2004年最後の日記である。 つらつらと今年書いた日記を読み直してみたのだが、これと言って特徴のない一年だったといえる。 まあ、特徴のあった年というのは、人生の節目になった年とか、大打撃を受けた年くらいしかない。 大打撃を受けた年というのは、この日記に連載している『上京前夜』の年とか『左遷』のあった年とか、退職した年である。 そんなことが毎年毎年起きていたら、きっと生きていくのが嫌になるだろう。 やはり無事是貴人で、何事もないのが一番である。
そういえば、毎年この時期には来年の希望や目標を書いている。 だが、今年は何も思い浮かばない。 実際、こうしたいとか、こうなりたいとかいったものがまったくないのだ。 強いて上げるとしたら、「五十肩を治したい」くらいだろうか。
今年の1月末に急に肩が上がらなくなったのだが、それがまだ完治していないのである。 早いうちに整骨院や整体院といった、しかるべきところに行こうと思っていた。 ところが、まごまごしているうちに歯のほうが悪くなり、今はそちらのほうに通っている。 医療費3割負担のご時世なので、いくつもの病院を一度に通うわけにはいかない。 とりあえず歯医者を終わらせてから、ということになるが、最初に歯医者に行った時、先生から「ああ、たくさん虫歯がありますねえ。これは長引きますよ」と言われているのだ。 そういうわけなので、歯医者がいつ終わるのかわからない。 1ヶ月で治療が終わった歯が3本だから、この計算で行くと、歯医者が終了するのは3,4ヶ月後になるだろう。 それまで、肩の痛みと戦わなければならないことになる。 まあ、日常生活に支障をきたすところまでいってないのが、せめてもの救いだが、長引くとけっこう大変らしいから、できたら早目に治しておきたい。
そういえば、来年は、マンションの役員が回ってきていた。 「うちは、土日が休みじゃないし、帰るのがいつも10時過ぎるから」と言っていつも断っていたのだが、「順番制ですから」ということで逃れられなくなったのだ。 28日にその役割分担について話し合いがあった。 当初嫁ブーは、ぼくをその会合に出させようとしていた。 しかし、ぼくは拒んだ。 「何でおれが行かないけんとか」 「わたしそんなのに出たくないもん」 「おまえが行くべきやろ」 「そんなはことない」 「よく考えてみ。そういう会合は、普通奥さんが出るやないか」 「そうやねえ」 「そういうところに、男がのこのこと出て行ったら、『この人、やる気がある』と思われるやないか」 「ああ、そうか」 「そうなったら、『せっかくご主人が来られてるんですから、理事長になってもらえませんか』となるやろ」 「そうやねえ」 「だから、おまえが行け」 「わかった」 ということで、嫁ブーを会合に出させることに成功した。
結局、役割分担はくじ引きでやったそうで、ぼくの役は『副理事』となった。 嫁ブーの話によると、副理事は何もしなくていいということだった。 ぼくはそれを聞いて、 「やっぱりおまえを行かせて正解やったの」 「うん」 「おれやったら、おそらく理事引いてしまっとったやろう」 「わたし、こういう時はくじ運強いっちゃ」 「そうやのう。おまえが行けば、何事もうまくいくのう。これからもよろしく」 「まかしとって」 これで、副理事の仕事は嫁ブーがするだろう。
さて、来年はなにをしようか。
中国展でのアルバイトが終わり、ぼくはボンヤリとした生活を送っていた。 1ヶ月半のバイト期間中、一日も休まず働いた疲れが出たのだ。 アルバイトの二日酔い状態と言ったらいいだろうか。 しばらくぼくは、何もやる気が起こらなかったのだ。
その中国展で稼いだアルバイト料は、15万円程度だった。 しかし、ぼくはそのお金には何の興味もなかった。 お金を稼ぐのが目的で、そのアルバイトをしていたわけではなかったからだ。 ではいったい何が目的だったのかというと、働くことだった。 とにかく、大学受験失敗以降続いた約半年間のスランプは、ぼくにとっては長すぎた。 そのため、体が働くことを欲したのだ。 もし、その時立ち直らなかったら、おそらく今もぼくは立ち直ってなかっただろう。 そういう意味で、中国展のアルバイトは、ぼくの人生において、一つの転機だったといえるだろう。
さて、そのアルバイト料だが、すべて母に渡した。 母が「何に遣おうか?」と言うので、「風呂の修理代にでもすればいいやん」と言った。
実は、ぼくが中国展でアルバイトを始める少し前から、家の風呂が壊れていたのだ。 当時、ぼくの家の風呂はまだガス風呂ではなく、石炭風呂だった。 石炭風呂には、煙突がつきものである。 その煙突が台風のせいで割れてしまったのだ。 それが原因で、煙突を伝わった風が釜の中の煤を吹き上げるようになった。 そのせいで風呂場はいつも煤だらけになっていたのだった。
たまたまそれを見たガス屋が、「ガス風呂に換えたらどうですか?」と言ってきた。 母が「いくらくらいかかるんですか?」と聞くと、ガス屋は「そうですねえ、詳しく見積もってみないとわかりませんが、10万円ほどはかかると思います」と言う。 10万円、貧乏なぼくのうちにとっては大金だった。 しかも、まったく仕事をしない扶養家族を一人抱えている状況だ。 母は「10万円ですか。今はちょっと買えません」と言って、断った。
ガス屋が帰ったあと、いつものように母の小言が始まった。 「あんたが、ちゃんと仕事をしてくれたら、すぐにでもガス風呂に換えられるのにねえ」 「それとこれは関係ないやん」 「関係なくはない。どうして、あんたは仕事をせんのかねえ」 「仕事がないんやけしょうがないやん」 「仕事がないんやない。仕事はいくらでもある」 「でも、採用されんやん」 「それは、あんたに仕事をする気がないけよ。相手はそれを見抜いとるけ採用せんのよ」 「仕事をする気はある」 「じゃあ、さっさと探してきなさい」 「明日探してくるっちゃ」 「何であんたは、いつも『明日』と言うかねえ。何で『今から』と言えんのかねえ」 「いちいちうるさいねえ。ちゃんと働いて、風呂ぐらい、いくらでも直してやる」 そういうやりとりが数ヶ月続き、ようやくぼくは中国展で本格的にアルバイトするようになったのだった。
バイト料を母に渡す時、そういういきさつがあったのを思い出したわけである。 母は当然のような顔をして、それを受け取った。
2004年12月29日(水) |
酔っぱらいのおいちゃん、ついに逮捕される |
例のごとく、今日の日記は『上京前夜(2)』となるはずだった。 が、ちょっとおもしろいニュースが入ってきたので、今日はそちらのほうを書くことにする。
“「ごみに火を付け逮捕」 27日午後11時20分ごろ、戸畑区夜宮3のごみ集積所から出火し、男が前に座っているのを発見した通行人が110番。 駆けつけた署員が住所不定、無職、H.T容疑者(65)を集積所の案内看板を焼損させた器物損壊容疑で現行犯逮捕した。H容疑者は酒に酔っており、容疑を認めているという。(戸畑署調べ)” (12月29日付毎日新聞朝刊より)
このH.T容疑者、新聞に載るのは二度目である。 最初に記事になったのは、
“「雨の日のVIP」 雨がシトシトと降る夜は、戸畑署員の不安の日だ。60歳くらいの男性が決まってやって来て、当直員を困らせるからだ。 署員によると男性は日雇い労働者らしい。 だが、最近は仕事がなく戸畑の街を自転車に乗り夜の寝床を探しているという。戸畑署に現れると酔っ払った上に死んだふりをして居座る。そして保護室で朝を迎える。彼にとっては警察署が格好のホテルとなる。 実は、男性は根気が必要な山芋掘りの名人。金が尽きると山で長さ1メートルはある自生の山芋を掘り、料亭と1本1万円で取引する。 「どこか彼の働く場所はないのかな。山芋を掘る根気で頑張ってくれれば」と、署の幹部は雨雲を恨めしそうに見上げている。” (2002年6月26日付毎日新聞朝刊より)
ぼくの日記を長く読んでくれている人なら、ピンとくるだろう。 そう、このH.T容疑者とは、ぼくの日記に頻繁に出てくる、『酔っ払いのおいちゃん』のことである。 そして、冒頭の記事は、「酔っ払いおいちゃん、ついに逮捕される」の記事である。 最近とんと顔を見せないと思っていたら、こういうところで活躍していたのだ。 しかし、この日記に登場するのは、どのくらいぶりになるだろうか。 調べてみると今年の2月8日と9日に『酔っぱらいブギ』というタイトルで書いていた。 そこには、うちの男子従業員から外に放り出された、と書いている。 おそらく、それがおいちゃんに関する日記で、一番最近のものだろう。
それはそうと、知らない人がこの記事を見たら、おいちゃんは放火犯だと思うかもしれない。 が、このおいちゃん、そんな大それた犯罪を犯すほどの根性は持っていない。 おいちゃんのことを知る者は、おそらく、「昨日の夜は寒かったので、たまたま居合わせたところでたき火をやったのだろう」と思うことだろう。
もしくは、「おいちゃん一流のパフォーマンスかもしれない」と思うかもしれない。 年末から正月にかけて寒くなるという情報を、どこからで小耳に挟み、「寒くなるんか。じゃあ、警察にでも泊めてもらうか」と思い、何かやってやろうと思ったのかもしれない。 しかし、警察も年末で忙しい。 前回のように「死んだふりをして居座」っても、相手にしてくれないだろう。 そこで、寒さを紛らわせることも考えて、火を付けたのかもしれない。 そしてそれは、逮捕という形で成功したのだ。 これでおいちゃんは、寒い年末年始を、暖かい留置所で過ごせるだろう。
もし、警察が、本当においちゃんに罰を下すつもりなら、さっさと釈放すればいいのだ。 それが、今のおいちゃんには一番効き目があるだろうからだ。
※ 酔っぱらいのおいちゃんのことについては、 2002/11/14 2002/11/11 2002/11/09 2002/08/22 2002/07/15 2002/07/03 2002/02/12 2001/08/01 2001/05/30 2001/05/16 2004/02/08 2004/02/09 の日記に書いています。
「ああ、ぼくの青春は恋と歌の旅、果てることなく…♪」 吉田拓郎の『準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響』という、長ったらしいタイトルの歌の一節である。 高校時代、拓郎に憧れていたぼくは、当然のように、この歌詞と同じ道を歩むことになる。 とにかく、ぼくの10代の後半というは、歌のことを思っているか、好きな人のことを思っているかのどちらかだった。 そのため、勉強はおろそかになり、1浪半の末、結局大学進学を諦めることになった。 それを決めたのが、1977年10月のことだった。
その年の9月から始めた中国展のアルバイトが、翌10月に終わった。 他のバイト仲間は、そこからの道を決めていた。 だが、ぼくだけがその答を出すことが出来なかったのだ。 「しんたは、このバイトが終わったらどうするんか?」 「特に考えてない」 「大学受けんのか?」 「大学ねえ…。もう勉強する気もないしねえ…」 「そうか。じゃあ就職か」 「うーん…」 将来について聞かれるたびに、ぼくはいつもこんな煮え切らない受け答えをしていた。
何もぼくは将来を考えていなかったわけではない。 そういう煮え切らない態度をとることで、ある決心を隠していたのだ。 それが高校時代から抱いていた、「フォークシンガーになりたい」という夢であった。 高校の頃までは、「将来何になりたいか?」と聞かれたら、すかさず「フォークシンガー」と答えていたのだが、そう答えるたびに「何を馬鹿なことを言うとるんか」と笑われたものだった。 そういうことがあったので、ぼくは自分の夢を隠すようになったのだ。
なぜフォークシンガーになりたかったのかと言えば、答は簡単で、好きな女の子にそういう自分を見てもらいたかったからだ。 しかし、それだけではなかった。 ぼくは小さな頃から主張の強い人間だったのだが、その表現がへたであった。 そのため、人から誤解を受けることも多かった。 そこで、自分でも出来る自己表現法はないかと、いつも探していたのだ。 そして、それを高校時代に見つけた。 それが、フォークだった。 もし、それを職業に出来るなら、こんなにいいことはない。 そう思って、必死にギターを練習したのだった。
77年と言えば、ギターを始めてからすでに4年がたっていた。 何度か自作の曲を人前で歌ったりして、けっこういい評価を得ていた。 そのおかげで、演奏や歌にはある程度の自信を持っていた。 だが、あと一歩が踏み出せないでいた。 ぼくはその一歩を、長い浪人時代に探していたのだ。
最近、また算数の勉強をやっている。 新たに、『大人のための〜』といった算数の問題集を買い込んだのだ。 最近日記の更新が遅れるのは、これに時間を費やしているからでもある。
