2005年04月30日(土) |
ヒロミちゃん(同窓会編) |
日記にも書いたとおり昨日29日は、ぼくは休みだった。 で、嫁ブーはというと、仕事だった。 こういうパターンの日は、嫁ブーを会社まで送って行くことになっている。 そのため、せっかくの休みなのにゆっくり寝ることが出来ない。 いつもと同じ時間に起き、いつもと同じ時刻に家を出る。
出がけのことだった。 嫁ブーは普段より多くの荷物を持っている。 「何か、その荷物は?」とぼくが聞くと、「言うとったやん、今日は飲み会」と嫁ブーが言った。 「それは知っとる。その荷物のことを聞きよるんたい」 「ああ、荷物ね。飲み会の時に着て行く服と靴。会社から飲み会に直行するけ」 「制服のままでいいやないか」 「いやよ」
前々から嫁ブーは、夜高校の同級生たちと飲み会をすると言っていた。 総勢6名で集まるらしく、その中にはあのヒロミ(昨年9月の日記参照)がいるということだった。 嫁ブーの会社に向かう車の中でも、そのヒロミの話題が出た。 ぼくが「飲み会の間、またヒロミからメールが来るやろうのう」と言うと、嫁ブーは「ヒロミのことやけ、たぶんそうするやろうね」と言った。
ヒロミからのメールが届いたのは、午後8時過ぎだった。 それから、ぼくとヒロミのメールのやりとりが始まった。
20:11)ヒロミ「ボリ(嫁ブーのニックネーム)到着」写真付。 20:13)しんた「適当にあしらっとって」 20:15)ヒロミ「(嫁ブーは)かなり食べるのが早い」 20:17)しんた「うちでもそうやの」 20:17)ヒロミ「わかる」 20:19)しんた「ちゃんと靴下をはきかえて行っとるかのう?」 20:20)ヒロミ「今は臭くないらしいけど。たまらんよ」 20:24)しんた「足の蒸れそうな靴を持って行きよったけのう。気をつけとけよ」 20:24)ヒロミ「なんかスプレーまきよる」 20:26)しんた「いつものことやのう」 20:27)ヒロミ「何か食べた?貴黄卵、ボリが買ってくれるって」 20:29)しんた「今から食べる」
20:46)ヒロミ「ふとしの手品が始まった」 20:47)しんた「ふとしちゃ誰か?」 20:51)ヒロミ「店のオーナー。あとでムービー送るね」 21:01)ヒロミより『ふとし』のムービーが送られてくるが、何をやっている映像なのかわからない。 21:02)しんた「わからん」
21:08)ヒロミ「S田(メンバーの一人)が、しんたさんのサイト、毎日みたいらしいから、サイト(URL)教えて」 21:11)しんた「パソコンと携帯、どっちがいいんか?」 21:13)ヒロミ「携帯」 21:17)しんた、URL送る。
22:38)ヒロミよりカラオケボックス内のムービーが送ってくる。嫁ブーが歌っている。 22:40)しんた「アホ顔やのう」 23:02)ヒロミ「また歌った」ムービー付、嫁ブー熱唱中。 23:04)ヒロミより嫁ブーとの2ショットの写真が送られてくる。 23:10)しんた、以前撮っていた嫁ブーの足の写真を送る。
25:06)ヒロミ「ボリ、もうすぐつきます。お疲れさま」 25:08)しんた「了解。あ、今着いた」 25:14)ヒロミ「(無事着いて)安心しました。私はお風呂です。ボリも入るように強く言ってね!寝そうやけ。貴黄卵のお金あずけました」 25:16)しんた「ボリは朝入るみたい」 25:17)ヒロミ「汚いけ、入らせんと」 25:18)しんた「足だけは洗うみたいぞ」 25:20)ヒロミ「よかった。臭いけね」 25:22)しんた「なにせ、蒸れ靴やけのう」 25:24)ヒロミ「今日は臭わんかったけど。タバコ吸う人が多かったけ、わからんだけやね。私はこれから寝るね。ボリちゃん、また逢おうね」
以上、カッコ内はしんた補足。
足の写真の反応がなかったので、嫁ブーが帰ってから聞いてみた。 「突然みんなが『これ、誰の足?』とか言うけ、何やろうかと思って見てみたら、私の足やん。ヒロミがみんなに転送したんよ」 ということで、けっこうウケていたらしい。
さて、そういうヒロミとぼくのやりとりを見ていたメンバーの一人が、嫁ブーに「ボリ、旦那が他の女性とメールしていて気にならんと?」と聞いたらしい。 嫁ブーが「別に気にならんよ」と答えると、ヒロミは「そうよ。私としんたさんの仲やけねえ」と言ったという。 ぼくはヒロミのメル友になっているらしい。
【2】 うちの店は自動ドアから出入りするようになっている。 だが、売出しの開店前ともなると、けっこうお客さんが並ぶので、開いたり閉まったりする自動ドアに並ばせるのは危険である。 そこで、開店前には売場の手前にロープを張り、そこまでお客さんを入れ、開店まで待ってもらうことにしている。 ほとんどのお客さんは、そのロープの前で大人しく待ってくれている。 だが、中にはロープをくぐって店内に入る人もいる。 もちろん大人ではない。 そう、子供である。 子供にはそういう決まり事は通用しないのだ。 親がいるからだろうが、したい放題やってくれるのだ。 先に書いたように、ロープの下をくぐって店内に入る子もいれば、ロープを揺さぶって遊ぶ子もいる。 そういう子の親が何をしているのかと言えば、他のお客さんと話をしたり、チラシを目で追っていたりして、子供のやっていることにはほとんど無関心なのだ。 それでも、周りの目が気になるのか、時々「○ちゃん、やめなさい」と形だけの注意をしている。 しかし、子供は言うことを聞かない。
実は昨日、そのことでぼくは切れたのだった。 開店間際、ロープを外すために、ぼくはロープの張っているところに立っていた。 すると、子供がロープを揺さぶりだした。 最初は軽く揺さぶっていたが、だんだんエスカレートしてきた。 そのロープをとめていた簡易性の柱がグラグラしだしたのだ。 それまで知らん顔をしていた親は、それを見てようやく注意をした。 「○ちゃん、お店の人に叱られるからやめなさい」 子供はそれでも言うことを聞かない。 一度は離した手を再びロープにかけ揺さぶりだした。 そのせいで、ついにロープが外れたのだ。 「あーあ、○ちゃん。だから言ったでしょ。お店の人に叱られるよ!」
ぼくは別に子供を叱りたいとは思わない。 叱りたいのはその親のほうである。 口で言うだけで、ロープをつかんだままになっていたわが子の手を退けようとはしない。 ここでぼくの堪忍袋の緒が切れた。 「お店の人に叱られる?じゃあ、お言葉に甘えて叱ってあげましょう」ということで、子供に向かって大きな声で「こんなことをしたら他の人に迷惑がかかるやろ。手を離しなさい!」と言った。 子供はその声に一瞬ビクッとした。 しかし、ロープは握ったままだった。 そこでぼくは、「離しなさいと言いよるやろ!」と言って子供の手をつかみ、ロープから外した。
その間親は何をするでもなく、成り行きを見ているだけだった。 自分が叱られているような気がしたのか、わが子が叱られているのを見て忍びなかったのか、それともわが子を叱るぼくに怒りを覚えたのかは知らない。 そのあと親は、ぼくに対して謝るでもなく、文句を言うでもなかった。 何か言ってくれば、お店の人として叱ってやったのに残念である。
【1】 今日から売出しが始まった。 ゴールデンウィークということで、チラシの大きさは普段の倍ある。 そこに載っている商品も、普段よりいくらか安い価格になっている。 そして、そういうチラシにつられて、普段より多くのお客さんが集まってくる。
