頑張る40代!plus

2005年05月31日(火) 長谷観音

今日、ふとしたことがもとで、長谷観音に行った。
長谷観音と言っても、別に鎌倉や奈良に行ったわけではない。
北九州市に隣接する鞍手町にあるのだ。
鞍手町というと、この間この日記でお知らせした貴黄卵生産直売農場と同じ町だが、長谷観音はそこからさらに奥に行ったところにある。
この観音さんは知る人ぞ知る観音さんで、知らない人はまったく知らない。
かく言うぼくも、つい最近までその存在を知らなかった。

何で知る人ぞ知るのかというと、実はここの観音さんは、鎌倉や奈良の長谷観音と同じ木から出来ているらしく、当然のごとく国宝に指定されているのだ。
ところが、テレビやラジオで紹介しているのを見聞きしたことはないし、太宰府天満宮や宮地岳神社のようにCMも流れていない。
さらには県の観光案内にも載っていない。
これでは知りようがないではないか。
もし紹介しているものがあるとすれば、それは鞍手町とか筑豊という狭い地域の観光案内くらいではないだろうか。
ということで、この観音さんを知っているのは、地元の人か信仰の厚い人から口伝えで聞いた人くらいなものだろう。
ぼくもその口だった。

しかし、まさかこんな近くに、国宝があるとは思わなかった。
最初にそれを知った時は、半信半疑だった。
国宝といえば、この辺だと太宰府ぐらいにしかないと思っていたからだ。
で、それを聞いてから、さっそくそこに行ってみたのだが、先に書いたように、周りは普通の田舎である。
看板も幹線に掲げてある大きな看板とは違い、小さな看板が所々にあるだけで、気をつけていないと、すぐに見落としてしまう。
何度も道を間違え、ようやくたどり着いた長谷観音だったが、その時拝んだ観音さんはダミーだった。
本尊は、毎月17日と18日にしかご開帳しないことになっているらしいのだ。
ということで、それからは、その日を狙っていくようになった。

ところで、今日はご開帳の日でもないのに、わざわざ長谷観音まで何をしに行ったのかというと、実は寺の前にある食堂に、昼飯を食べに行ったのだ。
午前中に歯医者に行ったのだが、家に帰ると嫁ブーが、変な顔をしてこちらを見ているではないか。
「何か?」とぼくが聞くと、「腹減ったんよ」と言う。
「何か作って食べればいいやろ」
「面倒やん。ね、どこかに食べに行こう」
「どこに行くんか?」
「どこでもいい」
「何が食いたいんか?」
「何でもいい」
「街中と田舎と、どっちがいいか?」
「おまかせします」
「じゃあ、田舎に行こう」
ということで、長谷観音に向かったのだ。
なぜ長谷観音を選んだかというと、ぼくが知っている田舎の食堂で、通りに面していないのは、そこしかなかったからだ。
せっかく食べるのなら、車の通らない空気のおいしいところで食べようと思ったわけだ。

今日も何度か道に迷ったが、何とかたどり着いた。
せっかくだからと言うので、ダミーの観音さんに手を合わせ、それから食堂に入った。
頼んだものは、ぼくが丸天うどんとご飯、嫁ブーは山かけそばとおにぎりだった。
そういうものが特においしいわけではない。
が、一品だけ「これはおいしい」というものがあった。
それは、ご飯に付いてきた床漬けである。
まさに田舎ならではの味だった。

さて、長谷観音に着いてから30分もいただろうか。
食事を終えたぼくたちは、他に寄るところもなかったので、さっさと家に帰ったのだった。
帰り着いてから車のメーターを見てみると、往復で40キロ走っていた。
ということは片道20キロか。
ちょっと遠かったかなあ…。
しかし、こういう昼食もわりといいものである。
また機会があれば、やってみようと思っている。



2005年05月30日(月) 貴ノ花死す

今のところ、相撲にはまったく興味がない。
地元力士の魁皇はあんな調子だし、本場所は朝青龍の独壇場になっているし、他にこれといった力士がいるわけでもないし、全然面白くないのだ。
まあ、元々相撲というのは、あまり好きなほうではなかった。
なぜ好きになれなかったのかというと、ぼくが子供の頃は夕方の5時台にアニメや子供向きのドラマをやっていたのだが、場所中は祖父が相撲を見るためにテレビを独占していたので、そういう番組が見られなかった。
そのために祖父を恨み、相撲を恨んだのだった。
今でも呼び出しの声を聞くと、あの頃の悔しさを思い出す。

とはいえ、まったく相撲が嫌いというわけではない。
過去に何度か、相撲にはまっていた時期がある。
新しくは今から10年ほど前だった。
その時期は、舞の海や寺尾、旭道山といった小兵が活躍した時期である。
小さな力士が大きな力士を投げる姿は、実に痛快だった。
その頃は呼び出しの声も気にならず、そういった小兵力士の取り組みはほとんど見ていた。
舞の海が勝った時などは、相撲ダイジェストも見ていたものだった。

それ以上にはまっていた時期がある。
それは中学2年の頃だ。
その頃は、中入り後の取り組みや相撲ダイジェストはほとんど見ていたし、本場所中は毎日スポーツ新聞を買っていたものだ。
さらに雑誌の『大相撲』などを毎月購入していた。
で、何で相撲にはまっていたかというと、後に名大関と謳われた貴乃花(先代)の活躍にあった。
貴ノ花の取り組みの時は、いつも緊張感を持ってテレビにかじりついていたものである。
特に横綱北の富士やライバル輪島との一番は目が離せなかった。

ぼくが一番印象深かった取り組みは、横綱北の富士との一番だった。
北の富士の外掛けを、貴ノ花は体を反ってうっちゃろうとした。
が、そのまま貴ノ花は北の富士を抱え込むような形で、後ろに倒れてしまった。
その時、北の富士は貴ノ花の顔の横に手をついてしまった。
行司の木村庄之助は、それを確認して貴ノ花のほうに軍配を上げた。
庄之助はそれを北の富士の『つき手』ととったわけである。

ここで物言いがついた。
審議の焦点は、『つき手』か『かばい手』か、ということだった。
審判委員は、貴ノ花が倒れたのは、北の富士をうっちゃったせいではなく、北の富士の外掛けに倒れたのだと言うのだ。
つまり『死に体』である。
ということは、北の富士が右手をついたのは、身をかばったからだということになる。
しかし、ぼくには貴ノ花のうっちゃりが決まったように見えた。
審議中に何度も流れたビデオを見ても、確かにうっちゃっている。
確か、解説の人もそういうニュアンスで話していたと思う。
ということで、「軍配が覆ることはない。悪くても取り直しだろう」と思っていた。
ところが、長い審議の末に出た結論は、北の富士の勝ちであった。
その結果『差し違い』をしたことになった庄之助は、翌日から謹慎処分を受けることになったのだった。

これは昭和47年の初場所でのことである。
昭和47年というと、今から33年前か。
えらく古い話を思い出してしまったわい。
こんな古いことを思い出したのも、『貴ノ花死す』の一報が入ってきたからである。
まだ55歳だったのか…。
非常に残念である。



2005年05月29日(日) 続・高校時代のヒロミちゃん

さて、昨日の続きである。
意地の悪いぼくは、さっそく嫁ブーの持ってきた高校の卒業アルバムの中から、ヒロミの写っている写真をピックアップして、カメラに収めた。
そして、試しにその中から一枚選んでヒロミに送ってみた。
すると、ヒロミからすぐに返事が来た。
 >いま焼鳥屋にきとるんやけど、(あの写真を見た友だちから)笑われたやんね。
「なるほど、今焼鳥屋で飲みよるんか。それなら酒の肴が必要やのう」と思ったぼくは、次から次に写真を送ってやった。
その都度ヒロミから、
 >(写真を見た)友だちが爆笑したやん!いま、何しよん?
 >まだ(他の写真を)探しよるやろっ?
 >(写真を見て)友だちがこけたやん!へんなの探しよるやろ。
 >かわいいって言われたよ。
 >やばいやん。やめてください。
 >たまらん。25才の子が(写真を見て)笑いよる。今いったい何しよるんね?
などという返事が返ってきた。

ぼくは、ヒロミに写真を送りながらも、一つ腑に落ちないことがあった。
それは、『見られて困る写真なら、友だちなんかに見せなければいいのに、どうしてヒロミは見せるのだろう?』ということだ。
そこで嫁ブーにそのことを聞いてみた。
「そんなこと知らんよー」
高校時代からの親友である嫁ブーも、さすがにそこまではわからないらしい。
結局わけがわからないまま、ぼくは家に帰ったのだった。

ちょうど家に着いた頃だった。
ヒロミからメールが届いたのだ。
それを読んで、ようやく先ほどの疑問が解けた。
実は、ヒロミはぼくが最初の写真を送る直前に、娘のMリンにメールを送っていたらしい。
それを送ったあと、すぐにメールが届いたので、てっきりMリンからのものと思い、友だちの前で開いたのだという。

そのメールを読みながら、その時の状況をぼくは自分の中で再現してみた。
「あ、Mリンから返事が来たよ」
「えらく早いねえ」
「Mリン打つの早いけね」
「何て言ってきたの?」
「ちょっと待ってね」
そう言って、ヒロミは友だちの前で受信画面を開いた。
「あっ!」
「えっ、何これー?見せて」
「見らんでいいっちゃ」
友だちは、ヒロミから携帯を取り上げた。
そこには、誰にも見せたくない、高校時代のヒロミの写真があった。
「あー、これってヒロミちゃん?」
「…うん」
「ぷっ、ぷぁはっはっはっはっは」
「‥‥」
「あー、腹いてぇー」
「‥‥(汗)」

ぼくが写真を送りつけている間、ヒロミはいったいどんな顔をしていたのだろうか?
ずっと黙っていたのだろうか?
それとも、しかたなくいっしょになって笑っていたのだろうか?
それを考えている間、ぼくは歯の痛みも忘れていた。



2005年05月28日(土) 高校時代のヒロミちゃん

昨日、野暮用のため、歯痛をおして嫁ブーの実家に行った。
そこでいろいろとごちそうを出してもてなしてくれたのだが、歯が痛いので当然食欲もなく、さらに味もわからないときている。
そのため早々と食事を終え、テレビで野球を見ながら一人暇をもてあましていた。
歯は痛いし、嫁ブー実家の話題について行けないし、おまけにソフトバンクも途中から逆転されるし、でクソ面白くない。
と、その時だった。
20年近くも忘れていた、あることを思い出したのだ。
それは、ヒロミの高校時代の写真を見ることだった。

20年近く前に、一度ヒロミから高校の卒業アルバムを見せてもらったことがある。
が、そこには肝心のヒロミの顔はなかった。
ヒロミは、そこに載っている自分の顔が気に入らないといって、その部分だけをマジックで黒く塗りつぶしていたのだ。
「これじゃヒロミの顔が見れんやないか」
「いいやん、ボリ(後の嫁ブー)見とったら」
「ボリの顔だけ見とっても面白くないやろ」
「今度、違うの持って来ちゃるけ」
「それならしかたない。ボリから見せてもらおう」
最後にぼくはそう言ったのだが、以降そのことを忘れていたのだ。

20年ぶりにそのことを思い出したぼくは、さっそく嫁ブーに高校の卒業アルバムを持ってこさせた。
「で、ヒロミはどこに載っとるんか?」
「ここよ」
そう言って嫁ブーは、ヒロミの載っているページを開いた。
そのページの中央付近に、ヒロミは載っていた。
ぼくが「きれいやん」と言うと、嫁ブーは「そうやろ」と同意する。
「何でヒロミはこの写真が気に入らんとか?」
「知らんよー。ヒロミ、このアルバムをもらって、すぐに自分の顔を消したんやけ」
「そういえば、ヒロミはこの間のメールで、『卒業写真の顔、死んどるけ』と書いとったのう。そうは見えんけど」
「本人はこの顔が嫌いなんやろね」

「ところで、ヒロミは高校時代も、あんなふうやったんか?」
「うん、全然変わってないよ」
「何か面白いエピソードあるか?」
「エピソードねえ…。あ、そういえば…」
「何かあるんか?」
「一時期ねえ、ヒロミ、駅前で売っていたドラえもんのどら焼きに凝ったことがあるんよ」
「そうか」
「それでね、あんまり食べ過ぎて太ったんよ」
「うん」
「普通なら、食べるの控えるやん」
「うん」
「でもヒロミは違ったけね」
「どうしたんか?」
「あいつねえ、食べるだけ食べて、すぐに下剤飲んで出しよったんよ」
「えっ、食べたものを、すぐに垂れ流しか?」
「うん」
「ヒロミらしいのう」
「ヒロミ、一度下剤飲んで試験受けたことがあったんよ。それで途中で催したみたいでね。青い顔して『先生、トイレ』と言って、教室を出て行ったんよ。そのまま帰って来んかったけね」
「おお、こういうネタを待っていた。さすがヒロミやのう」

