最近、にがりと椿油で頭をマッサージしている。 この二つが、髪の健康のために一番いいと、人から聞いたからである。 使ってみると、なるほど秋口から毛細りしていた髪が、心なしか太くなったような気がする。 やはり、にがりと椿油の情報は間違ってなかったようだ。
ところで、それらのおかげで髪は健康になりつつあるのだが、ここで困ったことが起きてしまった。 それは、髪が若干黒くなったような気がする、ということだ。 ぼくは、もう黒髪のことには未練がなくなっているのだ。 というより、黒髪のことよりも、今は白髪のほうが大事なのだ。 その理由は二つある。
一つは、『しろげしんた』というハンドルネームのことがある。 もし黒くなったりしたら、『しろげしんた』という名前は嘘になってしまうのだ。 「体は名を現わす」でつけた名前だから、なおさらである。 ぼくはこの名前が気に入っている。 一生この名前を使っていきたいと思っているのだ。
もう一つの理由だが、一年ほど前から、床屋に行くたびに「きれいな白髪ですね」と言われている。 ぼくはそのことに、喜びを感じているのだ。 髪が伸びていく段階で、一人で白髪に見入っていることもある。 「このまま、髪が伸びたら格好いいのう」などと一人で悦に入っているのだ。 もし、サラリーマンやめたら、白髪を伸ばしてやろうとも思っている。
もし髪が黒くなったら、「体は名を現わす」だから、名前は当然『くろげしんた』とか『くりげしんた』とかになってしまう。 こんな名前を使うくらいだったら、嫌いな本名を使ったほうがましである。
それに、今更黒くなっても、若い頃のように真っ黒になるとは思えない。 中途半端に黒い頭というのは、実に情けない。 えらく老け込んで見えるのだ。 20代後半に、すでに中途半端に髪が白くなっていたぼくは、若い女の子などから、「白髪じじい」などと悪口を叩かれていたものである。 あの時は、かなり落ち込んだものだ。 そんな思いをしたくないと思って、カラーリンスを使うようになったのだ。 ここで、中途半端白髪になってしまったとしたら、またあんな嫌な思いをしなければならないのだ。
さて、どうしよう。 髪の健康のためには、にがりと椿油は続けなければならないが、白髪のためにはそれを続けることは許されない。 どちらをとるか? 思案のしどころである。
店に帰って1時間ほど経ってから、ぼくの携帯電話が鳴った。 「誰からだろう?」と電話をとってみると、例の警官からだった。 「あ、しんたさんですか? こちら○○交番ですが、携帯電話の落とし主が見つかりました」 「ああ、それはよかった」 「で、さっき書類のコピーをあげたでしょう。それ持ってきてもらえませんか?」 「え、今からですか?」 「今、来られませんか?」 「もう抜けられませんから」 「そうですかぁ…」 「今日じゃないといけないんですか?」 「いえ、いつでもいいですよ」 「じゃあ、明日にでも…」 「ああ、交番は24時間開いてますから、夜でもかまいませんよ。今日来てもらえますか?」 「今日ですかぁ…。仕事が終わってからでもいいんですか?」 「はい、かまいません」
電話を切った後で、ぼくは思った。 「家の電話番号は教えたけど、携帯の電話番号は教えてない。何でわかったんだろう? ‥‥あっ、もしかしたら」 ぼくは家に電話をかけてみた。 「はい」 妻の声だ。 仕事が早く終わって、もう帰っていたのだ。 「おい、さっき警察から電話がなかったか?」 「ああ、あったよ」 「で、携帯番号、教えたんか?」 「うん。『会社に電話したらいいでしょ』と言ったんやけど、しつこく聞くんよ」 やはりそうだったか。 妙に真面目すぎる警官だったから、そんなことだろうと思っていた。
そういうわけで、ぼくは帰りに遠回りをしなければならなくなってしまった。 書類を届けに行くと、さっきとは別の警官がいた。 「あのう、これ持ってきました」 「ああ、そうですか。それはありがとうございました」 手続きにあれだけの時間がかかりながら、最後は実に素っ気ないものだった。
家に帰ってから、いつも携帯電話の着信履歴やメールを見直している。 必要な人の電話番号やメールアドレスを登録し、ワン切りや迷惑メールを削除するためである。 「さて、これをどうしようか?」 そう、110番である。 消すべきか、否か? さんざん迷った末、結局残しておくことにした。 警察からの謝礼だと思うことにしたからである。
15分間、ぼくは何もすることなく、イスに腰掛けていた。 交番内には灰皿を置いてないので、タバコを吸うわけにもいかない。 机の上に夕刊が置いてあったが、それを見る気もしない。 何気なく壁を見ていると、そこに『この人を捜しています』と書いたポスターがあった。 幸せ薄そうな、貧相な女性の写真がそこに載っていた。 その女性たちは、みな指でピースサインをしているのだが、それがまた哀れを誘った。 ぼくはそのポスターを見ながら、なぜか辛くなり、目を机の上に落とした。
そうこうするうちに、警察官がやってきた。 「お待たせいたしました」 顔を見ると、まだニキビが残る若い警察官だった。 彼はおもむろに書類を取り出し、一人でブツブツと言いながら書類を書き始めた。 「あのう、ご住所はどちらですか?」 「ぼくのですか?」 「はい」 「会社の住所じゃだめなんですか?」 「え?」 「ぼくが拾ったわけじゃないんだし、謝礼なんかいりませんから…」 「ちょっとお待ち下さい」
彼は本署に電話をかけた。 「あのう、こういう場合、どうすればいいんですか?」と、ぼくが言った旨を伝えた。 「はい、‥‥、はい、‥‥、はい、‥‥、ああ、書かなくていいんですね。はい、わかりました」 受話器を置いてから、彼は「ここは書かなくていいそうです」と言い、書類を書き進めていった。 「…それにしても面倒ですねえ。前に免許証を届けた時は、もっと簡単に終わったんですけど」 「ああ、携帯電話の場合は財産性があるので、現金などと同じ扱いになるんですよ」 そう言いながら、彼の手はまた止まった。 そして、また一人でブツブツと言いだした。 そして、また本署に電話をかけた。 「はい、‥‥、はい、‥‥、はい、‥‥。はい、わかりました」
しばらくしてから、彼のブツブツは終わった。 ようやく、すべてを書き終えたようだった。 「お待たせしてすいませんでした。書き終わりましたので。…あ、参考までに住所と電話番号教えてもらえませんか?」 「ぼくのですか?」 「はい」 ここで拒むと、また時間が長引くので、ぼくは素直に住所と電話番号を教えた。 「確実に相手に届けますから」 そう言って、彼はぼくに書いたばかりの書類のコピーを渡した。 「はい、お願いします」 書類を書くのに、およそ20分かかっているから、ぼくは30分以上も交番にいたことになる。
最近、交番に行く機会が多くなった。 すべて落とし物絡みである。 前回は運転免許証、前々回も運転免許証だった。 今月に入ってからも、一件免許証の落とし物があったが、たまたま来ていた刑事さんに預けたので、こちらから交番に出向く必要はなくなった。 ちなみにそれらの免許証は、すべて女性の物であった。
さて、今日の夕方こと。 「携帯電話が落ちていました」と、お客さんが持ってきた。 見ると、その携帯電話は仰々しくも毛皮に包まれ、真珠のような飾りが付いていた。 おそらくこれも、女性のものだろう。
auの携帯だったので、さっそくauに連絡して「持ち主に連絡してもらえないか」と頼んでみた。 するとau側は、「うちではそういうことをやっていません」と言う。 「じゃあ、こちらから連絡するから、家の電話番号を教えてもらえませんか?」 「お客様情報を、お教えするわけにはいけません」 「どうすればいいんですか?」 「警察に届けて下さい」 「そうですか」、そう言ってぼくは電話を切った。 まあ、au側としては当然の対応だろうが、持ち主に連絡してやったくらいいいではないか。 おかげで、また交番に行く羽目になった。
ぼくの会社から交番まで、歩いて10分少々かかる。 この寒い中、往復20分も歩くのは辛いものがある。 車で行ってもいいのだが、交番には駐車場がなく、嫌でも路上に駐車しなければならない。 交番に用があるのに、駐禁キップを切られたらたまったものじゃない。 しかたなく、ぼくは厚手のジャンバーを引っかけて歩いていくことにした。
交番に行ってみると、誰もいなかった。 しかたがないので、机の上に置いて帰ろうとすると、そこに『落とし物を持ってきた場合は、机の上におかないで、ここにある電話を使って○番にかけてください。』と書いてある。 そこで、○番に電話をしてみた。 「はい、○○警察署です」 「あのう、落とし物を届けに来たんですが、誰もいなくて…」 「ああ、今、そこの署員は事件があって出かけています」 「どうしたらいいですか?」 「他の署員を回しますので、しばらくお待ち下さい」 「しばらくって、どのくらいですか?」 「そうですねえ、15分ほどですかねえ」 「15分もかかるんですか? 仕事を抜け出してきているんで、もう少し早く来れませんかねえ」 「じゃあ、夜にまた来てもらえますか?」 この交番は、ぼくの家とは逆の方向に当たる。 わざわざ、交番回りをして帰るのも嫌なので、「じゃあ、待ちます」ということになった。
