。



2006年10月26日(木) 思うこと

4月頃だったか、このブログを読んだ人が、あるところに「40代のくせにグチを書いて情けない」というようなことを書いていた。
4月といえば、倉庫に移った頃で、きつい思いをしていた時だ。
まあ、その頃の記事だけ読めば、グチと思えるかもしれない。

だが、このブログ5年間の記事を読めば、このブログが決してグチのブログではないということや、なぜその時期にグチを書いたかがわかると思う。
その人はきっと、その日のネタがなかったために、このブログを批難するような文章を書いたのだろう。

ここで反論させてもらうとするなら、こういうところにグチを書くというのは、しかもそれを人に読ませようとするのは、それだけ気持ちに余裕があるということだ。
それだけ自分が客観的に見えているからだ。
それがなければ、ブログなんて書かないだろう。

しかし、人の批難を書くのは簡単なことである。
ネタ元はあるのだし、あとはそれを批難する文章を書けばすむからだ。
逆にグチを書くのは難しい。
なぜなら、ネタ元が自分にあるからだ。
ということで、今日は楽に記事が書けました。



2006年10月25日(水) 東京行き延期

東京行きが延期になってしまった。
ということは、就職がまたおあずけになってしまったということだ。
先方から「追って連絡する」と言ってきてはいるものの、これまでずっと延期されてきたことを考えると、この件はとりあえずなかったこととしておいて、他の道を探ったほうがいいのかもしれない。
こちらも生活がかかっているので、ここでのんびりしているわけはいかないのだ。
確かにいい話ではあった。
だが、いつまでもまとまらない話をいい話とは呼べない。
この3ヶ月間いい夢見させてもらったということで。今回のことはいちおう収めておいて、今後の対策を練っていくことにする。



2006年10月24日(火) 半日遅れの日記

嫁ブーが同窓会でいなかったため、今日は晩食にスーパーで買った寿司を食べた。
もちろんビールを飲みながらであるが、どうもそれが悪かったようだ。

今日は冬を思わせるような寒さだったために、元々体が冷えていた。
そこに、寿司とビールという冷たいものを押し込んだのだ。
そのために、さらに体は冷えてしまった。

こういう場合もろに影響を受けるのは腸である。
突然下腹が痛くなって、トイレに駆け込むことになるのだ。
だが、今日は幸いそれはなかった。

問題の箇所は胃だった。
晩食後しばらくして、胃が張ってきたのだ。
特に痛みなどはなかったので、気にしなければ気にならなかったのだろうが、気にしてしまったために気になってしまった。

そうなると、俄然やる気をなくしてしまう。
家に誰もいないから、気兼ねなくビデオを見たり、音楽を聴いたり、ギターを弾いたりしようと思っていたのだが、それらすべてに嫌気が差してきた。

こうなったら寝るしかない、と10時に床に就いた。
普段深夜3時過ぎに寝ているぼくにとっては、かなりの早寝である。
こういう場合なかなか寝付かれないものだが、普段の寝不足のせいで、すぐに寝付いてしまったようだ。

その後、朝8時まで、しっかりと寝ていた。
途中、嫁ブーが帰ってきたようだが、それも夢の中の出来事のように感じたものだった。

目が覚めてから、嫁ブーを送っていき、家に帰ってボーッとしていたのだが、しばらくして日記を書いてないのに気づき、今こうやって日記を書いているわけである。

胃のほうはというと、朝起きてからこの日記を書くまで忘れていた。
きっとよくなったのだろう。
違和感はない。



2006年10月23日(月) 録音

そういえば、最近プレイヤーズ王国に曲を上げてない。
別にネタ切れしたわけではない。
もうどうでもよくなったのだ。

最初のうちは、より多くの人により多くの歌を聴いてもらおうと、2週間おきに曲を上げていたが、ポッドキャストという便利な機能が出来てからは、ブログがプレイヤーズ王国に取って代わった。
こちらの方がより多くの人により多くの歌を聴いてもらえるし、制約も少ないのだ。

プレ王にあってブログにない機能は、ランキングくらいだろうか。
だが、ぼくは元々ランキングものが好きではないので、別にいらないものである。

ところで、最近はそのブログのほうも曲を上げてない。
仕事を辞めてから、充分に時間がとれるようになったので、録音のひとつもしてみようとは思っているのだが、昼間音を出すことに躊躇してしまう。

19歳から20歳にかけて、家に引きこもって一日中ギターを弾いて大声を張り上げていた。
そのせいで、近所の人から「勉強も仕事もせんで、毎日ギターばかり弾きよるばい」と白い目で見られていたのだが、昼間ギターを弾こうとするといつもそのことを思い出してしまい、自然と音が小さくなる。
音が小さくなれば、外から入ってくる車や工場の音を消すことが出来ない。
こういったわけで、録音が出来ないでいるのだ。

とはいうものの、ギターは毎日弾いている。
そのおかげで、一番上手かった頃の技術を取り戻しつつある。
せっかくここまでになったのだから、出来たら録音したいものである。
上記のことがあるので、家では無理そうだから、スタジオでも借りてやってみるか。



2006年10月22日(日) そろそろ求職活動に本腰を入れなければ

タマコの結婚式も終わったし、そろそろ求職活動に本腰を入れなければならない。
そのために前々から職業訓練をしているのだが、いよいよまとめの段階に入った。
あと一歩である。
その成果を武器に企業に殴り込みに行こうと思っているのだ。

ところが、そのまとめがまとまらないで困っている。
今日をその初日に充てたのだが、たったひとつの項目をまとめるのに、5時間も要してしまい、他の項目まで進めなかった。
普段なら1項目1時間もあればまとまるのに、初日からこんなことではこの先心配である。
10項目ほど仕上げるつもりでいるのに、この調子では、いつまで経っても出来上がらない。

なぜそんなに時間がかかってしまったのか。
いろいろ考えてみたが、原因は疲れである。
そのために、なかなか心技体が揃わないのだ。
集中力も散漫になっており、ちょっとしたことにすぐ意識が反応してしまい、手元が狂ってしまう。
そうなると、また一からやり直しである。
訓練段階で、いつもそうなっていたので、今日はそうならないようにと、早い段階から自分に「大丈夫、出来るんだ!」と言い聞かせていた。
が、大丈夫ではなかったようだ。

で、ぼくはいったい何をしているのか?
職業訓練とは何か?
何をまとめているのか?
何で疲れているのか?
そういう質問はもう少しお待ち下さい。
その時が来たら、発表しますので。



2006年10月21日(土) コングラチュレーション!

