30日の日記を書き終えたのは、31日の午前2時だった。 それからすぐに寝たのだが、なかなか寝つかれない。 一時間くらい、布団の中で悪戦苦闘していた。 そのせいか、かなり寝坊をしてしまった。 予定では6時半に起きて、それから風呂に入るつもりでいたのだが、起きたのは何と7時40分。
時計を見てびっくりして飛び起きた。 そのタイミングが悪かったのかもしれない。 どうも体調が優れない。 頭がボーっとしている。 その中に、頭痛の種のようなものが蠢いている。 こういう場合は少し休んでいれば治るのだが、8時30分には家を出なければならな・ ったので、そんなことをしている暇はなかった。 起きあがって、すぐに風呂に向かった。 ところが、服を脱いでいる時に、急に腹が痛くなったのだ。 髪を洗わなければならないので、腹の痛みは我慢して、先に風呂に入ってからトイレに行こうとも思った。 しかし、腹の痛みが尋常ではない。 しかたなく、先にトイレに駆け込んだ。
案の定、下痢である。 15分くらいトイレの中に座っていた。 えらく時間を超過してしまった。 あと35分、これから風呂に入り、ひげを剃り… ああ、しかも31日は髪を洗う日だ。
トイレを出て、さっそく風呂に入り、髪を洗った。 普段ぼくは髪だけは念入りに洗うのだが、時間の都合で簡略化した。 そのおかげで、何とか時間内に風呂を上がることは出来た。 が、髪を乾かす暇がなかった 外はさほど寒くはなかったが、それでも冬である。 おまけに雨も降っている。 これで、体が冷えてしまった。 車のヒーターを全開にして暖めようとしたが、道が空いていたせいで、いつもよりも早く、車内が充分に暖まりきらないうちに会社に着いてしまった。
会社に着いて、しばらくしてから、頭痛が始まった。 目は充血して、最悪の状態となった。 「ついに風邪を引いたか」 今年最後かつ最大に忙しい日なのに、頭は割れるように痛く、仕事に身が…、いや、仕事はいいにしろ、このままだとせっかくの正月二連休が台無しになる。 そこで、二度ほど葛根湯を飲んでみた。 が、効いた気がしない。
今年の1月と5月に大風邪を引いた。 そのせいか、風邪に対してかなり神経質になっている。 ちょっと体が冷えたり、鼻水が出たりすると、「風邪引いたんやないやろか?」と不安になっていくのだ。 何となく熱っぽくもあるし、のどもいがらっぽく感じる。 そうなると、仕事にも遊びにも身が入らなくなる。 12月に入ってから、こういう状態に何度もなった。
そこで、今年の反省をふまえて、そういう時にはすぐさま葛根湯を飲むことにしている。 葛根湯を飲んでしばらくすると、体の芯が暖まっていき、そのうち風邪に対しての不安がなくなっていく。 気がつけば、体調は良くなっている。 今のところ、この用心を重ねて行っているから、冬に入ってから風邪を引かなくてすんでいる。
世間で言われているように、風邪の引き始めの葛根湯は確かによく効く。 何よりもいいのは、漢方だから胃を荒らすこともないし、副作用もないことだ。 完全に風邪を引いた時に飲むパブロンは、必ずと言っていいほどぼくの胃を荒らす。 さらに、肌が荒れ、ひどい時には吹き出物まで出来る有様である。 こういう思いをしたくないからこそ、この冬に入ってから、極めて早く葛根湯を飲んでいるわけだ。
よく葛根湯が「苦い」だとか、「変な味」だとか言う人がいるが、ぼくはこの手の味が好きである。 それは、どことなく養命酒の味に似ているせいなのかもしれない。 全体の味は、確かに複雑怪奇ではある。 が、嫌味はない。 苦みの中に潜むほの甘さも、味わいがあっていい。
しかし、この引き始めには万能と思える葛根湯にも、欠点がないわけではない。 それは、値段が高いということだ。 高いと言っても定価で1800円(カネボウ12包入り)だから、普通の薬と変らないところなのだが、なぜかこの薬に関しては高く感じるのだ。 昼食代を削って買っているから、そう思うのかもしれない。 また、「薬と言っても、元々は草やないか」という気持ちが働いているからなのかもしれない。
とにかく、12月に入ってもう3箱も買っているので、すでに馬鹿にならない額を払っているのだ。 この投資が無駄にならないように、せっせと養生に努めていかなければならない。
年末は31日まで仕事、年明けは3日から仕事。 つまり、休みは元日と2日だけ。 ただの2連休である。 まあ、20数年間こういう生活をしてきているので、今ではそれがあたりまえのことになっている。
ぼくがもし22歳の時、こういう小売業の世界を選ばずに、年末年始にたくさんの休みを取れる企業に就職していたとしたら、今頃いったいどういう生活をしていただろうか。 考えられることは、「寝てばかりいないで、家のことをやって下さい」などと、嫁さんや母親から小言を言われる年末生活を送っているということだ。 「せっかくの休みなんだから、どこかに連れて行け」なんて言われているかもしれない。 どう考えても、ゆっくり休日を楽しむような暇はなさそうだ。
休みが少ないからこそ、惰眠をむさぼっていても、好き勝手なことをやっても、何も文句を言われないのだ。 もしかしたら、人から干渉されることが嫌いなぼくにとって、小売業というのは天職なのかもしれない。
ところで、以前デパートでコンピュータの手相占いをやったことがあるのだが、その時のぼくの天職は「小説家」となっていた。 小説家ねえ。 こういう日記なら、なんとか書けるのだが、想像力と持久力を要するような小説など、ぼくにはとうてい書けそうもない。 ほら吹きだから、話を作るのは好きだが、それを文章にするなんて、とても出来ない。 ぼくの手相の、いったいどの線が、「小説家」などというほらを吹いているのだろうか。
ミュージシャンを目指していた頃、「おれの天職はミュージシャンだ!」と無理矢理思っていた。 しかし、それが天職ではなかったことは、後の人生が証明することとなる。 天職であれば、嫌でもミュージシャンになっていただろう。
やっぱり、ぼくの天職は小売業なのかなあ。 ちょっと物足りないような気がする。
年末だからと言って、「忙しくて、忙しくて」と言うほどは忙しくない。 ほとんど普段と変わらない人出である。 ところが、なぜか気忙しい。 この気忙しさは、年末というムードから来るのかもしれない。 確かに人出は変わらないものの、お客さんの顔ぶれが若干違うのだ。 いつも来ている常連さんに混じって、どう見ても地元の人でないような人がいる。 おそらく、仕事納めと同時に、早々と帰省してきた人たちだろう。
そういえば、「今年は例年と違って、正月用品の売上げが伸びず、お掃除用品の売上げが伸びている」と、日用品の係の人が言っていた。 これも、『あるある大事典』の影響だろう。 ぼくの売場はというと、特に変わったことはない。 いつもと同じ商品が売れている。 日用品コーナーでお掃除用品が売れているからと言って、ぼくの部門で特にクリーナーが売れているわけではない。 まあ、「年末だから」と言うので、電球や蛍光灯の売上げだけは伸びているが。