お客さんは、大きく分けると2種類のパターンがある。 日課としてやって来るお客さんと、チラシ商品目当てのお客さんだ。 日課としてやってくるお客さんというのは、コンビニ的にうちの店を利用しているお客さんで、石鹸やシャンプーといった生活用品やペットの餌を買い求める人が多い。 そういう人の中には、毎日来ているせいかどうかは知らないが、チラシには無頓着な人もいる。 そういう人は決まって「今日はえらく人が多いね」などと言う。 こちらが「今日はチラシが入ってますからね」と言うと、「ああ、どうりで。で、何が安いんね?」と聞いてくる。 いちおうこれとこれが安いと説明するのだが、そういう人は買う物はいつも同じだから、それらの商品を買うようなことはしない。
さて、もう一方のチラシ商品目当てのお客さんだが、このお客さんの中にも2種類のパターンがある。 朝早く来るお客さんと、それより少し遅れて昼頃やって来るお客さんである。 朝早くから来ているお客さんというのは、だいたい日替り商品が目的となっている。 つまり、『ティッシュペーパー5箱組198円(税込)』なんかを狙ってやって来るのだ。 そのため、目玉商品があった時には、かなりの行列が出来る。 客層はというと、圧倒的にお年寄りが多い。 まあ、手に持って帰ることが出来る商品を、日替りにしているからだろうが、それにしても多い。 しかし、それでいい面もあるのだ。 それは、お年寄りだから、開店時に走って店内になだれ込むということがないことだ。 なだれ込むことがないということは、転倒事故などが起きないということである。
昼頃やって来るお客さんというのは、そういう日替り商品が目的ではなく、それ以外のチラシ掲載商品が目的になっている。 なぜ昼頃来るのかといえば、日替りの喧噪を避けているからだ。 日替りでないゆえに、台数が限定になることはあまりない。 そのため、日替り目当てのお客さんのように焦って来なくても間に合うのだ。 この手のお客さんの特徴は、家族連れで来る人が多いということだ。 こういうお客さんは、日替りのお客さんと比べると、比較的単価の高い商品を買う人たちである。 きっとお客さんの中で、「高い物を買う」という意識が働いているのだろう。
ということで、お客さんもいろいろである。 日替り目的で朝早くやってくる来るお客さんもいれば、閉店間際にやって来ていつまでも店内を見て回っているお客さんもいる。 感じのいいお客さんもいれば、悪いお客さんもいる。 何かひとこと文句を言わないと気がすまないお客さんもいる。 車を駐めるために利用しているお客さんもいる。 中には、おならだけして帰るお客さんもいる。 こういう人たちのおかげで、ぼくたちの生活は成り立っているわけだ。
【ゴールデンウィークの過ごし方】 明後日からゴールデンウィークだ。 その期間中の休みはというと、祝祭日に関係なく、いつもと同様に火曜と金曜である。 明後日29日と翌月3日がその曜日に当たる。 久しぶりに祝日と重なるわけだ。 が、別に嬉しいわけではない。 祝日に休んでも何もいいことはないからだ。 どこに行っても車は渋滞するし、近くのデパートやスーパーに行っても人ばかりなのだ。 かといって、そんな日に家でゴロゴロしているのももったいない気がする。 結局休みが終わって思うのは、「こんなはずじゃなかった」である。 ということで、今年は歩いて近くの本屋にでも行こうと思っている。
【井口の満塁ホームラン】 ゴールデンウィークといえば、いつも97年5月3日を思い出す。 この日、ぼくと嫁ブーは甥と姪を連れて、福岡ドームにダイエーvs近鉄の試合を見に行った。
試合開始は午後1時だった。 少し遅れて福岡入りしたぼくたちは、福岡ドーム周辺で大渋滞に巻き込まれてしまった。 当初ドーム内の駐車場に駐めようとして、都市高速を降りてすぐにそちらに回ったのだが、そこが満車だった。 しかたなく幹線に入ったぼくたちを待ち受けていたのが、大渋滞だったわけだ。
車はなかなか進まない。 そこでノロノロ走っている途中に試合は始まってしまった。 ドーム周辺の駐車場を探したが、どこも満車。 しかたなく、甥や姪に「せっかく来たけど、この状態やけ、今日は諦めるか?」と聞いた。 当時まだ野球に興味がなかった彼らは「いいよ」と言った。 しかし、嫁ブーがそれを遮った。 「せっかく来たんやけ。途中からでもいいけ、見て帰ろうや」と言う。 かといって車を駐めるところがない。 どうしようかと迷ったあげく、近くのスーパーに駐めることにした。 わざとらしく、そこでパンを買って、ぼくたちはドームに急いだ。
ドームに着いた時、試合はすでに2回に入っていた。 その日のドームは満員だった。 そのため、遅れて入ったぼくたちに席はなかった。 「こんなことなら指定席買っとけばよかった」と思ったが、後の祭りだった。 結局ぼくたちに与えられた席は、内野席の最上階、つまり立ち見席だった。 それが渋滞でさんざん疲れた、ぼくをさらに疲れさせたのだった。
しかし、試合に来た甲斐はあった。 その日はその年のゴールデンルーキー井口(現ホワイトソックス)のデビュー戦だったのだが、その井口が華々しいデビューを飾ってくれた。 何と、プロ初試合満塁ホームランという、日本人初の快挙をやってのけたのだ。 その当時小学生だった姪も、今は高校生になった。 あの頃はまったく野球に興味のなかったのだが、今は熱烈なホークスファンになっている。 その姪の自慢は、「小学生の時に、井口がデビュー戦で満塁ホームランを打ったのを見た」ことだと言う。 そういう話を聞くと、やはりあの時連れて行ってやってよかったと思う。
21日の日記に書いたが、母のひざの調子があまり良くない。 先日から毎日、少し遠方の整骨院に行って治療を受けているのだが、「徐々に良くなっているような気がする」と言いながらも、痛みは治まってないらしく足を引きずって歩いている。 つまり、その整骨院では、「気がする」程度の効果しかないということだ。
このまま遠い距離を歩かせるのも、息子としては辛い。 そこで整形外科に連れて行くことを考えてみた。 ところが、どうも評判が良くない。 確かに痛みはなくなるそうだが、治療の結果そうなるのではないらしい。 痛み止めを注射して治めるのだという。 それなら、わざわざ整形外科に行かなくても、歯医者でもらった痛み止めを飲んでおけばすむ話である。 だいたい、注射に頼るような医者は、ヤブと相場が決まっている。 そういうところで、一生足が治らなかったらことである。
ということで、他の方法を考えてみた。 「やはり、あそこしかないか」 と考えたのが、整体院である。 整体なら、全身の骨のゆがみを矯正してくれるから、根本から治るだろう。 なぜ最初から整体のことを考えなかったのかというと、保険が効かないからである。 治療費がけっこう高くつくので、当然のように支払いがぼくに回ってくるのだ。 歯医者でけっこう治療費を払っているのに、さらに高い整体代である。 これはきつい。 そこで端から整体を度外視していたのだ。 しかし、痛みを長引かせるのも酷である。
そこで今日、今月頭に嫁ブーの治療をした整体院に連れて行くことにした。 家から一番近い整体院であるが、実はそこ、かなり有名な整体院なのだ。 北九州市内はもちろん、遠くは福岡市からも治療を受けに来るという。 なるほど嫁ブーが治療した時も、這うようにして歩いていたのが、1時間後には背中を伸ばして歩くことが出来たのだ。 腕のいい整体院でよくそんな話を聞くが、実際にそういうのを見たのは初めてだった。 ぼくにとって、それは奇跡と言ってもいい。 車の中で「あの奇跡で、母のひざ痛も何とかしてくれるだろう」と思っていた。