【続・姓名判断】 今日も名前のことを考えていた。 昨日の日記で『白毛信太』がいいということを書いたが、その名前を使うかどうかについてである。 いろいろと悩んだが、やはり「しろげしんた」で通すことにした。 理由は、『白毛信太』と書くと、『しろげのぶた』と読まれるかもしれないからだ。 白毛の豚…。 こんなの嫌である。 ぼくは白毛ではあるが、豚ではない。 過去、豚と呼ばれた経験もない。 まあ、最近腹が出てきたものの、基本的に豚体型ではないので、目立つほどではない。 顔も豚系の顔ではない。 つまり、豚は、ぼくのイメージではないということだ。 そういう理由から、ぼくは『白毛信太』を捨てることにした。 でも、もったいないなあ。 せっかくいい名前(画数)だったのに。
【寒波去る】 一週間続いた寒波も、ようやく去ったようだ。 寒いことは寒いのだが、外は昨日までの冷蔵庫状態ではなかった。 昼間、灯油を買いに行った時には、日が差してそこそこ気持ちがよかった。 とはいえ、灯油の販売店は黒山の人だかりだった。 その販売店を利用してから、3年経つが、こんなにお客がたかっているのは初めてだ。 それだけ、この1週間の寒波が、並ではなかったということだろう。
【高校教師】 ラジオで、昔の学園ドラマの特集をやっていた。 夏木陽介の『青春とは何だ』に始まる学園ドラマの主題歌等を流していたのだが、突然、加山雄三主演の『高校教師』の主題歌が流れたのには驚いた。 『高校教師』は、先の『青春とは…』の爽やか路線とは、まったく意を異にしていたからである。 主題歌を歌っていたのが、夏木マリだったというのも、その当時の学園ものとは異質のものだったというのが伺えるだろう
『高校教師』は東京12チャンネルでやっていたものだった。 そのせいか、当時、同じ12チャンネルでやっていた『プレイガール』の姉妹版と言われていた。 『プレイガール』と言えば、沢たまき主演で、お色気とアクションを売り物にしたドラマである。 一方の『高校教師』も、姉妹版らしく、お色気とアクションを売りにしていた。
出演者も、「これが高校生?」と思わせるような、色っぽい人が多く出ていたような記憶がある。 高校生らしいと言えば、ぼくと同い年であるチャコちゃん(四方晴美)くらいだったろうか。
このドラマは、当時高校生だったぼくたちの間でも、けっこう人気のあった。 理由は、毎回その色っぽい人たちが、アクション中に、スカートの中を見せてくれるからだ。 そのため、ぼくたちはワクワクしながら見ていたものである。 しかし、チャコちゃんのパンツだけは見たくなかった。 まあ、そういう理由は別として、もう一度見たいドラマの一つである。
1週間ほど前のことだった。 ちょっとしたきっかけで、この疑問が解き明かされることになった。 ちょっと専門的になるので、ここでの詳しい説明はしないが、簡単に言えば、彼らの名前には神様が隠されていた、ということだ。 まあ、神様などと言うと宗教的なことと思われるかもしれないので、紛らわしさを避けるために「天佑(天の助け)」と言ったほうがいいかもしれない。
ぼくは、その22画の他、どの姓名判断の本を見ても凶数となっている34画にも疑問を持っていた。 その34画は、松任谷由実の画数だったからある。 なぜ、凶数34画なのに、あれだけのビッグアーティストになれたのだろうか? これも長い間の疑問であった。 ところが、22画の疑問が解けたことにより、松任谷由実の名前の疑問も解けてしまった。 そう、彼女の名前にも、その神様が隠されていたのだ。
長年の疑問が解けたことによって、著名な人を次々と調べていった。 すると、出てくるわ出てくるわ。 有名人の大半の名前に、この神様が隠れていた。
これで自信を持ったぼくは、「じゃあ、究極の名前はどんな画数なのか?」ということを調べることにした。 「おそらく、これではないか。いや、これしかない!」 と、ある画数を導き出した。 そして、今度はその画数を、有名人に当てはめてみた。 すると、この画数を持つ人が一人だけいた。 それは、明石家さんまだった。 この人の名前は、神様だらけである。 大竹しのぶと離婚したのは、案外彼が神様に守られていたからかもしれない。
ところで、この方法で「しろげしんた」を見るとどうなのか? まあまあいい名前である。 中の上といったところか。 しかし、それよりもいい名前がある。 それは「白毛信太」である。 これだと、先の山口百恵らと同じように、22画の凶数ながらも、神様に守られるのだ。 生まれてこの方、神様に守られたことがないから、このへんで神様に守られてみるのも悪くない。
ま、それはともかく、ぼくの姓名判断は、また一歩進歩したのだ。 こうなったら、「白毛信太」名で、姓名判断の看板を挙げようかなあ。
最近、また姓名判断に凝り始めている。 その理由は山口百恵にある。 22画。 さほどいい画数でもないのに、なぜあれほどまでのスターになれたのだろうか? これは、ぼくにとって十数年来の謎であった。 その謎を解き明かすべく、十数年前に再び姓名判断に凝り始めた。 しかし、そこで答は出なかった。
その後、周期的にこの疑問が襲ってきた。 今度は山口百恵に加え、宮沢りえという、やっかいな名前まで出てきた。 そう、宮沢りえも22画なのだ。 いったいこの人たちの名前のどの部分がいいから、スターになれたのだろうか? 確かに、華やかな世界で成功する画数だとなっている。 では、22画の人がみな芸能界で活躍しているかというと、そうではない。 ぼくの知る限りでは、所ジョージと松本人志くらいである。
仮に22画の人がすべて芸能界で成功するのだとしたら、ぼくの伯母も芸能界で成功しているはずである。 しかし、おばちゃんは芸能界とはまったく縁のない、普通の人なのだ。 「これはおかしい。野末陳平の本を読んで、22画の芸名を付けた人うち、いったい何人が芸能界から去っていったことだろうか。その数は計り知れないだろう」 ぼくの姓名判断の研究は、いつもこういった野末批判で終わってしまった。
最近姓名判断に凝り出した理由も、やはりここにある。 周期がやってきたのだ。 山口百恵、宮沢りえ、所ジョージ、松本人志、これらの人たちのいったいどこがいいから、あれほどのスターになれたのだろうか。 またあれこれと、姓名判断の本を引っ張り出して研究していた。
2004年01月24日(土) |
ドキュメント1.22(下) |
途中までは順調だった。 ところが、ある程度慣れてきた所で不幸は起こった。 前のほうで、学生がバイクを噴かしていた。 それを見て、ぼくは「馬鹿やのう。こんな雪の日にバイクなんか乗って」とあざ笑った。 その瞬間だった。 目の前の風景が、突然変ったのだ。 気がつくと、ぼくの目は自分のへその部分を見ていた。 そう、滑って転んでしまったのだ。 まるで、出足払いを喰らわさようだった。 へそを見たのは、とっさに受け身が出たからだ。 柔道をやめてから30年近くなるが、昔取った杵柄というか、ちゃんと体は覚えているものである。 おかげで、尻を軽く打った程度で助かった。
駅が近くなるにつれ、すれ違う人の数が多くなった。 その人たちも白くなっている所を歩いているので、だんだん歩く範囲が少なくなっていった。 その人が先にその白い部分に入ってこちらに向かってきた場合、仁義としてこちらが避けなければならない。 先ほどの転倒が応えてか、歩くのに慎重になっていたぼくは、その人が行きすぎるまで、じっとその場に立って待っていた。 すれ違う時、その人は怪訝な顔をして、ぼくのほうを見つめていた。
普段より1時間近く遅くなったものの、何とか無事に家に着いた。 それにしても、今回の収穫は大きかった。 まず、雪道の歩き方を身をもって知ったこと。 これは次回以降に繋がるだろう。 傘も馬鹿にならないアイテムである。
次に、受け身を忘れていなかったこと。 というより、「絶対に転ばない」と力んでいるよりも、「転ぶのもしかたない」と開き直っていたほうが、転んだ時にケガをしない、ということがわかったことだ。 今回転んだ時、ぼくはなぜか無心だった。 それは、歩いている途中に、一度は転ぶだろうと覚悟をしていたからだと思う。 その覚悟を、体が「じゃあ、うまく転ばせてもらいます」と受け取ったのだろう。 もし、「絶対転ばん」と思っていたら、筋肉や筋に余計な力みが出て、不自然な転び方になっていたことだろう。
