今日火曜日は恒例の休みだった。 姪の大学受験が控えているため、前々から太宰府天満宮行きを計画していたのだが、明日からいよいよ受験月に入る。 ということで、今日のうちに合格祈願をしておこうということになり、嫁ブーと二人で太宰府天満宮に行くことにした。
外は冬の真っ盛りにもかかわらず、今日は春を思わすかのような暖かさで、運転中に何度も眠気が差したものだった。 着いたのは昼過ぎだった。 まだ昼食前でかなり腹が減っていたが、とりあえずお参りを先にしておこうということで、参道にあるあまたの食事処には脇目もふらずに、天満宮に向かったのだった。
ところで、その天満宮に向かう時だが、ぼくたちはメイン通路である太鼓橋を渡らずに、いつも側道を通って本殿に行っている。 それには理由があるのだ。 実は、太宰府天満宮は縁切りで有名な神社なのである。 地元では、「カップルで太鼓橋を渡ると、天神さまが妬んで別れさせてしまう」という話が、まことしやかに囁かれている。 ぼくは過去何度か、その折々に付き合っていた女性と太宰府に行ったのだが、それらすべて、ものの見事に別れている。 もちろん嫁ブーとも独身時代に一度行ったことがあるのだが、やはりその時は一度別れたのだった。 しかし、やはり縁があるのだろう。 それから何年かしてよりを戻し、結局結婚に至ったわけだ。 しかし、その後遺症は大きく、結婚後に何度か太宰府に行っているが、ぼくたちは太鼓橋を渡らなくなったのだ。 まあ、ぼくはそんなことを気にしない質なのだが、嫁ブーがねえ…。
県内にはいくつかか、そういう場所がある。 その太宰府天満宮の他には、北九州市の到津遊園地(現 到津の森公園)とか、福岡市の大濠公園とかがある。 いずれもカップルで行くと(大濠公園はボートにカップルで乗ると)別れるのだそうだ。 実は、ぼくと嫁ブーは、そのどれも体験している。 どちらもつきあい始めた頃だった。 が、何年もぼくたちは別れなかった。 やはり決定的だったのは、天神様である。
とはいえ、ぼくには、今では聖人扱いになっているあの天神さまが、カップルを妬むなんて考えられないのだ。 そこでいろいろ考えた結果、それは天神さまの思いやりだという結論に達した。 つまり、別れるということは、天神さまが「その人はおまえの伴侶ではない」、もしくは「今はその時ではない」と言っているのだ。 ぼくたちが一度別れたのは、きっと『その時』ではなかったからだろう。
さて、冒頭に書いたとおり、今日は春を思わせる陽気だった。 しかし、天満宮ゆかりの梅の花は、時期が早いためか、まだほころんではいなかった。 合格祈願をした後は、食事をとろうと、太宰府に行った時にいつも立ち寄っている『お石茶屋』に行ったのだが、あいにく今日は定休日だった。 しかたなく、参道の食事処で、あまりおいしくないチャンポンを食べることになった。 その後は、最近太宰府に出来た九州国立博物館に寄ることもなく、まっすぐに家に帰ったのだった。
(中央を歩いている紺のジャンバーが、嫁ブー)
2006年01月30日(月) |
運命は繰り返すのだろうか |
4月の転勤の話、本社からの応援を断った件、部長との話し合いなど、仕事の面ですっきりしない毎日が続いている。 他にも、突然先行き不安定になった会社とか、会社内でぼく一人浮いているような雰囲気とかが、前の会社を辞めた時の状況にそっくりなのだ。
ぼくが前の会社を辞めた年の4月から、同期の人間が次々と辞めていった。 そのほとんどの理由が、「この会社に将来性を感じなくなった」だった。 発端は、「親会社が、プロパー社員を全員僻地に飛ばし、その後で会社を精算する」という噂が流れたことによる。 その年の4月に新しい店長が赴任したのだが、その店長は僻地に飛ばすための刺客だということだった。 ぼく以前に辞めた人は、そういう噂に敏感だった。 一人辞め二人辞め、気がついたら十数人が辞めていた。
ぼくはけっこう鈍感なほうなので「まあ、何とかなるやろ」くらいに思っていたのだが、先に辞めた人たちから、何度も「しんちゃんも考えたほうがいいよ」と言われ、そのことについて考えるようになった。 しかし、ぼくが辞めた直接の原因は会社の先行きなどではなく、その会社に対し使命感を感じなくなったことと、店長との確執にあった。
なぜ使命感を感じなくなったのかというと、要は仕事に魅力を感じなくなったからである。 ぼくは、楽器という、その会社では特殊な商品を扱っていたために、入社以来ずっと自由に仕事をさせてもらっていた。 ところが、ある時から急に没個性的な本社組織に編入されてしまい、だんだん魅力を感じなくなっていったのだ。 そのうち、いつもいつも同じことばかりしているような気がして、生涯ずっとこの仕事を続けていくのかと思うとゾッとするようになった。 そういう感覚で仕事をしていると、自分一人が会社内で浮いているような気がしてくるのだ。 そうなるとすべてが空回りしだし、そして最後に、この会社での使命は終わったというような感じがしてきたというわけだ。
そういう折に、店長との確執が決定的になった。 元々折り合いは悪かった。 何が気に入らないのか知らないが、店長はぼくに対し、あからさまに攻撃を仕掛けてきた。 最初は、ぼくのほうに何か落ち度があるのかと思っていた。 ところが、ある時、他人のミスをぼくのせいにしてしまったことで、それがぼくに対する嫌がらせであることがわかった。 そこで、ぼくの怒りが爆発した。 それ以降ぼくは、店長の攻撃に対し応戦するようになった。
使命感を感じなくなった仕事や、店長との確執など、自分の意思とはまったく関係のないところで、そうなっていったのだ。 そのため「これも運命がさせているのだろう」と思うようになった。 そして「運命なら仕方ない」と思い、ぼくは辞表を出したのだった。
さて、今の会社の流れは、前の会社の流れと大変よく似ている。 これまでぼくは専門分野に就いていた。 それがこの4月に、ぼくにとっては魅力のない部署に異動させられることになるのだ。 まったくいっしょである。 歴史は繰り返すと言うが、運命もまた繰り返すのだろうか。 これも運命だとするなら、ぼくは今の会社を辞めることになるのだろう。 だが、それについては、今のところ何も決断を下してはいない。
この間の飲み会のことだった。 メンバーの中に、地場ではかなり有名な食品会社に勤めている男がいた。 ぼくは前々からその男にある提案をしたいと思っていた。 そのチャンスが訪れたのだ。 そこでぼくは彼に声をかけてみた。 「おまえんとこ会社で、お菓子作ってみらんか?」 「お菓子?」 「うん。饅頭とか煎餅とか」 「何で?」 「それに『銘菓 月夜待』という名前つけるんよ」 「月夜待ぃ…?あのいなかの月夜待か?」 「そう。あの月夜待よ。“ほろ甘い初恋の味”とか言って売り出したらどうか。CMソング提供してやるけ」 「‥‥」
その男は酔っているのか興味がないのか、話にまったく乗ってこなかった。 それどころか、後ろの席に座っていた女子大生にちょっかいをかけてだした。 それを見てぼくは「ダメだ」と思った。 『まあいいや。この話はよそに持っていこう』 ぼくはその後、その話は一切しなかった。 知らんぞ、『銘菓 月夜待』が大ヒットしても。 後で泣きついてきても、その時はもう遅い!