さて、その母の治療も、嫁ブーの時と同じく1時間ほどかかった。 今日は嫁ブーの時のように整体院内でマンガを読むことはせずに、いったん家に帰った。 そのため、母がどういう治療を受けたのかは知らない。 が、行きは痛いほうの足を外側から回すようにして引きずりながら歩いていたのが、帰りには普通に歩けるようになっていたのだ。 またしても、奇跡を見る思いだった。 まだ痛いらしいが、そこまで回復すれば、あとは時間の問題である。 母が帰る時に先生が言ったらしい。 「今日よりも明日のほうが楽になっているはずです」 何という心強い言葉だろうか。 注射専門の医者には、到底言えないだろう。
嫁ブーはそのコピーを広げながら、「ね、ここに『貴黄卵』と書いとるやろ」と誇らしげに言って、それをぼくに見せた。 なるほど、そこにはちゃんと『貴黄卵』と書いてあった。 しかし、次の瞬間、ぼくは黙り込んでしまった。 それを見た嫁ブーが「どうしたと?」と聞いた。 「ここに『貴黄卵』があるのはわかったけど、この道はどこから続いとるんか?」 「・・・」
ゼンリンの地図を見たことがある人ならおわかりだろうが、ゼンリンの地図は一軒一軒の家が細かく書かれているので、一つの地域が数ページに渡っているのだ。 そのため、全体図がわかりづらいという欠点がある。 それを解消するために、巻頭に全体の地図が書かれているのだが、嫁ブーはその地域の地図だけコピーしてきて、全体の地図をコピーしてきてなかったのだ。
「これじゃ、わからんやろ」 「いや、ちゃんと聞いてきたっちゃ。この道はねえ、メインの通りなんよ」 「そのメインの通りに行くためには、どう行ったらいいんか?」 「それは…」 「この上のページに、何か目印になるようなものがなかったか?」 「ああ、ダイエーがあった」 「ダイエー…、あんなところにあったかのう」 「あった! と思う」 「そういえば、前に鞍手に行った時、スーパーらしきものを見たのう」 「そうよ、そこよ」 相変わらず気楽な性格である。
ということで、先週の金曜日に、ぼくと母と嫁ブーの三人で、貴黄卵を買いに行った。 もちろん行き道が確定したわけではない。 いわゆる見切り発車というやつである。 ぼくは前に鞍手に行った時のコースを通り、例のスーパーの前まで来た。 「確かこのスーパーやったと思うけど、ダイエーやなくなっとる。メイン通りっちゃここか?」 ぼくがそう聞くと、嫁ブーは例の気楽な性格を発揮し、「うん」と適当な返事をした。 「間違えとったって、知らんぞ」 「ここっちゃ、間違いないっちゃ」 ぼくが疑ったのにはわけがある。 メイン通りにしてはえらく道が狭い。 車がやっと離合できるほどの幅しかないのだ。 そこで、「こんな道がメイン通りであるはずがない」と思ったわけだ。
しかし、今回は嫁ブーの気楽さが勝った。 そのメイン通りを2分ほど走ると、そこに『貴黄卵』ののぼりが立っていた。 「ね、間違ってなかったやろ」と、嫁ブーは誇らしげに言った。 それにしても、スーパーがあるところはちょっとした繁華街になっているのだが、少し車で走っただけなのに、周りは田園風景に変わっていた。 どこから牛や馬が出てきてもおかしくない雰囲気である。 しかも、養鶏場のニオイという演出まで加わっている。 これぞ日本の原風景である。 ぼくは、そこで「こういうところでご飯を食べたらおいしいだろうな」と思いながら、その『貴黄卵』を買ったのだった。
その晩、さっそく玉子を食べようと思い、酒は飲まずにご飯だけ食べることにした。 まず、『ごはんですよ』でご飯を一杯食べ、二杯目を少なめに装って、それに玉子をかけることにした。 ところが、いざ玉子をかける段階になって、あることに気がついた。 『キューちゃん』が切れていたのだ。 「おい、キューちゃんがないぞ!」 「あっ、切れとった?」 「おう」 「明日買っとくけ」 ということで、その日ぼくは「キューちゃん、キューちゃん」と言いながら、貴黄卵かけご飯を食べたのだった。
確か、ぼくが幼い頃は、まだ玉子は贅沢品だったような覚えがある。 そのせいかどうかは知らないが、茶碗一杯のご飯に玉子をかけてしまうと、その贅沢な風味が消えてしまい、もったいないような気がするのだ。 よく大盛りのご飯に玉子をかけて食べている人を見かけるが、ご飯に色が付いているだけで、味のほうは「玉子味がちょっとする」程度しかないように思える。 やはり玉子かけご飯は、玉子の中にご飯粒が浮かぶくらいでないと、本当のおいしさは出ないだろう。
さて、その玉子だが、最初はスーパーで売っているもので事足りていた。 ところが1ヶ月ほど前のこと。 母が知人からもらったという玉子を分けてもらったことがある。 それがおいしいのだ。 玉子をぼくほどは食べない嫁ブーも、この味には感動した様子だった。
「同じ玉子なのに、どこが違うのか?」 そんな疑問を抱いたぼくたち夫婦は、ある時母に尋ねてみた。 「これは貴黄卵という玉子で、栄養価が高いらしいよ」 「貴黄卵か。で、どこで売りよると?」 「買いに行くんね?」 「うん。おいしいもん」 「確か鞍手とか言いよったけどねえ」 「鞍手?」 「うん。そこで生産直売しよるらしいんよ」
「そうか、鞍手かあ…」 買いに行ってもいいと思っていたのだが、鞍手となると、ちょっと事情が変わってくる。 北九州市の隣で、近場は近場なのだが、ぼくは詳しく道を知らないのだ。 かつて鞍手にある長谷観音に行った時、道に迷ってしまって、何時間も山道を走っていたことがある。 その記憶が蘇る。
そこで、地図で場所を確認してから行くことにしようと思い、ネットでその『貴黄卵』というのを調べてみた。 そこには住所と電話番号が書かれていた。 が、肝心の地図がない。 こうなったら、直接地図で調べようと、Yahoo!の地図を見てみた。 しかし、Yahoo!の地図はゼンリンの住宅地図ではないのだ。 さすがに番地までは載っていなかった。
まあ、電話番号が書いてあるので、そこに電話すればわかるのだろうが、とにかく不慣れな土地であるがゆえに、「そこに○○美容室があるから、そこを右に曲がって…」などと説明されてもピンとこないのは目に見えている。 ぼくは半ば諦め気分で、「しかたない、今回は諦めるか」と嫁ブーに言った。 「ちょっと待って、鞍手やろ。確かうちの会社にゼンリンの地図があったよ」 「そうか」 「うん」 「じゃあ、コピー取ってきてくれ」 「いいよ」 ということで、翌日嫁ブーはゼンリンのコピーを持って帰ってきた。
つい3ヶ月くらい前までは、晩食といえば酒とつまみだけだった。 もちろんダイエットの意味もあったが、疲れのために体があまり量を受け付けなかったのだ。 ところが最近は、それに加えてご飯を1杯だけ食べるようになった。 おかず類は、今までどおり酒のつまみとして全部平らげてしまう。 そのため、ご飯のおかずは別に用意している。
その一つが『ごはんですよ』である。 東京にいた頃、ぼくは自炊していたのだが、それは最初の頃だけで、だんだん料理するのが面倒になってきて、インスタントラーメン以外は作らなくなった。 そんな中『ごはんですよ』は、ご飯を炊いた日に食べていた。 もちろんそういう日にはラーメンを作らない。 ラーメン以外は作らないのだから、当然他におかずはない。 そう、つまりご飯と『ごはんですよ』だけを食べていたのだ。 しかし、これだけで充分だった。 その頃の食事は質よりも量、つまり栄養よりも空腹を癒すために食べていたのだからだ。 ということで、その頃のぼくは、『ごはんですよ』とお茶だけでご飯を軽く三杯は食べていた。 まあ、酒さえ飲むことがなければ、今でもそのくらいは食べられるだろう。 だが、あえてそれはしない。 もちろん、太るからである。