ところで、毎年この時期になると、まるでこの世の終わりが来るかのように、「あれも、これも」とたくさんの物を買っている人たちを見かける。 そういう人を見るたびに、ぼくは「いったい何を焦っているのだろう?」と思ってしまう。
新しい年が来ると言っても、日が一日明けるだけの話である。 そこに、何か新しいものが待っているわけではない。 そこで待っているのは、昨日までと何ら変らない、いつもの生活なのだ。 朝が来れば、夜に向かって動き始める、ただそれだけの生活を迎えるだけのことなのに、なぜ人は焦るのだろう。 たくさん物を買えば、何か新しいことが始まるとでもいうのだろうか? きっとそういう人たちは、自分たちが勝手に作り上げた「年末ムード」というものに踊らされている人なのだろう。
さて、今年も残すところ、あと3日である。 例年通り、ぼくは大晦日まで休まない。 なぜか? それは、年末ムードを盛り上げ、来たお客さんに「あれも、これも」と商品を買わせるためである。
「A−2L(商品の型式)を28日までに5ケース入れて下さい」 ぼくが取引先に電話を入れたのは、今月の19日のことだった。 「はいわかりました。A−2を5ケースですね。さっそく手配しておきます」
それから5日後の24日。 その商品がまだ入ってないのに気がついたぼくは、その取引先に確認の電話を入れた。 「はい、A−2Lのほうはメーカーに直送手配を取っていますので、遅くとも26日までには着くと思います」 「26日、金曜日ですね」 「はい」
25日に入らなかったので、「やっぱり27日入荷か」と思い、もうそのことには触れなかった。 26日、つまり昨日、ぼくは休みだった。 会社から電話がかかってくることもなかったので、のんびりとことし最後の休日を過ごした。 もちろん、例の『A−2L』のことは忘れていた。
さて、今日のこと。 朝、会社に着くと、倉庫の真ん前にA−3Lが積まれていた。 「ああ、昨日着いたんだな」 ぼくはそう思って、制服に着替えに行った。 再び倉庫の前に行って、記憶をたどった。 「確か5ケース頼んだよなあ…」 そこには3ケースしか積まれてなかったのだ。 荷札を見ても、ちゃんと『5個口』と書いてある。 ぼくは『誰かが気を利かして、倉庫の中に入れてくれたのかも』と思い、倉庫の中を探してみた。 ところが、どこにもその商品が見あたらないのだ。 ぼくは売場に行き、もう一度ぼくが発注した数量を確認した。 確かに5ケースとなっている。
もしかしたら昨日欠品が出ていたのかもしれないと思い、昨日商品を受け取った人に状況を聞くことにした。 あいにく、その人は休みだった。 そこで、携帯あてに電話をかけた。 「もしもし、昨日O社の商品が入ったやろ」 「ええ」 「実は3ケースしか来てないんよ」 「ああ、運送会社の人が積み忘れたとかで、後で持ってくることになっていたんですよ」 「ああ、積み忘れか」 「はい。まだ来てないですか?」 「うん、まだ来てない」 一応安心した。
事情がわかったので、とりあえず運送会社のほうに、ちゃんと今日持ってきてもらえるかどうかの確認を取っておこうと思った。 ところが、送り状が見あたらないのだ。 倉庫、事務所、売場、すべて探してみたが見あたらない。 「ああ、きっと数が揃ってなかったけ、持って帰ったんやろう」 しかし、送り状がなければ、運送会社に問い合わせることが出来ない。 そこで、今度は取引先に確認を取った。 「先日の商品ですけど、5ケース注文してましたよねえ」 「ああ、A−3Lですね。はい、5ケースでしたよ」 「欠品とかで、3ケースしか届いてないんですよ」 「えっ? 運送会社には問い合わせてみましたか?」 「いや、送り状が見あたらないんですよ。おそらく持って帰ったんじゃないかと思うんです。メーカーのほうに控えがあるでしょ」 「ああ、じゃあ、メーカーに連絡して、送り状の控えをFAXさせましょう」 「お願いします」
しばらくして、メーカーから送り状の控えが届いた。 確かに5個口で出ている。 さっそく運送会社に連絡を取った。 ところが、何度電話しても話し中である。 やっと繋がったのが、1時間後だった。 「もしもし、×社ですけど」 「お世話になります」 「O社の荷物、ああ問い合わせ番号『○○−×××』の件なんですけど、昨日積み忘れがあったとかで2ケース足りないんです。夜持ってきてくれるようになっていたらしいんですが、まだ届いてないんです」 「それは申し訳ありません。さっそくお調べしてご連絡いたします」
1時間ほどして、ぼく宛に電話が入った。 「昨日、4ケースそちらに持って行ってますねえ」 「え? 3ケースしかありませんよ」 「いや、ドライバーに聞いたら、4ケース置いてきたということでしたが」 「誰が受けたんでしょうか?」 「○さんのサインが入ってますが」 「ああ、そうですか。じゃあ、○さんに聞いてみます」 「で、欠品分なんですが、間もなくそちらに着くと思いますので、お待ち下さい」 「はい、よろしくお願いします」
電話を切った後、ぼくはすぐに○さんの所に行った。 「昨日、何ケース入ってきましたか?」 「確か4ケースやったと思うけど」 「え? じゃあ、1ケース足りん」 「3個しかないと?」 「はい」 今度は、○さんと倉庫の中を探し回った。 やはり見つからない。 そうこうしているうちに、運送会社の人が欠品分を持ってきた。 「しんた君、商品が入ったよ」 持ってきたのは1個だけだった。
○さんが言った。 「もしかしたら、昨日売れたかもしれんよ」 「まさか…」 「一応調べてみよう。JANコードわかる?」 「31日の売り出し分ですから、登録されていると思いますよ」 「ああ、これか」 JANコードを打ち込んでみると、37台売れていることになっている。 「1ケースにいくつ入っとるんかねえ?」 「6個ですけど」 「売れたんやないんね?」 「いや、うちの女の子は触ってないと行ってましたよ」 「おかしいねえ。他に誰か触る人はおるかねえ?」 「そういえば、バイヤーが来たと言ってました」 「バイヤーが売ったんかねえ」 「そんなことはないでしょう。あ、もしかしたら、どこかの店に持って行ったんかもしれん。ちょっと振替伝票見てみます」 しかし、振り替えた形跡はない。
その時だった。 ぼくはあることに気がついた。 「確か、さっき打ち込んだJANコードは、A−2Lのものだったよなあ」 ぼくはチラシを確認した。 チラシにはちゃんと『A−2L』となっている。 注文書を見ても、『A−2L』である。 で、届いているのはA−3L…。 受注ミスである。 さっそく取引先に電話をかけた。 が、取引先は今日が仕事納めのため、もう誰も残っていなかった。
さて、どうしよう。 31日はこのA−3Lを売るしかない。 それは、今となってはどうしようもないことである。 通常の価格もA−3Lのほうが上なので、それを安く買えるのだから、それに対しての苦情は来ないだろう。 問題は、その数量が足りないということだ。 いくらいい物が安く買えても、肝心の物がなければ話にならない。 盗られたとは考えにくいことである。 明日、もう一度時間をかけて探してみることにしよう。
