頑張る40代!plus

2004年02月29日(日) 何とかなる

老子に、『無為にして為さざるなし』という言葉がある。
60年代後半にヒッピーなる人たちが現れたが、彼らのバイブルが老子であり、その考え方の根幹がこの言葉だったという。

さて、この無為という言葉だが、一般には「何もしない」という意味だと思われている。
確かにそういう意味もあるのだが、老子はそういうふうにこの言葉を用いているのではない。
彼は、「何をしないことをする」というニュアンスで、この言葉を用いたのだ。
「何もしない」と「何もしないことをする」、この二つの意味は似ているが、微妙に違っている。
前者は受動的で、後者は能動的である。

この二つの意味を、ぼくは「なるがままに」と「何とかなる」という言葉で解釈している。
確かにぼくも、初めて老子を読んだ時は、「なるがままに」というふうに捉えていた。
そして、その「なるがままに」を実践していた。
が、次第に目に力がなくなり、覇気がなくなっていくのを感じた。
厭世観というのか、だんだんやる気さえ失ってしまった。
「老子も厭世観の人だったのか?」と思い、いろいろな書物を調べてみると、どうもそういう人ではなかったらしい。
「なるがままに」、と、こんなことを言いながらも、一番の関心事は政治だったというから、実にしたたか者である、と当時は思っていた。
が、後年それが間違いだと気づいた。
彼は政治の要諦として、「無手勝流がよい」と説いていたのだ。
最初から規範などを作ってしまうと、人はそこから外れることを悪と考えるようになる。
そうなると、臨機応変の対応が出来なくなり、だんだん政治は停滞していく。
そこで、老子は臨機応変に対応出来る「無手勝流」が一番、と説いたのだ。

その「無手勝流」を、ぼくは「何とかなる」というふうに捉えたわけだ。
そう捉えて以来、ぼくは「なるがままに」などとは言わなくなった。
というより、考えなくなった。
何か事が起こると、「何とかなる」と思うようになったのだ。

ぼくが、今住んでいるのはマンションである。
賃貸ではなく、購入したものだ。
ある日のこと、何気なく朝刊に入っていた折り込みチラシを見ていると、「マンション分譲開始」という文字が目に飛び込んできた。
場所を見ると、実家のすぐそばである。
その日まで、マンションなんてまったく興味がなかったのだが、そのチラシを見て、なぜか「モデルルームを見に行こう」という気になった。
そこでその日の午後、ぼくはそのマンションに行ってみた。
一通り説明を受け、モデルルームを見せてもらった。
その時だった。
「予約します」というセリフが、勝手に口をついて出た。

そういうつもりは毛頭なかった。
このマンションを買った当時、ぼくの年収は少なかった。
しかも、その頃ぼくは、車のローンも抱えていた。
こんな性格だから、貯金があるわけでもなかった。
それでも、そう言ったことに対する後悔は一切なかった。
その時、頭の中にあったのは、「何とかなるやろう」言葉だった。
あれから、数年経つ。
「なるがままに」と諦めるのではなく、「何とかなる」という信念を持って事に当たったことがよかったのか、今のところ不思議と何とかなっている。



2004年02月28日(土) 間の悪い人(後)

取引先にもそういう、間の悪い人がいる。
その人は、決まってぼくが食事に行く直前にやってくるのだ。
こちらは早く食事に行きたいのに、彼のおかげでなかなか行けない。
しかたなく、彼の来る日は時間をずらそうと思い、1時間ほど食事の時間を遅らせたことがある。
ところが、そういう日に限って、彼も1時間ほど遅れてやってくるのだ。
そこで、「あんた、おれに飯を食わさんために来よるんね」とつい嫌味を言ってしまう。
彼は頭を掻きながら、「いや、そういうつもりじゃないんですけど…」と言う。
が、次の週も、彼は決まってぼくの食事の直前にやってくるのだ。

また、こういうこともある。
休憩時間中に、何人かでお菓子を分けて食べるとする。
そういう時、決まって呼ばれもしないのにやってくる人がいる。
その人が入ってきた時、ぼくたちは「あっちゃー」という顔をして、お互いの顔を見合わせる。
まあ、別にその人にお菓子を分けてやる義理もないのだが、結局、一人だけ何もないのもかわいそうだから、ということでその人にお菓子を分けてやることになる。
ちなみに、そういう人に限って、図々しい人が多い。
「悪いねえ」とは言いながらも、決して遠慮はしないものである。
その人が去ったあと、ぼくたちは、いつも「あの人、いつもいいところで顔だすねえ」とか「鼻が利くんやろうねえ」などと、小悪口を言い合っている。
一方でその人は、「ラッキー!!」とか「タイミングがよかった」とか思っていることだろう。

そう、『間の悪い人』は、裏返せば『タイミングのいい人』なのである。
前述の友人も、電話をかけることが彼の目的だったわけだから、ぼくに「間の悪い男」と思われながらも、結局目的を達成している。
また、取引先の人も、もしぼくが食事に行っている時に来たとしたら、ぼくが帰るまで待つか、出直さなければならない。
ということは、ぼくにとって間の悪い時間であったにしろ、彼の中ではタイミングがよかったわけである。

そういえば、ぼくはいつも間を外した生き方をしていると思っている。
先の論法でいくと、そういう人は、他人にとっては「間がいい人」ということになる。
そのせいだろうか?
ぼくは、いつも損ばかりしているような気がする。



2004年02月27日(金) 間の悪い人(前)

昨日の日記は、今日が休みということもあって、のんびりと書くつもりでいた。
まあ、のんびりとはいえ、朝9時には嫁さんを仕事に送っていかなければならないので、午前3時には書き終えようと思っていた。
ところが、「のんびり」という言葉に緊張感を欠いてしまったのか、なかなか筆が進まず、ようやく日記を書き終えた時のは、もう午前5時を過ぎた頃だった。
その後も少し起きていたので、寝たのは結局6時になってしまった。
嫁さんを送るためには、8時に目を覚まさなければならない。
そんなわけで、2時間程度しか睡眠が取れなかった。

さて、嫁さんを送った後、寄り道もせず家に戻った。
その時すぐに寝ていれば、昼から好きなことが出来ていた。
ところが、こういう時というものは、すぐに寝るのがもったいなく感じるものである。
ということで、パソコンをいじったり、ギターを触ったりして遊んでいた。

最近は、ギターを触るのも、けっこう熱が入っている。
昔作った曲を、何度も繰り返し練習した。
最初は出なかった音も、何度もやっているうちに、だんだん出るようになった。
また、午前中は寝不足で開かなかった声も、ようやく午後になって開いてきた。
そこで、「ちょっと録音してみようか」という気になった。

ところがである。
マイクが見あたらないのだ。
いろいろな場所を探したのだが、どこにもない。
「おかしいなあ」
再度探したのだが、やはり見つからない。
そのうち、だんだん録音する気が薄れてきた。
「今度にしよう」
そう思うと、急に眠たくなってきた。
そこで、昼寝をすることにした。

午後3時過ぎだった。
寝不足のせいか、さすがに寝付きはよかった。
ところが、寝入ってからしばらくして、何か音が聞こえた。
まだ頭は眠っているため、それが何の音なのか判断できない。
何度かその音が鳴って、ようやくそれが携帯電話の着信音だということがわかった。
「もしもし」
「今、売場やろ?」
友人の声だった。
「えっ!? 今日は金曜日やろっ!休みっ!」
ぼくは寝起きが悪いために、そういう時の電話の応対は非常に無愛想になる。
「ああ、そうやったか…」
友人も機嫌が悪いのがわかったのか、そそくさと電話を切った。

そして、再び布団に潜り込んだのだが、一度覚めた目は、なかなか眠れないものである。
そこで眠るのを諦め、風呂に入ることにした。
ぬるま湯に浸かって、汗が流れ心地よくなってきた時だった。
またしても携帯電話の着信音が鳴った。
ぼくは風呂から飛び出し、真っ裸で電話の置いてあるところに走って行った。
「もしもし」
「ああ、さっきは悪かったねえ…」
またしても先ほどの友人だ。
(さっきより、今のほうが悪いわい)
そう思いながら、電話の応対をした。

こちらが「今、睡眠中」とか「今、入浴中」とか言ったとしても、彼に言わせれば、「寝とるとか、風呂に入っとるとか、こちらからわかるわけないやん」と言うだろう。
それはそうだろうが、たまたまかけてきた時間が、こちらに都合の悪い時間だった場合、いやでも「間の悪い男だなあ」と思ってしまうものである。



2004年02月26日(木) 夢のいたずら

 『夢のいたずら』

 「君を愛してる」と言いかけた時
 いつも同じように、終わる君の夢
 言い出せなかった、大きな悔いが
 いつまでも残る。あの若い日は、
 先へと進まない
 いつもいつも、途切れた映画のように
 後味悪い、夢のいたずら

 朝の目覚めは、夢を引きずって
 力の入らない、一日の始まり
 あの頃君は、ぼくのことを
 どう思ってたのか、知りたくなって、
 想い出を訪ねる
 いつもいつも、過去に縛られていく
 もう戻れないことも忘れて