もう一つが『きゅうりのキューちゃん』である。 1ヶ月ほど前に母が買っていたものをもらったのだ。 『キューちゃん』なんて小学校以来食べたこともなく、その存在すら忘れていたのだが、食べてみるとこれがおいしい。 こんなにおいしいものを、どうして今まで食べなかったのだろうと後悔したくらいだ。 『ごはんですよ』はご飯三杯だが、これだと五杯は食べられるだろう。 なぜなら、甘味がないからだ。
以上の二品を、ご飯一杯のおかずとして食べるわけである。 しかし、ぼくはこの二品を同時に食べることはしない。 ちゃんと食べる順番を決めているのだ。 まず最初に食べるのは『ごはんですよ』で、これは白ご飯に合うからだ。 これで茶碗の半分くらいのご飯を食べ、その次に『キューちゃん』を食べる。 なぜそうするかというと、『キューちゃん』をもっとおいしい食べる方法があるからだ。 もちろん『キューちゃん』も白ご飯には合う。 だが、玉子かけご飯といっしょに食べると、さらに合うのだ。
それなら最初からご飯に玉子をかけて『キューちゃん』を食べればいいじゃないか、と思う方もいるだろう。 が、ぼくはそれをしない。 なぜなら、ぼくには玉子かけご飯へのこだわりがあるからだ。 そのこだわりとは、玉子がジュクジュクしてないと嫌だということだ。
【1】 左の写真は、先日家の近くのスーパーで買った『こんぶ飴』のパッケージである。 昭和初期の画だろうか? こういう古くさい画を使って、「古くからあるお菓子ですよ」というのをアピールしているのだろう。 またその画がじいさんと子供であることから、「お年寄りから子供まで愛されているお菓子ですよ」と言いたいのだろう。 しかし、この画は不自然である。 じいさんのこの容貌からすると、確実に90歳は超えている。 当然その時代の年寄りだから、腰が曲がっていてもおかしくはない。 はたして、そういう人が子供を肩車するだろうか? うちのじいさんはすでに60代後半で、当時5,6歳のぼくを肩車することを拒んでいたくらいだ。 いくら自分の孫曾孫といえども、90歳を超えたじいさんがそういうことをやるだろうか。 もしやったら、腰を抜かしたり、骨粗鬆症の人なら骨を折ったりするのがオチだ。 家の人からも「おじいちゃん、やめて下さい」と言われるだろう。
【2】 肩車で思い出したが、北九州では肩車のことを『ビビンコ』という。 その語源が何かは知らないが、幼い頃からそう言い慣してきたので、今でもぼくは違和感なく使っている。
ところで、ぼくの勤める店は、社員の数よりもパート・アルバイトの数のほうが圧倒的に多い。 そのパートアルバイトの半分くらいが他県出身である。 ある日のことだった。 その他県出身のパートさんが、高いところにある商品を取ろうとして脚立を持ってきた。 ぼくはそれを見て「ビビンコしたら取れろうもん」と言った。 するとそのパートさんは「えっ、ビビンコって何?」と聞いた。 「えっ!?ビビンコはビビンコやろ」 「それって方言でしょ?」 「えっ、これ方言なん?」 「だって私の出身地じゃ使わないもん」 「えーっ、そうなん?」 「うん。で、ビビンコって何?」 パートさんにそう聞かれて、ぼくはその答がとっさに出てこなかった。 そこで「ほら、親が子供を肩に担ぐやないね」と説明すると、パートさんは「ああ、肩車のことやね」と言った。 そうだった、『肩車』と言うんだった。
しかし、ショックだった。 いや、別に『肩車』という言葉が出てこなかったことがショックだったわけではない。 『ビビンコ』が方言だとわかったことが、ショックだったのだ。 ぼくはそれまで、『ビビンコ』は標準語だとばかり思っていた。 人並み以上に本を読んできて、それなりに標準語や方言のことも知っているつもりだった。 ところが、それがいともたやすく否定されたのだ。 それも、『ビビンコ』というどうでもいいような言葉にである。 ショックを受けないはずがない。
時々そういうことがある。 かつてこの日記で『ギリギリ』という言葉を書いたら、掲示板に「ギリギリって何ですか?」と書かれたことがあった。 その時、ぼくは初めて『ギリギリ』が方言だということを知ったのだった。 では、標準語でいったい何というのか? その時は、それで困ったものだった。 それ以来、日記を書く時に標準語か方言か迷った時には、必ず辞書を引くようにしている。
【3】 右の写真は、うちのパートさんの姪っ子の写真である。 そして黄色い画は、その写真を見ながらぼくが描いたものである。 一つ一つのパーツを丁寧に描いたら、こんな顔になってしまった。 しかし、そう悪い画ではない。 中学1年の2学期に、美術の通信簿で1点を取ったぼくとしては、上出来なのだ。 ところが、それを見たパートさんは「全然似てないやん」と言う。 さらにその画を見たその子の母親からは「うちの子はこんな変な顔はしてない!」とさんざん文句を言われたのだ。 いったい、どこがおかしいんだろう? 中学1年の2学期に、美術の通信簿で1点を取ったぼくとしては、それがわからない。
【司馬仲達】 4月17日付の日記、司馬仲達の仲の字が間違っていたので、訂正しておきました。
ところで、昨日届いたメルマガに、先日上海で行なわれた反日デモは公安当局がやらせたと書いてあった。 ということは、中国政府がやらせたということか。 つまり、司馬仲達は中国政府だったわけだ。 しかし、こうも早くばれるとは…。 この仲達、あまり頭がよくないなあ。
【痛い家族】 ぼくは肩を痛めている。 肩を動かすと激痛が走る状態が、1年以上も続いている。 腰も痛い。 ギックリ腰の一歩手前という最悪の状態からは抜け出すことが出来たが、鈍い痛みはまだ続いている。 それに伴ってか、背中も痛い。 おそらく運動不足のせいで、背筋が弱くなっていて、背骨が安定してないのだろう。
嫁ブーは腰を痛めている。 今月頭にギックリ腰になった。 整体院に連れて行き、何とか痛みが軽減したらしい。 整体院に行く前は這うようにして歩いていたが、治療後は腰を伸ばして歩けるまでになった。 しかし、まだ万全ではないようだ。 どうも歩き方がおかしいのだ。 いや、嫁ブーは若い頃から歩き方がおかしかった。 それはぼくに原因があるらしい。 つき合っていた頃のこと、デート中にぼくはよく嫁ブーの足をわざと引っかけて歩いていた。 そのうち嫁ブーは警戒して歩くようになり、そのせいで歩き方がおかしくなった、と嫁ブーはのたまっている。 しかしぼくはそうは思わなかった。 『似合いもしないのに無理してハイヒールを履くからだ』と思っていたのだ。
母はひざを痛めている。 ぼくが「腰が痛い」と言い出した頃から、痛み出したようだ。 そのため、最初は季節の変わり目によく起こる関節痛だと思っていた。 ところが、いつまで経ってもその痛みが治まらないという。 昨日は、その痛みがピークに達したらしい。 「歩けんようになった」と電話で弱音を吐いてはいたが、それでも歯医者には行ったようだ。 ぼくが帰ると、母はさっそくその脚をぼくに見せた。 「ほら、腫れとるやろ?」 確かに腫れている。 が、ぼくは『腫れは痛みから来たものじゃない』と思っていた。 なぜなら、母の脚は痛くない方も腫れているからだ。 つまり、脚デブということである。
ということで、今ぼくの家族は全員痛み持ちだ。 そういう家族が、今心待ちにしていることがある。 それは、家の近く(ぼくの家から歩いて3分、実家からだと5分の場所)に近々開業する整骨院である。 おそらくオープンの日には、家族3人、雁首を揃えて整骨院に行くことだろう。
2005年04月20日(水) |
今朝、最強の余震があった |
【1】 ノー天気な夢から覚めたのは、おそらく朝の6時10分だったと思う。 隣の布団の上では、嫁ブーが同じように目を覚ましたところだったようだ。 それを見て、「こいつが寝とるんなら、まだ寝とっていいわい」と思い、もう一度目を閉じた。 と、その時だった。 一ヶ月前のあの日が蘇ったのだ。 「ミシ」という音とともに家が揺れだした。 ガタガタガタガタ揺れだした。 「地震!」 ぼくは一瞬、その言葉を忘れていた。