それが何であれ、『式』というものは常に緊張感を伴うものである。
だが、見方を変えると、それは可笑しいものになる。
今日の結婚式もそうだった。

まず見せられたのがこれ。


昼間からいきなりのキスシーンである。
教会でやる結婚式に出席したのは初めてだったが、もちろん式中にキスシーンがあるというのは、映画やテレビなどで見たことがあるので知ってはいた。
だが、『口づけ』というのはあくまでもドラマの中の演出であって、一般的には額や頬にするものだと思っていた。
しかし現実はこうだった。
ここでBGMが変わったくらいだから、非常に感動的なシーンなのだろう。
特に女性にとってはそうだと思う。
だが、それをやっているのがタマコだと思うと、ぼくは可笑しくてならなかった。

教会の厳かな雰囲気の中、外国人神父の声が響き渡る。
会場にいる人は皆、緊張感を持ってそれを聞いている。
だがぼくの意識は、外国人神父の片言の日本語に注目する。
「神の愛」「夫婦の愛」
キリスト教はやたら「愛」を連発するものだが、この外国人神父は「愛」を「アーイ」と発音するのだ。
ぼくはそれがおかしくてたまらない。
しかし、厳粛な教会の中、笑うわけにはいかない。
が、笑ってしまった。

それにも増しておかしかったのは、タマコの声だった。
「タマコさーん」
「あい(はい)」
「…この祈りの席に、心から節操を守ることを誓いますか?」
「あい、誓いまーす」
緊張感のない間延びした声、まるでいつもの口調なのだ。

お色直しのたびにタマコは披露宴会場を退出する。
スポットライトはその姿を追い、MCはその姿を言葉で飾る。
ドレス姿のタマコ、ライトアップされたタマコ、ナレーション付きのタマコ、まるでファッションモデルのようだ。
そこに出席していたすべての人が、盛大な拍手でタマコを見送った。
しかし、もしこの演出がなかったとしたら…。
実は、タマコはいつものように、ノシノシと体を揺らしながら歩いていただけなのである。
ぼくはそれに気づいて、ひとりで笑っていた。

ということで、今日はタマコの結婚式の模様をお伝えしました。



2006年10月20日(金) 困ったこと

『西鉄によると、8月21日午後1時すぎ、花畑駅(同県久留米市)を起点に勤務に入る運転士が、乗車前に義務付けられているアルコール検知を花畑乗務所で受けた際、道路交通法で「酒気帯び」とされる呼気1リットル当たり0.15ミリグラムを大きく上回る0.24ミリグラムを検出した。

 運転士は検査に立ち会っていた助役に対し、一緒に乗車する車掌に代わりに二次検査を受けさせるよう依頼。助役から"替え玉"の要請を受けた車掌が検知器に息を吹き掛け、基準をクリアしたように見せ掛けた。

…運転士は「前日の花火大会で缶ビール2本と焼酎を紙コップで1杯飲み、午前零時ごろに寝た」と証言した…』(10月20日西日本新聞の記事より)

最近よくニュース等で見かける、飲酒・酒気帯びによる事件(?)である。
別にこの記事を読んで、「ひどい話だ」だとか「西鉄は何をやっているんだ」などと思ったからここに引用したわけではない。

では、何で引用したのかというと、それが明日のタマコの結婚式に絡んでくるからである。
この運転手は、前日酒を飲んだあと午前零時に寝ている。
で、アルコール検査を受けたのが午後1時である。
ということは、13時間経ってもアルコールは抜けないということになる。

明日の結婚式は午前11時で、披露宴は正午からだ。
ということで、正午からおよそ2時間、アルコールを口にすることになるわけだが、実は明日は午後9時過ぎに嫁ブーを迎えに行かなければならないのだ。
先の記事のように13時間も酒が抜けないということになると、飲んだら迎えになんか行けないではないか。

アルコール抜きの披露宴なんて考えられない。
知らない人の面白くもないスピーチや、下手くそなカラオケをしらふで聞かなければならないなんて地獄である。
何か対策を立てなければ…。



2006年10月19日(木) 祝福

先日書いた知人の結婚式が明後日に迫っている。
他人の結婚式なんて別に興味はないだろうが、いちおうその人を紹介しておく。
なぜなら、このブログにその人のことを何度も書いているからだ。

その人は、天才バカボンのような顔をした女性で、いつもとんちんかんな言動で周りから失笑を買っていた。
そういう人でも結婚できるのだから、結婚というのは顔や頭の良し悪しでするものではなく、縁でするものだということがよくわかる。

で、その人とはいったい誰なのか。
それはタマコである。



式は教会でやるらしく、小倉に朝10時半に集合しなければならない。
余裕を持って1時間前に家を出ようと思っているが、わざわざタマコのウェディングドレス姿を見るだけのために、朝早く家を出るのもねぇ…。
まあ、タマコのことだから、きっと何かやらかしてくれると思う。
今はそれだけが楽しみだ。



2006年10月18日(水) 半纏

昼間、半袖を着て歩き回っているのを考えると嘘のようだが、ぼくは夜間、すでに半纏を羽織っている。
天気予報で「この時期は気温の変化が激しいので、衣服の調整が必要」と言っていたのを聞いて、さっそく行李から引っ張り出して着ているのだ。
例年だと11月の後半ぐらいから着始めるから、1ヶ月以上も早く半纏のお世話になっているわけだ。
おかげで体が冷えることがなくなった。
毎年この時期に体調を崩していたが、今年はそれがない。

とはいえ、いいことばかりではない。
体が冷えないのをいいことに、どこででも寝てしまうのだ。
まあ、だからといって風邪を引いたりするわけではないが、板張りなどで寝るために、起きた時に体の節々が痛かったりする。
これはきっと、下が堅いためにスムーズに寝返りが打てないせいだろう。

寝ころぶ場所で一番多いのは、テレビの置いてあるリビングである。
寝ころんでテレビを見ながら寝てしまうわけだが、そのためにテレビや照明といった電気類の消し忘れが多くなっている。
嫁ブーが消せば問題ないのだが、彼女もまたテレビを見ながら寝てしまう口なのだ。

