【飲む】 飲むほうは得意である。 あ、いや、得意であった。 最近は飲む回数も減ったのだ。 以前は、週に何回か飲みに行っていた。 が、最近は年に数回しか参加していない。 たまに参加する飲みごとも、前は「朝までやるぞー!」と勇ましく吠えながら、酔いつぶれるまで飲んでいたものだが、今では飲んでいる最中に「○時までに帰れば日記が書ける。それまでに帰ろう」と、帰る時間を気にするようになった。
もちろん二次会は、なしである。 昔のぼくを知っている人からすれば、えらく面白くない存在になっているはずだ。 「しんた、前みたいにグデングデンになるまで飲もうやないか」 「悪いけど、今日は帰る」 「ちょっと二次会につき合うくらい、いいやないか」 「いや、二次会に行くと、日記を書く時間がなくなる」 「日記?一日くらい休んだっていいやないか」 「だめ、一日も休めん」 「日記と言ったって、そんなに時間はかからんやろう?」 「そんなことはない。いつも悪戦苦闘しよるんぞ」 「いいやないか。行こう」 「おまえ昔、○○やったやろ?あの事件を日記で暴露していいなら、行ってもいいぞ」 「・・・」 ということで、ぼくは現在、つき合いの悪い男になっている。
【打つ】 打つほうは前にも書いたことがある。 北九州はギャンブルの街である。 中央競馬場が一つ、競輪場が一つ(ちょっと前までは二つあった)、競艇場が一つ(隣接する市町を含めると三つ)、あとは無数のパチンコ屋。 ぼくの家を中心に見ても、車で15分以内のところに競艇場が二つと大きなパチンコ屋がいくつもある。 そういうこともあって、よく人から聞かれることがある。 「しんたさんはギャンブルしますか?」である。 ぼくはギャンブルが好きではないので、当然やることもない。 だから、「しません」と答える。 それが意外なのか、たいてい相手は、「好きかと思いよった」と言う。
生まれてこの方、馬券を買ったことは一回しかない。 それは東京にいた頃だった。 1978年の有馬記念だったが、何も好きこのんで買ったわけではない。 ある友人が馬券を買いに行くというので、そこにいた人たちが「じゃあ、おれもの買ってきて」と頼んでいた。 最初ぼくは無視していたのだが、友人の一人が「しんた、これ絶対当たるから買っとけよ」と言うので、絶対当たるならということでお金を出した。 が、もちろん外れた。 ということで、競馬には縁がないと思い、それ以来、買ったことはない。
しばらくして先生の手が止まり、ぼくの口元から離れていった。 看護婦さんが来て、「起こします」と言った。 起きるなりぼくは、看護婦さんが「うがいして下さい」という前に、口の中にたまっていた麻酔液を吐き出した。 そして、その後何度もうがいをした。 背後から、「じゃあ、そのままお待ち下さい」という声が聞こえた。
しかし、大の男が歯医者の治療イスに座って、麻酔が効いてくるのをボーッと待っているのも変なものである。 せめてイスを倒してくれたら、居眠りくらいすることも出来るのだが、座っていると何にもすることがないのだ。 出来ることといえば、窓の外を眺めることぐらいだ。 この歯医者の窓は大きいので、外の風景がよく見える。 ということは、逆に外からも中が見えているということだろう。 イスに座ってボーッとしているぼくの姿は、きっとおかしく映っていたに違いない。
さて、時間がたつうちに、注射中から効いていた麻酔がさらに効いてきた。 鼻の下の感覚がなくなり、それが唇にまで降りてきた。 『ちっ、やっぱり唇に来たか』とぼくは思った。 唇に来ると、うがいをする時に締まりがなくなり、そこから水が漏れるからやっかいなのだ。 昔、これで衣服を濡らしたことがある。 そこでぼくは、口を閉じた感覚をつかんでいようと思い、何度も口を開け閉めして、その感覚を覚えることにした。 そして、何とかその感覚をつかんだ。 ところがそれがいけなかった。 唇を動かすことによって、麻酔の範囲が広がってしまったのだ。 その麻酔がどこに影響したのかというと、鼻である。 小鼻のところがジンジンしてきたのだ。 鼻がしびれるなど、生まれて初めての経験である。 その後、治療の最中に何度か麻酔が切れかかり、痛みが走ったのだが、鼻のほうは相変わらずしびれたままだった。
治療は一時間以上かかった。 虫が食っているところよりも、すでに治療していた歯が悪くなっていたとかで、神経を抜いたらしい。 そのために時間がかかったのだ。 終わってみると、前歯には大きな穴が空いていた。 その穴に、先生はセメントのようなものを埋めていた。 それが固まった頃に、「今日は終わりです」ということになった。
家に帰ってから、さっそく鏡で治療した歯を見て、ぼくは唖然とした。 ぼくの歯の色とはまったく違った色のセメントが埋めてあるのだ。 どう見てもおかしい。 ミルキーが前歯の所々にくっついているような感じである。 次の治療の日まで、このミルキー状態でいなければならないのだ。 それを考えると、気が重くなった。 しかし、ミルキーならまだいい。 次回この歯の治療が終わったとして、もし銀歯でも入れられたらどうしようか? 奥歯に銀はまだ許せる。 だが、前歯の銀だけは耐えられない。 ぼくの持つ男の美学に反するのだ。 しびれたままの鼻を押さえて、ぼくはそうならないことを鏡の前で、必死に祈っていた。
そこで我慢が始まった。 待っていれば、看護婦さんがイスを起こして、「うがいして下さい」と言うだろう。 しかし、そういう時に限って、時間というものは長く感じるものである。 実際、その待ち時間は2,3分くらいのものだった。 にもかかわらず、ぼくには10分、いや20分くらいにも感じたのだった。 その間何度もつばを飲み込もうとしたものだ。
ようやく看護婦さんがイスを起こした時、ぼくは真っ先に、口にたまっているつばを吐き捨てた。 これで一安心、と思っていたら、また新たな疑問がぼくの頭の中で渦巻いた。 「もしかしたら、つばのせいで液体の効果がなくなったのではないか…?」
その疑問が当たっていたかどうかはわからない。 が、その後の注射はかなり痛く感じたものだった。 しかも、針を刺している時間が長い。 先生は時間かけて、ゆっくりと麻酔を注入しているのだ。 神経が過敏になっているせいか、麻酔が歯ぐきの中に入っていくのがわかる。
その注射も、もうすぐ終わりかなと思った時だった。 またもや液体が舌に落ちてきた。それも大量に。 一瞬、何だろう?と思ったが、よく考えてみると、これは麻酔液以外の何ものでもない。 おそらく、歯ぐきの中に収まりきれなかった麻酔液が逆流してきたのだろう。 その味はというと、これがかなり苦い。 塗り薬は若干の甘さを感じたものだが、麻酔液には若干ほどの甘さもない。
ここでまた我慢が始まった。 今度は量が多すぎて、つばで薄めるなどということも出来ない。 ということは、濃度100%ということだ。 こういうのを飲み込んでしまったら、食道や胃はどうなってしまうのだろうか? やはり相当時間しびれるのだろうか? ああ、そうだった。 食道や胃だけではない。 水を飲んだ時に、その水が通る箇所すべてがしびれていくわけだ。 そこには、腸があり腎臓があり、膀胱がある。 腸や腎臓がしびれた状態…、ちょっと想像できない。 が、膀胱がしびれた状態というのは、何となくわかる。 尿がたまっても、何も感じない。 そして、気がつけば漏らしていた…、などということになるのだろう。
ぼくは麻酔液がのどに行かないように、必死に舌で塞いでいた。 ところが、そこに新たな敵が現れた。 鼻水である。 実は数日前から、若干鼻風邪気味だったのだ。 ずっと上を向いた状態だったため、鼻水がのどに落ちてきたのだ。 鼻水が落ちてくると、のどは反射的にそれを飲み込もうとする。 それにまた神経を遣わなければならなくなったのだ。
一方の先生はというと、相変わらずぼくの口に手を当てている。 まだ注射をしていたのだ。 最初は痛みを感じていたものの、その時には、すでに痛みを感じなくなっている。 ぼくは、『先生、もう麻酔は効いてきますから、注射をやめて、うがいをさせて下さい』と心の中で懇願していた。
11月末から歯医者に行っているが、先日、最初に取りかかっていた奥歯3本の治療が終わった。 すでに12月末に2本の治療が終わっているから、合計5本の治療が終わったことになる。 今日現在までに歯医者に行った回数は15回だから、一本につき治療は3日かかっているわけだ。 このペースが速いのか、それとも遅いのかはわからない。 まあ、一本一本丁寧にやってくれる先生だから、おそらくちょうどいいペースなのだろう。
さて、その治療だが、先日から前歯のほうに移った。 ぼくは奥歯はもちろん、前歯も丈夫だとは言えない。 というより、歯に何か引っかかっていても、気にしないで放っておくタイプなので、虫歯菌にとってはこの上もない活動の場となっているのだろう。 その証拠に、前歯でいまだに丈夫なのは下の4本だけである。 あとは、何らかの治療を施しているのだ。
昔は、前歯の治療というと、麻酔をかけずにやっていた。 そのため、奥歯のような重い痛みはないものの、鋭い痛みが何度も走ったものだった。 ところが、最近は前歯の治療にも麻酔を用いるようになったようだ。 もちろん、先日の前歯治療にも、麻酔は大活躍した。
その麻酔を打つ時だが、十数年前までは、歯ぐきにダイレクトに針を刺していた。 ところが、最近はそういうことをしないようだ。 どうするのかというと、まず歯ぐきに今治水のような液体を塗り、歯ぐきをしびれさせてから針を打つのだ。 ぼくは、昔から歯ぐきの注射に対しては、恐怖心を持ってないので、ダイレクトに針を刺されても別に何ともないのだが、今の先生は必ずその液体を塗ってからでないと、注射をしないのだ。
実は、ぼくはこの液体がだめなのだ。 なぜなら、その液体を塗りすぎた場合、それが舌にしたたり落ちてきて、舌がしびれるからだ。 もし運悪く、飲み込んでしまったらどうなるのだろう? 舌と同じように、食道や胃がしびれるのだろうか…? 想像しただけでも気持ち悪い。
先日はそんなことを思いながら治療を受けた。 しかし、その日は最悪だった。 歯ぐきに液体を塗られた時に、唇の裏側に違和感が走ったので、思わず唇を動かしたのだが、それがいけなかった。 液が舌にしたたり落ちてきたのだ。 「これはいかん」と思って、つばでその液体を薄めようとした。 しかし、その舌の一点が、どうも火傷したような感覚になってしまった。 おまけに、それを薄めるために出したつばが、口の中にたまってしまったのだ。 そのままでは飲み込んでしまう。 飲み込むと、先に書いたような状態になるのは必至だ。