ぼくはさっそくその話を書いて、ヒロミにメールした。
ところが、ヒロミの話はちょっと違っていた。
『山崎の肉マンやない? バロンてパン屋さんで売ってたんよ。家ではおはぎばかり食べてて、みるみる太ってきたから、毎日ヨーグルト、パイン、西瓜、蒸しパンとか食べよったら、便秘になってしまったけ、一週間分を土曜にコーラック飲んでだしよったんよ。そしたら2ヵ月で10キロ痩せたんよ。まわりの痩せたい友達から毎日電話がきて、その日のメニューを聞かれたんよ』ということだった。

嫁ブーとヒロミの話は、どうも違う時期の話のようである。
が、いずれにしても笑える話である。



2005年05月27日(金) 5月27日の日記

【歯が痛い!2】
昨日の日記を書いてから、歯医者に行ったのだが、その時先生に「歯が痛い」と訴えた。
「どんな痛みですか?」
「ズキズキと疼くような…、とにかく鈍い痛みが走るんです」
「歯が痛いんですか?それとも歯ぐき?」
「左の頬全体です」
「治療で他の神経を刺激したんだと思います。しばらく歯の痛みは続くかも知れませんが、そのうち安定してきますから」
そう言って、先生は痛み止めを何錠かくれた。
治療の間はまだ昨日の痛み止めが効いていたせいか、さほど痛くなかった。
しかし、治療が終わってからしばらくすると、また昨日と同じような痛みが襲ってきた。
今日新たにもらった痛み止めを飲むことも考えたが、あまり飲みすぎると、肝心の時に効き目がなくなったら困る。
ということで、今この時間までは服用していない。
とはいえ疼くと困るので、頬に『熱さまシート』を貼っておくことにした。
それで痛みがなくなるわけではないが、冷えている間は痛みを忘れることが出来るのだ。
痛み止めは寝る前に飲むことにしよう。


【白髪に効くというシャンプー】
最近、また昔のように、朝、頭を洗うようになった。
いわゆる朝シャンというやつである。
別に、昔を思い出してやっているわけではない。
毎晩帰りが遅いので、当然食事の時間も遅くなる。
その上日記を書いているので、風呂などに入っている暇がない。
ということで、風呂だけは朝型に変えたのだ。

朝シャン、厳密に言えばぼくの場合は『朝石けん』になる。
なぜなら石けんで頭を洗っているからだ。
石けんで頭を洗い出して、もう10年近く経つ。
それまでは、普通にトニックシャンプーなんかを使っていたのだが、若白髪の原因がシャンプーだと知ってから使用するのをやめたのだ。
それから水洗いだけにしたり、塩で洗ったりしたあと、シャボン玉石けんに行き着いた。
最初の頃こそ、髪になじまず、ギシギシして指が通らなかったものだが、何ヶ月か使用しているうちにそれも解消した。
白髪は進行していくものの、シャボン玉石けんで洗っているおかげで髪が健康になり、それまでなかったツヤも出てきたのだ。
そうそう、今週の火曜日のことだが、歯医者に行く前に床屋に行った。
その時、床屋の姉さんから「すごくきれいな白になっていますよ」と言われた。
シャボン玉石けんで髪を洗うと、実にいいことだらけなのだ。
そのため、シャボン玉石けんが手放せなくなった。

ところがである。
ひと月ほど前から、知り合いが化粧品(マルチではない)の卸を始めた。
普段いろいろ世話になっているので、何か一つ買ってあげたかったのだが、ぼくは化粧をしない。
しかたないので、そこで取り扱っているシャンプーを買ってみた。
もちろんぼくはシャボン玉石けんがあるので使わなかったのだが、嫁ブーがそれを使ってみて「これいいよ」と言ってきた。
「どういうふうにいいんか?」
「洗ったあと、ゴワゴワせんのよね。ツヤも出てきたし…。ナンカ癖になりそう」

ぼくは、そのことを知り合いに言った。
「そうでしょ」
「あれいいと?」
「いいんですよ。無添加だから、髪を荒らすことがない。しかも、化粧品と同じ作りだから、いい成分が肌に浸透して、活性酸素をやっつけるんですよ」
「へえ。じゃあ、頭のかさぶたとかにもいいと?」
「一発ですわ。それにですねえ、これは公表はされてないんですけど、白髪にいいらしいんですよ。その中に配合されているエキス、例えばアロエエキスとかが血行を促進するとかで、かなりの人の白髪が改善されたらしいんです」

『無添加』『アロエエキス』『白髪にいい』、このキーワードにぼくの心は動いた。
「そんなにいいんなら、おれも使ってみようかのう」
「ええ、そうしてみて下さい」
「でも、シャボン玉石けん使いよるしねえ」
「ああ、あれもいいですよね。でも、これもシャボン玉と同じく無添加なので、髪を荒らすことがない。しかも、白髪にいいんですからね。試しに使ってみたらどうですか?」
「そうやねえ…」

確かに悪いものではない。
おそらく5,6年前なら、すぐにこれに切り替えていただろう。
しかし、今は躊躇してしまう。
何に引っかかっているのかというと、その一番のメリットである「白髪にいい」である。
『しろげしんた』という名前が示すとおり、ぼくの白髪頭は定着しているのだ。
いわば白髪はぼくのシンボルなのだ。
もしこれが黒髪になったら、『しろげしんた』でいられなくなる。
これが一番の問題点である。

さらに、もし黒髪に戻るとしても、一気に戻ることはないだろう。
おそらくは徐々に戻るわけだから、今までたどってきた道を逆戻りすることになるわけだ。
白髪になっている人ならわかってもらえると思うが、ある程度白髪が増えてくると、それは一つのファッションになる。
しかし、そのなり始めというのは実に悲惨である。
見た目もおかしいし、何よりも精神的なショックが大きいのだ。
それをまた味あわなければならないとなると、どうしても引いてしまう。
せっかく床屋の姉さんが、「きれい」だと言って褒めてくれた白髪なのだ。
しかも、この髪が一番ぼくに似合っていると思っているのだ。
それを元に戻すなんて、到底出来そうもない。

でもなあ…。
けっこう早くから頭が白くなっていたので、若い頃は歳よりも老けて見られていた。
その屈辱を取り返す、今がチャンスなのだ。
おそらく、50代になってからそのシャンプーを使い始めたとしても、ある程度の白髪は治るかもしれないが、老化でなった部分はもう治りようがないだろう。
そうなると、すべての髪が老化するまで、なり始めのような頭で過ごさなければならない。
もちろん、そうなったとしても、毛染めが合わないので、染めることも出来ない。
だが、今ならまだ間に合うのだ。
さて、どうしたものだろうか?



2005年05月26日(木) 歯が痛い!

5月20日の日記に書いたように、11月末から始まった歯の治療も、いよいよ最終段階にきた。
最後に治療する歯は左下の親不知である。
この歯は20年ほど前に一度治療している。
その時に神経も取っており、そのあとを銀冠で密封していた。
最近まで何事もなかったのだが、先日隙間が出来ているのを発見し、それが舌を挟んでしまうので、先生に治療を頼んだのだ。
20日の治療後にレントゲン写真を撮り、この火曜日に治療が始まった。

先生が言った。
「この間レントゲン撮った歯ですけど、虫歯になってますねえ。隙間から菌が入ったんでしょうね」
「えっ、隙間は最近出来たものなんですけど…」
「そうですか。もしかして、以前この歯を治療した時に違和感を感じませんでしたか?」
そういえば…、
以前この歯をかぶせる時に、そこの歯ぐきから血が出ていた。
その時の歯医者は、そんなことをかまわずに歯をかぶせたのだった。
そのせいか、いつもその歯だけは血生臭く感じていた。

さて、治療が始まった。
一番奥なので、銀冠を外すのに苦労しているようだった。
銀冠が外れたのは10分ほど経ってからだった。
「外れました。えっ!?」
「えっ?」
「これはひどい。こりゃ根元まで虫が食ってますよ。ちょっと調べてみないとわからないけど、ひどい場合は抜くことになりますよ」
「‥‥」
「ま、ちょっとやってみますね」

あのドリルみたいなので、けっこう深く削ったあと、針でそこを刺しだした。
「痛いですか?」
「いや、痛くないです」
「そうですね。神経はとってありますからね。でも、痛ければ言って下さい」
この歯医者に行き始めた頃にも同じことを言われた。
その時は、「神経がないなら痛いはずがないやん。この先生、おかしなことを言うなあ」と思っていた。
だが、徐々にその意味がわかるようになった。
つまり、神経はとっていても痛みは伴うということである。
なぜそうなるのかはわからないが、痛いものは痛いのである。
きっと治療によって、その周辺の神経が反応するのだろう。

その後20分ほどして、先生は「どうにか歯は抜かなくてすみそうですね。そこで治療ということになるんですが、根が深いからすぐには治りそうにありませんので、徐々にやっていきます」と言って、その日の治療を打ち切った。

さて、家に帰ってしばらく経ってからのことである。
何か治療した歯が普通でないのに気がついた。
削っているから、上の歯に触れるようなことはないのだが、少し痛い気がする。
おかしいなと思って、そこを指で触れてみると「ズキン!」とした。
小学4年の時に、生まれて初めて味わった歯の痛みと同じような、重い痛みだった。
最初は、治療したばかりだからそうなるのだろうと軽い気持ちでいた。
ところが、翌日もそして今日も痛みは治まらない。
そして今夜、この日記を書こうとした時に、ついにそのピークがやってきた。
左側の頬全体が痛くなったのだ。
そこで、日記は後回しにして、とりあえず寝ようとした。
しかし、痛みのためになかなか寝付けない。

その時、高校時代の保健の先生を思い出した。
何でこんな時に、あの先生のことを思い出すのだろう。
と、しばらく考えていた。
「あ、そうか!」
ぼくは、あることに気がついた。
その先生の授業で痛み止めのことを言っていたのだ。
「痛み止めは、少しの痛みにはあまり効果はない。痛みのピークの時に飲むのが一番効果がある」
そう言って、自分の体験記を話してくれたものだった。
その話を聞いて以来、ぼくは痛み止めをあまり服用しなくなったのだ。

「そうか、今が痛みのピークか。ということは、服用するなら今だ」
そう思って、これまでどんなに痛くても決して利用することのなかった、痛み止めの錠剤を取り出した。
この錠剤は、12月に歯を抜いた時にもらったものである。
ようやく日の目を見ることになったのだ。
飲んでからしばらくは痛みがあって眠れなかったが、そのうち薬のが効いてきたのか眠ってしまったようだ。
朝起きると、歯に少し違和感は残っているものの、痛みはすっかりなくなっていた。
おまけに、他の歯に残っていた軽い痛みも、すっかり取れてなくなっていたのだ。

現在、翌27日の午後1時ちょうどである。
痛みのせいで、かなり日記の更新が遅れてしまったわい。



2005年05月25日(水) 念力

小学6年生の頃、親戚の家で立てない子犬を飼っていた。
この子犬、先天的に立てないのではなかった。
ある事件以来立てなくなったのだ。
その事件とは、その親犬と兄弟犬が犬さらいにさらわれたのだ。
おそらく立てない犬は、その光景を隠れて見ていたのだろう。
そのためショックで立てなくなったのだ。
ぼくが親戚の家に遊びに行くと、いつもその子犬は段ボールの箱の中でうずくまっていた。
伯母が食事を与えても、少し口を付けて、あとは残してしまう状態だった。
そのため、元々痩せていた体はさらに痩せ細り、ほとんど骨と皮だけになっていた。

親戚の家の誰もがその子犬のことを心配したが、手のつけようがない。
「かわいそうだが、このまま死ぬのを待つしかないなあ」と伯父は言った。
「病気なんかねえ」
「精神的なものだとは思うけど…」
「立ったら治るんかねえ」
「そうやなあ。立ちさえすれば、何とかなるかもしれん」
「ふーん。じゃあ、立たせてみようか?」
そう言って、ぼくはその子犬を抱え、立たせてみた。
しかし、足に力が入らないのか、すぐに倒れてしまう。
ぼくは諦めず、何度か同じことを繰り返した。
すると子犬は、「ウー」と言って怒り出した。
ぼくはその子犬の頭をひっぱたいた。
「おまえのためにやってやりよるんぞ。偉そうにうなり声なんかあげるな!」
子犬は、その意味が理解できたかのように、黙り込んでしまった。