【2】 ぼくは最初、揺れはすぐに止まるものと思っていた。 ところが、なかなか止まろうとしない。 止まりそうになると、また揺れ出すのだ。 止まったのは、その運動を何度か繰り返したあとだった。 前回と同じく、揺れた時間は30秒ほどだった。
【3】 揺れが止まってからすぐに、テレビのスイッチを入れた。 速報が出るまでに、どのくらい時間がかかるか調べたかったのだ。 画面の時刻は、『6:13』となっていた。 もちろん、揺れが止まった直後のその時間には、どのチャンネルも地震速報は流れていなかった。 ぼくが第一報を見たのは、それから2分後の6時15分だった。 だが、まだ震度など詳しいことは出ていなかった。
【4】 ぼくは目が覚めてから、まだ布団の中から出てはいなかった。 テレビも寝ころんだまま見ていたのだ。 速報までの時間を確認できたので、起きて家の中の状況を確認しようかと思った。 が、揺れている最中に「バタン」とか「ガタン」という音がしなかったので、とりあえずは大丈夫だろうと思い直し、もう一度寝ることにした。 その寝入りばな、もう一度揺れが来た。 しかし、その揺れはすぐに止まった。
【5】 しばらくうつらうつらしていたが、なかなか寝付かれず、布団を出た。 家の中を隈無く見て回ったが、特に被害はない。 前回の地震で被害にあったドラえもんも、今日は落ちずにちゃんとテレビの上にいた。 まずは一安心である。 テレビのニュースで、最初の地震の詳細を発表していた。 福岡市のお隣の春日市で震度5強を観測したらしい。
【6】 春日市といえば、嫁ブーの姉さんが最近引っ越したところである。 前の地震の時は、当時住んでいた福岡市内で震度5強に遭い、今日また震度5強に遭っている。 今年はよほどついていないのだろう。 さっそく嫁ブーが連絡を取っていたが、弁当が被害にあったらしい。 揺れでテーブルの上から落ちたということだった。 ま、被害はそれだけだったらしいが。
【7】 テレビで、都市高速は通常どおり通行できると言っていた。 「ということは、渋滞はないだろう」 そう思って、今日は普通どうりに家を出た。 ところが、幹線の途中で渋滞に捕まってしまった。 まあ、今日は売出し日でもないし、焦ることはないと思い、都市高に乗ることをせず、そのまま幹線を走ることにした。 結局、かなり渋滞していたにもかかわらず、何とか時間内に会社に着くことが出来た。 地震の影響による渋滞ではなく、自然渋滞だったのだろう。
【8】 車の中でラジオを聞いていたのだが、そこで「地震の予兆があった」というリスナーの声を紹介していた。 「数日前に地震雲が出ていた」とか「風の音が普段と違っていた」とかいうコメントが続き、そのあとに「近くの犬がやたら吠えてうるさかった」、「飼い猫がやたら鳴いて困った」というコメントがあった。 動物は天変地異を予知する能力を備えているらしいが、やたら吠えたり鳴いたりしたのは、犬や猫が地震を予知したからだろう。
【9】 会社に着いてから聞いた話だが、昨日はうちの店でクレームが相次いだらしい。 その内容はというと、商品のクレームなどではなく、どうもお客さんの虫の居所が悪かったために起きたクレームのようだった。 どのお客さんも、ささいなことで感情的になり、やたら大声で吠えていたというのだ。 ということは、そのお客さんたちも、無意識のうちに何か地震の予知のようなものを感じていたのではないのだろうか。 とすれば、そのお客さんたちは野生に回帰していたのだろう。 しかし、最近はお客さんに限らず、野生回帰している人が多いように感じる。
昨日の日記を書くために、十数年ぶりに論語を開いてみた。 今日は休みで暇だったため、昨日書棚から出したその論語をペラペラとめくっていた。 読んでくうちに、これも絡めればよかったと思う部分が何ヵ所かあった。 例えば、 子曰く「君子は和して同ぜず。小人は同して和せず(君子は協調はするが馴れ合わない。小人は馴れ合うが協調はしない)」や、 子曰く「君子は周して比せず。小人は比して周せず(君子は友好的であるが身勝手ではない。小人は身勝手だが友好的ではない)」などである。
また、「孔子は野蛮国と言われる周辺の国でさえも、ちゃんと君主をいただいて統一国家として成り立っているところがある。それに比べてわが国は何だ」と嘆いている。 これを読んで思うのは、孔子の生きた時代から現在まで、二千五百年ほどたっているが、中国人はその頃から何も進歩していないということだ。
さらに孔子は、おそらくその統一された国であっただろう東夷の国に船で渡り、そこに住んでみたいとも言っている。 これは日本のことだろうと言われている。 ということは、日本という国は、その当時から開けていたことになる。
惜しむらくは、そのことを記した史書が残ってないことだ。 一説によれば、ちゃんと史書は残されていたのだが、歴史上のある時期に焚書されたということだ。 それをやったのは、渡来系の人たちだったという。 その渡来系の人たちというのは、きっと日本が野蛮で文明の遅れた国でなければ都合の悪い国から渡って来たのだろう。 今も昔も、そういうをやる国というのは、だいたい決まっている。
また、論語のこの記述をもって、孔子日本人説を唱える人もいる。 元々日本で生まれた孔子は礼を教えに大陸に渡ったというのだ。 そしてこの言葉は、その後夢破れた孔子が、望郷の念に駆られて吐いたのだという。
しかし、孔子にとどまらず、イエスも釈迦も日本に関係ある人たちだと唱える古文書がある。 イエスと釈迦、どちらも空白の時代があるのだが、その間何をしていたのかというと、日本に来て修行していたのだという。 そして日本で悟りを開き、各々の国に戻って布教を始めた。 嘘みたいな話だが、日本国内にはちゃんとその記述を裏付ける証拠があるのだという。 その証拠というのは何かというと、墓である。 つまり、イエスや釈迦の墓が日本に存在するらしいのだ。
そのイエスについてであるが、古文書によれば、磔にされたのはイエスではなく、その弟イスキリだったという。 処刑を逃れたイエスは、この日本に渡ってきて、長寿を全うしたらしい。 そのイエスの墓は、青森県の戸来というところにあるらしい。 『かごめかごめ』という童歌があるが、あの歌を作ったのはイエスなのだという。
当然ながら、その古文書はいわゆる偽書にされている。 日本はどこかの国と違い、いくらそれがイエスのことといえども、偽書にしか載っていない夢物語を、歴史教科書に載せせるようなことはしないのだ。 これだけ見ても、日本が歴史を改ざんする国でないことはわかるだろう。
【1】 子曰く「何と嘆かわしいことだ」 子路問う「先生、いかがなされましたか?」 子曰く「私があれだけ口を酸っぱくして『仁者であれ』と言ってきたのに、この国の人間はそれを守らないばかりか、愚者にも劣る行為を繰り返している」 子路曰く「しかし先生、今回のことは日本側に非があるのです」 子曰く「由(子路)よ、君はどうしてそう思うのかね」 子路曰く「かつて先生は、『故きを温めて新しきを知る』とおっしゃいました。しかるに日本は、故きを温めることをせずに、新しいものばかりを追求しているではないですか。その結果日本は、故きを良しとするわが国に、新しい価値観ばかりを植えつけようとしているのです。今回の騒動は、そのことに対する警告である、と私は思っております」 子曰く「確かに私は、『故きを温めて新しきを知る』と言った。だが、現代のわが国は、故きばかりを温めて、新しいことに目が行ってないではないか。しかも、その言葉を身の上に置くことをせずに、他人に強要ばかりしている。それをゆすりたかりに利用するなんて、もってのほかだ」