今日、たまたま会社の事務所で、本社の部長と二人っきりになった。 そこでの会話である。
「しんた君は営業やったことがある?」 「営業…、セールスですか?」 「ああ、そんなところやね」 「ないですよ」 「そうか。じゃあ、ずっと販売ばかりやってたんか?」 「そうです」 「電気の?」 「ええ」 「何年になるんかなあ?」 「25年です」 「…そうか。じゃあ、いきなり他の部署に、とか言われても戸惑うよなあ」 「はい」 「いや、君も知っているとおり、4月からうちの会社は電気を扱わんようになるやろ」 「ええ」 「で、君に次の仕事を与えるようになるんやけど、いったいどんな部署が君に向いてるかわからないから、唐突に質問したわけやけど…」 「そうですか」 「何か、自分でここに行きたいとかいう部署はある?」 「うーん…」 「でも、今回のことがわかってから、いろいろ考えとるんやろ?」 「ええ。転職も含めたところで考えてはいます。でも、答なんてすぐには出てこないですよ」 「そうやろうなあ。特に君の場合、ずっと専門職でやってきたわけだからなあ」 「質問なんですけど、自分の選択肢のひとつに出向というのがあるんですが、それは出来ますか?」 「出向かあ…。ちょっと難しいなあ」 「そうですか…」
「まあ、その件で今度、君も含めた該当者の面談をやるようになっとるんよ」 「そういうのがあるんですか?」 「うん。おそらく3月に招集かけるやろうけど、その時は、自分の言いたいこととか、何もかも包み隠さずに言って欲しいんだよね。自分の言いたいことを言わないと、後でとんでもない人事になったりするからね。それじゃあ、君にとってマイナスになるばかりだ」 「そうですね。じゃあ、その時は言いたいことを言わせてもらいます」 「うん。頼んだよ」
ということで、長いようで短かった部長との会話は終わった。 まあ、会社もいろいろと考えてはくれているようだ。 しかし、その会社自体がだんだんおかしい方向に進んでいる。 ぼくはいったいどうなるのだろう。 いっそ、すべてを捨てて、最後の選択肢であるストリートミュージシャンにでもなるかなあ。
昨日は飲み会だった。 朝方、頭がガンガンして目が覚めた。 早くも二日酔い症状なのである。 考えてみると、昨日はほとんど食べずに飲んでばかりいた。 そういう飲み方にも問題があるだろうが、飲んだのは、たかだか生ビール10杯程度なのだ。 その程度で二日酔いということは、かなり弱くなっている証拠である。
そういえば、昨日パートさんたちと話をしている時に、晩酌の話が出た。 「しんたさんは、晩酌でどのくらい飲むと?」 「日本酒一合くらい」 するとそのパートさんは、いかにも私はまだ飲むよと言いたげに「少なーい」と言った。 「晩酌というのは、あくまでも晩飯の一部なんやけ、その程度で充分やろ」 「でも、それじゃ酔えんやろ?」 「酔うために飲みよるんじゃない。飲むことで晩飯がおいしくなればいいんやけ」 その人は嘲笑うかのような顔をして、「ふーん」と言った。
いるんですね、さりげなく自分の酒量を自慢したがるバカが。 そういう人に限って、酒の味もわからずに深酒して、昼間はいつも白昼夢のような顔をしている。 また、酒の席では、いかにも自分は強いとでもいい言いたげに手当たり次第に酒を飲み、他人に酒を強要したり、あげくに人事不省に陥ったりと、いつも他人に迷惑をかけている。
ぼくは、そういう人を酒が強い人だとは決して思わない。 「自分は酒が強い!」と錯覚している、ただのバカである。 しかも、そういう人は、胃や肝機能に障害を持っていたりする人が多い。 ぼくが知っているだけでも、酒の飲み過ぎで死に至った人や、透析を受けるはめになった人はかなりいる。 そういう人は自分の適量というものを知らない、つまり、酒がわかってないのだ。
ここではっきり言っておこう。 酒が強い人は病気である。 どんな病気かというと、酔えないから、酔おうとして無理に酒量を重ねてしまう病気である。 そして、その酒が体を蝕んでしまう。 自分の健康を害するような飲み方しかできないなら、飲まないほうがいい。 そして、「自分は酒が強い」なんて思わないほうがいい。
2006年01月26日(木) |
人を死ぬような場所に行かせるな! |
「しんちゃん、2月から毎週2回、倉庫の手伝いになったよ」 「えっ、倉庫に行って何をするんですか?」 「いや、倉庫に欠員が出てね。その埋め合わせに行って欲しいんよ」 「何でおれなんですか?」 「あんたしかフォークリフトの免許持ってないけねえ」 「それ断れないんですか?」 「いや、一度は断ったんやけど…。もう決定したことやけ、頑張ってね」 「えーっ」
昨日の朝の店長との会話である。 いくらフォークリフトの免許を持っているとはいえ、免許を取って以来一度しか乗っていない、言わばペーパードライバーである。 しかも、ぼくは広々とした野外でしか運転したことがない。 そういう人間にしょっちゅうフォークリフトを操らなければならない仕事、それも狭い倉庫の中で運転するなんて出来るはずがない。 しかもフォークリフトの種類がまったく違うのだ。 こちらは座って操るタイプで、あちらは立って操るタイプのフォークリフトである。
それを聞いた人たちから、「倉庫の仕事は危ないよ。ベテランでさえ何度か倒れたもんねえ」と言われた。 「倒れたって?」 「フォークリフトに乗ったまま倒れるんよ」 「あそこのフォークリフト、そんなに安定が悪いんですか?」 「うん。下手すりゃ死ぬよ」 「死ぬんですか?」 「おう、今乗っているやつでさえ、こけて頭打ったもんねえ」 「えーっ」 「ただでさえ通路が狭くて危ないのに、いくら免許を持っているとはいえ、あんたみたいに、ほとんどフォークリフトに乗ったことのない人がやったら、死ぬことはなくても、大事故は免れんやろう」
実はぼくの父親は、ぼくが幼い頃に労災で死んでいるのだ。 突然「死ぬ」などと言われると、その記憶が蘇ってくる。 前に住んでいた家を引き払う時に、偶然見つけた遺品の数々…。 そこにはその事故の際にかぶっていた父親の作業帽や作業服があった。 血糊がべったり付いたそれらの遺品は、実に生々しく事故の凄さを物語っていた。 それを見て以来、ぼくは「危険な職業には就くまい」と思うようになり、今の安全な小売業に就いたわけである。
ところが、その安全な小売業に、死と隣り合わせになっている仕事があったのだ。 しかも、その仕事をぼくに任せようというのだ。
ぼくはさっそく本社の担当課長に断りの電話を入れた。 もちろん、直属の上司に言うべきことなのだろうが、一度は断ったけど、断り切れないで今回の決定になったわけだから、そういう人に言っても埒があかない。 他に周りから攻めていく手もあったが、とにかく時間がない。 ということで、直談判に踏み切ったのだ。
「しんたですけど」 「おう、どうした?」 「例の応援の件ですけど」 「ああ、あの件ね」 「考え直してもらえませんかねえ」 「えっ、何で?」 「死と隣り合わせのような仕事なんて、誰もしたくないでしょ」 「死と隣り合わせ…?誰がそんなこと言ったと?」 「みんな言ってますよ」 「‥‥。でも、あんたフォークリフトの免許持っとるんやろ」 「持っていても、運転したことのないペーパードライバーですよ」 「えっ、運転したことないと?」 「ええ、ありません」 「それは困ったなあ…」 「こちらも困ってますよ。こんな人間が、応援なんかに行ったら、そこの人に迷惑がかかるだけですよ。それと、そこは2トントラックの運転もしなくちゃならないんでしょ?」 「うん」 「そんな大きな車、運転したことないですよ。しかもミッション車なんて十数年運転したことないし。事故起こしたって知りませんからね」 「‥‥」 担当課長は焦っているみたいだった。 いっとき沈黙が続いた後、「わかった。もう一度検討して、また連絡する」と言って、電話を切った。
さて、どうなるだろうか? ただ、今回のことでひとつだけ言えることがある。 いくら応援とはいえ、まかりなりにも人事に口を出したのである。 おそらく4月の異動の時には、マイナスになるだろう。 しかし、それでも死ぬよりはマシである。
「おお、これはいい手相ですねえ」 東京にいた頃、手相見のおっさんに手相を観てもらったことがあるのだが、その時にそう言われた。 何でも、何十万人に一人の手相だそうで、知能線が他の人と違うというのだ。 そのおっさんによれば、知能線が人と違うというのは、そのまま知能が人と違うということだそうである。
知能が違う。 これをどう解釈したらいいのだろう? 知能が人と違うぼくには、それがわからない。 そこで、その人にその意味を尋ねてみた。 「知能が違うというのは、頭がいいという意味ですか?」 するとその人は、 「そういう意味もないことはないんですが、この場合、人と比べて変わっていると捉らえたほうがいいでしょう」と言う。 「あのー、それって変わり者だということですか?」 「そうですね。そう捉らえてもらって結構かと思います」 「‥‥」 ぼくは幼い頃からずっと、人から「変わってるね」と言われてきた。 そのたびに、「おれが変わっとるんやない。そう見るおまえが変わっとるんたい」と、自分が変わっていることを否定していた。 だが、手相で「変わっとる」と言った人のほうが正しかったと証明されてしまったのだった。
それはともかく、手相見のおっさんは「いい手相です」と言った上で「変わっていると捉えろ」と言ったわけだが、ぼくにはこれが矛盾しているように思える。 どう考えても、『いい手相』と『変わり者』とが結びつかないからだ。 もしかして、そのおっさんは、変わり者であることが幸運とでも思っていたのだろうか? もしそうなら、おっさんの目には、世の中の人すべてが幸せ者に見えていたことだろう。
さて、そのおっさんは、ぼくが変わり者であると鑑定した以外は、仕事運だとか恋愛運だとかいう世間一般の占いはやってくれなかった。 きっと見料が500円だったから、そこまで詳しくは鑑定しなかったのだろうが、もしあの時、仕事運とか恋愛運とかを観てもらっていたら、ぼくのその後の運命も大きく変わり、今頃転勤なんかで悩まずにすんだのかもしれない。 後悔先に立たずというが、実に残念なことをしたものだ。