そんなある日、ぼくは一つの実験をした。
それは念力である。
マジシャンのように手の指に力を入れて子犬の上にかざし、「立て、立て」と言って念を送った。
最初子犬は、ぼくのそんな行為を無視していた。
しかし、ぼくは諦めずにずっと念を送ったのだった。

ぼくが念を送り始めて、10分ほど経った頃だった。
突然子犬の体が、電気が走ったようにピクッと動いたのだ。
「もしかしたら…」
そう思ってぼくは、さらに強い念を送った。
「立ち上がれ、立ち上がれ」
すると子犬の体は、微かだが動き出したのだ。
さらに続けていると、その動きはだんだん力強くなり、体全体にエネルギーがみなぎっているようだった。
その後、子犬は足に力を入れだした。
自分の意思で立とうとしているように、ぼくには見えた。
そして何度も何度もよろけながらも、子犬は立ち上がろうと試みた。
そして、何度か目の挑戦で、ついに子犬は立ち上がったのだ。
「立った!子犬が立った」
まるでアルプスの少女ハイジでクララが経った時ように、ぼくははしゃぎまわったのだった。
ぼくはおよそ半年ぶりに、その子犬が立つのを見たのだった。

それ以降子犬は、段ボール生活をしなくなった。
長い間寝たっきりだったので、動きはぎこちなかったが、それでも立って歩き回るようになったのだった。
しかし、相変わらず、食べることはあまりしなかった。
そのため、骨と皮だけの体のままだった。
そして、それが致命傷になった。
子犬は、その後1年足らずで死んでしまったのだ。

死んでから思ったのだが、子犬に念を送って、食べるようにすればよかった。
しかし、犬が立ち上がってからのぼくは、念力のことをすっかり忘れていた。
念力の実験ということでやったことだが、立ち上がった時に「これは偶然だ」と思ったためだ。

「そういえば、あの時念力で子犬を立たせたんだ」と思うようになったのは、ごく最近のことだった。
もしあの時に念力を鍛えていたとしたら、もっと違った人生を歩んでいたに違いない。
少なくとも、肩や腰の痛みくらいは自分で治せるようになっていたことだろう。
そう思ったぼくは、あの時やったことを思い出しながら、肩や腰に念を送ってみた。
しかし、すでにその能力は失われていたのだった。



2005年05月24日(火) 「あなたはバカじゃない?」

また中国が靖国参拝についていろいろ騒いでいる。
そのことについて、ある方から「しんたさん独自の感性で、斬ってもらえませんか」というご意見をいただいた。
しかし、靖国に対しての中国の反発は昨日今日始まったことではないし、そのことについてはこの日記を始めた頃から、何度も書いてきているので、改めて書こうとは思わない。
ということで、ある方様、「中国という国は、4000年かかっても大人になりきれない、バカな国だ」、ということでよろしいでしょうか?

「バカ」で思い出したが、ぼくが過去に書いた中国関連の記事を読んで、「あなたはバカじゃない?」というありがたいコメントをいただいたことがある。
確か、『福岡大虐殺』に対していただいたコメントだったと思う。
なぜか、そのコメントは日記を書いてから、かなり日数が経って書かれたもので、すでにその頃にはコメントが書かれたブログは使ってなかった。
そこでレスを付けずに放っておいたのだが、ちょうどいい機会だ。
今日レスしておくことにしよう。

あの記事は、「中国人のでっち上げであることが判明してきた南京大虐殺と同じやりかたで、この間死刑判決の出た福岡一家4人殺害事件を、中国人が行った残虐無比な福岡大虐殺事件として、世界に訴えていこう」というものだった。

もちろん、日本人は中国人のようなバカなことはやらない。
仮にそういうことをやる国民なら、とうの昔にやっていただろう。
元寇時の対馬や、昭和12年7月に二百数十名もの日本人が虐殺された通州事件などは、格好のネタである。
しかし、日本人はそういうことはやらないのだ。
過去のことは、「水に流す」国民だからである。

さて、その「あなたはバカじゃない?」コメントだが、書いたのは『中国人』というハンドルネームの人だった。
リモートホストを見ると、東京のOCNを利用しているようで、もし本当に中国人なら、留学生ということになる。
で、どういう経緯で『福岡大虐殺』にやってきたのかというと、『福岡市の人口』で検索したら、そこにぼくのブログがあったのだ。
そして、それをクリックしたら、『福岡大虐殺』が現れたというわけだ。

しかし、この人は、どういう理由で福岡市の人口などを調べていたのだろうか?
意地の悪い見方をすれば、「こいつはスパイで、日本の地理を調べて、将来の有事に備えている」となるだろう。
しかし、日本人はそんなことは思わない。
人を疑わないからである。
疑うくらいなら、とうの昔にスパイ防止法が出来ているはずだ。

さて、遅くなりましたが、中国人(笑)さんにレスします。

>あなたはバカじゃない?

はい、ぼくはバカですよ。
こんなバカが書いたことを、最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
帰国したら、あなたが「バカじゃない?」と思うようなことを、実際にやった貴国の方々によろしくお伝え下さい。
それでは、また。



2005年05月23日(月) ホストせいちゃん

5月6日の日記に書いたが、ぼくは20代後半に、バンドの人たちと会うためにダンスホールに通っていた。
そのダンスホールは、ダンスホール兼ホストクラブといった感じの店だった。
帳場以外に女性の従業員はいなかった。
つまり、お客の相手はすべてホストがやっていたのだ。
ダンスホールであるから、お客のほとんどはグループが多かった。
しかし、女性一人で来ている人もしばしば見受けられた。
そういう人たちは、みなホスト目当てだったのだ。

ホストにはいろいろなタイプの人がいた。
ツンとしたタイプの人もいれば、妙に愛想のいい人もいた。
ぼくと嫁ブーは一時期ほとんど毎日そこに行っていたのだが、ツンとしたタイプの人はぼくたちの存在をあまりよく思っていなかったようだった。
それが気になって、ある時バンマスに「あまりここに来たら迷惑じゃないんですか?」と聞いたことがある。
バンマスは「気にせんでいいよ。しんちゃんたちは、ぼくたちの大事なお客さんなんやけ」と言ってくれた。
それで少しは安心した。
なるほど、よく思ってないというのは、ぼくたちがバンドのお客だったので、自分たちとは関係ないと思って無視していたのだろう。
そう思うことにした。

その一方で、「おっ、今日も登場やね」と気安く声をかけてくるホストもいた。
その人たちは、暇になると決まってバンド部屋に来ていた。
人生経験豊富なバンマスに、いろいろ相談したりしていたようだ。
そういう人たちの中に、『せいちゃん』という人がいた。
痩身でイケメン揃いのホストの中にあって、一人デブで顔は人並みだった。
が、そのキャラが受けていたのか、お客さんの指名がやたら多かった。
とはいうものの、指名するお客のほとんどは、年配の男性だったが。

せいちゃんにはある特徴があった。
それは、シャツが短いということだった。
Yシャツもアンダーシャツもそうだったのだ。
わざとそうしているのではなかった。
せいちゃんは、身長の割に胴が長かったのだ。
そのため、せいちゃんの背中はいつもはだけていた。
さらにズボンがずれるので、BVDのブリーフが見えることもあった。
しかし、せいちゃんはそういうことには無頓着だったようだ。
ぼくが「せいちゃん、パンツが見えよるよ」と言っても、せいちゃんは「ああ、そうですか」と言ったっきりで、別にそれを気にしているふうでもなかったのだ。

そういえば、せいちゃんは暇になると、いつも背中がはだけたままの格好でバンド部屋に来ていた。
そこで、いつもこぼしていた。
「バンマス、ぼくこの仕事に向いてないみたいなんですよ。やっぱり他の職を探したほうがいいですかねえ?」
バンマスは、いつも同じ受け答えをしていた。
「いや、せいちゃんはホストが天職だと思うよ」
するとせいちゃんは、こう言った。
「うーん、やっぱりそうですかねえ」
バンマスは笑いをかみ殺して言った。
「うん、せいちゃんほどホストの似合う人はおらんよ」
せいちゃんはバンマスのその言葉で、完全に吹っ切れたようだった。
「そうですよね。そうそう、ぼくほどホストの似合う男はおらんやったんだ」
そう言って、せいちゃんは店に戻っていった。
せいちゃんが出て行ったあと、バンマスはいつもぼくの顔を見てニヤリと含み笑いをするのだった。

いつだったか、バンドメンバ主催のワインパーティに呼ばれたことがある。
そこにはせいちゃんもいた。
みんなラフな格好で来ていたのに、なぜかせいちゃんはホスト姿で来ていた。
もちろん、その時もせいちゃんのシャツは短かった。
いつものようにブリーフも見えたのだが、その日はベルトをゆるめていたせいか、そのブリーフまでずれて、お尻が半分出ていた。
ぼくと嫁ブーは、せいちゃんの後ろにいたのだが、そのせいで、ずっとせいちゃんのお尻を見ながら飲む格好となったのだ。
あまりきれいなお尻とは言い難く、太っているわりには、小さなお尻だった。

あれから十数年が経つけど、せいちゃんは今どうしているのだろう。
他の職に就いたのだろうか?
それとも、相変わらず天職(笑)で頑張っているのだろうか?



2005年05月22日(日) おじちゃん(後)

姪にとってぼくの存在は、物心ついた時から『しんにいちゃん』だったのだ。
さすがに意地の悪い友人も、ぼくと姪の鉄壁な『しんにいちゃん』関係にあてられたことだろう。
ところで、その友人のことを姪が何と呼んでいたかというと、「おじちゃん」だった。
「へえ、おじちゃんは、うちのパパと同い年なんですか?へえ…」といった具合だ。
その都度友人は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた
「ザマーミロ」、である。

ところで、高校1年時の夏休み以外にも、ぼくはショックを受けたことがある。
それは、再び「おじちゃん」と呼ばれたことではない。
もっと先を行っていたのだ。

5年ほど前だったろうか。
仕事中にそれは起こった。
いつものように、ぼくは暇をもてあましてテレビを見ていた。
すると、やはり2,3歳くらいの、今度は男の子が、ぼくの方にトコトコと歩いてきた。
そしてぼくの前で立ち止まった。

ここまでは横須賀事件と同じである。
しかし、横須賀事件と違ったのは、その男の子がぼくに対して発した言葉だった。
先に言ったように、「おじちゃん」ではない。
当時ぼくは、すでに40歳を超えていたので、仮に「おじちゃん」と呼ばれても、もう驚きはしない。
「ああ、そんな言い方をするガキもいるだろう」と思って、軽く受け流すだろう。
そういうわけだから、もちろんショックなんて受けない。
では、何という言葉でショックを受けたのかというと、それは、「パパ」である。
「パパ」
瞬間、ぼくの中で、時間が止まった。

呆然としたぼくは、その次の瞬間、自然にこの言葉が口をついて出た。
「あんた、誰…?」
そのやりとりを聞いていたのか、その子の母親が慌てて飛んできて、「○ちゃん、はい、よーく見て。ね、パパじゃないやろ」と子供を諭し、ぼくの方を向いて、「どうもすいません。すいません」と平謝りに謝った。
そして子供を向こうに連れて行こうとした。
ところが、子供はそこから動こうとしない。
相変わらず「パパ、パパ」と言っているのだ。

結局、母親はその子を抱きかかえて、連れ去っていった。
その時も、母親は「パパは家におるやろ。あの人はね、ここの店の人よ」と言っていた。
しかし、その子供はそれを面白がっているかのように、相変わらず「パパ、パパ」を連発していたのだった。
ぼくは心の中で、「早く向こうに行け」と思っていた。
まさに『パパと呼ばないで』である。



2005年05月21日(土) おじちゃん(前)

ぼくに対してその言葉が初めて使われたのは、高校1年の夏休み、ちょうど横須賀の叔父の家に遊びに行っていた時のことだった。
当時叔父の家には風呂がなかった。
そのため、叔父の家に滞在中は毎日銭湯に通ったものだ。

そういうある日のことだった。
その日は叔母といっしょに銭湯に行っていた。
先にぼくが風呂から上がったようで、外に出てもまだ叔母の姿はなかった。
そこで叔母が上がってくるのを待っていたのだが、その時女湯の出入り口からから2,3歳の小さな女の子が出てきた。
出入り口の奥から「○○ちゃん、待ちなさい」という声が聞こえた。
その声の持ち主は、おそらくその子の母親のものだったろう。
しかし、女の子は言うことを聞かず、とことこと通りに向かって歩き出した。
ちょうどぼくの前にさしかかった時だった。
女の子はぼくの存在に気づいたようで、そこで立ち止まった。
そしてぼくのほうを見て、満面の笑みを浮かべ、その言葉を吐いた。
「おじちゃん」
高校1年とはいえ、誕生日が来ていなかったので、ぼくはまだ15歳だった。
いくら言葉の意味のわからない女の子が言ったとはいえ、その時のショックは大きかった。
ぼくは「おにいさんだろうが」と言おうとしたが、そのせいでぼくの口は開かなかったくらいだ。

さて、その後は「おじちゃん」などという忌まわしい言葉で呼ばれることは、ほとんどなくなった。
それは、頭が真っ白になった今でもそうだ。
まあ、たまにそう呼ぶ人がいないではないが、そういう人たちは、ぼくのことを何と呼んでいいかわからずに「おじちゃん」と呼んでいるのだと思う。
愛称として「おじちゃん」と呼ばれることは、まったくないのだから。

ちなみに戸籍上ぼくを「おじちゃん」と呼べる立場にある甥や姪が、ぼくのことを何と呼んでいるかというと、「しんにいちゃん」である。
2年前、うちに遊びに来た大学生の姪を連れて、近くの居酒屋に飲みに行ったことがある。
その時、たまたまその店に飲みに来ていたぼくの友人が、ぼくを見つけて声をかけた。
「しんた、今日は女子大生連れか」
「これは姪っ子」
「ああ、姪っ子か」
その後、その友人はぼくたちの席で飲み始めた。
ことあるたびに、姪をからかっていたが、姪のほうは軽くあしらっていた。
ぼくがトイレに立った時だった。
友人は姪に、「おじちゃんといっしょに飲んで楽しい?」と聞いたらしい。
その時姪は、キョトンとした顔をして「おじちゃんって誰ですか?」と聞き返したという。
姪はぼくが「おじちゃん」であるというのが、ピンと来なかったらしいのだ。



2005年05月20日(金) ストックホルム症候群?