こういう時、FOMAは便利である。 ムーバの場合だと、前の機種を持ってドコモショップに行かなくてはならない。 そこでいくらかの手数料を払い、設定してもらわないと使用出来ない。 FOMAの場合は、携帯の中に入っているカードを取り出し、前の機種の中に挿入するだけでいい。 簡単な作業で使用出来るようになるのだ。 ということで、2月まで、ぼくは古い機種を使うことにした。
さて、2日後のことだった。 何気なく、だめになったほうの携帯電話を見ていて、ふと思った。 「もしかしたら、だめになったのは電池のほうかも」 そこで、試しに取り替えたほうの電池を、だめになった携帯に装着してみた。 すると、ちゃんと電源が入ったのだ。 データもそのまま残っているし、使用に支障はなさそうだ。 一応テストをしてみたのだが、通話も大丈夫だったし、メールも大丈夫だった。 ただ液晶の中にある水滴さえ我慢すればいいのだ。
しばらくその携帯で遊んでいた。 さすがに機種が新しいだけに、感度もいいし、操作性も優れている。 だが、その携帯を使い続ける気にはならなかった。 なぜか? それは、心の傷である。 そう、落とした場所が場所だったし、落ちていく場面もしっかり見ていたので、どうも使う気にならないのだ。 その携帯電話をポケットに入れていると、何か汚物がポケットの中にあるような気がする。 また、食事中に電話がかかってきて携帯を取りだした場合、もしかしたら便所事件の光景が目に浮かぶかもしれないのだ。 そうなると、「もう、食べる気がしない」と言うことになってしまうだろう。
たった2ヶ月、感度の悪い機種を使えばすむ話である。 大して電話もかからないし、メールだってパソコンを使えばいいのだ。 何よりもいいのは、この機手は感度が悪いために、トイレの中では電波を拾わないことだ。 そのため、トイレの最中に、電話がかかってくる心配がない。 これで、トイレの中に、再び携帯を落とすこともなくなるだろう。
何日か前の話、ぼくは携帯電話を持つようになってから、初めての失敗をした。 携帯を水に濡らしたのだ。 濡らしたというより、水の中に落としたと言うほうが正しい。 その落とした場所が悪かった。 使用後、水を流したばかりの便器の中。 もちろん、大の方である。
普段、その最中に携帯を手に取ることはなく、おとなしく作業着のポケットの中に収まっている。 もちろん、ポケットのボタンはかけたままだ。 ところがその日、たまたま売場から電話が入ったのだ。 しかたなく携帯をポケットから出した。 「すぐに来てくれ」と言う。 ぼくは急いで、水を流して立ち上がった。 その時、前屈みになったのがいけなかった。 ポケットから、携帯電話がゆっくりと便器の中にこぼれていった。 「カチャッ」 空しい音がトイレの中に響く。 ぼくは慌てて携帯を拾い上げ、洗面所でそれを洗った。 携帯の液晶画面が徐々に薄くなっていく。 そのうち、完全に消えた。 その後、ドライヤーで乾かしたものの、一向に復旧する兆しは見えなかった。 よく見ると、液晶画面の下の方に水滴のようなものがある。 「もしかして、これが原因か」と思ったぼくは、さらにドライヤーの熱風を吹きかけた。 しかし、水滴はそのままだった。
「時間をかければ、水滴は取れるかもしれん」と、ティッシュを敷いて、一時間ほど携帯を寝かすことにした。 その間に、ドコモショップに電話をかてけて、何かいい方法がないか尋ねてみた。 「しんたですが」 「ああ、どうも。どうされましたか?」 「実は、携帯を便器の中に落としてですねぇ」 「あらら。で、乾かしてみましたか?」 「何度もドライーヤーを吹き付けてみたんやけど、電源が入らんとですよ」 「そうですか。じゃあ、どうしようもありませんね。いつ買ったんですかねえ?」 「今年の8月1日」 「ああ、買い換えまで、あと2ヶ月ありますねえ」 もちろん、すぐに買い換えることは出来るのだが、半年経たないと、ドコモはイニセンティブの適用をしてくれない。 つまり、定価で買わなければならないのだ。 「しかたないですね。じゃあ、2月まで以前使っていた機種を使うことにします」 「そうですね」
今日も昨日と同じく、暖かい一日だった。 出勤時、車の窓から日が差して、汗ばんでいたくらいだった。
さて、何日か前に、今年のホワイト・クリスマスイブ予報なるものをやっていた。 ホワイト・クリスマスイブ予想、つまりクリスマスイブに雪が降る予報という意味だ。 会社の出がけに見ていたので、最後までは見なかった。 そのため、どういう予報結果になったのかは知らない。 ちょうどぼくがそれを見た時は、過去のイブに雪が降ったデータを流していた。 「この年は、鹿児島でも降ったんですよ」 「えっ、鹿児島でですかぁ?」 この年というのは、1973年のことだった。
1973年12月24日、確かにこの日は寒かった。 その時ぼくは高校1年生だった。 特に印象深いことがあったわけではないのだが、なぜかその日のことははっきりと覚えている。
ぼくの通った高校は山の麓にあるため、行きはけっこうきつい上り坂になっている。 逆に帰りは急な下り坂となる。 その下り坂で悲劇は起こった。 その日は鹿児島だけでなく、ここ北九州にも朝から雪が降っており、山手にある学校は雪に包まれていた。 昼になっても気温は上がらず、ぼくたちが帰る頃には、かなりの箇所で凍結していた。
その日の下校時、数人の友人と校門を出た瞬間だった。 友人が滑って転んだ。 ぼくは「足腰が弱いのう」とその友人を笑った。 その時だった。 今度はぼくが足を取られ、思いっきり尻餅をついた。 「人のこと笑うけ、そうなるんたい」と、最初に転んだ友人が笑った。 ぼくが立ち上がろうとした時、また足を取られた。 その際、思わずその友人の腕をつかんだ。 すると、その友人も倒れた。 ところが、その友人は倒れる時に、もう一人の友人の腕をつかんでいたのだ。 3人が横一列になって転倒した。 周りを歩いていた多くの人たちから、笑われてしまった。 こうなればぼくたちも、笑うしかない。 後で、ぼくが道連れにした二人の友人から、「人を巻き添えにするな」「こける時は一人でこけれ」などと、散々文句を言われたものだった。
高校時代、ぼくは日記を付ける習慣がなかった。 そのため、今も記憶に残っているような大きな出来事も、日付けまでは覚えていない。 それなのに、どうしてこんなくだらない出来事の日付けを覚えているのだろう。 やはり、ホワイト・クリスマスイブだったからだろうか。 それとも、単に2学期の終業式の日だったからだろうか。
“トゥルルルル、トゥルルルル…” 「はい」 「ああ、ナオね。今日は休みか」 少し訛りのある、ドスの効いたおばさん声である。 「あのう…」 「お前がこの間言いよったことなあ…」 「どちらにおかけですか?」 「え、何言いよるんか?」 「ナオじゃありませんけど」 「何冗談言いよるか」 「こちらは、しんたですけど」 「ええっ!?」 「しんたですけど!」 「ふざけるな。忙しいのに!」 「だから違うと言ってるでしょうが!」 「何が違うんかっ!?」 「間違い電話ですっ!」 「間違い電話だとぉ? …ああ、すいませんねえ。ハハハ…」 “ガチャッ!”