初めて算数に取り組んだのは、もう数年前のことになる。 その頃はまだ『大人のための〜』というような問題集は出てなかった。 そのため、中学入試の問題集を買ってきてやっていたのだ。 なぜ、そんなことをやり出したのかというと、あるクイズ番組で、方程式を使わないで解き方があると聞いて、それを知りたいと思ったからだ。
最初のうちは、一つの問題を解くのにも、かなりの時間を要していた。 が、だんだんやっていくうちに、その要領を覚え、問題を解く時間は短くなっていった。 それをやっていて思ったことは、算数問題の切り口は一つだけではないということだった。 いろいろな方向から斬っていけるのだ。 そこが、解き方が一つしかない方程式との大きな違いである。 要は、どう解いていくかという着眼点が重要視されるのだ。
「いろいろな方向から斬っていく」そういう考え方をやっていると、それをいろいろな方面で試したくなってくる。 そこで、その考え方をいろいろなところで応用しだした。 身近な例で言えば、仕入れ伝票の計算。 何ヶ月か前から、伝票整理をする時にはなるべく電卓を使わないで、暗算でやるようにしている。 まあ、複雑な計算や2桁×3桁のようなものは別としてだが、一桁×3桁・4桁くらいの計算なら、まず電卓を使うことがない。 これも、「電卓を使わないで、計算する方法はないだろうか」と考えた結果である。
例えば、1980円の商品が7個入ってきたとする。 学生の頃はこういう場合、(1000×7)+(900×7)+(80×7)とストレートにやっていたのだが、これだと算数が苦手だったぼくとしては、紙に書きとめないと計算ができない。 そこで、もっと簡単に計算する方法はないかと考えた。 考えついたのが、(2000×7)−(20×7)という方法だ。 これだと紙に書きとめなくても、14000から140を引くだけの計算ですむのだ。 まあ、そういう計算も面倒と言えば面倒であるが、3つの数字を足していくよりは、はるかに楽である。 他にも、ある商品が5個入ってきた時の計算は、その商品の価格をを2で割って10掛ければ、その答は簡単に導き出せる。
まあ、こういった計算方法は、もっと早くから、多くの人がやってることだろうし、もしかしたら、もっと高度なことを電卓を使わずにやっているのかもしれない。 しかし、そういうことが問題なのではない。 それを自分で発見するということが、何よりも大切なことなのである。 人から教わってやるのでは、何にもならないのだ。
算数をやったおかげで、ぼくはいろいろな切り口で負け惜しみが言えるようになった。
最近エッセイの編集をしているのだが、その最中にあることを思い出した。 それは、かつてぼくのエッセイを読んだ人から、よく言われていたことで、「『長い浪人時代』の続きは書かんとか?」である。 その頃は、ぼくも、「今、構想中だから、もう少し待ってくれ」と言っていたが、そのうち忘れていった。
実はその『長い浪人時代』は、このサイトを始める前に書いたものだ。 1976年から1981年まで、ぼくが浪人をしていた頃のことを書こうと思って始めたものだが、それが二部で終わったままになっているのだ。 その頃は、近いうちに書こうと思っていたのだが、この日記を書くようになってからは、そちらに時間をとられるようになってしまい、そのためいまだに手つかずになっているのだ。
しかし、何も書いてないのではない。 ちゃんとこの日記の中で、断片的にその当時を回顧したものは書いている。 ただそれを体系付けてないだけの話である。
せっかく書き始めたものだから、最後まで書きあげたい気持ちはある。 しかし、4年以上も前に書いていたものだから、どういうふうに文章を繋いで、どういう流れで持っていったらいいのかがわからない。 とりあえず、エッセイは1977年10月で終わっているのだから、そこからのことを書いていけばいいのだが、4年前と今では、その記憶の量が違う。 何よりも重大な問題は、その時期に書いていたノートが手元にないということだ。
実は、その『長い浪人時代』の時期の後半、ぼくは東京に出るのだが、その東京時代の最後、仲の良かった人に餞別代わりと言って、気前よくそのノートをあげてしまったのだ。 その時は、その元となった下書きのノートが実家にあるので、それを編集すればいいと思っていた。 ところが、こちらに帰ってきてから、しばらくしてその下書きノートを探してみたのだが、見あたらない。 母に「あのノートどこにやった?」と聞いてみると、「あんたが東京に行っとる間に、汚いものは全部捨てたよ」と言うのだ。 結局、その下書きノートの、さらに元となったメモ用紙が何枚かが手元に残っただけだった。 そのノートに書いている詩の中には活字にものもあったのに、そういうものがすべて闇に葬られてしまったわけだ。
さて、そういうこともあって、その『長い浪人時代』の続きが書けないでいるのだが、今書いておかないと、後日回しにしてしまうと、さらに記憶は薄れていく。 そういうわけで、近日、その続きを書くことにします。
2004年12月25日(土) |
正月は一人寂しくコマでも回していようか |
前にも書いたが、来年は正月早々のんびり出来ない。 それは、嫁ブーが元日から仕事で、そのために朝早く起きて、嫁ブーを会社まで送っていかなければならないからだ。 元日だけはゆっくり寝られると思って楽しみにしていたのに、そのためにそれがぶちこわしになってしまったわけだ。 まあ、送っていくといっても、片道10分足らずのところなので、往復20分くらい出るだけで、帰ってから寝れば同じことだろうが、その中断が大いに応えるのだ。 帰ってから寝るといっても、一度目が覚めてしまうと、なかなか寝付けるものではない。 しかも車を運転するのだから、少なからず緊張しているわけだ。 その緊張をほぐさないことには話にならない。 そうこうしているうちに昼になり、夜になるのだ。 そして、「いったい、今日の休みは何だったんだろう?」ということになってしまう。 嫁ブーは翌2日も仕事だから、同じことの繰り返しになるわけだ。
しかも、毎年楽しみにしている正月恒例の昼酒も、来年は控えなければならない。 なぜなら、嫁ブーが夕方には仕事が終わるからだ。 そう、迎えに行かなければならないのだ。 だいたい飲み始めるのが時くらいだから、夕方までに酒が抜けることは考えにくい。 正月ということで、この時とばかりに警察は目を光らせていることだろうから、もしそれに出くわしてしまえば、確実に餌食になってしまう。 正月早々30万円の罰金なんて、シャレにならない。 正月に酒が飲めない…。 生まれてこの方、こんなおもしろくない正月があっただろうか。
さらに、ここ数年、元日行事になっている夫婦揃っての初詣も、来年は出来ない。 いつも昼酒を飲んだ後に初詣に出かけていたのだが、気候と、歩くのにほどよい神社までの距離、それに加えて神社のすがすがしさが酔い覚ましにもってこいなのだ。 そのおかげで、夜またじっくりと酒を飲むことができた。 その日の飲み疲れは、翌日じっくりと癒しておけば、その翌日からの仕事に差し支えがない。 初詣は、一人で行くことも考えたが、どうも様にならないので、遠慮することにしようと思っている。
それにしても困ったものだ。 寝だめも出来ない、酒も飲めない、初詣にも行けないとなると、いったい何をして過ごしたらいいのだろう。 ありきたりの正月特番を見てもおもしろくないし、正月早々本を読む気にもなれない。
そういえば、今、うちの店では民芸品を売っている。 そこには投げゴマもあったから、それを買って、正月一人で遊んでいようかなあ。 昔とった杵柄だ。 回すことくらいは出来るだろう。 しかし、白髪のおっさんが、一人でコマを回して遊んでいる姿というのは、何とも寂しい。
2004年12月24日(金) |
福岡ソフトバンクホークス |
『福岡ソフトバンクホークス』、長い名前である。 まあ、『東北楽天ゴールデンイーグルス』よりは2文字少ないが。 しかし500種類も候補が上がっていたというのに、「結局これか…」である。 「われらーの、われらのー、ソフトバンクホークス〜♪」 どうも歌いにくい。 「われらーの、われらのー、ふくおーかホークス〜♪」 にしても、何か物足りない。 もっと気の利いたネーミングが出来なかったのだろうか。 まあ、これで決まった以上、今更どうしようもないのだが…。
とはいえ、これで長年続いたホークスの身売り問題は、いちおう解決したわけである。 ロッテと合併しないで、本当に良かったと思う。 あとは孫さんが、約束どおり、すべてを王監督に任せられるかどうかが、今後の課題となってくる。 何日か前の夕刊フジにも書いてあったが、孫さんは球団を無事に買収できたのだから、あとは黙って金だけを出してくれればいいのだ。 アイデアを出すのはいっこうにかまわない。 が、素人が余計な介入をしだすと、ろくなことはない。 あの北朝鮮が、あそこまで落ち込んだ理由は、何かにつけて金親子が口出しをしたからだと聞いている。 例えば農業でいえば、そのイロハも知らないくせに、「そうじゃない。こうしなさい。それが主体思想である」とありがたい教示をたれたがために、あそこまで生産性が落ち込んだのだという。
それはともかく、オーナーはオーナー、監督は監督、コーチはコ−チ、選手は選手の職分を尽くしていれさえすれば、ゆくゆくは名オーナー、名監督、名伯楽、常勝軍団と称せられること必至である。 そういうことなので、孫さんはその職分、つまり黙って金を出すことに専念してほしい。 試合中に「次は誰を投げさせたらいいか?」などと投票なんかさせると、敵のファンがひいきのチームがカモにしているピッチャーに投票することだって考えられるのだ。 そういうアイデアは、他チームのオーナーに勧めてやってほしい。
今日の福岡の盛り上がりかたはすごかった。 テレビやラジオでは朝から球団名の話題で持ちきりだったし、夜中は夜中で新球団誕生を祝して特番までやっていた。 さすがの孫さんも、ホークスに対する、地元の、その尋常じゃない思い入れには驚いたはずだ。 それは福岡県民の、ホークスに対しての愛情の表れであると同時に、ソフトバンクに対する期待度の表れでもあるのだ。 その期待に応えられるかどうかは、孫さんがいかに口を出さないかにかかっている。
ところで、今日は球団のロゴが発表されたが、帽子のロゴはいったいどうなるのだろうか? 今までは『FDH』でしっくりいっていたのだが、このやり方だと新球団は『FSBH』になってしまう。 こんな並び方を変えると、放送局名になるようなロゴはやめてほしい。 かといって、ハリーホークを貼り付けられても困る。 ホークスの弱い時代の象徴に思えるからだ。 ぼくとしては『FH』だけでいいと思っているが、さて、デザイナーはどういうロゴを持ってくるのだろうか。 楽しみである。
しかしなあ…。 いろいろ考えていくうちに、思考は、また冒頭のことに戻っていく。 『福岡ソフトバンクホークス』 長いなあ…。 「われらーの、われらのー、ソフトバンクホークス〜♪」 歌いにくいなあ…。
ぼくたちの世代以上の方は、この時期に天皇誕生日といわれても、ピンとこないのではないだろうか。 歳時記としての天皇誕生日と言えば、ぼくたちの中では、やはり4月29日なのである。 今、その日は「みどりの日」という祝日になっているが、何気ない会話の中で、4月29日をつい「天皇誕生日」と言ってしまのも、その現れだろう。
それはともかく、平成時代の天皇誕生日である12月23日だが、実は先の大戦で敗れた際に行われた極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判で絞首刑判決を受けた東条元首相以下7人の、刑の執行がされた日なのである。 なぜこの日を選んだのかというと、この日が次の天皇(つまり今上天皇)の誕生日だったからである。 いわゆるA級戦犯を、永久戦犯にするために、マッカーサーが企んだことなのだ。 つまり、7人のことを末代まで忘れさせないようにすることで、日本人に贖罪意識を植え付け、永久に日本人が立ち直れないようにしようとしたのである。
まあ、その当時からアメリカの嘘を見破っていた人が少なからずいたおかげで、そこまで深刻な事態に陥らずにすんだわけであるが、中にはその嘘を見破ることが出来ないで、アメリカの思惑通りに贖罪意識を背負い込んだ、おめでたい人たちもいた。 そういう人たちが、教育者なんかになったりしたもんだから、若干ではあるが、この国におかしな人が出現するようになった。 「日の丸反対!」 「君が代反対!」 「靖国反対!」 そう、地球市民さんたちである。 彼らは、文字通り地球市の市民で、日本を侵略するためにやってきたのだ。 しかし、なかなか世論が自分たちになびいてくれないために、こんな発言をするようになったのだ。 ところで、その地球市というのは、どこの国に属しているのだろうか? で、その首都はどこにあるのだろうか?