当初歯医者の先生が予定していた歯の治療が、今日で終わった。
治療した歯は19本、治療回数42回、そのために要した日数は何と172日だった。
前にも言ったが、こんなに長く一つの病院にかかったのは初めてである。
そのためなのか、今日で終わりと思うと、言いようのない寂しさが漂ってきた。
歯医者臭くない清々しい治療室、映画音楽を中心とした心地よいBGM、気取らない先生、愛想のいい看護婦、ロビーに置いてある数々のマンガ、そういったものと今日限りでお別れなのである。
今日は妙にセンチな気持ちで、治療を受けたものだった。

ところがである。
最後の歯を治療していた時、舌の左横に痛みが走った。
おかしいなと思い、その痛みの走る箇所をまさぐってみると、10数年前に治療していた歯が若干浮いているのがわかった。
痛みは、歯ぐきと銀冠の隙間に舌が引っかかることで起こっていたのだ。
以前なら、一刻も早く歯医者から解放されたいがために、そういうことは伏せておいただろう。
しかし、なぜか今回は「このチャンスを逃すことで、数年後その隙間に虫歯が出来、また痛い思いをするのも嫌だ」と思ったのだった。
そう考えたのは、「今日で終わりとは寂しすぎる」といったセンチな気分になっていたからでもあっただろう。

そこで先生に相談した。
「先生、一番奥の歯に隙間が出来ていて、そこに舌が挟まるんです」
「あ、そうですか」
そう言って、先生は例の編み棒みたいなヤツを、その部分に当て調べた。
「ああ、そうですねえ。若干だが浮いてきてますねえ」
「やり直したほうがいいでしょう?」とぼくが聞くと、「この部分のレントゲンを撮ってないから何とも言えないんですが、やったほうがいいでしょうね」と先生は言った。

そして最後の歯の治療を終えたあと、「じゃあ、今日その部分のレントゲン写真を撮っておきます。浮いたところを今の冠を利用して治すか、新たに冠を作るかは、次回判断することにしましょう」と言い、20回目のレントゲン写真を撮ることになった。
これだけレントゲンを撮っていると、こちらも要領を得てくる。
歯のレントゲンをとる場合、プラスチックの台座のようなものを噛まなくてはならない。
最初の頃は、それがうまく噛めず、上あごや歯ぐきに当たって痛い思いをしたものだった。
ところが何回かやっていくうちに、痛くない噛み方のコツというものがわかってきた。
それでも、二、三度自分で痛くないように噛み変えていたのだが、今日は何と一発でその噛み方を決めたのだ。
歯医者通いのベテランになったような気がして、なぜか気分がよかった。

さて、そういうことで、ぼくのは医者通いはもう少し伸びたのだった。
しかし、なぜセンチな気持ちになったのだろう。
もしかしたら、長い間人質に取られていると、犯人に同情や連帯感を抱いてしまう、いわゆるストックホルム症候群と同質の心理状態に自分が陥っているのかもしれない。
いや、こう言っては先生に失礼か。



2005年05月19日(木) 携帯ライフ

今の会社に入り、車で通勤するようになってからは、鞄などを持って行く習慣がなくなった。
前の会社のように、家に仕事を持ち帰ることもないので、資料や書類を持ち歩くこともなくなり、さらに電車通勤の友となっていた文庫本なども持って行くことがなくなったため、鞄の必要性がなくなったのである。

では、その他のアイテムをどこに入れているのかというと、弁当や水筒以外は、すべてポケットである。
ということで、ポケットの中には、いつも財布(小銭入れ)・免許証兼カード入れ・鍵・タバコ・携帯などが入っている。
では、そういったものをどのポケットに入れているかというと、冬場はジャンバーを着るので、財布とカード入れと鍵はズボンのポケットに、タバコはシャツの胸のポケットに、携帯はジャンバーのポケットに、と分散して入れている。

ところが、ジャンバーを着ない夏場はそれができない。
そこで、携帯はタバコといっしょに胸のポケットに入れている。
最初は、タバコといっしょに入れると、胸のポケットがかさばってしまうのでズボンのポケットに入れていた。
しかし、ズボンのポケットに入れていると汗ばむし、さらに運転中だとそれが気になってしまう。
ということで、胸のポケットに変えたのだ。

さて、今朝の出勤途中のことだった。
最初の信号待ちの時、胸のポケットに手をやり、タバコを取り出そうとした。
「あれ?」
胸の膨らみがやけに小さいのに気がついた。
タバコはちゃんと入っている。
もちろんライターも。
ということはだ、携帯が入ってないのだ。
慌ててズボンのポケットを探ってみたが、そこにも入ってない。
「忘れた!」

そこで、いったんUターンして、携帯を取りに戻ろうかと思った。
しかし、今日はギリギリに家を出いるので、取りに戻ったりしていると時間に間に合わない。
「まあ、1日くらいなくてもいいか」
そう思って、会社に向かった。

だが、その途中にも、「待てよ。携帯がないということは、時間がわからん」「空の写真が撮れん」「ニュースが読めん」「ホームページが見れん」「クロスワードが出来ん」「将棋が出来ん」などと考えていた。

ぼくは、腕時計は数多く持っているものの、それをする習慣がない。
そのため、時間を確認するのはすべて携帯なのだ。
また、『空の日記』を始めてからは、毎日携帯で写真を撮っている。
新聞を読む暇がないので、いつも携帯でニュースを確認しているし、人様のホームページも携帯で見ている。
毎日3万円が当たるクロスワードを解き、応募するのが日課になっている。
将棋は…、ご愛敬である。
これらすべてのことが、今日は出来ないのだ。
ぼくにとって携帯を忘れるということは、極端に言えば、パンツをはき忘れて会社に行ったのと等しいことなのである。
つまり、落ち着かない。

ということで、今日は一日落ち着かなかった。
仕事中も、気がつけば「もしここに携帯があれば、今頃は…」などと思っているのだ。
おまけに集団窃盗団が来たり、万引き常習犯が来たりして、ろくな一日ではなかった。
こういうことも、すべては携帯を忘れたことから始まっているのだ。
今日という日は、ぼくがいかに携帯漬けになっているのかを自覚した日であり、一日を平和に過ごすためには携帯が必要不可欠だということを発見した日となった。



2005年05月18日(水) ヒロミちゃんと再会する

ぼくの家からヒロミの家まで、渋滞してなくても車で4,50分はかかる。
ぼくの家が北九州市の西の端であるのに対して、ヒロミの家は東の端にあるからだ。
それを考えると、北九州市は広い。

実は昨日、そのヒロミの家に、嫁ブーと二人で行ったのだ。
嫁ブーがヒロミから頼まれていた物があって、それを届けたのだが、ぼくとしては10数年ぶりの再会となったわけだ。
夕方6時頃に家を出たため、当然市内の道は渋滞している。
そのため所要時間4,50分が、1時間半以上かかることだってありうる。
ということで、昨日は都市高速を利用した。
そのおかげで、ヒロミの家の付近でちょっと迷ったものの、30分程度で着くことができた。

さて、ヒロミとの久しぶりのご対面である。
ぼくたちが着くと、ヒロミは玄関を開けて出てきた。
10数年前に会った時のヒロミが、そのままそこにいた。
相変わらず若くてきれいな顔をしていた。
誰が見ても、まさか高校生の子を持つ母親だとは思わないだろう。
「おお、ヒロミやないか」
「しんたさん、久しぶりやねえ」
「ヒロミは全然変わってないのう」
「しんたさんだって変わってないやん」
「いや、白髪が増えた」
「‥‥」

ヒロミはさっそくぼくたちをリビングに案内してくれた。
うちのリビングよりも、はるかに広く感じた。
「ここ何畳あるんか?」
「16畳くらい」
「うちは14畳やけど、ここはかなり広く感じるのう」
すると嫁ブーが「ああ、ここはキッチンが別になっとるけよ。うちはキッチン込みやん」と言った。
「そうか、それでの」

それからソファーに座り、思い出話に花が咲いた。
しばらくして、ヒロミが「コーヒー、ちょっと薄いけど、いつも豆は変えよるけね」と言って、コーヒーを出してくれた。
確かに薄かった。
が、別に気にはならなかった。
それよりも、「いつも豆は変えよるけね」に笑ってしまった。
結婚しても、子供が出来ても、ヒロミはヒロミだった。

思い出話といえば、ヒロミはえらく古い話をした。
それは24年前のことだった。
会社のオープンに伴って、ぼくたちは研修を受けていたのだが、その時ぼくはヒロミと同じグループだったのだ。
ヒロミはなぜかその時のことを覚えていた。
「ねえねえ、しんたさん。あの研修の時にビクターに行ったやん」
「そうやったかのう?」
「うん、行ったっちゃ」
「そうか」
「でね、あの時天丼食べたやろう」
「えっ、食べたかのう?」
「食べたっちゃ。あの天丼、どこの天丼かねえ」
「知るわけないやん」
「あれ、そーとーおいしかったんよね。あの味が今でも忘れられんのよ」
「よく覚えとるのう」
「今度調べとってね」
「だから、わからんっちゃ」
「あ、そうか。探偵ナイトスクープに頼んだらいいんか」
「‥‥」

ヒロミは近所のことにやたら詳しかった。
どこどこの家の子は九大に行ったとか、あそこの長男は小倉高校とか言って、その人たちのことをまったく知らないぼくたちに、口泡を飛ばし説明していた。
しかし、その一人一人の説明をしたあと必ず、「でも、どの学校にいったなんか関係ないよね。東大行ってもバカはバカやもんね」と付け加えていた。
確かに学歴は関係ないと思うが、それにしては、近所に住む成績のいい子のことをヒロミはよく知っている。

ヒロミによると、「関門橋のめかりパーキングエリアのソフトクリームがそーとーおいしい」らしい。
ぼくが「壇ノ浦パーキングエリアのはどうなんか?」と聞くと、「あそこはだめ!」とあっさり言った。
ということで、今度ソフトクリームを食べるだけのために、関門自動車道に乗り、めかりパーキングエリアに行く約束をした。
しかし、その際、どこのインターで降りたらいいのだろうか?
めかりは市内であるが、その先の降り口は、下関市なのである。

ヒロミの家には2時間ほどいた。
帰る間際、ヒロミは「Mリーン」と言って、2階にいた娘を呼んだ。
降りてきた娘は、かわいくて感じのいい子だった。
Mリンはぼくたちを見ると、「こんにちはー」と言って挨拶した。
Mリンは、ぼくがいつも嫁ブーの変な写真をヒロミに送っているので、嫁ブーのことを変な人だと思っていたらしい。
嫁ブーは、必死に「そうじゃない」と否定していた。

靴を履いている時だった。
突然、ヒロミがMリンに「あんたうんこする時に読むために、トイレにマンガを置いとるやろ」と言った。
出ました、ヒロミ得意のうんこネタである。
ヒロミは最後の最後まで、いっしょに仕事をしていた頃とまったく変わってなかった。



2005年05月17日(火) アホバカ列伝 M子の彼氏(後)