今日は休みだったので、ゆっくり寝ようと思っていたら、こういう電話が入った。 最近の若い者は電話のマナーを知らないとよく言われているが、中年以降の人の中にも常識知らずな電話をかける人が多い。 店にいるとよくクレームの電話がかかってくるが、例えば自分が操作を間違っているのに、それを店のせいにするような理の通らないクレームは、年寄かおばさんからのものが多い。 それも、決まって口汚い。
とにかく、その電話のせいで、ぼくは睡眠を妨げられた上に、その後は腹が立って眠れなかった。 おかげで、今日の休みは台無しになってしまったのだった。 今年は、今日を入れて後二日しか休みが残っていないというのに…。 貴重な一日を返してもらいたいものである。
ミルキーというあだ名の子がいた。 彼女とは保育園時代から中学校まで、ずっといっしょだった。 10年ほど前に、中学時代の同窓会をしたことがある。 その時もぼくは彼女のことを、『ミルキー』と呼んでいた。 ところが、彼女はそのあだ名がずっと嫌いだったらしく、「しんた君、もう『ミルキー』と呼ぶのやめてくれん?」と言った。 しかし、ぼくは彼女のことを『ミルキー』以外に呼ぶことが出来ないのだ。 結婚して変った名字で呼んでも、名前で呼んでもピンと来ない。 やはり、『ミルキー』と呼んだほうがしっくりくる。 そう、彼女はぼくから『ミルキー』と呼ばれる宿命にあったわけだ。
彼女は遠い地に嫁に行っているため、もしかしたら、今後彼女と会うことはないかも知れない。 しかし、会っうことがあったとしたら、やはりぼくは『ミルキー』と呼ぶだろう。 たとえその時が、80代であっても、90代であっても。
【おまけ】 あるパートさんが「さっきお年寄りの後ろを歩いていたら、一発かまされたんですよ」と言った。 「かまされた…。もしかしておならか?」 「ええ。私、そういうことがよくあるんですよ。それも決まって臭いやつを」 「ははは」 「笑い事じゃないですよ」 「でも、あんたは今後もずっと、年寄の後ろを歩くと一発かまされるやろうね」 「どうしてですか?」 「それがあんたの宿命やけよ」 「それって、私がそういう星の下に生まれたということですか」 「そう」 かわいそうだが、彼女は一生、年寄の臭い屁から逃れられないだろう。
(宿命編 おわり)
昨日書いたような、おそらくぼくの前世から連綿と続く負の宿命があると思えば、こういった些細な宿命もある。
小学生の頃、誰よりも成長の早い子がいたとしよう。 成長が早ければ、もちろん下の毛も誰よりも早く生えてくる。 それを運悪く同級生に見つかってしまったとする。 おそらく、彼のあだ名は『チ○ゲ』で決まりだろう。 最悪の場合、女子からも「チ○ゲ君」と呼ばれるだろう。
小学生の頃のあだ名というのは、なかなか消えるものではない。 中学に入ってから、周りのみんなが生え揃える頃になっても、彼は相変わらず『チ○ゲ』と呼ばれている。 高校に入ってからも、そこに同じ中学校出身の人間がいた場合、その人は彼のことを「こいつのあだ名は『チ○ゲ』やった」と紹介するだろう。 そうなると、いくら本人が嫌がっても、『チ○ゲ』の呼び名は変らない。
彼の至福の時は、おそらくそれから後の数年だろう。 さすがに大学や社会では、『チ○ゲ』のあだ名を知る人がいないだろうからである。 しかし、何年か経つと、必ず同窓会というものが始まる。 そこに出席すると、「おう、チ○ゲやないか。元気か?」となるのである。 忘れていた記憶が蘇る。 結局彼は、同窓会のメンバーが全員死ぬまで、『チ○ゲ』と呼ばれることだろう。
彼は他人より少し成長が早かっただけである。 しかし、宿命的に見れば、彼が『チ○ゲ』と呼ばれる宿命を背負って生まれたがために、成長が早まったということになる。 宿命というのは、いたずら好きなのかもしれない。
オリックスの谷選手のように派手な結婚式(披露宴)をする男もいれば、ぼくのように結婚式を挙げてない男もいる。 こういうものは、そうしたくてそうなるものではなく、生まれ持った宿命がそうさせているのだと、ぼくは思っている。 そういうぼくも、若い頃までは派手な結婚式を挙げることを望んでいた。 みんな祝福の中、ギターを片手に愛の歌をうたおうとも思っていた。
ところが、ある時点から、そういうことが馬鹿らしく思えてきたのだ。 もちろん結婚したのは、そういう気持ちになってから後のことで、だから結婚式を挙げなかった。 とはいえ、そういう気持ちになる以前に、結婚に縁がなかったわけではない。 20代中頃に結婚しようと思った人が今の嫁さんなのだが、元々彼女との結婚を望んでいたわけだから、結婚しようと思えばいつでも出来たわけだ。 もし、その頃に結婚していたとしたら、おそらく「ギターを片手に…」といった、思い出として振り返った時に赤面するような結婚式を挙げていたことだろう。
しかし、実際に結婚したのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。 そう、結婚に至るまで、かなり遠回りをしたのだ。 とはいえ、それはぼくの意思からではなかった。 結婚しようと思った時に、いつも何らかの障害が起こるのだ。 その障害の一つ一つをここに書く気はないが、とにかく、致命的な出来事がぼくに降りかかってきた。 今思えば、それこそがぼくの生まれ持った宿命だったのだ。 言い換えれば、ぼくが結婚式が馬鹿らしいと思うまで、宿命はぼくの結婚を許さなかったということだ。
元々ぼくの家系は家庭運に恵まれていない。 だから、結婚が遅くなっても、結婚式を挙げなくても、「こんなものなんだ」と素直に受けとめられる。 これも、そういう星の下に生まれてきた者の宿命なのだろう。
ぼくは冬になると、いや上着が必要な季節になると、必ずジャンバーを着るようにしている。 かつては、毛糸の分厚いセーターなども着ていたことがあるのだが、それだとちょっと都合が悪い。 そのことに気づいて以来、ずっとジャンバーで通しているのだ。
小学生の頃、よく先生から「ポケットに手を突っ込んで歩かないように」と言われていた。 確かその時は、倒れた時に受け身が取れないからだ、という説明を受けていた。 しかし、ポケットに手を突っ込んでいても、受け身はちゃんと取れた。 そのことがわかってから、先生の注意を聞き流すようになった。 なぜあの時、「姿勢が悪いと、胃が悪くなるよ」と言ってくれなかったのだろう。 そう言ってくれていれば、学生時代を通して、胃弱に悩むことはなかっただろう。 そう、ぼくは20歳を過ぎるまで、年中ポケットに手を突っ込んで歩いていたのだ。
せめて寒くない時期だけでも、ポケットから手を出していようと思ったのは、20歳を過ぎてからだった。 周りの人から、「ポケットに手を入れていると、姿勢が悪くなるよ」と度々言われるようになったからだ。 そこで、ポケットに手を入れる癖を治そうという気になった。 それ以来、慢性の胃弱は治った。 が、やはり冬場になると寒さのあまり、つい昔の癖が出て、気がつくとポケットに手を突っ込んでいる。 そして、胃が悪くなる。
「冬場、ポケットに手を突っ込まないようにするにはどうしたらいいか?」 そういうことを考えなかったわけではない。 手袋や軍手を使ったこともある。 が、それでもポケットに手を突っ込むのだ。 バイク用の分厚い手袋に替えてもみた。 ところが、汗で蒸れてしまい、湿疹が出来てしまったのだ。 結局、手袋策を諦めざるをえなくなった。