こういうおかしな人たちの出現に、墓の中のフランクリン・ルーズベルトやコーデル・ハルは、さぞ喜んでいることだろう。 なぜなら、地球市民たちは、彼らの思惑通りに動いているからだ。 しかし、地球市民たちはそのことに気づいてない。 すべては自由意思だと思っている。 そしてそのことを、常に口にし、自分たちの正当性を訴える。 どこぞやの宗教団体と、何ら変わりがないのだ。
なぜそういうことになるのかというと、彼らが歴史認識を持ち合わせていないからだ。 彼らの頭の中にある歴史は、南京大虐殺や従軍慰安婦や東京裁判といった断片的なものしかないのだ。 なぜそういうことになったかという流れがわからないから、闇雲に日本人であることを恥じるようになり、その素性を隠すために、地球市民を名乗りだした。 そして、その言葉面の良さだけに賛同したバカどもが、次々と地球市民を名乗るにいたったわけだ。 まさに「地球防衛軍」的なノリなのである。
とはいえ、12月23日がそういう意味のある日だと知っている人が少なくなったことと、東京裁判自体に疑問を抱く人が多くなったおかげで、この国も、ようやくその呪縛から解放されつつあるようだ。 が、中には先の地球市民のように、いまだに洗脳の解けない人もいる。 彼らは相変わらず贖罪意識の固まりで、昨今の中国や北朝鮮の悪事でさえ、日本のせいだと思っているのだ。 いいかげんに、目を覚ましてほしいものだ。
今、嫁ブーはテレビを見ている。 時々この部屋に音が漏れてくる。 最初は気にしてなかったのだが、物音一つたてずに見ているので、よほどおもしろいものを見ているのだろうと思い、耳を傾けてみた。 ところが、何かおかしい。 言葉が理解できないのだ。 言葉を聞くタイミングを誤ったのかと思い、今度はじっくり聞いてみた。 しかし、やはり理解できない。 しばらく聞いていると、ようやくその理由がわかった。 時々「アンニョン」という言葉が入っているのだ。 韓国語じゃないか。 嫁ブーは、またしても韓国ドラマを見ていたのだ。
そこで、ぼくは部屋を出て、嫁ブーに言った。 「おい、また韓流か?」 「うん」 「今度は何か?」 「冬ソナ」 「え?この間、見よったやないか」 「うん」 「おまえはバカか。何回同じものを見たら気がすむんか!?」 「今回のは違うんよ」 「何が違うんか?今見よるのは『冬ソナ2』なんか?」 「『冬ソナ2』とかないよ」 「じゃあ、この間やっとったやつと同じやないか」 「うん。でもね、今回のは前のと違うんよ」 「どこが違うんか?」 「今回のはね、完全版なんよ」 「完全版とかあるんか?」 「うん」 「じゃあ、この間やったのはダイジェスト版ということか?」 「まあ、そんなところやね」 「そうか。ということは、今回のは日の丸を燃やしたり、日本大使館の前で従軍慰安婦騒ぎやったりする場面でも入っとるんか?」 ぼくがそう言うと、嫁ブーは、 「そんな場面ない」と言い、『あんたにつき合っとる暇はない』と言うような顔をして、再びテレビに集中しだした。
夏にやっていた『冬のソナタ』が終わった時、「ようやく土曜日の『すぽると』が見れるわい」と思っていた。 ところが嫁ブーは、続けて始まった『美しき日々』を見だしたのだ。 それも終わったのでホッとしていた時だった。 何と嫁ブーは、見終わったばかりの『美しき日々』のビデオ全8巻を会社の人から借りてきて、それを見だしたのだ。 最近ようやくそのビデオを見終わったようで、「やれやれ」と思っていると、また『冬のソナタ』である。 年も明けることだし、いいかげんに韓流はやめてもらいたいものだ。
そういえば、昨日実家に行った時、母から、「ねえ、冬ソナ録画したいんやけど、予約してくれん?」と言われた。 ぼくが呆れて「また見るんね」と聞くと、 「いや、K子(いとこ)が『録画しとって』と言うもんやけ…」と言う。 ついに、いとこのせいにしてしまった。 まったく、うちの女どもは何を考えているのだろう。
今年の12月は歯医者月である。 先月末から行きだした歯医者だが、休みの日にしか行けないため、年内に終わりそうもない。 まあ、虫歯だらけだから、毎日通ったとしても、年内には終わらないだろうが。
その歯医者に行きだしてから、ぼくの生活に微妙な変化が起きている。 それは、気力がなくなったということだ。 それまでも、人に威張れるような気力を持ち合わせていなかったのだが、ここに来てさらに酷くなったような気がする。 その理由は、寝不足にある。 歯医者に行く以前と同じように、休みの前の日は必ずと言っていいほど夜更かししているのだ。 だいたい朝方床につくのだが、それまでは少なくとも昼頃まで寝ることが出来た。 ところが、歯医者に行きだしてから、それが出来なくなったのだ。 もちろん寝ないわけではない。 ちゃんと床に就くのだが、歯医者に行くのはいつも午前中なのだ。 そのために睡眠が中断されるためだ。 その後は、先日の日記に書いたとおりで、起きて後悔したり、寝て後悔したりしている。 もちろん、起きているということは、寝ないことだから、当然寝不足になる。 では、寝るほうはどうかというと、昼寝と同じだから2,3時間も寝ればいいほうで、充分な睡眠がとれるわけではない。 そういうことが積み重なって、とうとう無気力な月になってしまったのだ。
これを打開する方法は、歯医者に行かなければいいのだ。 しかし、それは出来ない。 せっかく行きだしたのだから、ここで何とか治しておきたい。 そうしないと、ぼくのことだから、次に行くのが、また10年後とか20年後とかになってしまう。 そうなると、今ある虫歯菌は調子に乗って、ぼくの歯を全滅させるだろう。 60歳で総入れ歯とか嫌である。 そのためにも、今しっかりと歯を治しておかなければならないのだ。
しかし、そうなると寝不足はどうなるか? 今の生活を続けているうちは、とうてい解消出来そうにもない。 ただ一つだけ、解消する方法はある。 それは、ホームページをやめればいいということだ。 だが、それをやると、心の張りをなくしたぼくは、さらに無気力な人間になってしまうだろう。 ということで、ホームページをやめるわけにはいかない。
そこで考えたのが、とりあえず正月は歯医者に行くことはないから、そこでゆっくり寝だめして、その後は週2回から、週1回に歯医者行きを変更するというものだ。 これだと、月の休みの半分は、睡眠に費やすことが出来るだろう。
ところがである。 初っぱなから、この計画に水を差すようなことが起きたのだ。 それは、嫁ブーが元日から仕事になったということである。 販売業なので、ただでさえ年末年始は休めないのに、元日に休みが取れないとなると、いったいいつ休んだらいいのだろう。 人員ローテーションの関係で、一人だけ抜け駆けして連休をとることはできない。 正月の休みというのは、それを解消する手段でもあるのに、それをやめるとは…。 何と自信のない会社なんだろう。 「近郊の店が元日から営業をやるから、うちもやらなくては…」という臆病者の発想でそうなったのだろうが、どうして「よそはよそ、うちはうち」というような気構えが出来ないのか。 どうして、「元日に店を開けなくても、その分他の日に売り上げをとろう」という気概が持てないのか。 しかも、それを決定した本社は、のうのうと休むのだ。 こんな不公平なことがあるか。 おかげで、元日は、朝早く起きて嫁ブーを送っていかなければならない。 ぼくは2日まで休みなのだが、そうなると二日とも早起きをしなければならないということになる。 夜も当然迎えに行くことになるだろうから、昼から酒を飲むことも出来ない。 臆病な卑怯者のおかげで、家庭内は無茶苦茶である。
ということで、ぼくの「無気力を治そう!」計画は、初日からこけることとなった。 この無気力を、いったいどうしてくれるというんだ!?