実は、今日の日記は朝の6時半から書いている。
なぜそんなに遅くなったのかというと、テレビを見ながら寝てしまったからである。
たぶん眠りに就いたのは12時を過ぎた頃だと思うが、それから6時過ぎ目が覚めるまで、リビングのテレビと照明、及びぼくの部屋のパソコンと照明はつきっぱなしだった。
ということで、この時期の我が家は、無駄に電気を消費する家庭になっている。

半纏を着なければ、こういうこともなくなるのだろうが、もう癖になってしまっているので、それは難しい。
「ま、風邪を引くよりはいいや」と割り切るしかないか。



2006年10月17日(火) ご飯1杯を我慢している

最近のぼくの献立は、朝がパンかコーンフレーク、昼が麺類、夜がビールとつまみとなっている。
給食流に言えば「ビール、パン、おかず」となるわけだ。
米は「肥満気味」を解消するために一時的に控えている。

とはいうものの、まったく米を食べていないわけではない。
昼間ラーメン(インスタント)を食べる際には、中に餅を入れている。
また、職業訓練に熱中した時に、昼を抜くことがあるのだが、その際は「ぽたぽた焼」という米菓を食べている。

しかし、本当はそんなまやかしではなく、ちゃんとご飯を食べたいのだ。
ビールとつまみだけという味気ない晩飯では物足りないから、せめて1杯だけでもご飯が食べたい。
明太子やノリの佃煮をおかずにして食べる玉子かけご飯は最高である。
だが、これまで毎日それをやっていいたから「肥満気味」という結果が出たのだ。
それゆえに、解消するまで「ご飯1杯」は我慢するしかないだろう。

とはいえ、「肥満気味」の元々の原因は運動不足である。
これを解消しさえすれば、「ご飯1杯」を我慢する必要はないのだ。
ということで10月に入ってから、毎日1時間以上のウォーキングや、柔軟運動や筋肉トレーニングを始めたわけだ。

今日が17日だから、もう2週間以上続けていることになる。
おかげで、これまで「肥満気味」の中位まで行っていた体脂肪計の目盛りも、今ではもう少しで「標準」というところまできている。
また、体も少しは柔らかくなったようで、月初「出来ない」と憂えていた立ったままでのズボン履きも、何とか出来るようになった。

ここまでくれば「ご飯1杯」を解禁してもよさそうなものだ。
だが、せっかくここまできたのだから、一気に「標準」の中位まで持っていきたいのが人情である。
出来たら体重を、理想にしている70キロまで落としたい。
ということで、明太子やノリの佃煮をおかずにして食べる玉子かけご飯は、当分おあずけである。



2006年10月16日(月) 給食

小学生の頃、給食を食べる順番というのが決まっていた。
それは「ミルク→パン→おかず」の順番で、6年間通して変わらなかった。
ミルクと言っても、途中までは脱脂粉乳で、牛乳が出るようになったのは高学年になってからだ。
だが、それも毎回出ていたわけではない。
これまでの記憶では、ある時期を境に脱脂粉乳が牛乳に変わったと思っていたが、どうもそれは記憶違いだったようだ。

6年の頃の記憶に『しんた流』なる食べ方があった。
ぼくはいつもおしゃべりばかりしていたので、食べるのが遅かった。
中でもパンを食べるのに時間がかかっていた。
それを解消するために、パンにミルクに浸して食べていたのだ。
今では珍しくない食べ方であるが、当時は「汚い」だの「気持ち悪い」だの「行儀が悪い」だの言われていたものだ。

その『しんた流』をやるにはミルクは食器に入っていなければならなかった。
当時の給食で出ていた牛乳はオーソドックなビン入りではなく、現在ほとんど見かけないテトラパック入りだった。
テトラパック入りの牛乳は、小さな穴にストローを突っ込んで飲むので、当然『しんた流』は出来ない。
ということは、6年の頃にも食器入りのミルク、つまり脱脂粉乳が出ていたということだ。

『しんた流』食べ方の利点は、給食を早く食べられることだけではなかった。
脱脂粉乳は味がまずいだけではなく、飲み始めに口にまとわりつく膜と、飲んだあとに口の中に残る粉が気持ち悪かった。
そういうものを、そのまま飲むこと自体おかしい。
『しんた流』を採用することにより、脱脂粉乳のまずさはパンに浸透することによりミルクパンに変わり、膜や粉はそのままパンの具になった。
つまり『しんた流』には、そういう脱脂粉乳のまずさや気持ち悪さを解消してくれるという利点もあったのだ。

ただ、先にも書いたが、テトラパックでは『しんた流』が使えない。
そのため、テトラの日はいつも食べるのが遅くなっていた。

ところで、おかずはだいたい野菜や肉が中心だった。
だが、時々毛色の違ったものが「おかず」として登場することがあった。
『みつ豆』『フルーツポンチ』『ぜんざい』などがそうであるが、いったいこれらのどこが「おかず」と言うのだろうか。
どう考えてもデザートである。

まあ、おいしかったから文句は言わなかった。
だが、これらが「おかず」というわけだから、その日の給食の組み合わせは無茶苦茶である。
冒頭に書いた給食の順番どおりに食べるとなると、例えば「ミルク→パン→みつ豆」といった順番に食べていかなければならないことになる。
この順番がリピートするわけだから、「みつ豆」のあとには「ミルク」がくる。
つまり「みつ豆」と「ミルク=脱脂粉乳」が口の中で混ざりあうことになるのだ。
もちろん「フルーツポンチ」と「ミルク」、「ぜんざい」と「ミルク」の時もある。
果たして今、こういう組み合わせで食べることが出来るだろうか?