ちなみに、Y運送のバイト仲間のうち、二人はもうこの世にいない。 一人はKさんだが、もう一人はWさんという方である。 WさんはKさんの友人だった。 この方はKさんよりも早く亡くなっている。 死因は白血病だった。 一方の女性陣だが、Uさんは結婚してから数年後に、ご主人と死別した。 Oさんは、Kさんの死後、年下の男とつきあい始め、そのまま結婚に至ったのだが、ご主人の実家との折り合いが悪く、ノイローゼになったと聞いた。 どちらもその後は消息不明である。 かく言うぼくも、それから数年後につき合いだした嫁さんとは、すんなり結婚に至ったわけではない。 いろいろと紆余曲折があり、結局籍を入れるまでに15年の時間がかかっている。 つまり、その後は誰一人、あの頃自分の描いた幸せな人生を送ってないわけだ。
さて、成人の日の祝成人会も終わり、ぼくは再びY運送以前の生活、そう恋と歌の旅に戻ったのだった。 恋のほうはといえば、X子やOさんのことは、すでにぼくの中では終わったことになっており、恋の主題は、また高校時代の憧れの人に戻っていた。 やはり忘れられないのである。 というより、運命が忘れさせてくれなかったのだろう。 結局その状態が、今の嫁さんとつき合うまで続くのだから、運命はその後5年間も彼女のことを忘れさせてくれなかったわけだ。
まあ、恋のことはさておき、問題は一方の歌のほうだ。 アルバイトの間、ぼくは歌うことは歌っていた。 だが、それは歌と言うにはほど遠かった。 いつも大声を張り上げていただけだったのだ。 おかげで、声はかすれるわ、のどは痛いわでさんざんな目にあった。 つまり、歌と言いながら、声を潰すようなことを繰り返していただけだったわけだ。 また、Y運送でアルバイトしている間は、その疲れと度重なる飲み会で、歌作りなど出来る状態ではなかった。 当然、その間に作った歌は一曲もない。 ということで、しばらくの間家に籠もって、そのブランクを取り戻そうということになった。
ところが、気がつくと、ぼくは家でじっとしている生活が耐えられない性格になっていたのだ。 最初の二、三日は何ということはなかったのだが、それを過ぎる頃から落ち着かなくなった。 「外に出たい」という気持ちが強くなったのだ。 そう、ぼくは前年の5月から続いた『ひきこもり症候群』から、完全に脱出することができたわけだ。 もちろん、その2ヶ月後からアルバイトをやっているから、すでにその時点で『ひきこもり症候群』は終わったはずだったのだが、そうではなかった。 それはあくまでも、母や友人から尻を叩かれて、嫌々外に出ていただけのことで、精神的には『ひきこもり症候群』はまだ続いていたのだ。 ここに来て、ようやく自分から「外に出よう」という気持ちになったわけだ。
そして、この「外に出たい」という気持ちが次のアルバイトを探させ、さらにその気持ちは東京に目を向けさせることになる。 結局、歌のほうは、次のアルバイトが終わるまで、お預けとなった。
その年の9月のことだった。 ぼくは8月中旬に一端長崎屋を辞め、その時期は博多の出版社で働いていた。 仕事から戻ると、母が「さっきUさんという人から電話があったよ」と言う。 「何の用やった?」 「さあ?何も言わんかったけど、急いどるみたいやったよ。電話してみたら?」 「うん。わかった」
ぼくはさっそくUさんに電話をかけた。 「もしもし、しんたですけど」 「ああ…、しんた君」 Uさんの声は沈んでいた。 「どうしたんですか?」 「あのう…、Kさんが…」 「えっ?」 「Kさんが死んだんよ」 「えーっ!?うそやろ?」 「さっき、Oさんから電話があってね…」 「何でまた…。事故か何かで?」 「いや、ガンらしいよ」 「えっ、ガン?どこの?」 「胃ガンらしいんよ」 「ああ…」
ぼくには思い当たる節があった。 Kさんはめっぽう酒の強い人だった。 バイトしていた時に、「昨日はボトル2本空けた」などとケロッとした顔をして言っていた。 普通ボトル2本も空ければ、そんなケロッとした顔をして会社になんか来られないはずである。 聞くところによると、飲み比べをして、一度も負けたことがないらしい。 それもそのはずだった。 Kさんは酔えない体質の人だったのだ。 そのため、限度がわからずに、時間が許す限り飲んでしまう。 社会に出て、いろいろとストレスを溜めては酒を飲む、といった生活をしていたのだろう。 それで胃を痛めたのだろう。 Uさんの話によると、最後の一ヶ月は食事も受け付けない状態で、死ぬ前はかなりやせ細っていたと言う。
Uさんは続けた。 「今日通夜で、明日葬儀なんやけど。今日はもう遅いけだめやけど、しんた君、明日は行ける?」 ぼくは、翌日から熊本に出張しなければならなかった。 「行きたいけど、明日から出張なんよ」 「ああ、出張か。じゃあ、行けんねえ…。しかたない、Yさんと二人で行ってくる」 「Oさんは?」 「付きっきりやったみたい」 「そう…」 「かなり落ち込んでいるみたいよ」 「そうやろうねえ」
Kさんの家は、博多に行く途中にあった。 いつも電車でそこを通る時、Kさんの家の屋根が見えていた。 翌日、出勤途中に、電車がKさんの家の前を通過した時に、ぼくはKさんの家の方向を向き手を合わせた。 そして、博多に着くまで、あのY運送でバイトした日のことを思い起こしていた。 Y運送に入った日のこと、井筒屋での仕事のこと、Y大生事件のこと、Kさんの家に泊まった日のこと、X子のこと、Oさんのこと、K選手の壮行会のこと、成人の日のこと…。 そういう出来事も、その時にはすでに遠い過去のことになってしまっていた。 だが、Kさんは違っていた。 兄貴という形で、ぼくの中にはっきりと存在していた。 そして、それは今でもそうである。
さて、アルバイトが終わった後も、成人の日まで、ぼくはKさんと頻繁に会っていた。 それ以降はというと、Kさんも卒業や就職の関係で、あまり動きが取れなくなったのか、会うことがなくなった。 成人の日から数日して、Kさんから「赴任先が広島に決まった」と電話が入った。 Kさんはすでに某運送会社に就職が決まっていたのだが、赴任先がどこになるのかまだ決まっていなかったのだ。 この電話をもらう前に、先方から連絡があったらしかった。 「これから卒業とか引っ越しでいろいろ忙しくなるけ、もう会えんかもしれんけど、まあ、おまえも頑張れや。落ち着いたら連絡するけ」 「うん」 が、連絡はなかった。 ということで、この電話が東京に出る前にぼくがKさんと交わした、最後の会話であった。
その年の8月だった。 東京から帰省していたぼくは、Oさんたちから、Kさんが盆休みで戻ってきているということを聞いた。 「じゃあ、久しぶりでみんなで会いましょうか」ということになって、ぼくが代表してKさんに電話することになった。 「あ、Kさんですか?」 「はい」 「しんたです。お久しぶりです」 「しんた…。しんた…?誰やったかのう」 「しんたですよ。Y運送でいっしょだった」 「おお、あのしんたか!」 「忘れたんですか?」 「忘れるわけないやないか。いや、最近、営業やっとるもんで、いろいろな人に会うやろ。そのせいで急に昔の知り合いの名前を言われてもピンと来んようになったっちゃの。で、何の用か?」 「今、Oさんたちといっしょにいるんですが、会えませんか?」 「今からか?」 「ええ」 「今はちょっと都合が悪いのう。明日の夜ならいいけど」 ということで、翌日にぼくたちは会うことになった。
そこでいろいろと、各人の近況報告など話したのだが、その時再会したことがきっかけとなって、KさんとOさんはつき合うことになった。 もちろん、遠距離恋愛である。 翌年だったか、噂で二人が結婚することを聞き、「Kさんよかったな」と思ったものだった。 しかし、二人は結婚しなかった。
ぼくが東京から北九州に戻ってきた80年のことだった。 その年の春、ぼくはUさんの紹介で日立にアルバイトで採用され、長崎屋に勤務することになった。 そういうことがあって、Uさんと会うことが多くなった。 Uさんは、自分が好きな人の目を引かせるために、ぼくを当て馬に使ったこともあった。 Uさんは、結局その人と、その年の11月に結婚するのだが、その結婚式にはぼくやOさんも呼ばれた。 だが、そこにKさんの姿はなかった。
その理由とは、Kさんのことである。 とりあえずKさんとの関係を整理しておくが、彼は当時Y大学の学生だった。 男気が強く、頼まれたら「任しとけ」という、まさに九州男児タイプの人だった。 そういう人とぼくのようなひねくれた男が、なぜウマがあったのかはわからない。 おそらくそこには、お互い一人っ子というのがあったのかもしれない。 Kさんはいつもぼくの兄貴のように振る舞い、何かあるといつもぼくをかばってくれた。
バイトも終わりに近づいた頃だったと思うが、ぼくはKさんに誘われて、その年プロ野球のドラフトにかかり、H球団に入団が決まったK選手という方の壮行会に行ったことがある。 K選手はIさんの友人だった。 体育会系で、縦の関係を重んじるKさんは、始終律儀な態度を取っていた。 一方のぼくはというと、そこで飲み過ぎてしまい、かなり羽目を外していたのだった。 知りもしないK選手に、「K選手、がんばってくださーい。でもぼくはライオンズファンでーす」などとまめらない口で言って、何度も握手を求めていた。 挙げ句の果てに、ギターを手にガンガン歌い出した。 後で聞いた話だが、その声はあまりに大きかったらしく、そこにいた人たちはかなり迷惑していたという。 その会場はビルの2階にあったのだが、その上はパブで、いつも騒がしいところだった。 ところが、ぼくの声はそのパブを通り越し、4階のスナックにまで聞こえたと言うから、かなりがなっていたのだろう。
声が枯れるまで歌って、その後ぼくは不覚にも寝てしまった。 これがいけなかった。 飲んで騒いでいるうちは気分もいいのだが、動きが止まってしまうと酔いというのは気分の悪い方向に向かってしまうものである。 案の定、ぼくは気分が悪くなった。 ところが、その頃はまだ吐き方というのをわきまえてなかったのだ。 今ならそういう時、人知れずトイレに行き、指を突っ込んではけるだけ吐いてしまう。 そして、何事もなかったような顔をして席に着くのだが、その時はまだそういうテクニックを知らなかった。 というより、吐くのが怖かったのだ。 そこで、我慢をしてしまった。 しかし、こういう時に我慢すると逆効果になってしまうものである。 「吐くまい」という意識が、さらに不快感を強めていく。 その結果、ぼくは衆目の面前で「ゴボッ」と吐いてしまった。 それも、Kさんの新調のスーツの上に。
それでもKさんは怒らなかった。 みんながKさんに、「ああ、新調のスーツが台無しやん。大丈夫ね?」と声をかけても、「スーツなんかどうでもいいです。それよりもしんたが心配で」と言っていた。 そういう中でも、ぼくはK選手に、「K選手、がんばってくださーい。でもぼくはライオンズファンでーす」と言って、汚れた手で握手を求めていたのだった。