小学6年生の頃、友だちと校区内にある池に遊びに行ったことがある。 山の絶壁を背景にして、その池はあった。 けっこうスケールが大きく、まるで山水画に出てきそうな風景だったと記憶している。 行ったのはその時が初めてだった。 近くにこんないい場所があるのかと、その時は感心しきりだった。 ところが、それ以降はそこに行ったことがない。 それっきり、その池の存在を忘れてしまったのだ。
その存在を思い出したのは、つい最近、昨年5月末のことだった。 鞍手の長谷観音に行った時に、大きな池を見つけた。 その池を見ているうちに記憶が蘇った。 「そういえば、小学生の頃に池に行ったことがあるけど、あの池は今どうなっているんだろう」 それ以来、その池のことが気になっていた。 休みを利用して、何度かそこに行ってみようと思ったのだが、いざ行くとなるとおっくうで、そのままになっていた。
そのままになっていた理由はもう一つある。 その場所は何となく憶えているのだが、なにせ行ったのは40年近く前である。 40代に入って、それまで記憶していた道が、実は記憶違いだったという経験を何度かしている。 そのため、6年生の頃の記憶が正しいのかどうか怪しくなっていたのだ。 「もしかしたら、あれは夢だったのかもしれない」、と思うことすらあるのだ。
さて、今日は休みだった。 特にすることもなかったので、久しぶりにそこに行ってみようと思い立ち、嫁ブーを誘ってみた。 行ってみたいと言うことだったので、散歩がてら、そこに歩いて行くことにした。 記憶を確かめるために、遠回りして小学校まで行き、そこから目的地に向かった。
途中までは、ぼくの記憶通り順調にいった。 ところが、途中からだんだん怪しくなってきた。 それもそのはず、当時田んぼがあったところが、宅地になってしまい、そのために新たな道がいくつも出来ており、そのために、記憶の中の道がどの道だかわからなくなってしまったのだ。 とはいえ、方向は間違ってない。 そこで躊躇せずにどんどん歩いていくと、そこに池らしきものが現れた。
「やはり記憶は間違ってなかった」と心の中で小躍りした。 ところが、どうも小学生の頃に見た池と違うような気がする。 まず、大きさが違うのだ。 あの頃見た池は、湖と思えるほど奥深く、山の絶壁まで続いていたものだ。 だが、目の前にある池は、ただのため池だった。 その山も違う。 たしかに山らしいものはあったが、それは山というより森だった。 しかも絶壁と思っていたところは、実はため池を作るために森を少し削ったところだったのだ。
どうやら、記憶違いだったのは、その行き道ではなく、その風景だったようだ。 ぼくの中にある山水画のような壮大なスケールのあの風景は、いったい何なのだろう。 やはり夢で見た風景だったのだろうか。
毎週月曜日の午後10時からは、テレビ東京系の『名曲の時間』を見ている。 今日は「青春感動ソング」ということで、70年代後半から80年代にかけてヒットした曲を流していた。 ちょうど桑江知子の『私のハートはストップモーション』が流れていた時だった。 ある疑問が沸いてきた。 そこでぼくは嫁ブーに聞いた。
「おい、この歌、会社に入った頃に流行ったんかのう?」 「えっ、もっと前よ。79年ぐらいやなかったかねえ。わたしまだ高校生やったもん」 「ああ、そうか。おれ、その頃の歌はあんまり知らんけのう」 「昔の歌をあれだけ知っとるのに、どうして?」 「それには理由がある」 「理由って何?」 「それは、東京におったけよ」 「えっ、その当時は東京のほうが情報が多かったやろ?」 「そうやけど、情報を仕入れる肝心なものがなかったんよ」 「何?」 「テレビ」 「えーっ、テレビ持ってなかったと?」 「おう。貧乏人やったけの。久保田早紀の『異邦人』を知ったのは、翌年こちらに帰ってきてからやった。テレビがなかったけ、サンヨーのCM見れんかったけのう。そうそう、クリスタルキングの顔見たのも、翌年こちらに帰ってきてからやった」 「ふーん、そうなん」 「おまえ、テレビのない生活なんか考えきらんやろう?」 「うん」 「千葉の友だちのアパートに遊びに行った時、白黒テレビがあったんよ。他の奴らは『いま時白黒?!』とか言いよったけど、おれにはまぶしかったのう。YMOはその時初めて見た。だから今でもおれの中にある坂本龍一の顔は、白黒なんよ」
「でも、テレビがないとか、いややねえ」 「なければないで、何とか楽しめるもんぞ。あれ以来ラジオを聞くのが好きになったし、何よりも曲作る時間が取れたことが大きかった」 「しんちゃんはそれでいいけど、わたしはやっぱりだめやね」 「もしよ、このテレビが壊れたらどうするか?」 「買えばいいやん」 「でも、液晶とかプラズマとか買う余裕ないぞ」 「あ、そうか」 「そんなの買いよったら、あのバタバタ音のするエアコンの壊れた車に、いつまでも乗らないけんくなるぞ」 「ああ、そうよねえ」 「テレビも車みたいに、60回分割とかできたらいいのにのう」 「そうよねえ」 「あ、そうか。車を買う時にテレビをサービスで付けてもらえばいいんよ」 「ああ、その手があるねえ」 「岡村脅して、付けてもらおうかのう」 「そうやねえ」
ということで、ホンダの岡村君。 ぼくはプラズマテレビを付けてくれるところで車を買うことに決めましたので、報告しておきます。 よろしくね。
その後もSは、結束機にかけられたりして、みんなのいいオモチャになっていた。 しかし、Sは相変わらずそれを気にしているふうでもなかった。
ある時、年上の大学生にぼくは「Sは、やっぱりバカなんですかねえ」と聞いてみた。 「ああ、あいつやろ。学校でもあんな調子らしいぞ」 「やっぱり。ところで、あいつ下の名前何というんですか?」 「いや、知らん。下の名前に何かあるんか?」 「いや、おれ最近姓名判断に凝っていて、ああいう人間を見ると調べたくなるんですよ」 「そうか」
ということで、ぼくたちは高校生の集まっている場所に行き、「Sの下の名前、何と言うんか?」と聞いてみた。 ところが、返ってきた返事はどれも「知りません」だった。 それなら直接聞いてみようということになり、ぼくたちは離れた場所にボーッと突っ立っているSのところに行った。 他の高校生も興味を持ったのが、ぞろぞろと付いてきた。 「S、おまえ下の名前何と言うんか?」 「はあ、ぼくですかあ?」 「おう、おまえに聞きよるんたい」 「何でですかあ?」 「おまえのことを好きという女がおってのう、名前聞いてくれと頼まれたんよ」 「はあ、そうですかあ」 そういうと、Sはいつものように口をポカンと開けて、例のごとく首をかしげた。 「ホント、おまえは緊張感のない奴やのう」 「えっ、緊張感…?って何ですか?」 「もういい。下の名前、何と言うんか?」 「ぼくですかあ?」 「そう。さっきからそう言いよるやろうが」 「ぼくは…」 「ぼくは?」 「名前は…」 「名前は?」 「輝彦です」 「輝彦ーっ!?」
それまでざわめいていた空間が、一瞬水を打ったようにシーンとなった。 が、その後、大爆笑が起きた。 輝彦と言えば、西郷輝彦、あおい輝彦である。 当時は美男子の代名詞のようなものだった。 その尊い名前を、バカ高の代表選手が付けているものだから、大騒ぎになった。 高校生たちは口々に、「おまえのどこが輝彦なんか」と言って、頭をこづいている。 ぼくといっしょにいた大学生などは、笑いをかみ殺して「おまえ、その名前重たくないか?」と聞いたほどだ。 しかし、S、いや輝彦君は、虚空を見ながら、「重いって何ですかあ?」と言っていた。
その後、ぼくたちがSのことを輝彦と呼ぶようになったのは、言うまでもない。 つまり、「こらS、止めんか!」が、「こら輝彦、止めんか!」となったということだ。 輝彦は、そう言われても、相変わらず口をポカンと開けて、一生懸命荷物を押していたのだった。
あれから30年近くが経つ。 輝彦はぼくより2つ下だから、今年47歳になるのだが、いったいどういう生活をしているのだろうか。 無事に結婚しているのだろうか。 結婚して子供がいたとして、妻や子供たちにいじめられてはないだろうか。 最近妙に気になっている。
浪人中にいくつかのアルバイトをやったが、その一つにデパートの配送仕分けの仕事があった。 そのバイト先には、大学生やぼくのような浪人に混じって、高校の実習生も仕事をやっていた。 その高校というのが、その当時地元でバカ校で通っていた学校だった。 まあ、バカ高とはいえ、前の学校を退学になったために、しかたなくその高校に通うようになった人間がいたり、中学卒業後に一度は就職したものの、学問の夢が捨てきれずその高校に通うようになった人間もいたから、バカばかりというわけではなかった。
さて、その実習生の中に、行動といい、風貌といい、そのバカ高を象徴するような男がいた。 Sという。 Sは実によく働く人間だった。 他の奴らがさぼっていても、Sだけは一生懸命自分の仕事をこなしていた。 だが、融通が利かないのだ。 「ローラーの上の荷物を押せ」と言えば、状況を見ずにただひたすらに押すだけで、先端で荷物が落ちてしまっても、こちらが「こらS、止めんか!」と怒鳴るまで押し続けていた。 何度やってもそんな調子なので、一度注意したことがある。 その時Sはポカンと口を開けて、何で注意されているのかわからない様子だった。 ぼくが「頼むけ、前方の状況を確認しながら押してくれ」と言うと、「はあ、わかりました」と言うものの、その直後には、やはり前方を確認せずに押し続けるのだった。 こうなれば、こちらが気を利かして、荷物が落ちる前に「ストップ」と言うしかなかった。 ただでさえ神経を使う仕事だったのに、そのおかげでさらに疲れは増した。