2006年10月15日(日) Yシャツと私

今週の土曜日、結婚式に呼ばれている。
3年前の義弟の結婚式以来ということになるわけだが、先週からそのことでバタバタしている。
何でバタバタしているのかというと、長袖のYシャツがないのだ。
いや、厳密に言うとあるのだが、どれも10年以上前に買ったヤツばかりで、今では着れないのだ。
3年前の結婚式は夏だったので、礼服の下は半袖だった。
昨年の秋にお通夜に行ったのだが、その時も同じ組み合わせで行った。

ぼくは会社時代、四度配属先が変わった。
二度目までは、Yシャツとネクタイというのが定番のスタイルだったが、それ以降の配属先では、別にYシャツもネクタイもしなくていい部署だった。
元々ネクタイをするのが嫌いだから、それ以来ぼくはYシャツ・ネクタイをやめたのだ。
結婚式だの葬式だのは、年に何度もあるものではないから、特に新しいものを買う必要もない。
別に体型が極端に変わるわけでもないから、それまで着ていたものを使えば充分だと思っていた。

それが甘かった。
こちらの体型が変わらなくても、Yシャツのほうが勝手に縮んでしまうのだ。
先週、家にあるYシャツに袖を通してみると、そのほとんどが縮んでいた。
体型のせいではない。
なぜなら、縮んだ部分は袖だったからである。
他の部分は特に変わってなかった。
で、袖がどのくらい縮んでいたのかというと、大半が3〜5センチ程度、酷いのになると10センチも縮んでいた。

そんな中で縮んでないものも何着かあった。
だが、ずっとタンスの中に入っていたせいで、変色してしまっていた。
とりあえず、それをクリーニングに出したわけだが、色のほうは保証できないというのだ。
もし色がそのままだったら、家で漂白してみようとは思っている。
が、それで縮みでもしたら大変だし、第一そんなことをしていて結婚式に間に合うのだろうか?
やはり、1着買っておくべきか。



2006年10月14日(土) 釣り師オナカ君

昼間、友人のオナカ君から電話がかかってきて、「今から釣りに行くけど、来んか?」と言う。
オナカ君は釣り師であるが、ぼくは釣りはしない。
糸に針を付けたり針に餌を付けたりと、準備が面倒そうだし、何よりも生臭いのが嫌である。
だが釣りを見るのは嫌いではない。
ということで、所用をすませてから、オナカ君が釣りをしている芦屋の柏原漁港へ向かった。

着いてみると、オナカ君は複雑な顔をして糸を垂れていた。
開口一番、「全然釣れん」と言う。
「ここは釣れる場所なんか?」
「前はここでたくさん釣れたんやけど…」
周りには家族連れで釣りにやってきている人もいたが、誰もが浮かぬ顔をしている。
「周りの人も釣れてないみたいやのう」
「おう…」

1時間ほどたっても、まったく釣果がない。
もう夕方である。
周りにいた人は諦めたようで、次々と帰って行った。
それを見てオナカ君も「やっぱりダメやのう…」と言った。
だが、釣り師オナカ君は諦めてはなかった。
「場所変えよう」と言うのだ。
「どこに行くんか?」
「遠賀川の河口堰。あそこはボラが釣れる」
ということで、ぼくたちは遠賀川河口堰に移動した。

なるほど、河口堰は釣れるのだろう。
釣り人の数は、柏原漁港よりも多かった。
川面では魚が飛び跳ねているし、川底にはいくつも魚影が見える。
「ここは釣れるんやのう」
「まあな。でも、あそこにおる人たちは釣れてないと思うぞ」
「えっ、何で?」
「釣り竿見てみ。ルアーやろうが」
と言われても、ぼくはルアーが何なのか知らない。
「竿と関係あるんか?」
「あるよ。ここはルアーじゃ釣れんのよ」

と、釣り師オナカ君がうんちくを語っている時だった。
竿がしなったのだ。
「おい、来たぞ」
オナカ君はゆっくりとリールを回し、引き上げた。
ボラである。
体長は30センチ強というところだった。
ところがオナカ君は「50センチやの」と言う。
さすがに釣り師である。

ボラは狭いバケツの中に、頭から突っ込まれた。
態勢が悪かったのか、何度も何度も体を揺らして向きを変えようとしていた。
ぼくがそれを見ていると、ボラは恨めしそうにぼくの顔を見た。

ちょっと哀れに感じたぼくが「このボラ、まさか今日死ぬとは思ってなかったやろうのう」と言うと、オナカ君は「ボラがそんなこと思うわけないやろ」と言った。
このへんが『詩人しんた』と『釣り師オナカ君』との感性の違いだろう。



2006年10月13日(金) 13日の金曜日

【13日の金曜日】
そうだった。
今日は13日の金曜日なのだ。
キリストが磔にあった日ということで、キリスト教徒がもっとも忌み嫌う日である。
元々この日は、ただの13日の金曜日に過ぎなかった。
ところが、キリスト教ナイズされた人間が、まことしやかに「不吉、不吉」と言いだしたものだから、いつの間にか仏滅や三隣亡と同じく、厄日に数えられるようになってしまった。
これに天中殺や大殺界など占いの凶日などを加えたら、日本は厄日だらけになってしまう。
これでは景気は回復しないだろう。

【キリスト教の教え】
ところで、ぼくはキリスト教とまったく無縁なわけではない。
幼い頃、ミッション系の保育園に通っているのだ。
そこでキリスト教の儀式みたいなのもをやった覚えがある。
例えば、昼食はいつも「天にまします我らの父よ。願わくは…」などとお祈りしてから食べていたし、金曜日は園内にあるお御堂に行ってお祈りしていたものだ。

また、金曜日は肉を食べてはいけないなどと教えられた。
ところが、金曜日というと、我が家はいつもカレーライスだった。
子どもの教育に熱心で、そのためにわざわざ洗礼まで受けた伯母が作っていたのだが、しっかりと肉は入っていた。

ぼくは4歳の頃から2年間その保育園に通った。
心理学では、そういう時期に受けた教育というのは、後々まで残るというようなことを言っているが、ぼくは何も残ってはいない。
しいて残っているものといえば、悪いことをした時に閉じこめられていた物置の恐怖ぐらいだ。

その物置は狭く、戸を閉めると光と外気を遮断した。
当然中は真っ暗になり、カビ臭さだけが残る。
それが恐怖を誘い、地獄に堕ちた感じがするのだ。
おそらく先生は、悪いことをすると地獄に落ちるということを教えたかったのだろう。
だが、結果的には、「暗く狭い場所」に対する恐怖心を植え付けられただけだった。



2006年10月12日(木) いいこと、悪いこと

【いいこと】
1,
就職の件である。
今日、現在打診しているところと違う会社からオファーがあった。
現在打診しているところでほぼ決まりかけているのだが、その会社の話も聞いてみようと思う。
どちらも東京だから、月末その会社にも訪ねてみようと思っている。