要は、ポケットに手を突っ込んでも姿勢を崩さなければ、胃が悪くなるようなことはないのだ。 そこで、冬場は上着に大きなポケットがついたものを着るようにした。 上着にポケットがなかったり、あっても小さなものだったりした場合は、どうしてもズボンのポケットを頼るようになるからだ。 ズボンのポケットに手を突っ込むと、当然姿勢が悪くなる。 ぼくが冬場にジャンバーを愛用するのは、そういう理由からである。
何も出てこないので、しかたなくお休みすることにしました。
ああ、そういえば、谷夫妻の披露宴まで、あと3日ですね。 その模様をテレビで流すそうですが、いったい誰が見るんでしょうか。 もちろん、ぼくは見ませんよ。 そういうことなので、この日記にコメントを書くようなことはしません。 悪しからず。
母が必死に年賀状を書いている。 まあ、ワープロを使っているので、書いていると言うより、打っていると言ったほうがいいだろうが。 昨年、ワープロでは何だからというので、安いパソコンを買い与えたのだが、使い慣れたほうがいいのか、いまだ電源を入れたことがないようだ。 おそらく、プリンターのインクは目詰まりしていることだろう。
ぼくは年賀状を書く習慣がない。 だから年末にも、こうやって毎日日記を更新する時間が持てるわけだが、もし年賀状を書く習慣を持っていたとしたら、今頃日記を書いている暇はなかったにちがいない。 きっと今の母と同じく、必死に年賀状に取り組んでいたはずだ。 元々凝り性な性格なので、ありふれた年賀状を嫌って、より個性的な年賀状作りに励んでいたことだろう。
ぼくが年賀状を書かなくなったのは、20代後半のことだった。 それまでは、会社の人などに年賀状を書いていたのだが、歳をとるとともに仕事が忙しくなっていき、年賀状を書く時間が取れなくなったのだ。 30件が20件になり、20件が10件になり、10件が5件になり、ついには0になってしまった。 まあ、こちらから出すことはしなくなったものの、それでも送って来た人には返事を書いていた。 しかし、店の初売りが1月2日からになってからは、返事も書かなくなった。
また、こういう理由もある。 初売りが1月2日からということは、12月31日まで目一杯働いているぼくたちにとって、正月休みはただの単日の休みに過ぎない。 翌々日に会う人に、わざわざ年賀状を出す必要もないだろう、という冷めた判断が働いたということだ。 こういう感覚を持った人は、ぼく以外にも何人かいた。
ということで、ぼくがまったく年賀状を書かなくなってから、もう十数年が経つ。 こちらが出さないので、送ってくる人も当然少なくなってくる。 最近送ってくる人といえば、生保・損保の保険屋さんと、どこかの店の「初売りは○日から」というDMまがいのものくらいだ。 以前は輪ゴムでまとめて郵便ポストに入っていた年賀状も、最近ではいつもの郵便と同じようにばらけた状態で入っている。
さて、来年はいったい何枚年賀状が届くのだろうか。 ちなみに、今年送って来た年賀状の数は8枚だった。
1. ぼくの喫煙が慢性化したのは19歳だったから、もうタバコとは27年の付き合いになる。 その間、何度も禁煙を勧められたが、タバコを止めようとは思わなかった。 その理由は、別にタバコが健康を害しているとは思っていないし、タバコを止めた時の害のほうが大きいと考えるからである。 今後も、タバコを止めようなどとは、まったく思わないだろう。
2. ぼくの祖父は、小学生の頃から80歳を過ぎるまでタバコを吸っていた。 その間、病気らしい病気はしたことがなかった。 おそらく、タバコが一つの栄養源になっていたのだと思う。 その証拠に、タバコをやめたとたんに死んでしまっている。
3. 10月に同窓会をやったことを書いたが、その時集まったメンバーは、みな愛煙家だった。 その席上で誰かが言った。 「タバコは健康に悪くない」 メンバーはみな、その意見に同調した。
4. 最近、車を運転してる時に、窓から火のついたタバコを投げ捨てる人をよく見かける。 これは同じ喫煙者として許し難い行為である。 第一、危険きわまりない。 もしガソリンでも漏れていたらどうなるのか。 その人は、そういうことを考えたことがあるのだろうか。 こういうことをやっているから、喫煙者のマナーが問われ、嫌煙狂の人たちから弾圧を受ける結果になるのだ。 市には「タバコのポイ捨て条例」なるものがある。 一万円の罰金なのだそうだ。 しかし、酒気帯びと違って、その条例に引っかかった人を見たことも聞いたこともない。 このへんの取り締まりもやってもらいたいものである。
5. ぼくは、タバコを吸うなら、それなりのマナーを守らなければならないと思っている。 例えば、吸ってはいけない場所で吸わないとか、ポイ捨てはしないとか、つまり人に迷惑のかかる行為はしないということだ。 それを守れない人を、ぼくは愛煙家とは認めない。 喫煙による犯罪者である。
6. 電車内・テレビのタバコ広告が禁止になるそうだ。 またしても、嫌煙狂の弾圧である。 今日テレビでやっていた『俺たちの旅』の中で、中村雅俊がタバコを吸うシーンがあったが、そういうシーンもいずれ禁止になっていくのだろう。 昔のドラマや映画が言葉狩りの被害にあって、その対象となるセリフがカットされているのをよく見るが、喫煙シーンがあるドラマなども、その部分だけカットされるようになるのだろうか。
免許証を拾ったのは、今回で三度目である。 拇印を押した前回と、もう一回は6年ほど前だ。 その時は最悪だった。
拾ったのは今回と同じく12月だった。 ある日、什器の下に紙袋のようなものがあるのを見つけた。 しかし、その時は気にもとめなかった。 年末で毎日たくさんの商品が入荷していたため、それどころではなかったのである。
その紙袋に注目するのは、いよいよ暮れも押し迫った12月の末のことだった。 最初に発見した時から、もう2週間以上経過していた。 その頃になると商品の入荷も一段落していた。 「この間からあるんやけど、あの紙袋、何かねえ?」と、ぼくは売場の女の子に尋ねた。 「え、しんたさんが置いてるんじゃないんですか?」 「おれ、知らんよ」 「私も知りません」 「ゴミかねえ」 「かも知れませんね」 と、什器の下から紙袋を取り出し、開けてみることにした。
「あっ…」 中には手帳と小物が入っていた。 「誰のだろう?」と、手帳を開いてみると、そこから意外なものが出てきた。 運転免許証である。 今回と同じく、若い女性のものだった。 ぼくは再び売場の女の子に尋ねた。 「この人、知っとう?」 「知りません」 「困っとるやろねえ。すぐ知らせてやらんと」 ぼくはさっそく電話帳をめくり、その人の番号を探し当てた。
「もしもし、○○さんですか?」 「はい」 「こちらは○○店ですけど、免許証を見つけたんですが…」 「えっ!?」 一瞬の沈黙の後、相手は急に語気が強くなった。 「どこにあったんですか!」 「什器の下ですけど」 「何で今頃電話してくるんですか!?」 「何でと言われても、見つけたのは今日なんですが」 「私、無くしてから何度も、おたくの店に電話したんですよ!」 そう言われても、こちらにはそういう情報は入ってきてない。 仮にそういう情報が入ってきていたとしたら、当然探しただろうし、もっと早く紙袋を開けていただろう。
「警察にも届けて、再発行したんですよ。どうしてくれるんですかっ!」 『どうしてくれるんですか』と言われても、もうどうしようもない。 返す言葉もなく、こちらが黙っていると、相手は憮然とした口調で「すいませんでした。じゃあ、後で取りに行きますから」と言って、電話を切った。