ある時のことだった。 休憩時間が終わって仕事を始めようとすると、今度はなかなか荷物が回ってこない。 見てみると、Sは体中にガムテープを巻き付けられていた。 ぼくは慌ててSのところに行って、「どうしたんか?」と聞くと、Sはヘラヘラ笑いながら「みんなから巻き付けられました」と言った。 「おまえ、みんなからいじめられよるんか?」と聞くと、Sは口をポカンと開けたままで首をかしげ「いじめ…?いや、いじめられてないっすよ」と言う。 「もういい」とぼくは言って、おそらくガムテープを貼り付けただろう人間たちに向かって「おい、ガムテープ剥いでやれ。そうせんと、いつまでたっても帰れんぞ」と言って、テープを剥がさせた。 Sはみんなから頭をこづかれながら、テープを剥がされていた。 その間もSはヘラヘラ笑っていたのだった。
2006年01月20日(金) |
浪人時代にやった占い(後) |
(3)トランプ占い 『明日はきっと』
何もいいことがないから こうしてトランプ切るのです ほら明日は素晴らしいと出た 願い事も叶うと出た
逢いたくても逢えないから こうしてトランプ切るのです ほら明日は素晴らしいと出た 明日はきっと逢えると出た
嘘でもいいんです 一時しのぎでいいんです 明日何もなくったって またあさってに切るのです
誰もいない夜だから こうしてトランプ切るのです ほら明日も素晴らしいと出た あの子もぼくを好きだと出た
明日はきっと…
前にも書いたことのある詩だが、浪人1年目の冬に、ぼくはダラダラと猛勉強をやっていた。 その合間にやっていたのが、このトランプ占いだった。 昨日書いた夢占いと同じく、恋占いをやっていたのだ。 その頃は勉強ばかりで外に出ることもなかったから、人恋しくてならなかった。 誰に会いたいのかというと、もちろん好きな人だった。 まあ、ぼくが外に出ない限り会えないのだから、会うことは無理にしても、せめて彼女の気持ちを知りたかった。 それも叶わないので、トランプに助けを求めたわけだ。
占いとはいうものの、けっこう強引なことをやっていたものだ。 とにかく、自分で納得いく結果が出るまで、繰り返し占っていたのだから。 そういうことなので、最終的にはいつも相思相愛の仲だった。
上の詩は、そういう自分を哀れんで作ったものである。 曲までついている。(笑)
(4)姓名判断 浪人時代の一番の収穫は、何と言っても姓名判断を覚えたことである。 この姓名判断についてはここに何度も書いているので、詳しくは書かないが、とにかくこの占いは、その後の対人関係や人間観察に大いに役立っている。
さて、トランプ占いの詩があるくらいだから、姓名判断の詩はないかと探してみると、あった。
『まわれまわれ』
水のない大きな水車のように 誰もかもが大きくまわり そこにひとつひとつの部屋があるという 首もまわり旅もまわる まわれまわれ、大きくまわれ
海の鳴る町でぼくらは生まれ 大きな影にぼくらは踏まれ 建物の中で火に煽られ 風もまわり影もまわる まわれまわれ大きくまわれ
時は飛ぶ、ぼくらは名前に動かされ 吹き飛んだ風といっしょに空に消え ぼくらのために雲は膨れ 痛みを隠して地の中へ
そのうちぼくらは雲に飛ばされ 空のおなかでさかなつり 風の中で糸は揺れ 時もまわり人もまわる まわれまわれ、大きくまわれ
もちろん、この詩にも曲がついている。(笑)
2006年01月19日(木) |
浪人時代にやった占い(前) |
(1)夢占い 19歳から20歳にかけて、ぼくはよく夢判断をしていたものだ。 夢判断とはいっても、この頃はすでにフロイトなどの難しい本は読んでなく、別に深層心理の観察などをやっていたわけではない。 では、どんな夢判断をやっていたのかというと、それは占いである。 つまり、夢占いをやっていたわけだ。
何度も書いているが、19歳から20歳というと、ぼくは浪人生活の真っ最中だった。 まさに孤独と焦燥の毎日で、いつも何かいいことがないかと思っていた。 そのいいことを、夢に求めたのだ。 あの頃よく見ていた夢は、海の夢だった。 そこで、『夢占い』なる本で海を調べてみると、「恋の成就」などと書いてあった。 だいたい、家に引きこもっているような人間が恋の成就などするはずもないのだが、その時は真剣にそうなるものだと思っていた。 そのためにぼくは、暇があると電話の前に座っていた。 好きな子からの電話を待っていたわけである。 しかし、かかってくるのはいつも違う女性からだった。
「しんたさんですか?」 「はい」 「今、英会話の教材の紹介をやっているんですけど…」 と言って、その女性はうだうだと教材の説明を始めた。 そして、ようやく話が終わったと思ったところで、彼女はこう切り出した。 「電話ではわかりにくいと思いますから、直接お話したいんですけど」 「えっ?」 「明日、お会いできませんか?」 人が恋の成就の電話を待っているのに、何が英会話だ。 むかついたぼくは、「別に会いたくない」と言って電話を切ったのだった。
こういう電話はまだいいほうで、ぼくがいない時に高校の同級生を名乗り、こちらから電話させる手口の奴もいた。 こんな勧誘の電話ばかりで、どこに恋愛の成就があるのだろう。 ということで、だんだん夢占いをすることが馬鹿らしくなり、気がついたらやめていたのだった。
(2)奇門遁甲 そういえば、これと前後して、奇門遁甲という一種の方位学もやったことがある。 ちょうど就職を探していた時だった。 何度も何度も面接で落とされるので、ぼくは「これはきっと方位が悪いせいだ」と思うに至った。 奇門遁甲というのは、三国志で有名な諸葛孔明も用いたという占いで、人を思うように動かすことが出来るのだという。 そこでその言葉を信じたぼくは、その本を買って、面接官の心を動かしてやろうと思ったのだ。
「今日は、午前中東方面が吉か。じゃあ、今日は東方面の企業を探そう」 ということで、アルバイトニュースに載っていた、その方面の企業に片っ端から電話し、履歴書を持ち込んだ。 「これで面接官の心を動かせる」とほくそ笑んで、ぼくは面接を受けた。 ところが、心を動かすどころか、始終面接官に主導権を奪われ、あげくにその場で断られたのだった。 面接官は最後に、「君にはこの仕事は向いていない」と言った。 どの面接もこんな調子だった。 結局26回面接を受け、すべて落とされてしまった。 その後ぼくは、社会というのが恐ろしく思えてきて、家に引きこもってしまうのだった。
先日、転職したいという人の話を書いたが、実はぼくもその一人なのである。 これもまた先日書いたが、4月の転勤話を聞いたのがきっかけになったのだ。 これまで何度か転勤を経験しているが、その時は同じ仕事内容の転勤にすぎなかった。 だから、喜んで転勤を受けた。 だが、今回は内容が違っている。 今までぼくがやっていた仕事とは、まったく違った仕事をしなければならないのだ。 つまり職種が違うのである。 25年培ったキャリアが否定されるわけである。 若ければ、そこまで悩みもしない。 しかし、今から新しい職種を覚えるというのは、しかもせっかく覚えても定年までの10年で終わってしまうというのは、ぼくの中ではとうてい耐えられないことである。
こういう時、「職があるだけでもありがたいと思え」とよく言われるが、そういうことは重々わかっている。 だが、それでもぼくは納得がいかないのだ。 ああ、転職したい。
小学生の頃、人が夢を見るのは、どこかに夢を蒔く人がいるからだと思っていた。 そのことを、けっこう深く信じていたものだ。 一度そのことを友人に言ってみたことがある。 すると友人は、「その人は何人おるんか?」と突っ込んできた。 「一人」 「おまえはバカか。一人一人見る夢は違うんぞ。たった一人でどうやって何十億の人に違う夢を見させることが出来るんか?」 「それは…」 ぼくは答に窮してしまった。
それ以降、何年もそのことを忘れていた。 久しぶりにそのことを思い出したのは、高校生になってからのことだった。 ぼくは高校時代の一時期、心理学に傾倒していたことがある。 図書館に行っては、フロイトとかユングとかいった、小難しい本を読んでいたものだった。 どうしてそういう本を読むようになったのかは憶えていないが、おそらくきっかけになったのは、フロイトの『夢判断』にあったのではないだろうか。 夢を蒔く人のことが、ずっと潜在意識の中に眠っていて、それが『夢判断』という言葉に呼び覚まされたというわけだ。
案の定、その『夢判断』を読んでいる時に、「そういえば…」と夢を蒔く人のことを思い出したのだった。 そこで、さっそく、そのことが書いてないかと本を探ってみたのだが、いかに『夢判断』とはいえ、そんな夢みたいなことが書かれているわけがない。 しかし、それがきっかけとなって、ぼくは再び夢を蒔く人のことを考えるようになった。 とはいえ、なかなか小学生時代の突っ込みの答は出てこなかった。
ようやくその答が出たのは、社会人になってからだった。 家電業界に勤めたというのが、それを解く鍵となった。 それは、夢を蒔く人は一人一人にそれぞれの夢を蒔いているではなく、一つの夢を蒔いているということだった。 つまり、テレビの電波と同じことだということだ。 同じドラマを見ても、その人その人の環境や経験によって受取り方が違うように、夢も見る人の環境や経験によってその内容変わってくるのだ。 例えば、夢蒔く人が『恋人の夢』を蒔いたとしよう。 恋人というのは人それぞれ違う人が対象である。 そこからそれぞれのドラマ、つまり夢が展開するということだ。
ま、こんな愚にも付かないことを20年近くも考えていたのだから、ぼくも相当暇だったのだろう。 今は、こんな夢のようなことを考える余裕もない。 裏返せば、夢も見れなくなっているということだろう。
最近ぼくの周りで、「仕事を辞めた」とか、「転職しようと思っている」とか言う人が増えている。
年末のこと。 取引先の人と話していると、彼が急に声を潜めてこう言った。 「この間、ある会社の面接受けたんですよ」 「えっ、会社辞めると?」 「ええ、そうしようと思ってるんです」 「どうして、また」 「うちの会社、危ないんですよ」 「そうは見えんけどねえ」 「表向きはですね。でも、今年は昇給がなかったし、ボーナスも出ないんですよ。実情はかなりひどいです」 「昇給・ボーナスがない。それはきついねえ」 「そうでしょ。で、3月をめどに、いまの会社を辞めようと思って」 「でも、再就職と言ったって、なかなかいい仕事は見つからんやろ」」 「そうなんですよ」