【2】 子貢問う「今回のわが国のとった行動は、仁者のそれではないと申されるのですか?」 子曰く「そうだ」 子貢曰く「しかし、これはわが国の伝統ではないですか。道に外れてはいないと思われますが」 子曰く「私は『平気で嘘をつく』、『人が集まればすぐに暴徒化する』、『ゆすりやたかりを外交だと思っている』といった伝統的な国民性を嫌と言うほど知っている。だからこそこれまであえて苦言を呈し、『仁者であれ』と言ってきたのだ」 子貢問う「では、仁者はこういう場合、どういう行動をとるものなのですか?」 子曰く「仁者はこういう場合、まず自分がそうされた時、どう思うかを考えるものだ。そして、それがおのれの欲せざるところであれば、人に施すようなことはしない。つまり『恕』の精神でいくということだな」
【3】 ある日孔子は冉有と街に出た。 子曰く「すごく賑やかだなあ」 冉有曰く「そうですね。いったいどのくらいの人が住んでいるのだろう。ところで先生、これだけの人でにぎわう街ですが、この街に必要なものは何でしょうか?」 子曰く「まずここに住む人たちの生活の向上だね」 冉有曰く「もう充分生活の向上は出来ていると思いますが」 子曰く「いやいや、それは違う。わが国民は外国に密航して、そこで悪事を働き、世界中からひんしゅくを買っていると聞いている。生活が向上すればそういうこともなくなるではないか」 冉有曰く「では、生活が向上したとして、次に必要なものは何でしょうか?」 子曰く「教育だよ(笑)」
【4】 子張曰く「先生はよく日本のことを褒めていますが、小日本は、前の戦争でわが国から負けているんですよ。何でそういう国を褒めるのですか?」 子曰く「君は何を勉強してきたのだ。わが国は戦争に勝ったわけではない。戦勝国に与していただけの話で、実際は負けているのだ。なぜ君は正しい歴史を勉強しようとしないのだ」
【5】 先生には次の四つの欠点がなかった。 1、平気で嘘をつくこと。 2、自国の歴史を無理に他国に押しつけること。 3、一つの党に固執すること。 4、謝罪反省しないこと。 子曰く「目を覚ませ、大馬鹿者たち!」
追記) この日記、『温故知新』の読み下しを『故きを温めて新しきを知る』としてありますが、ある方から「あれは『故きを温(たず)ねて新しきを知る』と読むのではないのか?」というご指摘を受けました。 確かに学生時代にやった漢文では、そう読み下すように習いました。 が、それが絶対ではないことを、後日読んだ本で知りました。 今回テキストとして使ったのは徳間書店刊の『論語』ですが、その本にも『故きを温めて』とあります。 最初どちらで読み下すか迷ったのですが、あとの内容も考えて、あえて『故きを温める』と読み下しました。
ある方様、ご指摘ありがとうございました。
張飛「兄貴、この間成都の都であった民衆の暴動が、魏や呉の国でも起こっているらしいぜ」 関羽「うむ。先ほどそれをわが君の使いの者から聞いたところだ」 張飛「いったい何が原因なんだ?」 関羽「どうも、倭の国に対して民衆が怒っているらしいのだ」 張飛「倭?あの東夷の倭か?」 関羽「そうだ」 張飛「あそこは、卑弥呼とかいう婆さんが国を治めていたんだったなあ」 関羽「そうだ」 張飛「しかし、倭は魏とだけ、仲良くしていたんじゃなかったか?」 関羽「いや、どうもそうではないらしい。魏だけではなく、呉や我が蜀とも裏で取引があったらしいのだ」 張飛「我が国とも?」 関羽「そうだ」 張飛「いったい何の取引をしていたんだ?」 関羽「それはわからない」 張飛「丞相はそのことを知っているのか?」 関羽「さあ、どうだろう?今度都に行く予定があるので、その時ちょっと聞いてみるか」
後日。 関羽「丞相、お久しぶりです」 孔明「おお、羽将軍ではないですか。どうされましたか?」 関羽「最近、魏や呉の国でも、前に成都であったような暴動が起こっていると聞き、ちょっと丞相の意見を聞きたいと思いまして」 孔明「暴動ですか…、実に遺憾に感じております」 関羽「先ほど張飛とも話していたのですが、倭は魏と仲がいいと聞いております。なのにどうしてわが蜀の民衆までが暴動に至ったのでしょうか?」 孔明「これはあまり知られてないことなのですが、実は倭の文明というのは我々よりはるかに進んでいて、この中原のみならず、南蛮・東夷・西戎・北狄に至るまで、その恩恵を受けているのです」 関羽「ほう、それは初耳ですなあ。倭人というのは戦好きの野蛮人とばかり思っていた」 孔明「確かに戦をやっていた時期もあるのですが、それはもうずっと昔のこと。今はいたって平和な国になっており、工業に力を入れ、その技術は世界を凌駕しているのです。倭はその技術で稼いだ金を、この中原に貢ぎ物としていたわけです」 関羽「なるほど」 孔明「我々はそのおかげで武器を手にすることが出来、こうやって三国で覇権を争うことが出来るのです」 関羽「しかし、それは魏一国だけのことではないのですか?」 孔明「いやいや、彼らはちゃんとこの蜀にも貢ぎ物を持ってきているのです」 関羽「なぜそういうことをするのでしょうか?蜀と魏が敵対しているのは知っているだろうに」 孔明「そこが中原との宗教の違いなのでしょう。倭は蜀や魏や呉といった中原の国、さらに夷狄の国といえど、隔たりなく接しているのです。そこに優劣など一切つけない。不思議な国です」
関羽「しかし、それがどうして民衆の暴動へと繋がったのでしょうか?」 孔明「倭は今度、中原への貢ぎ物をやめると言ってきたのです。魏はそれを不服として、民衆に暴動を起こさせたわけです」 関羽「それは魏だけの話でしょう。どうして蜀の民衆までが暴動を起こすのですか?」 孔明「魏の暴動と、蜀や呉の暴動は、その性格が違っています」 関羽「性格が違う?」 孔明「そうです。魏がやっているのは倭への見せしめです。しかし、蜀や呉の暴動は策略なのです」 関羽「策略?誰がそんなことをしているのですか?」 孔明「仲達です」 関羽「仲達?」 孔明「そうです。司馬仲達です。今度曹操が雇い入れた切れ者です。彼は間者をこの蜀に送り込み、『倭人というのは実にとんでもない人種だ。中原を全部乗っとろうとしている。今度それを抗議して、魏で民衆が暴動をやることになっているらしい。こちらもやろう』と、蜀の民衆を扇動したのです。呉の場合もそうです。魏もやっていることだから、蜀や呉の要人は、民衆が自然発生的にやりだしたことだと思うでしょう。それが彼の狙いなのです。民衆がやっていることだから、あまり真剣に取り締まりもしない。その隙に乗じて、彼は軍を送り込もうとしたのです」 関羽「軍を?」 孔明「そうです。わたしはそれを見抜いていました。だから、忠達は軍を送れなかったのです。しかし、彼のことですから、二の手三の手を打ってくることでしょう。羽将軍も気を抜くことなく、国境警備に勤しんで下さい」 関羽「さすがは丞相。ご慧眼、感服仕りました。しかし、魏は人材があふれている。司馬仲達か」 孔明「近い将来、彼はきっとわたしの好敵手となることでしょう」
2005年04月16日(土) |
もはや九州は遠いところではない! |