その後も彼氏は、M子を訪ねてやってきた。
しかし、それがあまりに頻繁なので、M子もだんだん嫌気が差してきたようだった。
そのうち、M子は彼氏が来ると隠れるようになった。
M子がいないのを見て、彼氏はぼくに「今日、M子は?」と聞いた。
「今日は休みですよ」
「休み?今日は仕事と言っていたんだけど…」
「気分が悪いんで休むと言って電話してきましたよ」
「ああ、そうですか。じゃあ、家に電話してみよう」
そう言って帰って行った。

彼氏が帰ったのを確認して、ぼくはM子を呼びに行った。
「おい、帰ったぞ」
「何か言ってた?」
「家に電話してみると言っていた」
「えっ、どうしよう…」
「病院に行っていたと言っとけ」
「ああ、そうやね。しかし、夜逢うようになっているのに、何で昼間来るんかねえ」
「それだけ好きなんやろ」
「私だんだん醒めてきた」
「そうやろうのう。こう毎日こられたらのう」
「うん。それにねえ、喫茶店辞めたんよ」
「え?今何しよるんか?」
「何もしてない」
「いい歳なんやろ?」
「うん。しんちゃんより一つ上」
当時ぼくは29歳だったから、彼氏は30歳ということになる。
「そうか、いよいよだめな男やのう」

それからしばらくして、M子は彼氏と別れてしまった。
もちろん、M子が彼氏の常識のなさに愛想を尽かしたのだ。
ところが、彼氏は常識のない男だったから、別れたあとも、会社にやってきたり、ネチネチ電話をかけてきたりした。
何度「もう来ないで」とか「もうかけんで」とか言っても、彼氏は聞こうとしない。

「あの男、何でまだくるんか?」
「わからん…」
「本当に別れたんか?」
「別れたよう」
「何と言って別れたんか」
「仕事に専念したいけ別れて…、って」
「そんなんじゃ納得せんやろ」
「そういうことはないと思うけど。ちゃんと泣いたよ」
「えっ、泣いたんか?」
「うん」
「あの男30歳やろ。ふつう泣くか?」
「でも泣いたもん」
「周りに人はおらんかったんか?」
「喫茶店やったけね。周りにお客さんがいっぱいおったよ」
「いい歳して、バカやのう」
「うん」
「でも、ああいう男は自分にいいようにしか受け取らんけのう。おそらく、まだ別れたとは思ってないんやろう」
「そうやろか?」
「おう。もういっぺんはっきりと別れると言ったほうがいいぞ」
「うん、わかった…」

ということで、M子はもう一度彼氏と会うことになった。
そして、そこではっきり「好きな人ができたけ、もうつきまとわんで」と言った。
彼氏は、ようやく自分がふられたということが理解できたらしい。
そしてまたしても、その場でシクシク泣きだしたという。
「好きな人」とは口実だったが、彼氏はバカなので、それを疑わなかったという。
それ以来、彼氏は会社に来ることも、電話をかけてくることもなくなった。



2005年05月16日(月) アホバカ列伝 M子の彼氏(前)

前の会社にいた時、部下にM子という女の子がいた。
会社に入る前は、喫茶店でアルバイトをしていたという。
その関係で、そこの喫茶店の人たちがよくM子を訪ねてきていた。
その人たちの中にM子の彼氏もいた。
彼氏は、ヒョロっとして何か頼りなさそうな男で、どう見てもM子とは不釣り合いだった。
最初の頃は毎日来ていたものだ。
来ない時は電話がかかった。
M子の受け答えから察するに、どうもネチネチして煮え切らない男のような気がした。

ある日のことだった。
いつものように、仕事中に彼氏から電話があった。
ところが、その時はいつものネチネチ電話ではなかった。
M子は受話器を取ったとたん「えーっ!?うそー」と大声を上げて言った。
そして「どこで?…」「どうして?…」「大丈夫?…」「えっ、今から?どうしよう…」といった断片的な言葉がぼくの耳に入ってきた。
M子の言葉で、彼氏の身に何かあったらしいのはわかった。
そのうち、受話器を持つM子の腕は震えだし、顔はだんだん青ざめていった。

電話を切ったあと、そわそわしているM子に、ぼくは「どうしたんか?」と聞いてみた。
するとM子は、気が動転しているのか「車がね、彼氏がね、事故がね、彼氏がね…、車がね…、ああ、どうしよう」と、訳のわからないことを口走りだした。
おそらく自分の中でも、整理出来ていないのだろう。
このまま会社にいさせても仕事にならないと判断したぼくは、M子に「気になるなら行ってこい」と言った。
M子はその言葉を待っていたかのように、何も言わずに脱兎のごとく駆けて行った。

「もしかしたら、今日M子は帰ってこんかもしれん」
そう思っていた時だった。
M子が戻ってきた。
脱兎のごとく駆けて行ってから、2時間ほどが経過していた。
M子は売場に着くなり、「あーあ、あんなことなら行くんじゃなかった」と言った。

そこで、最初から話を聞いてみた。
彼氏が車で狭い道を走っている時、向こうから対向車が来た。
彼氏はそれを避けようとしてハンドルを切った。
ところが、運悪くそこに溝があり、タイヤがはまってしまった。
それが抜けなくて困った。
そこで彼氏はM子に電話した。
電話を受けたM子は、それを事故だと勘違いした。
というわけである。

だけど、どうして彼氏はM子に電話をしたのだろう?
こういう時に、まず電話をかけるところは恋人のところではない。
そうJAFだ。
それはドライバーとしての常識である。
彼氏は、そういう常識を知らなかったらしい。
だから、M子の手を借り、二人で車を引き上げようという非常識なことを考えたのだ。
しかし、M子が来ても、二人ではどうすることも出来なかった。
結局、近くにいた数人の人たちに声をかけて、車を引き上げたのだという。



2005年05月15日(日) 母ネタ

一昨日、昨日と母のことを書いたら、ある方から「お母様、かわいいですね」と言われた。
いや、それは違う。
母は別にかわいくない。
ただ、あることに気を取られたら、周りが見えなくなり、そのつど息子に迷惑をかけるだけの人なのである。
過去何度母の思い込みで泣かされたことか…。

さて、今日の日記だが、これと言って書くこともない。
ということで、今日も母ネタを書くことにする。
これを読んでも、「かわいい」などと言わないでください。
決してかわいくないですから。

【その1】
以前、母から「エアコンが光るやろう。それが気になるんよ。どうにかして」という電話があった。
母の下手な説明に、何のことかわからずに行ってみると、それは温感センサーのランプだった。
「ずっとこの調子やけねえ。どこか切るところがないかと思って見てみよるんやけど、ないんよね。やっぱり故障しとるんやろうか」
「故障やないっちゃ。これはこういう機能のついた機種なんよ。もしランプを切りたいんなら、電源を切るしかないよ」と言うと、「電源を切らんでどうにかならん?」と言う。
「そんなことはメーカーに言ってくれ」
「何でしてくれんと?あんた電気屋勤め長いんやけ、このくらいの修理やったら出来るやろうもん」
「修理じゃなくて改造。出来るわけないやろ」
「あんたいつもそうやないね。ただ面倒なだけやろう。もういい、○さんに頼むけ」
○さんというのは、母の知り合いの電気工事屋さんである。
しかし、いくら電気工事士といえども、エアコンの改造なんて出来ないだろう。
困った人である。

【その2】
母は買い物好きである。
勤めに出ていた頃は、いつも両手いっぱいに買い物袋を下げて、会社から帰ってきたものだ。
「金がないとか言いよるくせに、毎日毎日こんなにいっぱい買ってこんでもいいやろ」とぼくが言うと、「何言いよるんね。全部あんたが食べる物やないね」と母は言った。
ぼくは成長期の時でさえ、大食はしたことがない。
つまり、ぼくが食べるというのは口実で、実はほとんど自分で食べるのである。

しかも、一度に食べきれる量ではないから、どうしてもそれを保存する入れ物がいる。
当然冷蔵庫1台では足りない。
ということで、もう1台追加することになった。
さらに、息子が食べるからという理由で買ってきた、大量のアイスクリームを保存するために、冷凍庫まで買うことになった。
狭い家の中、それも二人暮らしで、冷蔵庫関係が3台である。

さて、その食べ物を乗せるためには、食器が必要になる。
そうなると食器棚がいるわけだが、一時期実家にはそれが2台もあった。
12畳あるリビングは、冷蔵庫や食器棚のせいで、実質4畳半しかないのだ。

そのくせ、家が狭いとこぼしている。
今でも母はよく「あんたがもっと生活費を入れてくれたら、こういう物が収まる広い家の一軒も建っとったのにねえ」と言っている。
しかし、ぼくに言わせれば、「もう少し買う量を減らせば、冷蔵庫も冷凍庫も食器棚も買う必要がなかったから、その費用で家が建てられたやろうにねえ」となる。
ホント困った人である。



2005年05月14日(土) ナンセンスクレーム(その3)

実家は同じ町内にあるから、車だとすぐに着いてしまう。
それゆえに、実家に行くのに格好を気にしたりはしない。
ぼくは顔も洗わず歯も磨かず、寝間着のまま家を出た。
車を走らせてからすぐに、またもや携帯に電話が入った。
着信音からして、母からだということはわかった。
だが、運転中なので電話に出ることはしなかった。

途中信号待ちなどに逢わなかったので、車のエンジンをかけてから2分少々で実家に着いた。
車を駐車場に置き、そこから実家まで走って行った。
母は掃除機をかけていた。
そのため、ぼくが家に入ったことには気づかなかったようだ。

ぼくは声もかけずに、さっそくテレビのある部屋に行ってみた。
なるほど、テレビはつかない。
ところがである。
母がもう一つつかないと言っていた電話は、ちゃんとついているのだ。
おかしいなと思っているところで、ようやく母はぼくがいるのに気がついた。
母はぼくを見つけると、掃除機のスイッチを切り、手を合わせ「ごめん」と言った。
「え?」
「さっき、この部屋を掃除しよった時に、コンセントを抜いてしまったみたいなんよ。気がついてすぐに電話したけど、あんたが出らんかったけ…」

実家にはコンセントが少ないので、テレビと電話はいっしょのテーブルタップで取っている。
母はどうもそのテーブルタップの元を引き抜いたらしい。
「でも、テレビがついてないやん」
「そうなんよ。何でかねえ?」
とテレビを見てみると、どうも動かした形跡がある。
ぼくが「テレビ動かした?」と聞いてみると、母は「うん。さっきそこ掃除機かけたけねえ」と言った。
「これもコンセントが外れとるんやないんね」
そう言ってぼくは、もう一度テレビを動かしてみた。

案の定そうだった。
テーブルタップにささっているはずのテレビのコンセントは、見事に外れていたのだ。
「外れとるやん」
「何でかねえ?」
「こちらが聞きたいよ。テレビのコンセントは、ちょっと引っ張ったくらいでは外れん。手で外さんかぎり無理なんやけど」
「ああ、そういえば、そこ掃除する時に外したんやった」
「あのー、それはおれに電話する前のこと?」
「うん」
「‥‥」

やはり母が引きつった声で電話してくると、ろくなことはない。
要はコンセントが外れていただけのことで、テレビにいたっては、自分で外していたのだ。
貴重な睡眠時間を、母の大ボケで台無しにしてしまった。
母は悪いと思ったのか、「コーヒー飲む?」とか「ロールケーキ食べる?」などと言って、ぼくに機嫌を取っていた。
しかし、そういうことよりも寝るのが先決である。
そう言っていったんは断ったのだが、目の前にコーヒーとロールケーキを出されると、ぼくの手は自然にそれらを口に運んでいった。
その後、家に戻って寝ようとした。
ところが、実家で飲んだコーヒーが効いたのか、なかなか寝付けない。
そうこうしているうちに、歯医者の時間になってしまった。
結局、その日もぼくは睡眠不足を解消出来なかったのだった。



2005年05月13日(金) ナンセンスクレーム(その2)

今週の月曜日の夜、翌火曜日が休みだったので日記をだらだらと書いていた。
書き上げたのは、火曜日の朝6時頃だった。
それから寝ることにしたのだが、あいにくその日は嫁ブーが出勤になっていた。
9時に嫁ブーを会社に送って行かなければならないため、遅くとも8時半には起きなければならない。
そこで8時半に起きるように、「8時半になったら目が覚める」と自分に暗示をかけながら寝た。
7時半に一度目が覚めたが、まだ早いと思い、もう一度目を閉じた。
ところが、次に目を開けたのは9時半だった。
もちろん、その時間には嫁ブーはいなかった。
その夜、ぼくが「どうして起こさんかったんか?」と聞くと、嫁ブーは「何度も起こしたけど、起きんかったんやないね」と言った。
「で、何で行ったんか?」
「しかたないけ、タクシーで行った」
と、いうことだった。