その後、また日記的停滞が始まる。 その時期はいよいよ最悪で、3ページで終わっているノートもある。 そのほかのノートも似たり寄ったりで、多くて10ページといったところだ。 これには事情がある。 その頃ぼくは昇進したのだが、その分仕事がハードになったのだ。 朝はズームイン朝が始まる前に家を出て、夜はプロ野球ニュースが終わっった後に家に帰る毎日だった。 それから風呂に入り晩飯を食べるのだ。 さすがに食事が終わった後は、もう何もする気が起きない。 そのまま横になっていた。
ということで、その時期に日記を付けてないのは、別に書き飽きたわけではなかった。 書く時間が持てなかったのだ。 結局その状態は、ぼくが会社を退職するまで続いたのだった。
会社を辞めてから、ぼくはしばらくの間、東京や東北を旅していた。 その旅から帰ってきて、新たに『退職記念日』という日記を付け始めた。 左遷時期からの流れで、エッセイ的な詩が中心になっている。 また、この頃、サラリーマン短歌のようなものを書き始めた。 例えば、こういうものである。
これもまた 夢に到る 布石だと 自分自身を 納得させる日
こんな日が いつまで続くのだろうか 星を見上げて 終電を待つ
「こういうことが 流行っているから こうしよう」 そういうことが 間違ってるんだ
奴を見て 孔子の言葉を 思い出す 巧言令色 鮮きかな仁
くどくどとほざく キャリアウーマンの 時々変わる 口紅の色
さすがに時間があったから、ノートはすぐに埋まった。
しかし、時間に余裕があったとはいえ、そこに左遷だの失業だのという、いわゆる逆境がなければ書くことは出来なかっただろう。 そういう時期というのは、いろいろと書くことがあるものである。 とにかく状況に押しつぶされそうになるものだがら、それに負けてはならないという意識が働くようになるためだろう。 例えば、その時期、こういう詩を書いている。
『負けられん』
ここまで来て思う。 負けられん。 絶対に負けられん。 何があっても 何が襲ってきても 負けられんもんは 負けられん。 不埒な心は追い出してやる。 優柔不断は殺してやる。 負けられんとたい。 絶対、負けられんとたい。
さて、その後、再就職を果たしたぼくは、またしても日記的停滞に陥ることになる。 しかし、今度の停滞は、前の会社に勤めていた時のように、時間が持てないために起きたわけではなかった。 それまでの『日記=詩』というものに、だんだん限界を感じてきたのだ。 そこで、エッセイを書こうと思うようになった。 ということで、さっそくに挑戦したのだが、それがどうも様にならない。 詩のように、インスピレーションで書くことも出来ない。 ネタ集めも必要になってくる。 本当に面倒な作業だった。 そのため、書いていくうちに、だんだん意欲が沸かなくなってきた。 そういう状態が5年ほど続く。 その間のノートの数は3冊だった。 どれも数ページだけしか書いていない。
日記的停滞が5年ほど続いたある日、ぼくは画期的なものを手に入れることになる。 パソコンである。 それから、ぼくの日記生活が変る。 パソコンを手に入れて1年後、日記はそれまでのノートからパソコンに移った。 その時書いたものが、今のエッセイ集の基本となっている。 それから1年後、いよいよこの『頑張る40代!』が始まるのだ。 この日記は、2001年1月から一日も欠かさず書いているから、来年早々5年目に突入するということである。 ぼくの日記生活の中では最も長い日記帳となった。
ぼくが初めて自主的に日記をつけたのは、高校1年の時だった。 まあ、日記と言っても、その頃はオリジナル曲作りにや詩作に目覚めていた関係で、歌詞の書きだめといった様相のものだったが。 毎日必ず一つ作詞や詩作をしようと決めていたため、自ずと日記のようになってしまったわけである。
日記らしい文章を書き出したのは、それから3年後、予備校に通い出してからだった。 もちろん相変わらず作詞や詩作が中心だったのだが、その詞や詩の後に、その日あったことや考えたことを追記するようになったのだ。 当時ぼくは19歳。 まだ人生経験も浅く、個性も確立してない時期だった。 加えて思想的な背景もなく、人に誇れるようなことは何一つ持っていなかった。 そのため、内容はちぐはぐで、今読んでみると思わず赤面するようなことばかり書いている。
さて、そういう赤面日記を何に綴っていたのかというと、大学ノートである。 今、19歳から22歳まで綴った大学ノートが手元に何冊かある。 ところが、そのほとんどが、だいたいノートの半分くらいで終わっていて、あとは白紙になっている。 別に、あとで校正するために空けておいたわけではない。 ただ単に、飽きてしまったのだ。 再び書く意欲が起きてきた時には、心機一転、新しいノートを買って、また一から書き始めるのだ。 しかし、それもまた、半分くらい書いて飽きてしまう。 その4年間は、だいたいそういうことの繰り返しだった。 飽きてしまってから、再び書く意欲が起きるのは、だいたい半年くらいの時間を要した。 ノート半分書くのに、3ヶ月くらい要するから、4年間書いたとはいえ、実際は1年分の文章しか書いていない。
その後、就職してからは、日記を付ける頻度がぐっと減ってきた。 以前はノート半分で飽きていたのが、その頃になると、さらに酷くなった。 10ページばかり書くと、「もういいや」という気分になるのだ。 その時代もやはり詩が中心だったが、それ以前との大きな違いは、詩の内容が、色恋から、徐々にエッセイ的なものに変ってきたことだ。 そのためか、その時代の詩を読んでみると、その当時の出来事や考え方がよくわかる。 実は、先月末から書いていた『左遷』は、その頃の詩を参考にすることが多かった。 特にその頃の生きる姿勢が、詩によく現れているのだ。 とにかく、あいつらには負けたくない、という姿勢である。 しかも、珍しいことに、その時の日記は、ノート一冊、途切れることなく書いている。 その時期は、ぼくが左遷に遭った時から始まって、店長が左遷された時に終わっているのだ。 そのノートの最後に書いている詩が、『風』という詩である。
『風』
精一杯風でありましょうよ。 吹きまくる風でありましょうよ。 留まっては風じゃないでしょう? 動けない風ならそこを飛び越えましょうよ。 複雑に時は過ぎて行って。 それは簡単に過ぎて行って。 複雑そのままに過ぎて行って。 風でありましょうよ。 吹き過ぎましょうよ。 精一杯ありましょうよ。 留まっては風じゃないでしょう? 飛び越えて行きましょうよ。
今でもこの詩を読むと、あの頃のことが思い出され、心にくるものがある。
昼食時、30年前のことを考えていた。 今から30年前といえば、1974年である。 ぼくは高校2年生だった。 高校2年といえば、高校生活が一番充実していた時期で、高校生活最大のイベントである修学旅行もその年に行った。 だが、今日は別にそんなことを考えていたのではない。
どんなことを考えていたのかというと、歌のことである。 30年前のちょうど今頃、一番流行っていた歌は風の『22才の別れ』だった。 あの曲のおかげで、かまやつひろしの『我が良き友よ』は1位になれなかったのだが、今日はそのことを考えていたわけもない。
ぼくが考えていたのは、実は「仮にあの歌がノンフィクションであったとしたら…」ということだった。 歌通りであれば、あれから30年たっているわけだから、主人公である女性は今52才になるのだ。 そこで、30年間の彼女の人生を考えてみた。 彼女はつき合っていた彼氏と22才の時に別れて、知らないところに嫁いでいったわけだから、その嫁いだ時期というのは彼女が22才もしくは23才の時である。 その後、順調にいっていれば、彼女は24才で出産したはずだ。 ということは、その時生まれた子は、今28才になっている。 そして、その子が平凡な人生を歩んでいたら、すでに結婚し、子供もいることだろう。 つまり、『22才の別れ』の主人公は今、おばあちゃんになっているということだ。
さて、一方、男のほうはどうなったのだろうか? 相手から別れを告げられ、うまく立ち直ることが出来ただろうか? 彼女が、恋愛と結婚は別物と考えて彼をふったのか、金色夜叉のお宮のように金に目がくらんで男を見捨てたのか、それとも男に将来性を感じなかったために見限ったのかは知らない。 が、ローソクを点けながら「ひとつひとつがみんな君の人生だね」なんてキザなセリフを言うわりには、甲斐性のない男だったのは確かなようだ。 彼女に、結婚の動きがあったのも知らずにつき合うような、脇の甘い男だったわけなのだから。 「早く気づけよ!」、である。
しかし、5年の月日を「長すぎた春」と切って捨てたり、「あなたは、あなたのままで変らずにいてください」と言ったりするような身勝手な女と、よくつき合えたものである。 ぼくなら、もっと早い時期に、こちらから別れを切り出していただろう。 それが出来なかったのは、彼の人の良さなんだろうか? それとも、気の弱さなんだろうか? 彼の、その後を知りたいものである。
2004年12月16日(木) |
休みの日はいつも後悔している |
大奥を見ながら眠ってしまった。 目が覚めると、もう午前2時前である。 今から日記を書かなければならない。 が、ネタがない。 ということは、今から行き当たりばったりで文章と格闘することになるから、更新はおそらく翌朝の午前5時前後になるものと思われる。
まあ、明日は休みだから寝るのが遅くなるのはかまわない。 だが、明日嫁ブーは仕事なので、朝、会社まで送って行かなければならないのだ。 これがきつい。 「何時に起きなければならない」という意識がプレッシャーになってしまい、中途半端な睡眠になるからだ。 だいたい休みとは、時間を気にせずにゆっくり休むことができるから休みと呼ぶのであって、時間を気にするようであれば、もはや休みとは呼べないのである。
明日はその後、例のごとく歯医者に行かなければならない。 さらにそれが終わると、銀行行きが待っている。 夜は夜で、嫁ブーを迎えに行かなければならない。 結局、一日中時間に追われるわけである。 こんなの休みとは呼べないだろう。
ところで、休みの日にはいつも後悔が残る。 起きていれば起きていたで、もっと寝ておけばよかったと思い、寝ていたら寝ていたで、時間がもったいなかったと思うものである。 前の会社にいた頃は、休みといえば寝てばかりいた。 まあ、毎日15,6時間働いていた上に、休みが少なかったから、それもしかたなかったのだが。 朝方一度目が覚めるのだが、「せっかくの休みだから、もうちょっと寝るか」と思って、また寝る。 次に目が覚めるのは、だいたい昼頃で、その時も同じことを考え、また寝てしまう。 その次に目が覚めると、すでに空は黄昏れている。 それを見ると、もう何もやる気が起こらない。 それでまた寝る。 そして夜を迎え、「せっかくの休みが台無しになってしまった」と後悔していたのだった。
逆のパターンもある。 前の休みがそうであった。 その前の休みに寝てなかったので、「次の休みは絶対寝るぞ」と思っていた。 ところが、その日になって、寝ると何か時間がもったいないような気がしてきたのである。 そのため、その日は昼寝することもなく、終日起きていた。 で、起きて何をやったのかというと、歯医者と買い物に行っただけだった。 あとは、パソコンの前でボーッとしていただけである。 そして、夜になって、「結局寝てないやん。次の休みこそゆっくり寝てやる」と後悔していたのだった。
ということで、明日を迎えるわけである。 明日は寝て後悔するのだろうか? それとも、起きて後悔するのだろうか? 先にも書いたとおり、嫁ブーの送り迎えと歯医者と銀行だけははずせない。 銀行から帰ってくるのは昼過ぎになるだろうから、問題になるのは、それから夜嫁ブーを迎えに行くまでである。 おそらく、今は時間のほうが大切だから起きているとは思う。 が、この日記のせいで寝てないからなあ…。 ちなみに、今、午前6時30分である。 つまり、午前5時前後の更新予定を大幅にオーバーしてしまっている、ということである。 さて、どっちだろうか?
