頑張る40代!plus

2006年03月31日(金) 3月最後の日記

(1)
最近、いつも晩酌をした後に眠たくなり、そのまま寝てしまうことが多い。
で、日記は、朝6時頃に起き出して書いているのだが、ぼくは元々朝型人間ではない。
そのため、なかなか頭が回ってくれない。
頭が回らないから、テーマがまとまらない。
テーマがまとまらないと、日記が書けない。
書けないのに無理矢理書くから、おかしな内容になってしまう。
しかし、朝であるがゆえに、それを見直したり、修正を加える暇がない。
出勤しなければならないのだ。
と、こういう状況である。

ということで、出来たら夜型に戻したいのだが、それをやると、今度は仕事に支障が出てくる。
困ったことになったものだ。

そこで、いろいろと考えているのだが、しばらくの間、日記を休日だけの更新にしようかとも思っている。
変化のない毎日だし、前の職場のように、ネタもそうそう転がってないのだ。
ちょっと迷っている。

(2)
この間の休みに、地酒を漁りに行った。
お目当ては純米の『西の関』で、当初は一升瓶を買って帰ろうと思っていた。
ところが、いろいろ目移りしてしまい、結局「西の関」を四合に減らして、その分もう一品買うことにした。

買ったのは同じく純米酒で、県産の『庭の鶯(にわのうぐいす)』だった。
ぼくは味利きではないので、味の違いなどはよくわからないが、最初はそれほどうまいとも感じなかった。
ところが、のどごしがいいというのか、これが何杯でもいけるのだ。
飲んでいくうちにおいしさも加わり、瓶はすぐに空になった。
酔い覚めもよかったし、いい酒とはこういう酒のことを言うのだろう。



2006年03月30日(木) 還暦デビュー?

ぼくが中学生の頃まで、隣の家にミノルという子が住んでいた。
ぼくより3つ年下で、ぼくの弟分的存在だった。
ミノルはいつもぼくの後を追ってきた。
ぼくが柔道を習うと、同じく柔道を始める。
高校もぼくの行った高校を選んだし、ぼくの影響からなのかギターも始めた。
そのため何度か、デモテープ作りに参加させたこともある。
その後は、お互い仕事が忙しくなったせいもあり、あまり会うことがなくなった。

さて、昨年末のある日のことだった。
そのミノルから久しぶりに電話があった。
「しんちゃん、おれ会社辞めた」
「辞めた…、どうしたんか?」
「面白くないんよ」
「辞めて、これからどうするんか?」
「今のところ何もないんよ。しんちゃんところ募集してない?」
「あるわけないやんか。人減らしよるのに」
「ああ、そう…。他に何か心当たりあったら教えて」
「わかった。あったら連絡する」
そう返事して電話を切ったのだが、そうそう就職などあるわけがない。
あったら、こちらが世話して欲しいくらいである。
ということで、その後何も連絡せずにいた。

2日前のこと。
風呂から上がって、携帯電話を見ると、画面に『着信あり』の文字があった。
誰からだろうと見てみると、ミノルからだった。
こちらから電話してみると、今度はあちらが出ない。
しかたなく切ったのだが、その後しばらくしてからミノルから電話が入った。
受話器の向こうはえらく賑やかである。
「もしもし、しんちゃん?」
「おう。どうしたんか?」
「おれ今、焼鳥屋でバイトしよるんよ」
「焼鳥屋で?」
「うん。飲みに来て」
「おまえ大丈夫か?焼鳥屋のバイトくらいじゃ生活できんやろうが」
「いいんよ。昼間は電話会社で仕事しよるけ」
「社員か?」
「いや、そこもバイト」
「そうか…」

「まだギター弾きよると?」
「最近また弾きだした」
「ねえ、還暦デビューしようや」
「還暦…?」
「うん。今からでも遅くないっちゃ。月夜待とかいい歌があったやん」
「まあ、ネットでそういう歌の配信しよるけど」
「やろうや」
「やるのはいいけど、おまえはギター弾きよるんか?」
「いいや。おれ、サックスがいいもん」
「サックス…?」
「うん」
「わかった。サックスでも何でもいいけ、練習しとけよ。その時は呼んでやるけ」
「わかった」

サックスと月夜待…。
ちょっとイメージが違う。

しかし、何で還暦デビューなのだろうか。
あと10年以上もあるではないか。
こちらは今日明日の話をしているのに、いったい何を考えているのだろう。



2006年03月29日(水) 帰らしておくれ

前にオリジナル曲が200曲近くあると書いたが、その中にはどうでもいい曲や、心情的にこの先歌うことがないと思われる曲もある。
今日、ブログ「空を翔べ!」で『いつまでも続く階段』という曲を公開したのだが、この曲もそういうものの一つである。

この曲は『いま』と同じく、高校3年に作ったものだ。
作ったのは夏休みの終わり頃だった。
夏休みには、高校最後の柔道の試合や、2年時の同級会キャンプなどがある。
また文化祭に向けてバンドの練習もしなければならない。
と、いろいろとスケジュールが詰まっていた。

ところが、同級会キャンプが終わった頃から、何となくかげりが見えてきた。
それまで順調にいっていたバンド練習だったが、その頃を境にメンバーの集まりが悪くなったのだ。
一人減り二人減りである。
どうしてそうなったのかという理由はわかっている。
それは受験である。
みんな焦っていたのだ。
それゆえに強要も出来なかった。
結局最後には焦ってない2人だけが残り、そのままバンドは解散してしまった。

この歌を作ったのは、そういう面白くない時期だった。
期待していた高校最後の夏休みが、こんなことで終わるとは思ってもいなかった。
出来たら受験も何もなかった1年前に戻りたい。
そういう思いが、この歌を作らせたのだろうと思う。

こういう背景を持っている歌を、ぼくは基本的には歌わない。
どうしても、その時のやるせない気持ちを思い出してしまうからだ。

そういう歌をなぜ録音したのかというと、今日ふとこの歌詞を読んでみると、どうも今の心境と同じに思えたのだ。
長年やってきた仕事から離れ、どうも面白くない。
かといって、何が出来るわけでもない。
そういうやるせない気持ちが、何かあの頃と似ているのだ。
そういう気持ちの時に、この歌を歌ったら、どういう感じになるのだろうと思って、録音してみたわけだ。

結果は聞いての通りです。
この歌を聴いて、ぼくのやるせなさがわかってくれたら、嬉しく思います。

ところで、『帰らしておくれ』というのは方言なんですね。
今まで気がつかなかった。



2006年03月28日(火) 整骨院に行く(後)

「他に痛いところはありますか?」
「ああ、肩も痛いんです」
「重たい物を持ったせいですか?」
「いえ、去年五十肩になったんですよ。それがまだ完全に治ってないみたいで…」
「五十肩ですかぁ。あれは痛いらしいですねえ…」
「痛いどころじゃないですよ。腕が上がらんとですからねえ」

「で、今は上がるんですか?」
「無理して上げてましたから、上がるのは上がりますよ」
「無理して?」
「ええ。痛くても我慢して腕を上げるようにしないと、固まってしまって上がらんようになると言われたんですよ」
「ああ、それは間違ってます」
「えっ?」
「痛い時は絶対無理したらいけません。痛いのを我慢して無理な運動したら逆効果なんですよ。固まっても、あとで治せばいいんですから、無理をしないことが一番です」
「そうなんですか…」
「ええ、そういう迷信みたいなことを信じたらいけません」

そのあと、低周波治療や温熱治療を行ったあと、もう一度先生の診察を受けた。
先生は、ぼくを仰向けに寝させ、ぼくの右脚を抱えてまっすぐに伸ばしたまま前に曲げた。
次にその脚を曲げて、横に捻った。
今度は左脚で同じことをやった。

しばらくそういうことを繰り返したあと、先生はおもむろに言った。
「痛みの原因がわかりましたよ」
「えっ、何ですか?」
「それは、体が硬いんですよ」
「ああ、それはありますね」
「だからちょっと無理すると、筋や筋肉に影響が出るんですよ」

思い当たる節がある。
元々ぼくは体が硬かった。
それゆえに、運動をやっていた学生時代には、いつも柔軟運動だけは避けていた。
それがまた体を硬くする原因でもあったのだ。
ちょっと激しい運動をすると、体の節々が痛くなり、それがいつまでも尾を引く。
社会に出てからは、柔軟運動以外の運動もしなくなったため、さらに体の硬化が進んだのだろう。
そのあげくが腰痛や背中痛である。

「寝る前に柔軟体操やってください」
「柔軟体操ですか…」
「少しやるだけでも効果がでますよ」
「そうですか…」
「じゃあ、今日から体をほぐしましょう」

ということで、ぼくはストレッチボードなるものに乗せられることになったのだ。
これをやると、ふくらはぎや太ももが張ってかなり痛い。
それに加えて、前屈や横曲げをしろと言うだからたまらない。
『整骨院=楽、気持ちいい』という図式を描いていたぼくにとって、それは苦痛以外の何ものでもなかった。