  言い出せなかった、大きな悔いが
  いつまでも残る。あの若い日は、
  先へと進まない
  いつもいつも、途切れた映画のように
  後味悪い、夢のいたずら


先日の日記書いたが、30代前半に作った歌である。
その当時、高校時代に好きだった人に、まだ潜在的な未練を持っていたのか、よく彼女の夢を見たものだった。
その内容はこの詞にあるとおりで、「おれ、お前のことが…」と言いかけた時に終わってしまうのだ。
あまり頻繁に、そういう夢を見るので、「もしかしたら、彼女のほうが、何かぼくに訴えたいことがあるんじゃないか」と期待したほどである。
しかし、現実には何も起こらなかった。
結局、いつの間にかそういう夢は見なくなり、ぼくの描いたドラマは、はかなくも想像だけに終わってしまった。

昔の人は、好きな人が夢に出てきたら、相手も自分のことを思ってくれていると判断したらしい。
万葉集の防人の歌などに、そういうことが書いてあった。
それを読んだ時、「ああ、そうだったのか!」と信じたものだった。
ところが、あまりに多くの女性が夢に出てくる。
その中には好きでもない人もいる。
いや、好きでない人がほとんどだ。
結局、「好きでもない人が出てくるのはおかしいし、こんなに多くの人に思われているはずもない」と思い至り、馬鹿らしくなってそういう考えを捨てることにした。

小さい頃は、よく空を飛んでいる夢を見たものだ。
それで、ぼくは空を飛べるものだと思ってしまった。
試しに、2階の階段から飛んでみたことがある。
一瞬体が宙に浮いたように思えた。
が、飛べなかった。

最近は、念力を使う夢をよく見る。
手も触れずに、コインを曲げたり、悪党を倒したりやっている。
夢から覚めたあと、ぼくはそういう念力を以前から使っていたように錯覚するのだ。
ぼおーっとした意識の中で、手を振ったり、指をひねったりやっている。
それを見ていた嫁さんが、「何しようと?」とぼくに声をかける。
それでやっと目が覚めるのだ。
まあ嫁さんだからいいようなものの、これが他人だったら、その人は一生ぼくを変な目で見ることだろう。
もしかしたら、こういうことも、夢のいたずらなのかもしれない。



2004年02月25日(水) Bフレッツ

昨日、Bフレッツの工事を行った。
工事と言っても、ADSLのモデムを取り外し、新たに光ファイバーのモデムを取り付けるだけの簡単なものだったが。
取り替えるだけなら、誰にも出来そうなものだが、NTTの人に言わせると「そうではない」そうだ。
「接続に専門的な知識が必要なので…」ということだった。

で、実際にその工事を見てみると、接続したのは電話回線とLANケーブルだけだった。
「この二つを接続するだけなのに、専門知識が必要なんだろうか?」とは思ったが、工事代がただなので、余計なことは言わないことにした。

最後に工事の人は、自分のパソコンを取りだして、モデムに繋いでいた。
「45Mbps出てます」
「速いですねえ!」
「プロバイダの関係で少し落ちるかも知れませんけど、それでも40メガは出ると思いますよ」
今までADSLで出ていた速度は、せいぜい2Mbps止まりだった。
40Mbpsといえば、その20倍は出るということである。
最近、歌のダウンロードやアップロードを頻繁にやっているので、通信速度は速ければ速いほうがいい。
マンションタイプなので、同じ光ファイバーでも100Mbpsは出ない。
このタイプの最高速度は50Mbpsだということだ。
40Mbpsなら上出来である。

工事の人が帰ったあとで、さっそくパソコンの電源を入れ、速度を測ってみた。
「え!?…」
何と、測定の結果は6Mbpsではないか。
工事の人が言っていた速度の、およそ7分の1しか出ていない。
これでは局から近い場所の、ADSLの速度と変らない。
「これはおかしい」と思い、パソコンやその周辺をいろいろ調べてみた。

「ああ、そうか!」
そういえば、このパソコンはADSL向きにチューニングされている。
これをBフレッツ向きに替える必要がある。
ということで、チューニングを替えてみた。
再び速度を測ってみると、今度は約倍の13Mbpsになった。
測定サイトに書いていることをよく読んでみると、「ウイルス対策やファイヤーウォールソフトが常駐している場合は、計測速度が著しく低下する場合があります」と書いてあった。
そこで、常駐のソフトを外してやってみると、今度は15Mbps出た。
が、40Mbpsにはほど遠い数値である。

その後も何度かやってみたが、速度は13Mbpsと15Mbpsの間を往ったり来たりした。
やっているうちに、馬鹿らしくなって「もういいや」という気分になってきた。
そこで測定を中止し、現状に満足すること努めた。

が、なかなか諦めきれるものではない。
その後いろいろ調べてわかったことだが、25Mbpsの損失は、どうもルータに原因があるらしい。
今使っているルータは30Mbpsが限度なのだ。
そこで今日、NTTに電話し、「これに代わる、もっと速いルータはないか?」と聞いてみた。
が、答は「ない」ということだった。
せっかくの光ファイバーだ。
せめて20Mbpsは出てほしいものである。



2004年02月24日(火) ギター生活復活(下)

ようやく歌から解放され、しばらく飲んだ後に、ぼくたちは帰ることにした。
その際、ママさんから「最後に一曲」と言われたが、その時指先は痛みを通り超え、ジンジンと痺れていた。
そのため、もうギターを押さえることは出来なかった。
「また次週きますから。今度はちゃんと自分のギターを持ってきます」
そう言って、ぼくたちは店を出た。

その後、ぼくはその店に入り浸ることになる。
思えば、その頃はその店で歌うために、遅い時間に家に帰っても、いちおうギターに触るようにしていた。
それにあわせて、中断していた作詞や作曲も再開することになる。
プレイヤーズ王国で発表した『追いかけて』や、今度アップする『夢のいたずら』などは、この頃作ったものだ。

ところが、一度やめたギターの腕は、一向に上がらない。
やはり握力の低下が響いているのか、音がうまく出ない。
特に『F』や『B』といった、バレーコードの音が出せないのだ。
バレーコード押さえる時は、いちおう要領もあるのだが、長い時間押さえていようと思ったら、どうしても握力が必要になってくる。
ストロークの時は、わざとカットさせているように弾いていたので、何とかごまかせた。
だが、フィンガーピッキングの場合はごまかしがきかない。
それで苦労した。
何とか音が出るようになるまでに、数ヶ月を要したものだ。
ところが、音が出るようになって満足したのか、再びぼくはギターから離れてしまった。
とはいえ、スナックには通っていた。
が、その頃にはギターよりも、他のお客としゃべるほうが楽しくなっていた。
その後、ぼくは会社を辞めてしまい、そのスナックに行くこともなくなった。
その後再び、ギターに触ることはなくなった。
そのせいで、作詞や作曲をすることもなくなった。

転職後は、休みも多く、帰る時間も早くなった。
そのおかげで、興味はドライブへと移っていった。
それが何年間か続き、今度はパソコンへと興味が移った。
ホームページを立ち上げ、何とかそれが軌道に乗り出すと、今度は別のことがしたくなった。
何をしようと考えていたところ、たまたまプレイヤーズ王国というところを見つけた。
それで何曲か発表してみたのだが、ギターを離れていた時に録音したものだから、どうも演奏がぎこちない。
「これは録り直さないけん」
そう思って、再びギター生活を始めるようになった。

このところ、一日2時間はギターを触っている。
そのせいで指が痛い。
ほどほどのところでやめようと思っているのだが、今のところ、ギターに代わる興味が見つからない。
まあ、とにかく確かな音が録れるまで、やってみるつもりだ。



2004年02月23日(月) ギター生活復活(中)

スナックで歌うと言っても、別にステージが用意されているわけではなかった。
カウンターで、他のお客さんと肩を並べた状態で歌うだけだった。
その日は、たまたま他のお客さんはおらず、店にいるのはママさんと友人とぼくの3人だけだった。

店に行く前の日、友人に電話をかけ、「ギターは持って行かんでいいんか?」と尋ねた。
「ああ、それはいいよ。店にちゃんとギターが置いてあるけ、大丈夫」
それを聞いて安心した。
当時はJRで通勤していたので、最小限の荷物だけしか持って行ってなかった。
いつも満員だからである。
そんな中に、ギターを持って乗り込むというのは狂気の沙汰である。

そういえば、東京にいた頃、帰省のたびにギターを持って帰っていたのだが、そのためにいつもきつい思いをしていた。
まあ、飛行機で帰る時は、荷物が別になるのでよかった。
が、新幹線で帰る時はきつかった。
他の席に立てかけておくことも出来ないので、いつも抱きかかえるようにして席に座っていた。
そのために、自由がきかず、窮屈な思いをしたものだった。
必ず座れる新幹線でもこの有様なのだから、必ず座れない通勤電車での窮屈さと言ったらないだろう。

さてその日、友人と合流し、その店に向かった。
店では、ママさんとギターが待っていた。
ママさんは「そこに座って」と言って、ぼくをギターの横に座らせた。
そして、さっそく弾けと言う。
ぼくはおもむろにギターを手に取った。
「!!!」
これでは弾けない。
ネックが反って、弦が浮いてしまっているのだ。
ただでさえ握力が落ちているのに、この弦高では充分に音が出せない。
「他にギターはないんですか?」
「ごめんね。それだけしかないんよ」
まあ、どうせ腕も落ちていることだし、「これでもいいか」ということになり、そのギターを弾き始めた。