歯を抜いた日に、ぼくは忘年会に行った。 この時ばかりは、さすがのぼくもビール一杯しか飲まなかった。 別に抜歯後に飲むのはよくない、と思ったわけではない。 ビールに血の混じった味がおいしくなかったからである。 ビールだけではない。 あの日はけっこう豪勢な食事が出たのだが、それも受け付けなかった。 とはいえ、まったく食べなかったわけではない。 何切れかつまんだ刺身のおいしかったこと。 しかし、口を動かすと、また血が出てくる。 血が出てくると、おいしくなくなる。 それで箸が進まなかったわけだ。 しかし、さすがにそれだけでは持たないので、最後に出た雑炊は血が出るのを我慢して2杯食べたのだった。 解散の時には、「次の忘年会では、しこたま飲んで、しこたま食べてやる」と思ったものだった。
さて、次の忘年会であるが、どうやら今年はもうないようである。 例の同級会からは何も言ってこないし、嫁ブー家族との食事会もなさそうだ。 そういうことなので、今年の忘年会は、抜歯の日にやった一回っきりになりそうである。
こう書くと、「しんたの会社では、忘年会をやらないのか?」と疑問に思う方もおられるだろうから、お答えします。 「はい、やりません」 普通の会社(店)なら、忘年会は花見と同じく年中行事になっているだろうが、うちの店はなっていないのだ。 なぜやらないのかというと、理由は簡単で、主婦パートが多いため、夜はあまりうそうそ出来ない人が多いということと、男子従業員で飲める人が、ぼくを含めて二人しかいないということである。
世の中には「忘年会をやらないと、士気が上がらない」と言う御仁もいるが、うちの店に関してはそれはない。 「余計なことはしないほうがいい」という考えの人ばかりだ。 だから、余計なことはしないのだ。
忘年会が、たった一回っきり。 そういうことは、ぼくが20代30代の頃には考えられなかった。 11月に入ると、どこからともなく『忘年会』という声が聞こえ始め、11月末にはすでに2〜3回の忘年会は終わっていた。 12月に入ると、忘年会はいよいよ本格的になり、少なくとも週1回、多い時には週3回やることもあった。 しかも、その内容がすごかった。 何がすごいと言って、始まりの時間ほどすごいものはなかった。 だいたい午後10時、遅い時は11時から始まるのである。
午後10時11時といえば、繁華街にある店は、ラストオーダーをとっている時間である。 そのため、いつも行くのは、会社の近くにあるあまり有名でない店が多かった。 もっと早く出来ないのかという声も一部で上がったが、仕事の都合上、どうしても遅くなるのだ。 幹事は、店探しでかなり苦労したことだろう。
さて、そこでさんざん騒いで、さらに2次会3次会に行くのである。 ということは、解散になるのは、当然午前3時4時になってしまう。 ぼくの場合、そこでタクシーを拾って、30分以上かかる家に帰らなければならない。 あと3,4時間もすれば、またそこに戻ってこなければならないのだ。 それを考えると、帰るのが馬鹿らしくなってくる。 そこで、飲み屋やサウナで朝を迎えたことも何度かあった。
今考えると、あの頃はつくづくタフだったなあと思う。 今はというと、一次会で、もう充分なのだ。 というより、うんざりしている。 かつて一次会が終わるといつも言っていたセリフがある。 「次行こ、次」である。 もはや使うことがない。
2,3日前のことだが、朝ぼくがパソコンでニュースを見ていると、嫁ブーが「目の下が腫れてない?」と言って部屋に入ってきた。 見てみると、なるほど目の下が腫れている。 「おう、腫れとるのう。どうしたんか?」 「心当たりがないんよ」 「食うちゃ寝、食うちゃ寝しよるけ、そうなるんたい」 「いや、それは違うと思うけど…」 「大いにある」 「もう…。ねえ、どうしたらいいかねえ?」 「この間、おれが買った目薬があったやろ?あれ差してみ。けっこう効くぞ」 「ああ、あったねえ。それ差してみよう」 そう言って、嫁ブーは部屋を出て行った。 しかし、向かった先は、目薬を入れてある冷蔵庫ではなく、トイレだった。 相変わらず緊張感のない女である。
しばらくして、嫁ブーはトイレから出てきた。 そして、冷蔵庫の所に行き、目薬を取り出してきた。 「これやったよねえ?」 「二つあったやろ?」 「うん」 「抗菌と書いてある方」 「ああ、これでいいんやね」 そう言うと、嫁ブーは目薬を差しだした。 その姿を見て、ぼくはおかしくてたまらなかった。 目薬を差す時、どうして口を開けるのだろう。 これも牛乳を飲む時に腰に手を当てる動作と同じで、バランスをとるためだろうか? 口を開けていたほうが上を向きやすいのは確かだが、その姿を端で見ると滑稽なものである。
嫁ブーが目薬を差し終わった後に、ぼくは言った。 「いいか、目が治るまで、おれに触るなよ」 「え、何で?」 「うつるやないか。ただでさえ歯が悪いのに、これ以上悪いところが出来たら困るわい」 「うつらんっちゃ」 「そんなことわかるか。とにかく触るな」 ぼくがそう言うと、嫁ブーはわざとぼくのそばに寄ってきた。 「こっちに来るな。向こう行け」と言って、ぼくは嫁ブーを部屋から追い出した。
その後、会社に着いてから、左目に違和感を感じた。 何となくだるいのだ。 「やっぱり、うつったやないか」 このまま放っておいたら、眼医者行きである。 嫌々歯医者に行っているのに、この上眼医者になんかに行きたくはない。 そこでさっそく目薬である。 だが、その日は目薬を買うほどのお金を持っていなかった。 「そういえば…」 ロッカーに目薬を置いているのを思い出した。
ぼくはさっそくロッカーに行った。 「あった!」 前に目が悪くなった時に買ったもので、ちゃんと箱に入ったままであった。 その箱を見ると、まだ有効期限内である。 「これでいいや」 そう思って、その目薬を差すことにした。
休憩室に行き、手を洗ってから目薬のふたを開けた。 その時、朝の嫁ブーの姿を思い出した。 口を開けて目薬を差していると、笑われること必至である。 そこでぼくは、口を開かずに目薬を差すことにした。 しかし、口を閉じたままだと、上を向きにくい。 幸いそこに人はいなかったので、大きな口を開けて目薬を差すことにした。 ほどなく、目の違和感はなくなった。
夜、嫁ブーを迎えに行った。 嫁ブーが車に乗り込んだ時に、ぼくは言った。 「おかげで、えらい目にあったわい」 「え?」 「うつったんよ」 「目?」 「おう。でもすぐ治ったけど。で、おまえはどうなんか?」 「治ってない」 「おまえ、会社で目薬差したんか?」 「持って行くの忘れたんよ」 「アホか。後ろに座れ」 「何で?」 「またうつるやないか」 「大丈夫っちゃ」 「大丈夫やないけ、うつったんやろ」 「・・・」
家に帰ってから、嫁ブーはまた口を開けて目薬を差していた。 朝と同じく、間抜けな顔をしていた。 その日、ぼくは嫁ブーからなるべく遠ざかっていた。 寝る時も、普段より50センチばかり離れて寝た。 おかげで、何とかうつらなくてすんだ。 一方の嫁ブーは、口を開けた甲斐あって、翌朝は少し腫れが引いていたようで、その日の夜には完治していた。
ぼくが左遷に遭っている頃に、その噂は流れた。 ぼくはそのことを確認したかったのだが、外を回っていたために、なかなか内部の人間とコンタクトをとることが出来ず、その実情を知ることが出来ないでいた。
ある時のことだった。 ぼくが店の近くの喫茶店で昼食をとっていると、後ろの席から、「おう、しんた」という声が聞こえた。 誰だろうと思って振り返ってみると、そこには映像の課長がいた。 その課長は、その当時のぼくが心を許せる、唯一の上司だった。 「どうか、外販は大変か?」 「はい」 「まあ、今はきついかも知れんけど、もう少し我慢しろ。悪いようにはせんから」 後で知ったのだが、ぼくが店に戻れたのは、この課長の働きもあったということだった。
それはさておき、ぼくはその時、自分のことよりも、店長の噂の方に心が行っていた。 『そういえば、課長は、以前店長といっしょに仕事をしたことがあると言ってたなあ』 そこで、ぼくは課長にその噂の真相を聞くことにした。 「課長、ちょっと聞きたいことがあるんですが…」 「何か?」 「いや、店長のことなんですけど…」 そう言って、ぼくは課長に耳打ちした。
「えっ!?」 課長は、驚いた様子だった。 そして周りを見回しながら、「おい、それ誰から聞いたんか!?」と、声を潜めて言った。 「誰がって、噂ですよ。みんな知ってるらしいですよ」 「頼むけ、店長の前でそんなことを言わんでくれよ」 「気にしてるんですか?」 「おれは、以前そのことを店長の前でうっかり言ってしまい、片田舎に飛ばされた人間を何人も見てきた」 「そうなんですか。やっぱり気にしてるんですねえ」 「気になるよ。気にならんかったら、アデランスなんかつけんやろ?」 「ああ、そうですねえ」
ぼくは、ひとりほくそ笑んでいた。 そして、あることに思い至った。 『そうか。おれが店長から嫌われるのは、案外そういうことが絡んでるのかも知れん』 その頃、ぼくはまだ30歳前後だったが、すでにまとまった白髪群があったのだ。 それを見て、店長は生理的にぼくを嫌ったのかも知れない。 『若白髪はハゲない』と言われていることだし。
さて、この『左遷裏話』の初日に、辞めるための奥の手を持っていると書いたが、それはこのことである。 ぼくが辞めようと思えば、店長の前で、ひと言「ハゲ」と言ってやればよかったのだ。 彼は気持ちよく、ぼくを辞めさせてくれただろう。
さて、外販活動が開始になってから、ぼくたちは朝礼後に、いつも店から少し離れた場所にある喫茶店に集合した。 そこでモーニングを食べてから、行き先のある人は出かけ、ない人はそのままその喫茶店でマンガを読んでいた。
そういうある日のこと。 外部の人から、会社に電話があった。 内容は、「おたくの社員は、いつも喫茶店でさぼっている」というものだった。 当然、その電話は店長に取り次がれた。 だが、店長はそのことで、ぼくたちを咎めるようなことはしなかった。 また、そういう電話があったことも、ぼくたちには知らせなかった。 それを教えてくれたのは、電話を店長に取り次いだ人間だった。 それを聞いたぼくたちは、「店長の発言に嘘はない」と思ったものだった。 そして、ぼくたちと店長の間には、信頼関係が出来上がっていった。 その結果、キャンペーンは大成功に終わり、それまで低迷していた売り上げは一気に伸びたのだった。
しかし、時すでに遅かった。 映像キャンペーン前に、すでに本社から営業面の強化を図る対策が練られていたのだ。 結局、店長は以前の管理畑に戻っていった。
【『左遷』店長登場】 その後任でやってきたのが、『左遷』の主人公になった店長だった。 映像キャンペーンが終わった後ということもあって、今ひとつ売り上げは伸びなかった。 そこで、とった手段が、前任店長のパクリとも言える外販部隊だった。 ところが、彼はそのやり方を知らなかった。 前任の店長がの場合は、自分の眼鏡にかなった人間を抜粋したのに対し、後任は自分の嫌いな人間を選出したのだ。 また、前任は外販部隊のメンバーをおだてにおだてて、その力を引き出したのに対し、後任はメンバーの顔を見ると、不快な顔をして、怒鳴り飛ばしていたのだった。 そのため、メンバーの意気は上がらず、中途半端なままで外販部隊をたたむことになってしまったのだった。
【店長の弱点】 『左遷』の中で書いたが、彼には強気に振る舞う者が持つ、共通の弱点があった。 それは、相手に強気に出てこられると弱い、ということだ。 逆に言えば、彼らは自分の弱さを隠すために、強気に振る舞っているのだろう。
さて、その店長には、もう一つ致命的な弱点があった。 それは、店長が赴任してから、わりと早い時期に社員の間で噂になった。 そのため、社員でそのことを知らない人はいなかった。 もちろん、彼が問題児と思っているぼくも、そこまでは突っ込むことが出来なかった。
【例の『左遷』について】 先月から今月にかけて、『左遷』という日記を付けていたが、それを読んで「フィクションでしょ?」と言ってくる人がいた。 が、それは紛れもない事実で、昭和62年4月〜63年3月にかけてぼくが実際に体験したことである。 そこまでの会社生活が、わりと順調に行っていたから、この左遷はショックだった。 が、そこまで落ち込むことはなかった。 もし落ち込んでいたら、さっさと会社を辞めていただろう。 『左遷』にも書いたが、そこで辞めなかったのは意地があったからだ。 しかし、今考えてみると、意地を張らずにそこで辞めておいたほうがよかったような気がする。 一つの業界にしがみつかずに、新たな人生が始まったかも知れないのだ。 それによって、もっと視野を広げられたかも知れない。 それを考えると、残念である。