さて、9時半に目が覚め、嫁ブーがいないのを確認したぼくは、もう一度寝ることにした。
その寝入りばなだった。
枕元に置いていた携帯電話が鳴った。
着信番号を見てみると、母の携帯の番号だった。
こんな早い時間に何だろうと思って出てみると、母は引きつった声で、「テレビがつかんようになったんよ。どうしたんかねえ」と言った。
「え?」
「テレビだけじゃない。電話も」
「電源が入らんと?」
「うん」
「どこもつかんとかねえ?」
「いや、他のところはついとるけど」
「じゃあ、テレビと電話だけか。その部分のブレーカーが落ちとるんやないん
ね?ちょっと見てみて」

母が声を引きつらせて電話してくる時は、たいがいろくなことはない。
だいたい「どうしたんかねえ?」と聞かれても、こちらは見てないので何とも言いようがない。
しかし母は、ぼくがすべて把握していると思っているのだ。
かつて実家付近一帯が停電した時に、「どうにかしてくれ」と電話してきたことがある。
「そんなことは九州電力に言うてくれ」と言うと、「あんたは家のことは何もしてくれん」と文句を言っていた。
「停電のことまで知るか!」、である。

さて、しばらくして母が電話口に戻ってきた。
「ブレーカーはどれも上がっとるよ」
「おかしいねえ」
「ちょっと見に来てくれん?」
「いいけど、あとでいい?」
「あとっちゃ何時頃ね」
「昨日寝てないけ、今から寝るんよ。目が覚めたら行くけ」
「何ですぐ来てくれんとね。電話が切れとったら、あんたが来た時にインターネットも出来んのよ」
インターネットをするのはぼくだけだから、別に母が困ることではない。
電話は停電していても繋がるから、要は自分がテレビを見られないだけの話である。
他の部屋の電気はつくらしいから、しばらくそちらの部屋で見ていればいいのだ。
しかし、母があまりしつこく言うので、結局ぼくは折れて、「わかった。今から行く」ということになった。



2005年05月12日(木) ナンセンスクレーム(その1)

先月中旬のことだった。
その日の朝方にテレビのリモコンを買ったお客さんから、「さっきリモコンを買った者だが、おたくは不良品を売りつけるんか!」と怒鳴って電話がかかってきた。
そこでぼくは、「電池は新しいのをお使いでしょうか?」とか「リモコンモードは間違ってないですか?」とかいろいろと質問してみた。
しかし、お客さんは「不良品」の一点張りで、ぼくの質問には答えようとしない。
挙げ句の果てに、「責任者呼べ」「もうお前んとこで買えん!」などと言い出した。
電話じゃ埒があかないので、ぼくは「電話ではよくわかりませんから、今から見に行きます」と言い、お客さんの住所と名前を聞き出して電話を切った。

お客さんの家に着くと、お客さんは玄関先で待っていた。
そしてぼくの顔を見るなり、「不良品を売りつけやがって。消費生活センターに言うぞ」などと悪態をついた。
玄関先で文句を言われてもことは解決しないので、とりあえず家の中に入れてもらい、リモコンを見てみることにした。

なるほど、お客さんの言うとおりテレビはつかない。
「ほら見ろ、不良品やろうが」と、お客さんは勝ち誇ったように言った。
そこでぼくは、持ってきた新しい電池を入れてみることにした。
ぼくが新しい電池をポケットから取り出したのを見て、お客さんは「おまえはバカか。電池を入れ替えてもいっしょやろうが。元々不良品なんやけ」と言った。
ぼくが「やってみらんとわからんでしょ?」と言うと、お客さんは「直るわけないやないか。まあいい。やってみたら不良品ということがわかるやろ」と言った。
「じゃあ、やってみます」と言って、ぼくはリモコンの電池カバーを外した。
「‥‥」
「ほら見てみ、やっぱり不良やろうが」
「お客さん、電池はどうしました?」
「えっ、電池?」
「ええ、電池です」
「電池は入っとるやろうが」
「いいえ、入ってないですよ」
そう言って、ぼくはリモコンをお客さんに見せた。
「そんなはずはない。ちゃんと入れたぞ」
「でも、入ってないですよ」
「おかしいなあ」
「これじゃつきませんよね」
「・・・」

電池を入れてみると、リモコンは正常に作動した。
それを見ても、お客さんは「おかしいなあ。確かに入れたんだがなあ」を連発するばかりだった。
最後は「今から出かけないけん」と言って、ぼくを追い返した。
それまでの悪態に対する謝罪は、一切なしだ。
まあ、この手のお客さんは、そういう人が多いから、別段腹も立たなかった。
それよりもぼくは、「お客さんは、いったいどのリモコンに電池を入れたのだろうか?」ということが気になっていた。
家の中には、他にリモコンはなかったような気がする。



2005年05月11日(水) 神が宿る

かつてぼくは、詩作や作詞作曲といった創作活動をやっていたことがあるのだが、その頃何度か『神が宿る』経験をしたことがある。
そういう時は決まって眉間のところがむずむずしだし、そのうち意識が体の外にいるような感覚になってくる。
そして、そういう状態になった時に、詩を書く手が勝手に走ったり、曲が浮かんだりしたものである。
まあ、詩作や作詞作曲を真剣にやっていたのは、もう30年近くも前のことだから、その前後がどういう心境にあったのかなどということは、あまり覚えていない。

ここ最近となると、10数年前に友人の結婚披露宴で歌を歌った時くらいか。
その日ぼくは、『ショートホープブルース』を歌うつもりで、朝から家で練習していた。
練習しだしてから30分ほどたった頃だったか、急に体が温かくなり何かフワフワとした気持ちになった。
「おかしいな」と思いながらも歌っていくうちに、あることに気がついた。
何と、意識が体の外に出て、その後ろでぼくが歌っているのだ。
歌とまったく関係ないことを考えても、ちゃんとギターを引く手は正確に動き、口は確実に動き、声ははっきり出ている。
練習を終え、披露宴会場に着いてからも、ずっとその状態は続いていた。
その状態のまま、ぼくは舞台に立った。
200人ほどの前で歌うものだから、若干の緊張はあった。
が、緊張しているのは意識だけで、体はそういうことにお構いなく動いている。
そして歌い終えた時、それまで味わったことのないような感動に包まれた。
鳴りやまぬ拍手が、その感動に拍車をかけたのだった。
先にも後にも、歌でこんな経験をしたことはない。
おそらくその時、神が宿っていたのだと思う。

集中力が高まった時に、これと似た状態になることはある。
しかし、神が宿った時との決定的な違いは、それが自分の意思でなったのではない、ということにある。
とはいえ、集中力が高まった時にも、神が宿ることはあるが、それは集中力の高まりの中にあるのではなく、集中力の一歩外側にあるのだ。

さて、神が宿る状態にならなくなって、すでに10数年の時が過ぎている。
もちろん今は詩作や作詞作曲はやっていない。
だが、今は日記という創作活動をやっている。
それなら、一度くらいは神が宿ってくれてもよさそうなものだ。
神が宿る日記とは、いったいどんな日記なのか、それをぼくは見てみたいのだ。



2005年05月10日(火) 吹く風2

ふう…、何も出てこない。
もう1時間以上パソコンの前に座っているのだが、書くことが決まらないのだ。
とにかくメインブログも決まったし、そのテンプレートデザインもぼくが理想としているものが出来つつある。
そういうことなので、何か気が抜けた状態なのだ。
眠気もさしてきたことだし、さっさと寝てしまえばいいのだが、一日最低一日記を公約している以上、何も書かないわけにはいかない。

そういえば、メインブログのタイトルは『吹く風』にしているが、そのことは今年の4月7日の日記に書いている。
そこにはそのタイトルの元となった、東京時代の日記『吹く風』の紹介をしているのだが、今日は、その時代にしろげしんたがどんなことを考えていたかを、日記から抜粋して書いてみようと思う。

“何も面白いことはない。
もし、あなたに面白いことがあるのならば、それはあなたの人生においてでのことであって、私どもは、あなたのその人生に不快を感じるばかりである。
いつの間にかその不快は嫌みに変わって、悲しいことには、まだしゃべったこともないあなたに、憎しみを抱くことになる。
そうなると、私どもはあなたの本当の優しさを見落とす羽目になる。
そして、まだ話したこともないあなたと私どもの間には、いつの間にか深い溝が出来上がってしまう。
その溝を往来する人を、あなたはかわいそうだとは思いませんか?
しかも、その往来する人は、どちらとも波風を立たせないようにと、うまく立ち振る舞おうとするのだが、私どもその振る舞いに疑いを抱くようになる。
当のあなたとは、もうとっくに溝が出来上がっているのだから、今度はその人との間に溝を作らねばならない。
いったいこの繰り返しは、あなたのその不愉快さからきているのです。
あなたは私ども一人一人に、いや、あなたと私との間に、三十数億もの溝を生じさせようとしているのです。
ね、だから、あなたにとって何も面白いことはないはずです。”

“もし愛について語るとすれば、自分が運命に試されていることが、何とももどかしい。
「愛の告白によって、愛は愛でなくなる」というのは昔の持論だが、ある面今の持論でもある。
ある本に、『女の成長を妨げるような愛し方をするな』という言葉があった。
それはそう、その通り。
だが、いつまで経っても、濡らし濡らされの男女の仲、人間の愛については進歩がない。”

“愛という貸借表には、資本がとても大切なのです。
その大小によって、愛の価値は変わってくるのです。
これは金のことではありません。
その人の、愛するものに対する心の豊かさが、愛という貸借表における資本です。”

以上は1978年9月24日から25日にかけて書いたものである。
しろげしんた当時20歳、まだまだ若いわい。



2005年05月09日(月) ブログ、今後のこと

ブログには、モブログという便利な機能がついている。
メール感覚で記事を投稿する機能である。
そのため、携帯からの投稿も楽である。
さらにブログの中には、携帯で編集できるところもある。
それが出来るということは、投稿後すぐに携帯で修正することが可能だということである。
携帯で書くと、どうしても意味不明の文章を書いたり、誤字・脱字が多くなったりする。
それゆえ、そういう機能がついていると便利である。
それが出来ないブログというのは、修正のためにパソコンを使わないとならない。
ところが、前に日記に書いたように、うちの会社はパソコンをそういうことに使うことは出来ない。
ということは、家に帰るまでの長い時間、誤字脱字を放置していることになる。
つまり、垂れ流し状態というわけだ。
仮に一見さんがそれを見たら、きっと「こいつはバカだ」と思うにちがいないだろう。

さて、一昨日、昨日と2日続けて日記を携帯で書いたわけだが、いろいろと大変だった。
携帯を打つことももちろんだが、それよりも大変だったのは、ブログがたくさんありすぎて投稿が面倒だったということだ。
もちろんメール感覚なのだから、投稿自体は難しくはない。
しかし、それも限度がある。
現在、ぼくが日記を掲載しているブログは5本ある。
Seesaa、exblog、Autopage、livedoor、FC2の5本である。
今後、携帯で投稿するようなことが増えてくると思われるから、これらすべて継続していくのはちょっときつい。
そこで今日、ブログを絞ることを考えた。
パソコン用と携帯用の2本くらいに絞るのだ。

さて、その際どこを外すかが問題になってくる。
今日は、とりあえずlivedoorとFC2を外すことにした。
どちらも前々からやめようと思っていたところである。
livedoorは、人はそこそこくるから、ブログに問題があるわけではない。
問題はそのブログを管理している会社にある。
先日のニッポン放送事件から、どうも気に入らないのだ。
前々からやめようと思っていたから、今回の決断は早かった。
一方のFC2は、まったく人が来ず、むなしさを感じるところだった。
ということで、来ないならやめても問題はないだろうと思い、やめることにした。

残るは3本である。
いちおう携帯用はAutopageに決めている。
ここは携帯でも月別やカテゴリ別に見ることが出来るのだ。
携帯でぼくの日記を読んでくれている人は、わりと多い。
そういう人たちがぼくの日記を全て読もうと思った時に、これらの機能が生きてくる。
こういう機能がついてないと、前に読んだところから読もうと思ったら、いちいちクリックしてそこまで遡らなければならない。
これではパケット代が大変である。
しかし、こういう機能があると、例えば「昨日は2003年の3月まで読んだから、今日は4月を読もう」と思った時、すぐにそこに飛んで行くことが出来るのだ。
さらにいいのは、検索機能がついていることだ。
これがあるとないでは大いに違う。
関連の記事などを探す時に便利なのである。