2,
金運が良くなるような兆しあり。
いや、前述の仕事とは関係ない。
別の話である。
プライベートなことなので詳細は書けないが、今までのしがらみからおさらばできそうなのだ。

3,
ラジオで言っていたが、満年齢が4で割り切れる年は、変革の時だそうだ。
現在ぼくは48歳なので、4で割り切れる。
ということは、今回の退職は、運命に従っていたということだ。
つまり、必然だったということだろう。
別にいいことではないが、なぜかホッとしている。


【悪いこと】
プレーオフ第2ステージである。
いくら和巳がいいピッチングしても、点が入らんと勝てんわい!
これだけです。



2006年10月11日(水) 嫁ブーと猫

ぼくが猫好きであることは、この日記にも何度か書いたことがある。
とにかく猫を見つけると、思わず「チ、チ、チ」と舌を鳴らして呼んでしまう。
猫嫌いの嫁ブーはそれを聞くと、すぐに「呼びなさんな。来たらどうするんね」と言う。
だが、近寄ってくる猫はまれで、ほとんどの猫は立ち止まって振り向きはするものの、あとは知らん顔して去っていく。

先月だったか、嫁ブーと街を歩いていると、一匹の黒猫が道ばたに座っていた。
例のごとくぼくが舌を鳴らして呼ぶと、「ニャー」と言いながらノコノコとこちらに向かってきた。
すると嫁ブーは「キャー」と言って走って逃げた。
ぼくは何人かの猫嫌いを知っているが、走って逃げるのは嫁ブーぐらいだ。
嫁ブーは猫嫌いというより、猫恐怖症なのだろう。

しかし、何で猫が恐いのだろうか?
まあ、こういう恐怖症というのは、幼児体験の影響が大きいと言うが、嫁ブーの場合は、猫から被害に遭ったような経験はないらしいから、それが当てはまらない。
そこでぼくは、それを前世と結びつけている。
嫁ブーの顔は鳥に似ているのだが、おそらく前世は鳥そのものだったのだろう。
だから、猫が恐いのだ。

例えば、下のような写真を見ても怖がるのだから、よほど猫が恐いのだろう。




そういえば、7月に嫁ブーと食事に行った時に、食事の途中で嫁ブーが急にソワソワしだしたことがある。
「どうしたんか?」と聞くと、嫁ブーは「あれ」と言って、ぼくの後ろを指さした。



これが「あれ」である。
その店の飼い猫が、イスの上で気持ちよく寝ていたのだ。
嫁ブーはこれを見てから、まったく食事に手を付けなくなった。
そして、ぼくに「先に出とくけ」と言って、さっさと店を出ていったのだった。

こんなにかわいい猫の、どこがどう恐いのだろうか?
猫好きのぼくには、それがわからない。



2006年10月10日(火) 歩いている

先月末に血圧を測ってみると、若干数値が高くなっていた。
これも運動不足のせいだと思い、10月に入ってから毎日歩くようになった。
近くの神社に参拝したあと、いろいろとコースを変えて1時間程度歩くのだ。
最初の頃は歩き始めにいつも息が切れていたのだが、最近はそれがなくなった。
階段の上り下りにも苦痛を感じなくなったし、体も多少柔らかくなったようだ。
ポロポロ流れる汗も心地いい。
その汗を秋の風がぬぐってくれるのも気持ちいいものだ。

ただ、いいことばかりではない。
ふくらはぎの筋肉痛がなかなか引かないのだ。
特にひざの裏とアキレス腱の上部が痛い。
また筋肉が付いてきたのもあるのだろうが、全体に腫れて硬くなっている。

若い頃なら三日で治まっていたのに、今日でもう十日痛いわけだ。
これは年のせいというのもあるだろう。
だが、それよりも、これまでの運動不足が祟っているのだ。

とはいえ、筋肉痛というのは健康的である。
運動することによって起こる痛みだし、長引いても慢性化することはない。
何よりも押さえると痛気持ちいいのが実にいい。
また治りがけに痙攣することがあるのだが、これまた気持ちいい。
頭痛や腹痛はいただけないが、こんな痛みなら大歓迎である。


(「ひびきの学研都市」あたりの空。間違ってマクロで撮ってしまった)



2006年10月09日(月) プレーオフ第1ステージ

(1)
この3連休の楽しみは、何と言ってもパリーグのプレーオフ第1ステージだった。
ホークスが、一昨年のプレーオフでやられたライオンズを撃破するシーンと、レギュラーシーズン終盤の不振を払拭する姿を見たかったのだ。
結果はご存知の通りで、第1戦は惜敗したものの、2戦3戦に快勝、見事に憂さを晴らしてくれた。

ここに来てようやく投手陣の勝利の方程式が確立したし、不振だった打線も息を吹き返した。
何よりも大きいのは、勢いを味方に付けたということだ。
一昨年のライオンズや昨年のマリーンズを見てもわかるとおり、プレーオフは勢いを味方に付けたほうが勝利を手にしている。
というわけで、明後日からの第2ステージが非常に楽しみになってきた。

さて、この第2ステージでホークスが3勝すると、ホークスが1位通過のファイターズをさしおいて今シーズンのパリーグ覇者となるわけだが、そうなった時、初めてファイターズ関係者はプレーオフ制度に矛盾を感じることにだろう。
しかし、不平を口することは出来ない。
なぜなら、ホークス以外のチームは、すべてプレーオフ制度に賛成したからだ。

今年のホークスのテーマは『倍返し』だったが、この勢いで『3倍返し』も『4倍返し』もやってもらいたいものである。

(2)
昨日のスポーツニュースを見て思ったのだが、ああいうふうに流すと誰でも昨日の試合の立役者は松中のように思えるだろう。
確かにプレーオフで不振に喘いでいた松中の5打点の活躍、とりわけ9回表のホームランは印象的だったし、ヒーローインタビューでの涙は感動を呼んだ。

だが、昨日の本当の立役者は、4回に逆転打を放った仲澤である。
結果的にこの一打で勝敗が決まったわけだから、その功績は松中よりも大きい。
ところが、今日同点打を打った稲嶺はちゃんとお立ち台に上げていたのに、昨日の仲澤については何もなかった。
ちょっとかわいそうである。