善意で電話しているのに、まさか怒鳴られるとは思わなかった。 見つけるのが遅れたのは、確かにこちらの落ち度かもしれない。 しかし、そちらも何度電話したのかは知らないが、大切なものなのだから、電話で確認するだけではなく、実際に店に来て探すべきではないだろうか。 そんなことを考えていると、無性に腹が立ってきた。 さすがに、その日は一日、いい気分がしなかった。
朝、店のカウンターに落とし物が届いていた。 中身は運転免許証だった。 女性のものである。 パートさんが住所を手がかりに電話帳を調べていたが、該当する人はいなかった。 当然104に電話しても、登録がないとのことだった。 そこで今日一日待って、もし取りに来なかったら、夜にでもぼくが交番に持って行こうということになった。
別に交番に届けなくても、直接相手の家に届ければよさそうなものだが、変に恐縮されてお礼攻撃を受けるのも嫌だし、逆に変に警戒されるかもしれない。 どちらに転ぶかはわからないが、物が物だけに、相手もサラリと流すことはしないだろう。 そういう場合は、その専門である警察に届けるのが一番である。 警察に任せておけば、嫌でも処理してくれるだろう。
今日一日、とうとう彼女は免許証を探しに来ることはなかった。 ということで、夜、閉店前にぼくは交番へ向かった。 「こんばんはー。○○店の者です」 「はい、どうされました?」 「落とし物なんですけど」 「どんな落とし物ですか?」 「免許証です」 「それはありがとうございます」 そう言うと、警察官は一枚の紙を出した。 「こちらに、おたくの名前と住所を書いて下さい」 ・・・ 「書きました」 「では、こちらにもお名前を書いて下さい」 そこには謝礼を放棄する旨が書かれていた。 謝礼などいらないので、ぼくはさっさと名前を書いた。 「書きました] 「ご苦労様です。では、ちゃんと先方に渡しておきますので」 「お願いします」
この間3分ほどだった。 何ヶ月前かに、同じく免許証の落とし物を交番に届けたことがあるが、その時はもっと時間がかかった。 そう、捺印させられたのだ。 シャチハタではだめだということで、拇印を押すことになった。 別に拇印を押すことに抵抗はないのだが、あまりいい気分はしなかった。 それに比べると、今日はかなりお手軽だった。
家から歩いて20分ほどの場所に、けっこう大きな公園墓地がある。 いつの頃に出来たのかは知らないが、ぼくが小学校に通っている頃にはもう出来ていた。 ぼくたちのクラスは、運動会のリレーやマラソン大会の練習で決まってここを使っていた。 その公園墓地の一番見晴らしのいい所からは、小学校の校区が見渡せた。 東側は一面田んぼの風景で、西側は深い森になっていた。 その西側の深い森のことを、地域の人は『えびす谷』と呼んでいた。 なぜ『えびす谷』なのかという詳しいことは知らないが、友人から「そこにえびす様の祠があるからだ」と聞いたことがある。
夕闇がかかると、そのえびす谷にぼんやりとした灯りが、一つ二つ浮かんだ。 しかし、それはえびす様の祠の灯りではなく、民家の灯りだった。 人が住んでいたのだ。
さて、時は流れて、現在その地がどうなっているのかというと、高級住宅地になっているのだ。 近くに医大が出来たせいか、その付近にたくさんの病院が出来た。 市は、そこの医者のためにえびす谷を切り開き、分譲地にしたのだ。 そこに建っているのは建売り住宅ではなく、どの家も注文住宅である。 何年か前に、そこを歩いてみたことがあるが、新たに小学校が出来、どこまでも住宅が続いており、まさかそこがかつて『えびす谷』と呼ばれていた場所だとは思えなかった。
さて、校区内にはもう一つ『谷』のつく、『アケビ谷』という場所があった。 その名の通り、アケビの木が多く生えているところで、秋になるとたくさんのアケビの実がなるという。 残念ながら、ぼくはそこに行ったことがない。 理由はアケビが好きではなかったからだ。 まあ、仮にアケビが好きだとしても、当時は忍者マンガの影響で『谷』のつく場所には毒ガスが出ると思っていたので、行かなかっただろう。 もちろん、当時のえびす谷にも行ったことはない。 ということで、その『アケビ谷』の所在は今もってわからない。 おそらくそこも、宅地になっていることだろう。
「テレビCMでおなじみの『チョーシューリキ』。『チョーシューリキ』を今日は何と○○円にてご奉仕中でございます」 ある店の店内放送を聞いて、耳を疑った。 この店は長州力を売っているのだろうか? 店内放送は、何度も続く。 そのたびに長州力が耳につく。
いったい、『長州力』とはどんな商品なんだろうか。 まさか、あの長州力のキャラクター商品ではなかろう。 そんなものテレビCMで見たことないし、よほどのマニアしか買わないだろう。 疑問はつのるばかりである。
数日後、うちの店の中をブラブラしていると、『消臭力』という商品があった。 もしかして、これのことか。 「ショーシューリキ」と「チョーシューリキ」、確かによく似ている。 というより、わざと長州力をイメージさせるようなネーミングをしたのだろうか。 もしそうなら、長州に何らかの報酬があるのだろうか? 相変わらず、疑問は晴れていない。
ぼくは他人に妻のことを話す時、「うちの嫁さんが…」と言っている。 妻の呼び名、これは人それぞれで違うようだ。 「かあちゃん」と言っている人もいるし、「家内」と言っている人もいる。 また、「かみさん」などと言う人もいる。
高校時代、政治経済の先生は気取って「ワイフ」と言っていた。 そのことをある生徒が、「どうして先生は奥さんのことを『ワイフ』というのですか?」と突っ込んだことがある。 すると先生は、「ぼくは『ワイフ』なんて言ってますかねえ。ぜんぜん気がつかなかった」と、真っ赤な顔をして弁解していた。 その後、その先生が奥さんのことを何と言うかと注目していたのだが、相変わらず「ワイフ」と言っていた。
お客さんの中に、時々「うちの女」という人がいる。 あれはいったいどういう感覚なのだろう。 初めてその言葉を聞いた時は、一瞬戸惑ってしまった。 確かに「女」には違いないが、妻だけが「女」ではない。 母親だって、姉だって、妹だって、娘だって、さらに浮気相手だって、みな「女」である。 ぼくは、最初「いったい誰のことを言っているのだろう」と思ったものだ。 話を聞いていくうちに、その「うちの女」がその人の妻だということがわかったので、「そうですか。奥さんは…」と返したが、もしその「女」が浮気相手のことだとしたら、その人は「奥さん」と言われたことに対して、どういう反応をしていただろうか。 まあ、ぼくを前にして「妻」など言うのが照れくさかったから、「うちの女」となったのだろう。
ところで、ぼくの妻は他人にぼくのことを話す時、「うちの旦那が…」と言っているそうだ。 「旦那」、ちょっと抵抗のある言葉である。 よく時代劇などで、ゴザを持った夜鷹が「旦那」と声をかけている場面がある。 鼻の下を伸ばした、その「旦那」と闇の中に消えていく。 「旦那」といえば、まずその場面を思い浮かべてしまう。 あまりいい印象を持っていない。 そういえば、焼津の半次も花山大吉のことを「旦那」と言って、追いかけていたなあ。 いずれにしても、古くさい言葉である。 もう少し気の利いた言葉で言ってほしいものだ。
「大将!」 周りを見回しても誰もいない。 そこにいるのは、ぼくだけなのだ。 しかたなく、「はい」などと返事をしている。
いつの頃からだろう、ぼくが「大将」と呼ばれるようになったのは。 ぼくの持っている自分のイメージは、決して「大将」ではない。 だから、「大将」と呼ばれるたびに、「大将と呼ばんでくれ」と思っている。 ぼくは「大将」と呼ばれるほど立派な人間でもないし、またいかにもそれらしい風貌をしているわけでもない。 「大将」と言われて思い当たるのは、いかにも立派な白髪頭だけである。