X子のことや、Oさんのことでぼくがなぜ反発しなかったのかというと、以上のようないきさつがあったため、頭が上がらなかったのだ。
打ち上げが終わり、その数日後にバイトは解散になった。 ぼくはこのバイトで、仕事の難しさよりも、人付き合いの難しさを知った。 たったひと月半だったが、その短い期間にいろいろな事件があった。 何気ない言葉で袋だたきに遭わされそうになったり、はっきりした態度を取らなかったためにだめになったX子のこともあった。 もちろん、Oさんとのことも。 そのつど反省することも多かった。 とくに、Kさんのようなタイプの人とつき合うのは初めてだった。 そのため、この人とはどういう自分で接すればいいのか、などと考えることもあった。 また、Kさんを見ていると、自分が普通の人ではないように思えてきて、「この先、本当にまともに生きていけるんだろうか」などと思うこともあった。
とはいえ、楽しいひと月半だった。 その後も、しばらくバイト仲間とのつき合いは続いた。 特に覚えているのは、みんなと会うのが最後になった、成人の日のことだ。 そのバイト仲間の中で、その年成人になったのは、ぼくとAという男の二人だった。 正月にKさんに会った時に、「成人の日に、おまえたちのお祝いをしてやる」と言われていたのだ。
その成人の日、成人式に参加しなかったぼくは、午前中に慣れないスーツを着て親戚周りをした。 もちろん、ご祝儀目当てである。 それが終わってから、ぼくはKさんたちが用意してくれたお祝い会場に行った。 お祝い会場と言っても、別に店を借りたわけではない。 Oさんたち女性陣の一人であるYさんという方が、家を開放してくれたのだ。 そのおかげで時間を気にせずに、夜遅くまで飲み食べ語ることが出来たのだった。
宴もたけなわになった頃だった。 KさんがIさんに、「ちょっといいですか?」と声をかけ、別の部屋に連れて行った。 その部屋にはOさんがいたのだ。 KさんはIさんを部屋に入れると、自分は外に出た。
ぼくはKさんに聞いた。 「何がありようと?」 「例の件よ」 「例の件…?」 「告白タイム」 「ああ」
しばらくして戻ってきたOさんは、席に着くなり一気に酒を飲みほした。 それを見たぼくたちは、すべてを悟った。 酔いが回るに連れ、Oさんは「Iさん好きです」を繰り返し口にした。 しかし、どうしようもなかった。 Iさんにはすでに彼女がいたのだった。 どうなるものかと思ったが、さすがにIさんは大人だった。 なるべくOさんが傷つかないような方向に話を持っていった。 それを見ていたKさんは、「ホントこの人はいいカッコしいなんやけ」と言って、Iさんを批難した。 が、当のOさんはIさんの話で吹っ切れたようだった。
その後、祝成人会はお開きとなった。 最後に「またこういう会を開こう」ということになったが、その後、現在に至るまで、その会は開かれていない。 というより、この先も開かれないだろう。 それには理由がある。
○日、仕事が終わってから、ぼくたちは打ち上げ会場に集合した。 Kさんはぼくをダシに、Oさんと話している。 「こいつから『Oさんとつき合いたい。Kさん、どうにかならんかねえ』と相談受けたんよ。おれは『年上やけやめとけ』と言うたんやけどね。ちょうどその頃、X子という井筒屋のアルバイトの女子高生が、おれのところに『しんたさんとつき合いたい』と言ってきたんよ。そのことを伝えると、しんたは『おれにはOさんしかおらんけ、X子にそう言うとって』と言う。しかたなく女子高生には断りを入れたんやけど、おれはその子のほうが、しんたにはお似合いだと思った…」 ぼくはそれを聞いて、『何が、しんたにはお似合いだ、だ。全然話が違うやないか』と思っていた。 X子のことは、ぼくが断ったのではない。 Kさんが勝手に断ったのだ。 それも、そのことをぼくに伝える前に。
一方のOさん。 「あの夜ねえ、Yさんと帰っていたら、突然後ろからバシッと肩を叩かれてね。びっくりして顔を見てみたら、しんた君やったんよ。『何か用?』と聞くと、『ねえ、つき合って』やけね。そんな口説き方はないやろ。女の子は、デリケートなんやけ」 それを聞いてKさんは言った。 「えっ、肩をバシッと叩かれたと?」 「うん、痛かったよ」 「そうね、そんなことしたんね。しんたは変っとるけねえ」 そんな二人のやりとりを聞いていて、だんだん面白くなくなってきたぼくは、持ってきたギターを引っ張り出して、歌を歌っていることにした。
ところで、二人のやりとりを見ていて思ったのだが、OさんのKさんに対する態度は、ぼくのそれとはまるで違うものだった。 ぼくと話す時は、やはり年上という意識からなのか、「ああしなさい、こうしなさい」というように命令口調になることが多い。 ところが、Kさんには甘えるような口調で話している。 そういう会話を聞きながら、ぼくは『Oさんは年上のほうが好きなんだろうな』と思った。 そして、『この人たちは、このままつき合っていくんだろうな』と思ったものだった。
ところが、どうもそうではなさそうなのだ。 お酒が回るうちに、Oさんは「Iさん」という名前を口にするようになった。 どうやらOさんは、バイト仲間の一人であるIさんのことが好きらしい。 Kさんも、会話の途中にそのことに気づいたようだった。
IさんはF大の4年生だった。 浪人して大学に入ったのだろうか、歳はKさんより一つ上だった。 背が高く、甘いマスクをしたIさんに、Oさんは前から憧れを持っていたようだった。 Iさんはギターを弾くとかで、ギターをいじっているぼくに、何度も話しかけてきた。 Oさんは、その都度Iさんを目で追っていた。
Kさんといえども、Iさんが相手だとかなわないと思ったのか、急に「おれが仲を取り持ってやろうか」などと言いだした。 そして、宴会の最後には、「おれに任せとき!」と胸を叩いていた。
2005年01月21日(金) |
西日本新聞夕刊を読んで |
【北九州市議選告示】 今日、北九州市議選が告示された。 投票日は今月の30日である。 その日ぼくは仕事なので、次の休みにでも期日前投票に行ってこようと思っている。
ぼくの住む八幡西区は定員数15名に対し20名が立候補している。 が、ぼくは誰も知らない。 新聞には経歴が書いているが、経歴だけでは何もわからない。 一市の市議選にすぎないから、政見放送などはもちろんないだろう。 早くも選挙カーが巡回しだしたが、とにかくうるさいので聴く気にもならない。 いったい何を見て、その人を判断すればいいのだろう。
そういえば、今年に入ってから、ポストに候補者のパンフレットなどが入るようになった。 おそらく「これを読め」と強要しているのだろうが、いったい自分を何様だと思っているのだろう。 またそこには、人から紹介を受けただの、高校同窓会の会員であるだのと書いてある。 これがまた不愉快を誘う。 ぼくは、人のつてやコネを頼りに投票してもらおうなどという甘い考えの奴に、ろくな人間はいないと思っている。 それがなければ当選しないというのであれば、選挙に出ることをやめてしまえばいいのだ。 ということで、そういう人に入れることはしない。 もちろん、パンフレットは自動的に削除、である。 さて、誰に入れようか。
【突然服脱ぎ女性追走 新聞販売バイト逮捕】 “福岡県警八幡西署は二十一日、公然わいせつの疑いで北九州市八幡西区上上津役五丁目、新聞販売店アルバイト日下部和彦容疑者(二三)を逮捕した。 調べでは、日下部容疑者は十六日午後六時五十分ごろ、同区上上津役一丁目の路上で、突然服を脱いで全裸となり、歩いていた会社員女性(二三)を約三十メートル追いかけた疑い。 同署によると、女性は自宅に逃げ込み無事。日下部容疑者は脱いだ服を現場に残し、パンツ姿で逃げたという。服の近くに乗り捨てられたバイクの名義が日下部容疑者だったため、同署が事情を聴いたところ「急に脱ぎたくなった」話し、容疑を認めているという。”
こういうバカは、春にならないと出てこないものとばかり思っていたが、昨今の異常気象で寒の内にも現れるようになったのだ。 16日といえば、たしか小雪が舞っていたような記憶がある。 そういうクソ寒いさなかに「急に脱ぎたくなった」というのだから、恐れ入ってしまう。 いったい彼は、どういう理由から「急に脱ぎたくなった」のだろうか? 女性を見て脱ぎたくなったのだろうか? あまりの寒さに興奮したのだろうか? その辺は、本人に聴かないとわからない。 が、もし後者なら、東北や北海道に行ったら、毎日全裸で走ることだろう。
ところで、この日下部君のアルバイト先というのが、朝日新聞なのだそうだ。 朝日新聞といえば、自作自演の常習犯。 もしかして、この事件も自作自演なのか? ここ数日、NHK他から批判の矢面に立っている感のある朝日だが、もしかして世論の目をそらさせようとして、このアルバイト君を利用したのではないだろうか。 まあ、そんなことはないだろうが、憶測で記事を書くような新聞社だからこそ、逆にいろいろと憶測してやればいいのだ。 そういう逆朝日的な新聞も出てきたらおもしろいだろうに。
「日下部君を利用しましたね?」 「いいえ、利用していません」 「日下部君を利用しましたよね?」 「いいえ、利用しておりません」
翌日の朝刊… “朝日、世論の目をそらすために、アルバイトを雇い、全裸で女性を追走させる”
これも憲法で定めるところの『表現の自由』である。
この時、ぼくはあることに気がついた。 ぼくに「好きな人はおるか?」と聞いて以来、それまでまったく出なかったOさんの名前が出るようになったのだ。 もちろん、Kさんは勝手にぼくがOさんのことを好きと思っていたのだから、それも有りだと思っていた。 それなら、ぼくがふられたらそれで終わりになるはずだ。 ところが、その後もなぜか頻繁にOさんの名前が出てくるのだ。 こういう場合、KさんはOさんのことが好きだと思うのが自然だろう。
もしかしたら、Kさんは、ぼくがOさんのことを何とも思ってないのを知っていたのかもしれない。 それでもぼくを焚きつけたのは、Oさんに近づく手段として、ぼくを利用したかったからではないのだろうか。 だから、しつこかったのだ。 Kさんから「まだか、まだか」とせっつかれるたびに、ぼくは何か変だと思ったものである。 が、「しつこいのう」という思いのほうが強かったために、そういうことを突っ込んで考えることが出来なかったのだ。 なるほど、このバイトが終わってしまえば、当然Oさんとのつながりはなくなってしまう。 しかし、自分からは言い出しにくい。 そこでぼくを利用したというわけだ。 Kさんがぼくを利用したという推理が当たっていたのかどうかは知らないが、KさんがOさんを好いていたという推理は正しかったようだ。 数ヶ月後、KさんはOさんとつき合うことになる。