2006年03月27日(月) 整骨院に行く(前)

先週の木曜日の午前中のことだった。
嫁ブーと二人で、近くの喫茶店にモーニングを食べに行った。
食べ終わったあと、そこでイスに寄りかかって新聞や本を読んでいたのだが、その姿勢が悪かったのか、背中に違和感を覚えた。
「おかしい」と思って体を前後左右に揺すってみた。
その瞬間だった。
激痛が走ったのだ。
背筋が攣ったような痛みで、その時は息も出来ないほどだった。

しばらくして何とかその痛みは治まり、何とか家に帰ることは出来たのだが、体を捻ったりするとやはり痛い。
その状態はその後も続き、寝返りをうった時にその痛みで目を覚ますこともある。
そういう状態がいつまでも続くと、また寝不足になり、仕事にも差し支えるし、また尿潜血などの諸症状が出ると困る。。
そこで意を決して、整骨院に行くことにした。

午前中に買い物をすませ、整骨院に行ったのは午後からだった。
「今日はどうされましたか?」
「はあ、背中が痛いんです」
「何かされたんですか?」
「いや、座っていただけです」
「座っていて背中が痛くなったんですか?」
「はい…」
「よほど座り方が変だったんでしょうねえ…」

そう言って先生は、ぼくの背中を軽く押さえた。
「痛みますか?」
「ええ、ちょっと」
「特に骨がずれているとかはなさそうですが…」
「そうですか」
「他に痛いところとかありますか?」
「腰ですね。慢性化してますから」
「腰痛ですか。ちょっとうつぶせになって寝てみてください」

言うとおりにうつぶせになって寝ると、先生は背中の時と同じように軽く腰を押さえた。
「いつから痛かったんですか?」
「20年以上前からです」
「えっ、20年以上も前なんですか?」
「ええ」
「何か重たい物を持つような仕事なんですか?」
「そうです。大型テレビとかエアコンの室外機とか」
「ああ、電気屋さんですか」
「ええ。電気屋関係の人は、ぼくと同じように腰の悪い人が多いですよ」
「へえ、そうですか」
「ええ。業界では電気腰とか言ってます」
「電気腰ですかぁ、初めて聞きました」

先生はしばらくぼくの腰を揉んだあとに言った。
「別に悪くないですよ」
「えっ?」
「骨は正常ですよ。もし痛いのなら、それはストレスじゃないんですか?」
「ストレスで腰痛になるんですか?」
「ええ、なりますよ。ストレスが腰の神経を圧迫するんですね」
「そうなんですか」
ストレスが腰の神経を圧迫するなんて初めて聞いた。



2006年03月26日(日) 移転作業、はかどらず

今月に入ってから、ブログの移転に伴い、ブログ内容を完璧なものにするために、記事の手直しをやっている。
まあ、完璧なものと言っても、リンクを張り替えたり、音楽を入れたり、不評だった『続きを読む』編集をやめることだけだから
、一からコピペするよりは遥かに楽な作業である。
ところが、その楽な作業を始めてから、もう3週間以上経つのに、まだ終わってないのだ。
今やっているのは、2003年あたりだから、ようやく半分行ったあたりである。

なぜそうなったのかというと、理由はいくつかある。
そのための必要な時間をなかなか取れないでいる、というのが最大の理由である。

一番時間を奪われるのは日記で、「考えて、書いて、消して、また考えて、書いて」の繰り返しだ。
そのために、日記を書くのに平均して2時間以上費やしている。
次に風呂。
半身浴をやるために、風呂の中に本を持ち込んでいる。
だいたいコミックを2〜3巻読んでいるから、1時間以上はかかっている。
他には、ギターの練習がある。
これも気分が乗っている時には、かなりの時間やっている。
まあ、こういうことをやっているうちに夕方が夜になり、夜が夜中になっていくわけだ。

他の理由はというと、やはり集中力のなさが挙げられる。
とにかく一つのことに集中できない質なのだ。
まあ、やる時はやるのだが、それは曲を作ったり、歌を録音したりする時だけだ。
普段の生活を、作曲時のような集中力をもって臨んでいたら、おそらくは日記を書くのに2時間もかかることもないだろう。

まあ、こういうことは、あせらずに休みの日にやればいいのだが、ここに一つの問題がある。
それは、このところブラウザの調子が良くないのだ。
編集をやっている最中に突然固まったり、終了したりしてしまう。
酷い時には開きもしない。
ぼくは3年ほど前からタブブラウザを使っているのだが、そのソフトが悪いのかと思い、他のタブブラウザに替えてもみた。
だけど、結果は同じなのだ。
リカバリしたのは昨年の6月だったし、それ以降はあまりレジストリをいじったり、ソフトを入れたりはしてないつもりだ。
いよいよパソコンがだめになってきたのかもしれんなあ…。



2006年03月25日(土) 生活の変化(後)

結局また何もしないまま、午後の仕事が始まる。
午後になると店回りをしなければならない。
一つの店に荷を降ろすと、すぐまた次の店に行くことになる。
そのため、仕事中にいくら便意を催しても、トイレをする暇がないのだ。
いや、出来ないことはないのだが、ぼくは長便だから、もし途中でトイレに行くとなると、仕事がかなり遅れてしまう。
そこで、職場に帰ってからしようということになる。

ところが、職場に帰った頃にはすでに便意は去っているのだ。
そうこうするうちに仕事が終わり、「家に帰ってから落ちついてしよう」ということになる。
ということで帰宅するのだが、帰宅後はまったく便意を催さない。
というより、家に帰るとギターやパソコンのことで頭がいっぱいになり、まったくトイレのことを忘れているのだ。

ようやく便意を催すのは、寝る前である。
ところが、ぼくの体は、昔から寝る前には出ないようになっているらしく、いくら粘っても出てくるのはガスばかり。
しかも眠気が増してくる。
その眠気の中で、「まあ、いいか。朝すればいいや」などと呑気なことを考えている。
ということで、翌日にすべてを託すわけだが、翌日はまた同じようなことの繰り返しである。

毎日そういうことの繰り返しなら、かなり体調が悪くなっていると思われるだろうが、そうではない。
今の職場は休みが多く、隔週ではあるが週休を3日取っている。
その休みの日に、一気に出てしまうのだ。
それで体調のほうは何とかなっているが、気持ちがどうも落ち着かないのだ。

この悪循環をどうにかして解消しないと、本当に病気になってしまう。
ということで、先週まで便意を催さない時にはトイレに行かないこともあったが、今は朝7時に必ずトイレに行くようにしている。
そこで出ようが出まいが関係ない。
とにかく座る。
そして体を慣らす。
そうすれば、何とかなるだろう。

しかし、ここで問題がないわけではない。
実は2ヶ月か後、おそらく体が慣れただろう頃に、今の職場が閉鎖になるというのだ。
ということは、また転勤である。
そうなると、再びトイレとの格闘を始めなければならない。
仕事のほうも蚊帳の外に置かれた状態だし、早く何とかしないとなあ…。



2006年03月24日(金) 生活の変化(前)

3月に入ってから転勤のために出勤時間が変わり、先月よりも1時間半くらい早くでなければならなくなった。
そのために生活のリズムが変ったのだが、一つだけ困っていることがある。
それはトイレである。

これまで何年間も8時半にトイレに行っていたが、現在その時間は通勤途中である。
そこで家を出る前にトイレに行っているのだが、長年の習慣というのは恐ろしいもので、早い時間にトイレに行っても、出るのはオナラばかり。
結局は奮戦むなしく、何も成果のないまま家を出ることになる。

ところが、長年の習慣というものは恐ろしいもので、8時半になると催しだすのだ。
先にも書いたが、その時間帯は通勤途中、つまり車の中にいるから、そこでするわけにもいかず、我慢した状態で会社まで向かうことになる。

さて、会社に着いたらすぐにトイレに駆け込むのかというと、そうではない。
会社に着く頃には、すでに便意は去っているのだ。
そして、次のタイミングを待っているうちに仕事が始まる。

今の仕事場は午前中が忙しい。
そのため、仕事をやっている間は、トイレのことなど考える暇もない。
昼になってもその余韻は続いていて、食事をすますまで、トイレのことは忘れてしまっている。

ようやくトイレのことを思い出すのは、食事が終わってしばらく経ってからだ。
「あっ、そうそうトイレだった」
そこでトイレに行こうと思うのだが、その頃はまだ便意を催さない。
しかし、そこでやらないと、今度いつ出来るかわからない。
と、トイレに行ってみると、使用中である。

…今の職場のトイレは非常に不便である。
何が不便かというと、男女それぞれ数人ずついるにもかかわらず、トイレに男女の区別がないのだ。
つまり、トイレが一つしかないということだ。
そのため、食後はトイレに人が殺到することになる。
待っているうちに、「あとでいいや」ということになり、またトイレに行きそびれてしまう。