一曲歌い終わるたびに、ママさんから次のリクエストがくる。
だんだん、ギターを押さえる指が腫れ上がっていった。
「氷ないですか?」
「え、氷?あるよ」
そう言って、ママさんはコップに氷を入れてきた。
「何すると?」
「冷やすんです」
ぼくはそう言って、指をコップの中に突っ込んだ。
ある程度痛みが治まると、また次の歌をうたう。
こうやって、2時間以上、ぼくは拓郎の歌を歌い続けた。



2004年02月22日(日) ギター生活復活(上)

朝起きてから家を出るまでギターを触り、家に帰ってから食事までギターを触り、風呂を上がってから寝るまでギターを触る。
何を置いても、ギターギターギターだった。
もちろん勉強などは一切やらない。
勉強よりも、ギターの練習や作詞作曲のほうが大切だった。
高校に入ってから就職するまでの8年間、ぼくはずっとこんな生活をしていた。

ところが、就職してからは、こんな生活が出来なくなった。
とにかく帰りが遅い。
そのため、ギターに触りたくても、ギターを触る時間が持てないのだ。
そのせいで、次第に左手の指先は軟らかくなり、それに連れて握力もなくなっていった。
そのせいで、休みの日にギターを弾いても、指は動くものの、音がはっきりと出なくなった。
それが歯痒くて、そのたびに「これからは毎日ギターを弾くぞ!」と決心した。
しかし、仕事の日は、また時間に追われる。
そういうことが何度か続き、そのうち音楽に対する情熱がだんだん薄れていった。
つまり、休みの日にもギターに触ることがなくなったということである。

30代に入った頃だった。
高校時代の友人が「あるスナックのママさんにしんたの話をしたら、『ぜひ弾き語りを聴いてみたい』と言うんよ。一回そこで歌ってくれんやろうか」と言ってきた。
その頃は、すでに音楽への興味はまったくなくなっており、オリジナル曲は、歌詞すらも忘れてしまっていた。
「おれ、もうオリジナル歌えんよ」
「別にオリジナルじゃなくてもいい。拓郎でも何でもいいけ」
ということで、ぼくは拓郎を歌いに、そのスナックに行くことになった。

歌うのは、その話があった日から数えて、一週間後だった。
歌はともかくも、弾き語りという以上、ギターの練習をしなければならない。
あいかわらず仕事に追われる毎日だったが、寝る時間を減らして、ギターの練習に励むことにした。
が、指がヤワになっていたせいで、なかなか往年の演奏が出来ない。
ここでも握力が問題になった。
とにかくはっきり音が出ない。
そこで、スポーツ店でハンドグリップを買ってきて、仕事の合間に握力を鍛えることにした。
しかし、一週間という時間は、復活するのには短すぎた。
結局、握力は元に戻らなかったのだ。
指先も久しぶりにギターを弾いたせいで、ちょっと触れただけでも痛みを感じる。
「こんなことで大丈夫なんだろうか?」と、焦りを感じながら、一週間は過ぎた。



2004年02月21日(土) 創氏改名は面白い

昨年、「当時、朝鮮の人たちが日本人のパスポートをもらうと、名前に『金』などと(朝鮮名が)書かれ、それを見た満州の人たちが『朝鮮人だな』といって、仕事がしにくかった。朝鮮の人たちが『(日本式の)名字をくれ』といったのが創氏改名の始まりだ」という、麻生(太郎)発言が問題になった。
例のごとく、韓国側から抗議が出た。
が、そのせいで麻生氏が失脚することはなかった。
なぜなら、これが真実だからだ。

「内鮮一体じゃないか。日本名をくれ」と多くの朝鮮人や台湾人が言うので、最初は渋っていた日本政府も、結局折れて、昭和15年「じゃあ、そうして下さい」と政令を出した。
そのとたん、多くの人たちが我先にと役場に走ったという。

とはいえ、この創氏改名は、なかなか面倒なものだったという。
役所仕事なので、当然時間がかかる。
特に、朝鮮の場合は姓と氏を分けたため、手続きにはかなりの時間を要したという。
例えば、金さん(夫)と朴さん(妻)という姓の夫婦が、創氏改名で田中という氏を届けたとする。
当然、夫婦ともに氏は田中になるのだが、姓である金と朴はそのまま戸籍に残さなければならなかった。
そのため、戸籍上、夫は「田中(金)某」と妻は「田中(朴)某」としなければならなかった。
朝鮮の伝統文化を尊重したがために、こんなややこしいことになったのだ。

以上が創氏で、もう一方の改名は、裁判所の許可が必要で、その手数料は一人50銭必要だったらしい。
だから、当時の朝鮮では、約80%の人が創氏を行ったらしいが、改名のほうは、それほどではなかったという。

しかし、考えてみればうらやましい話である。
自分の名前を自分で作ることが出来、なおかつ、それが公的に通用するのだ。
例えば『しろげしんた』という名前だが、これはネットだけで通用する名前で、「この名前が好きなので、この名前で運転免許証を作ってくれ」と言っても、誰も取り扱ってはくれない。
しかし、当時の朝鮮や台湾では、これが出来たんだな。
本当にうらやましい。

当然のことながら、現代の日本では、本名以外の名前を、公的に使用することは許されていない。
許されているのは、通称名という狭い範囲だけで通用する名前だけだ。
『しろげしんた』といったハンドルネームや、芸名、ペンネームもこの中に含まれる。
その名前が一般的になった場合、裁判所に申請すれば改名することが出来るようになっている。
が、それは名だけで、氏のほうは出来ない。
だから、『しろげしんた』という名前は、永遠に公的にはならないということになる。

ところで、このペンネームや通り名というのを考えるのは、実に楽しいものだ。
いろいろな自分像を、その名にかぶせることが出来る。
ぼくは、元々本名を使うのが嫌いだから、その時々で、こういう人間でありたいという希望を添えて、通称名を考えてきた。
が、なかなかその名前を使う機会がないのだ。
これまで、通称名で呼ばれていたことは、東京時代と出版社で働いていた時くらいしかなかった。
詩の投稿や、音楽のオーディションを受けた時は、本名を書く規約になっていたため、せっかく考えたペンネームや芸名も無駄になった。

今ぼくは、大変気に入った名前を一つ持っている。
出来たら公表したいと思っているのだが、なかなかその機会がない。
機会がないから、自分の中だけで、その名前を使うことにしている。
政府は、創氏改名を許してくれんかなあ。



2004年02月20日(金) ぼくは孤独、らしい

昨日、井筒屋のブックセンターに電話をかけ、本のページ抜けのことを言った。
「それは申し訳ありません。交換致しますので、持ってきて頂けませんでしょうか」
「小倉まで遠いんですよねえ。黒崎店で交換というわけにはいきませんか?」
「黒崎店がご希望ですか… じゃあ後ほど電話します」

しばらくして黒崎店から電話が入った。
「小倉店で買われた本が乱本だったということですが」
「はい」
「その本はうちにありますので、こちらで交換させてもらいます」
よかった。
小倉までJRで行くと、往復720円もかかってしまうのだ。
本を交換する、たったそれだけのことで交通費を遣うのも馬鹿らしい。

ということで、今日は黒崎のブックセンターに行った。
本の交換を済ませたあと、時間が余ったので、しばらく立ち読みしていた。
何を読んでいたかというと、占いの本である。
前々から自分の運命に関して、知りたいと思ったことがあったからだ。
そこにあった、何冊かの四柱推命の本を手にとって、読みあさった。

「やっぱり…」
最近、行き詰まりというか、仕事が向いてないのではないかという思いが強くなったのである。
いや、仕事が向いてないのではなくて、企業に向いてないのではないかという思いである。
どうも集団に溶け込めないのだ。
そこで、占いの本を見て確認したかったのだ。
本を見ると、ちゃんとそのことが書いてあった。
『孤独な星』
『集団の中では浮いてしまい、変わり者に見られる』
『どちらかというと企業向きではない』
『一人でやる仕事、とくに芸術や文学方面に向いている』
どの本にも、似たり寄ったりのことを書いてある。
芸術や文学に向いているかどうかはわからないが、企業に向いてないのは確かなようだ。

『孤独な星』
親兄弟や子供と縁が薄いと書いてある。
なるほど、その通りである。
幼い時に父親を亡くし、そのため兄弟はおらず、さらに子供もいない。
どうも、ぼくは四柱推命どおりの運命をたどっているようだ。
となれば、芸術や文学方面というのも、案外当たっているのかもしれない。
人生の後半に、そういう芸術・文学の星がかかっているから、もしかしたら、これからそういう道を歩むのかもしれない。
こうなれば、孤独なんか気にしないで、芸術や文学に突っ走ってみるか。



2004年02月19日(木) パソコン・コンプレックス(下)

「CD−ROMが作れない!」
そうなると、回復コンソールが実行出来ない。
となると、パソコンは回復しない。
さらに困ったことに気が付いた。
セットアップ用のCD−ROMがないということは、当然リカバリが出来ないということだ。