【1】 土曜日はぼくが毎週愛読している週刊新潮と週刊文春の、福岡地区での発売日である。 この二誌は、本州ではだいたい木曜日の発売なのだ。 つまり、福岡地区は二日遅れで発売されるというわけだ。 そのおかげで、ちょっと困ることがある。 テレビやネットなどを見ていると、よく「今日発売の週刊新潮で…」などと言っていることがある。 が、福岡はその日発売でないから、何を言っているのかわからないのだ。 まあ、そのサイトに行けば、見出しだけは見ることは出来るのだが、詳しい内容まではわからない。 そこで、極力そういうものは見ないようにしている。 ところが、その二日後に発売になった本を見て、そこに書かれている記事に関心を持ったとき、すでにテレビやネットではその話題は終わっているから、結局専門家たちの詳しい説明が聞けなくなってしまうのだ。
CDなどは全国一斉に発売されるのに、どうして書籍に限ってこういうことになるのだろうか。 これが関門トンネルなかった時なら、わからないでもない。 それまでは、九州は陸路ではなかったからだ。 しかし、関門トンネルが開通してからは、陸路で行けるようになったのだ。 ということは、本州と同時発売も可能になったはずだ。 ところが、新幹線が乗り入れても、航空便が発達しても、相変わらず何日か遅れての発売になっている。 狭い海峡一つ隔てただけの下関では、ちゃんと同時発売しているのにである。 これは出版社の怠慢以外の何ものでもない、とぼくは思っている。 九州は遠いから、というのを理由としているのなら、下関から北九州に行くのに2日もかかるのか、と聞きたい。
ところで、そういった書籍の九州便はいつ発送しているのだろうか? まさか、下関便と同時に発送して、2日間そこで足止めしているわけではないだろう。 ということは、発売日に併せて、のんびりと2日遅れで発送しているのだろうか? まあどうであれ、出版社の怠慢であることには変わりない。 ぼくは、月刊『正論』を定期購読しているのだが、ぼくの家には、こちらの発売日よりも2日ほど早く着くのだ。 そう、その気になれば出来るということだ。 なのに、どうしてやらないのだろう? これでは、怠慢と思われてもしかたないだろう。
【2】 かつて産経新聞を取っていた頃、記事がいつも遅く、いつもイライラしていた。 頭に来たぼくは、産経の東京本社に電話して、「どうして、記事が一日遅れになるんですか?」と聞いた。 その時の答は、「鉄道便を使っているため、九州はその日の朝刊の記事が間に合わないんですよ」だった。 確か下関までは、ちゃんとその日の記事が載っていたはずだ。 ということで、その時も「下関から福岡まで1日もかかるんですか?」、と言ったものだった。
産経で思い出したが、今産経新聞は教科書問題で、朝日新聞とバトルをやっている。 ぼくはそれをネットで知ったわけだが、九州在中のパソコンなど触ったことのない朝日の読者が、その記事を読んだらどう思うだろうか? きっと「いったい朝日は、どこと戦っているんだろう?」と思うに違いない。 しかも、朝日の記事しか読まないから、朝日の一方的な言い分だけを信じるだろう。 産経はそれでいいのだろうか? 扶桑社の教科書を全国展開したいのなら、月刊『正論』だけでお茶を濁すことをせず、もっと販路を広げて、その主張を全国の人に知ってもらうべきである。 いちおう全国紙なんだし。
2005年04月15日(金) |
春は腰痛の季節らしい |
腰痛に悩まされたのは、昨年の3月だった。 それから1年ちょっと経つわけだが、その間良くもなく悪くもない状態が続いていた。 いや、実際は悪かったのだろうが、五十肩や歯痛でそういうことを忘れていたのだ。 歯の治療もいよいよ最終段階に入ったこの時期に、またしても腰痛のやつがお目見えした。
1週間ほど前のことだった。 手に持っていたメモ用紙が落ちたので、前屈みになって拾おうとした。 その時だった。 腰の真ん中から右側にかけて、「ツーン」という痛みが走ったのだ。 危ないところだった。 もう少し体を曲げていたら、確実にギックリ腰になっていただろう。 ぼくは、過去に一度ギックリ腰になったことがあり、さらに疑似ギックリ腰を何度も体験しているので、この手の痛みに対しての反応は早いのだ。 素早く体を元の体勢に戻して、腰を軽くマッサージした。 そういうことで、何とか最悪の事態にはならずにすんだ。 しかし、その日は重たい物を持ったり、腰を曲げることを極力避け、じっとしていることにした。
ところが、痛みが走るのはその日だけはなかった。 その後も、たびたびそんな痛みが走るようになったのだ。 いちおう自己流のケアなどもやってみるのだが、まったく改善されることはない。 そこで、前回はいったいどうやって腰の痛みを治したのだろうと思い、昨年の日記を読んでみることにした。 こういう時、日記を付けていると役に立つものである。 3月6日と翌7日にその記事はあった。
そうそう、そうだった。 あの時は尿管結石恐怖症だったのだ。 最初は腰痛と思っていたが、だんだん腹も痛くなってきて、さらにその前に飲みに行った時、尿管結石になった知り合いからその症状を聞いたいたがために、勝手に尿管結石だと思い込んだのだった。 その思い込み尿管結石をどうやって治したのかというと、入浴とファンヒーターで温めることだった。 そういえば、今回は温めることをしなかった。 そこで、会社に置いてある温熱治療器に当たって温めてみた。 なるほど少しは調子がいい。 ある程度の時間なら、体を前に曲げても痛みは走らない。 しかし、時間を過ぎると、また痛みが走ってくるのだ。 どうも温め方が足りないようだ。 しかし、ずっと温熱治療器にかかっているわけにもいかない。
他に方法はないものだろうかと頭を巡らせた。 そういえば、4月に入ってから暑い日が多いので、普段より薄着をしている。 しかし、それは作業などをしている時だけのことで、何もしていない時などは体が冷えてしまうのだ。 「もしかしたら、体の冷えから来るのではないか?」 そう思ったぼくは、多少暑くても、この時期にふさわしい格好をしていることにしてみた。 すると、慢性的な痛みは残ってはいるものの、それまで走っていたギックリ腰の前兆のような痛みはなくなったのだった。
この時期、ぼくの周りには腰痛に悩む人が多い。 ぼくもそうだが、そういう人は、暑かったり寒かったりの気候に細かく対応せずに、ただ「暑い日もある」という単純な理由だけで薄着をしているのだ。 ということはだ。 この時期の腰痛の原因は、『冷え』ということになりはしないか。 もしそうだとすると、来年以降の春の腰痛は防げそうだ。 それを確信するまで、もう少し様子を見てみることにする。
2005年04月14日(木) |
昨日の日記の更新が遅れて、申し訳ありませんでした |
昨日は食事が終わったあとに、急に眠気が差し、そのままダウンしてしまった。 夜中に一度目が醒めて、日記を書こうとしたのだが、体が言うことを聞かない。 そこで、朝早く起き出して書くことにした。
起きたのは6時半だった。 とりあえずテーマは決まっていたので、出勤までの2時間半でどうにか出来ると思っていた。 ところが、そのテーマが重すぎたせいか、なかなか筆(?)が進まない。 そこで気分転換にと思って風呂に入った。 それが間違いだったのだ。 不覚にも風呂の中で眠ってしまい、気がついたら出勤時間が30分後に迫っていた。 ぼくは慌てて風呂から上がり、ひげを剃り、歯を磨き、顔を洗った。 それに15分を費やしてしまい、残り15分となった。 日記のほうはまだ5行しか書いてない。 とうてい間に合いっこない。 「さて、どうしようか?」とパソコンの前で悩んでいたが、もうどうしようもない。 この続きは携帯で書くことにした。
会社に着いてから、さっそく携帯で日記を書こうとしたのだが、今日はあいにく商品の入荷日だった。 さっそく最初の荷物が届いていた。 「しかたない、日記はこれを出してからにしよう」 ということで、荷物を先に出すことにした。 30分後ようやく荷物を出し終えたあと、次の荷物が入ってきた。 こうやって、今日は次から次へと荷物が入ってきたのだった。