2006年03月23日(木) ズボンを買う

今日、近くのユニクロでズボンを2本買った。
仕事用である。
今まで履いていたヤツの裾がすれてしまったのだ。
ぼくはあまり身なりには頓着しない方だが、現在若干危険な仕事をしているので、これではいけないと思ったわけである。

今まで履いていたズボンを買ったのはいつのことだったろうか?
よくは覚えてないが、4,5年は経っていると思われる。
確か、その時も2本買ったのだった。
それから昨日まで、ぼくはその2本のズボンを交互に履いていたのだ。

悪くなったのは昨年の夏あたりからだ。
所々ほころびだしたのだ。
しかし、そのほころびが目立つところにあったわけではないし、別に危険な仕事をしていたわけでもない。
ということで、昨日まで放っておいたわけだ。

そういえば、普段履いているジーンズに関しても同じことが言える。
現在は、仕事履きと同じく8年ほど前に買ったジーンズを履いている。
その前に買ったのはというと、東京にいた頃だった。
その時にバーゲンで買ったLEEのジーンズを、「硬い、きつい」などと文句を言いながらも20年以上履いていたのだ。
最後はもちろんボロボロになっていた。

さて、今日買ったズボンはいつまで持つのだろうか。



2006年03月22日(水) 老化

【ピックがつかめない】
最近、会社から帰ったあとに、ギターの練習をしている。
いろいろ歌を録音しようと思うのだが、いっときギターを握っていなかったために、手がギターに馴染まないのだ。
指先の硬さなどから考えると、満足に弾けるようになるまでには、まだまだ時間を要しそうだ。

まあ、そういうことは時間の問題で何とかなるだろうが、ここで新たな問題が起きた。
それは、ピックがうまくつかめないということだ。
ギターを弾いている最中にピックがツルツル滑ってしまい、演奏が安定しないのだ。
そのためにリズムが狂ったりすることもあるし、ピックが指から離れて落ちてしまうこともある。
ギターを愛する者として、これは大きな問題である。

『なぜこんなことになるんだろう』と考えていた時、ふとあることを思い出した。
それは、本をめくる時に指をなめる人のことである。
指をなめるという行為、あれは指に適度な湿り気がなくなり、紙にうまく指が引っかからなくなったためにやるのである。
指が引っかからない、これはピックがうまくつかめないことと同じことではないか?

指をなめるのは、圧倒的に年寄りに多い。
つまり、老化が指先の湿り気を奪うのだ。
老化…。
ぼくの辞書にはない言葉である。
しかし、この事実は受けとめなくてはならない。
その上で、これからのことを考えなければならない。

さて、どうしようか?
ハンドクリームでも塗ろうか。
それとも、そのへんのじいさんのように指をなめようか。
いずれにしても、ぼくの使ったピックを欲しがることは、やめてください。


【老化】
本をめくる時に指をなめる行為だが、ぼくは昔からそういうのを見ると、「汚い癖だなあ。もっと本を大事にしろよ」と思っていた。
ところが、あれは癖でも何でもない。
先に書いたように、指に湿り気がないから、ページをめくれないのだ。

それを知ったのは、つい最近のことだった。
スーパーで買い物に行った時のこと。
レジをすませたあと、買った物をビニール袋に入れようとしたら、指が滑って開けることが出来ない。
嫁ブーに「おい、この袋、ツルツル滑って開かんぞ」と言うと、嫁ブーは「ああ、ちょっと貸して」と言って袋を取り上げると、いとも簡単に開いた。
「何かコツでもあるんか?」
「コツなんかないよ」
「じゃあ、何でおれがやると開かんのか?」
「それはね、老化」
「おれが老化したとでも言うんか?」
「年取るとね、肌が乾燥して湿り気がなくなって、こんなビニール袋とか開きにくくなるんよ」
「‥‥」
「よく、年取った人が本のページめくる時に、指をなめるやろ?」
「おう。汚い癖やのう」
「癖じゃないよ。ああしないとめくれんのよ。肌が乾燥しとるけね。老化のせいよ」
「‥‥」

ここで初めて、老化という言葉を身近に感じるようになったのだった。
老化、老化、老化…。
いやな響きである。



2006年03月21日(火) 春一番メモ

昨日紹介した『春一番』について触れておく。
昨日も書いたが、この歌は高校2年(1975年)の3月に作った歌だ。

ぼくの行った高校は、3月頭の卒業式に前後して学年末テストが行われ、それが終わると春休みまで自宅学習期間に入る。
自宅学習期間、つまり休みである。
学校ではその間、入学試験や追試といった行事がある。

ぼくは、その前々年に入試を、前年に追試を受けた。
入試はともかく、追試の時は悲惨だった。
追試通知を受けたのが、試験日の1週間前。
それから地獄が始まった。
何が地獄かというと、やったこともない勉強をしなければならないことだ。
しかもその教科というのが、ぼくの苦手中の苦手科目である生物である。
それだけではなかった。
さらに生物教師は無理難題を突きつけたのだ。
「試験範囲は1年で習ったすべてです」と言ってきた。
これは、生物の教科書を全部丸暗記しろと言うのに等しい。

はい、やりましたよ。
必死に暗記、暗記、暗記…を。
とにかくこれに落ちたら、友だちが、好きな人が、みな上級生になってしまうのだ。
こんなカッコ悪いことはない。
「落第したら、学校を辞めよう」とまで思ったものだ。
その勉強の甲斐あって、何とか及第点(70点以上)をもらえたのだった。

その反省をふまえ…、というか試験の要領を得たぼくは、2年3年で追試を受けることはなかった。

さて、学年末テストが無事終わった。
今年は、あの忌まわしい追試も受けなくてすむ。
3年ぶりに、ぼくは試験から解放されたのだった。
そして、その解放感が、一つの奇跡を生んだ。

学年末テストの翌日、ぼくが家で昼寝をしていると、頭の中に何かが落ちてくるのを感じた。
それは、これまでに味わったことのない感触だった。
「どうしたんだろう?」と思った次の瞬間、突然頭の中に曲が鳴り出したのだ。

初めて曲が落ちてきた瞬間だった。
もちろん、聞いたことのない曲だった。
さっそくぼくは、その曲をテープに吹き込んだ。
そして、すぐに歌詞を書いた。
曲が落ちてきてから、歌詞がつくまで1時間足らず。
こうやって新曲『春一番』は完成したのだった。



2006年03月20日(月) お彼岸

今日も休みだった。
墓参りのために1日ぶりに外に出たのだが、さすがに日曜日のような人出はなかった。
平日だから、逆に車の流れが悪いと思っていたのだが、さほど多くなく、いつも渋滞するところもすんなり通ることができた。

さて墓参りだが、うちは彼岸や盆には、いつも父方の墓と母方の墓の2ヶ所を回っている。
まあ、墓と言っても寺にある納骨堂であるが。
どちらも家から遠い場所にあるわけではないから、寄り道さえしなければ、二つとも回っても2時間以内に帰ってくることが出来る。

ただ問題となるのは、その二つの寺の宗旨である。
父方のほうが浄土真宗で、母方のほうが真言宗なのだが、ただお参りするだけなら別にかまわない。
ところが、いつも伯母を連れて行っているために、なかなかお参りが終わらないのだ。
伯母は寺で何をやっているのかというと、必ずお経を上げる。
これが時間を食う。
真言宗では大日如来の前で何やら真言を唱えたあと般若心経を2回唱え、最後に「南無大師遍照金剛」を幾度となく繰り返す。
同じことを墓の前でもやる。
また浄土真宗では、阿弥陀仏の前で念仏三昧の境地にでも入ったのではないかと思うほど、「南無阿弥陀仏」を繰り返す。
ここも同じで、阿弥陀様の前でやったことと同じことを墓の前でもやる。
だから、大変長いのだ。

そこで、今日は一案を講じて、それを阻止することにした。
その一案とは、「腹減った」作戦である。
出かけるのをわざと昼前にして、寺には12時頃に着くようにしたのだ。
そして、寺に入る前に2,3度「腹減った」と言っておいた。
すると伯母はそれが気になったのか、それとも自分も腹が減ったのかは知らないが、お経を早々と終わらせ、「さあ、次行こうかね」と言った。
次のお寺でも同じだった。
そして最後に、「食事でもして帰ろうか」と言ったのだ。
作戦はまんまと成功した。
おかげで早く家に帰ることが出来たのだった。

さて、家に早く帰ったぼくは、昨日の続きをやった。
昨日の続き、そう歌の録音である。
今日は『春一番』という曲だ。
この歌は、昨日の『いま』よりもまだ前の歌で、高校2年の春休みに作ったものだ。
初めて落ちてきた曲なので、思い入れは強い。
ただ、アルペジオ一本でやる歌なので「ちょっと軽いかな」と思い、今まで録音を避けていた。
それを録音に踏み切らせたのは、マルチプレーヤー(ソフト)の存在だった。
手頃なマルチプレーヤーが手に入ったのだ。
それを使って、ある程度軽さを克服することが出来たのだった。