ということで残り2本、つまりseesaaexblogであるが、今のところ残すのはseesaaのほうにしようと思っている。
ここのブログは冒頭に書いたように、携帯で編集が出来るのだ。
この2日間で、この機能がないときついというのがよくわかった。
また、ブログのデザインも手間暇かけて、自分の好きなように作り上げている。
この思い入れは強い。

一方のexblogは、まず携帯で閲覧が出来ない。
さらに、コメントやトラックバックのメール通知機能がない。
これは致命的である。
そういうところなら、さっさとやめればよさそうなものだが、それが出来ないでいる。
なぜかと言えば、デザインが気に入っているのと、パソコンでの記事の編集が簡単で速いからだ。
seesaaは、この記事の編集に時間がかかりすぎる。

いろいろ悩むところだが、いちおうexblogは6月にシステムの改善をするらしいから、それが終わって最終的な判断を下そうと思っている。
まあ、seesaaは時々開かないことがあるから、exblogを予備として使っていく手もあるが。

ああ、そうだった。
エンピツを忘れていた。
ホームページ開設以来使っている日記サイトだが、ここは『頑張る40代!』の最終回、つまり50歳の誕生日の前日まではやめるつもりはないので、エンピツを見ている方はご安心を。
ただ、一日一回の更新しかできないエンピツに比べ、ブログは何度でも更新できるので、自然ブログの記事のほうが多くなっている。
ということなので、たまにブログのほうも覗いてくれたら嬉しく思います。



2005年05月08日(日) 携帯日記

昨日は義弟の子の、初節句のお祝いに出席したために、家に帰るのが遅くなってしまった。
家に帰った時はすでにグロッキー状態で、数行ほど日記を書いたものの、結局考えがまとまらず、寝ることにした。
頭の冴えている朝に書こうと思ったのである。
ところが、朝になっても頭は冴えない。
おまけに昨日は風呂に入らずに寝たため、朝入らなければならない。
そうこうしている間に出勤時間になってしまった。

そのため日記は会社に持ち越すことになった。
会社で日記を書くといっても、会社のパソコンは使えない。
そこで、いつものように携帯電話で打ち込むことになる。
携帯電話で打つ、これがけっこう大変な作業なのだ。
もちろんどこでも打てる手軽さはある。
例えば、立ったまま打つことが出来るし、トイレでも打つことが出来る。
しかし、難点のほうがはるかに多い。
何といっても、指一本で打つために時間がかかる。
さらに変換が面倒である。
片手間でやっているようで、どうも集中が出来ない。
画面の関係上、断片的にしか文章が見えないので、全体の文章のバランスがわかりにくい。
けっこう長文を書くがゆえに、読み返すのが大変である。
…などである。
とはいえ、使えるのは携帯電話しかないのだ。

ということで、仕事の合間を縫って日記を書くことにした。
お客さんの相手をしながら、日記の内容を考える。
日記の内容を考えながら、お客さんの相手をする。
さらに、時々ゲームをしながら、日記の内容を考える。
そういうことを繰り返しながら、その内容を携帯電話に打ち込んでいった。

そうやって出来上がった日記だが、最後の最後に最大の難関が待っていた。
それは携帯電話の電池切れである。
日記を打ち込むだけならともかくも、途中でゲームをやったり、馬鹿な画像をダウンロードしたり、その画像をヒロミちゃんに送ったりしたものだから、電池がなくなってしまったのだ。
慌ててぼくは、会社に置いてある充電器で充電し、その後で日記を上げた。
時間はすでに午後2時を回っていた。

さて、その後仕事が終わり、家に帰ってから日記を読み直してみたのだが、愕然とした。
必死に考えて書いた日記が、あの程度だったからだ。やはり日記というものは、じっくり構えて書かないとだめということだ。
そう思って今日の日記を取り組んだわけだが、敢えなく撃沈。
結局、今日の日記も携帯電話での更新になってしまったのだった。



2005年05月07日(土) 大きな迷子

何日か前のことだった。
午前中、ぼくは倉庫で作業をやっていた。
それが一段落したあと店に戻ったのだが、店では特にやることもなく、売場の入口のところにボーッと突っ立っていた。
しかし、ボーッと突っ立っているだけでも、何人かのお客さんに「この商品はどこにあるか?」と日替わり商品のありかを聞かれ、その都度そこに案内していた。
案内が終わると、また元の場所に戻って立つ。
何度かそういうことを繰り返していた。

そういう折、どこからともなくローラーシューズを履いた女の子が現れた。
小学校中学年くらいだろうか、わりと背が高かった。
その子が、ぼくの目の前を滑りながら行ったり来たりしている。
危ないので注意しようと思ったら、どこかに行ってしまった。
またしばらくして、今度はぼくの後ろに人の気配を感じた。
振り返ってみると、その子が立っていた。
じっとぼくのほうを見ているのだ。
しかし、ぼくと視線が合うと、また滑ってどこかに行ってしまった。

そのうち、ぼくもそこに立っていることに飽きてしまい、店内をぶらついていた。
すると、先ほどの女の子が現われ、ぼくのあとを追いかけるようにしてついてきた。
ぼくは無視して、狭い通路に入った。
もう追いかけてこないだろうと思っていると、女の子はその通路の出口のところに先回りしていた。
その子の横を通り過ぎた時だった。
その子が声をかけてきたのだ。

「あのー、迷子なんですけど」
「えっ、だれが?」
「わたしでーす。おかあさんと金魚見ていたらはぐれてしまったんでーす」
迷子とは言うものの、別に泣いているわけでもなく、焦った顔もしていない。
妙にあっけらかんとしているのだ。
「そう、迷子になったんね。じゃあ、こっちにお出で」
ぼくはそう言って、サービスカウンターに連れていった。
その子は、ぼくの後ろを滑りながらついてきたのだが、何かその状況を楽しんでいるようにも思えた。

サービスカウンターに着き、さっそくぼくは女の子に質問した。
「お名前は?」
「○○でーす」
「歳は?」
「8歳でーす」
「住所は?」
「×町でーす」
ぼくはそういったことをメモに書いたあと、「迷子です。お願いします」と言って、メモを係に渡した。
係の人は「えっ、迷子?」と言いながらその子を見た。
ぼくが「大きな迷子やろ」と言うと、係の人は笑いながら「うん、ホント大きな迷子やね」と言った。
係の人はさすがに「迷子」と言うのに気が引けたのか、店内放送では「×町からお越しの○○さんのお母さま、お連れさまが当店サービスカウンターでお待ちでございます」と言ったのだった。

さて、店内放送はしたものの、お母さんはしばらく来なかった。
その間、その大きな迷子は不安がっていたのかというとそうではなく、お母さんが来ないことを全然気にしていないようで、あっけらかんとした顔をして、カウンター周りをローラーシューズで滑っていた。

それからしばらくして母親がやってきた。
大きな迷子は別に喜んだふうでもなく、ヘラヘラ笑いながら、母親の後ろを滑って帰って行った。

何と言ったらいいのか…。



2005年05月06日(金) Shall we ダンス?

日記を書き始めるのはだいたい午後10時半からだ。
ところが、今日は実家で『Shall we ダンス?』を見て、それからしばらくして家に帰ったので、書き始めるのが大幅に遅れてしまった。

さて、その『Shall we ダンス?』だが、今日で見るのは2回目である。
といっても前回見た時は途中からだったので、正確には1回半ということになる。
その前回見た時に、「次にやる時はぜひビデオに収めたい」と思っていた。
ところが、今日やることを知っていたのに、なぜか録画予約するのを忘れてしまっていた。
家にいれば、その場で録画も出来ただろうが、運悪く、今夜ぼくは実家に行っていたのだ。
もちろん実家にもビデオはあるが、その時間は母が他の番組を録画していた。
今回は全部見たかったので、しかたなく今日は実家で見ることにしたわけだ。

前回見た時もそうだったが、この映画を見ると20代後半に嫁ブーと通っていたダンスホールのことを思い出す。
ダンスホールに通っていたと言っても、そこで踊っていたわけではない。
そこで演奏していたバンドの人が、当時ぼくが担当していた楽器売場でPA機器を買ったのだ。
それからバンドの人たちと仲良くなり、メンテ目的で、足繁くダンスホールに通うようになったわけである。

まあ、メンテ目的とはいえ、まったく踊らなかったわけではない。
ある時、バンドのリーダーが「しんちゃん、いつも来てくれるけど、ただメンテだけじゃ面白くないやろ。たまには踊ったらどうね」と言った。
前にも話したことがあるが、ぼくは踊りという踊り全てだめである。
東京にいた頃に、よく友人たちとディスコに通ったが、飲むばかりで、まったく踊らなかった。
その時、友人が「しんたも踊ろうよ」と誘ったが、ぼくは「男はそんなチャラチャラしたことはせん」と言って断ったものだった。
ダンスホールに通っていた時も、その考え方は健在だった。

しかし、あまりにしつこく言われるので、とうとうぼくも折れ「一度だけなら」という条件付で踊ることになった。
ところが、ここの踊りというのは、ディスコのように一人で踊るものではなかった。
社交ダンス有り、ラテン有りなのだ。
嫁ブーと二人でホールに立ってみたものの、ただすることもなくボーッと立っていた。
それを見かねたバンドの人が、「ちょっと先生つけてやるけ」と言って、一人のおばちゃんを連れてきた。

おばちゃん先生は、ぼくたちに「あんたたち、踊ったことないと?」と聞いた。
「まったくありません」とぼくが言うと、「困ったねえ。じゃあ、簡単なジルバを教えてやるけ、それを踊ったらいい」と先生は言った。
ということで、急遽レッスンが始まったわけだが、全然ステップが飲み込めない。
興味があれば何とかなったのだろうが、それがないぼくは何度やってもだめだった。
一方の嫁ブーは、興味を示したようで、ある程度のステップをマスターしたようだった。
そこで嫁ブーは、ぼくから離れ、他の男の人と踊り出した。

ぼくはというと、相変わらずおばちゃん先生といっしょだった。
そのうち曲が変わり、チークタイムとなった。
おばちゃん先生は、「これぐらいは踊れるやろ?」と言って、ぼくをチークに誘った。
そしてその曲が終わるまで、ぼくはおばちゃん先生と抱き合うことになったのだ。
「何が楽しくて、このおばちゃんと抱き合わないけないんだ」
それを思うと悲しくなったものだ。

『Shall we ダンス?』を見て感動し、ダンスを始めた人が多いと聞く。
ぼくも『Shall we ダンス?』を見て感動した口である。
であるが、ダンスを始めようとは思わない。



2005年05月05日(木) 暇地獄

【1】
ゴールデンウィークのような大型連休になると、人はどうしても広域集客型のデパートや、大型量販店に集まる傾向にある。
そのため、ぼくが勤めている会社ような、地域密着型の店舗というのは、どんな大きなイベントをやろうともなかなか人は集まってこない。
どうかすると、平日よりも客の入りが悪いことさえある。
それに加えて、日祭日はどこの取引先も休みだから、荷もあまり入ってこない。
しかもゴールデンウィークのための準備は出来ている。
ということで、この時期はあまりやることがない。

そのくせ日祭日なので従業員は多く出勤してきている。
そのため、ちょっと時間を食いそうな仕事でもすぐに終わってしまう。
そうなると当然暇な時間が出来てくる。
まあ、パートさんはほとんどが4時間勤務なので、あまり暇な時間というのはないだろうが、長時間拘束されているぼくたち社員は、所々に暇が出来る。

そこで、どうやってその暇な時間を潰すかが問題になってくる。
忙しい時間というのはさっさと過ぎ去っていく。
ところが、暇な時間はなかなか過ぎないものである。
暇なら暇でよさそうなものであるが、これが苦痛なのだ。
地獄にいるように感じられることすらある。
ということで、暇という地獄に耐え、乗り切るることも、我々社員に課せられた仕事の一つだと言える。

【2】
今日は昼から暇になり、さて何をしようかと思っているところで、オリックスvsソフトバンクの中継が始まった。
ということで、今日の暇地獄はその観戦で乗り切ることにした。

さて、わがホークスは、前節のロッテで3連敗を喫したものの、一昨日からオリックスに連勝している。
今日もいいペースで試合は進んでいた。
相変わらずお客さんが少ないので、テレビはぼくが独占していた。
ところが、ホークスが点を入れ始めた頃、二人の婆さんがカートを押してやってきた。
どちらも70歳を過ぎているように見えた。
何か商品を探しているのだろうと見ていると、婆さんたちはテレビがあることに気づき、、ぼくの目の前を行ったり来たりしだした。
時折そこで立ち止まり、二人で会話をしている。
その会話というのが、婆さんに似つかわしくない内容なのだ。
「このテレビは映りがいいけど、ブラウン管か。今は液晶の時代のにねえ」だとか、「DVDの時代だからもうビデオは流行らん」などと言っているのだ。
他にも話の途中にITだのインターネットという言葉が出てきた。

しばらくそのへんをウロウロしていたが、その後再びテレビのところにやってきた。
「今日はテレビで野球をやっとるんやねえ」
「ああ、よかった。ソフトバンクは勝っとる」
「6-0か。今日も勝つやろうね」
「そういや、今どこかのチームがずっと勝っとるらしいね」
「ロッテやろ」
「そうそう、ロッテ、ロッテ」
「何であそこは負けんのかねえ?」
「ホント胸くそ悪いねえ」
「もうロッテの商品は買うまいや」
さすが、地域密着型チームである。
こんな野球に縁のなさそうな婆さんたちまで応援しているのだ。

しかし、「もうロッテの商品は買うまいや」には笑ってしまった。
もし、他のチームの調子が良かったら、婆さんたちはどうするのだろうか。
きっと日ハムなら「もう、ハム食べまいや」となり、西武なら「モールに行くのはやめようや」となるだろう。
それならオリックスや楽天の場合、どうなるのだろうか?
「もうオリックスで金借りまいや」とか「楽天で物は買えんなあ」となるのだろうか?