辞めるのは簡単だった。 店長から嫌われていたのだから、辞表を出せば、「はい、お疲れさん」となったはずだ。 もしそこで、相手が、ぼくを辞めさせずに飼い殺しにしようとしても、ぼくにはそれを覆す奥の手があった。 それが何かということは、あとで述べることにする。
【前任の店長の話】 その前の店長はどういう人だったのかというと、管理面で非常に優れた人だった。 反面、営業面では恵まれない人だった。 その前の店長の時、多額の売掛けやテッポーが発覚した。 その整理のために、その店長は赴任したのだが、それが営業のネックになった。 つまり、そういう処理をすることにより、売り上げが食われていくということだ。 そのために、毎月予算を落としていた。 どこの企業もそうだが、地味な管理よりも、派手な営業の数字の方に目がいくものである。 当然、本社はその店長の営業手腕を問うようになる。
そこで、店長は最後の賭に出た。 年度末に行われる映像のキャンペーンで、外販部隊を結成したのだ。 メンバーは12名で、その中にぼくも入っていた。 その外販部隊に課せられた使命は、 「店のことは考えなくてもいいから、とにかく映像商品を売ってこい」だった。 予算は高く、一人1000万円だった。 外販経験者はたったの一人で、他はみな初心者である。 そのため、「予算は1000万円」と聞いた時、みな動揺した。 それを見て店長は、メンバーにある特典を与えた。 それは、 「映像商品さえ売れば、喫茶店でさぼろうが、パチンコしようが、別に咎めん」というものだった。
それを聞いた時、誰もが半信半疑だった。 「何とか言いながら、縛り付けるんやろう」 というのが、大方の見方だった。
小学生の頃に、学校の図書館で太平洋戦争関連の本を読んだことがある。 その中に一冊、毛色の変った本が入っていた。 本のタイトルは確か『太平洋戦争前夜』だったと思うが、定かではない。 戦前、日本に住んでいた朝鮮人の女の子の物語だった。
“主人公が小学生の時のことだった。 ある日、同級生が舌を出して、 「ねえ、これ何と言うか知ってる?」と聞いてきた。 彼女は、もちろん『ベロ』というくらいは知っていた。 が、その時あまりにとっさなことだったので、頭が混乱してしまい、『ベロ』なのか『ペロ』なのかわからなくなった。 同級生は、「ねえ、答えてよ」としつこく聞いてくる。 そこで、思わず「ペロ」と言ってしまったのだ。 それを聞いた同級生は、「やっぱり、朝鮮人は『ベロ』と言えないんだね」笑いだした。 しかし、彼女は、何で同級生たちが笑っているのかわからなかったそれまで、彼女は自分を日本人だと思っていたのだった。
家に帰った彼女は、さっそく母親に「私、朝鮮人なの?」と尋ねた。 それを聞いた母親は、急に悲しそうな顔をした。 それまで、娘には自分たちが朝鮮人であることを伝えてなかったのだ。 出来れば、そのことを告げずにいたかったのだが、もう隠しおおすことはできないと観念し、正直に自分たちが朝鮮人であることを娘に告げた。 それを聞いた彼女は、大きなショックを受けた。 それ以来、彼女は同級生と遊ぶこともなくなった。 「私は朝鮮人だ」という思いが、心を閉ざしてしまったのだ。
そういう時だった。 彼女は、他にも学校内に何人かの朝鮮人がいることを知ったのだった。 それ以来、彼女はその人たちだけと付き合うようになった。
その友人がある時言った。 「今、祖国では、朝鮮人の国を作るために、金日成将軍が日本人と戦ってくれている。私たちも頑張ろう。今に金日成将軍が朝鮮人を助けてくれるんだから」 その言葉に勇気づけられた彼女は、人から「朝鮮人」と後ろ指を指されても気にならないようになった。 そして、彼女はまだ見ぬ祖国に思いをはせるようになるのだった。”
確か、こんな内容だったと思う。 その話はまだまだ続くのだが、ぼくはそこまでしか読んでいない。 おそらく、彼女は祖国に戻り、朝鮮独立のために戦うのだろう。 そして、地上の楽園の建設に携わるようになるのだと思う。
今考えると、どうしてこんな本が、小学校の図書館に置いてあったのかがわからない。 どう見ても、総連関係者が書いたものである。 もしかしたら、ぼくが小学生の頃、まだ続いていた帰国事業の一環という理由で、小学校の図書館に配分したのだろう。 日教組と総連は親密な関係にあるのだから、そう考えるのが自然だろう。
しかし、こんな大嘘をよく書くなあというのが、今のぼくの感想である。 その当時、金日成はロシアにいたのだから、日本軍と戦えるはずがないではないか。 さらに、その金日成なる人物は、あくまでも伝説上の人物であって、現在世界的に認識されている金日成とは、まったく違う人間なのだ。 北朝鮮の金日成が、その名前を拝借したというのは、あまりにも有名な話である。 以前、田舎町に、突然ヴィレッジシンガーズの清水道夫と名乗る男が現れたことがあったが、彼はそれと同じことをやったのだ。 ただ違うのは、偽清水がせしめたのは何十万かの金にすぎなかったのに対し、彼は一国をせしめてしまったということだ。 その大嘘つきの遺伝子を持つ息子が、跡を継いでいるものだから困るのだ。
それはともかく、上記のような嘘本を読み、理想に燃えて帰国した人たちもいただろう。 そういう人たちが今、大嘘つきのせいで、塗炭の苦しみにあえいでいる。
2004年12月09日(木) |
歯医者の思い出(下) |
さて、その夜。 帰りぎわに映像の主任が、「しんた、まだ痛むか?」と聞いてきた。 ぼくが「痛いに決まっとうやん」と答えると、主任は「じゃあ送ってやる」と言った。 その当時ぼくはJR通勤をしていたのだが、その日は歯の痛みから駅まで歩く気が起きなかった。 そういう時に主任がタイミングよく声をかけてきたので、ぼくは渡りに船とばかりに主任の車に乗り込んだ。
車は、当初ぼくの家のある方面に向かっていた。 そのまま帰ってくれるのだろうと思っていた。 ところが、あるところまで来て、急に主任は方向を変えた。 そして、主任は「おい、何か食わんか」と言い出した。 ぼくとしては、一刻も早く家に帰って寝たかったのだが、むげに断るのも悪いと思い、「いいよ」と答えた。 「何食うか?」 「出来たら柔らかいものがいいけど」 「柔らかいものか。じゃあ、うどんにするか?」 「うん」 ということで、幹線沿いにあるうどん屋に入った。
ぼくはそこでカレーうどんを頼んだ。 食べ終わったあと、昼間抜いた歯の傷口から何かが出ているのに気がついた。 舌で触ってみると、カレーうどんに入っていた肉片のような感じがする。 「抜いた方で噛んだのに、おかしいなあ」と思いながらも、ぼくはその肉片みたいなものを指でとろうとした。 だが、なかなかとれない。 うどん屋を出て、主任の車に乗り込んだあとも、まだとれないでいた。 『ああ、イライラする』と、爪を立てて、それをつかみにかかった。 何度かやっていくうちに要領を得、何とかそれをつかむことが出来た。 そこで、つかんだ肉片のようなものを力を入れて引き抜いた。 肉片のようなものは、傷跡に深く入り込んでいたようで、抜ける時に歯茎あたりに、ちょっとした痛みが走った。 何だろうと思って、手に取ったものを見てみると、それは肉片ではなかった。 カレー色に染まってはいるものの、それは紛れもなくガーゼだった。
「あ、これはいかん」と思った時だった。 傷口から生ぬるいものが溢れ出した。 血である。 ぼくは慌てて、傷口を舌で塞いだ。 ぼくの異変に気づいたのか、主任が「どうしたんか?」と聞いてきた。 しかし、ぼくは答えることが出来なかった。 主任は再度「おい、どうしたんか?」と聞いてきた。 ぼくは言葉にならない言葉で言った。 「血が出た」
家に着いてから、ぼくはすぐに洗面所に向かった。 すでに口の中いっぱいに血がたまっていた。 それを吐き出すと、洗面所は血で染まった。 血は、1時間ほどして止まった。 その間、何度も血を吐き捨てたものだった。 血が止まったのを確認して、ぼくは先ほど取り除いたガーゼをきれいに洗い、それを傷口に詰め込むことにした。 だが、何度やってもうまくいかない。 しかたなく、傷口はそのままにしておいた。
翌日、朝早く歯医者に行ったのだが、そこで先生からそのことを聞かれた。 「あれ?ガーゼがとれている。何かあったんかね?」 「自然にとれました」 「自然に?おかしいなあ。深く詰め込んでいたから、自然にとれるはずはないんだが」 「・・・」 「まあいい。ところで昨日は疼いたかね?」 「はい、ちょっと」 「薬は飲んだやろ?」 「いいえ」 「『いいえ』って、我慢したんかね?」 「本当に痛くなるまで飲むまいと思って…」 「本当に痛く?どんな痛みだった?」 「なんか、歯の奥が疼くような痛みでした」 「それが本当の痛みなんだ」 「ああ、そうだったんですか」
「しかし、よく我慢したねえ」 「痛みにはわりと強い方ですから」 「そうかね。それはよかった」 どうもぼくはいらんことを言ってしまったようだ。 それから一週間、傷口が癒えるまでぼくはその歯医者に通ったのだが、そのことを言って以来、先生の治療は、かなり荒くなったのだった。
2004年12月08日(水) |
歯医者の思い出(中) |
その歯医者は昔ながらの木造作りで、入口はこれも時代物の引戸であった。 ガラガラと音を立てて、ぼくは歯医者に入った。 受付嬢は、これも時代に見合わず、おばさんだった。 「おはようございます。初めてですか?」 「はい」 「どうされましたか?」 「親知らずが痛んで…」 「それは大変。ちょっとお待ち下さい」
しばらくすると、奥から「しんたさん、どうぞ」という声が聞こえた。 中にはいると、頑固そうな顔つきの先生がいた。 「はい、こちら」と、先生自ら、ぼくをそこに誘導した。 診療いすがかなり痛んでいる。 その前に展開する、薬品類やアルコールランプなどが、昔ながらの歯医者を演出する。 何よりも、歯医者独特のにおいがする。 このにおいを嗅いで、ぼくは心臓の高鳴りを覚えた。
「親知らずが痛むらしいねえ。ちょっと口を開けて」 ぼくは言われるままに口を開けた。 そのとたんだった。 「こりゃ酷い。抜かんと治らんよ」 「・・・、そうですか」 ぼくが躊躇しているように見えたのか、先生は、「今日抜くよ。いいね!」、と吐き捨てるように言った。 「いいね?」と言われても、それしか治らないのなら、それに従うしかない。
およそ1時間、ぼくは口を開けっぱなしで、先生のされるがままになっていた。 最後に「ゴキッ」という音がした。 先生は「抜けたよ」と言って、ぼくにその歯を見せ、「どうする、この歯。持って帰るかね」と聞いた。 そんなもの必要ないので、ぼくは「いりません」と答えた。
その後処置をして、先生はぼくに脱脂綿を噛ませた。 「今から2時間、その脱脂綿を噛んでいなさい。何があっても口を開いてはいかん。いいね。おしゃべりなどはもってのほかだ」、と先生はきつくぼくに言った。 ぼくが「わかりました」と言うと、先生は「ほーら開いた。それがいかんのだよ」と言った。
会社に戻ると、ぼくはすぐさまメモ用紙に、 『2時間口を開けるなと言うこと。裏で伝票整理をやります。電話がかかっても取り次がないでください』 と書き、みんなに見せて回り、そのまま裏に入って伝票整理を始めた。
歯医者から戻ってきてしばらくは、麻酔が効いていたため、痛みを感じなかった。 が、伝票整理をしている最中に麻酔が切れてきて、重く痛み出した。 歯医者で痛み止めをもらっていたのだが、これくらいの痛さで飲んでいては、本当にいたい時に効かなくなるだろうと思い、飲むのを控えていた。 そのせいで、その日は一日、歯の奥が疼いていた。
2004年12月07日(火) |
歯医者の思い出(上) |
歯を抜いてから3日たった。 抜いたあとしばらく続いていた歯茎の腫れも、何とか治まっていっているように感じる。 痛みはというと、抜いている時からさほど痛くはなかったが、今もその状態が続いている。 とはいうものの、まだ気持ち悪いのは確かだ。 抜いたあとを舌で触ると、フニャフニャして何か安定に欠ける。 歯を抜く時、器具で歯茎が傷ついたのだが、そこもまだ治ってない。