ということで、これも昨日同様、『空を翔べ!』で公開しています。



2006年03月19日(日) 日曜休み

(1)
3月に入って三度目の日曜日を迎えた。
転勤後三回目の日曜日ということになる。
新しい職場は店ではなく、本社管轄になるので日曜日は休みである。
前の会社にいた頃に、憧れていた日曜休みである。
ところが、実はこの日曜休みというのがくせもので、長いこと日曜休みを経験してないぼくにとっては苦痛の種となっている。

なぜ苦痛なのかというと、どこに行っても人が多いからだ。
以前のように平日休みなら、例えばデパートに行っても比較的すいているから、駐車場の苦労はまずない。
ところが、これが日曜日となると、駐車場はいつも満車状態である。
そのため、第2駐車場とか第3駐車場、果ては臨時駐車場とかに車を駐めなくてはならないのだ。
これが実に不便である。
何で不便かというと、そういった駐車場は、決まって目的地から離れた場所にあるのが常だからだ。
晴れた日はまだいいにしろ、雨の日などは、傘をさしての移動となる。
傘をさすのが面倒だから車で行くのに、これでは元も子もない。

また、人が多いだけではなく、施設によっては利用料金が上がるところもある。
ぼくが時々利用している近くのスーパー銭湯は、入場料が平日よりも100円高い。
聞けば、他にもいくつか、そういうところがあるそうだ。

ということで、ぼくはこの三回の日曜休みは外に出る気がせず、ずっと家で過ごしている。
まあ、今日は最初からWBC韓国戦を見ることを予定していたので家にいたわけだが、それでも隣にあるコンビニにさえ行かなかった。

(2)
で、野球をやっていない時間は何をやっていたのかというと、言うまでもなく家でゴロゴロとしていた。
ああ、一つだけやったことがある。
それは歌の録音である。
録音したのは一曲で、『いま』というタイトルの曲である。
作ったのは高校3年の夏だから、ほとんど初期の頃のオリジナルということになる。

この曲は、その頃作っていたバンドでよくやっていた。
しかし、何回やってもうまく歌うことが出来ず、結局は没になってしまったのだ。
バンドが解散した後は歌うこともなくなった。
そのためにその存在すら忘れていた。

今日のこと。
WBCが終わった後、あまりの暇さにギターで遊んでいたのだが、歌詞ノートをめくっていると、偶然この曲が出てきたのだ。
「ああ、こういう歌もあったなあ」と懐かしがっているうちに、歌いたくなってきた。
30年近くも歌ってなかったから、曲も満足に覚えていなかったのだが、やっていくうちに思い出し、何とか歌えるようになった。
そこで録音に至ったわけである。

録音すると公開したくなる。
ということで、ぼくがやっているもう一つのブログ『空を翔べ!』で公開することにした。
ビートルズっぽい歌だが、ぼくにとっては貴重な想い出の一品である。



2006年03月18日(土) 便利なパーツ

明日が休みだと思うと、つい油断して日記の更新を忘れてしまう。
今、翌日の午前4時なのである。
それまで何をやっていたのかというと、ずっとホームページ(ミラーサイトはこちら)の更新をやっていた。

昨日、いちおう更新をやったのだが、どうも物足りない。
そこで『RSSラジオ』なるものを設置した。
これが何かというと、空を翔べ!に掲載しているぼくのオリジナル曲を何曲か取り上げて流してくれる優れものなのである。
まあ、このブログにも設置してあるので、ご存知の方もいらっしゃると思うが。

他に『お天気パーツ』というのも設置した。
これは、このブログを見ている方の地域の天気がわかるという優れものである。
これもこのブログにはすでに設置しているものだ。

いや、別にこういうものがなければないでかまわないのだが、似顔絵と文章だけではどうも寂しいということで、こういうものを置いてみたわけだ。

そうそう、このブログ内の検索を、ホームページで出来るようにしている。
ブログにそんなサービスはないのだが、ソースから無理矢理引っこ抜いてきたのだ。
例えば、ホームページを見ていて、急に『ヒロミちゃん』を読みたくなったら、いちいちブログを開かなくても、検索窓に『ヒロミちゃん』と入れればいい。
瞬時にその記事を探し出してくれるというわけだ。

ということで、これからも新しいパーツ(※)を見つけたら、ホームページに取り入れていこうと思っております。

以上、しろげサイト管理委員会からのお知らせでした。



2006年03月17日(金) 更新について

コメントスパムやDOS攻撃のおかげで、予定よりも早く移転先のブログをお知らせすることになった。
いちおう前のブログは残すものの、もう更新はしないだろう。

また、ある理由から、他のブログも休止することにした。
その理由とは、リンクの問題である。
ある箇所に以前の記事や歌のリンクを張る場合、そのブログごとにリンクを張らなければならない。
以前はそれを厭わずやっていたのだが、今回の転勤で疲れがたまり、夜の更新が出来にくい状態にある。
そういうわけで、例のごとく朝の更新になるわけだが、都合の悪いことに転勤後は出勤時間が早くなっている。
そのため、ブログごとにリンクを張り替える時間が取れなくなったのだ。

ということで、移転先以外のブログを休止にしたのだが、これで前々から望んでいたブログの一本化が出来てしまった。
予定よりも一ヶ月以上も早くなったのだ。
とはいえ、他のところも捨てがたいものがあるため、ここも以前のメインブログ同様に、更新はしないものの残すことにした。

他にやったことといえば、ホームページの更新である。
ブログを始めてから、あまり用をなさなくなったホームページだが、いちおうまだやっている。
ただ、ブログのリンク集みたいになった感がある。
今回の更新も、内容はこれまでと変わらない。
変えたのは、レイアウトだけである。

さて、ホームページの更新やサイトの引っ越しの際は、いつもこうやってお知らせを書いているわけだが、もう何回目になるだろう。
前のお知らせに書いてあるURLは、ほとんどがリンク切れになっている。
そういうのは、さっさと削除していくべきなのだろうが、いちおう日記の記事なので削除できないでいるのだ。

そういうわけで、『頑張る40代!』から綿々と続いている、しろげしんた(皆岡伸太ともいう)のサイトはまだまだ続きます。

以上、更新のお知らせでした。



2006年03月16日(木) ショートホープブルース

 ねえ、ちょっと目を閉じると
 君の姿が見えてくるんだよ
 ねえ、ちょっと君が笑ってくれると
 ぼくはまた眠れなくなるよ

 ねえ、寝付かれない日々だけど
 いつもぼくはショートホープを
 ねえ、いつか君にあげたいんだけど
 君にはとってもわからないだろうね

  ねえ、だからさ わからない君に
  ブルースを歌ってあげるよ
  ねえ、優しすぎる君の頬に
  ショートホープ・ブルースを

 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープ・ブルース
 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープブルース

  つかの間の夢に うつむいたぼくの心を
  静かになだめてくれる
  ねえ、だからそんな君の頬に
  ショートホープ・ブルースを

 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープ・ブルース
 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープブルース



このブログのタイトルの元となった歌である。
この歌を作ったのは、1978年6月だった。
その年の4月に東京に出たのだが、それから3ヶ月が経過した時期だった。

ちょうどその頃、ぼくは一つの転換期を迎えた。
高校を卒業した年、ぼくは大学受験を失敗し、それ以来予備校通い、自宅浪人、そして引きこもりといった一種世間から隔離されたような生活を送っていた。
そのため、世間に対して、何か引け目を感じていたものだ。
それをどうにかしたくて、いや、そういう生活から逃げ出したくて、東京に出たのだ。

東京で、何かが始まると思っていた。
東京で、何かが変わると思っていた。
しかし、そんなに甘いものではなかった。
2年間続いた落ち込んだ生活が、すぐに吹っ切れるはずもなかったのだ。
そこには、相変わらず世間に対して引け目を感じている自分がいた。

特に酷かったのが、極度の人見知りである。
なかなか人の中に入っていけないのだ。
またもや孤独と焦燥の毎日だった。
高校を卒業するまで、ぼくはそんな人間ではなかった。
たかが2年間とはいえ、浪人生活というのは深い影を落としていたのだろう。

しかも、その頃には曲すらも出来なくなっていたのだった。
何度やっても、「これ!」というのが出来ないのだ。
歌作りは、ひとりぼっちの生活の、唯一の救いだったはずだ。
その歌作りからも、ぼくは見放されたわけだ。

そんな絶望的な生活から、ようやく立ち直りの兆しが見えたのが、その年の6月だった。
ある深夜、近くでバイクの音が聞こえた。
その時だった。
曲が落ちてきた。
そう、それまでまったくできなかった歌が、出来た。
その歌が、『ショートホープブルース』だった。

歌が出来たことで、ぼくはようやくスランプから脱したような気がした。
自信を取り戻したのだ。
そしてそれを境に、東京の生活にもようやく慣れてきた。
友だちも出来始めた。
そうなってくると、面白くなかった東京生活が、だんだん面白くなってきた。
東京時代のエピソードがその時から始まったわけだ。