これも年末。 後輩から電話がかかった。 「しんたさん、おれいま無職です」 「えっ、仕事辞めたんか?」 「ええ、リストラにあったんです」 「リストラか…。で、おまえこれからどうするんか?」 「何かいい仕事がないかと思って電話したんです」 「職安、あたってみたか?」 「ええ、いちおう」 「何もないやろ」 「いや、あることはあるんですが、月収が今までの半分とかですからね」 というものだった。 最後にぼくは「まあ、いいところがあったら連絡するけ、期待せんで待っとけ」と言って電話を切ったのだ。 以前は「いい人材いませんかねえ」などと言ってくる人もいて、何人か紹介したこともあるのだが、最近そういうことを言ってくる人はいなくなった。
ぼくが前の会社を辞めた頃は、「キャリアアップしたい」「他のことにチャレンジしたい」といった理由で転職する人が多かったような気がする。 まあ、バブルがはじける前のことだったから、そういう理由も通ったのだろうが、最近はそんな理由で会社を辞める人はまずいないだろう。 ぼくの知る限りでは、ほとんどが上に紹介したような理由で退職した人が多い。
しかも、当時の転職組は2,30代が圧倒的に多かったのだが、最近は40代や50代の人も多くいる。 ぼくの知っている50代の人で、それまでの部長職を捨てて転職した人がいる。 別にヘッドハンティングされたわけではない。 まったく別の業種に就き、年収も半分ぐらいになったという。 そうなることはわかっていたのに、何で転職したのかというと、やはり「会社が危ない」が最大の理由だった。
今のところ、うちの会社も何とか持っているが、この先どうなるかわからない。 会社内でも、そろそろ高齢者を対象にした人員整理の話が出ているようである。 ぼくも来年50歳。 そろそろ心の準備、いや将来の準備をしておかないとならない。
(1)暖房依存症 年が明けて、しばらく寒い日が続いたが、ここに来て若干温かくなった。 ここ二三日、最高気温が15度を超えているのだ。 15度というと、秋の気温である。 もし、10月や11月でこの気温なら、まず暖房を入れることはないだろう。 しかし、12月を過ぎるとそうもいかない。 一度暖房を経験した体は、よほど暑い日でもない限り、暖房を要求するのだ。 あげくに乾燥肌に悩まされたりするから、始末に負えない。
(2)ズボン下の害 暖房というのは、何も機械だけではない。 ズボン下もそうである。 そのズボン下も、一度はくまでは、別にはかなくても何と言うことはない。 ところが、いったんはいてしまうと癖になる。 それ以降ズボン下をはかないと、落ち着かなくなるのだ。 これも先の暖房体験と同じことである。 履いてない時と比べると、当然通気が悪くなるから、蒸れてしまい、ならなくてもいいような皮膚病に冒されることがある。 高校時代、シャレでズボン下をはいたことがあるのだが、そのせいで、人に言えない、というか人に言うと笑われてしまう皮膚病にかかってしまった。 だからぼくは、意地でもズボン下をはかなくなったのだ。
(3)猫とストーブ こういうことは、何も人間に限ったことではない。 うちの親戚は7匹の猫を飼っているのだが、その猫たちは大のストーブ好きである。 ストーブがついてないと、7匹全部がつけろと言って大合唱するらしい。 しかし、その猫たちも、冬場にストーブを体験する前は、騒ぐことがないという。 騒ぎだすのは、一度ストーブを体験した後である。 ここ二三日のような、温かい日でも大合唱するらしいから、彼らのストーブに対する感覚は、きっと人間のズボン下に対する感覚と同じものなのだろう。
2006年01月14日(土) |
『ネズミ通り15番地』30周年 |
『ネズミ通り15番地』
部屋の灯りが消える おれたちの世界が始まる
小さな穴から抜け出して 大きな箱を横切って 台所の街に急ぐんだ
寝坊したらおしまいだ もうご馳走は残ってない 今日一日は飯抜きだ
ここはおれたちの天国 誰にも邪魔されない ネズミ通り15番地
ところでメリーはおれの生きがい みんなが彼女を狙っている 彼女の家は戸棚の向こう
犬の遠吠えが激しくなると そろそろメリーのお出ましだ みんな彼女のご機嫌を取る
ここはおれたちの天国 誰にも邪魔されない ネズミ通り15番地
本当は誰もメリーを愛してないんだ ただ彼女と一発やりたいだけ でも、おれの愛は本物だ
ここはおれたちの天国 誰にも邪魔されない ネズミ通り15番地
ここ数日、高校時代に作った歌を調べていた。 歌作りを始めたばかりの頃だったが、その頃からぼくはエッセイ的な歌ばかり作っていた。 別に意識をしていたわけではないが、歌作りに励んでいた20代後半まで、ずっとその姿勢で通しているのだ。 ところが、そこに一曲だけ変な歌が混じっていた。 この『ネズミ通り15番地』である。
この歌を作ったのは1976年1月だった。 ぼくが高校3年の時である。 その頃夜中になると、いつも台所でゴトゴトという音がしていた。 その前から数匹のネズミが天井の上を駆け回っていたから、台所のゴトゴト音は、きっと彼らが台所で遊んでいる音だったのだ。 小学生の時に家の中でネズミを見て以来、ぼくはネズミに対して恐怖心を抱いていた。 そのせいで、台所でネズミが駆け回っていると思うと、怖くて怖くて。 その恐怖心から、ぼくは極度の睡眠不足に悩まされることになる。
さて、そのネズミたちがどこから現れるのかというと、やはり台所からだった。 米びつの裏側に抜け穴を作っていたのである。 何度かその穴を板で塞いだ。 そのおかげで、それから1週間ほどはゴトゴト音は聞こえなかった。 だが、それを過ぎると、またしてもゴトゴトという音が聞こえるようになった。 そこで確認してみると、板で塞いだすぐ横にまた穴を空けていたのだ。 ということで、またネズミたちが台所の街で遊んでいる音を聞かされることになる。
睡眠不足は、体にいろいろな影響を及ぼした。 それまであまり出来たことのなかったニキビが頻繁に出来るようになったり、便秘になってしまい、そのせいで微熱の毎日が続いたりするようになった。 「このままだと、おかしくなってしまう。何とかしなくてはならない」 そう思っている時に、一つの寝不足解消案を思いついた。 それがこの『ネズミ通り15番地』である。
ネズミたちは、おそらくこういう意図で台所を駆け回っているのだと、歌にしてしまった。 そして、夜中にネズミたちが台所で暴れ回っている時に、その歌を思い浮かべることにしたのだ。 すると、何となく気が楽になった。 それを続けていくうちに、ゴトゴト音を聞いては、今日あのネズミはメリーにふられたなど思うようになった。 「明日、あのネズミは、どうやってメリーにアタックするのだろう?」 そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまった。 それから、ゴトゴト音を聞くのが楽しみになってきた。 布団の中で、ぼくはメリーを巡るネズミ物語を考えるようになった。 そうこうしているうちに、睡眠不足は解消されていった。
運動が体にいいことは知っていたが、この時初めて歌が体にいいと知った。 それ以来、歌もぼくの健康法の一つとなったのだった。 しかし、それでネズミ恐怖症が解消されたわけではない。 今でもネズミは嫌いである。
現在、ぼくの勤める店は、大売出しの真っ最中である。 特に売出し初日の昨日は大変忙しかった。 開店と同時にお客さんで店の中はごった返し、いつもは1時間に1本のペースで吸うタバコも、昨日は4時間で1本のペースでしか吸えなかった。 昼食を食べたのは、もう午後5時を回っていた。 おまけに、閉店処理に手間取ってしまい、店を出たのは午後10時を過ぎていた。 前に勤めていた会社なら午後10時に帰ることなど毎度のことだったのだが、今の会社に入ってからこんなに遅くなったことはない。 ま、それだけ忙しかったということだ。
前日にそういう忙しい思いをすれば、当然翌日もそういう事態になると誰でも予想する。 そこで今日の休みを半分削って、午前中勤務することにした。 ところが会社に行ってみると、通常の売出し程度の客数しかいなかった。 昨日並の仕事量を覚悟して出社したぼくだったが、その客数を見て拍子抜けしてしまった。 しかし、せっかく会社に来たのだから何かやって帰らないともったいない。 と思ってやったことは、商品整理や掃除といった、翌日でも出来るような仕事だった。 そのうち客数も、昼前から降り出した雨でだんだん減っていき、通常以下の客数になってしまった。
それを見て、そろそろ帰ろうかと思っていたところで、野暮用が出来た。 そのせいで、会社を出たのは午後3時になってしまった。 野暮用を除いてやったことと言えば商品整理と掃除だけ、いったい何をしに会社に行ったのだろう。 せっかくの休みが台無しである。 まあ、家にいてもやることはなかったのだが、それでも時間を気にせずにゆっくり寝ることが出来、昨日の疲れを取り除くことは出来たはずだ。 早起きして会社に行ったことで、昨日の疲れは残ったままで、今日の疲れが加わったわけだ。 こういう場合、肉体的な疲れよりも、精神的な疲れのほうが大きいことは言うまでもない。 この憂さをどこかで晴らさないとなあ…。
昨日の夢の話の続きだが、ぼくはよく高校時代の夢を見ている。 しかし、それは想い出の回想などではなく、何か象徴的なものが多い。 テーマはいつも決まっていて、それは三つある。 夢見る回数の多さの順で言うと、トップが遅刻であり、次が試験で、最後が恋である。