何よりも大きな収穫は、顔を寒気にさらさなければ、寒さは半減すると知ったことである。 このことを知ったことは大きい。 これから防寒着を買う時は、フードの付いたやつを買えばいいわけだ。 それも飾りで付いているものではなく、実用的なものを。 そして寒い時は、躊躇せずフードを被る。 まあ、そうすれば、変な人と思われるかもしれないが、それでも寒いよりはましである。
2004年01月23日(金) |
ドキュメント1.22(中) |
台風と同じように、降雪の翌日というのは、だいたい晴になる。 朝方、いくら雪が地面を真っ白に覆い尽くしていても、昼頃にはもう半分以上が溶けてしまっているものだ。 北国のことは知らないが、九州で降る雪というのは、所詮こんなものである。 ところが、今回の雪は様子が違う。 天候はいつまでたっても優れないし、雪もなかなか溶けてはくれない。 いや、溶けるどころか、昼過ぎから逆にそれは固まりだしてしまった。 夕方には、白くなっている所以外、つまり地面の見えている部分は、ほとんどが凍結していた。
さて、夜になった。 帰りも当然JRである。 そのJRに乗るためには、まず駅まで行かなければならない。 「さて、どうやって駅まで行こうか?」 会社から駅までは、3キロほど離れている。 バスがないわけではない。 だが、ダイヤが乱れているとテレビで言っていたから、予定どおりは来ないだろう。 そんないつ来るかわからないものを、寒空の下でじっと待つなんて、ぼくには出来ない。 それに、朝も歩いてきたことだし、こういう雪道を歩く機会も滅多にあることではない。 ということで、歩いて帰ることにした。
行きは30分かかった。 が、帰りは凍結しているので、それではすまないだろう。 ぼくは慣れない雪道を、恐る恐る歩いて行った。 最初は普通どおり歩いたのだが、後ろ足が滑ってしまい、満足に歩けない。 そこで、地面を一歩一歩踏みしめるようにして歩いた。 これで後ろ足が滑ることはなくなったが、それでも心許ない。 幸い、傘を持っていたので、これを杖代わりにして歩くことにした。
しばらく歩いているうちに、あることに気がついた。 最初は、白く雪が残っている所が危ないと思って、そこを避けていたのだが、どうもそれは間違いだったようだ。 地面が見えているところのほうが滑るのだ。 「ああ、忘れていた! 地面の見えている部分は凍結しているんだった」 そのことに気づいてから、ぼくは白くなっている所を歩くことにした。
2004年01月22日(木) |
ドキュメント1.22(上) |
目が覚めると、道路状況は最悪なものとなっていた。 もちろん、積雪と凍結のせいである。 まあ、予想していたとおりなので、別に驚きもしなかったのだが。
さて、ぼくは、今日は最初から車で通勤するつもりはなく、JRで通勤することを決めていた。 そのため、寒い中で車の雪かきをすることもなく、チェーンをすることもなく、朝はわりとのんびりと過ごした。 昨夜から覚悟していたので、早起きも苦にならなかった。 朝食をすませ、普段より30分早く家を出て、駅まで歩いた。 服装は、もちろん重装備である。 パーカーを着込み、その上にフード付きのダウンジャケットを羽織って外に出た。 ぼくの場合、体の中で一番寒さを感じるのは顔なので、この顔さえ防御出来たら、この寒さも何とか我慢出来ると思ったわけである。 案の定、耳や頬が寒気にさらされなかった分、寒さを感じずにすんだ。 しかし、フードを2枚重ねて歩いている男の姿というのは、他人の目からは異様に見えたことだろう。 どうもすれ違う人から、目をそらされていたような気がする。
会社にはいつもの時間に着いた。 雪が降ることはわかっていたので、さすがに誰一人遅れてくる人はいなかった。 今日は一日、お客さんの入りも少なく、商品の入荷も少なかった。 ぼくの売場なんか暇で暇で。 しかたなく、今日は一日中ストーブの前で暖を取っていた。
ところが、こういう日でも忙しい部門というはある。 カー用品である。 朝から、ひっきりなしに電話がかかっていた。 お目当てはタイヤチェーンだ。 前の日から雪が降るのはわかっていたんだから、そのくらい前もって準備しておけばよさそうなものを。 やはり人というのは、せっぱ詰まらないと行動を起こさないのだろうか。
とにかくタイヤチェーンの売場には人だかりが出来ていた。 雪の少ない地方だし、カー用品の専門店でもないので、店としても、それほどチェーンを準備しているわけではない。 チェーンはすぐに売り切れてしまった。 お客さんの中には、サイズが合わないのを承知で買っていった人もいるようだった。 えてしてこういう人は、後で文句を言ってくるものである。
【雪】
夜深く、雪の白く降り積もり 街はなお寒く、夢はまだ遠く
風強く、服のすきまをさして 身は重く辛く、後ろ姿さみしく
ゆれる、春の日は遠く 待ちわびた花のつぼみ、涙を落とし
昨日までの、明るい笑顔 また今日も、深く暗く沈み
凍りつく、濡れた道あてもなく うつむいた人が、声もなく続く
【交通パニック】 今年の雪は、先週の土曜日で降り収めで、もう次のシーズンまで降らないと思っていた。 どうも読みが甘かったようだ。 今日は、朝から雪が降り出し、道路はパニックとなった。 ぼくはいつもより20分早く家を出たのだが、会社に着いたのは、いつもより20分遅くなった。
渋滞の原因はもちろん雪である。 しかし、雪ばかりが原因ではない。 雪が降ると、すぐに通行止めにしてしまう都市高速の怠慢にも原因はある。 いくらこの地方は雪が少ないとは言っても、雪は毎年毎年降るのだ。 その雪の対策を、なぜ都市高速の管理局は練らないのだろう。 いくら雪が降ると言っても、北海道や東北の雪と比べると、降っていないに等しい量である。 そういう地区の雪では走ることが出来るのに、どうして九州の雪では走ることが出来ないのか。 「雪に慣れてないから」などという、いつもの言い訳は聞きたくない。 今後どうするのかを、十分に検討してほしいものである。
さて、朝から降りだした雪は、今もなお降り続いており、窓から見える景色を水墨画の世界に変えてしまっている。 普段は、真夜中でもひっきりなしに車が通る窓の下の道路も、今日はひっそりと静まりかえっている。 おそらくこの雪は、明日も交通をパニックへ導くだろう。
【外は白い雪の夜】 ところで、窓の外の積雪風景を見て、ふと、拓郎の『外は白い雪の夜』という歌を思い出した。 「バイバイラブ、外は白い雪の夜〜♪」という歌で、拓郎が紅白に出た時に歌った歌だ。 ぼくはこの歌を初めて聞いた時、すごく違和感を感じたものだった。 なぜなら、雪を別れの象徴にするなどという感性を、ぼくは持ち合わせてなかったからだ。 つまり、冬のほんの一時期しか雪との関わりを持たない人間には、こんな詩は書けないということである。 ぼくの持つ雪のイメージというのは、上の詩にあるように「寒い」「きつい」「苦しい」、及び「落胆」でしかない。 とうてい詩人にはなれそうにない。
『あしたのジョー』の中での話。 力石徹がジョーとの対戦のために過酷な減量している時、マンモス西がジムをこっそり抜け出して、屋台のうどんを食べに行った。 それを知ったジョーは、西を追いかけて行き、うどんを食べている西を殴った。 「こんなところを見たくなかったぜ、西…」「ぶざまだな。みじめだな…」「おまえはもう、みそっかすになりさがったんだ…。おれや力石の生きる世界からな」「見たくなかったよ…。お前を信じていたかったよ」 腹を殴られ、鼻からうどんを出しながら、西は言った。 「おっちゃんが、いつかいったとおりやった…。一度のんでしもうたら…、一度食ってしもうたら、それまでの減量が、苦しければ苦しいほど…、もう、耐えられんようになる…、と」「わいはあかん…。わいはだめな男や…」
そう、ぼくは一日一食の決心を破り、禁断の木の実を食べてしまった。 西の言うところの、「だめな男」に成り下がったわけである。 その翌日から、食べた食べた。 一ヶ月分30食のラーメンは、2週間ももたなかった。 もちろん、『サトウの切りもち』も。
月の初めにバイト料と仕送りでそこそこ潤っていた生活費は、最初に買ったラーメン代と切りもち代、玉子・キャベツ・ガーリック・酒、さらに友人たちとの飲み代に消え、手元にはもう5千円も残ってなかった。 その一年前に、2週間で2千円の生活を強いられたことがあるが、その再来である。 またあんな地獄の生活をしなければならないかと思うと、気が重くなった。
「どうしよう?」 その頃、すでに九州に戻ることを決めていたため、バイトは辞めていた。 しかし、背に腹は替えられない。 「もう一度、バイトをするか」と一度は決意した。 しかし、バイトを始めるにしろ、すぐにはお金が入ってこない。 とにかく、問題は今なのだ。