なぜこの曲名をブログのタイトルにしたのかというと、この歌の持つエピソードにあやかりたかったためである。
つまり、自分を立ち直らせるという意味である。



2006年03月15日(水) オーラの泉

数年前、○店の女子社員M美から「うちのパートさんに霊感の強い人がいる」と聞いたことがある。
何でも、話しているとその人の生い立ちや、その人の家の状況、またその人の守護霊がわかるというのだ。
その話を聞いた時、ぼくは「一度そういう人とお話ししてみたいものやのう」と言った覚えがある。
それから後は、そういう話があったのをすっかり忘れていた。

今回の転勤で、ぼくはいろいろな店を回るようになった。
○店もその一つである。
転勤後、初めてその○店に行った時だった。
おそらく初めて会うだろう人から、「あら、こんにちは」と声をかけられた。
「ああ、こんにちは」
「あなた、今どこにおると?」
「店回りやってます」
「ああ、店回りね。フフ…」
そういう会話のあと、その人は店の中に消えていった。

そのあとでぼくの頭の中を駆けめぐったのは、『あの人誰だろう?』という疑問だった。
そこでいっしょに回った課長に聞いてみた。
「あの人誰ですか?」
「ああ、あの人ね。Hさんと言って、ここで一番古い人なんよ。○店のわからんことは、あの人に聞いたらすぐにわかるんよね。貴重な存在やね」
「そうなんですか」

で、そういう貴重な存在の人と、ぼくはどこで会ったんだろうか?
そういえば、一度M美の紹介で、パートさんが買い物に来たことがあった。
『ああ、あの時の人か…。いや、でもあの時、M美は別の店に移っていたはずだ…。うーん、やっぱり知らん』
結局その日は、思い出せなかった。
しかし、○店にはこれから何度も行くことだから、その時、そのことをHさん本人に直接確かめればいい。
ということで、そのことを考えるのは、そこで終わった。

さて、今日のことだった。
あれ以来初めて○店に行ったのだが、今日はHさんは見あたらなかった。
ところが、ぼくが帰ろうとした時だった。
後ろから、「しんたさん」という声がした。
振りかえると、そこにHさんがいた。
「あ、こんにちは」
「もう仕事慣れた?」
「いや、まだまだ慣れませんよ。肉体労働なんで、体中が痛くて…。でも、前みたいにお客さん相手じゃないから、気疲れはしませんけどね」
「ああ、そうやね。前に来た時お話がしたかったんだけど、しんたさん忙しそうだったからね」
「そうですか…」
そんなやりとりをやっているうちに、時間がやってきた。
今日も忙しかったのだ。
そこで「じゃあ、また来ます」と言って、ぼくは帰ったのだった。

帰る車中、ぼくは『一体何の話だろう?』と考えていた。
その時、ふと数年前のことを思い出した。
『そういえば、前に、○店に霊感の強い人がいると聞いていたけど、ひょっとしてHさんのことか?』
しかし、ぼくはM美から話を聞いただけで、別に会ったわけではない。
もしその時に、M美が「しんたさんという人が『お話してみたい』と言っていた」とHさんに言ったとしても、ずいぶん前の話なので、もう忘れているだろう。
「うーん」
疑問は深まるばかりだ。

そういう折だった。
部署に帰ったぼくが、やることもなくボーッとイスに腰掛けていると、そこに例のM美が現れた。
そこでぼくは、「M美、前に○店に霊感の強い人がおると言ってたやろ?」と聞いてみた。
「うん」
「それ誰のこと?」
「Hさん」
「やっぱり」
「何で?」
「いや、Hさん、おれのこと知っとるんよ」
「ああ、あの時、Hさんにしんたさんの話したけね」
「でも、それずいぶん前のことやないか。普通、話だけやったらすぐに忘れるやろ。それにあの人、おれの顔も知らんはずなのに、あちらから声をかけてきたんぞ」
「そうよ。あの人、そういう能力があるんやけ」
「えっ?」
「たぶん私が話した時、しんたさんの顔が見えたんやろうね」
「えーっ!?そんなに霊感が強いんか」
「うん。あの時言うたやないね」

大変な方と知り合いになったもんだ。
今度から、一歩引いて話をせないけんなあ。
いや、待てよ。
それだけ、霊感が強い人なら、ぼくの将来なんか手に取るようにわかるだろう。
そうだ。
じゃあ今度時間があったら、それを聞いてみることにしよう。
これも一つのチャンスかもしれない。



2006年03月14日(火) 移転の件

相変わらず外国からのスパムコメントをもらっている。
昨日の夜中だけで15件もあった。
もういい加減にしてもらいたいのだが、何せ相手は外国人、抗議しようにも言葉が通じないから困ってしまう。

いつもいつも人の寝入りばなにメールの着信音が鳴る。
気になって起きて見てみると、『Hello!』である。
それに腹が立って、今度は眠れない。
もう勘弁してほしい。

ある時素朴な疑問がわいた。
それは、「なぜ彼らはいつも夜中にやってくるのだろうか?」である。
苛立ちからか、こんな簡単なこともわからなくなっているのだ。
時差である。
彼らが何時頃にそういうコメントを書いているのかは知らないが、言えることは、彼らがまだ起きている時間帯だということだ。

さて、そんなに迷惑しているなら、コメントの拒否登録をすればよさそうなもなものだが、今のサーバーはIPでの拒否登録しか出来ないのだ。
IP、これだけだと何にもならない。
相手はいちいちIPを変えてくるからだ。
それでも一応は、これらのIPを拒否登録し、コメントを削除する。
この作業が実に面倒なのである。

ということで、ブログの移転を急いでいるのだが、そのため日記の更新がいつも遅れている。
器用な人なら、どちらともさっさとやってしまうのだろうが、何せ不器用な人間だから、一つのことで手一杯である。
それもいちいちリンクの張り替えなんかをやっているから、さらに時間がかかっている。
予定としては、20日を目安にしているのだが、この調子でいくと、もっと時間がかかりそうである。
まあ、何とかしますから、もう少しお待ちください。



2006年03月13日(月) 新たな生活2

一昨日のこと。
ぼくが出かける時、嫁ブーが「今日は棚卸しやけ、ちょっと遅くなるけね」と言った。
「何時頃になりそうなんか?」
「うーん、よくわからんけど…、夜10時半過ぎるかもしれん」
「10時半か…」
「お迎えいい?」
「ま、いいか。明日は休みやけ」
「じゃあ、お願いします」

夜になった。
6時前に帰宅したぼくは、ギターを弾き、長めに風呂に入り、軽く食事をとった。
それでもまだ8時を過ぎたばかりである。
10時半まではあと2時間ある。
そこで、寝て待つことにした。
電話の呼び出し音が目覚まし代わりである。

しかし、電話を待って寝ていると、なかなか熟睡は出来ない。
何度も何度も目が覚めるのだ。
そうやっているうちに10時になった。
まだ嫁ブーからの連絡はない。
そこでまた目を閉じた。

次に時間を確認したのが、11時だった。
しかし、まだ嫁ブーからの連絡はない。
「何しよるんかのう」などと思いながら、また目を閉じた。
それからは数分おきに目が覚めた。
が、何度起きても、嫁ブーからの連絡はない。

そうこうしている間に、とうとう12時を過ぎてしまった。
すでにぼくは怒りモードに入っていた。
前にも何度か12時を超えることがあったが、いったい嫁ブーの会社は、「次からそういうことにならないように」といった工夫はしないのだろうか?
いや、きっとしないのだろう。
おそらく「棚卸しは遅くなるもの」と決めてかかっていて、だから何度遅くなっても何とも思わないに違いない。

結局、嫁ブーから電話が入ったのは、12時40分を過ぎていた。
それから迎えに行ったものだから、家に帰り着いたのは1時10分になっていた。
翌朝8時20分に送っていったから、嫁ブーが家にいた時間は7時間10分ということになる。
その7時間10分の間に、晩飯を食べ、風呂に入り、就寝し、顔を洗い、朝食をとり、出かける準備をしなければならないのだ。

芸能人ならともかくも、堅気の仕事では考えられないことだ。
そういう会社が東証一部に上場しているのだから恐れ入ってしまう。
少しは家族の迷惑を考えろというんだ。
これではせっかく早帰りが出来ても何にもならないじゃないか。



2006年03月12日(日) 新たな生活−最近の口癖−

前にも書いたが、嫁ブーの会社は数年前に開通したバイパス上にあり、そこにはまだ公共の交通機関が通ってない。
そのためぼくは、いつも夜に嫁ブーを迎えに行っている。
普通は9時から9時半の間に、お迎え電話が入る。
それから迎えに行き、食事をするのはだいたい10時過ぎである。