さて、今日は歯医者通いの日だった。 まだ三度しか行ってないのだが、なぜかそこがホームグラウンドのような気がする。 いつものようにドアを開けると、ほどなく看護婦が出てくる。 すでに相手もぼくの顔を覚えたようで、ぼくが通院カードを出す前にすばやくカルテを用意する。 手続きをすますと、「じゃあ、しばらくお待ち下さい」と言って看護婦は奥に引っ込み、ぼくはいすに座って待合室の書棚にある『ブラックジャック』なんかを読んでいる。 何か、こういう風景が、ずっと前から続いているように思えるのも不思議である。
16年前に右上の親知らずを抜いた時は、こんな落ち着いたものではなかった。 先日も書いたが、それはちょうど『左遷』の時期だった。 ある日、急に親知らずが痛み出した。 それまでも何度か痛みがあったが、さほど気にはならなかった。 だが、その時の痛みは違った。 息をするだけでも痛いのだ。 それが一晩続いたので、ぼくは観念して、翌朝会社に着くなり、すぐに歯医者に行くことにした。
そこで困ったのが、どの歯医者に行くかということだった。 会社の近くには、三つの歯医者があった。 そのうち二つはすでに行ったことがあった。 一つはろくな歯医者ではなかった。 「はーい、大きなお口を開けてー」 「はーい、クチュクチュしてー」 どう見ても、ぼくよりも年下の看護婦が、まるで子供に言うように指図するのだ。 かと思えば、治療している最中に、 「ねえ、しんたさん。わたしねー、離婚しようと思ってるんだけど、どう思う?」などと言って、身の上相談を持ちかけてくる看護婦もいる。 治療が終わって数日してから、今度は後輩がそこに通い出した。 ぼくがその後輩に、 「あの歯医者、変やろ」と言うと、 後輩は、 「ホント、変ってますね。でも、あの看護婦たちは、『しんたさんって、変ってますね』と言ってましたよ」と言った。 やはり変な歯医者である。
もう一つの歯医者は、看護婦はまともだったが、治療の時間が非常に長い。 そこに通っていた時に、初めて奥歯を抜いたのだが、その時は何と3時間もかかってしまった。 そのため何度も麻酔が切れて、痛い思いをしたものだった。 その間、先生は「痛ければ右手をあげて下さい」と言っていたが、ぼくが痛くて右手をあげても、「そうですか。痛いですか」と言いながらも、その手もゆるめなかった。
「さて、どこに行こうか」と思ったが、その二つにはもう行きたくなかった。 そこで、自ずと残った一つがクローズアップされてくる。 「やっぱり、あそこしかない」 そう思って、ぼくはもう一つの歯医者に向かった。
タクシーは、信号待ちで、そのパトカーの横で停まった。 車が停まると同時に、運転手はほくのほうを振り返った。 「見ましたか?」 「え?」 「死んでましたねえ」 「ええっ!?」 「外に人が倒れてたでしょう?あれは確実ですよ。その横にあった車、へしゃげてましたからね」 そう言われ、ぼくは後ろを振り返って、もう一度事故現場を見た。 が、雨で運転手の言う、外に倒れている人は見えなかった。
信号が青になり、タクシーは出発した。 ところがである。 100mほど走ったところで、またもや運転手が「ありゃー」と言った。 今度は何かと思って外を見てみると、なんとまたしても事故である。 こちらは接触事故らしい。 どちらの事故も、この土砂降りの雨の中を飛ばしていて起きたのだろう。 対向車線は下りだから、きっと帰宅途中での事故なのだと思う。 あとは家に帰るだけなのに、いったい何を焦っていたのだろうか。
そこを通り過ぎて、またもや信号に引っかかった。 すると、運転手は再びぼくのほうを向いて、「死んでたでしょ?」と言う。 ぼくは見てないので何とも言えなかった。 仕方なく、「そういえば、先週この信号の前で事故を見ましたよ」と言った。 「接触ですか?」 「それはどうかわからなかったけど、救急車が来て担架に乗せられてましたよ」 「死んでたですか?」 「さあ?でも、担架上の人は血まみれでしたよ」 「そうですか。じゃあ死んでるかもなあ…」 この運転手は、よほど事故死に興味があるらしい。 案外そのタクシー会社では、事故死を見ることが自慢になるのかも知れない。
そういう話をしている時に、またしても口の中に血がたまってきた。 窓を開けて吐き出そうかと思ったが、大降りの雨はまだやんでいない。 開けたらびしょぬれになるのは必至である。 そこで、目的地まで我慢することにした。 あいかわらず運転手は、さっきの事故の話をしていたが、ぼくにはもう答えることが出来なかった。 答えると、口から血があふれ出すかもしれないからだ。 運転手はそれ以降その話をしなくなった。 それは、急にしゃべらなくなったぼくに気を遣ってのことではなかった。 目的地が近づいたからだった。
お金を払って、降りようとしていると、またもや運転手はぼくに 「やっぱりあれは死んでましたよねえ」と言った。 執念深い人だ。 しかし、これにには答えないわけにはいかない。 とはいえ、見てないものは見ていないのだ。 そこでぼくは、 「よく見えなかったもんで」とひと言いってタクシーを降りた。
タクシーを降りてから、ぼくはすぐに血を吐き出した。 吐き出す時、傘で見えなくしていたから、道行く人に不審がられることはなかった。 もし、これが晴れた日なら、結核患者か何かと間違えられていただろう。 血を吐き終わってから、ぼくは何気ない顔をして忘年会会場に向かったのだった。
珍しく日記をその日のうちに、しかも早々と更新したのにはわけがある。 血の出ている状況を、その歯を抜いた時の感触や血の温もりを、体で覚えているうちに伝えたかったからだ。
さて、その日記を書いたあとはどうしていたのかというと、結局血が止まらずに何度も洗面所に通っていた。 口の中にたまったくらいの血を吐き出す程度だから、そう大した量ではなかったが、やはり血を吐くというのは気分のいいものではない。 とにかく色がすごい。 『どす黒い血』という表現があるが、まさにそういう色で、えらく濃い赤をしていた。 これが悪い血であれば、どんどん出てくれということになるのだが、悪い血なのかどうかがわからない。 まあ、死ぬほど出ているわけではないから、気にしないでおいた。
その後、徐々に出血量が減ってきたので、ちょっと寝ることにした。 しかし、血が止まったわけではない。 寝ていながらも、多少血が出ているのがわかった。 そのため、何度か目が覚めたが、「もう止まっている」と自分に暗示をかけて、そのまま寝ていた。
午後6時頃に目が覚めた。 昨日の日記に書いていたように、昨日は忘年会がある日なのだ。 時間は7時半からだったが、何時に終わるかわからないので、とりあえず風呂にだけは入っておこうと思った。 ところが、風呂に入ろうとした時、またもや出血しだしたのだ。 「これは風呂どころではない」と思い、また寝ることにした。
どのくらい時間がたったのだろうか、電話の鳴る音がした。 「誰からだろう」と思って、電話に出てみると、受話器から聞こえてくる音が、何ともにぎやかなのだ。 「もしもし」 「『もしもし』じゃなかろうが。おまえ今何時と思っとるんか」 「えっ?」 時計を見てみると、何と7時半を過ぎているではないか。 「来るんか?」 「ちゃんと行く」 「そうか。始めとっていいか?」 「うん。すぐ行くけ」 そう言って、ぼくは電話を切った。 そのあと慌てて服を着替え、外に出た。 外はかなり激しい雨が降っていた。 そういう時に限って、タクシーが捕まらない。 気は焦るばかりである。
10分ほどして、ようやくタクシーが捕まった。 ぼくが乗り込むと、タクシーの運転手は「今日はタクシーが捕まらんかったでしょう?」と言った。 「はい。何かあってるんですか?」 「いや、今日は結婚式やら忘年会が多くてね」 「ああ、そうなんですか」 「今からだんだん多くなるでしょうね」 そんなことを言いながら、走っていくと、対向車線が渋滞しているのに気がついた。 『土曜日なのに、渋滞か。何がどうなっているんだろう?』と思っていると、運転手が「ありゃー、事故みたいですねえ」と言った。 なるほど、何台かの車がハザードをつけて停まっている。 どうやら玉突き事故らしい。 すでにパトカーが来ていた。
今日から本格的な歯の治療が始まった。 というより、抜かれた。 それも親知らずではなく、その手前の歯を。 ぼくはてっきり親知らずのほうが悪いと思っていた。 20年以上も穴が空いていたのに、治療もせずに放っておいたからだ。 ところが、悪いのは手前の歯だった。 手前の歯は、高校時代に治療していたのだ。 その時銀をかぶせていたのだが、ある時それが外れた。 その歯を治療に行けば、確実にその後ろの親知らずを抜かれると思い、そのまま放っておいたが、それでも3年くらいしかたっていない。 どうして治療していた歯の方が、それも17年以上も先輩の虫歯よりも悪くなったのだろうか。
そうだった。 今日抜いた歯は、例のデス歯科医院(H16年3月4,5日の日記参照)で治療したものだった。 高校時代のことだから、もちろん同級生のデス君が治療したのではない。 治療したのは、デス父のほうである。 人が「痛い」と言っているのに、「痛いはずはない」と言ってかまわずに針を差し込んだ、あのデス父である。 そういえば、あの時からずっと若干の痛みはあったのだ。 ここに来てとうとうボロが出た、ということである。
さて、今日は朝10時前に歯医者に出かけた。 歯医者に着くと、待つこともなく治療室に入れられた。 席につくと看護婦が、「痛みましたか?」と聞いてきた。 「はい、痛みました。今も痛いです」と、ぼくは答えた。 すると看護婦は、先生の所に行って、「しんたさん、痛みがあるそうです」と言った。 先生はその時、他の患者さんの治療をしていたのだが、それを聞くと治療している手を止めて、「そうですか。じゃあ、抜歯しないとなあ」と言った。
しばらくして先生がやってきた。 「こんにちは。あのあと痛んだそうですね」 「はい」 「今日は少し削ってみて、それでだめなようなら抜きます」 さっそく治療が始まった。 10分ほど削ったあとに、先生は言った。 「やっぱり抜かないとだめなようですね。そのかわり後ろの歯は残しますから」 「そうですか」 「それでは、麻酔を打ちますんで」 と言うと、先生はぼくの歯茎に何本かの麻酔を打った。
それから5分ほどたって、先生は「じゃあ、始めましょうか」と言った。 いよいよである。 先生は歯を少しずつ削りながら、歯と歯茎の間にへらのようなものを差し込んだ。 その最中、先生は何度も「痛いですか?」と聞いてきた。 麻酔を打っているので、もちろん歯は痛くない。 が、別の場所が痛くてならない。 その場所とは、唇である。 先生が、無理矢理ぼくの口を開こうとするのだ。 別にぼくが怯えて口を開けてないのではない。 自分では精一杯開けているつもりなのだ。 だが、その構造上、それ以上開かないのだ。 それでも先生は容赦なく力を加えてくる。 そのせいで、口が裂けるんじゃないかと思ったほどだった。
歯を抜き出してから40分ほどで歯は抜けた。 歯を抜かれた経験があまりないぼくでも、歯がとれる時はわかった。 密着している歯と歯茎の間に、空気が入っていくのだ。 ぼくが『あ、とれたな』と思っていると、先生は「はい、とれましたよ」と言った。 先生は、そのあとすぐにぼくに脱脂綿をくわえさせ、 「しばらく、それを噛んでおいて下さい」と言った。 徐々に麻酔が覚めきて、血の温かみがわかるようになった。 しばらくして、看護婦が脱脂綿を取りかえに来た。 そして新しい脱脂綿をぼくにくわえさせると、 「今日はこれで終わりです」と言った。
そのあと、ぼくは受付で、化膿止めと痛み止めの薬をもらった。 「化膿止めは8時間置きに飲んで下さい」 「食後ですか?」 「はい」 「わかりました」 「で、もう一つの痛み止めの方は痛い時に飲んで下さいね」 当たり前である。 痛くもないのに飲むはずがない。
その後ぼくは、「ところで、今日忘年会なんですけど、飲んで大丈夫ですかねえ?」と聞いてみた。 「うーん、あまり飲み過ぎると薬が効かないと言いますからねえ…、うーん」 話が続くのかと思ったら、それ以上受付嬢は何も言わなかった。 ぼくとしては、だから、どうしたらいいのかを聞きたかったのに。 綿さえ噛んでなかったら、しつこく聞いていただろうが、それ以上聞く気力もなかった。
さて、家に帰ったぼくは、1時間近く、その脱脂綿を噛んだままだった。 もういいだろうと思って、トイレにそれを捨てに行った。 どす黒い血が便器の中を染めた。 そして洗面所に行ってうがいをした。 「これで、もういいだろう」と思い、部屋に戻ってタバコを吸おうとした。 ところが、まだ生ぬるい血が出ているのだ。 それから1時間近くたつが、いまだに血は止まっていない。 今、午後2時である。 朝から何も食べてないので何か食べたいのだが、さて、どうしたものだろうか?