2006年10月08日(日) レコード盤

(1)
ぼくの部屋には数十枚のLP盤と数枚のEP盤がある。
そのほとんどが70年代及び80年代前半に買い集めた物である。
ジャンルはというと、圧倒的にフォークやロックものが多く、歌謡曲などは1枚もない。
レコードプレーヤーがあるので、聴こうと思えば聴けるのだが、レコードは扱いが面倒だし、そのほとんどをCDで持っているため、今はほとんど聴くことはない。

この中には、そこそこの値で売れるものもあるかもしれない。
だが、レコードの状態が良くないので、おそらく額面通りには売れないだろう。
なぜ良くないのかというと、必死にクリーニングをやっていたからである。
いたのだが、どうもノイズが気にかかる。

今でこそ、レコードはノイズがあるからいいなどと言われているが、その頃のぼくは、いい音でカセットテープに録音しようとしていたので、ノイズはタブーだった。
そのために、普通にスプレーとクリーナーでクリーニングするのではなく、中性洗剤で洗い、陰干ししていたものだ。
しかし、洗い方が下手だったので、ラベルの部分が濡れてしまい、ふやけたり、破れたりしている。
実家にまだ何枚かSP盤が残っているのだが、ぼくの持っているLP盤やEP盤と比べると、そちらのほうがレコードとしての見た目はきれいなのである。

(2)
レコード盤というのは、33(1/3)回転のLP盤、45回転のEP盤、78回転のSP盤、一般的にはこの三種類だったが、ぼくの記憶の中にもう一つの回転数がある。
それは16回転である。
これを何盤というのかは知らないが、祖父が持っていた浪曲のレコ−ド盤はこの回転数だった。
昭和40年代中頃まで家で活躍していた電蓄には、この回転数の切り替えがついていたので聴くことが出来た。
しかし、その後買った電蓄には、33回転と45回転と78回転しかついておらず、そのため浪曲のレコードは聴くことができなくなった。

現在実家に16回転のレコ−ド盤が残ってないのは、おそらく母が「聴けないものを置いていても邪魔になるだけ」という理由で捨てたからだと思うが、考えてみると、16回転のレコード盤というのは、ある意味78回転のSP盤よりも価値があったのではないだろうか?
それを考えると、惜しい気がする。



2006年10月07日(土) 腹が痛い

昨日の夜から下腹あたりが疼いていた。
だが、痛みはそこまで酷くはなく、風呂に入っているうちに治ってしまった。
朝起きてからも何ともなく、いつものようにウォーキングに出かけた。

ところが、家に帰ってプレーオフを見ていた時に、またしても下腹が疼き出した。
昨日よりも痛みが増していた。
そこでしばらく横になっていたのだが、目が覚めると痛みは治まっていた。

そのまま何ともない状態が続いたので、もう治ったのだろうと思っていたら、夜また痛みが走りだした。
今度は腹全体だ。
慌ててトイレに駆け込むと、下痢である。
出すものを出してしまうと、何とか楽になった。
とはいえ、痛みが完治したわけではない。
いまだに痛みの波がやってくるのだ。

何でこんなことになったのだろう?
まさか虫垂炎ではないだろうか。
何日か前にビデオを見ていたら、その中に、主人公が虫垂炎で病院に運ばれるシーンがあったのだが、それが妙に頭にこびりついて離れないのだ。

「あのシーンは運命の暗示だったのかなぁ…。となると、嫌でも病院に行かなければならない」
と、ちょっと落胆していた時だった。
忘れていたことを思い出した。

それは、昨日の昼間のことである。
新聞を整理していると、井筒屋(地元のデパート)のチラシが出てきた。
催事場で『鹿児島物産展』をやっているらしい。
それを何気なく見ていたのだが、何とそこに『森伊蔵』の写真が載っているではないか。
そこで、さっそく嫁ブーと井筒屋に行ったのだった。

ところが、会場のどこを探しても『森伊蔵』は見あたらない。
嫁ブーが「やっぱりネットじゃないと買えんのやないと?」と言う。
「そうかのう。でも、チラシにはちゃんと写真が載っとったやないか」
「じゃあ、聞いてみたら?」

そういう話をしている時だった。
ぼくは一瞬にして『森伊蔵』を忘れた。
これが目に飛び込んできたのだ。



鹿児島名物の『白くま』である。
コンビニのアイスクリームコーナーで、カップに入ったやつは食べたことはあるのだが、本物はまだ食べたことがない。
「おい、あれ食べるぞ」
「えっ?この時期にかき氷なんか食べると、お腹こわすよ」
「あれ食べたぐらいで、腹をこわすわけないやないか」
と、半ば強引に嫁ブーを誘い、『白くま』を食べたのだった。

腹痛の原因はこれだろう。
昨夜、嫁ブーも「胃が痛い」と言っていたし、まず間違いないだろう。
原因がわかったので、病院に行く必要もなくなったのだ。
良かった。



2006年10月06日(金) 今回の退職のこと(裏)

昨年の10月12日の日記に、
『…もしかしたら、運命が、ぼくの心をその原点である19歳の頃に戻して、自分を見つめ直せと言っているのかもしれない。
ということは、ぼくは今、人生の岐路に立たされているということになる。』
と書いたのだが、実はその日、ぼくは運命の声のようなものを聞いた。
その声の内容は、「次のステップに進め」というものだった。
それを聞いた時、ぼくは「ああ、会社を辞める時期が来た」と思った。

こういうことは、これまでにも何度かあった。
一番はっきり聞こえたのは、東京に出る前、今後どうして生きていくかというのを決めかねていた時だった。
耳のそばで、「東京に出ろ」という声がはっきりと聞こえたのだ。
それまで東京に出ようなどと考えたことは一度もなかった。
だが、その声を聞いてからは、なぜか東京に行く方向に話が進んでいったのだった。

前の会社を辞めた時もそうだった。
そこに勤めて10年を過ぎた頃から、退職のことを考えるようになったのだが、いろいろな問題が蓄積していたために、簡単には辞められなかった。
気分の晴れない日々が続く。
そういう状態が3ヶ月ほど続いたある日のこと、どこからともなく「もう辞めていいよ」という声が聞こえたのだ。
それ以降、蓄積していた問題が、まるでドラマの最終回のように一気に解決していき、その勢いを借りた形でぼくは辞表を提出したのだった。