転勤前のぼくは、いつも午後8時半頃に会社を出て、9時前に家に着く生活をしていた。
そのため、ちょうどいい時間に嫁ブーを迎えに行くことができていた。
ところが、今回の転勤で帰る時間が大幅に早くなってしまった。
夕方の渋滞に巻き込まれはするものの、夕方6時には確実に家に着いている。
それから、嫁ブーから電話が入るまでの3時間がえらく暇なのだ。

まだ日記をつけるには早すぎる時間である。
そこで、ギターを弾いたり、長めに風呂に入ったりして時間を潰している。
だが、それでも時間は余る。
その余った時間を睡眠に充てられればいいのだが、寝るには時間が短い。
「さて、何をしようか…」
これが、最近の口癖になっている。



2006年03月11日(土) 移転のお知らせについて

この間、ブログの移転計画のことを書いたが、それがなかなかはかどらない。
いちおうすべての記事を、新しいサーバーに移すことは移した。
ところが、そのサーバーはどうも不具合が多いようで、記事をうまく表示してくれないのだ。

せっかく手間暇かけてやっているのに、こんなことでは困る。
例えば、月毎の記事の表示だが、そのブログはすべて表示することを避け、いくつかに分けて表示するようになっている。
全体に長ったらしくならないので便利な機能ではある。
ところが、その次のページを開く時に、えらく時間がかかるのだ。
しかも、酷い時には、あの忌まわしい『ページを表示できません。』画面になってしまう。
また、どのブログでも、カレンダーの日にちのところを押すと、その日の記事に飛んでくれるわけだが、そのブログは飛ばないのだ。
こんなブログは使えない。

せっかく、今まで使ったブログの中で一番使い勝手のよかったブログに戻すことにした。
そこには以前のドメインがそのまま残っているので、好都合なのだ。

ということで、さっそく今夕、会社から帰ってからその作業を始めたわけだが、インポート機能があるおかげで、簡単にすべての記事を移すことができた。
あとはリンクの張り替えと、文字化けなどの手直しが残っているだけである。

こういう風に書くと、実に簡単なように感じるかもしれないが、ここからがやっかいなのである。
2千以上ある記事の中から、前のブログの記事や画像にリンクしているものを探しだし、それを新しいブログのほうに張り替える、という細かい作業になるからだ。
それがすべて終わってから、ようやく移転終了となるのだ。

さて、それが終わったあとは、一部を除いて今持っているブログのほとんどを休止するつもりでいる。
そう、とうとうブログの一本化をするのだ。
これでいくつも更新しなくてよくなるので、楽になるわけだ。
また、それに伴い、ブログのタイトルも変えようと思っている。

ところで、「一部を除く」の一部というのが何であるかというと、歌と詩のブログである。
エッセイ・歌・詩の三本柱でいくわけだから、それは残しておかなければならない。
つまり、歌は「皆岡でやります」と書いているのに、しろげが歌ったりしていたらおかしくなるからだ。

というわけで、移転のお知らせは、作業がすべて終了した時点でしようと思っています。



2006年03月10日(金) 日記、日記、日記

このところ、晩飯を食べたあとすぐに寝てしまう。
慣れない仕事のせいで、よほど疲れているのだろう。
まあ、寝るのは別にかまわないのだが、目が覚めた時に頭が働かないのには困ってしまう。
転勤前は、夕方にその日の日記の大まかなテーマを決めていた。
ところが転勤後は、帰るとどっと疲れが出てくる。
そうなると、日記のテーマどころではなくなってくる。
風呂に入ったら入ったで居眠りしているし、晩飯後は冒頭に書いたとおりだ。

日記というのは、とっかかりが肝心である。
ぼくの場合、そのとっかかりというのがテーマだ。
テーマがないと、何時間経っても書けるものではない。
「とにかく空白を埋めよう」では、どうしても文章の継ぎ足しになるから、読み返した時にとりとめのない文章になっていることが多い。
しかもそういう時の日記というのは、決まって別に書かなくてもいいような内容になっているものだ。
そう、今日の日記のように。



2006年03月09日(木) 落ちてきた!

いやー、まだ出来るじゃないか。
もう出来ないと思って諦めていたのに、まだ神様は見捨てなかったんだ。

今日のことだった。
風呂に入っていると、急に頭の中に曲が広がってきた。
「これを逃してはならない」と、ぼくはさっそく風呂を上って、真っ裸のまま部屋に走った。
そして、録音機材の電源を入れたのだった。

実に、十数年ぶりに曲が落ちてきたのだ。
落ちてきたとは、曲が浮かんだということである。
これはぼくの場合だけかもしれないが、曲が浮かぶ時は、決まって曲の種のようなものが頭の後ろあたりに落ちてくる感触がある。
それで、いつも落ちてくると言っているのだ。
植物の種は、地中に根を張り、芽を出し、そして花開くが、曲の種もそれと同じように成長していく。
その過程の中で、詞という肥料をやれば歌として完成する、というわけだ。

前に書いているかもしれないが、ぼくはある時期を境に、作曲にはギターを使わなくなっていった。
そのある時期というのは、曲が落ちてくるのを意識するようになった時期だ。
歳で言えば、20歳を超えた頃だった。
それからだんだん作曲にギターを使わなくなり、23歳以降はまったく使わなくなった。

だが、それに伴って、作曲数も減っていった。
そう毎度毎度曲が落ちてくるわけではないからだ。
そして30代中盤になり、いよいよ作曲が出来なくなった。
つまり、落ちてこなくなったわけだ。
とはいえ、その頃はすでに音楽活動をやっていなかったから、それについての焦りはまったくなかった。
そして、焦りのないまま、昨日まできたのだった。

最近ここで、よく音楽活動やりたいみたいなことを書いているが、それは作曲活動をやるということではなく、これまでに作った曲を歌っていくというものだった。
そのためには場所がいる。

だが、曲が落ちてくるとなると話が変わってくる。
創作だから、部屋の中でも出来るわけだ。
また、創作をする時というのは、アルファ波が出ているようで、妙に心地よいものである。
再びそういう楽しみを味わえるというのは、実に喜ばしいことだ。

ということで、本格的に音楽活動が出来そうです。



2006年03月08日(水) 空を翔ぼう

『空を翔べ!』
 漠然と思い浮かべてた 大切な一日が
 今日風に乗って おれのもとにやって来た
 空には大きな雲が 
 雨はおれを叩きつける
 悪いことを考えている 
 出来るんだ
 空を翔べ!

 運命の一日だと 誰かが言った
 おれの人生は今日に かかっているんだ
 今までやってきたことは
 すべて正しいと信じるんだ
 決して逃げ出してはいけない
 前を向け
 空を翔べ!

 今日がうまくいけば 何が始まるんだろう?
 そんなことが頭の中を ぐるぐると回っている
 時間は刻々と迫っている
 おれの出番は間近だ
 大丈夫だ
 空を翔べ!

 幼い頃から 今日という一日が
 どんなに大切な日か わかっていたんだ
 弱虫なんか吹き飛ばせ
 過去のことは忘れてしまえ
 将来(さき)のことは考えるな
 いけ!チャンスだ
 空を翔べ!

   空を翔べ!


これまでも『歌エッセイ』なるものを何度か書いているのだが、それをもっと強固なものにしようと試行錯誤している。
ポッドキャストがブームとなり、いろいろなところで「しゃべるブログ」みたいなものにお目にかかる。
出来うればぼくもこの方式をとりたいと思っているのだが、何せしゃべりがだめである。
ということで、ぼくの唯一の武器である歌を、うまくエッセイに取り込んで展開していこうとやっているのだ。

さて、その際に必要になるのは音源であるが、手持ちの音源というのは、これまで『歌のおにいさん』や『プレイヤーズ王国』などで公開した35曲しかない。
真剣に歌エッセイをやるのなら、ぼくが今まで作ってきた200曲余りのオリジナルをすべてとまで言わないが、もう少し欲しいところだ。

そこで、新たに録音しようと何度か試みてみた。
だが、今回の転勤騒ぎで、どうも気が乗らないのだ。
このままだと、ぼくの性格からして、歌エッセイという企画自体が没になってしまう恐れがある。
「何とかしなくては」と考えた末、「とにかく歌は後回しにして、まずサーバー作りから始めよう」という結論に達した。
というわけで、現在いくつかのサーバーを借りて、歌エッセイの実験をやっている。

ところで、何でこんなことに必死になっているのかというと、それは10月に占い師に言われたことに起因する。
「三本の柱を立てて展開していけば、飛躍できる」と言われたのだ。
その時は『三本の柱』と言われても、何のことかピンと来なかったが、考えていくうちに、それは『歌』と『詩』と『エッセイ』だと解釈するようになった。

それで、ようやく落ち着いたのだが、さて、どう展開していこうということになった。
詩やエッセイはブログでもやっているし、たまには投稿もやっている。
ところが、歌に関してはプレイヤーズ王国で自作曲を公開する以外、何も活動をやっていないのだ。
そこで歌を使って何か出来ないかと考えた。
その結果が、歌エッセイである。

これでようやく方針は固まった。
その三本柱をより明確にするために、それぞれのペンネームも考えた。
エッセイは今まで通り『しろげしんた』、歌は『皆岡伸太』である。
そして『詩』のほうは、20代の頃に投稿用に使っていた『山原ほうぼう』という名前を使うことにした。

さあ、準備は整ったわけだ。
心地よく空を翔ばせてもらおうじゃないか。



2006年03月07日(火) 趣味は何?