さて、トップに君臨する遅刻の夢だが、これは高校3年時によく遅刻をしていた経験に基づいている。 最初は担任もげんこつ混じりで怒っていたのだが、あまりに遅刻が多いので、終いには怒る気力もなくしたのか、「はい」の一言で終わるようになった。 とはいうものの、ぼくは好きこのんで遅刻していたわけではない。 それは道路事情によることが多かった。 そう、渋滞に巻き込まれていたのだ。 少し動いては停まるバスに、いつもイライラしていた。 つまり、気持ち的には焦っていたわけだ。 そのイメージが、今でも心にこびりついているのだろう。
高校時代はいつも第一駅前で、高校方面行きのバスに乗り換えていた。 第一駅前の次は第二駅前である。 遅刻の夢を見る場合、ほとんどそのバス停から物語が始まっている。 第二駅前から、なぜか高校とは逆方面にバスが走りだしたり、わざわざ他の区を経由して学校に向かったりする。 時には第二駅前の次のバス停が、神奈川の三浦海岸だったり、佐賀県だったりすることもある。 なかなか学校に着かないので、焦っているという夢である。
次に試験だが、これはなかなか答案が書けないという夢が多い。 終了時間まであと1分しかないのに、まだ答案用紙に一行も書いてない夢とか、昨日この日記に書いたように、問題とはまったく関係ないことを答案用紙に書いている夢を多く見る。 たまに、答案用紙をすべて埋める夢を見ることもあるのだが、その時は、終了時間寸前になって、なぜか消しゴムでその答を全部消してしまい、書き直しているところで時間切れになるのだ。 こういう夢を見る背景には、いつも勉強せずに試験に臨んで、その問題の意味すらわからずに、時間切れになったという経験からきているのだろう。
では、恋の夢はどんなものなのかというと…。 ああ、そうだ。 これを見てもらったほうがいい。
「君を愛してる」と言いかけた時 いつも同じように、終わる君の夢 言い出せなかった、大きな悔いが いつまでも残る。あの若い日は、 先へと進まない いつもいつも、途切れた映画のように 後味悪い、夢のいたずら
朝の目覚めは、夢を引きずって 力の入らない、一日の始まり あの頃君は、ぼくのことを どう思ってたのか、知りたくなって、 想い出を訪ねる いつもいつも、過去に縛られていく もう戻れないことも忘れて
言い出せなかった、大きな悔いが いつまでも残る。あの若い日は、 先へと進まない いつもいつも、途切れた映画のように 後味悪い、夢のいたずら
先月、プレイヤーズ王国で公開した『夢のいたずら』の歌詞である。 かつては、この歌詞通りの夢を、よく見ていたものである。 しかし、最近はほとんど見ることがない。 おそらくは、その頃好きだった人のイメージが薄れたせいだろう。 ということは、ぼくの運命を変えたと思われるその人以上に、遅刻や試験のイメージは、ぼくの中では強烈に残っているのだろう。
また高校時代の夢を見た。 今年に入って二度目である。
前回見たのは今月3日の深夜だった。 通学している夢で、バスの連結がうまくいかず、「また遅刻だ」と焦りながら1本遅いバスに乗り込んだ。 バスに乗り込むと、そこになぜか、かつてうちの店を担当していた取引先の男が乗っていた。 ぼくと彼は波長が合わず、お互いに嫌い合っている仲である。 「何でここに奴がおるんかのう」と思ったぼくは、彼の視線に入らない場所を選んで立つことにした。 ところが、バスが何かの事故に巻き込まれてしまい急停車した。 その拍子に、バランスを失ったぼくの体は、彼の目の前に運ばれてしまった。 「あちゃー」 と思っているところで目が覚めた。
この夢には後日談がある。 翌4日のことだった。 来るはずのないその取引先の男が、新年の挨拶に来たのだ。 ここでもぼくは「あちゃー」と思ったのだが、とりあえず通り一遍の挨拶をした。 しかし相変わらず波長が合わない。 話しているうちにだんだん頭に来て、「ここに来ても何のメリットもないやろ。本社に行った方がいいよ」と言って、彼を追い返したのだった。 きっとその夢は、その男が来ることを暗示していたのだろう。
さて、今日の夢である。 今回は物理の試験の夢だった。 ぼくは小中高通して、理科系がまったくだめだった。 高校1年の時には、人が滅多に受けることのない生物の追試を、ぼくは受けている。 わけのわからない生物よりも、まだ計算式のある物理のほうが楽だったのだが、同じ理科系、苦手科目には変わりない。 その試験中、周りの人は一生懸命解答を書いているのだが、なぜかぼくは、物理の先生についてのエッセイを書いていたのだ。 そして「これを今日の日記にしよう」と思っていた。 そうこうしているうちに時間が来てしまい、答案用紙を集めるだし、みんな教室を退出した。 ところが、ぼくはまだエッセイが出来ていない。 そこでぼくは、時間が過ぎても教室に残りエッセイを書いていた。 すると、試験官がぼくのところに来て、「もう時間ぞ。エンピツを置きなさい」と言った。 慌てたぼくは、つい「まだ日記が出来てないんです」と言ってしまった。 試験官の顔は見る見る怒り顔に変わっていった。 「何、日記だとぉ」 というところで目が覚めた。
前回の夢は、ぼくの嫌いな取引先の男に再会することを暗示していたのだが、さて今回の夢は何を暗示しているのだろう。 ちなみに、昨日の日記は寝る前にちゃんと出来ていたので、そのことで焦っているわけではなかった。
2006年01月10日(火) |
やることがない時は歌をうたうに限る |
今日は嫁ブーが急きょ仕事になったため、嫁ブーを送り迎えする以外は家から出なかった。 嫁ブーを送っていった後、まずやったことは寝ることだった。 午前4時まで起きていたので、眠気が取れないのだ。 そこで布団に潜り込んだのだが、なかなか寝付けなかった。 日差しが顔を照らして眠れなかったり、いろいろ考え事をして眠れなかったりと、眠たいのに眠れないというのは、実に辛いものである。
時折電話で邪魔されたりもした。 そのほとんどが、勧誘の電話だった。 そういう電話で睡眠を邪魔されることほど、腹立たしいことはない。 「あのう、奥様いらっしゃいますでしょうか?」 こういう電話が何度もかかった。 そのたびにぼくは、「奥様は川に洗濯に行きました」と言って、電話を切った。 中には、ぼくが受話器を取るなり「奥様ですか?」などという電話もあった。 ぼくが「はい、奥様ですよ」と言うと、先方は「あっ、すいません」と言って電話を切った。
こういうことを何度か繰り返した末に、ようやく眠りに就くことが出来たのだった。 起きたのは午後2時前だった。 やはり電話で起こされた。 だが、電話の主は友人で、しかも充分に寝たあとだったので、機嫌良く話が出来た。
目が覚めた。 当初は嫁ブーと、宗像大社に初詣に行く予定にしていたのだが、それが流れたためにすることがない。 正月にあった『古畑任三郎』でも見ようかとも思ったが、嫁ブーと見ることにしていたのでやめた。
じゃあ何をしようかと周りを見回したら、そこにギターがあった。 「しかたない、これで時間をつぶすか」とギターを取って歌い出した。 ところが、今日は声の調子がいいのだ。 風邪を引いて以来、最高の声が出ている。 そこで、前々から練習していた歌を録音することにした。 たった1曲だったのだが、これに時間がかかった。 いや、歌や演奏はすんなり行ったのだ。 問題は、その音の処理だった。 エコーをかけたり、音のバランスを取ったり、実に大変な作業だった。 しかし、好きなものには没頭できる。 6時過ぎまでかかったが、ようやく完成にこぎ着けた。
『もし愛することが終わったら』 もし愛することが終わったら ぼくはタバコを吹かして きみは目を閉じて 背中合わせにすわるだろう
甘く切ない思いが 二人の心の中ひとつひとつに 訪れては消えていくだろう それぞれの時間の中で
あまりに殺伐とした世界が 何もかもを確実にしらけさせて 始終生きていることすら馬鹿らしく思えて ぼくはタバコを吸い終わり、きみは目を開ける
だけどぼくが二本目のタバコに火を付け きみが二度目の沈黙に陥るとき 今までとは違った世界に 二人の心は浸るだろう
あまりに殺伐とした世界が 何もかもを確実にしらけさせて 始終生きていることすら馬鹿らしく思えて ぼくはタバコを吸い終わり、きみは目を開ける もし愛することが終わったら ぼくはタバコを吹かして きみは目を閉じて 背中合わせにすわるだろう
やることがない時は、歌をうたうに限る。 いや、ネタがない時も、歌をうたうに限るものである。 これで今日の日記が埋まったのだから。
(1)旅に出てきます 『旅に出てきます』
旅に出てきます 今吹いている風が 想い出を何もかも 持って行ったので
駅員もいない 小さなホームで 「ぼく独り」行きの 汽車を待ってます
見る景色(かげ)もなく トンネルばかりの 冷たい闇の中を 汽車は走ります
すれ違う汽車も ここにはなくて ただ二本のレールが 迷い道のよう
旅に出てきます 今吹いている風が 想い出を何もかも 持って行ったので
この歌を作ったのは、昭和57年1月だった。 前年の12月に予備校を退学し、自宅浪人に切り替えたばかりの頃だ。 なぜ自宅浪人に切り替えたのかというと、切羽詰まったところに自分を置き、甘えていた自分にムチを打ちたかったからだ。 それから2ヶ月の間、ぼくは必死に受験勉強をやるつもりだった。 だが、ここで小学校入学以来怠け続けてきたツケがまわってきた。 まともに勉強などやったことがないから、『傾向と対策』なんて頭になかった。 いや、その意味も知らなかった。 そのくせ、「この大学はこの問題が出る」などと自分勝手に山を張って、そればかりを必死で憶えていたのだからお笑いである。 つまり、その2ヶ月間というのは、毎日一夜漬けをやっていたわけだ。
そして、気分転換と言っては、いつもギターを抱えていた。 最初の頃こそ、ギターを抱える時間は短かったが、そのうちに本末が逆転した。 ギターを弾く合間に参考書を読むようになってしまったのだ。 ということで、結局どの大学も落ちることになる。
歌に関して言えば、受験勉強を始めた1月から最後に受けた大学の不合格がわかるまでに10曲の歌を作っている。 どれも退廃的で暗い感じがするのは、その境遇のせいだろう。