さて、またもやぼくは走らされることになった。 前回と同じく、ぼくはOさんの後を息を切らして追いかけていった。 だが、さすがにこの時は、肩を叩くことはなかった。 Oさんはぼくの顔を見ると、「またか」というような顔をした。 が、ぼくは気にせずに言った。 「もうすぐこのバイト終わるやろ」 「うん」 「それでKさんが、打ち上げを企画しとるんよ」 「ふーん」 「で、Oさんたちも誘おうということになって…」 「いつ?」 「○日」 「○日かあ。私は行けると思うけど、他の人がわからんけ、明日聞いてみるね」 「お願いします」
翌日、Oさんがぼくに「昨日の件、いいよ」と言ってきた。 「こっちはUさんとYさんと私の3人。そうKさんに言っといて」 「わかりました。Kさんに伝えときます」 そしてぼくはKさんにその通り伝えた。 「そうか来るんか…。よくやった。さすが友だちが頼むと違うもんやのう」 「・・・」
告白の翌日、予想通りKさんはぼくに「昨日、どうやったか?」と聞いてきた。 ぼくは平然とした顔をして、「ふられたよ」と言った。 「ふられたか…。何と言ってふられたんか?」 「友だちならいいよと」 「そうか、友だちならいいよか。ハハハ」 「笑い事じゃないっちゃ」 「そうやのう。おまえはふられたんやけ、それどころじゃないよのう。でも心配するな。おれが次の人を探してやるけ」 紹介されたら、またぼくはKさんから『告白しろ攻撃』を受け、あげくに一本道を息を切らしながら走らなければならなくなる。 そこでぼくは、「もういいです」と言って断った。 「そうか。もう女はいらんか?」 「そう言う意味じゃなくて…」 「わかった。じゃあ、もう世話するまい」 「そうして下さい」 「じゃあ今夜は飲みに行こうかのう。残念会をしてやる」
その夜、朝の言葉通りに、Kさんはぼくを飲みに連れて行ってくれた。 そこそこ酔いが回った頃だった。 Kさんは、ぼくにまた難題をふっかけてきた。 「そろそろクリスマスやのう」 「うん」 「それにしても、おまえは惨めやのう。クリスマス前にふられるとか」 「もうその話はせんで」 「ああ、悪い悪い。ところで、クリスマスということは、もうすぐこのバイトも終わると言うことやのう」 「そうやねえ」 「そこで、おまえに相談があるんやけど」 「えっ?」 「日にちはまだ決めてないんやけど、今度バイト仲間で打ち上げしようと思っとるんよ」 「ふーん」 「で、メンバーはいつもの6人なんやけど、何ならOさんたちも呼んだらどうかと思っての」 「えっ?」 「いやか?」 「いや、別に」 「そうか。おまえが嫌なら呼ぶまいと思ったけど、おまえはOKなんやの。じゃあ、話は早い。おまえ、Oさんたちを誘ってくれんか?」 「えーっ、Kさんが誘えばいいやん」 「おれはOさんとは別に親しい間柄ではない。その点おまえは友だちやないか」 「・・・。友だちと言ったって、あれはふる時の常套句やないね」 「常套句でも何でも、Oさんは『友だちならいい』と言ったんやろ?」 「そうやけど…」 「じゃあ、友だちやないか」 「・・・」 「いつにしようかのう…」 Kさんは手帳を開いて、自分のスケジュールをチェックしだした。
しばらく考え込んでいたが、ようやく決めたようで、「よし、○日にしよう」と言った。 「えっ、○日?あと3日しかないやん」 「おう。しかたなかろうが。その日しか空いてないんやけ」 「おれは他の人を誘うけ、おまえはちゃんとOさんたちを誘うんぞ」 「・・・」 「何、心配するな。友だちの頼みなんやけ、ちゃんと聞いてくれるっちゃ」
今日は伯父の法事だった。 朝早くから寺に集まり、寒い中法要が行われた。 真言宗なので、うちの宗旨である浄土真宗とはお経も違う。 そのせいか、時間が長く感じた。
今日のぼくの出で立ちは、礼服だった。 内輪だけやる法事だったので、最初はラフな格好で行こうと思っていた。 ところが、嫁ブーがそれに異議を唱えた。 「内輪だけと言っても、一応法事なんやけ、スーツくらい着ていったら?」 「そういうおまえは何を着て行くんか?」 「スーツ着て行こうと思っとうよ」 「そうか。じゃあ、おれもそうしようかのう」
そこで、クローゼットの中にかけてあるスーツを調べてみた。 ところが、どれも前の会社にいた時に買ったものばかりである。 前の会社にいたのは13年前のことだから、当然その頃と比べると体型も変っている。 何せ、その頃よりも7キロも太っているのだ。 そのため、サイズが合わなくなっている。 ということで、今の会社に入って作った礼服を着て行ったのだ。
ところが、そこで問題が起きた。 普段スーツを着ないから、当然Yシャツも着ない。 ということで、Yシャツをどこにしまっているのかがわからない。 実家に電話しても、「こっちにはないよ」と言う。 そこで、タンスやクローゼットの中をしらみつぶしに探すことになった。 とにかく時間がないのだ。 嫁ブーが「まだー?」とせつくので、余計に焦る。 ようやく見つけたYシャツは、しわだらけだった。 アイロンをかける暇などないので、そのまま着て行くことになった。 ところが、着てみてわかったのだが、そのYシャツ、何と半袖だったのだ。 「他にないんか?」 「もうそれでいいやん。時間がないんやけ」 ということで、しぶしぶその半袖のYシャツを着て行くことになった。 その分は、皮のコートでカバーすることにした。 ところがこの寺、山の上に建っているのだ。 そのため、天井が高く、だだっ広い本堂の寒さは尋常ではない。 時折、すきま風も入ってくる。 せっかく皮のコートもまったく役に立たず、焼香の時にはぼくの体はすでに凍ってしまっていた。 手はかじかみ、お香も満足につかめなかったのだ。
途中住職が、シンバルのような物を持ち出して、叩きだした。 普段なら、そういう物が登場すると、つい笑ってしまい、「日記のネタにしてやれ」と思うぼくだが、今日は笑うことも出来なかった。 が、何とかネタにはなっている。
こうなれば善は急げだ。 さそっく行動に移した。 ぼくたちの距離は300メートルほど離れていた。 そこでダッシュで追いかけた。 その間、何と言おうかと考えていた。 が、何も思いつかなかい。 「こうなりゃ出たとこ勝負だ」と思った。 そして、Oさんに追いつくと、その肩を叩いた。 Oさんはぼくのほうを向いた。 何がなんだかわからない様子だった。 が、ぼくの顔を確認して、少しホッとしたような表情をした。 それを見てぼくは、「つき合って下さい」と言った。 Oさんは、別段驚いているふうでもなく、「突然そんなことを言われてもねえ…」と答えた。 ぼくは、そこから何と言っていいのかわからなくなった。
数秒の沈黙の後、Oさんが口を開いた。 「あなたいくつ?」 「今20歳やけど」 「何ね、年下やないね」 Oさんは、まったくぼくには興味がなかったようで、隣にいた女性Uさんと、顔を見合わせて笑っていた。 どうやら、これで断ってくれると確信したぼくは、「だめ…よね?」と念を押してみた。 するとOさんは、「友だちということではいけんの?」と言った。 「友だちか…」 「だめ?」 「いやいいけど」 「じゃあ、友だちやね。じゃあね」 そう言うと、Oさんはさっさと歩き出した。
その後ろをぼくは、ゆっくりと歩きながら、内心ホッとしていた。 予定通り断られたのだ。 元々好きでもなかった人だから、ふられても落ち込む必要がない。 これでKさんの執拗な攻撃を受けることはなくなるだろう。
しかし、どうして女は男をふる時に、『友だち』という言葉を使うのだろうか。 ぼくは、これまで何度かこの言葉に泣かされている。 彼女たちのいう『友だち』とは、いったい何なのだろう? どこまでが許されるのだろうか? 電話をかけてもいいのだろうか? 映画に誘ってもいいのだろうか? 食事に誘ってもいいのだろうか? そのへんがよくわからないのだ。 いや、もしかしたら、『友だち』と言っている本人にもわからないのではないか? ま、体のいい断り文句だと言えば、それまでだが。
では、もし彼女たちがOKする時、いったいどういう言葉を使って、男を受け入れるのだろうか? 「はい」のひと言だろうか? 涙の一つでも見せるのだろうか? それとももったいつけて、「考えさせて」などと言うのだろうか? ぼくにはうまくいった経験がないので、そのへんがよくわからない。
そう言うと、「嫁さんはどうだったんだ?」と聞く人も出てくるだろう。 嫁さんとは、帰る方向がいっしょだったため、いつも帰りがいっしょになった。 それがいつの間にか、つき合いに発展したものである。 だから、別に「つき合って」などということはなかったのだ。
もうすぐクリスマスというある日。 バイトが終わり、家に帰ろうとした時だった。 Kさんから呼び止められた。 「おい、いいかげんにOさんとカタを付けれ。このままでいいんか?」 「…うん」と、ぼくは気のない返事をした。 実は、ぼくはまだX子のことを悔やんでいたのだ。
そういう事情を知らないKさんには、ぼくに告白する勇気がないように見えたのだろう。 怒ったような、呆れたような口調でこう言った。 「本当におまえはだめやのう。おまえを見とるとイライラする。だめで元々やないか。男ならさっさと『つき合ってくれ』と言ってこい!」 「・・・」 「何ならおれが言うちゃろか?」 「そんなことせんでいい」 「それなら自分で言うてこい」 「…うん」 「いいか、男は押しぞ。押して落ちん女なんかおらん」 「そういうもんかねえ」 「おう。おれはいつもそうしてきた」 「ふーん」 「じゃあ、今日ちゃんと言えよ」 「・・・」 「明日、報告を待っとるけの」 「・・・」 「わかったか!」 「…うん」
後年、人にこの時の話をしたことがある。 それを聞いた人は、みな一様に「Kさんは後輩思いのいい人やったんやね」と言ったものだ。 確かに、Kさんは後輩思いのいい人だった。 しかし、それだけでぼくを焚きつけたのではなかった。 他に理由があったのだ。 しかし、その理由は、その時のぼくにはわからなかった。 おそらく、Kさんにもその理由はわからなかっただろう。 本人がわからないというのも変な話であるが、きっとわかっていなかったに違いない。 それは、Kさんの運命に関わりのあることだったからである。 そのことは、後で触れることになるだろう。