とにかく、ぼくのことを「大将」と呼ぶ人は、圧倒的に年配の方が多い。 最近ボケ始めた、床屋のおばちゃんからもそう呼ばれている。 ぼくのほうが年下なのだから、「兄ちゃん」と呼んだほうがより自然である。 なのに、いつも「大将」なのだ。
ぼくは「大将」と聞くと、つい『ひみつのアッコちゃん』に出てくる大将を思い浮かべてしまう。 おそらく、ぼくと同じ世代の人の半分は、そう思うのではないだろうか。 ぼくは、その大将みたいに太ってはいないし、またデベソでもない。 いつも「大将」と呼ばれるたびに、アッコちゃんの大将を思い浮かべてしまうのだから、たまったものじゃない。
心の法則からすると、人は心に描いたとおりの人になるらしい。 このまま、「大将」と呼ばれてばかりいると、アッコちゃんの大将みたいになってしまうかもしれない。 頼むから、そういう余計な連想をしてしまう「大将」などという呼び名はやめてほしいものである。
はい、毎日日記を書いていることは書いているんです。 ただ、いつも朝に更新をやっているため、出勤する時間にあと数行足りないわけなんです。 中途半端なままで更新する気はないので、仕事が終わってから更新しなければなりません。 携帯で書くことも考えましたが、文字入力がしにくいし、全文を見渡すことが出来ないので、あえて使っておりません。 仮に携帯で日記を書き込むとしても、どうしても仕事が優先になるので、いいアイデアがあってもそこで途切れてしまうでしょう。
じゃあ、毎日書かずに、書ける時に書けばいいじゃないか、という意見も出てくるでしょう。 しかし、ぼくの性格上、それをやるとまったく書かなくなるだろうから、それは出来ないんです。 まあ、あまり人様に見られているようなサイトじゃないので、書いても書かなくても何ら問題はないでしょう。 だけど、ぼくの生活の上で日記を書く行為が、大変大きなウエイトを占めてしまっているのです。 そのため、今、日記を放り出してしまうと、ぼくの存在価値がなくなってしまうようで怖いんです。 もし、日記を書かなくなった時は、他に何か興味を惹かれるものに出会った時でしかありえません。 とはいえ、この先、日記以外に興味を惹かれるものはあるとは思えません。 だから、この日記に関しては、昏睡状態になって書けなくなる日まで、更新が遅れることがあっても、何とか続けようと思っています。
ということで、○○さん。 ぼくが日記を書けなくなるその日まで、お付き合い下さいませ。
その頃から、「朝シャン」という言葉が流行りだした。 その言葉に乗ったわけではないが、ぼくは朝と夜、毎日二度頭を洗うようになった。 理由は痒みではない。 臭みである。 何となく頭が臭いような気がするのだ。 今考えると、夜洗った頭が朝臭くなるわけがないのだから、その当時ちょっとした神経症に陥っていたのかもしれない。 とにかくそれから何年間か、その状態が続いた。
ところがそのせいで、余計な副産物を生む結果となった。 副産物、それは白髪である。 ぼくは元々髪質が堅いためか、社会に出た頃から若干の白髪があった。 しかし、そう目立つほどもなかった。 その数が急に増えたのは、朝シャン時代だった。 当時は、「毎日頭を清潔にしているのに、何で白髪が増えるのだろう? もしかしたら、まだまだ洗い方が足らんのかもしれん」と思いせっせとシャンプーを繰り返していた。 シャンプーが髪の健康に悪いと知ったのは、30代後半である。 自分勝手な思い込みが、白髪進度を加速させていったと言えるだろう。 その結果、20代後半でブラックジャック状態になり、若い子から「白髪じじい」などとあだ名されるようになってしまった。
髪の健康について考えるようになったのは、30代後半からだった。 ある人から、「頭は石鹸で洗った方がいいよ」と言われたことによる。 その人はぼくより年上だったが、髪が黒々として、しかもツヤがあった。 その当時のぼくはと言えば、すでに黒髪よりも白髪のほうが多くなっており、枝毛も多く、ツヤもなく、健康とはほど遠い髪の状態だった。 そこで、その人から言われたとおり、石鹸で頭を洗ってみた。 ところが、石鹸で洗うと髪がギシギシし、指が通らない。 「これは石鹸のせいか」と思い、石鹸について勉強することとなった。 いろいろ文献を読みあさったあげく、行き着いたのが『シャボン玉石けん』だった。
それ以降、ずっと『シャボン玉石けん』を使っている。 おかげで、白髪は相変わらずだが、髪にはツヤが戻り、枝毛もなくなった。 しかし、石鹸で頭を洗うと、問題がなくはない。 それは、「石鹸カス」である。 頭を洗った後、しばらくして頭を触ると、白いカスが落ちてくる。 最初はフケかと思っていたが、ものの本を読むと、どうやらそれは「石鹸カス」だということがわかった。 それを防ぐには二度洗いしないとならない、と書いていた。 物臭なぼくにとって、二度洗いは面倒である。 しかし、客商売をやっているため、フケが落ちて不潔だというイメージをお客に与えるわけにはいかない。 そこで渋々二度洗いを決行している。 ということで、中学の頃まったく洗わなかった髪は、3日に一度、2日に一度、1日二度という時代を得て、今は2日に一度(しかも二度洗い)時代である。
それから社会に出るまで、髪を洗うのは2日に一度のペースを守った。 東京に出てから、バイトの関係で週に一度しか銭湯に行けないこともあったが、髪だけは洗うようにしていた。
社会に出てからも、しばらくはそのペースが続いた。 ところが、ある日、髪を洗うことが許されない事件がおきた。 その前日、飲み会があったために、風呂に入るのが朝になってしまった。 その日は頭を洗う日になっていたので、ぼくは時間を気にしながら慌てて頭を洗った。 それがあだになった。 髪を洗った分、時間が遅くなったため、駅に着いたのは、電車の発車時間ギリギリのところだった。 ぼくは急いで、駅前の歩道橋を駆け上り、そして駆け下りようとした。 が、勢い余って足がもつれてしまった。 このままでは倒れてしまう。 「何かつかむものはないか?」 と、そこに手すりが見えた。 そこで、とっさに手すりをつかもうとした。 ところが、バランスを崩してしまい、頭から手すりに突っ込んでしまった。 ちょっと前に頭を洗ったばかりだったので、まだ皮膚がふやけていたのだろう。 手すりで打ったところが、ばっさりと切れてしまった。 会社に着いてから病院に行ったのだが、そこで5針縫う羽目になった。 縫合した後、医者から「抜糸するまで頭は洗わないで下さい」と言われた。
その事件が起こったのは、残暑の厳しさが残る9月のことだった。 そのため、地獄を味わうことになる。 さすがにその日は風呂に入る気もしなかったが、翌日から、髪の毛に着いたままになっている血糊と汗のせいで、だんだん頭が痒くなっていった。 傷口が治るにつれ、患部も痒くなっていく。 かといって頭を洗うことは出来ない。 3日目で、すでにのたうち回っていた。 風呂に入ると痒みがひどくなるため、4日目は風呂に入らなかった。 5日目、ついにピークを迎えた。 もはやぼくには、痒みを我慢するだけの精神力は残ってなかった。 頭を洗ってしまったのだ。 とはいえ、さすがに患部を洗う勇気はなかった。 おかげで痒みは半減したものの、患部の痒みがクローズアップされることとなった。 6日目、抜糸前日である。 その日は風呂に入らなかった。 7日目、ついに抜糸である。 抜糸後、医者から「今日から思いっきり頭を洗ってもいいですよ」と言われた。 家に帰ってから、医者に言われたとおりに、思い切り頭を洗った。 これで患部付近に残っていた血糊もきれいさっぱりに落ち、痒みから解放された。