(2)昨日までの生きざま さて、その10曲の歌の1曲目が冒頭の『旅に出てきます』で、10曲目が次の『昨日までの生きざま』だった。
『昨日までの生きざま』
夜は明けて、日は昇り、雲は隠す 鳥は鳴き、風は吹き、今日でお別れ また街は揺れる、いつものように
人は声もかけず、忘れたふり 空は泣き、ぼくは泣き、涙は尽き くたびれた靴が、この街の想い出
この道は、いつもの道、歩き慣れた 傘もなく、びしょぬれの荷は重く 水たまりを濁す、別れの足跡
夢は消え、バスは来て、足は重く ぼくはただ、窓にもたれ、ため息つく 昨日までの甘い、生きざまは終わる
すべての大学に落ちたことにより、ぼくは自分が甘かったことを自覚することになる。 そこで、こんな歌を作って、自分を追い込もうとしたのだが、実際は上の歌詞の通りにはならなかった。 逆に、自分の甘さにドップリと浸かってしまうようになってしまったのだ。 その後、1年間を引きこもり生活に費やし、2年間を無意味な東京生活で費やし、1年間をのんびりしたバイト生活で費やしたのだった。 甘い生きざまはとどまるところを知らなかった。
(3)これからの生き方 そんな自分からいよいよ脱皮する時がきた。 それは就職して1年ほど経ってからのことだった。 その会社では、それまでとはまったく違った、働きづめの生活があった。 今までの甘い生きざまでは、到底勤まらないと自覚したぼくは、その決意を歌にした。
『これからの生き方』
これからの生き方を、変えてみたいと思う あまりに落ち込んだ、こんな暮らしをやめて 疲れた足取りを、軽やかに変えて 締め切った窓も、大きく開いてみて
大きな夢という、小さな意地を捨てて その中に縛られた、こんな自分を捨てて これまでの人生を、素直に受けとめて これからの人生に、何をするのか考えて
つなぎとめていた、恋の未練にも 別れをつげて、今日からは生きていこう これからの出会いを、大切にしていければ もうそれ以上に、何も望むことはなく
いつか来る運命の、中に向かって 夢を忘れ、恋をわすれ、ただ日々の暮らしに いくつとなく転がっている、生きざまを見つけ ただそれが夢に、つながればいいと思う
あれから25年、ぼくはずっとこの歌を理想としてきた。 だが、現実はこの歌とはかなり離れているような気がする。 時々、型にはまった人生に甘んじて、夢に繋がることを避けている自分を見つけることがある。 これは、まだまだ甘さが消えてない証拠と言えるだろう。
来年はいよいよ50代に突入する。 いつまでも甘いままではいられない。 これからの人生に何をするのか? 真剣にそれを考える時期がきている。
『冬』 世の中が 寒さの中で動いている。 騒音、騒音 ここにはもう人間の会話はなく ひと時の暖かみもない。 右から左、 左から右、 通り過ぎるものはみな 文明の枠でしか呼吸をしてない。 さて、 そこに飛び込むことが尊いのか、 そこから逃れることが尊いのか、 この季節は答をまだ 凍結させている。
今から14年前の1月に書いた詩である。 ちょうど前の会社を辞めて、再就職口を探していた時期だった。 その頃は、朝は8時に起き夜は12時に寝るといった、けっこう真面目な生活をおくっていた。 同じくプー太郎をやっていた20歳前後の頃のような、すさんだ生活をやっていたわけではなかった。 これは、やはり社会人という自覚が、そういう定刻生活をさせていたのだと思う。
さて、朝早く起きて何をやっていたのかというと、週に何度かは近くのコンビニに行って就職情報雑誌や新聞を買い込んできて、そこに書いてある会社で働いている自分の姿を想像しながら、向き不向きを識別していた。 中には演歌歌手の付き人という職業もあり、それも想像してみたのだが、付き人をやっている自分の姿は、どうもチグハグで、結局却下となったのだった。 最終的に、ぼくに向いている職業は、やはり販売業だという結論に至り、絞りに絞って今の会社を選んだわけだ。
その間、特に焦りなどはなかった。 心のどこかに、どうにかなるという思いがあって、その思いがずっとぼくを支えていた。 そのため、十数社の面接を受け、いくつかの「これは!」という会社に落とされはしたものの、落ち込むようなことはなかった。 一社落ちるたびに、人生が終わったような気がして、深く落ち込んでいた20歳当時の自分からは、想像できないことである。 その差は、やはり人生経験からきていたのだろう。
あれから14年。 今のぼくには、例えば3年後、販売業をやっている自分の姿が想像できないでいる。 そこで、もっと自分に合っている職業があるのではないかと、いろいろな職業をやっている自分の姿を想像している。 その中には、文章を書いたり、歌を歌ったりしている自分もいるのだが、どうもはっきりとした画が浮かび上がってこない。 この先、いったいどうなるのだろうか。 季節は奇しくも冬。 この季節は、答をまだ凍結させている。
(その1) イトキョンもお笑い好きだということだ。 そこでぼくが試みに「イトキョン、キレとるやろ?」と聞いてみると、例のナミちゃんと同様に、指を立てて「キレてないですよ」と言った。 ただ、その立てた指はV字だった。 しかも、てらいがあるせいなのか、もしくは年輪のせいなのか、無理にかわいく振る舞っている。 ぼくが「そのノリは、80年代の聖子やろ」と言うと、イトキョンは「プンプン」と言っていた。 ちょっとお笑いの感覚が人とは違うようだ。
(その2) 今度はイトキョンに「欧米かよ」を振ってみた。 「オウベイカヨ…?」 「知らんと?」 「うん、聞いたことない」 「じゃあ、言ってもわからんやろうね」 「えーっ、教えてよ。誰なんね、そのカヨさんって人」 「‥‥。人じゃない」 「えっ、じゃあ何?」 「タカアンドトシのギャグ」 「ああギャグね。で、どんなギャグ?」 「ぶっ、さっき言うたやないね。『欧米かよ』」 「面白くなーい」 「そりゃそうよ。掛け合いの中のギャグなんやけ。それだけじゃ何も意味をなさんやん」 「ああ、そうか」 「機会があったら見たらいい。面白いよ」 「ふーん。じゃあ、今度見てみよう。…フフフ」 「どうしたんね、気持ち悪い」 「わたしは『飲んべえ』よ」 「‥‥」 イトキョン、やはりお笑い感覚が人とは違うようである。
一昨日の昼頃から急に寒くなってきた。 予期せぬことだったので、ぼくはてっきり風邪を引いたのかと思い、慌てて買い置きしている葛根湯を飲んだ。 寒気がした時に葛根湯を飲むと、体の芯が温まり、寒気が引いていくのが常である。 ところが、一昨日はいつまでたってもそうならない。 「もしかしたら、本格的に風邪を引いたのかもしれん」 そう考えると、何だか気分も冴えなくなってきた。
そういえば、タバコがうまくない。 味がないのだ。 ただの煙がのどを通っているような感じがする。 そのせいで、咳込んでしまった。 何でもない時でも咳込むことはあるのだが、こういう気分の時だから、これも風邪の仕業だと思ってしまう。
そうこうしているうちに、それまで何ともなかったのどまでが、痛く感じてきた。 そこでのど飴をなめたのだが、爽快感を感じない。 そのうち鼻がムズムズしだし、くしゃみまで出てきた。 「いよいよ本格的な症状が現れてきたわい」 ああ、気が重い。
先月に続いて今季二度目の風邪になる。 ぼくはこれまで、一シーズンに一度しか風邪を引いたことがないから、けっこうショックが大きい。 先月は咳が止まらずにかなりきつい思いをした。 その思いをまた経験しなければならないのだ。 ようやく声が元に戻り、歌が普通に歌えるようになったのに、これでまたプレイヤーズ王国用の歌の録音はお預けである。 すでに選曲も決め、ずっと練習してきたのに、これがまた先送りになってしまう。
そんなことを考えている時だった。 パートさんがぼくに「急に冷え込んできたね」と言った。 「しんちゃん、あんた薄着やけど寒くないと?」 「…ああ、寒いよ」 「そうやろね。こんなに厚着しているわたしが寒いんやけね。どうせズボン下なんかも履いてないんやろ」 「履くわけないやん」 「意地張らんで、ちゃんと防寒しとかな、風邪引くよ」
寒気ではなく、実際に寒かったのだ。 その会話のおかげで、ぼくの気は軽くなった。 すると、それまで味がわからなくなっていたタバコも、ちゃんと味わえるようになったし、痛いと思っていたのども、痛くなくなった。 現金なものである。
(1)ナミちゃん うちの店のアルバイトに、ナミちゃんという女子高生がいる。 華奢な体つきで、背が低く、全体に小振りである。 マンガ『YAWARA!』に出てくるキョンキョンに似ていると言ったら、おわかりいただけるだろうか。 その上、声がか細く、性格も大人しいときているから、存在感というものを感じない。 帰る時に、「お疲れ様でした」というか細い声を聞いて、初めて『ああ、今日は出勤していたのか』と気づくことがよくある。
(2)あいさつ ナミちゃんのあいさつには、特徴がある。 ぼくが「こんにちは」と言うと、必ず「あっ、こんにちはー」と言う。 なぜか「あっ」が入るのだ。 それに気づいてから、ぼくも「あっ、こんにちはー」と言うことにした。
(3)「ヨイショ」 ナミちゃんは、一つの動作をする時に、いつも小さな声で、ゆっくりと「ヨイショ」と言っている。 その際、小さい体を意識しているのか、動作を大きくしている。 その動作もゆっくりである。
(4)サンダル ナミちゃんは、会社まで歩いてきている。 いつも体に似合わない大きなサンダルを履き、カタカタ言わせて歩いているのを見かける。 その姿を見ると、子供が親のサンダルを履いておつかいしているような気がしてならない。
(5)流行 ある時、口を開けて立っているナミちゃんを見つけた。 そこで、ぼくは声をかけた。 「あっ、こんにちはー」 「あっ、こんにちはー」 「ナミちゃん、あんたキレとるやろ?」 どう反応するのかと見ていると、ナミちゃんはおもむろに右手の人差し指を立てて、小力の口調でこう言った。 「キレてないですよ」 控えめなナミちゃんも、流行には敏感なようである。