これはどうにかしないと。
ということで、伊勢丹に行ったついでに、井筒屋のブックセンターでトラブルシュータの本を購入した。
この本には、そういうトラブルに関しての対処法がわかりやすく書いてあった。
JRで帰る途中に、関連のページを真剣に読みあさった。

ところが、良くない時は良くないことが重なるものである。
その回復コンソールのことが書かれているページが、何と半分以上も飛んでいたのだ。
JRを降り、さっそくブックセンターに電話した。
ところが、何度呼び出しても出ない。
時間は午後7時20分頃だった。
普段井筒屋は午後8時まで開いている。
きっと電話の近くに人がいないのだと思い、ぼくはしつこく電話を繰り返した。
しかし、何度かけても誰も出ない。

しかたがないので、同じブックセンター黒崎店に電話した。
黒崎店はすぐに出た。
「今日小倉店でパソコン関係の本を買ったんですが…」と、ことのあらましを説明して、「小倉店に何度も電話するんですけど、誰も出ないんですよ」と言った。
「ああ、小倉店は棚卸しのため、今日は7時の閉店なっています。明日も引き続き棚卸しになっているので、申し訳ありませんが、明後日おかけ直し下さいませんか」
「ああ、棚卸しなんですか。それじゃあしかたないですね。わかりました。明後日電話します」
棚卸しの時に、こんな電話をかければ迷惑だろう。
いちおう同業者なので、このへんは理解している。

ということで、家に帰ってから、再びネットで調べることにした。
すると、そこでMBRの復旧には回復コンソールだけではなく、起動ディスクでも有効だという記事を発見した。
「そうか、起動ディスクも有効なのか」
さっそくぼくは、近くの店にフロッピーディスクを買いに行き、起動ディスクを作ることにした。

ところが、新しいフロッピーのはずなのに、なぜかディスプレーに『このディスクは使えません』という表示が出た。
「不良品か?」
そう思ったぼくは、他のフロッピーを入れてみた。
しかし、これも『使えない』という表示が出てくる。
結局5枚やってみたのだが、全滅であった。
「おかしいなあ。もしかして、機械がおかしいのか?」
そこまで考えて、ふと思い出したことがあった。
ぼくはこのパソコンで、フロッピーを使ったことが一度もないのだ。
ということは、ヘッドが汚れているのかもしれない。
そこで機械の中を覗いてみると、なんと埃がたまっているではないか。
「やっぱり…」
こうなればフロッピークリーナーが必要になってくる。
とはいえ、もう午後10時を過ぎている。
開いている店はあるのだが、そこまで行く気力が残っていない。

ということで、この日は断念した。
翌日も、いろいろやってみたがだめで、結局WindowsXPを買わざるを得なくなった。
たった一つの無料ソフトが、えらく高くついてしまったものだ。

さて、XPを仕入れ、すぐに回復コンソールを実行した。
復旧までの時間は、わずか5分だった。
今までの苦労は何だったのだろう。
それもこれも、ぼくのパソコンコンプレックスから来ているのだ。
もう少しパソコンに自信を持っていたら、今回のトラブルも防げたのかもしれないのだ。
ぼくはコンプレックスのせいで、黒い画面が出ると焦ってしまい、あげくに電源を切ってしまうことがよくある。
おそらく、今回のトラブルもそうしたことから起きたのだろう。
パソコンというものは、新しい物好きのコンプレックス持ちには、不向きな機械なのかもしれない。



2004年02月18日(水) パソコン・コンプレックス(上)

どうもぼくは、パソコンにコンプレックスを持っているようだ。
20年以上家電業界に携わって来たのだが、パソコンにだけは縁がなかったのか、一度も担当したことがない。
そのため、転職の際、履歴書には「パソコン以外の家電希望」というコメントを添えた。
幸い今の会社は、パソコンを取り扱ってないので、何とかうまくやっている。

縁がなかったとは言え、前の会社にいた時、一度だけ「マイコン(当時はパソコンと言わず、そう言っていた)の販売をしたくないか?」と聞かれたことがある。
その当時のぼくは、マイコンなどと言われても、どんなことが出来る機械なのかわからなかった。
そのため異動の話を断ったのだが、もしあの時引き受けていたとしたら、今頃はパソコンに対してコンプレックスなどを持たずに、逆に大きな顔をしてパソコンを従えていたことだろう。

さて、前回パソコンが不調であることをここに書いたが、実はまだまだ不調が続いているのだ。
自信がないから、思い切った対処が出来ないでいる現状である。
しかし、恐れてばかりでは、一つも前に進まないと思い、ネットなどで対処法を調べてみて、有効な方法を実践することにした。

調べていくうちに、一つだけわかったことがあった。
それは、今回の不調の原因の一つが、MBRの破損によるものだということだった。
これを復旧させるためには、回復コンソールが必要だということだ。
その回復コンソールは、XPのセットアップCD−ROMに入っているということだった。
そこで、さっそくパソコンの取扱説明書一式を引っ張り出し、セットアップ用のCD−ROMを探した。

ところが、ない。
取説を読むと、「このパソコンにはセットアップ用のCD−ROMは添付されておりません。ハードディスク内にあるセットアップ用データをCDにコピーして、CD−ROMを作成して下さい」というようなことが書いてある。
では、それはハードディスクのどこに収めてあるのかと調べてみた。
「‥‥。どこにもない」
おかしいなと思って、さらに調べてみると、どうもこの不調の原因を作ったソフトをインストールする際に消えてしまったようなのだ。



2004年02月17日(火) 小倉伊勢丹に行ってきた

今日は休みだった。
午後から、先日小倉そごう跡にオープンした伊勢丹に行った。

『伊勢丹』、この響きがぼくには懐かしい。
東京にいる頃、バイトのない土曜日には、必ずといっていいほど新宿の伊勢丹に通ったものである。
新宿駅で山手線を降り、紀伊国屋、丸井、伊勢丹の順番に回っていた。
その時の伊勢丹の印象だが、伊勢丹という名前が物珍しかったくらいで、ただのデパートといった印象だった。
まあ、ぼくは貧乏人だったので、利用するのはせいぜい紀伊国屋と丸井くらいで、伊勢丹で買物をしたという記憶はない。

その伊勢丹が小倉そごう跡にやってくると聞いた時、ぼくは東京での貧乏生活を思い出していた。
「ふーん、あの伊勢丹が来るのか。ふーん…」
と、妙に感慨に耽ったものである。

2000年まで、北九州市にはそごうが二店あった。
一つがぼくの地元にあった黒崎そごうで、もう一つがこの小倉そごうだった。
黒崎のほうは、早々と地元の井筒屋黒崎店が移転することが決まり、翌年2001年には営業を開始している。
ところが、小倉のほうは、なかなか入り手が決まらなかった。
倒産後、すぐに伊勢丹の名前が挙がったが、伊勢丹側がそれを否定。
地権者の思惑もあり、なかなか入居者が決まらずに、北九州市の顔である小倉駅前には、強大な空きビルが残されたままになっていた。
その後、地元の玉屋デパートが入居したが、それもすぐに閉店。
ようやく、地元の財界の協力もあって、最初の噂どおり、伊勢丹の入居が決まったのだ。

さて、その小倉伊勢丹だが、店に入ってまず思ったことが、「えらく狭いな」だった。
最近ぼくは、地元の井筒屋やイオンといった広い建物ばかりに行っているのでそう感じたのかもしれないのだが、それでも、そごう時代にはそういう印象は持たなかった。
まあ、お客さんでごった返していたので、そう感じたのかもしれない。

ということで、小倉伊勢丹がいよいよオープンしたわけだ。
ところで、ぼくたち小売店業界の人間が、水面下で噂し合っていることがある。
それは、小倉伊勢丹が何年持つかということである。
伊勢丹建っている場所は、元々商業地ではなかった。
じゃあ何だったのかというと、お寺である。
そごう建設で、その寺が立ち退く際に住職が言ったそうだ。
「ここは、商業地じゃないので、そう長くは持たないでしょう」と。
そごうに関しては、その予言が当たったわけだ。
さて、伊勢丹はいったい何年持つのだろうか?