新しい部署に移ってから、いつも同じことを聞かれている。
「しんた君、趣味は何?」である。
その都度ぼくは、「えっ、趣味ですか…。最近何もやってないですねえ。毎日パソコンの前に座ってますから、強いて上げればパソコンということになりますかね」と答えている。

その部署の人は釣りを趣味にしている人が多いので、ぼくも釣りが趣味であって欲しかったのだろう。
が、釣りなんて、ぼくは長いことやっていない。
それも付き合いで行った程度だから、とても趣味なんて呼べない。
中学の時に一度釣り竿を買ったことがあるのだが、一度使った切りで、その後はどこにやったのかもわからなくなった。

一番最近はというと、昭和62年だったから、もう19年前になる。
その時は得意先主催の釣り大会に参加したのだ。
行きたくはなかったのだが、船に乗れると聞いたから、朝6時半の集合にも関わらず、ノコノコと出かけていったのだった。
集合したのは小倉港で、その沖合にある藍の島付近で船釣りをしたわけだ。

ぼくは船酔いしない。
中学生の時に、一度伯父に連れられて船釣りに行ったことがあるのだが、手漕ぎの舟に乗ったのはその時が初めてだった。
その日は小雨模様の悪天気で、沖は若干揺れていた。
最初のうちは何ともなかったのだが、だんだん気分が悪くなって来て、そのままダウンしていた。
が、その洗礼を受けたおかげだろうか。
その後、船酔いすることがなくなったのだ。

その自信が、釣り大会に参加する動機になったわけだが、その釣り大会、竿は自前で用意しなければならなかった。
だが、先に書いたようにぼくは釣り竿を持っていない。
そのため、糸釣りというのだろうか、指先に糸を結びつけて、釣りをやったのだった。
やる気なくただ糸を垂らしていただけだが、それでもよく釣れた。
釣ったのは、ほとんどがキスで、たまにタコなんかも釣れた。

釣り大会は午前中に終わり、その後は島に上がり、釣った魚で一杯やったのだった。
そのおいしかったこと。
しかし、それに味を占めて、釣りが好きになったのかというと、そうではない。
やはり趣味にはならなかった。

さて、明日からも同じように、「しんた君、趣味は何?」と聞かれるのだろうか?
もし聞かれたとしたら、もうパソコンが趣味だとは言いたくない。
「付き合いで船に乗るのが好きです」とでも答えておこうか。



2006年03月06日(月) おやすみ日記

ここ何年か、正月以外に連休を取ったことがない。
そのため、昨日今日の連休は落ち着かなかった。
昨日の夜などは、どうしても今日が休みだとは思えなかったくらいで、「本当に休んでいいやろうか?」などと思っていた。
おそらく長年の習慣がそうさせているのだろうが、もし今の職場に慣れてしまうと、他の仕事に移った時はきついだろう。

さてこの連休、何をしていたのかというと、例の密かなブログの移転以外は何もしてなかった。
一度は外に出ようと思い、友人に連絡を取ったのだが、どうも行動に移せない。
また、何度かギターを手にしたが、歌う気にならない。
きっと転勤ショックで、気力が萎えているのだろう。
来週もまた連休になるが、こんな状態が続いているのだろうか。
そうであれば、また面白くない連休になりそうだ。

そうそう、転勤したことで困ったことがある。
それは、新しい職場にはイトキョンやユリちゃんといったキャラがいないため、日記のネタが減ってしまうということだ。
今までが彼女たちのネタで持っていた日記だから、それがなくなれば、この日記を始めた頃のように、「今日は疲れた。もう寝ます。おやすみなさい」的なことしか書けなくなるかもしれない。
そうなれば、この日記は日を置かずして消滅してしまうだろう。

まあ、それは冗談だが、日常に彼女たちのような浮世離れした人がいないのは寂しいものである。
どうして、転勤話が出た時に「イトキョンとユリちゃんもいっしょじゃなきゃイヤだ」と駄々をこねなかったのだろう。
「それさえ飲んでくれたら、月収が下がっても文句は言いません」と言えばよかった。
そうすれば、一人ぐらい回してくれたかもしれない。
…って、くれるわけないか。
こうなりゃ、会社帰り毎日デパートによって、タマコでもからかうことにするか。

さーて、日記はこのくらいにして、明日のために寝るとしますか。
おやすみなさい。(笑)



2006年03月05日(日) 密かな計画

最近更新が遅いのは、別に職場の異動で落ち込んでいるためではない。
実はメインブログの移転計画を練っているのだ。

先月あたりから、外国人の変なコメントが入るようになった。
最初は面白がって「日本語で書いてください」などと呑気なレスを付けていたのだが、それが毎日毎日、しかも一日何回もくるので、相手をするのも面倒になり、削除するようになった。
もちろん、コメント禁止措置までとっている。

ところが、敵は手を変え品を変えやってくるのだ。
その都度消すのも面倒だから、まとめて消すようにしているのだが、つい慌ててしまって、消さなくてもいいものまで消してしまうこともある。
今日などは、ここ最近の自分のレスを全部消してしまった。

そういう変なコメントをもらわないため、ミスを避けるため、またいつこのブログを閉鎖してもいいように、移転計画を練ることにしたのだ。

移転と簡単に言っても、何せ記事数が2千件以上もあるので、けっこうハードな作業になるだろう。
いちいちコピペなどやっていたら、まず1年は優にかかるだろう。
そこでエクスポートとかインポートとかが活躍するようになるのだが、サーバー間で微妙に形式が合わなかったりするから困ってしまう。
例えば、次に移る予定のサーバーは、カテゴリを読み込んでくれないのだ。
カテゴリを読み込まないとどうなるかというと、記事をインポートしたあとに、ひとつひとつの記事にカテゴリを付けていかなければならないということである。
つまり、いちいち記事をコピペするのと、何ら変わりはないということだ。
どのサーバーも自分のところから離れてもらいたくないのはわかるのだが、ブログの発展のためにも、ぜひ形式だけは同じにして欲しいものである。

しかし、それに文句をつけるくらいなら、ちゃんと互換性のあるサーバーに変えればようさそうなものである。
だが、それができないのだ。
すでにそのサーバーには400件ほどの記事を移しているが、それが面倒な歌の記事ばかりなのである。
なぜ歌が面倒かというと、そこにある歌を聞いてもらうために、プレーヤーを設置しなければならないからだ。
それに加えて、その中に曲のファイルを書き込む作業も待っている。
いちいち曲が違うから、そのファイルを書き入れるのは非常に面倒である
それゆえに、他のサーバーに変えるとなると、また大変な作業に追われることになるだろう。

さて、今何件くらい移し終わったのかというと、今日時点で500件程度である。
あと1500件も残っているのだ。
インポートできる記事はあと300件程度だから、残りの1200件はイヤでもコピペしなければならない。
ちょっときついなあ…。

だいたい異人さんが変なコメントを寄せるからこうなったのだ。
何が、『Nice Day today :)』だ!
ちゃんと記事を読んでから書けというんだ。



2006年03月04日(土) 転勤初日

今日が転勤初日になった。
家と職場との距離は前の半分になった。
ところが、出勤時間が早まり、渋滞時間と重なるようになったのだ。
そのため倍の時間がかかるようになってしまった。
今日は初日ということで余裕を持って家を出たのだが、着いたのは定時ギリギリだった。

さて、仕事のほうだが、何と浪人時代に運送会社でやっていたアルバイトとまったく同じなのである。
入荷した荷物を降ろし、地区別に振り分け、それを配達する。
そのせいだろうか、仕事の最中に何度も浪人時代に戻ったような錯覚に陥ってしまったものだ。
そういえば、宙ぶらりの境遇も今とよく似ている。

しかし、疲れた。
とにかく肉体労働だから、今までの精神的な疲れとは違った疲れがある。
仕事が終わるのは早かったが、帰ってからは何をする気も起きなかった。
肩は張るし、腰は痛いし、脚は攣るし…、である。
風呂に入ったあとはグッタリだった。

とはいえ、明日と明後日は休みだ。
頑張って日記を書こうと、勇んでパソコンの前に座ったが、敢えなく玉砕。
またもや翌日の更新になってしまった。



2006年03月03日(金) 不満と落胆

今日が転勤初日ということになるのだが、先週の火曜日以来休んでいなかったため、今日は休むことにしていた。
ところが、先日「今回の転勤者は、午前9時に本社集合」という通達があり、本社に行かなければならなかった。
今までより1時間早く家を出て、渋滞にイラつきながら本社に向かったのだった。