さて、困ったことになった。 Kさんに「うん」と言った手前、その日に言わなければならなくなった。 Oさんは、ぼくがKさんに捕まっている時に、会社を出ていた。 ぼくが会社を出ると、Oさんは遙か向こうを歩いていた。 人影がもう一つ見える。 おそらく、事務で働いている他の女性と帰っているのだろう。 ぼくは、どうしようかと迷った。 いっそ、「見失った」とKさんに報告しようかとも思った。 しかし、道は一本道である。 見失うはずがないのは、Kさんもよく知っている。 「どうしようか…」
しかし、言わないと、またKさんのしつこい攻撃が始まる。 いろいろ考えたあげく、一つの結論に達した。 それは、「ふられよう」ということだった。 元々、それほど好きでもなく、ましてやつき合いたいとも思ってなかったのだから、ふられたとしても、痛くも痒くもない。 相手には、ただの変な人と思わせておけばいいのだ。 その結論に達して、ぼくは気が楽になった。
前にも書いたが、ぼくはOさんのことを好きだったわけではない。 ただ、Kさんから「この会社の中では誰がいいか?」と聞かれたので、Oさんの名前をあげただけの話である。 実は、その頃ぼくには、気になっている女性がいたのだ。 それは井筒屋に実習にきている女子高生だった。 彼女は3年生だった。 当時ぼくは20歳にだったから、2つ年下ということになる。 つき合うとすれば、ちょうどいい年の差だ。
KさんからOさんとつきあえ、と言われた後のことだった。 そのKさんから意外な話を聞いた。 「おい、しんたは、女子高生が実習に来よるのを知っとるか」 「うん。時々ここに来るやん」 「おう。その中にX子という子がおるやろ」 「いや、名前までは知らんけど…。どの子かねえ?」 「一番背の高い子よ」 「ああ、あの子ね」 「それがの、あの子がおまえのことを好いとるみたいなんよ」 「えっ?」 一番背の高い子というのは、ぼくが気になっている女性だった。
「それでの、そのX子がおれに、『Kさん、しんたさんっているでしょう。あの人彼女とかいるんですか?』と聞いてきたんよ」 「えっ…。で、何と答えたと?」 「『あいつはだめ。他に好きな人がおるけ』と、ちゃんと言うといてやったぞ」 「えーっ!(『ちゃんと』って、そういうことは答えないでほしい)。それでどうなったと?」 「諦めたみたいぞ」 「・・・」 「おまえにはOさんがおるんやけ、女子高生なんかどうでもいいやろうが」 「・・・(どうでもよくない)」 「それよりも、Oさんのことはどうなったんか?もう言うたんか?」 「いいや、まだ」 「おまえ何しよるんか。早くせんと、このバイト終わってしまうぞ」 「…ああ」
ぼくはOさんのことは、もうどうでもよかったのだ。 それよりも、X子のことが悔やまれてならなかった。 しかし、「バイトが終わるまで、まだ時間はある。そこで訂正すればいい」と思い、気を取り直すことにした。 ところが、翌日、大勢いた女子高生が、井筒屋から一斉に姿を消したのだった。 実は、X子がKさんにぼくのことを聞いた日が、実習最後の日だったわけだ。 X子は、その後ぼくの前に姿を見せなかった。 ということで、ぼくはX子に訂正できないままになってしまった。
今朝、ネットで銀行の残高を見てみると、えらく減っていっているのに気がついた。 銀行の引き落としが年末に集中してあったのはわかっている。 が、予定よりも5万円近くも多く減っているのだ。 「何をこんなに遣ったんだろう」と思い、いろいろと調べてみた。 年末から年始に買った物といえば、セラミックのお櫃と、乾燥肌用のクリームと、母のために買った毛染め用のシャンプーとコンディショナーくらいだ。 それらを合計しても1万円前後にしかならない。
ああ、クリスマスのケーキを二つ買ったんだった。 たしか二つで5千円だった。 これらを合わせても1万5千円だ。 あとの3万5千円は何に遣ったんだろう。
そうだった。 初詣でお札を家の分と実家の分、合わせて6枚買ったんだった。 あれが一枚8百円くらいだった。 それにお賽銭も入れているから、6千円くらいにはなるだろう。 ということは、残りは2万9千円か。 そうそう、買った物は何も千円以上する物だけではない。 その間にジュースやお菓子も買っている。 日に3百円は遣っているから、年末年始のひと月で9千円か。
あと2万円である。 これが問題だ。 その間、ぼくとしては珍しく、本を買っていない。 では、いったい何を… 再度買った物はないかと思い起こしてみた。 が、何も思いつかない。 「こうなりゃ面倒だけど、領収書関係をあたるしかない」と思い、家のあちらこちらに散らばっている領収書を探すことにした。 が、あいにく歯医者に行く時間になった。 そこで、あとでそれを探すことにして、とりあえず家を出た。
治療中もずっとそのことを考えていた。 あれでもない、これでもないと考えていくうちに、一つの考えに行き着いた。 「そうだった!」 何のことはない。 2万円の出先は、今いる歯医者だった。 一回当たりの治療費が、だいたい2千円前後である。 それを10回近く払っているから、2万円になるではないか。 これで、ようやくぼくの気持ちも落ち着いた。
それにしても、歯医者というのは儲かる商売だ。 ひと月に一人の患者から2万円。 3割負担だから、およそ7万円。 患者が10人だと、ひと月70万円。 今のぼくの収入からすれば、それでもおいしい。 しかし、そこはけっこう流行っている歯医者だから、患者がたった10人ということはないだろう。 きっとその数倍の患者はいるはずだ。 仮に5倍、つまり50人の患者を抱えているとしたら、月350万円。 必要経費が100万円だとして、儲けは250万円である。 年収に直すと3000万円だ。 それだけあれば、住宅ローンもたった数年で返せるし、ちょっとした外車もキャッシュで買える。 あと、高価なパソコンを買って、プラズマテレビを買って、容量の大きいDVDを買って…。 そういう物を買っても、余裕で生活できる。 何ともうらやましい話である。
いったい歯医者一家の人たちは、どういう金銭感覚をしているのだろう? きっと、ぼくのように「5万円も減っている。何に遣ったんだろう」などと言って、大騒ぎはしないはずである。
その運送会社にはかなりの数のアルバイトがいたが、その中で特に仲が良かったバイト仲間が5人いた。 もちろん上記のKさんも入っていた。 この5人とはよく飲みに行ったものだった。 仕事が終わると、街に繰り出す。 店が閉店になっても飲み足らず、Kさんの家に行ってはまた飲み直す。 バイトの後半は、そんな生活が続いていた。 そのうちに事務所で勤務しいている女性3人とも仲良くなり、その後頻繁にホームパーティなどを開くことになるのだが、そのきっかけを作ったのはぼくだった。
その女性の中に、Oさんというきれいな人がいた。 ぼくはその人に、ほのかな憧れを抱いていた。 が、好き、というほどでもなかった。 ある日、Kさんから「しんた、おまえ好きな人はおるんか?」と聞かれた。 「高校時代から、ずっと好きな人がおるよ」 「つきあいよるんか?」 「いや」 「じゃあ、片想いか?」 「まあ、そんなところやね」 「他におらんとか?例えばY運送の中の人とか」 「Y運送の中なら…、Oさんかねぇ」 「Oさん?ああ、あの事務の人か」 「うん」 「どこがいいんか?」 「どこがと言われても…。まあ、全体の雰囲気やね」 「そうか」 「ところであの人いくつなんかねえ?おれとあんまり変らんようやけど」 「さあ、知らん。今度聞いとってやろうか」 「お願いします」
それからしばらくして、Kさんが「Oさんの歳がわかったぞ」と言ってきた。 「いくつなん?」 「おまえよか一つ上らしい」 「そうなん」 「喜べ」 「え?」 「今、彼氏はおらんらしいぞ」 「ふーん」 「好きならつきあえ」 「いや、別に好きというわけじゃない」 「この間、好きと言ったやないか」 「好きとは言ってないよ」 「いや、そんなことはない。口に出さんでも、おれにはよくわかった」 「はあ?」 「こういうことは、はっきりさせといたほうがいい。だめならだめで、早いうちのほうが傷つかんですむ」 「・・・」 「いいか、今日の夜、告白してこい」 「あ?」 「早いほうがいいと言ったやろ」 「いや、今日は…」 「今日はだめなんか。じゃあ、いつ言うんか?」 「いつと言われても…」
ぼくは早くこの話から抜け出したかった。 だが、Kさんはなかなか終わってくれそうにない。 そこで、「わかった。じゃあ近いうちに言うけ」と言ってその場を逃れることにした。 「そうか。じゃあ、結果をちゃんと報告せよ」 そう言うと、Kさんはようやくその話を終えた。
ぼくはホッとした。 そして、「ああは言ったものの、時間を長引かせれば、そのうちKさんも忘れるだろう」と思っていた。 ところが、Kさんはなぜかしつこかった。 ことあるたびに、「おい、告白したか?」と聞いてくるのだ。
午後2時過ぎだった。 ぼくが荷出しをしていると、突然「ズン!」という鈍い音がして、腹を突き上げられるような衝撃が走った。 ぼくの脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。 『地震』 すぐさまぼくは、近くいたパートさんを捕まえて、「ねえ、今、地震があったやろ?」と聞いた。 するとパートさんは、「えっ、全然揺れてないよ。何かと勘違いしたんやないと?」と言った。 『いや、そんなことはない、あれは絶対地震だ』と思ったぼくは、大勢人がいる化粧品売場に確認しに行った。 「ねえ、今、地震があったやろ?」 ところが、化粧品売場にいた美容部員たちは、「地震なんてないですよぉ。しんたさん居眠りでもしてて、寝ぼけてたんじゃないんですか?」と言って笑った。
ぼくはその後も何人かの人に聞いて回ったのだが、「揺れてないよ」とか、「店が老朽化して、揺れたんかねえ」とか、「どこかで事故でもあったんやないんね」とか言って、誰も相手にしてくれなかった。
『こうなりゃテレビの地震速報だ』と思い、ぼくはテレビのあるところに行った。 ところが、どのチャンネルも地震速報なんて流していない。 『やっぱり、地震じゃなかったんかなあ?でも、おれは寝ぼけてなんかいなかったぞ』 そう思った時だった。 携帯の着信音が鳴ったのだ。
しかし、それはニュース速報の着信音として設定している音ではなかった。 普通のメール用に設定している、単純な「リーン、リーン」という音だった。 こんな忙しい時に何だろう、と思いながらメールを開いてみると、何とそこには『各地の地震情報』という文字があるではないか。 『やっぱり地震やった』 そう思ってメールを読んでみると、今回の地震の震源地は福岡県福岡地方で、津波の心配はないということだった。 さらに、最大の震度は2で、筑豊地方がその震度2を味わった地域になっていた。 『ところで、北九州地方はどうなっているんだ?』 と見てみると、震度1のところに八幡西区の文字が見えた。