2005年05月04日(水) 5月の詩

 『五月晴れ』
 想い出がよぎれば歌がよぎる
 想い出が募れば大きな目が潤む
 だけどぼくには大した想い出もなく
 大きな口をぽっかり開けている

 大きな口をぽっかり開ければ
 大きな空がぼくを見つめる
 まぶしいくらいの爽やかな風が
 生まれたばかりの柿の葉を揺らす

  五月晴れ、今日はお休み
  ぼくにとってつけのいい陽気
  たまにはぼくも日干しにされて
  夏も間近の風を受ける

 君がいれば心も揺れる
 だけどそこまで暑くもないし
 そこまで続く風でもないよ
 五月晴れ、今日はぼくも…

この詩は1979年のちょうど今時期に書いたものである。
1979年ということは、ぼくが東京にいた頃だ。

今、5月を題材にした自作詩を探している。
気分転換の意味で、久しぶりに歌作りでもしようかと思っているのだが、曲はともかく、肝心の詩が書けないのだ。
そこで、かつて書いた詩で季節感のあるもの、ということで5月を題材にした詩に目を向けたわけだ。

そういうわけで、数日前から高校1年以降に書いたノート全部を調べている。
ところが、5月を題材にした詩どころか、5月に書いた詩もあまりないのだ。
東京以前に書いた詩に『夢の架け橋』というのがあるのだが、それは5月に書いた詩である。
しかし、
「夢の架け橋を ひとり渡ろう
 風もなく 波もなく
 ただ静かな 闇の上を

 通り過ぎる日よ 音もなく続く
 かもし出す 街の灯は
 影も写さず

  ああ、なぜに人はいぬ
  声を上げ 振り返る日々
  時は過ぎ 愛は朽ち
  切ない夜よ

 夢の架け橋は まだ遠く長く
 歌もなく 星もなく
 冷たい日々よ

  遠く浮く 船の帆影よ
  映し出す 淡い月明かり
  呼ぶ声は 闇に行き
  汽笛の声に 打ち消され

 夢の架け橋を ひとり渡ろう
 風もない 波もない
 冷たい日々よ」
というふうに、この詩には季節感がない。

他には、
「夜も濃くなる街 寂しさだけの遠吠え
 雨もやんだばかり もう傘をたたんで
 通り過ぎていく車 照らしていくネオン
 いっしょに歩こう たった二人だけで

 雲のすきまの星 かすかに影を写し
 夢のようなランデブー 公園のベンチは濡れ
 何もかも忘れ すべては一つ
 いっしょに歩こう たった二人だけで

 時の間に水は落ち 気がつくと空に星
 水たまりに目を落とし まぶしさに目を閉じる
 もうすぐ夜は明ける 小鳥たちはうたう
 いっしょに歩こう たった二人だけで」
という詩(いっしょに歩こう)があるが、これは恋愛詩である。

ということで、ようやく出てきたのが、冒頭の詩でだったわけである。
まだ調べてないノートが数冊残っているが、5月を題材にした詩というのは、きっとこれだけしかないだろう。

こうやってみると、5月というのはあまり創作活動には適してない季節のようである。
とはいえ、ぼくの四柱推命などで見てみると、5月と7月は創作活動に最適な月なのだ。
7月は「これは!」というのがいくつもあるのだが、5月はどうしてなのだろう?
気分転換は7月まで待つしかないのかなあ…。



2005年05月03日(火) 続・自分を騙す

マンガを読んでいたら、もう午前1時を過ぎている。
実は、今日の日記が、いまだ手つかずの状態なのだ。
切りのいいところでやめようと思っていたのだが、なかなか切りのいいところが見つからない。
風呂に入って読む。食事をしながら読む。トイレに入って読む。
で、とうとうこの時間になってしまったのだ。

で、いったい何のマンガを読んでいたのかというと、小林まことの『柔道部物語』である。
昨日の日記に『自分を騙す』ことを書いたが、そのことを書いている途中に、「確か『柔道部物語』に、似たようなことが書いていた」と思い出したのだ。
後ろにある書棚に手を伸ばして『柔道部物語』の1巻を取り、それから読み始めたわけである。
そのせいで、昨日の日記の更新もかなり遅くなってしまった。
更新したのは、何と午後4時過ぎである。
まあ、今日は休みだったからそれでもよかった。
だが、明日は仕事だから、今日みたいなわけにはいかない。
翌朝までに書いてしまわないと、更新は明日の午後9時以降になってしまう。

さて、その『柔道部物語』に、
「試合に勝つためには体力や技術も大切だが、それ以上に気力がものをいう。その気力とは自信である。ではその自信をつけるためにはどうしたらいいか?一番手っ取り早いのは、『てめえで勝手に思いこむことだ』」といったこと書いてある。
『てめえで勝手に思い込むこと』、すなわち『自分を騙す』ことである。
柔道部物語では、先生がその説明をしたあと、生徒たちに「俺って天才だあぁぁ」とか「俺ってストロングだぜー」などと大声で言わせているが、これはぼくが寝る前に「健康、健康」と自分に呼びかけたり、「全快、全快」と呼びかけたりするのと同じである。

そういえば、ぼくはこのマンガを初めて見た時、「俺って天才だあぁぁ」をやったことがある。
が、天才の対象が曖昧だったために、効果はまったくなかった。
今やっても「俺って天才だあぁぁ」では効果はないだろうから、もしやるとするなら、「明日は速攻で日記を書くぜー」くらいにとどめておくことにする。

ここまで書いて、かつて『自分を騙す』ことを詩に書いたことがあったのを思い出した。
ということで、今日の日記は、その詩を書いてお終いにいたします。
お休みなさい。

 『良くなっていく』
 ぼくの中でぼくが変わっていく。
 これからぼくは良くなっていくだろう。
 今までとは違った幸運が、
 ぼくに巡ってくるだろう。
 もうぼくに悩みはない。
 すべてを強い心で変えていくんだ。
 悩みはいつか、克服する喜びとなるだろう。
 運命はぼくにほほえむだろう。
 すべてが順調に行くだろう。
 もう不運という言葉はぼくにはない。
 あるのは限りない可能性と、
 夢に満ちた現実的な希望と、
 それに伴う期待と、
 それを支える強い心と、
 信念と、行動と、
 努力と、成功だけだ。
 ぼくの中でぼくが変わっていく。
 徐々に徐々に良くなっていく。



2005年05月02日(月) 自分を騙す

昨夜、寝る前に鏡を見てみると、目の下に隈ができていた。
そういえば、ここ数日午前3時以降に寝ることが多い。
普段なら、休みの日に埋め合わせをする。
つまり、寝だめをするのだ。
ところが最近、休みといえばいつも晴れている。
そのため、寝ていると何かもったいないような気がして、なかなか寝ることをしない。
かといって何をやっているわけでもない。
気がついたら夜が来ていて、「ああ、こんなことなら寝だめしておくんだった」と後悔する。
そのせいで疲れはどんどんたまっていく。
たまりたまった結果が、この隈になったのだろう。

とはいうものの、別に隈ができても気にはならない。
ぼくは身なりをかまわない人間なので、何かあっても「ま、生きてりゃいいや」と思ってしまい、すぐに関心は別のほうへと向かっていく。
しかし、客商売という仕事の性格上、この隈はいただけない。
不健康そうな顔をお客の前に晒すことは、タブなーなのである。
そこで、布団の中で「健康、健康」と呼びかけて寝ることにした。
それが効いたのかどうかはわからないが、朝起きてみると、目の下の隈は消えていた。

ぼくはこうやって、布団の中で暗示をかけながら寝ることが多い。
頭や腹が痛かった時などには、その痛い部分に「全快、全快」とか「完治、完治」などと呼びかけるのだ。
すると、朝起きた時には、ほとんどの痛みは消えている。
こうやって自分に呼びかけることを『自己暗示』と言うのだろうが、ぼくはそう呼ばない。
何と言うかというと、『自分を騙す』である。
どこかの国には「嘘も百回言えば本当になる」ということわざがあるらしいが、自分に対し「調子がいいんだ」と嘘を吹き込み続けることで、だんだん体は騙されてしまい、そのうち本当に調子が良くなってくるものである。

しかし、こういう技を発見したのも、病院に行きたくないがためである。
そのおかげで、そういう痛みで病院に行ったことはほとんどない。
しかし、歯痛には通用しなかった。
その証拠に、現在歯医者に通っている。

さて、『自分を騙す』という重宝な技を、自分の体のためだけに利用するのももったいない。
ということで以前、「この『自分を騙す』ことを他に応用できないものだろうか」と思い、実験をやったことがある。
東京にいた時だが、財政が底をつきかけたことがある。
その時に「自分は金持ちだ」とやってみたのだ。
しかし、金持ちになるどころか、わずかに残っていた持ち金もスリに盗られてしまったのだった。
こういう経験があるので、自分の体調以外のことで『自分を騙す』ことはしないようにしている。



2005年05月01日(日) 赤い空

左の写真を見てほしい。
民家の上の空が赤いのがわかるだろうか?
この写真は今夜10時過ぎに、ぼくの実家付近から南の空を撮ったものである。
今日嫁ブーは休みで、昼から自分の実家に帰っていた。
ということで、ぼくは仕事帰りに嫁ブーを迎えに行った。
そこで晩飯を食べてから家に帰ったのだが、その帰りにちょっと用を思い出し、ぼくの実家に寄った。
その時この空に遭遇し、さっそくカメラに納めたわけだ。

この空を見たとたん、嫁ブーは「何か不気味な空やねえ」と言った。
「ああ、確かに午後10時の空じゃないのう。妙に明るい」
「うん、夕暮れ時の空やねえ」
「ほら、前に『時間ですよ昭和元年』で、関東大震災の時、赤い空やったと言いよったやん」
「あっ、そうやったねえ。もしかして、こういう空やったんやろうか?」
「おう、テレビではこんな空やったのう」
「何か不吉なことが起きるんじゃないと?」
「何とも言えんけど…」
「また地震とかあったら嫌やねえ」
「そういえば、ここ2,3日変な風が吹いているし…」
「そうそう、この間の地震の時も、変な風が吹いてたよ」
「1週間前には、地震雲が出ていたと言うし…」
「うん…」

不安になったぼくたちは、実家での用事を早めにすませ、慌てて家に帰った。
帰る時も、南の空は赤いままだった。
家に着いて、ぼくたちは、さっそくバルコニーの鍵を開けた。
ここは6階だから、赤い空の原因がわかるかもしれないと思ったわけである。
バルコニーに出たぼくたちは、その赤い空の出ている方向を見てみた。
「!」
ぼくたちは顔を見合わせた。
パチンコ屋のネオンが空に映っていたのだった。

3月に地震が起こって以来、どうも疑心暗鬼を抱いてしまったようだ。
ちょっとした物音でさえ、「地震じゃないか?」と思ってしまう。
立っている時、足下に「ズン!」と震動が来るような気がする。
ガタガタ道を運転している時にも、「これは地震のせいじゃないのか?」と思っている。
と、いう具合である。
いったいこの疑心暗鬼はいつまで続くのだろうか?
地震には、「これで終わり」という着地点がない。
それゆえ、一生続くような気がする。
ともあれ、今日はパチンコ屋のネオンで安心した。

【追記】
ところがである。
この日記を書いている時(翌午前1時24分)に、本当に地震が起こってしまったのだ。
震源地は相変わらず福岡市で、そちらの震度は4、ぼくの住んでいる地域は震度3だった。
もしかして、『赤い空』神話は本当だったのだろうか?
もしそうなら、パチンコ屋はネオンをつけないでほしい。


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