さらに、中に入ってみてびっくりした。 それまで行ったどの歯医者も、押し扉を開けると、まずあの歯医者独特の強烈なにおいが出迎えてくれたのだが、その歯医者にはそれがなかったのだ。 ぼくが歯医者を拒絶する要因のひとつに、あのにおいというものが確実にあった。 それがないだけでも、心理的にかなり楽である。
中に入ってから、まず受付に行った。 そして、「初めてです」と言って保険証を出した。 そこで、アンケートのようなものを書かされた。 そこには、いくつかの質問が書いてあったが、その中に『一番最後に歯医者を利用したのはいつですか?』というのがあった。 「えーっ、いつやったかのう?」と、ぼくは考えこんでしまった。 それを見て事務の人が、「だいたいでいいですよ」と言った。 その時だった。 一番最後に行った時のことを、鮮明に思い出したのだ。 「そういえば、右上の親知らずを抜いたのが最後やった。右上の親知らずを抜いたのは…」 奇しくも、最後に歯医者に行ったのは、その前日の日記に書いた「店長と一戦交えた」頃だったのだ。 ぼくは「嫌なことを思い出したわい」と思いながら、『昭和63年2月』と書いたのだった。
それを書き終えると、「しばらく、そちらに座ってお待ちください」と言われた。 待合室で待っていると、10分ほどしてから「しんたさん、お入り下さい」と声がかかった。 いよいよである。
席は3つあった。 一番手前の席でじいさんが治療を受けていた。 「こちらにどうぞ」と看護婦がぼくをじいさんの横に座らせた。 ぼくが座ると看護婦は、「ちょっと見てみますんで、口を開けて下さい」と言った。 そして、例の鏡のついた棒をぼくの口の中に入れ、ぼくの口の中を丹念に調べだした。 時にはあの編み棒のような物で、歯を突っついたりする。 この作業でスルーした歯はほとんどなかった。 ということは、ほとんどの歯が虫に食われているのだろう。 特に奥歯は酷いようだった。
それが終わり、うがいをして待っていると、先生が「こんにちは」と言ってぼくの席にきた。 「奥歯が痛いらしいですね」 「はい」 「じゃあ、ちょっと見せて下さい」 ぼくが口を開けると、先生は「ああ、ここが痛むんですね」と言って、その部分をいろいろと調べだした。 「かなり痛んでいるけど、いつ頃から悪かったんですか?」 「20年以上前です」 「えっ?その間腫れたりしなかったんですか?」 「しょっちゅう腫れてました」 「最近では、いつ頃でしたか?」 「先月と、2週間前と、先週です」 「そうですか。今は治っているようですけど、歯茎を切って膿を出したんですか?」 「いいえ」 「歯茎が破れたんですか?」 「いいえ」 「じゃあ、どうしたんですか?」 「自分で吸い出しました」 「・・・」 先生はそれ以上、何も尋ねてこなかった。 おそらく、「よくここまで放っておいたもんだ」と思って、呆れていたに違いない。
ぼくは、なぜかその歯を治療されるのが嫌だった。 16年前に歯医者に行った時も、その歯だけは舌で隠していた。 さらに、その親知らずの手前の歯にかぶせていた銀冠がとれた時も、親知らずの治療をされるのが嫌だったので、そのまま歯医者に行かず放っておいた。 そのツケが今回きたのだ。
先生は、「ここも悪いけど、その手前の歯も酷いですねえ。最悪、どちらも抜いてしまわなければなりませんよ」と言った。 そして、「今日は応急処置だけしておきますね。次から本格的な治療に入ります」と言って、悪い歯を少しだけ削ったあと、セメンのようなものでそこを埋めた。
その次回がいつかと言うと、実は明日4日なのだ。 いよいよ本格的な治療が始まる。
『左遷』を書いているうちに、いつの間にか12月になっていた。 当初『左遷』は、通常の日記のように「上」「中」「下」、もしくは「前」「中」「後」くらいで終わろうと思っていた。 ところが、書いているうちに、あれもこれもと書き添えてしまったため、結局は12日間に及んでしまった。 『左遷』に関しては、まだまだ書き足りないことがあるのだが、それは追々書いていくことにする。
さて、この12日間だが、特に大きな事件もなく過ごしてきた。 が、一つだけ日記に書けるような出来事があった。 それは、とうとうぼくの歯医者通いが始まったことだ。 以前から歯茎が腫れたりして、痛みはあったのだが、適当に散らしておいた。 ところが、11月27日の夜、いよいよ耐えられなくなったのだ。 その時は、別に歯茎が腫れたわけではない。 以前から左上の親知らずに大きな穴が空いており、そこに神経が飛び出ていた。 その神経が疼き出したのだ。 疼くのは歯や歯茎だけではない。 その親知らずが生えているほうの顔全体が疼くのだ。 それでもぼくは我慢しようとしたが、その痛みは引こうとしなかった。 そこで意を決して、11月30日の休みに歯医者に行くことにしたのだった。
さて、歯医者に行くにあたって一番悩んだのが、どの歯医者に行くかということだった。 家が大団地街にあるので、近所にはいくつも歯医者がある。 しかし、そのすべてが名医なわけではない。 そこで母に聞いてみた。 「×歯科に行こうと思っとるんやけど、どうなんかねえ」 「あそこはヤブよ」 「え、そうなん?」 「うん。前に行ったことあるんやけど、いざ抜く段階になって『うちじゃ抜けませんから、大学病院に行って抜いて下さい』と言うんよ。歯も抜ききらんで、よく歯医者の看板上げとるよねえ」 「そうやねえ。大学病院で歯を抜くなんか、考えただけでも怖いね」 「そうやろ」 「じゃあ、どの歯医者がいいと?」 「隣の奥さんが行きよるとことかいいんやない?」 「どこ?」 「最近マンションが出来たやろ」 「中学の裏の?」 「うん。そのマンションの前にある歯医者さん。あそこはいいらしいよ。先生が優しいらしいけ。隣の奥さんだけじゃなく、この団地の人はみんな行きよるみたい」 「へえ。じゃあ、そこに行ってみるか」 ということで、中学の裏にある歯医者に行くことにした。
ということで、30日の午前中に、ぼくは歯医者に行った。 まずその造りに驚いた。 そこは歯医者というより、普通の新築の家だったのだ。 ぼくが今まで行った歯医者は、だいたいどこもガラスの押し扉があって、そこに『○○歯科』と書いていたものだ。 しかし、その歯医者は、押し扉ではあったものの、一見普通の家の玄関のような造りになっており、そこには『○○歯科』などとは書かれていなかった。 もし看板を上げてなかったら、見逃していたことだろう。
さて、それからしばらくしてのことだった。 店内である噂が流れた。 それは、店長が飛ばされるという噂だった。 電子レンジの件で、店長の本社での評価は下がった。 が、その後ちゃんと処理をしていれば、ある程度の汚名返上は出来ただろう。 ところが、その処理は思うように進んでいなかったのだ。 そのために、さらに評価を落としたということだった。 そういえば、電子レンジキャンペーンが終わった頃から、何度も本社の人間がやってきた。 きっと、その調査だったのだろう。
映像キャンペーンが残り一週間になった時だった。 本社から辞令が回ってきた。 それを見ると、何人かの人間がうちの店を出て行くようになっていた。 噂どおり、その中には店長も入っていた。
それに伴って、うちの店内も組織改正が行われた。 ぼくは店長に呼ばれた。 これで三度目である。 「しんた君。君は楽器売場に復帰してもらうようになった。映像部門に比べると小さな売場だが、また元の責任者に戻るわけだから…。まあ、頑張ってくれ」 これでぼくは、ようやく元の売場に戻れることになった。 だが、楽器売場は楽器売場でいろいろ問題を抱えていた。 ぼくの後任の人間が、テッポーを打ちまくっていたのだ。 その金額は、翌月の予算より多かった。 そのおかげで、2ヶ月間、ぼくはその処理に追われることになる。
ぼくが辞令を受けてから数日後、新体制がスタートした。 店長は新しい店長を迎えると、すぐに転任地に向かった。 その店は、四国の田舎町にあり、うちの店よりも規模が小さく、従業員数もうちの半数程度しかいない店だということだった。 つまり格下げになったということだ。
その後も、その店長は、いなか町店と同じような中規模の店ばかり回された。 それでも負けずに、店長なりに再起を狙っていたらしかった。 ところが、ある店にいる時に事件を起こした。 何と仕事中に店を抜けだして、ゴルフやパチンコにふけっていたのだ。 それを社長に見つかってしまい、さらに格下げされてしまった。 最終的に回された勤務地は、従業員数が十人ほどしかいない、小さな店だったという。 今、彼は本社にいるらしい。 もちろん、閑職である。 彼は間もなく60歳になるから、このまま再起できないままに定年を迎えることになるのだろう。
店長の、うちの店に来る前のポストは、本社でも花形の商品部部長だった。 その後栄転で、本店に次ぐ大型店だったうちの店にやってきた。 しかし、そこで汚点を残してしまった。 そして、その後はどんどん格下げされ、最終的には本社に戻れたものの、その席はかつての華やかな席ではなく、定年前の閑職の席でしかなかった。 それが彼の、社会人としての後半生だった。 つまり、ぼくを左遷した時から、彼の左遷人生が始まったのだ。 思えば皮肉な話である。 (完)
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