そのメールを何度か読み直して、地震があったのは間違いないと確信してから、先の化粧品売場に行った。 そして、そこにいた美容部員を捕まえて、 「やっぱり地震やったぞ」と言った。 「えっ、そうだったんですか。何も感じんかったけ、てっきりしんたさんが寝ぼけているんだと思ってた」 「アホか。どっちが寝ぼけとるんか。便所に行って顔洗ってこい!!」 それからぼくは、地震があったことを、会う人会う人に言って回った。
しかし、たった2センチの積雪で交通渋滞に陥ったり、こちらにほとんど影響のなさそうな台風で学校を休校したり、と何かと大げさな県民性であるがゆえに、震度2程度の地震でも大騒ぎになると思っていた。 ところが、ぼくが「あの衝撃はすごかった。何せ、縦揺れだったんだから」と言っても、出てくる言葉は「へえ」だけだし、「今まであんな地震に遭ったことがない」と言っても、「そうなん」と軽く流すだけである。
それは、何もぼくの回りだけではない。 テレビのローカルワイドでも、ちょっと地震に触れた程度で、ほとんど感心がないようだった。 それよりも、隣の晩ご飯や、お料理コーナーのほうが大切なのだろう。
結局、地震で大騒ぎしていたのは、ぼく一人だったわけだ。 つまらん。
今日、宗像大社に初詣に行った。 かなり寒かったが、時折晴れ間も出たりして、まずまずの天候だった。 宗像大社に行く時は、いつも城山越えをして宗像に入るのだが、今日は冬の海を見たいこともあって、海岸線を走っていった。 凪であれば浜でも歩こうかと思っていた。 ところが、今日の玄界灘は、期待に反して波が高く荒れていた。 東郷元帥風に言えば、「本日天候やや晴朗なれども波高し」ということになろうか。 とても浜を歩く気分にはならなかった。
宗像大社には長居しなかった。 普段ならゆっくり歩く参道も、今日はそそくさと歩いていった。 そして、さっとお参りをすませ、お札を買って、駐車場に戻っていった。 なぜ急いだのかと言えば、もちろん寒かったからである。 しかし、これで昨年果たせなかった三社参りが出来たことになる。 他の二社は、元日と二日に行った。 二社とも由緒のある神社なのだが、いかんせん地元の人しか知らないローカルな神社だった。 そこで三社目にメジャーな神社を神社を選んだわけだ。
なぜ三社にこだわるのかというと、うちの神棚が三社仕様になっているからだ。 昨年の夏に買ったものだが、昨年は二社しか行ってないので、お札は二社分しか祭ってなかったのだ。 これで、ようやく三社埋まるわけだ。 「今年はいいことあるぞ!」 と、いちおう期待しておく。
さて、今日はその後、宗像大社のそばにある鎮国寺に行った。 そこに行った理由は、もちろんお参りすることにある。 だが、それよりも境内の茶店に売っている鎮国饅頭がほしかったのだ。 また寒かったので、温かい甘酒も飲みたかった。 宗像大社と同じく、さっさとお参りをすませてから、茶店に入った。 そこで充分に暖をとり、帰路に着いた。
1時間半足らずの小ドライブだったが、神社と寺を回り、正月から塞ぎ気味だった気分が晴れたものだった。 どちらもさっさとお参りをすましたものの、やはり神社やお寺でお参りすると敬虔な気持ちになる。 それと同時に、そういう場所に行くと、なぜか懐かしさや安らぎを得られるものである。 ぼくは保育園がカトリック系だったため、金曜日になると園内にある教会に行ってお祈りをしていたのだが、敬虔な気持ちにはなるものの、お御堂の独特なにおいに、気持ちが凍える思いがしたものだった。 まだ幼かったからわからなかったが、きっとそこでは懐かしさや安らぎというものは得られなかったのだろう。 今でも、教会に行くのは好きではない。 それを考えると、やはり自分は日本人なんだなと思う。 ということで、来年は五社参りを目指そうと思っている。 今年行った三社に加え、宮地岳神社と太宰府天満宮に参るのだ。 もちろん、今年以上の安らぎを求めてである。
鎮国寺の緋寒桜
さて、積荷が終わり、ぼくたちは井筒屋に移動した。 そこでの仕事は、店から運ばれてきた多くのお歳暮を、地区別に仕分けすることだった。 各地区に番号が振られていて、それをベルトコンベアから流れてくるお歳暮ひとつひとつに書き込んでいく。 それが大変な仕事だった。 まず、地区番号を覚えなければならない。 普段ならその番号を覚えなくても、そこに一覧表があるのでそれを見ながらやっているらしい。 が、何せ数十万人分のお歳暮である。 そんな悠長なことをやっていたら、いつまでたってもお歳暮は配達されない。 ということで、地区番号をすぐに覚えるようにという厳命が下ったのだ。
そこで必死に番号を覚えたのだが、いざ実践となると、なかなかその番号が出てこない。 そこで、ちらちら一覧表を確認していた。 すると手が遅くなる。 そのため、ベルトコンベアに荷物を載せる人から、再三「まだかーっ!」と文句を言われたものだ。 ぼくが番号を書いて、荷物を次に回さないことには、次の荷物が載せられないからだ。
暗記した地区番号を実践に生かせるようになるまでには、けっこう時間を要した。 それでも10日ほどたつと、百人一首のように最初の一文字を見ただけで、瞬時に番号を書き入れられるようになった。 それまでは「まだかーっ!」と怒鳴られていたぼくだったが、その頃には逆にぼくが「まだかーっ!」と催促するようになっていた。
そのことでちょっとした事件が起こった。 その荷物を載せる係は、Y運送のアルバイトがやっていたのではなく、井筒屋が直接雇ったY大学の学生がやっていた。 彼らは最初、新米のぼくをからかうように「まだかーっ!」と怒鳴っていた。 ところが、その新米のぼくから催促されるようになったのだ。 これがおもしろくなかったらしい。 彼らは、ぼくを袋だたきにしてやろうと画策しだしたのだ。
ぼくはその話を、バイト仲間のKさんという人から聞いた。 Kさんはぼくよりも2つ年上で、井筒屋組と同じ大学に通っていた。 その井筒屋組の人間がKさんに、「おまえんとこに、しんたという奴がおるやろう」と言ってきた。 「おう、おるよ」 「あいつ生意気やのう」 「そんなことはないけど。それがどうしたんか?」 「いや、うちの連中があいつを気に入らないらしく、今度あいつを袋だたきにしてやろうということになった」 「え?」 「だから、何かあっても、おまえちょっと目をつむとってくれんか」 Kさんはそれを聞いてカチンと来たらしい。 そして言った 「ふざけるな!しんたはおれの弟みたいなものなんぞ。そんなことしたら、おれがただではすまさん!」 あまりの剣幕に相手は圧倒された。 Kさんはさらに続けた。 「まあ、おまえたちがあいつを袋だたきにしようと思っても、逆にやり返されるのがオチやけどのう。あいつ、高校で柔道部のキャプテンしよったらしいけのう」 それを聞いて、相手の戦意は完全に消失した。
ということで、袋だたき事件は未遂に終わったのだった。 その時点から、相手のぼくに対する態度が一変したのは、言うまでもない。
数日後、運送会社でのアルバイトが始まった。 初日、会社に着くと、ぼくはさっそく面接をした人(常務)のところに挨拶に行った。 「おはようございます」 「ああ、おはよう」 「よろしくお願いします」 「うん。ところで、この間のよくしゃべる人は、家庭の都合で来れんようになったらしい」 「ああ、そうですか」
『何が家庭の都合だ。自分の都合じゃないか』 ぼくは心の中でそう思っていた。 しかし、そういうことは常務の前では言わなかった。
「君は、しろげしんた君だったねえ」 「はい」 「君には井筒屋の別館で勤務してもらう」 「えっ、配達じゃないんですか?」 「配達?」 「ええ」 「配達って、君は免許を持ってないじゃないか」 「そうですけど…。例えば助手とか」 「ああ、助手ねえ。それは別のバイトがやることになっている。まあ、忙しい時に手伝ってもらうかもしれんが」 「はあ…。じゃあ、何をするんですか?」 「これからお歳暮シーズンやろ?」 「はい」 「知っていると思うけど、うちは井筒屋の配送関係を任されとる会社なんよ」 「そうなんですか」 「毎年、お中元やお歳暮の時期になると忙しくてねえ。そこでアルバイトを雇って、本館から別館に商品を移動したり、その商品を地区分けしたりをやっているんよ。で、君には仕分けをやってもらおうと思ってね」
井筒屋と言えば、地場最大手のデパートである。 その当時は、そごうや伊勢丹などはまだなかったから、中元や歳暮と言えば井筒屋であった。 何十万人の区民がそこで買うのだから、その数は半端ではなかった。 それをぼくは、このアルバイトを通じて、身をもって体験することになる。
「あのう、井筒屋には直接行ったらいいんですか?」 「いや、朝はここに来てもらう。ここでトラックに荷物を積み込んでから、井筒屋に移動することになる」 ということで、そのバイトは、トラックに荷物を積み込むところから始まった。
積み荷の場所に行くと、そこにはけっこう多くのアルバイトが集まっていた。 そのアルバイトは、ほとんどが大学生のようだった。 いつも心が晴れない浪人中のぼくには、その人たちの顔は余裕に満ちているように見えた。 そして、「何でこの人たちの中に、自分は入れないのか」と思い、運命を恨んだものだった。 まあ、身から出た錆だから、運命を恨んでも仕方のないことだったが、その時はそう思うことでしか、自分を納得させることが出来なかったのだ。 そして、その「何でこの人たちの中に、自分は入れないのか」という思いが募り募って、ぼくは東京に出ることになるのだ。
いつの頃からだったろうか。 冬場になると、乾燥肌に悩むようになった。 とにかく痒い。 痒いから掻く。 掻くとそこにブツブツのようなものが出来る。 それがまた痒い。 さらに掻く。 するとそこが傷になる。 血が出る。 かさぶたが出来る。 そしてアザになる その部分は年中汚い色をしている。
特に足や尻をやられる。 そこはファンヒーターや電気カーペットの熱が直接あたる場所である。 何せ『乾燥肌』という言葉がまだ一般的ではなかった時代のことだ。 そのため、最初は汗疹だと思っていた。 そこで、なるべくファンヒーターの風に触れないように足を遠ざけたり、カーペットの上に直接座らないようにして、汗を抑えることにした。 そのおかげで、痒みは少し緩和されたように思えた。
ところが、そうではなかった。 そういうものに触れなくなっても、風呂に入ったりすると同じように痒いのだ。 痒ければ掻く。 で、冒頭のようなことになる。 これは汗疹ではない。