いろいろと迷ったあげく、ぼくは一つの決断をした。 それは、借金である。 まあ、借金と言っても、サラ金に手を出すのではない。 横須賀の叔父に借りるのだ。 すぐさま公衆電話に走り、叔父に電話をかけた。 「おいちゃん、頼みがあるんやけど…」 叔父は快く(?)了解してくれた。 「絶対返すけね」 そう言って電話を切った。
そんなこんなで、ぼくはその月を何とか切り抜けた。 「力ラーメンは力にならん。こんなものに頼っていると、ろくなことはない」と悟ったぼくは、買いだめなどという馬鹿げたことはやめることにした。 その後、四苦八苦しながらも、何とか東京での生活を終えることが出来た。 もちろん、残りの東京生活で、力ラーメンを食べることはなかった。
今でもたまに力ラーメンを食べることがあるが、その時はいつもあの頃のことを思い出している。 そういえば、東京にいた頃の体重は65キロだった。 今はそれよりも10キロ太っている。 いろいろなダイエット法を試してはいつも失敗しているのだが、そんなことをやらずとも、一人暮らしをすれば痩せられるのだ。 本当にダイエットが必要な時は、一人暮らしでもやってみるか。
こんなぼくでも、東京に出た当初は自炊をしていた。 そのおかげで、最初の頃、ほんの少しの期間だったけど、計画的にお金を遣うことができた。 まあ、それが出来たのは、まだ友だちもいなかったということのほうが大きかったのだが。
で、どんな料理が出来るのかというと、みそ汁と目玉焼き、それとラーメン(もちろんインスタント)である。 。 みそ汁と目玉焼きは東京に出てから覚えた。 一方の、ラーメンは年季が入っている。 何せ、出前一丁の出端の頃から作っているから、東京にいる頃には、すでに10年以上のキャリアがあったのだ。 だから、ラーメン一つ作るのに、かなり凝ってしまう。
西友ラーメンを作る時でさえ、これに玉子とキャベツを加えて、ガーリック入れ、隠し味に酒をちょっと入れてみるとか、いろいろ工夫していた。 その工夫が落とし穴だった。 そのために玉子を買い、キャベツを買った。 ガーリックがなくなればガーリックを買いに行き、「酒が足りん」と思えば酒を買いに行く。 そんなことをやっていたので、ラーメンだけで終わるはずの食費が、それだけでは終わらなくなってしまった。 もちろん、飲みごとは定期的にやっていたが、ラーメンの具や酒などの余計な出費があったせいで、通常の半分くらいしか参加出来ない。 そのため、友人からは「しんた、最近つきあい悪いなあ」と言われる始末だった。
もう一つの誤算は、いくらモチを入れているとはいえ、ラーメン一杯では足りなかったことだ。 下宿で食事をする時は、8時頃に食べていた。 その後、風呂に行ったり、ギターを弾いたりして、夜を過ごしていた。 寝る時間は特に決めていなかった。 眠たくなった時に寝ることにしていたので、10時に寝ることもあれば、深夜4時5時、ひどい時には徹夜することもあった。 だいたい、深夜3時くらいに寝ることが一番多かったようだ。 それまで起きていると、当然空腹と闘わなければならない。 その空腹感のピークは12時前後だった。 朝昼と抜いているので、その空腹感たるや尋常ではない。 もう、吠えたくなるくらいだった。 それでも、最初のうちは我慢していた。 が、早くも3日後には限界がやってきた。 我慢して寝てしまおうと思ったが、自制心が利かない。 そこで、「今日は特別に腹が減っているんだ。また明日から一食に戻せばいい」と自分に言い聞かせ、禁断の翌日分のラーメンに手を出した。 とはいえ、罪悪感からか、その日はモチを入れなかった。 玉子もキャベツも入れなかった。 ただ、味の都合上、ガーリックと酒だけ入れた。
こういう空腹感の元で食べるラーメンは、本当においしいものである。 その日は、その感触を充分に味わった。 それが自滅の第一歩だった。
東京にいた頃、ぼくは食うや食わずの生活を強いられていた。 強いられていたは大げさだが、要は自分でそういうふうにしてしまっていたのだ。 原因は、ぼくの金遣いの荒さである。 バイト代や仕送りなどで、まとまったお金が入ってくると、いつも飲みに行っていた。 しかも、それは一日では終わらない。 一週間くらい続けてである。 そんな具合だったので、お金はすぐに底をついてしまった。 ひどい時には、2千円で二週間を過ごすこともあった。 そういう苦しい経験をしているのに、あいかわらずぼくは、お金が入ると飲みに出かけるのだった。
「これではいかん」と反省したのは、東京で生活を始めてから1年9ヶ月、つまり九州に戻る3ヶ月前のことだった。 とはいえ、その1年と9ヶ月の間に作った、数多くの飲み友だちとの関係を壊したくない。 しかし、そういう生活を続けていく限り、ぼくはのたれ死んでしまう。 「では、どうしたらいいか?」 ぼくはアルコール漬けになった頭で必死に考えた。
考えること一日、ようやく結論がでた。 それは、「少なくとも一日一食はしよう」ということだった。 そのためには、お金が入ったら、食料を買いだめしておくことだ。
ということで、下宿近くの西友ストアに行って、何を買いだめするかを決めることにした。 今でもそうだが、ぼくはスーパーに入ってから、まず見るのがラーメンである。 そのラーメンに当りがあった。 『西友ラーメン』というのが売っていた。 そのラーメン、他のラーメンに比べるとはるかに安いのだ。 「これは使える」 しかし、ラーメンだけでは空腹感が増すだろう。 そこで、もう一品追加することにした。
「何がいいだろう」と店内を回ってみると、そこに最適なものがあった。 『サトウの切りもち』である。 これ2切れでご飯一杯分に相当する。 「これはいい」 ラーメンと餅だけで満腹になるとは思えないが、それでも空腹感は充分に満たすことが出来るだろう。 我ながらいいアイデアだと思ったものだった。
さて、待ちに待ったお金が入った日、ぼくはさっそく西友ストアに行って、ラーメン30食とサトウの切りもち何パックかを買い込んだ。 「これで、食いっぱぐれはない」 しかし、この計画がいかに惰弱な計画であるかということを、この時ぼくは知るよしもなかった。
昨日夜遅くまでパソコンをいじくっていたため、今日の寝起きは格段と辛かった。 朝方雨が降っていたようだが、ぼくが起きた頃にはきれいに晴れ上がっており、その青空が夜更かし明けの目にしみた。
少し頭痛がする。 が、最近いつもこうなので、気にならなくなっている。 いつものように、コーンフレークを食べ、トイレに駆け込み、顔を洗った後で、ぼくは家を出た。
土曜日ということで、国道に出るまではさほど渋滞もなかった。 ところが、国道に出ると、大型トラックが数珠繋ぎになっている。 何とか流れはあるものの、そのトラックのせいでスピードが出せない状況だった。 黒崎駅前から、スペースワールド前まで、ずっとこの調子だった。 バイパスに入ってからは、さらにスピードが落ちた。 しかし、それでも流れているはので、工事や事故ではなさそうだった。
バイパスに入ってから、3キロ近く上り坂が続く。 それ以降はずっと下り坂だ。 ちょうどその境目まで来たところで、ようやくノロノロ運転の原因がわかった。 雪である。 バイパス横の芝生や、バイパス沿いの家々やレストランの屋根に雪が積もっているのだ。 また、対向車線には、時折雪を被った車が走っていた。
会社に着いてわかったのだが、朝方北九州市東部に雪が降り、市内を走る九州道と都市高速が通行止めになっていたらしい。 そのせいで大型トラックが迂回したために、国道が溢れていたのだろう。 そういえば、出がけにテレビで、「九州道通行止め解除」という速報が流れていたが、そのことだったのだ。 てっきり、どこかの山間部のことだと思っていた。 しかし、北九州市は広い。 西部の雨が、東部に行くと雪に変るのだ。
さて、この地方は、年に一度雪が積もるのだが、もしかして今日がその日だったのだろうか。 もしそうなら、今年はもう雪が積もることがない。 年に一度の憂鬱も、これで終わりということになる。 雪は降ってもいいだが、とにかく足に影響が出ると困るのだ。 もし今日がその日であるのなら、まったく影響なく終わったということで、これは喜ばしいことである。 やはり、今年はいい年なのだろう。
さて、そんなことを何週間やったろうか。 これをやり始めたのが、10月の下旬だった。 気がつくと、息が白くなっている。 指もかじかんで、満足に動かない。 ご存知の通り、ぼくは寒いのがまったくだめなので、寒さに気落ちしてしまった。 合わせて、飽きもでてきた。 そんなある日のこと。 いつものように練習をやっていると、突然雨が降り出してきた。 しかも、それと呼応するように、弦が切れてしまったのだ。 これが限界だった。 「下宿代ちゃんと払いよるのに、何でこんな馬鹿なことせないけんとか。ああ、もうやめた!」 ぼくは、ギターが濡れないように、上着で包み、ダッシュで下宿に戻った。 そして、下宿で再びジャンジャン、ガンガンやり始めた。 その後は、誰も文句を言って来る人はいなかった。