(6)流行音痴 ナミちゃんの部署には、何人かのパートさんがいる。 そのパートさんの一人に、そのことを言ってみた。 するとそのパートさんは言った。 「キレてない…? 何それ?」 「えーっ、知らんと?」 「えーっ?」 「遅れとるねえ」 「ひげ剃り?」 「‥‥」
昨日から初売りが始まった。 特にこれと言ったことはなかったのだが、正月休みの影響なのか、いささか疲れたようだ。 そのせいなのか、晩食が終わった後に急に眠たくなって、そのまま横になって寝てしまった。
気がつくともう午前2時を過ぎていた。 それから日記を書くなんてとても出来ず、すべてを翌朝に回して、布団の中に潜り込んでしまった。
もちろん早起きするはずだった。 ところが起きたのはいつもの時間だった。 昨日はそのまま寝てしまったため、風呂にも入ってない。 ということで、出社までのすべての時間を風呂に費やした。
昨日の日記はというと、例のごとく会社で書くことになった。 会社でと言っても、会社のパソコンが使えるわけではない。 携帯電話で書くのだ。
いつも言っていることだが、携帯で日記を書くというのは、大変きつい作業である。 キーが小さいし、変換が面倒だからだ。 それと併せて、文章全体が見渡せないという不便さがある。 そう、画面に制約があるためである。 文章全体が見渡せないということは、文章の流れが見えないということで、そのために文章を最初から見直すという、面倒な作業をしなければならなくなる。 これに時間がかかるのだ。
それも、通常の日ならともかく、今日はまだ初売りセールの2日目である。 昨日ほどではないにしろ、通常よりもお客さんが多く、それに気が散ってしまう。 そうなると考えがまとまらなくなる。 それでまた、文章を最初から見直すことになる。
また、家電という専門分野だけに、お客さんはいろいろな質問を投げかけてくる。 調子よく日記を書いている時に限って、これをやられるのだ。 そうなると、日記を書くのを一時中断しなければならない。 再開する時には、もうそれまでのことを忘れていて、また一から文章を見直しながら、それを思い出さなければならない。
今日はこの作業を、いったい何度やったことだろう。 こういうことばかりやっていたから、当然電池が持たない。 そこで充電もしなければならなくなる。
結局、日記を書き終えたのは、午後6時を回っていた。 日記の翌日午後6時更新というのは、歴代2位タイにランクされる、遅い更新である。(ちなみに歴代1位は、午後10時だった) ここまで遅いと、前日の日付を打つのも白々しい。 いっそその日の日記にしてしまえばいいのだが、前述の宣言に縛られて、それができないのだ。
ということで、昨日の日記の更新を何度も確認してくれた何人かの方々、大変申し訳ありませんでした。
今年も、もう3日が過ぎた。 昔の漫才ネタで言うと、「今年も残すところ362日になりました」ということになる。 その残すところ362日の間に、冬季オリンピックがあり、サッカーのワールドカップがある。 プロ野球ペナントレースも、くだらんパ・リーグのプレーオフも、日本シリーズも、その間にあるわけだ。 そういうことに一喜一憂しながら、また一年は過ぎていくのだろう。
前にも書いたことがあるのだが、ぼくは一日がかなり長く感じ、そのくせ一年がとても短く感じる。 一日が長く感じるのは、睡眠以外に楽しみを持たず、一日を過ごしているからだろうし、一年が短く感じるのは、毎日同じような生活をしているために、記憶がスルーしてしまったからだろう。
おそらく一日が長いなどと考えているのはぼくだけで、他の多くの人は、ぼくとは逆に、一日を非常に短く感じているに違いない。 それはきっと、いいにつけ悪いにつけ、充実した日々を送っているということになるのだろう。 裏返せば、ぼくは充実した日々を送ってない、ということになる。
『あしたのジョー』の連載が終わりに近づいた頃だったと思うが、作者ちばてつや氏の特集が連載していた少年マガジンで組まれたことがある。 そこには、ちばさんの好きな言葉が書かれていた。 それは『完全燃焼』だった。 『あしたのジョー』は真っ白な灰、つまりジョーが完全燃焼して終わった。 この終わりかたが、あまりにショッキングだったので、いろいろ物議を醸したのだが、ちばさんの特集を読んだ者として、充分に予測できる結末だった。 あの時、ちばさん自身が完全燃焼していたのだ。 その燃焼ぶりに、ぼくは共感し、そういうふうに生きていきたいと思ったのだった。
あれから三十数年経ったが、今では完全燃焼どころか、一日を持て余している状態である。 いったい、どの時点から狂ってきたのだろうか?
昨日、一昨日と、寝たのは4時を過ぎていた。 久しぶりに夜更かしが続いたわけだ。 しかも昨日に続いて、その夜更かしを埋め合わせできるほどの睡眠を取ってない。 こういう状況がいつまでも続くと、尿潜血値が上がってしまうから、注意が肝要だ。
さて、昨日は夜更かしをしたにもかかわらず、いい初夢を見ようと思い、枕元でいい音楽を流しながら寝たのだった。 ところが、その音楽にとらわれてしまい、いつまでたっても寝ることが出来なかった。 布団に入って1時間ほどが過ぎた頃、ようやく眠くなってきた。
「これで眠れる」と思った時だった。 突然、イビキが聞こえた。 嫁ブーである。 元日から仕事だったので疲れているのか、とても苦しそうに聞こえる。 「こいつ、大丈夫なんかのう」 そんなことを思っていると、また眠れなくなった。
それから何分経っただろうか。 急に場が変わった。 そういう時には、必ずと言っていいほど金縛りに遭うのだが、なぜか昨日はそうはならなかった。 そうはならなかったものの、違う現象がぼくを襲った。 ぼくの背中に何者かが乗ってきて、体を触わりだしたのだ。 最初は気のせいだろうと思っていたが、その感触は本物だった。 ぼくのどこを触っているのかというと、主に腹で、時折胸も触っている。 ぼくは心の中で「やめろ!」と叫んでいた。 だが、それはなかなかやめようとしない。 そこで、手を後ろに回し、そいつをつかんで、背中から力任せに引きずり下ろした。
体を起こして見てみると、そこには髪長でメガネをかけた、青白い顔の女がいた。 見たことのない顔である。 ぼくが「おまえは誰だ?」と訊くと、女は急に泣き出した。 その時だった。 再び場が変わったのだった。 ぼくの横では、相変わらず嫁ブーが苦しそうなイビキをかいている。
「夢やったんかなあ…?」 と思っていると、急に「えーっ!?」という声が聞こえた。 ぼくはその声を聞いて、胸騒ぎがした。 その声といい、さっきの女といい、もしかしたら何者がぼくに何かを伝えようとしているのではないのだろうか。 そう思ったところで、目が覚めた。
どうやら、現実の中で夢を見、その夢の中で夢を見ていたようだ。 しかし、不吉な夢だった。 もしこれが初夢だとしたら、今年はろくな年にならない。 胸騒ぎを抱えて1年間を過ごすなんて、到底耐え切れるものではない。 ということで、ぼくはこの夢を初夢として認めないことにした。 そこで、今日また、初夢に挑戦することにした。
それでは、おやすみなさい。
【お年賀】 明けましておめでとうございます。 ネットで初めて日記を公開したのが2001年の1月だったから、今月で6年目に突入することになります。 その日の体調や、時間の都合で遅れることはあったものの、いちおう一日も休まずに書いています。 それがぼくにとってプラスになっているのかどうかは知らないが、その日生きていた証明にはなっていると思います。 また、書かないとやれない、というのもあります。 きっと今年も毎日更新していくことでしょう。 ということで、年々つまらなくなっていっているこの日記ですが、今年もよろしくお願いします。
【笑いながら日々を過ごせたら…】 笑いながら日々を過ごせたら こんなにいいことはないのにね それはこの上もない 幸せだけど
春のようなしぐさで 日々を過ごしたいもんだね それは届かない夢だろうけど こんな小さなひとときだけでも (しろげしんた作『春のようなしぐさ』より)
今日は予定通り、朝から嫁ブーを会社に送って行った。 その後は、昨日寝るのが遅くなったので、帰ってからまた寝ようと思っていた。 ところが、たまたまテレビでやっていた『大笑点』にはまってしまい、以降は寝ることも初詣に行くことも忘れて、ずっとそれを見ていたのだった。
やはりお笑いはいい。 80年代初頭のマンザイブームが終わってから以降、若手の芸人があまり好きになれなかった。 理由はいろいろあるが、トークが中心になってしまい、芸をしなくなったというのが上げられる。 ところが、最昨今のお笑いブームは、また芸を見せてくれるようになった。 しかも、かなり面白く、かつてのマンザイブームを彷彿させるものがある。
そういうお笑いブームのせいで、かつてマンザイブームを作った人たちもテレビで見ることが出来るようになった。 特にB&Bが出ていると、ぼくはテレビの前に釘付けになっている。
相変わらず、あの人たちのマンザイにはスピードがある。 もしかしたら、昔よりももっと速くなっているかもしれない。 かつて彼らのマンザイは、ゆっくりしたものだったらしいが、横山やすしのアドバイスで、テンポを速くしたら、それが大ウケしたのだという。 それ以降、ずっとやっさんの教えを守っているのだろう。
若手の芸はだいたい見るのだが、特に好きなのが、長州小力とヒロシ、それとロバートである。 今日は、『大笑点』を見ながらも、その人たちが出てないかと、何度もチャンネルを変えたものだった。
昨日も書いたとおり、今年は転勤などがあり、何かと気の重い一年になりそうである。 何とかそれを笑い飛ばして過ごしたいものだが、そうもいかないだろう。 せめて正月ぐらいは、すべてを忘れて笑っていたいものだ。
ということで、明日も嫁ブーを送った後は何もすることがないので、お笑い番組を見ていることにしよう。
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