ある時、「もしかしたら、これはアトピーではないか」と思うようになった。 「そういえば、アトピーには海水療法が効くと何かの本に書いてあった」 そこで、さっそく天然塩を買い込んできて、直接患部にすり込んだ。 痛みが走ったが、それは計算ずくだった。 痒みと痛みの調和は妙に心地よいものだった。 ところが翌日、患部がしなびたリンゴの皮のようになっていた。 触ってみると、神経が麻痺しているようにも思えた。 「これはいかん!」 そう思って、天然塩はやめた。
『乾燥肌』という言葉が一般的になり、ようやくぼくの症状は乾燥肌によるものだということがわかった。 そこで、乾燥肌について書いている本を読んでみたのだが、そこには「乾燥肌になっても、むやみに掻いてはならない」と書いてあった。 しかし、痒いものは痒い。 意識して掻かないようにしていても、例えば寝ている時などは無意識のうちに掻いてしまっている。 朝起きると、足に多数の掻き傷が出来ていることがしょっちゅうあるのだ。 そこで、痒みを抑えるためにクリームやローションを塗るようになった。
先日、いつものように寝る前にクリームを塗っていると、嫁ブーが、「乾燥肌には、尿素がいいらしいよ」と言った。 「尿素?小便か?」 「尿素やけ、そうやろうねえ」 「小便なんかつけんぞ。寝る前に小便つけて寝たら、布団が臭くなる」 「いや、そうじゃなくて、尿素入りのクリームとかがあるんよ」 「尿素入りのクリーム?誰の小便が入っとるんかのう」 「別に小便が入っとるわけじゃないと思うけど…」
そこで今日、店で肌荒れ用のクリームやローションが置いてあるところを見て回った。 なるほど、「乾燥肌に効く」と謳っているクリームやローションには、ちゃんと「尿素入り」と書いてある。 効くと言うのだから試してみようと思い、一番安いクリームを買うことにした。 パートさんが「ローションのほうが効くよ」と言ったのだが、尿素入りのローションはイメージが悪い。 小便が入っているように思えてならないのだ。
買った後、さっそく足に塗ってみた。 そこは、ちょうど靴下のゴムのの部分があたるところで、朝から痒くてたまらなかったところだ。 塗ってからしばらくすると、何となく痒みが治まったような感じだ。 で、今はと言うと、ほとんど痒みがない。 ということで、しばらくこれを試してみようと思っている。 尿療法で糖尿が治ったという話を聞いたことがあるが、乾燥肌にも効くのか。 小便は偉大である。
一方の友人は、ぼくと同じ質問に対して、「私はいろいろと都合がありまして、いつかと聞かれても困るんですが、今やっていることが終わり次第、参加させてもらおうと思っています」と答えていた。 彼は高校時代、そうしゃべる方でもなかったし、こんな回りくどい言い方をする方でもなかった。 『この変貌は何なのだろう』と思いながら、ぼくは友人のペラペラをずっと聞いていた。
面接官もこのペラペラには呆れていたようだった。 彼がなおもしゃべろうとするのを遮って、「わかったわかった。とりあえず君は都合がよくなってから来てもらうことにしよう。で、そちらのしんた君は、来週から来てもらうということでいいね」と言って、面接を終わらせたのだった。
帰り道、ぼくは友人に、「おまえよくしゃべるのう」と言った。 すると彼は、「ばか、面接の場では自分を売り込まんと」言った。 確かに面接の場は自分を売り込む場であるのだが、ああしゃべりすぎるのも問題がある。 おしゃべりな人というのは、自分に自信がない人と思われるものである。 そのため、面接などではかえって逆効果になるものだ。 だいたい、アルバイトの面接で、自分の生い立ちからしゃべる人間はいないだろう。 しかも、相手は運送会社の大将、いろいろなトラックの運転手を使っている身なのである。 そういう人を前にして、さも面接慣れしているように「私は…」はないだろう。 まあ、「おれは…」と言うよりはいいかもしれないが、せめて「自分が…」くらいでよかったのではないだろうか。
さて、その夜のことだった。 その友人から電話が入った。 「悪いけど、おれ、他のバイトが決まったんよ」 「えっ?」 「いや、前々から応募しとったところがあって、さっき『来てくれ』と電話が入ったんよ」 「じゃあ、Y運送には行かんとか?」 「おう。悪いけど、おまえ一人で行ってくれ。おれは先方に断りの電話を入れとくけ」
何と言うことだろう。 ぼくは最初、そこに行くことに気が進まなかったのだ。 友人がいっしょに行くと言うから、行く気になっていたのに、行かないとなると、それは考えものである。 『しかし…』 ぼくはその年の前半のことを思い起こした。 あの頃は何度面接を受けてもだめだったのだ。 その頃のことを考えると、面接に受かるということ自体が、夢のような話である。 それだけ自分が進歩したのだと思った。 そこでぼくは、「これもまた、運命の一環かもしれん」と思い、一人でそのバイトに行く決心をしたのだった。
工事は1週間ほどかかった。 工事の最後の日、おっさんは母に向かって、「いやー、大変な工事でしたよ」と言った。 母が「息子は役に立たなかったでしょ?」と言うと、おっさんは「ぼっちゃんもそこそこやってくれましたよ。まあ、ほとんど私一人でやったようなもんでしたがね。ははは」と言っていた。 何が「ははは」だ。 さんざん人をこき使い、自分は手抜きばかりしていたくせに。 しかし、ぼくは何も言わなかった。 もう二度とそのおっさんに関わりたくなかったからだ。
そして、おっさんは「で、こういうふうになっております」と言いながら、母に請求書を渡した。 その額は、見積書通りだった。 つまり、ぼくが手伝った分の割引はなかったわけだ。 母はその金額を、ぼくのバイト代から支払っていた。 最後におっさんは、ぼくに「じゃあ、ぼっちゃんまた」と言った。 しかし、ぼくは知らん顔をしていた。
その後、ぼくはまた、アルバイトを探しながらも行動に移さない生活に戻った。 しかし、その年の前半のような、引きこもった生活を送っていたわけではなかった。 頻繁に外に出るようになっていたのだ。 そのおかげで、街でばったりあった友人から、全日本プロレスのリング作りの依頼を受けたこともあった。
さて、そんな生活を送っているうちに、11月も後半になった。 ある日、高校時代の友人から電話がかかった。 「おい、おまえ今何しよるんか?相変わらずか?」 「おう、相変わらず何もしよらん」 「そうか。おれも何もやってない」 「何か用か?」 「おう。今新聞見よったら、いいバイトがあったんよ。よかったら、行ってみらんか?」 「どんなバイト?」 「運送会社」 「運送会社?どこの?」 「Y運送」 「聞いたことないのう」 「井筒屋の配送を請け負っとるところらしい」 「配達のバイトか?」 「そうやないかのう」 「でも、おれ、免許持ってないぞ」 「いや、免許はいらんらしい。おそらく助手かなんかの仕事やろう」 「ああ、それやったら出来そうやのう」
すでに極度のスランプ状態から抜け出していたのと、友人といっしょという心強さから、ぼくはそのY運送の面接を受けることにした。
その翌日、ぼくは友人と落ち合い、その足でY運送に行き、面接を受けた。 面接では友人がペラペラとしゃべりまくり、ぼくがしゃべることはなかった。 ぼくが言った言葉といえば、面接官の「いつから来れますか?」という問いに対して答えた、「いつでもいいですよ」というひと言だけだった。
翌日、予定通り工事は始まった。 母は仕事のため、ぼく一人で応対しなければならなかった。 ガス屋のおっさんは言った。 「じゃあ、ぼちぼち取りかかりますね。用がある時は呼びますから、それまでぼっちゃんは好きなことやっていていいですよ」 ぼくはそれを聞いて、何だ、別に大したことをするわけじゃないのかと思い、「お願いします」と言って、部屋に入っていった。
30分ほどしてから、おっさんの声がした。 「ぼっちゃん、いいですか?」 「はーい」 ぼくはおっさんのところに行った。 そこに行ってみると、おっさんは道路工事で使うような大きなドリルを持っていた。 そして、「今から、このコンクリートを壊しますから、力を貸してください」と言った。 「はい…」 何か悪い予感がした。
おっさんは、「じゃあ、これ持って」と言って、ぼくにドリルを持たせた。 ぼくが、「これを動かすんですか?」と聞くと、おっさんは涼しい顔をして、「はい」と言った。 そして、「いいですか、これは、こうやって、ああやって使うものです」と言って機械の説明をしたあと、「じゃあ、やってみて」と言った。 機械の重さと、その振動の強さで、かなり体に負担がかかる。 力を入れて取っ手を握っていないと、ドリルは暴れ出す。 それを見ながらおっさんは、「もっと力を入れて」とか、「腰をちゃんと入れて」とか言っている。 一度手から離れた時などは、「何やっとるか!!力のないやつやのう」と、例の大きな声で怒鳴った。
うまくいかないのは力のせいではない。 高校時代まで柔道をやっていたので、普通の人と比べると力は強いほうだった。 では、何で手を離したのかというと、それは要領のせいである。
高校時代に米屋でバイトしたことがある。 その時、ぼくより背が低く痩せた兄ちゃんがいた。 彼はどう見ても、ぼくよりは体力は落ちるように思えた。 ところが、ぼくたちバイトが、20キロの米袋を3つ抱えさせられて「ヒーヒー」言っていた時、彼はそれを横目に、米袋を5つ重ねて運んだのだった。 その時初めて、力仕事に必要なのは力ではなく、要領のよさにあるというのを悟った。 まさにこの仕事も、要領が左右したのだった。
しかし、このおっさんは生意気である。 何でお客の自分が怒鳴られなければならないのだろう。 作業をしながら、ぼくはそのことをずっと考えていた。 だいたい何で、ぼくがこんなことをしなければならないのだろうか。 前日の腑に落ちない理由は、実にここにあったのだ。 そのことを気づくのに1日かかったのだから、やはりぼくは若かったと言えるだろう。
結局、コンクリートは、ぼくが削ったようなものだ。 その間おっさんは何をやっていたのかというと、カタログを見て一人でブツブツと何かつぶやいていた。 つまり、手を抜いていたのだった。
さっそく母はガス屋に電話した。 そして翌日、ガス屋のおっさんがやってきた。 何でもこのおっさんが工事をするというのだ。 最初にその話をした時に話だけで終わっていた見積りをやり、あらかたの金額が出た。 金額を聞くと、何とかぼくのバイト料でまかなえそうだった。 「じゃあ、お願いします」と母が言うと、ガス屋のおっさんは「では、明日から工事に取りかからせていただきます」と言った。 その後、二人が世間話をしだしたので、ぼくは自分の部屋に戻った。
おっさんの声は大きかった。 ぼくはその時レコードを聴いていたのだが、おっさんの声はそれでも聞こえていたのだ。 うるさいなあと思い、レコードのボリウムを上げようとした時だった。 おっさんが「ところで、ぼっちゃんはいくつになりますか?」と母に聞いているのが聞こえた。 『あっ、また下らんこと言うんやないんか』と思い、逆にボリウムを下げて耳をその会話に集中させた。