東京でそういう思いをしてきたので、こちらに帰ってきた時は嬉しかった。 もう、誰にも邪魔されることはない。 誰気兼ねなく、好きなことをやれるというのが、どんなに素晴らしいことかというのを、ぼくは身をもって知ったのだった。
その後、また障害が出てきた。 それは仕事である。 就職してしばらくしてから、帰りが極端に遅くなったのだ。 最初のうちは、週に何度か遅くなる程度だったが、そのうち遅いのが当たり前、という状況になってしまった。 そのため、練習する時間が取れなくなった。 いや、やることは出来たのだが、夜中にジャカジャカ、ガンガンやると、近所迷惑である。 東京にいた時も、さんざん周りに迷惑をかけたぼくだったが、さすがに夜中にはギターを弾かなかったくらいだから、そのへんはわきまえていたわけだ。
とはいえ、まったくやらなかったわけではない。 休みを利用して、練習することはあった。 が、毎日遅いため、練習よりもとにかく睡眠という状態で、一日中寝ていることもしょっちゅうだった。
また、楽器を扱う仕事だったので、ギターを弾くくらいは出来た。 だが、職場で歌をうたうわけにはいかない。 そのうち、だんだんギターとの距離が出来てしまった。 カチカチになっていた左の指も、いつしか軟らかくになり、握力も衰えていった。 たまにギターを弾いても、昔みたいに長時間続かない。 そのうち、興味が薄れていき、読書三昧の時代を迎える。 そして、読書三昧が終わり、興味はホームページへと移っていった。
ところが、ホームページをやっていく過程で、また弾き語りに興味が移っていった。 そう、「歌のおにいさん」などというコーナーを作ったからである。 昨年の夏頃から、ぼちぼちやり始めた。 とはいうものの、腕のほうは全盛期のそれではない。 全盛期に近づけるためには、また過酷な練習をやらざるをえない。 そこでまた「練習場所」ということになるのだが、今住んでいる家は、ちゃんと防音設備が施してある。 こういうこともあるかと思い、そういう家を探したのだ。 ところが、そういう家に住んでいても、やはり隣近所のことが気になってしまう。 どうもかつて経験したことが、心の傷として残っているようだ。 このへんのケアをやっていかなければ、身の入った練習が出来ない。 やはり、家は弾き語りの練習場所として適してないのだろうか。
何十年かぶりに歌の練習を始めた。 歌と言ってもカラオケではなく、弾き語りである。 何かのオーディションを受けるとか、そんなことではなく、ただ趣味として漠然とやりたくなったのだ。 そのため、ハーモニカにも手を付けることになったのだ。 その際、問題になるのが練習場所である。
東京にいる頃、ぼくは下宿先でいつもひんしゅくを買っていた。 それは、騒音である。 とにかく、朝から夜までギターをジャンジャン奏で、歌をガンガン歌っていたものだから、防音もしてない築数十年の木造下宿の中はかなり音が響いていたことだろう。
下宿のおばさんも、これには参ったらしく、「昼間はいいけど、夜は音を小さくしてくれませんか」と言ってきた。 「はあ、わかりました」とは言ったものの、こちらはエレキを弾いているわけではないので、音の絞りようがない。 仕方なく、歌声だけを小さくした。
こちらがあちらの言い分を飲んだわけであるから、昼間は大音響でやらせてもらうことにした。 ところが、今度は隣の部屋の住人が文句を言ってきた。 いや、言ってきたのではなく、書いてきたのだ。 トイレに行こうと、部屋を出ようとしたら、扉の下に一枚の紙が置いてあった。 見ると、「もう少し、音を小さくして下さい」と書いてある。 これ以上どうしろと言うのだ。
ただの練習なら、夜のように歌声を小さくすることも出来る。 しかし、ぼくにはそれが出来ない事情があった。 当時、レコードプレーヤー付きの質の悪いテープデッキしかもってなく、デモテープを作る際、大きな音でやらないと録音が出来なかったのだ。
夜はだめ、昼もだめ、ということは、下宿の中ではだめだということである。 下宿の中でだめということは、当然外でやるしかない。 路上では無理である。 ということは、公園で、ということになる。 が、わざわざテープを持ち出して、外で録音するなんて出来るはずがない。 何よりも電源が取れない。 デッキは1電源方式だったので、電池も使えない。 仮に電池を使えたとしても、他の音を拾ってしまうからだめである。
こうなれば、下宿でやる時間を短くするしかない。 公園で練習して、家に帰って一発録りするしかない。 そこで、公園ライブが始まった。 もちろん、人に聞かせるためではなく、あくまでも自分の練習としてである。 聞かせるわけではないから、まともに歌うわけではない。 途中で引っかかれば、また最初からやり直したり、ギターでつまずけば、その部分だけを集中して何度も練習する。 合間に、「こうじゃない」とか「こんな簡単なことが、何で出きんとか」などと独り言が入る。 そういうことばかりやっていたから、最初は物珍しげに立ち止まる人がいたが、だんだん寄りつかなくなっていた。 まあ、そのほうがぼくにとっては、気が楽だった。
最近ウキウキしている。 その理由の一つに、運命線が伸びたというのがある。 ぼくの運命線は、今まで感情線で止まっていた。 太閤秀吉は、この運命線を伸ばすために、ピンのようなもので線を引くことをやったらしい。 そのおかげで、秀吉の運命線は中指まで伸びたという。 その結果が、太閤様だ。
それを知って、そういうことをやってみた。 しかし、その努力は報われなかった。 秀吉の件を知ったのが19歳の時だから、もう27年も報われなかったということだ。 感情線より上には伸びてくれない運命線を眺めては、自分の運命を恨むこともあった。
ところが、年が明けたある日。 その日は陽春という名にふさわしい、天気のいい日だった。 何気なく太陽に手を透かしてみた。 「えっ!?」 何度か見る角度を変えてみた。 しかし、何度やっても同じだった。 何と運命線が伸びているのだ。 それも感情線の1センチ近く上まで。 これは喜ばしいことである。 長年の願いが叶ったのだから。 秀吉までは無理だろうが、それでもいっぱしの人間になれるのではないか。 そういう期待が、ぼくの胸の中で膨らんでいった。
さらに、その運命線の横にある太陽線が伸びていた。 手相の本で読んだことがあるのだが、太陽線が伸びる時、昇進したり、懸賞に当たったり、と、とにかくいいことが起きるらしい。 もしその記述が本当なら、ぼくにも何かおこぼれがあるだろう。 平成16年、今年は何かいいことがありそうな予感がする。
以前から、今日1月13日は、灯油を買いに行って、その後宗像大社に初詣に行こうと決めていた。 ところが、今日は朝から寒かった。 天気予報では、平野部でも雪が降ると言っていた。 そのため、今日は灯油は買いに行くだけにして、宗像大社行きは断念することになった。
これで、旧松の内である15日までに、宗像大社に行くチャンスはなくなってしまったのだ。 次のチャンスは、旧正月ということになる。 ということで、暦を見てみると、旧暦の元日は今月の22日となっている。 あいにく22日は休みではないが、翌23日、つまり旧暦1月2日が休みである。 「旧でも何でも、正月は正月だ」ということで、旧正月に参拝することにした。
ところが、暦をよく見てみると、その前々日の21日は、何と大寒ではないか。 ここ数年、大寒の日は例外なく寒い。 また、その翌日や翌々日には、必ずと言っていいほど雪が降っている。 もし今年も雪が降ったりしたら、再び延期ということになってしまう。
そうなると、次のチャンスは立春2月4日以降である。 立春、これも節気の始まりだから、正月と同じ扱いである。 いや、干支も立春から始まるのだし、厄年は立春から節分までとしているのだから、立春こそが本来の元日なのだろう。 これと比べると、新暦や旧暦の正月なんて、臭いだけで実がない屁みたいなものである。
そうだ、やはり初詣は立春に限る。 立春の頃は、寒いとはいえ、梅がほころび始める時期だ。 その中にほのかな温もりを感じるのは、そこに春の芽生えがあるからだろう。 それこそ「初春」の名にふさわしい。 人が作った宣伝まがいの「初春」にお参りするより、自然が醸し出す本当の意味の「初春」の時期にお参りすることのほうが、初詣にも張り合いが出てくるというものだ。 案外神様も、春を素直に喜ぶ人たちの参拝を、望んでいるのではないだろうか。
久しぶりにハーモニカを吹いてみたのだが、吹けない! いや、単独では何とかなる。 しかし、ギターを弾いているとだめなのだ。 やはり10年間のブランクは大きい、と言わざるを得ない。 プロは練習しなくても、イメージトレーニングだけで大丈夫らしい。 が、ぼくはイメージトレーニングやれるほど、精神力は強くない。 ましてや、ハーモニカが職業でもないのだから、そこまでやろうとも思わない。