また、元々お寺だった場所に建物が建った場合、必ずと言っていいほど聞くのが幽霊話である。
そごうの時代に、地下で幽霊を見たという話はよく聞いたものだった。
小倉伊勢丹がオープンして、明日で一週間が経つが、そろそろそんな話も出てくる頃である。



2004年02月16日(月) パソコンの調子がおかしい

数日前から、パソコンの調子がおかしくなった。
おかしくなったとは言っても、それはパソコンのせいではない。
ぼくが難解なソフトを入れて、おかしくしてしまったのだ。

そのソフト、説明書がないために、使い方がわからない。
仕方ないので、アンインストールしようと思ったのだが、そのやり方さえわからない。
いろいろネットで調べたところ、そのやり方らしきものを見つけた。
さっそく実行に移したところ、何とパソコンが起動しなくなったのだ。
こういう場合はセーフモードで起動させるのが基本だが、『F8』のキーがむなしく「カタカタ」なるばかりで、それも出来ない。
そこでもう一度、そのソフトのCD−ROMを入れて起動させ、再インストールしてみたら、何とか開いた。

再び、アンインストールのやり方を探して、ネットを検索すると、別のところで別のやり方があることがわかった。
もちろん、実行した。
これで、何とかそのソフトをアンインストールをすることが出来た。
ところが、パソコンを再起動させてみると、またさっきと同様起動しないのだ。
そこでまたインストールする。

どうにか元に戻そうと必死なのだが、なかなか埒があかない。
そのため、寝不足の毎日が続いている。
ここ3日間の睡眠時間は、金曜日が1時間、土曜日が3時間、日曜日も同じく3時間の、合計7時間である。
もちろん仕事中は昼行灯状態で、立ったまま居眠りをしていることもある。

日記の更新が遅れているのも、そのせいである。
とにかく修復ソフトのインストール、アンインストールを繰り返してばかりいるのだから、なかなか日記にまで手が回らない。
おまけに寝不足で、頭も回らないと来ている。
幸い明日は休みなので、今日この日記を更新した後から、徹底的に修復に取り組もうと思っている。



2004年02月15日(日) 何があったんだろう?

昨日、昼過ぎに一本のメールが入った。
3号線が大渋滞しているというのだ。
何か事故があったのかと思い、続報を待っていたが、結局来なかった。

夕方、Hさんという男性社員が、「昼間の渋滞はすごかった」と言っている。
ぼくが「何かあったんですか?」と聞くと、Hさんは「何があったかはわからんけど、とにかく警察がたくさん出て道を塞いでいた」と言う。
「いったい何があったんだろうか?」
わからなければわからないほど気になってしかたがない。

それだけ警察が出ていたのなら、きっと夕方のニュースでやっているはずだ。
そこでテレビをつけて、夕方のニュースのハシゴをした。
が、どのチャンネルもそういうニュースは流していない。
家に帰ってから夕刊を確かめたのだが、そこにもそのことは書かれていなかった。
「いったい何があったんだ?」
この思いは時間が経つほどに強くなっていった。

さて、今日のこと。
顔なじみの刑事さんがやってきた。
そこで、ぼくは昨日の件を聞いてみようと思った。
が、運悪くお客さんに捕まってしまって、聞く機会を逃してしまった。
「結局わからないままか」
そんなことを思っていると、最初にメールをくれた人がぼくのところにやってきた。
そして「しんちゃん、昨日の事件わかったよ」と言った。
「え、何やった?」
「ビルの工事で足場を組んどったらしいんやけど、昨日の春一番で、それが崩れてしまったんよ。それでその足場が道路に散らばって、警察が総動員になったということらしい」
「で、誰か被害にあったん?」
「いや、幸い誰も被害には遭わんやったらしいよ」
「へえ、そういうことやったんか」
犯人は、春一番だったのだ。
しかし、警察もこの犯人が相手では、手の施しようがなかっただろう。
ということで、これで何とか、ぼくの中の疑問は解決し、一安心したということである。



2004年02月14日(土) 春一番他

【牛丼】
昨日の日記で、『なか卯』にでも行けばいいと言ったが、こちらの方が先にやめていたというのに今日気が付いた。
『松屋』も牛丼をやめたというし、いよいよ牛丼を食べられなくなったわけだ。
もし、どうしても牛丼を食べたくなった時は、小倉競馬場に行くしかない。
しかし、わざわざ牛丼を食いに行くのに、交通費1000円以上を費やすのも馬鹿らしい気がする。
こうなれば、ほとぼりが冷めるのを待つしかない。

【春一番】
今日は当初バレンタインネタでも書こうと思っていたのだが、気が変った。
春一番が吹いたからである。
まあ、春一番に関しては、毎年書いていることだし、もうこれと言って書くこともないのだが、それでも春一番が吹くと、何か一言書きたくなる。
それだけぼくは春を待ち望んでいるのだ。
冬なんて大っ嫌いだから。

『春一番』という言葉を聞くと、なぜかホッとする。
キャンディーズではないが、「重いコート脱いで、出かけませんか〜♪」という気分になってくる。
ぼくにとって「重いコート」というのは、冬に対する精神的な『重し』である。
春一番が吹いたという安堵感が、その重しをとるのだ。
寒い中にも何か暖かさを感じるもの、きっとそのせいなのだろう。

「春一番 ほらもう冬を 忘れてる」
これは、高校時代にぼくが作った俳句である。
これもそういう心境を詠んでいる。



2004年02月13日(金) 吉野家

ぼくはいつも、会社帰りに妻を迎えに行っている。
その途中に吉野家がある。
いつも駐車場には多くの車が停まっていて、店内はお客さんで賑わっている。
ところが、昨日はちょっと雰囲気が違っていた。
信号待ちの時、車の中から吉野家を覗いてみると、お客さんがいるように見えないのだ。
やはり昨日で、牛丼は終わったのか。
そう思うと、吉野家のところだけが、なぜか暗く見えた。

「牛丼一筋〜♪」とやってきたところだけに、その牛丼が食べられないということになれば、当然お客は来なくなるだろう。
いくら付け焼き刃的に焼鶏丼やカレー丼を始めても、『めしや丼』など丼の専門店がひしめく中、わざわざそういうものを食べに吉野家まで足を運ばない。
やはり吉野家は、牛丼があるからこそ吉野家なのだ。

思えば、吉野家がこちらに出来たのは、ぼくが浪人している時だった。
突然「牛丼一筋、80年〜♪」というCMが始まったので、何だろうかと思ったものである。
とはいえ、その頃は、家の近くになかったために、行くことはなかった。

ぼくの吉野家デビューは、東京に出てからだった。
初めて入ったのは新宿店だった。
それから頻繁に吉野家通いを始めた。
どこに遊びに行っても、そこに吉野家の看板があれば、そこで食事を済ませたものだった。
そういえば、東京にいる頃、一度だけ大阪に行ったことがあるのだが、その時おいしいものを食べようと街中を歩き回ったが、どこに入っていいか決めきらず、結局吉野家で食事をした思い出もある。

当時、東京には吉野家の類似店が多くあった。
いろいろなところに挑戦したが、ぼくの舌は吉野家向きだったらしく、どうも他の店の牛丼は受け付けなかった。
ということで、金のある時は吉野家に足繁く通ったものだった。

こちらに帰ってしばらくしてから、家の近くに吉野家が出来た。
懐かしさのあまり、さっそく食べに行った。
味も東京のそれと何ら変らない。
並を頼んで、「ちょっと足りないな」と思うところでやめるのが、ぼくの吉野家流儀だ。
その流儀も東京の貧乏時代に身につけたものだ。
ただ、東京時より贅沢したこともある。
それは、生卵と白菜漬けを注文したことだ。
東京時代には、生活に追われていたために、生卵や白菜漬けを食べる余裕がなかったのだ。

さて、いよいよ吉野家の牛丼を食べることが出来なくなったわけである。
ぼくは、そこまで牛丼が好きなわけではないが、たまに食べたくなる時もあるのだ。
まあ、そういう時は『なか卯』にでも行けばいい。
とはいえ、狂牛病関係で、ここも牛丼をやめないとも限らない。
専門家が「人体には特に影響がない」と言っているのに、どうしてこの国の人たちは過剰に反応してしまうのだろう。



2004年02月12日(木) 鼻風邪

昨日に引き続き、風邪が続いている。
まあ、風邪とは言っても、のどの痛みとか、発熱とか、咳き込みなどはない。
鼻だけが風邪を引いているのだ。
と言って、鼻水が垂れるわけでもない。
ただ、鼻が詰まって、鼻声になって、時折鼻の奥がヒリヒリし、タバコの味がしないだけである。
だから仕事に関しては、気力さえしっかりしていれば、何も差し支えはない。

ところが、問題はその気力なのである。
自分の中で風邪と認めているために、気力を振り絞るのが大変困難になっている。
気力を振り絞るためには、体の中心部に意識を集めないとならない。
ところが、その体の中心部の線上に鼻があるからやっかいだ。
気力を振り絞ろうと意識を体の中心部に集めようとすると、意識はすぐに鼻に行ってしまう。
鼻に意識が行ってしまうと、嫌でも風邪を自覚してしまう。
風邪を自覚すると、意識に風邪が乗り移り、ボーっとした状態になってしまう。
そう、悪循環なのだ。
やはり無心でいることが一番なのだろう。
しかし、ぼくは無心でいられるほど修行は積んでいない。
困ったものだ。

ということで、今日はこのまま寝ることにする。

‥‥‥

ああ、しまった。
この日記を更新するのを忘れていた。
この日記を書いた後、更新して寝たつもりだが、更新されていなかったのだ。
何度か目が覚めたのだが、更新したつもりになっていたので、日記のことはぜんぜん気にならなかった。
ということで、今から更新する。
ちなみに今は、翌日の15時23分である。