「今、19歳なんですよ」 「ほう。では学生さんですか?」 「いいえ」 「じゃあ、働いてらっしゃるんですか?」 「いいえ。仕事もせずに家でブラブラしてるんですよ。いったい何を考えているのか…」 「そうですか」 「ああ、そうだ。何なら工事を手伝わせてもいいですよ」 「そうですねえ。何もしてないのなら手伝ってもらいましょうかねえ」 「そうしてください」
そして母は、ぼくを呼んだ。 「あんた、このおじさんを手伝ってやりなさい」 「何で?」 「何もしてないんやけ、そのくらいしてもバチは当たらんやろう」 「何で、おれがせないけんとね」 そこでおっさんが口を挟んだ。 「いや、ぼっちゃん。ここの工事は一週間ほどかかるんですよ。私一人でやるもんでね。その間銭湯通いになるんですが、嫌でしょう?」 今ならともかく、その当時は銭湯に行くことはあまり好きではなかった。 そこで、「はい」と答えた。 「手伝ってもらえれば、もっと早く終わるんですよ」 「そうなんですか」 「ね、やってもらえませんか?」 「そういう理由ならしかたないですねえ」 「まあ、手伝ってもらうと言っても、道具を運ぶくらいだから、そうきつくはないですよ」 「わかりました」 ということで、話はまとまり、翌日から工事に取りかかることになった。
しかし、「わかりました」とは答えたものの、何か腑に落ちないものがあった。 後にそのことがわかるのであるが、すぐにはそれがわからなかった。 まだ若かったのだ。 というより、世間ずれしてなかったのである。
今日から仕事だった。 朝、会社に行くと、ある人と新年の挨拶を交わした。 その時の会話である。
ある人「おめでとうございます」 しんた「おめでとうございます」 ある人「今年もよろしくお願いします」 しんた「こちらこそ、よろしくお願いします」 ある人「しかし、雪がすごかったね」 しんた「ああ、雪ね。朝起きたらあたりの屋根の上が真っ白やった」 ある人「そうやろ。うちの周りは一面銀世界やったよ」 しんた「へえ」 ある人「休みでよかったよね」 しんた「えっ、あの日休みやったと?」 ある人「そうよ。あんたも休みやったやろ」 しんた「いや、おれは仕事やったよ」 ある人「えっ、休まんかったと?」 しんた「休めんかったんよ」 ある人「売り出しの準備とかで?」 しんた「まあ、それもあったけど、あの状況で休めるわけないやん」 ある人「ふーん。大変やったね、あの雪の中」 しんた「いや、そうでもなかったよ。道路は混雑してなかったし」 ある人「そうよね。どこも休みやけ」 しんた「うん」 ある人「あの雪のせいで、初詣に行く人は少なかったみたいよ」 しんた「えっ、初詣?」 ある人「うん、初詣」 しんた「何で、あの日に初詣行くと?」 ある人「何でって、元日だから」 しんた「えっ?元日は雪降ってないよ」 ある人「降ったやないね」 しんた「降ったのは大晦日やろ」 ある人「いや、元日やったよ」
何か変だと思っていた。 相手は、元日の話をしていたのだ。 ぼくは雪が降ったというので、てっきり大晦日のことを言っているのだと思っていた。 それで、話に微妙な食い違いが起きたのだ。
こちらで雪が降ったのは、大晦日のことである。 その前日から雪が降り出し、大晦日の朝には当たりの屋根が真っ白になっていたのだ。 そのせいで九州道や都市高速はストップしていた。 幸い、その日は大半の企業が休みだったので、通勤に支障が出ることはなかったが、もしそれが普通の日だったら、大パニックになっていただろう。 明けて元日は、曇ってはいたものの雪なんかどこにも降ってなかった。 若干道が濡れているように見えたが、それは時折降る雨のせいだった。 昼からぼくは近くの神社に初詣に行ったのだが、その時、どこにも降雪の跡はなかった。
一方、会社のある地域は、若干事情が違っていた。 大晦日、ぼくの住んでいる市の西側で若干積雪があったので、会社のある地域はきっと大変なことになっていると思っていた。 なぜなら、そこは盆地になっているからである。 しかし会社に来てみると、まったく雪の降った気配はなかった。 ところが、明けて元日は、逆にそちらのほうで大雪が降ったらしい。 それも話だけ聞くと、どうもその前日にぼくの住むところで降った雪とはスケールが違うようなのだ。
後でわかったことだが、元日は市の東半分にかなりの積雪があったそうだ。 そのため交通機関はストップしていたとのことだった。 北九州市は確かに広いが、市の西と東を二日に分けて雪が降るようなことは、今まで一度もなかったと思う。 これも異常気象の影響なのだろうか?
2005年01月02日(日) |
正月休みは今日で終わり |
何か、あっという間の正月休みだった。 つい先ほど曙の試合を見たような気がする。 それもそのはず、この二日間、まともにテレビを見てないのだ。 いや、それよりも前に、新聞すら読んでないのだ。 当然そこにあるテレビ欄を見ていないから、何をやっているのかがまったくわからない。
しかし、東京に住んでいた時もそうだったが、テレビがなければないで、何とか時間つぶしは出来るものだ。 東京にいた頃は、おかげで作詞や作曲といった創作活動が出来たのだった。 では、この二日間、何で時間つぶしをやっていたのかというと、初詣に行ったことを除けば、起きている時はパソコンの前に座っていただけだった。 後はずっと寝ていたのだ。 これだけ寝たのは何年ぶりだろうか、と思えるほど寝た。 おかげで今は頭の中がすっきりしている。
それにしても、正月休みが二日というのも短すぎる。 まあ、嫁ブーは正月休みなどはないのだから、二日間あるだけでも贅沢だが、せめて世間並み、いや三が日は休みにしてほしい。 よく「正月に休みがとれないだけで、他の日に代休があるんだろ?」と言われるが、そういうことはない。 ただ、普通の公休ローテーションに戻り、それがまた一年続くだけの話である。 連休なんてもってのほかだから、温泉なんかに旅行に行くことも出来ない。
そういえば、1月に3連休をとったことが過去に二度ある。 もちろん、就職してからの話だ。 一度は前の会社にいた時だった。 その時は、嫁ブーと二人で南阿蘇の温泉に行った。 当初は1泊の予定だったが、帰るのが面倒になり、もう1泊したのだ。 国民宿舎だったので、泊まり料金がけっこう安かったのを覚えている。 が、その旅館の温泉はイマイチだった。 その旅館の上下に有名な温泉があった。 当初は、そちらの温泉に入りに行こうと思っていたのだが、降雪のため、寒がりのぼくは外に出る気がしなかった。 結局、旅館に籠もりっきりだった。
もう一度は、今から12年前、今の会社に入った翌年だった。 久しぶりの3連休なので、どこかに行こうと計画していたのだが、その休みの前日に伯父が亡くなってしまった。 そのために、通夜や葬儀にかり出されることになった。 親戚一同からは「あんたが休みでよかった」と喜ばれたが、その月の休みはその3連休に集中していたために、他に休みも取れず、ずっと休みなしで働いたのと同じ結果になってしまった。 仏事は疲れるものだ。 そういえば、今年はその伯父の13回忌にあたる。 そのため、法事が行われるのだが、また休みがそれに潰されるわけだ。
それ以降は、1月に限らず、3連休なんてとったことがない。 出来たら、一度とりたいのだが、今の状況では無理である。 この状況が続くとしたら、次に3連休がとれるのは、定年満期してからのことになるだろう。 考えたら、寂しい話である。
【お年賀】 おめでとうございます。 今年で5年目を迎えた、この『頑張る40代!』ですが、なるべく毎日更新できるように頑張っていきます。
【今日の生活】 さて、今日の話。 朝目が覚めると、嫁ブーはもう出勤していた。 そこでもう一度目を閉じた。 気がつくと、もう正午を過ぎていた。 すでに元日の半分を睡眠で過ごしたわけである。 「これはもったいないことをした」と起き出した。 ところが、何をやっていいのかが思いつかない。 テレビもおもしろいものをやってなさそうだし、年賀状も例年出さないからきっと来てないだろう。 第一、年賀状を取りに行くのが面倒だ。 そこで、しばらくパソコンでニュースを見ながら、「今日は何をしようか」と考えていた。 結局何も思いつかなかったので、いつもの休日と同じような過ごし方をした。
【初詣】 普段と一つ違っていたのは、初詣に行ったことくらいか。 しかし、それも遅い時間に行ったので、心に張りがなく、何かだらだらと参拝しただけに終わった。 だいたい、ぼくは神様に向かって「ああしてください」とか「こうしてください」なんて畏れ多いことを言わないたちなので、お参りと言っても、ただ柏手を打つだけで終わってしまうのだ。 しかし、その時気にしていることがある。 それは、柏手の音である。 心に張りがある時は、「パン、パーン!」と勢いのある柏手が打てるのだが、今年はそれがなかったせいで「チャン、チャン」程度の柏手しか打てなかった。 打ち直すのも何なので、そのままお札を買って退場したが、どうもそれが気にかかる。 年男なのに、こんなことでは今年一年が思いやられるではないか。 そこで、仕切り直しの意味で、明日他の神社に行ってお参りすることにした。 そのために、今懸命に気をためているところだ。 明日はきっといい柏手が打てることだろう。
【ホームページ】 さて今日は、年末からやろうと思っていた詩集サイトの更新をやった。 まあ、更新と言っても、レイアウトを変えるだけなのだが、数十編の詩を載せているため、その作業に手間取った。 今年はエッセイと詩に重点を置いていきたいのだ。 昨年は音楽のほうに力を入れたが、途中で挫折してしまった。 そういう経緯があるので、ぜひともこの二つのコンテンツだけは継続していきたいと思っている。 そのため、新しい詩作りにも励もうと思っている。
その際、問題になるのがペンネームだ。 これまでペンネームは、他のコンテンツと同じくハンドルネーム『しろげしんた』を使用してきた。 ところがそのせいで、どうもお笑い詩集と思われているようなのだ。 そこで、前々から、もう少し気の利いたペンネームにしようと思っていた。 だが、これはと言うのが見つからないのだ。 何度も言ったが、やはり昔のペンネームである『山原ほうぼう』を使うべきか。 でも、それを使うと、どうしてもその頃のことを思い出してしまうからなあ…。 やっぱり、新しいのを考えよう。
【再び、お年賀】 そういうことなので、今年もよろしくお願いします。
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