結局日記はその合間に書くことになった。 しかし携帯は打ちにくい。 最終的に全角1400文字を打ったのだが、これを文章を考えながらやるものだから、けっこう時間がかかってしまった。
投稿したのは午後3時頃だった。 こういう時ブログは便利である。 メールを送るのと同じ作業ですむからだ。 ぼくはホームページを起ち上げた頃に借りた日記サーバーに、今もなお継続して書き続けているのだが、その日記サーバーにiモードで書き込む際、まずiモードに接続し、日記エディタを呼び出した上で書き込まなければならない。 一からそこに書き込めば別に問題はないのだが、ブログ用にまずメールのエディタに書き込んでいるため、それをコピーして日記のエディタに貼り付けることになる。 ところが携帯は、全角で1000文字までしかコピーが出来ないのだ。 先にも書いたが、昨日の日記の文字数は全角1400文字だった。 ということは、400文字がコピーできずに残ってしまうことになる。 さらに悪いことに、iモード用の日記エディタには保存や下書きといった機能がついていない。 そのため昨日の日記をiモードで更新しようとすると、中途半端に終わってしまうことになる。 そうなると、そこを見てくれている人は、「何だ、この日記は!」と不快感を示すに違いない。 しかたないので、日記サーバーを見てくれている人には悪いが、そこだけ家に帰ってからの更新になってしまった。
こういうことが起こらないためにも、日記はその日の夜に書き上げるのが一番である。 が、性格上なかなかそれが出来ないでいる。 ということは、まず、性格を直すのが先決である。 が、性格上それが出来ないでいる。
2005年04月13日(水) |
宗教の違いは如何ともしがたい |
誰しも、幼い頃から付き合ってはいるもののなぜか馬が合わない、という間柄の人がいるものである。 時にそういう人を理解しようとして仲良く振る舞うこともある。 が、元々理解できないのだから、その関係というのは、あくまでも表向きでしかなく、時が流れれば、結局は「やっぱり理解できない」となって、元の馬が合わない間柄に戻っていくものだ。
国と国でもそれは同じことである。 日本とドイツは元々馬が合わなかったわけではないが、特に仲がいいという間柄でもなかった。 そういう間柄の二国が、先の大戦で同盟を組んだ。 とはいえ、手を取り合って戦ったわけでも、同じ戦場で肩を並べて戦ったわけではなかった。 もちろん敵は共通だったわけだが、あくまでもそれは、たまたま日本が戦わざるをえなかった相手の中に、ドイツが敵としている国があっただっただけの話で、何も「ドイツの敵だから」という理由で日本はそれらの国を敵に回したのではなかった。 もし、手を取り合っていたら、日本は、ドイツと死闘を繰り広げているソ連と、不可侵条約などを結ばずに、背後から攻めていたことだろう。 しかし、そうはしなかった。 元々ヒトラーは日本人を軽蔑していたわけだし、そのヒトラーが嫌ったユダヤ人を日本は保護しているのだ。 つまり、同盟は利害関係の上で成り立っていただけで、そこにお互いの国に対する理解というものはなかったわけだ。 結局両国は最後まで理解しあえる間柄にはならなかった。 ということで、戦争が終われば、両国は元の関係に戻っていった。
同盟国でさえこんなふうであるから、仮想敵国と見なし見なされている国同士は、さらに理解は不可能だろう。 そう、中国や韓国のことである。 彼らは日本を理解できないから、ああいう反日行動をとるわけで、我々日本人としては、何でああいうことをやっているのか理解できないでいる。 なぜ理解できないのか? もちろん政治上の理由もあるだろう。 また歴史上の問題もあるだろう。 しかし、それを言ったら切りがない。 元々理解しえなかったからこそ政治上の問題になったわけだし、それが歴史に繋がったわけなのだから。
では、その理解しえない根底には何があるのか? ぼくはそれを宗教だと思っている。 言うまでもなく、中国や韓国は儒教の国である。 一方の、日本は神道の国である。 これまで日本が中韓にある程度の理解を示してきたのは、かつて日本も儒教をかじった時期があったからだ。 しかし、中韓には神道から影響を受けた歴史はない。 まあ、韓国は、彼らの言う日帝36年間に神社を建てるなどして、形だけの神道をやっていたことはあるが、そこにある思想や生活観はとうてい理解できたとは思えない。
長い間紛争の耐えない中東を見てもわかるように、この宗教の違いという溝は、いつまでたっても埋まるものではない。 日本が中国や韓国との近代的なつき合いを始めて、すでに百数十年経っているが、彼らはその半分以上の歳月を、『反日』『侮日』に費やしてきた。 その要因は日本の成功への妬みもあるだろうし、かつて文化を伝えたという自負もあるだろう。 が、何よりも大きな要因は、彼らが日本人を理解できないことにある。 それは宗教が違っているからである。 そして、中韓と宗教が違うからこそ、我々日本人には中韓の人たちの行為が滑稽にしか映らないのだ。 この溝はいつまでたっても埋まらないだろう。
前回から、歯の治療は右下の奥歯に移っている。 以前治療した歯の銀冠が浮き、そこを虫が食っているのだという。 そこで、かぶせている銀を外しての治療となった。 銀を外した時に、先生は言った。 「この歯は、えらく昔に治療してますねえ」 「えっ、そうですか?」 「ええ、この治療法は古いやりかたですよ」 「へえ」 そこで治療中に、いつ治療したものだったかを考えていた。 治療が終わる頃になって、ようやく思い出すことが出来た。 「えらく昔」と言われるはずだ。 もう30年も前の治療なのだから。
あれは高校3年のことだった。 右下の犬歯の横の歯に穴が開き、その奥の歯もそれに併せるかのように黒くなっていた。 しかし、別に痛くもなかったので放っておいた。 2学期末のある日、授業中に突然喉が痛くなったことがある。 そこで、授業が終わったあと、保健室にトローチをもらいに行った。 「先生、トローチ下さい」 「トローチ?どうしたんね」 「喉が痛いんです」 「喉が痛い?風邪かねえ。ちょっと口開けてみて」 ぼくは口を開けた。 その時だった。 先生は急に大声を張り上げた。 「何ね、あんたの歯は!」 「えっ?」 「えっじゃないよ。汚いねえあんたの歯は。すぐに治療に行ってきなさい」 「歯の治療?」 「そう、歯の治療。歯が酷いことになっとるよ」 「ああ、歯でしょ。それはわかってます」 「わかってるなら、何ですぐに治療に行かんとね?」 「治療と言ったって、別に痛いわけでもないし。歯医者はいつか行きますから、トローチ下さい」 「だめ。あげません」 「何でですか?」 「喉が痛いのは歯から来とるんよ。すぐに治療しないと大変なことになるよ」 ということで、先生におすすめの歯医者を聞き、その日の帰りに行くことにしたのだった。
さて、今日はその歯の奥の治療をした。 「今日はこの歯の治療をします」 と言って、先生はかぶせていた奥歯の冠を外した。 「えっ…」 先生は一瞬沈黙した。 「これはすごい。この間より古い治療ですねえ。もう土台がボロボロになっていますよ。根っこから治療をやり直さないと…」 ということで、今日も治療中に、いつ治療した歯なのかを考えていた。 この間より古いとなると、高校2年の時に
2005年04月11日(月) |
得体の知れない何か |
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