過去にそういうことがあったから、今回その声を聞いた時に、辞める方向に進むだろうと思ったわけだ。
「で、今回はどんな展開になるのだろう」と思っていたところに、部門閉鎖のニュースが入ってきた。
それに伴って、会社側と今後のことを話し合うようになったのだが、結局会社側は、本社預かりという形で、ぼくを閑職の倉庫に回した。

これもまた運命の流れだったのだと思う。
より辞めやすい環境にぼくを持っていったわけだ。
ただ、運命はぼくを辞めさせるためだけに動いたのではない。
ちゃんと次のステップを用意してくれていたのだ。

部門閉鎖の話が出た前後に、ある出来事があった。
ぼくはその時、直感的に「これは次のステップを示唆しているのだ」と思ったものだった。
それから半年後、会社に行かなくなってからすぐに、その出来事に絡んだ話が持ち上がった。
それは今月末にも具体化するだのだが、そのことはまた後日お知らせすることにする。



2006年10月05日(木) 今回の退職のこと(表)

そういえば、ぼくが何で会社を辞めたのかを、書いてなかったような気がする。
直接の原因は、ぼくの居場所であった家電部門を会社が撤退したことにあった。
元々、家電販売のキャリアを活かせる場所として選んだ会社だったから、その部署がなくなれば、ぼくにとっては存在する価値のない会社となるわけだ。
また、会社としては、家電以外の経験がない人間は、必要のない人間ということになる。

そういうわけで、会社側と何度か話し合いをした。
まず会社側が伝えてきたのは、「君の力を活かせるような部署に配属させたいのだけど、どういう部門が自分に向いていると思うか?」ということだった。
だが、いくら考えても、家電しかやったことのないぼくには、どんな部門が自分に向いているかなどわからない。
そこで「考えておきます」と答えておいた。

だが、いくら真剣に考えても答なんか出なてこない。
だいたい家電がないのなら、もう販売などしたくない。
確かに会社は小売業なのだが、スーパーなので、家電のような接客販売はしない。
接客のない販売なんて、ぼくは考えられない。

そこで、次の話し合いの時に、ぼくは「どこかの電気店に出向させてください」と訴えた。
その時対応した課長は「出向ねぇ…」と難しそうな顔をした。
「出来ないんですか?」
「うーん…、わかった、探してみる」
ということで、二回目の話し合いは終わった。

最後の話し合いは、部長とだった。
部長は開口一番「ここにいても、君の能力は発揮できない。せっかく家電やってきたんだから、そういうところを探したらどうか?」と、ぼくに転職を勧めたのだった。
そこでぼくは「転職も考えているんですけど、それよりも出向のほうがいいです。前に課長にそのことを頼んでおいたんですが、見つかってないんですか?」と聞いてみた。
部長はそのことを聞いてなかったようだったが、「出向を受け入れてくれるところはない」と答えた。
それならということで、「転職先を探してください」とぼくは言った。
部長はそれを聞いて、不機嫌そうな顔をした。
話し合いは、それで終わった。

結局ぼくは3ヶ月間の期限付きで、会社内で閑職と言われている倉庫業務に回された。
倉庫は基本的に休みが多く、また残業もないので、時間だけは充分に取れる。
おそらくこの異動は、「3ヶ月時間をやるから、転職先を探せ」という意味の異動だったのだろう。

しかし、このご時世、この年で就職口など簡単に見つかるわけがない。
とはいうものの、3ヶ月経って、休みが少なく毎日10時間以上の労働を強いられる部署に回された場合、いよいよ動きが取れなくなる。
そこで期限が切れる前に、ぼくは会社に「辞めます」と伝えたのだった。



2006年10月04日(水) いつも港が生活の中にあった

『夢のかけはし』
 夢のかけはしを、ひとり渡ろう
 風もなく、波もなく
 ただ、静かな闇の上を

 通り過ぎる日よ、音もなく続く
 かもし出す街の灯は
 影も映さず

  ああ、なぜに人はいぬ
  声を上げ、振りかえる日々よ
  時は過ぎ、愛は朽ち
  切ない夜よ

 夢のかけはしは、まだ遠く長く
 うたもなく、星もなく
 冷たい日々よ

  遠く浮く、船の帆影よ
  映し出す、淡い月明かり
  呼ぶ声は闇に行き
  汽笛の声に打ち消され

 夢のかけはしを、ひとり渡ろう
 風もない、波もない
 冷たい日々よ

19歳の頃に作った歌の歌詞である。
全体に七五調的なので、もしかしたら演歌の歌詞のように感じられるかもしれないが、実際、曲も演歌っぽい。
そのため、曲を発表するのを避けている。
なぜ避けているかというと、ぼくがこれまでに作った歌のほとんどは、生涯青春的なものである。
また、ぼく自身も、常にそういうイメージを自分に抱いている。
そのため、演歌なんかを入れてしまうと、違ったイメージを持たれるのではないかと危惧するからである。

ところで、この歌詞のように、ぼくが作った歌や詩には、港を背景にしたものが多くある。
意識的にそうしているのではない。
生活に即しているのだ。

前にも書いたと思うが、ぼくの家から歩いて10分(実家からだと5分)の位置に港がある。
30年ほど前までは、車の騒音も少なかった。
そのため、夜になるとあたりは実に静かになり、船の汽笛がすぐそばに聞こえていた。
つまり、いつも港が生活の中にあったということだ。
そのせいで、港が歌詞や詩に顔を出すようになったのだろう。

特に20歳の頃までの作品にそういうものが多いのだが、その頃は詩の書き始めに、いつも港があった。
一時、それを払拭しようと、抵抗を試みたことがあるのだが、結局は「船」だとか「汽笛」だとかいう言葉に負けてしまった。
それが、港が生活の中に入ってこなくなる、東京時代の直前まで続いたのだ。



2006年10月03日(火) 炭酸飲料

(1)
ひと頃ジンジャーエールばかり飲んでいた時期があった。
さほど甘くなく、ショウガが入っているので、体にいいだろうと思って飲んでいたのだが、最近は飲むことがなくなった。
別に嫌いになったわけではない。
縁遠くなったのだ。

以前、そういった炭酸飲料は、会社に置いてある自動販売機で買って飲んでいた。
自販機はトイレの横に設置していたため、わざわざそこに出向かなくても、トイレに行ったついでに買うので面倒がなかったのだ。
ところが、会社を辞めてからは、そういう自販機を利用しなくなった。
わざわざそのためだけに外出するのが面倒だからだ。