とはいえ、昔出来たことが出来ないというのは、実に歯がゆいものである。 そこで、今後は休みを利用して、ハーモニカの練習をしようと思っている。 幸い、ほとんどのキーは揃っているので、別に買い足すこともない。 まあ、金もかからないことだし、手軽に出来る趣味としては、もってこいである。
それにしても、家の中で眠っていたハーモニカを引っ張り出してみると、かなり汚い。 吹き口にカスのようなものが付着していて、そのままでは吹く気がしない。 今回は「F」のハーモニカだけが必要だったので、それだけ丹念に洗ったのだが、汚れは落ちてくれなかった。 口に直接触れるものだから、洗剤などでは洗えない。 まあ、食器用の洗剤を使えば、何とか落ちるとは思うのだが、それではあまりいい気はしない。 さて、どうしたものか。
ハーモニカが10数本ある。 そのほとんどが汚れているのだ。 中には、高校時代から使っている物もある。 当然それも汚れているはずから、その汚れは、30年の年季が入っていることになる。 せっかくハーモニカの練習を思い立ったのだが、まず始めに、汚れと格闘しなければならない。 これがどうにも億劫である。
すでに小寒に入っている。 この時期、ぼくの体は微妙である。 暖かさがわからないのだ。 「今日は暖かいね」などと言われても、さほど暖かいとは感じない。 逆に「今日は寒いね」と言われると、体が過敏に反応して、一段と寒く感じてしまう。 のどが渇くと、イガイガしているような気がするし、ちょっとした冷えでさえ悪寒のように感じてしまう。 鼻炎気味なので、朝方にいつもクシャミをするのだが、それさえも風邪の諸症状のような感じがする。 そのたびに薬を飲んでいる。 薬を飲めば飲んだで、風邪を引いているような気分になってしまう。
ぼくは、何でも風邪と思ってしまう状態を、一月病と名付けている。 五月病とかと同じく、一種の気の病である。 年末から何度もこの日記に、風邪気味だということを書いているが、おそらくそのほとんどは風邪ではなく、この一月病なのだろう。
ところで、この時期はとにかく薬代がかさむ。 普段の月は、薬など買うことはほとんどない。 たまに目薬を買う程度である。 ところが、1月はしょっちゅう葛根湯を買っている。 その額は1万円を軽く超えている。 とにかく、手元に葛根湯がないと安心出来ないのだ。 これも一月病の症状だろう。
今日は休みだった。 昨日の背中痛のため、外に出る気がせず、家の中で録りだめしているビデオを見たり、マンガを読んだりすることにした。
10時頃だったか、「ピンポーン」という音がした。 来客である。 出てみると、下の階の人で、町内会費を集めに来たということだった。 さて困ったことになった。 ぼくはキャッシュレス生活をしているので、通常はコイン以外のお金を持っていない。 「いくらですか?」と聞くと、「1400円です」と言う。 「わかりました。後で持って行きます」 そう言って、先方に引き取ってもらった。 おそらくその人は、「1400円のお金も持ってないのか」と思ってあきれたことだろう。 いや、もしかしたら、ぼくのことを空き巣だと思ったかもしれない。
その人が帰った後、ぼくはすぐさま、家の前にある信用金庫に走った。 ところが、ここは土・日のキャッシュサービスをやっていなかった。 今どき、土日にキャッシュサービスをやってない金融機関なんて、ここくらいじゃないだろうか。 しかたなく、少し先のコンビニに走った。 こういう時、近くにコンビニがあると便利である。 そこでお金を下ろし、先ほどの人の家に持って行った。
さて、背中の状態だが、何とか腕は上がるようになり、首も回るようになった。 が、コンビニまで走るという過激な運動をしたため、不安になってきた。 そこで、家に戻ってから、風呂に入ることにした。 マンガを読みながら、ぬるま湯の中に2時間ばかり入っていた。 それが功を奏したのか、上がる頃には背中の調子も良くなっていた。
ところが、それで安心してしまい、体を冷やしたのがいけなかった。 再び背中に違和感を感じたのだ。 ということで、またもや風呂に入ることにした。 今度は2時間半だった。 風呂から上がると、また背中の状態は良くなっていた。 バスタオルで体を拭きあげた後、体を冷やさないようにと、充分に厚着をし、そのまま布団に直行した。 そして眠ってしまった。
目が覚めたのは夕方で、もはや辺りは暗くなっていた。 現在、背中の調子がどうなのかというと、まあ昨日よりはいいが、いまだはっきりしない状態である。 しかし、明日は3日目となるので、これまでの例からすれば、そろそろ完治する頃である。 用心のため、夜更かししないで、早く寝ようと思っている。
朝起きた瞬間、「今日は調子が悪い」という予感がした。 それから数分後、その予想は当たった。 どうも背中に違和感がある。 背骨の上の部分がずれそうな感じがしたのだ。 ずれてしまうと、背中はもちろん、肩や首に痛みが走る。 痛みをかばうために腰や足にも影響が出てくる。 つまり、行住坐臥すべてに影響が出てくるということだ。 しかも、その痛みは一日やそこらでは治らない。 治るまで、最低でも三日はかかるのだ。、
そうならないためにも、ぼくはすぐさま矯正した。 うまくいけば、背中がボキッと鳴って、違和感が解消されるのだ。 何度かやっていると、うまくはまったようで、違和感はなくなった。
ところが、出勤時に車の中でとった姿勢が悪かったのか、会社に着く頃に、また違和感が出てきた。 そこで、再び矯正をやった。 だが、今度はどうもうまくいかない。 何度やってもだめなので、なるべくその部分に負担をかけないような姿勢をとることにした。 しかし、それがいけなかった。 「負担をかけまい」と思うあまり、かえってその部分を意識してしまう。 そのうち、ちょっとした腕の上げ下ろしにまで神経を遣うようになった。 おそらく傍にいた人には、ぼくの動きは妙にぎこちなく見えたことだろう。
なぜか神様は、こういう時に限って容態を悪化させるような状況を作ってくれる。 今回の試練は重たい荷物だった。 次から次に荷物は入ってくる。 その整理のために、嫌でも体を酷使しなければならない。 当然、こういう力仕事をやっていると、背骨の状態に影響が出てくる。 案の定、荷物の整理が終わった時には、かなり背中が痛くなっていた。
昼食をとったのは午後1時頃だったが、その頃にはさらに状態は悪化しており、首を曲げることすら出来なかった。 おまけに、頭は痛くなる。 イライラがつのる。 さんざんな状態のまま、夜を迎えた。 夜になっても、明日の準備等で体を駆使しなければならない。 ようやく仕事が終わり、家に帰った時には、すでに立っていられない状態だった。
ぼくは年に一度くらい、こういう状態に陥ることがあるが、今回のは最悪だった。 その後、風呂に入ったりして、筋や筋肉をほぐしたおかげで、痛みは少し治まったが、まだまだ動きはぎこちない。
昔からぼくは、女性に失礼なことばかり言って、いつもひんしゅくを買っていた。 その中でも、一番ひんしゅくを買う失礼なことは、相手の年を平気で言うことである。 まあ、そこには、ぼく自身が自分の年に無頓着だというのがあるが、女性の場合、自分の体重を聞かれるのと同じくらいに、自分の歳を聞かれるのが嫌らしい。
よく、女性に年を聞く場合、一般の男性は必ず「失礼ですが、おいくつですか?」と言う。 「失礼ですが」と言わなければならないくらいだから、女性に歳を聞くのは、本当に失礼に当たるのだろう。
ぼくは考えた。 失礼に当たるから、女性の歳を言うべきではない。 また、聞くべきではない。 では、女性をどういうふうにして量ればいいのだろう。 年齢で量ることがだめなら、実力で量るしかない。 しかし、実力と言っても、人それぞれの価値観に照らし合わせての実力だから、その見極めは大変難しいものになる。 誰がどう量っても変らない実力、それは経験しかない。 どのくらいの人生経験を積んだかが、その人の実力になる。 それを量る度合いは、やはりどれだけ生きたかということになってくる。 しかし、それは年齢ではないから、何歳などということは出来ない。 実力の世界なのだから、やはり日本式に武道を取り入れるのが一番である。
そこで、こういう表し方をしてみた。 女性としての顔かたちや考え方が身に付くまでの20年、つまり20歳までを入門者とする。 社会にとけ込むまでの期間、つまり21歳から30歳までを初心者(10級から1級まで)。 ここから段位が始まる。 31歳から33歳までが初段。 34歳から36歳までが二段。 37歳から39歳までが三段。 40歳から42歳までが四段。 43歳から45歳までが五段。 46歳から48歳までが六段。 49歳から51歳までが七段。 52歳から54歳までが八段。 55歳から57歳までが九段。 58歳から60歳までが十段。 61歳から70歳までが錬士。 71歳から80歳までが教士。 81歳から90歳までが範士。 91歳以上が免許皆伝。