2004年02月11日(水) ついにパブロン

とうとう風邪を引いてしまった。
で、ついに葛根湯を諦め、パブロンに走った。
で、今、パブロンが効いている状態である。
で、今のうちに日記を書いておくことにする。

今日は建国記念日ということで、うちのサイトにもたくさんの方がお見えになった。
「何で『頑張る40代!』と建国記念日が関係あるのか?」、と思われる方もおられると思う。
大いに関係があるのだ。
googleなどの検索エンジンに、「建国記念日 靖国」と入れて検索すると、その何ページめかに、「靖国参拝の日を建国記念日に変えよう」というのが出てくる。
そう、それは2年以上前にぼくが書いたエッセイで、このサイトの『日の丸エッセイ』の中に収録している。
つまり、そこからこのサイトに飛んで来るというわけだ。
ということで、検索サイトからこのサイトを訪れた方々に、一応ご挨拶をしておく。
「建国記念日おめでとうございます」

そういえば、最近は、この日記に社会的なことを書くことが少なくなった。
別に書けなくなったわけではない。
ただ、ぼくの興味が今そこにないというだけの話である。
興味がそちらの方に移れば、また『日の丸エッセイ』的なことも書くことがあるだろう。

ところで昨日、甥っ子の自衛隊入隊について書いたが、あの文章を読んで「しんたは自衛隊の回し者か?」という疑問を持たれた方もいるかもしれない。
そこで弁明しておくが、ぼくは自衛隊の回し者ではない。
確かに、義兄が元航空自衛官というのはあるが、だからと言って、自衛隊に関わったわけではない。

では、なぜ甥っ子に自衛隊を勧めたのかというと、何かと言えばすぐに逃げに走る若者を見て、「このままでは、この国はだめになっていく。一度自衛隊に入れさせて鍛えなければならん」と思ったからである。
だから、ぼくは甥っ子に限らず、進路に悩む学生たちを見つけては、自衛隊にはいることを勧めている。

まあ、それは表向きの理由で、ぼくはそういう年寄りめいた考えだけで自衛隊を勧めているのではない。
実は、ぼくの嫁さんの実家は、航空自衛隊の基地のそばにあるため、周りには多くの自衛隊関係者が住んでいる。
そのせいで、ぼくの下にはいろいろな自衛隊情報が入ってくる。
そういう情報を聞くにつれ、「何といいところなんだ」という思いが強くなった。
給料はぼくたち民間企業と比べるとはるかにいいし、ボーナスは年3回あるし、退職金もいいときている。
もし、現役中に病死するようなことがあったとしても、殉職扱いとなり、遺族へは多額の補償があるという。
仕事も、最初のうちこそきついかもしれないが、慣れれば何ということはない。
この不況時、こんなにいい職業が他にあるだろうか?
だから、ぼくは若い人たちに自衛隊を勧めるのだ。

もし2年で退役したとしても、若い頃に鍛えた心身は、後に貴重な財産になるのだ。
中途半端に鍛えたぼくとは違い、中高年になっても、おそらくパブロンのお世話になるようなことはないだろう。



2004年02月10日(火) 自衛隊に入れ!

高校3年生の義理の甥っ子が、ようやく進路を決めた。
実は冬休み前に、甥っ子の進路について、相談に乗る機会があったのだが、本人はぼくの高校時代と同様、自分の進路について何も考えていなかった。
焦っているのは周りばかりといった状況だった。
本屋に行っても大学受験の参考書を見るでなく、ぼくが意見をしても上の空。
まあ、ぼく自身、その年齢の頃にフラフラしていたから、あまり説得力がなかったのだろうが。

それならということで、ぼくはとっておきの提案をした。
それは、「自衛隊に入れ」である。
「え、自衛隊?」
「おう、そこで2年間鍛えて来い」
「自衛隊ねぇ…」
彼はあまり気乗りしない様子だった。
というより、突然自衛隊と言われたから、ピンと来ない様子だった。

「別に入ったからといって、すぐにイラクに行かせるわけじゃないんぞ」
「そりゃそうやろうけど…」
「まあ、仮にイラクに行ったら、給料とは別に、手当が3万円付くらしいけど」
「そうなん」
「おう、一ヶ月行ってみ、90万円もらえるんぞ」
「ふーん」
別に興味がないように見えた。
金では釣られないようだ。

そこでぼくは、今彼が一番興味のある話をしてやった。
「ところで、運転免許は取ったか?」
「いいや」
「そうか。金がかかるけのう」
「うん」
「とる気はあるんやろ?」
「当たり前やん」
「そういえば、自衛隊に入ると、運転免許証がただで取れるぞ」
「え、免許ただで取れると?」
急に甥っ子の目の色が変った。
「そのくらい常識やろ」
「そうか、免許がただで取れるんか…」
「運転免許だけじゃない。他の資格もただで取らしてくれるぞ」
「へえー」
「とりあえず、そこで2年頑張ってみてん。それから勉強したければ大学に行けばいいんやし、就職したければ就職すればいい」

「運転免許がただで取れる」
その言葉で、甥っ子の心が動いたのかどうかは知らないが、それから後、彼は夢のない大学進学を諦めた。
そして、他の人の説得もあり、ついに自衛隊に入る決心をしたのだった。

まあ、国を守るという気持ちを持って入隊するのがまっとうで、免許をただで取るために入るというのは邪道ではある。
しかし、そういうやましい気持ちも、2年という歳月がまっとうなものに変えてくれるだろう。
甥っ子の軍服姿が、今から楽しみである。



2004年02月09日(月) 酔っぱらいブギ(下)

幸い、日が照っていて、それほど寒くはなかったので、「風邪を引くことはないだろう」と思い、いくら起こしても起きないおいちゃんを、しばらくそこに放っておくことにした。

それからしばらくしてから、またおいちゃんの叫ぶ声が、店内から聞こえた。
そこに行ってみると、おいちゃんは店長とやり合っていた。
「出て行ってくれ!」
「何で、出らないけんとか。おれはお客さんぞ」
「人に迷惑かけるような人は、お客さんじゃない!」
そう言って、店長はおいちゃんを引っ張り出そうとした。
しかし、おいちゃんは抵抗する。

おいちゃん、歳はとっていても、毎日芋掘りで鍛えているから、力だけはある。
到底一人の力では、おいちゃんをつまみ出せそうにないので、周りにいたぼくたち従業員が、おいちゃんの手や足を取り、そのまま持ち上げて外に運び出した。
誰かが「放り投げれ」と言った。
それを聞いたおいちゃんは、「投げるな!」と言った。
また誰かが、「このへんにしようか」と言うと、おいちゃんは「いいか、そおっと置け、そおっと」とぼくたちに指示をした。。
酔っぱらってはいるものの、わりと冷静である。
おいちゃんを、そのまま外に置いて、ぼくたちは店の中に入った。

店内に入ると、清掃のおばちゃんたちがブツブツ言っていた。
「どうしたと?」と聴くと、「あのおいちゃん、おしっこをまりかぶっとるんよ(注;おしっこを漏らした、という九州弁。おしっこをしかぶった、とも言う)」と言う。
またである。
昨年も、おいちゃんはこの時期に、店の入口の中で立ち小便をしたり、寝小便をして、ぼくたち従業員を泣かせているのだ。
おいちゃんが来るということは、おいちゃんとの格闘以外にも、おしっことの闘いも覚悟しておかなければならない。

ところでおいちゃんだが、その後むっくりと起き出し、また店内に入ってきた。
何度追い出されても意に介せず、舞い戻ってくるのだ。
まさにゴキブリのようなしぶとさである。



2004年02月08日(日) 酔っぱらいブギ(上)

「何か、こらぁ!」
今年もまた、この声が帰ってきた。
酔っぱらいおいちゃんである。
店の改装後、しばらく姿を見せなかったが、寒くなってまた舞い戻ってきた。
あいかわらず、どこで拾ったかわからない自転車に乗ってやって来、隣のスーパーで酒を買い、適当に出来上がったところで大声を上げ騒ぎ出す。

昨日、酔った勢いで、繋いであった犬にちょっかいをかけ、手を噛みつかれたらしい。
その犬の飼い主にさんざん文句を言って、慰謝料1000円を巻き上げたという。
また、銀行のキャッシュディスペンサーで、お金をおろしている女の人に、「こらぁ、いくら出すんか!?」などと凄んでいたという。
結局、店の人間とすったもんだの末、警察に通報されご用となった。

今日も昼からやってきて、大声を上げていた。
ぼくが遠巻きに見ていると、おいちゃんはぼくの姿を見つけ、「おう、大将。昨日も来たんだけど、あんたいつ来ても休みですなあ。わたしゃ、あんたに用があってですなあ…」と言う。
聞けば、携帯テレビの調子が悪いということだった。
おいちゃんは、ぼくが電気売場の人間だということを知っているので、ぼくに逆らうとテレビやラジオの修理などで便宜を図ってもらえないと思ってか、ぼくの前では大人しくしている。
だが、声は大きい。

このままだと、また人に迷惑がかかると思ったぼくは、「おいちゃん、おれ、トイレに行く途中っちゃね。歩きながら話そうや」と言って、外のトイレに向かって歩き出した。
すると、おいちゃんもぼくに付いてくる。
まんまと外に連れだして、「おいちゃんの話はわかったけど、現物を持って来な、どういう状態かわからんやん。今からとっておいで」と、ぼくは言った。
「いや、今日は持って来れんですけ、別の日に持ってきます」
「じゃあ、おれ、トイレに入るけね。おいちゃんも、外は寒いんやけ、早く家に帰り」
そう言って、ぼくはトイレに行く振りをし、別の入口から店内に入った。