とはいうものの、炭酸飲料を飲まなくなったわけではない。
ちゃんと買い置きしているのだ。
しかし、それは缶ではない。
2リットルとか1.5リットルとかのペットボトルである。
缶だと場所をとるし、不経済だからだ。

で、何を飲んでいるのかというと、最初の頃は会社時代の流れでジンジャーエールを買っていた。
ところが、ペットボトルのジンジャーは、缶と比べると炭酸の利きが弱く感じる。
そのため、甘ったるく感じるのだ。
きっと炭酸が利かないために、ショウガの味が前面に出てしまい、それが変な甘さをかもし出しているのだろう。

ということで、今はジンジャーエールではなく、三ツ矢サイダーを飲んでいる。
ペットボトルのため、これだって炭酸の利きは弱い。
だが、余計なものが入ってないので、その分甘さがストレートなのだ。
つまり、ちょっと炭酸の利いた砂糖水という感じなのである。
ま、

(2)
しかし、ジンジャーエールや三ツ矢サイダーに限らず最近の炭酸飲料は、どうして炭酸の利きが悪くなったのだろうか?
ペットボトルだけではない。
ビン・缶だって利きが悪い。
かつての炭酸飲料は、ゲップをしたあとに鼻の奥が痛くなるほど、炭酸が利いていたものだ。
その痛みが快感で、ぼくは炭酸飲料を飲んでいたのだ。

ところが、ある時期から、そういうことがなくなった。
その「ある時期」というのを、自分の経験の中から探している。
だが、どうも見つからない。
人工甘味料が使われなくなった時期からと言われれば、そういう気もするし、ビンから缶やペットボトルに変わった時期からと言われれば、そういう気もする。
もしかしたら、80年代、世の中が子どもに対して過保護になった時期と重なるのかもしれない。
いずれにせよ、ある時期から、メーカーが意図的に炭酸を減らしたことは確かだろう。

そういえば、前にコカコーラ・クラシックなるものが発売された。
その時、ぼくはあの痛い炭酸が蘇ったのかと思い、飲んでみた。
だが、鼻の奥が痛くなるほどには炭酸は利いてなかった。
もしかしたら、大人になったから、利かなくなったのだろうか?
いや、そうではない。
やはりここでも炭酸の量を減らしていたのだと思うが、もしそうであれば、クラシックではない。



2006年10月02日(月) 体が硬い

最近、立ったままズボンをはいたり、目の前に落ちている物を拾ったりすることが辛くなっている。
とにかく体を前に曲げるのがきついのだ。
元々体が硬い方だが、今はそれに運動不足も加わっているから、そうなるのもしかたない。
おそらくぼくの体年齢は、現在70歳を超えていることだろう。

整骨院の先生の話では、ぼくの腰痛や肩こりは、すべてこの体の硬さから来ているということだ。
だから直接腰痛や肩こりの治療をするよりも、体を柔らかくしたほうが効果があるらしい。
そこで、何度か柔軟体操にチャレンジしたのだが、いつも三日坊主で終わってしまっている。

いや、それは決して精神的な持続力がないからではない。
問題は体のほうにあるのだ。
体を曲げたりねじったりしているうちに、だんだん背中に痛みが走るようになる。
最初のうちはそれでも我慢してやっているのだが、そのうち背筋が腫れてきて、運動どころか歩くだけことにも支障が出るようになる。
そして「とにかくこの痛みが引いてから」ということになり、そのままやらなくなってしまうわけだ。

なぜ背中が痛くなるのか?
その原因はわかっている。
体が硬いからである。
つまり、体を柔らかくしようとすると、体の硬さが邪魔するわけだ。
皮肉なものである。

しかし、ここで何とかしておかないと、近い将来ズボンもはけなくなってしまう。
やはり、柔軟体操などという特別な体操はやめて、無理なく出来るラジオ体操などを地道に行っていったほうがいいのだろうか。
それだと柔らかくはならないが、これ以上硬くなることを避けることは出来るだろう。
つまり、70歳になった時に70歳の体でいれるということだ。
理想は「年よりも若く」だが、しかたないか…。



2006年10月01日(日) もう10月

もう10月である。
これで会社を辞めて(有給休暇中も含める)から5ヶ月目に入ったわけだ。
この間、表向きではあるが、まったく何もせずに過ごしている。
いちおう職安には行っているものの、就職のための具体的な活動、例えば企業に出向いての面接などはひとつも受けていない。
また、この4ヶ月間は、そういう就職活動だけではなく、何の仕事もやっていない。
短期アルバイトの話が何件かあったのだが、「失業保険」を理由にすべて断っている。

こういう状態だから、おそらく端から見る人から「やる気がない人」と思われているに違いない。
母も、表向きしか知らないから、そう思っているようだ。
前回(15年前)辞めた時とは、大違いである。

前回辞めた時は、6ヶ月目に就職したのだが、その間ずっと就職活動をしていたものだ。
職安だけにとどまらず、いくつかの民間の機関にも人材登録していたし、「B-ing」「デューダ」「an」「求人案内」などの就職情報誌も毎週欠かさず見ていた。
面接も10数件受けた。
結局は、その面接に合格したいくつかの企業の中から、一番キャリアの活かせそうなところ(今回辞めた会社)を選んだのだった。

さて、先に表向きと書いたが、では裏では何をやっているのかというと、毎日毎日懸命に職業訓練をやっている。
何の職業で、どういう訓練をしているかは、そのうちわかるだろうが、とにかく老後も継続して出来ることである。

会社を辞める少し前のことだった。
ある人に「こういう仕事をしたいのだが、何かいい方法はないだろうか」と相談したことがある。
すると、その人はすぐにその関係者を紹介してくれ、その後話がトントン拍子に進んで行ったのだ。
今はまだ具体的にどんな仕事をするのかはわかってないが、今月の末には、そういうこともはっきりするだろう。

ということで、どういう仕事が回ってきてもいいように、今自分を鍛えているわけだ。
これでうまくいけば、ここ数年悩んでいた老後の問題が一気に解決するだろう。
まあ、それはともかく、とりあえずは生活ができるようになるのだから、ぜひともその仕事をモノにしたい。


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