こうすれば、いちいち「失礼ですが、おいくつですか?」などという失礼なことを言う必要もなくなる。 自己紹介する時や、他人から紹介してもらう時に、例えば田中さん45歳なら、「田中五段です」と言うなり言ってもらうなりすればいい。 受けた相手も「ほう、五段ですか。かなりの実力者ですな」と返せば、これは失礼ではなく、誉め言葉となる。
また、こうすることによって、誕生日のたびに「また一つ歳をとったね」などと言われたりすることもなくなる。 「昇段、おめでとうございます」などと言われるようになるだろう。
「じゃあ、お前は男性の場合も実力で言うのか」という意見もあるだろう。 しかし、それは心配しなくていい。 男性の場合は、ある面年齢を勲章と思っているところがあるから、今までどおり年齢を言っても大丈夫である。
ということで、ぼくはこれから女性の歳を書かないことにする。 すべて段位で表わそうと思っている。 エッセイにある『トキコさんは48歳』も、『トキコさんは六段』にしなければならない。 ちなみに、そのトキコさんは、その後順調に昇段していき、現在八段という高段位である。
そういえば、現在、ぼくの同級生のほとんどは六段である。 ということは、かなりの実力者になっているということだ。 同級生恐るべし、である。
ところでこの段位、決して『有段者=おばちゃん』という意味ではない。 そのへんは誤解のないように。
その翌日のことだった。 有線ブロードバンドから勧誘の電話が入ったのだ。 「有線ブロードバンドと言います」 「はい」 「失礼ですが、パソコンはやっていますか?」 「はい」 「じゃあ、光ファイバーとかに興味ありますか?」 「ずっと前から有線さんのメール取っていますよ」 「そうなんですか。じゃあ、そちらの地区もサービスが開始になったことですし…」 「いや、ちょっと待って下さい。実は…」と、ぼくはNTTとの経緯を話した。 「…で、12月のマンション総会で説明会が行われるんですけど、そこで承認を得ないとならないんです」 「じゃあ、うちも説明会に出席します。そうすれば、入ってくれますね」 「いや、マンションの光ファイバー導入の話をNTTに持ち込んだのがぼくなので、無碍に断るわけにはいかないんですよ」 「ああ、そうですねえ」 「じゃあ、うちがマンションのサービスを請け負ったら、入ってくれますね」 「その時はそうします」 「じゃあ、頑張りますんで」
先月の頭、ポストに総会のお知らせが入っていた。 総会の議題の一つに、「光ファイバー導入について」という項目があった。 そのお知らせには、Bフレッツと有線の資料が同封されていた。 それを見た時、「ようやくここまでたどり着いた」とぼくは思った。 Bフレッツを申し込んでから、というより、それ以前にぼくが光ファイバーに初めて注目したのが、2年前のことだった。 市内ではサービスがすでに始まっていたのだが、それは一戸建ちの家の話で、マンションには乗り越える壁がたくさんあった。 Bフレッツの申し込みが、なぜ今年の3月までずれ込んでしまったかというと、それは管理組合を動かさなければならなかったからだ。 3月に、NTTが「管理組合を説得します」というCMを流しだしたのを見て、初めて申し込む気になったのだ。 NTTがそういうCMを流さなかったとしたら、おそらく永遠にマンションの光ファイバー化は実現しなかっただろう。
マンションタイプなので50MBと、100MBには届かないが、局からの距離の関係でようやく2MBしか出ない、しかも時々切れるADSLとは雲泥の差である。 ということで、ずいぶん時間がかかったが、来月中旬、ついに念願の光ファイバー生活が始まるのだ。
昼間、昨日の日記を書いている時だった。 滅多に鳴らない携帯電話が鳴った。 何だろうと携帯の液晶を見てみると、そこには見慣れない電話番号が表示されている。 市外局番が北九州のものだったので、いたずら電話ではない。 「いったい誰だろう」と思いながら電話に出た。
「こちらNTTフレッツセンターですが、先月行われたマンションの総会で、Bフレッツの導入が決まりました」 「え、そうですか!」 「で、工事は来月中旬になると思います」
思えば長い道のりだった。 ぼくがネットでBフレッツを申し込んだのは、昨年の3月のことだった。 その翌月、NTTから電話があり、「おたくのマンションの場合、戸数が規定に達してないので難しいです」とほとんど断りに近い内容の答が返ってきた。 ぼくが「どうにかなりませんか?」と言うと、先方は「まあ、管理組合いのほうには取り合ってみますけど」という返事である。 「で、管理組合いのほうがうまくいったら、いつ頃開通しますか?」 「いろいろ準備があるから…、まあ早くて5月中旬というところですかねえ。もっと遅れる場合もあります」 あまり気が乗らないような受け答えだった。
その後、NTTのほうから何も連絡が無く、結局だめだったんだろうと思い、他の光ファイバーを当たっていた。 現在、北九州は、Bフレッツの他、有線ブロードバンドと九州電話のBBIQが光ファイバーサービスをやっている。 いちおう、そちらのほうにもメルマガ登録して、サービス開始情報を得ることにした。
それから数ヶ月後、NTTから電話をもらった。 「光ファイバーに興味がありますか?」 「興味があるも何も、3月に申し込んだんですけど、何の連絡もないんですが」 「えっ、そうだったんですか。一度もなかったですか?」 「一度あったんですけど、戸数が少ないとかの理由で、半分断りのような電話でした」 「それはすいません。さっそく係から連絡させますから」
翌日、その係から電話があった。 「うちから、管理組合に掛け合いますので」という内容だった。 前もそう言っていたが、今回は先方の懸命さが伺えた。 「お願いします」 ぼくはそう言って、電話を切った。
それから何日か後、再びその係の人から電話が入った。 「12月の総会で説明会を行うことになりましたので、ご報告しておきます」
くっ、何にも出てこんわい。 長いこと日記をやっていると、こういう日もある。 何も肩に力を入れるほどのものでもないのに、日記を書く時はなぜか気負ってしまう。 きっとその気負いが、日記を書くことを難しくしてしまっているのだろう。 決して何も出てこないのではない。 「何かいいことを書いてやろう」なんて思っているから、出てこないだけである。
さて、今日、生まれて初めて額縁を購入した。 元々絵心がない上に、家の中を飾り立てるのが嫌いなたちなので、これまでそういうものに関心を寄せたことはなかった。 ところが、最近、えらく気になる画を見つけたのだ。 3日の初売りからうちの店で画入りの額縁を売っているのだが、その中にその画はあった。 仙崖禅師の禅画である。 布袋さんが寝ころんで大あくびをしている画で、他に売っていたきめ細やかな水彩画や油絵、浮世絵などと比べると、見劣りする画であるが、なぜかひょうきんで味がある。 その画を一目見て、「ほしい!」と思った。 値段もそれほど高くない。 「よし買うぞ」と、財布の中を見てみると、足りないではないか。 しかたなく、その日は買うことを見合わせた。 次の日4日は、お金を用意していたものの、そのことを忘れていた。 そして次の日、つまり今日、ようやく購入にたどり着いたわけだ。
家に帰ってどこに飾ろうかとさんざんシミレーションした。 こういうものを飾るのが初めてなので、どこに飾っていいのかがわからない。 さんざん迷ったあげく、結局玄関に飾ることに決めた。 出かける時と、帰った時に、この画を拝めるというのが、その理由である。 これからは、この画のおかげで、気負わず焦らず外に出かけられるだろう。 また、外で疲れた心を、この画が癒やしてくれることだろう。
そういえば、この部屋にもこういう画があるといいかもしれない。 いや、気負わず快く日記を書くためにも、ぜひ必要だ。 今回の売り出しでは、仙崖ものは今日買った一つだけしかなかった。 ということは、購入はまた次の機会にということになる。 ということは、その日まで気負った日記を書かなければならないということだ。 当分苦悩は続く。
昨日で早くも三ヶ日が終わった。 ぼくは子供の頃、いつもこの時期に悲しい思いをしていたものだった。
一つの悲しみは、テレビの年末年始特番が終わることだった。 冬休みは、クリスマス特番から始まった。 クリスマス特番が終わると、間を置かず年末特番が始まる。 紅白が終われば、正月特番の始まりだ。 正月には、ぼくが好きなお笑い番組をたくさんやってくれる。 しかし、それもだいたい3日までで終わり、その後は、通常の番組に戻る。 まあ、通常見ているアニメやドラマの続きがまた見られるようになるのはいいのだが、昼間やっているアフタヌーンショーやライオン奥様劇場などは、まったく面白くなかった。