本社で何があったのかというと、今回の転勤理由の説明である。
そのくらいわかっていたのだが、お偉いさんが直接伝えたかったらしいのだ。
会議室で10分程度、お偉いさんの話を聞いていたが、無駄な時間である。
その間、今回の転勤に不満を感じているぼくは、ずっと下を向いて、「家電をやるために、この会社に入ったんだ。他の仕事なんか考えきれない」と思っていた。

そのあと、今回の転勤についての確認事項があった。
その中で残業のことも触れた。
「しんた君には悪いけど、次の赴任先は残業がつきません」
これで月収7万円減が確定した。
不満に落胆まで加わってしまったわけだ。
それが終わってから、新しい職場に行き、挨拶をすませ、そのまま家に帰ったのだった。

さて、家に帰ってから、不満と落胆のぼくは、今の会社に入社してから昨日までのことをずっと考えていた。
「結局何が残ったのだろうか」と自問してみた。が、「何も残ってない」としか答えられない。
前の会社を辞めた時も、同じく何も残ってないように見えた。
だが、よくよく考えてみると、販売経験や接客技術といったものが残っていた。
それが、この会社で充分に役にたったのだ。
だから、昨日までやってこれたのだ。
しかし、次の職場では、そういったものが、まったく活かされない。
完全に一からのスタートになるわけだ。

今の会社は51歳以降は昇給もなくなるという。
それがまた不満をかもす。
今年ぼくは49歳だから、あと2回昇給があるわけだが、その2回で上がる額は、1万円にも満たない。
ということは、ほとんど7万円減のまま、定年までいかなければならないということだ。

夕方、近くのホームセンターに買い物に行った。
家電の売場に行くと、そこには独特の匂いがあった。
26年間、ぼくを包んでいた匂いである。
その匂いを嗅ぐと、ぼくは不満や落胆といった現実を忘れ、生き生きとした気分になった。
ぼくの生きる場所は、やはりここなのだ。
転勤が決まってから、いくつかの電気店の経験者募集の話を聞いたのだが、今ひとつ気分が乗らないので、無視しておいた。
ぼく自身がこういう状態に陥るとは思ってなかったからだ。
やはり、ここは転職をすべきなのだろうか。



2006年03月02日(木) 家電人生に終止符を打つ

ぼくが5年間という長い浪人時代を経て、社会に出たのは1981年3月2日だった。
就職先は大型家電専門店だった。
その前1年間、長崎屋で修行したのちに、そこに入ったのだが、その時点からぼくの家電人生が本格的に始まったわけだ。

奇しくもちょうど25年経った今日、つまり2006年3月2日にぼくの家電人生は終わった。
同じ日に始まり、終わるというのも何か因縁めいたものを感じる。

ということで、今日はお別れ会があったわけだが、ぼくはなるべく人と顔を合わさないようにしていた。
なぜなら、そういう別れというのが基本的に苦手だからだ。
とにかく、洒落た文句が吐けない。
出てくる言葉は、いつも「お世話になりました」だけである。
それ以上に言葉を発しようとすると、急に言葉に詰まってしまう。
そうなると、なぜか目が潤んでくる。
それを見られたくないのだ。

前の会社を辞めた時、送別会でこの状態に陥ったことがある。
部下にはなむけの言葉を贈られたときだった。
部下の涙に、言葉を失ってしまったのだ。
とりあえず「お世話になりました」とだけ言っておいたが、見る見る目が潤んできた。
そこでぼくは、慌ててトイレに駆け込み、顔を洗ったものだった。

「男は滅多なことで泣くものではない!」
小さい頃から、周りの人にそう教えられてきた。
そのため、小学校4年以降、ぼくは泣いたことがない。
いや、泣いたことはあるのだが、人前で泣いたことはない。
泣く時は、親にも涙を見せなかった。
そのせいか、母は「この子はドライやけ、わたしが死んでも泣かんよ」といつも言っている。
しかし、それは違う。
ぼくは人知れず泣く男である。

さて、今日でピリオドを打ったぼくの家電人生だが、この25年間、いや長崎屋時代を含めて26年、いろいろなことがあった。
最初に物を売ったのは、長崎屋に勤め始めてちょうど1週間目だった。
お客さんから、「このマッサージ器を説明してくれ」と言われ、わからないなりに一生懸命説明した。
それが良かったのか、お客さんは「じゃあ、これをくれ」と言った。
10万円以上する商品で、お金を受け取った時、手が震えたのを覚えている。

それで自信を付けたぼくは、次々と家電商品(電子楽器含む)を売っていくようになる。
この26年間で売った商品の最高単価は120万円、お客さん一人に売った最高額は250万円だった。
一番楽しかったのは長崎屋にいた22歳の頃で、一番充実していたのは周りの電気店や楽器店と売り上げを競っていた29歳の頃だった。
で、一番つらかったのは、今日だった。



2006年03月01日(水) 遙かな島に

『遙かな島に』
 愛に不慣れな小さな舟で
 大きな海をぼくは漕いでいく
 君の待ってる遙かな島に
 たどり着くために

 古い地図は破れてしまい
 今どこを漂っているんだろう
 君の島に輝くという
 星を頼りに進む

  嵐が来ても諦めずに
  とにかく前を向いて
  ぼくは舟を漕いでいくんだ
  大きな波が叩きつけても
  恐れずに進もう

 いろんなことがぼくを迷わせ
 行く手を阻むこともあるけど
 夢を捨てず進んで行こう
 幸せを信じて

 ぼくは舟を漕いで行くんだ
 数え切れない時間を超えて
 ぼくは舟を漕いで行くんだ
 君の島を目指して

  嵐が来ても諦めずに
  とにかく前を向いて
  ぼくは舟を漕いでいくんだ
  君の待ってる遙かな島に
  たどり着くために



ぼくの小学生の頃の夢は、八幡製鉄所で勤めることだった。
なぜそうだったかというと、父が勤めていた会社だったし、何よりも郷土の誇りだったからだ。
しかし、そう言うと、いつも「夢が小さいねえ」と言われたものだった。
その頃の小学生男子の夢というのは、「野球選手になる」が圧倒的に多かったから、「八幡製鉄所の社員」と答えるとそう思えるのも仕方ないだろう。
だけど、ぼくはその頃真剣にそう思っていたのだ。

その夢が醒めたのは、中学に入ってからだった。
公害問題が深刻な頃で、その公害をばらまいている企業の筆頭が八幡製鉄所だったのだ。
「あんな悪臭をばらまく企業に誰が入るか!」と思い、それ以来その夢を断ったのだった。

高校時代の夢は、まず革命家であった。
わけもわからずに、ただ『革命』という言葉に憧れていたわけだ。
『地球防衛軍』という言葉に憧れて、某宗教団体に入った奴らと、発想は同じである。
しかし、その夢はすぐに醒めた。
なぜなら、それからすぐに、すごい夢に出会ったからである。

それはミュージシャンになることだった。
吉田拓郎に憧れて、数々の洋楽のミュージシャンに憧れて、その夢を見ることになった。
とりあえずギターを手に入れ、自分でも歌を作れるようになってから、その夢は決定的なものになった。

東京に出たり、ライブハウスで歌ったり、コンテストに応募したり、レコード会社に売り込んだり、と、ぼくはその夢に向けてあらゆることをやったつもりだ。
ぼくが家電販売の道を選んだのも、電気メーカーの多くがレコード会社の親会社だったからで、就職後はことあるたびに、自分がミュージシャン志望であることを担当の営業マンに伝えたものだった。
あわよくば、レコード会社に口をきいてもらえるかもしれないと思っていたわけだ。

しかし、現実は厳しく、どこもぼくを認めてはくれなかった。
また、就職してほどなく、家電メーカーの営業マンとレコード会社は何も関わりがないということを知るに至った。
「これで道は閉ざされた」と思ったのは、30才を超えた頃だった。
それ以来、ぼくは歌作りをやめ、他の夢を探すことになった。

とはいうものの、十数年見続けた夢に変わるものなんて、そうそう巡り会えるものではない。
長年やってきた姓名判断を極めて、占い師になろうかと思ったこともある。
だが、姓名判断では燃えない。
また、人からいつも「開業したらどう?」と言われる、マッサージの道に進もうかと思ったこともあるが、これも姓名判断と同じく燃えないし、疲れる。

結局、何も見つからないままこの歳まできた。
いや、何も見つからないのではない。
まだ、ミュージシャンの道を諦めきれないのだ。
心の底に、ブツブツと夢がくすぶっているのだ。
無理に夢を探そうと思っても、そのくすぶりがいつも妨げになっているのだ。

今回の転勤のことがあって、なぜか「今がチャンスだ」という思いがぼくを包んでいる。
それまでくすぶっていた夢に、再び火がついたわけだ。
ああ、歌いたい!
また歌を作りたい!
それで生活できるようになりたい!
ここ数ヶ月、ずっとその思いでいる。
遙かな島に、いったいいつ行き着くことができるのだろうか?


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