しばらくして、外を見てみると、何とおいちゃんは玄関の前で寝ているではないか。
何人かの人が、おいちゃんを見ている。
ぼくは、おいちゃんの寝ているところに行き、「おいちゃん、起きんね。風邪引くよ」とおいちゃんを揺さぶった。
ところがおいちゃんは、起きる気配がまったくない。
それを見ていたお客さんが、ぼくに「酔っぱらってるんですか?」と聴いた。
「ええ、いつもこうなんですよ。深酔いするとあたり構わず寝て、中途半端に酔いが冷めると騒ぎ出す。困ったもんですよ」
それを聴いて、お客さんは笑い出したが、起こすのを手伝ってはくれなかった。



2004年02月07日(土) 続・背中が痛い

毛布をかけなかったせいか、昨日よりは痛みはなくなっていた。
しかし、背中の調子はまだ不安定なのである。
仕事で少し無理をしたこともあり、じっとしているとまた痛みが走ってくる。
しかたないので、売物の電気ストーブを入れ、背中に当てていた。
そのおかげで、今日は何とか持ちこたえられたようだ。

さて、昨日は毛布が原因だと言っていたのだが、ここにきてもう一つの原因を思い出した。
それは、先月の雪による転倒事件である。
あの時ぼくは確かに受け身をとって、頭を打ったりはしなかったのだが、その時、倒れ方が悪かったのか、肘を打ったのだ。
その勢いで、肩が突き上がるような衝撃があった。

今回の首から背中までの一連の痛みは、おそらくこの時の後遺症なのだろう。
こう考えれば、すべて合点がいく。
いくら寝相の関係だと言っても、この寝相は長い間変ってはいないはずだから、突然変な寝相をとったために首や背中が痛くなった、とは考えにくい。
やはりあの時の転倒が、上半身の骨や筋に少なからず影響を与えたのだ。

さて、あの転倒事件は1月22日のことだったから、もう10日以上経っての後遺症ということになる。
以前は運動後すぐ出ていた筋肉痛も、最近では出るまでに数日かかっている。
きっと、これと同じことになっているのだろう。
後遺症が時間をかけて出たため、治るのにも時間がかかるだろう。
もしかしたら、死ぬまで、ずっとつきまとう痛みなのかもしれない。
しかし、こんな痛みを一生背負っていくのも嫌だなあ…。



2004年02月06日(金) 背中が痛い

数日前のことだった。
朝起きると首筋が張っていた。
別に寝違えたわけではなく、寝ている時に変な姿勢をとっていたために、つったのだった。
そういうわけで、その日は無理をせず、寝る時にも枕の位置や寝るむきなどをちゃんと確認し、充分気をつけて寝ることにした。
ところが、翌日も同じように首筋が張っていたのだ。
それ以降、ずっと朝起きると首が張っている状態が続いている。

昨日はそれだけではなかった。
背中に違和感を感じたのだ。
おそらく、首を守るために、潜在意識が無理な姿勢をとらせたために、背中に負担がかかったのだろう。
違和感を感じたのは、ちょうど肩胛骨と背骨の真ん中あたりだ。
その痛みからして、背骨のずれであることがわかる。
そのずれた部分が、背筋を圧迫しているのだ。
こういう時は、背筋をまっすぐに伸ばして、ずれを矯正してやらなければならない。
というので、昨日は暇を見つけては、高いところをつかんで、鉄棒のようにぶら下がっていた。

この運動は、痛みを軽減させる効果もある。
背骨がずれている場合、ずっと同じ姿勢をとっていると、だんだん痛みが増してくる。
そういう時にこれをやると、痛みがかなり軽減されるのだ。
その運動のおかげで、昨日は何とか痛みをしのぐことが出来た。

ところが、今朝起きてみると、かなり痛みがひどくなっていた。
とにかく立っていられない、座っていられない状態だった。
運良く、今日が休みだったので救われたが、何とか今日中にこの痛みを解決しておかないと、明日の仕事に差し障りがでてくる。
というので、今日は長時間風呂に入っていた。
温めていると、治るかもしれないと思ったからだ。
確かに痛みは和らいだが、体が冷えてくると、また痛み出す。
しかし、何度も風呂に入ってばかりもいられないというので、温湿布を貼ることにした。
そういうわけで、今は背中に温湿布を貼った状態で、この日記を書いている。

しかし、なぜ急に首や背中が痛くなったのだろう。
痛くなった当初は、季節の変わり目だからということにしておいた。
だが、立春を過ぎたとはいえ、まだまだ寒い日が続いているので、到底季節の変わり目だとは思えない。
「さて、なぜだろう?」と色々思いを巡らせてみると、一つだけ思い当たることがあった。
それは、毛布である。

先日の積雪以来、ぼくは布団の上に毛布をかけて寝ている。
ところがその毛布、毛布にしてはかなり重いのだ。
もしかしたら、その毛布が寝返りを阻止しているのではないのだろうか。
そう思って、さっき布団の中にもぐって、ちょっと寝返りを打ってみた。
「!」
原因はこれだった
重さで、力を入れないと寝返りが打てないのだ。
元々、ぼくは冬場でも毛布を使う習慣がない。
それなのに、わざわざ重い毛布を引っかけたものだから、こういう事態になったのだ。
ということで、今日からは毛布をかけないで寝ることにする。

明日の朝が楽しみだ。



2004年02月05日(木) プレイヤーズ王国のことなど

プレイヤーズ王国に登録してから、久々に音楽にハマっている。
何か、青春が蘇ったような気さえしている。
やはり音楽には、気持ちを熱くさせる何かがあるのだろう。

今回の登録は、若い頃ミュージシャン志望だったぼくにすれば、当然の行為だったのかもしれない。
そう、一度見た夢は、なかなか忘れられないということだ。

しかし、こういう場所で、何度も自分の歌を聴いていると、「これでプロを目指していたなんて恥ずかしい」と思えてくる。
聴けば聴くほど下手なのである。
まあ、すべて一発録りのため、修正がきかなかったというのはある。
が、内容があまりにもひどすぎる。
さらに、音質が悪すぎる。
こういうものを人様に聴かせるというのは、暴力以外の何ものでもないだろう。
早めに録音し直して、もっといいものをお聴かせ出来るようにしたいのだが、そのためには、まず時間と資金が必要になってくる。
時間は、ギターを確実に押さえられるように握力も鍛えたり、充分に声が出せるように腹筋を鍛えたり、またボイストレーニングなんかをするために必要だ。
資金は、もっといい音で録音できる機材を買うために必要だ。
が、どちらも今は持ち合わせていない。
そういうわけなので、当分の間、みなさんに暴力をふるうことになるだろう。

いくらぼくに音楽熱が蘇ったとはいえ、やはり生活メインはこのサイトである。
ぼくはプレイヤーズ王国を、Webリング的なものだと思っている。
そう、ぼくにとっては、このホームページの宣伝のためのものなのだ。
言い換えれば、プレイヤーズ王国といえども、このサイトの一つのコンテンツにすぎないということになる。
まあ、音楽とは、肩肘張らず気楽に付き合って行くことにしよう。

さて、今回、久しぶりに別サイトを立ち上げてみた。
『しろげサイト』というサイトで、この『頑張る40代!』のごちゃごちゃした画面が嫌いな人のために用意したのだ。
内容は、『頑張る40代!』とほとんど変らない。
ただ、見た目が違うだけである。
ぼくは気まぐれに、サーバーを引っ越したりすることがあるので、そこもお気に入りに入れておいてもらえれば、突然『頑張る40代!』がなくなっていても大丈夫。
また、4年後『頑張る40代!』が最終回を迎えるが、その後のメインサイトとして、そこを使っていこうと思っている。

ということで、URLは、
http://mengly.web.infoseek.co.jp/
です。
こちらのほうも、よろしくお願いします。



2004年02月04日(水) 春は名のみの

【立春】
この言葉を聞くと、なぜかホッとする。
春がもうそこまで来ているのである。
とは言え、今日は寒い一日だった。
午前中は、何と雪が舞っていた。
高校の頃に習った『早春賦』という歌が、口をついて出た。
「春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
ときにあらずと 声も立てず
ときにあらずと 声も立てず〜♪」(詞;吉丸 一昌)

【早春賦】
その『早春賦』であるが、習った時期が悪かったのか、ぼくはこの歌を、長い間『知床旅情』のパクリだと思っていた。
そう、『知床旅情』はぼくが中学の頃に流行った歌だからだ。
しかし、よくよく考えてみると、当時の教科書に載っているくらいだから、『早春賦』の歴史はもっと古いはずである。
ということで、後年そのことを調べてみた。
何とこの歌は大正2年に出来ているではないか。
ということは、『知床旅情』の作曲者である森繁久弥がパクったことになる。
とは言うものの、加藤登紀子の歌でその歌が流行った時も、そのことが話題になったことはない。
もしかして世間は、「森繁さんが、パクリをやるはずがない」とでも思っているのだろうか。
それとも、「森繁さんに意見するなど、恐れ多い」とでも思っているのだろうか。