もう一つの悲しみは、あと4日経つと、学校に行かなくてはならなくなる、ということだった。 学校に行くということは、寒い朝、暖かい布団の中にゆっくりもぐっていることが出来なくなるということだ。 寒さが大嫌いなぼくにとって、これは地獄の責め苦である。 宿題もたまっている。 当然、何もやってない。 冬休みは2週間しかないので、宿題の量はそれほど多くなかった。 おそらく夏休みなら、そのくらいの量は一日でこなせるだろう。 しかし、その一日が短い冬休みでは貴重だったのだ。 先に書いたテレビの特番や、かつて正月の定番であった凧揚げやコマなど、冬休みには楽しみがぎっしり詰まっている。 そんな楽しみを奪ってしまうような宿題に、とうてい耐えられるものではなかった。 結局、夏休み同様、冬休みの宿題も、休み内に終わらせることが出来なかった。 提出はいつも10日前後、その時の言い訳は「出来てはいるんですが、持ってくるのを忘れました」だった。 始業式の日には宿題は出なかった。 が、ぼくはみんなが外で遊んでいるのを横目に、涙を浮かべながら宿題をやっているのだった。
考えてみたら、もし今、冬休みのような長期の休みがあったとしたら、時間をもてあましてしまうだろう。 凧揚げやコマなんか当然やらない。 というより、冬場は好んで外に出ることをしない。 最近の正月特番は面白くないので、あまり見る気がしない。 かといって、ビデオを見る気もしない。 温泉旅行は金がかかる。 体を癒しに行ったのはずなのに、帰ってくると、なぜか疲れが増している。 結局は、「仕事が一番」ということになるだろう。 やはり、冬休みというものは、学生だけが楽しめるように出来ているのだろう。 もちろん、そこには悲しみという見返りもあるのだが。
中国には、四霊と呼ばれる霊獣がいる。 龍、麒麟、鳳凰、亀の4つである。 まあ、いると言っても、実在する動物は亀だけで、あとは想像上の動物である。 昔、これらの霊獣が見つかることは、良いことの前兆、つまり吉瑞だとされてきた。
中国の史書には、新しい王朝が誕生する前に、「龍が昇天した」「鳳凰の飛ぶ姿が確認された」「麒麟が捕まった」などといった記述がよく見られる。 過去、漢の劉邦を赤龍と呼び、諸葛孔明を臥龍と呼んだように、中国人は、偉大な人物を霊獣に喩えることが多い。 歴代の中国人は、それだけ霊獣を神聖視していたのだ。 また、中国で生まれた人相学も、龍顔や鳳眼は大吉相としている。
さて、今日のこと。 夕方、パートさんが帰る前に、ぼくは外にタバコを吸いに行った。 夕闇がかかる西の空に、一つの大きな雲があった。 その雲の形が、ぼくには四霊の一つである麒麟に見えた。 雲はゆっくりと、北に向かって流れていく。 その姿は、まさに天翔る麒麟の姿そのものであった。 ふと、ぼくは「これは吉兆だ」と思った。 となれば、今年はかなりいいことがある。 ぼくの心の中は、喜びで一杯になった。
「たかが雲の形にすぎないじゃないか。そう見えるのはあくまでもあんたの想像であって、それを吉兆とは大げさな」、と思われるかもしれない。 しかし、元々霊獣は人間の想像の上に成り立つ生き物である。 たとえそれが雲でも、その人が麒麟だと想像すれば、麒麟なのである。 例えば、ぼくの知り合いに、ヘビを龍と捉える人がいる。 その人は、ヘビを見たら、いつもいいことがあると言っていた。 なぜなら、彼にとってヘビは龍であるからである。 これと同じことだ。
タバコを吸い終え、職場に帰りながら考えた。 「吉兆って、どんないいことが起こるんだろう? もしかしたら、今年の願い事が叶うということだろうか?」 今年の願い事は、昨日の日記にも書いたように、『今年一年、無事でありますように』だった。 「ということは、吉兆というのは、今年一年が無事であるということだけじゃないか。 ああ、失敗した。せっかく願い事を叶えてもらうなら、もっと大きなことを願えばよかった…」 喜びで一杯だった心の中は、いらんことを考えたせいで、一瞬にして損した気持ちで一杯になった。
実家まで歩く、その一歩一歩が頭に響く。 5分もあれば着く家なのに、その距離が遠く感じられる。 「遠いのう。おれはもう倒れるぞ」と、嫁さんに向かって弱音を吐きながら歩いた。 「何言いよるんね。すぐそこやんね」
実家に着くなり、母が待ちかまえていたように、酒を振る舞った。 純米の「西の関」である。 おお、大好きな酒がここで待っていた。 冷やで飲むと最高なのだが、今冷やで飲むと差し障りがある。 「悪いけど、燗つけてくれん?」 「燗?」 「うん、寒気がするけ」 とりあえず、2合飲んでから、そばを食べた。 気がつくと、もう12時を過ぎている。 「ああ、もう年が明けた。ぜんぜん気がつかんかった」と、母が言った。 頭の痛さはあいかわらずながらも、何とか無事に年を越せたわけだ。
明けて元日。 昨日の体調の悪さは何だったのだろうか、と思えるほど、頭の痛みは取れ、体中に元気がみなぎっていた。 毎年元日はゆっくり寝ているのだが、今年は普段どおりに目が覚めた。 新聞を取りに行き、普段どおりの朝食を食べ、ずっとテレビを見ていた。
昼から、また実家に行き、おせちを食べた。 その後、嫁さんと二人で初詣に行った。 初詣と言っても、太宰府天満宮や宗像大社のような有名な神社に行ったのではない。 行ったのは、地元の小さな神社で、小学生の頃からよく遊んでいた場所でもある。 この神社に初詣に行くのは、生まれて初めてのことだった。
「一地域の神社で、普段は神主もいない所だから、さほど参拝客もいないだろう」と思っていたのが甘かった。 かなりの人出で賑わっている。 なるほど、この地域は人口がかなり増えているから、参拝客の多いのも有りうる話である。 しかし、普段人もいない神社だけに、出店が出ているわけではない。 狭い参道には、車がぎっしり停まっていた。 もちろん、普段が普段だけに交通整理をする人もいない。 ぼくたちは、出る車、入る車を避けながら、神社の階段を登って行ったのだった。
こういう田舎神社でも、神殿の前に行くと、不思議と敬虔な気分になるものである。 神妙な面持ちで頭を下げた後、柏手を打った。 「今年一年、無事でありますように」 再び頭を下げ、神殿を後にした。
帰る途々、「もっと気の利いた願い事はなかったのだろうか」などと考えていた。 とはいえ、今年は他に、これといった願い事が浮かばない。 「まあ、『無事是貴人』と言うくらいだから、これに増した願い事はないだろう」ということで、自分を納得させることにした。
さて、こういう日に限ってろくなことが起きない。 ぼくが接客していると、他のお客さんが「ちょっと来て」と言った。 こういう場合は先客優先の鉄則があるので、もちろん「お待ち下さい」と言って待ってもらう。 ところが、そのお客さんは食い下がる。 「早く来て下さい」 「少しおま…」 「火が、火が出てるんですっ!」 「ええっ!?」 慌てて、ぼくはお客さんの呼ぶ方に行った。
火がついている。 セルロイド製のアクセサリーが、箱の上で燃えているのだ。 こういう仕事を始めて20年以上経つが、こういうことは初めてである。 ここで、頭痛の影響が出てきた。 燃えている火を見て、一瞬どうしていいのかわからなくなったのだ。 幸い手がつけられないほどの火ではなく、ろうそくの火くらいの小さなものだったため、とりあえずその火が他の商品に燃え移らないようにしようと思い、燃えている商品が入っている箱ごと、商品の置いてない安全な場所に移動した。 すると、火はほどなく消えた。
後で原因を調べてみたのだが、その火は、燃えた商品の横にあったライターで付けられたものであることがわかった。 おそらく子供のいたずらであろう。
さて、火のほうは難なく片づき、被害のほうも極力少なくてすんだが、ぼくの被害は大きかった。 燃えている商品を運んでいる途中に煙(有毒ガス)を吸ったため、頭痛がさらにひどくなったのだ。 そして、そのひどい状態が夜まで続いた。
「よいお年を…」 午後8時35分で仕事納めとなった。 「早く帰って、とりあえず寝よう」と、車を飛ばして帰った。 家に着いて、すぐに横になろうとした。 「待てよ、今日は何かあったなあ」 と割れかかった頭で考えた。 「あ、そうか。曙とボブ・サップの試合があったんだ」 これを見ないと寝られない。 ということで、あんなあっけない試合を見るために、2時間近くも無駄な時間を費やした。
そうこうしているうちに、実家から電話がかかった。 そばを作ったから食べに来いと言うのだ。 いよいよ寝ることが出来ない。 しかたなく嫁さんと二人で、寒空の中に出た。 「これで、風邪は必至やのう…」
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