【申年】
干支はこの日を年明けとする。
つまり、今日からが本当の申年である。
九星や四柱推命といった中国の占星術は、常にこの日を年の初めとしている。
元日から節分までに生まれた人は、その前年の干支が自分の本当の干支であるから、お間違えのないように。
例えば、うちの嫁さんだが、彼女は昭和38年の1月生まれである。
ずっと本人は卯年生まれと思っていたのだが、実は寅年なのである。
「いや、私はトラが混じったウサギ」などとたわけたことを言っているが、彼女は何も混じってないトラである。

【初詣】
前に、「立春が過ぎたら、宗像大社に初詣に行く」と、日記に書いたことがある。
今日は休みで、しかも立春。
朝から「雪がやんだら行こう」と思っていたところ、午後から日が差してきた。
「これはチャンス」と思い、ちょっと外に出てみた。
やめた。
寒いからである。
いまだ風邪もどきが治っていないので、無理をするまいと思ったのである。
ということで、初詣は先送りになってしまった。
次の休みは明後日だ。
もし晴れて、寒くなければ行くことにしよう。
ああ、そうだった。
風邪もどきも治っていなければ、行くことは出来ない。



2004年02月03日(火) 新年会

さっそくで申し訳ないですが、昨日の日記に書いたヤマハの登録ネームを『シュマリ』から『しろげしんた』に変更しましたので、報告しておきます。

【風邪か?】
昨日、会社の新年会があった。
もちろん、車での通勤は自粛することにした。
こういう場合は、必然的にJRでの通勤となるわけだ。
朝少し早めに起き、髪を洗い、朝食をとったあと、駅まで歩いて行った。
外はあいにくの雨。
そんなに寒くはなかったが、髪が充分に乾いてなかったのと、この雨のせいで、体感温度はかなり低いものだった。
そのせいか、電車に乗ってから、しばらくして鼻水が出てきた。
一瞬「体が冷えたせいで、風邪でも引いたんかなあ…」と思った。
が、すぐにそれを否定した。
「いや、風邪じゃない!外と電車の温度差で、一時的に鼻炎になったんだ」と無理矢理思うことにした。
自分で風邪だと認めてしまうと、本当に風邪になってしまうからだ。
過去、ぼくは幾度もそれで泣かされたものだ。

会社に着くと、みな異口同音に「風邪引いたと?すごい鼻声やねえ」と言う。
その都度、ぼくは「いいや違う。これは鼻炎!」と否定した。
自分の中で風邪を認めなくても、相手に暗示をかけられる可能性があるのだ。
ここが一番のポイントである。
とは言いながらも、いちおう風邪予防という名目で、葛根湯を飲んでおいた。

【新年会】
新年会は、会社近くの居酒屋で行われた。
ぼくの場合、「今日は飲むぞ」といった時は、基本的に飲むだけにしている。
だが、それでもつまみ程度はほしい。
ところが、その居酒屋は、刺身や唐揚げといったスナック的なものが多く、腹ごたえのあるような料理は少なかった。
飲まない人は、当然食いに走る。
ということで、飲み組のこちらには、あまり料理が回ってこなかった。
いかに基本的に飲むだけとはいえ、刺身の一切れや二切れでは少なすぎる。
昼食をとってから、すでに7時間以上が経過している。
その間、腹の中には何も入っていない。
「こりゃ酔うな」と思っていたら、案の定酔ってしまった。

最初は注がれるままにビールを飲んでいた。
大瓶3,4本分は飲んだだろうか。
その後、焼酎に変えたのだが、3杯目までは何とか覚えている。
ところが、それ以降の記憶がないのだ。
覚えているのは、だんだん口がまめらなくなっていったということだけだ。
今日、会社に行って、同じ席に座っていた人に聞いてみると、焼酎は6杯ほど飲んだらしい。
で、その状況はどうだったのかと聞くと、
「しんちゃん、最初から最後までしゃべりっぱなしやったよ」
「テーブルを叩いてうるさかった」
「○さんに『ホームページのURLを教えてやる』と言って、嘘を教えていた」
などと、ろくなことをやってなかったようだ。

新年会が終わり、人から送ってもらい、何とか家までたどり着いた。
家に着いた頃の記憶はあるのだが、その後のことを覚えていない。
朝起きてみると、Tシャツとパンツだけで寝ていた。
ぼくが帰った時間、嫁さんはまだ家には帰ってきてなかったから、おそらくぼくが布団を敷き、一人で服を脱いだのだろう。

【再び、風邪か?】
一方、風邪もどきの症状は、一向によくなっていない。
あいかわらず鼻声である。
しかし、あいかわらずぼくは、これを風邪と認めない。
「これは二日酔いである!」
今日はそう自分に言い聞かせて、会社に行った。



2004年02月02日(月) 久々の音楽活動(下)

さて、問題の作詞作曲者名だが、結局気の利いた名前は浮かばなかった。
しかたないので、惰性のまま、ひらがなで『しろげしんた』と書くことにした。
先方はきっと、「こういう場所では、みんな格好いい名前を付けたがるものだけど、この人は変な名前を付けたなあ」と思うかもしれない。
しかし、本名を間違って読まれるよりは、ましである。
『頑張る40代』のURLを書き入れておいたので、先方もぼくのサイトを見れば、なぜ『しろげしんた』なのか、わかってくれることと思う。

登録後、さっそく先方からメールが届いた。
審査しなければならないから、サイトに載せるのは一週間ほど先になるということだった。
昔なら、きっと「通るだろうか?」などと思って、仕事も手に付かない状態になっただろう。
しかし今は、先にも書いたように、そこまで音楽に熱くはなっていないから、「別に審査に通らなければ、それでもいい」と思っている。

‥‥‥

ここまで書いていて、また新たなメールが届いた。
「審査に合格した」という通知である。
ということは、晴れて公開されるということである。
まあ、合格したことだから、別に登録先の名前や曲名を隠すことはない。
登録先はYAMAHAで、アップした曲は『ショートホープ・ブルース』だ。
YAMAHAとは、20数年前、ぼくが自信を持って応募した『レジャーモービルの女』という歌を、「お疲れ様」のひと言葉で不合格にしたあのYAMAHAである。
「二度とYAMAHAの世話になんかなるもんか」とその時は思ったものだが、その20数年後にこういう形でお世話になろうとは、思いもよらなかった。

ところで、ここには『しろげしんた』名で登録していない。
登録名は『シュマリ』である。
由来は、手塚治虫マンガの中で、一番好きな作品からとった。
アイヌ語で、狐を意味するらしい。
まあ、ぼくは狐顔ではないが、主人公シュマリの生き方が好きなので、この名前を選んだわけである。

で、送られてきたメールに書いてあるリンクだが、
http://players.music-eclub.com/players/Player_detail.php3?player_id=25213
です。
ということで、こちらの方もよろしく。



2004年02月01日(日) 久々の音楽活動(上)

久しぶりに音楽活動みたいなことをやった。
いや、活動と言っても、あるところにプレイヤー登録し、歌を一つアップロードしただけの話で、かつてやっていたような、コンテストに参加するとか、レコード会社のオーディションを受けるといったようなことではない。
あの頃ほど音楽に対する情熱はないし、「ミュージシャンになる」という夢をいまだくすぶらせているわけでもない。
まあ、何と言ったらいいか、「趣味だけでも箔を付けたい」といったところだろうか。
しかし、そうは言いながら、アップロードした歌は「歌のおにいさん」と同じく、音の質の悪いものである。
これでは箔も付かないだろう。

ところで、そこに登録する時に、まず悩んだのが、作詞作曲の欄だった。
最初は本名で書こうかと思った。
だが、それはやめた。
もしこのサイトを見ている人が、そこを見つけた場合を考えたのである。
「あ、これ、しろげしんたの歌やん。あいつこんなところに登録しとるんか」
そして、作詞作曲のところを見ると、そこに見慣れない名前が書いてある。
「えっ、何これ? もしかして、これが奴の本名? プッ、変な名前やのう」
本名登録をやめた理由は、こんなふうに思われるのが嫌だからである。

断っておくが、別にぼくの名前は変ではない。
難しい漢字を使っているわけでもないので、普通通りに読めば、決して間違うようなことはない。
ところが、今まで半分以上の人が、まともに読んでくれたことがないのだ。
そのたびに、ぼくは「何でこの人は、こんなに難しく読むんだろう?」と思ってしまう。
人の名前とは、ある意味イメージで覚えるものである。
理屈で覚えたのなら、簡単に修正が利くだろう。
しかし、イメージで覚えたものは、そうたやすく修正が利くものではない。
ぼくは、自分の名前を通して、嫌と言うほどその経験をしてきている。
そう、最初に正しく覚えてもらわないと、一生その人は、ぼくの名前をまともに読んでくれないことになる、ということだ。

ということで、作詞作曲のところに本名を書いたとしても、おそらく半分以上の人が、まともに読んではくれないのはわかりきっている。
ネットの世界のことだから、直接会って、「これは、こう読むんです」と教えるわけもいかない。
そうなると、その人は「プッ、変な名前やのう」を一生続けることになるだろう。


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