今からもう22年前の話であるが、いまだにその時の痒みのイメージが鮮明に残っているくらいだから、よっぽど痒かったのだろう。 それからぼくは、そのイメージと闘うがごとく、毎日頭を洗うようになった。
中学2年の頃、ぼくはあまり頭を洗ったことがなく、たまに床屋で洗ってもらう程度だった。 その床屋のおばちゃんは、頭を洗う時、決まって「痒いとこあるね?」と聞いてきた。 そこでぼくは「全部痒い」と答えていた。 自分ではわからなかったが、頭の臭いもかなりきつかったようで、よく女子から「しんた君、頭洗いよらんやろ?」と言われていた。 なぜ、頭を洗わなかったか? それは面倒くさかったからである。
そんなある日、母がトニックシャンプーという物を買ってきた。 それまでヘアトニックすらつけたことがなかったから、「トニック」という言葉に大いに興味を持った。 で、さっそくその日、そのシャンプーを使ってみることにした。 シャンプーを手に取り、頭をゴシゴシやった。 その途端、それまでに味わったことのない爽快感が、頭全体を包んだ。 それ以来、そのトニックシャンプーが病みつきになってしまった。 とはいえ、頭を洗うのは3日に一度程度だった。 気持ちはいいものの、相変わらず頭を洗うのが面倒なのだ。
2日に一度のペースになったのは、高校に入ってからだった。 そのペースに変えたのは、運動部に入ったせいで頻繁に汗をかくようになったことと、若干しゃれっ気が出てきたことによる。 その頃にはシャンプーに加え、リンスも使うようになっていた。 トニックシャンプーの姉妹品、トニックリンスが発売されたからだ。 ただ、使い始めには戸惑ったものだった。 適量がわからない。 多めにつけると、何度洗い流してもぬるぬるが取れない。 かといって少なめでやると、使った気がしない。 また、説明書きには、「トニックとしても使えますので、その場合は洗い流さないで下さい」などと書いてある。 それを真に受けて、学校の行きがけに、たっぷりとトニックリンスをつけたものだから、バスの中でリンスが垂れてきたこともある。 それに懲りて、そのリンスをトニック代わりにするのはやめ、ブラバスやエロイカといった正当のヘアトニックを使うようになった。
5年ほど前の話だが、関西から引っ越してきたという女性のお客を相手にしたことがある。 そのお客はすごい服装のセンスの持ち主で、およそファッションに疎いぼくが見ても笑えるような格好をしていた。
そのお客、関西にいたことが自慢らしく、何かにつけ「九州は田舎やねえ。関西なら…」と言うのだ。 その時、ぼくは「まあ、関西の人が見たら九州は田舎に見えるだろうけど、あんたの格好を見て誰が都会の人と思うだろうか」と思ったものだった。
都会についてだが、ぼくは北九州市のことを、政令指定都市だからといって、別に都会だとは思っていない。 かと言って、田舎だとも思っていない。 福岡市にしても同じである。 まあ、確かに福岡市のほうが、北九州市よりもビルも多いし街も整備されている。 が、それだけで都会とは思えない。
ぼくは東京にいたことがあるが、その時「おれは都会に住んでいるんだ」という意識など一切持たなかった。 何ら北九州での生活と変らなかったからである。 確かに大きなビルがたくさんあったが、それはあくまでも景観にすぎないと思っていた。 現にそういうビル群を東京の人がすべて活用しているのかと言えば、そうではないはずだからだ。 交通網も発達していたが、あれだけの人口を抱える土地だから、移動手段としてそれは必然のものであると思っていた。 一般的に、こういうものを都会の尺度としているから、「ここは田舎やねえ」などという、わけのわからない差別心を持ってしまうのだ。
大きなビルや交通網が都会の尺度になるとするなら、ニューヨークに比べると東京もずいぶん田舎だということになる。 関西も東京に比べれば、ずいぶん田舎だということになる。 都会と田舎、それはあくまでも相対的な見方や感じ方にすぎず、「これが都会だ」「これが田舎だ」という絶対的なものがあるのではない。 ぼくの見方や感じ方からすれば、その時々の便利を満たしてくれさえすれば、どこに住んでいても、そこは都会である。
さて、冒頭の関西出身の都会女だが、その後北九州に不便さがないことに気づいたのか、「田舎やねえ」などとは口走らなくなった。 しかし、ファッションセンスは相変わらずである。
毎日50件以上のメールを受け取っている。 今日、ちょっとその整理をしていたのだが、そのほとんどがメールマガジンである。 メーカーやプロバイダから送られてくるもの、マスコミから送られてくるもの、個人で発行しているものなどいろいろある。 そこに書かれているものは、この日記の文字量のおよそ2倍はある。 よくまあこんなに文章を書けるものだ。 特に毎日発信しているメルマガには感心してしまう。 それだけの情報元を持っているのだろう。 うらやましい。
ところで、ぼくはこういうメールマガジンをすべて読んでいるのかと言えば、そうではない。 最初の頃こそ一字一句読んでいたのだが、量が増えてくるにつれだんだん読まなくなっていった。 で、今はほとんど読んでいない。 読んでいるものといえば、プロバイダからの重要メールと、VECTORの新作ソフトや更新の情報くらいだ。
じゃあ、読むものだけ取るようにすればいいじゃないか、と思われるだろうが、そうなるとちょっと難しい。 なぜなら、メルマガをとる条件で利用しているサービスもあり、今となってはそれがどのメルマガだったのかわからなくなっている。 むやみにやめてしまうと、そのサービスが利用できなくなる恐れがあるからだ。
そういえば、以前すべてのメルマガをやめたことがあるのだが、そのときの寂しさといったらなかった。 やはり、メールソフトを開いたときは、少しでも賑やかなほうがいい。
今朝、6時起きで日記を頑張って書いた。 が、新聞を読んだり、昨日の本の続きを読んだりで、ぜんぜん集中出来ない。 それでもぼちぼち書いていると、次第に行も埋まっていった。 「さあ、あと一歩だ」 と何気なく時計を見ると、もう8時半になっていた。 出社まであと30分。 その30分で食事をして、トイレに入って、ひげを剃って、顔を洗わなければならない。
「あと少しだから、日記のほうは何とかなるだろう」 という甘い読みで、先に出勤の準備に取りかかった。 ところが、トイレのところでつまずいてしまった。 出ないのだ。 焦れば焦るだけ、遠のいていく。 トイレを出るまで、何と15分を費やしてしまった。 慌ててひげを剃り、顔を洗ったのだが、残りはあと5分になってしまった。 このままでは、日記が書けない。 「どうしようか」 と、いろいろ迷ったあげく、ぼくはパソコンの電源を落としてしまった。 万事休すである。
ということで、昨日の日記は、何と翌日の夜更新することになった。 ところが、慣れない早起きをしたため、晩飯が終わるとそのまま眠ってしまったのだ。 目が覚めると、日付が変っていた。 ということで、昨日の日記は翌々日に更新する羽目になった。 この日記を書き出して、過去翌日に更新したことは何度もあるが、翌々日というのは初めてである。 これが癖になったらどうしよう。
先日、知り合いの人からお祝いをもらった。 どういうお祝いか、またどういうものをもらったかは、ここでは書かないが、とにかくお祝いなのだ。
ぼくは元々お祝いなどをもらうのが嫌である。 分不相応というか、そんなものをもらうほど人間は出来ていない。
しかも、お祝いをもらえばお礼を言わなくてはならない。 これが苦手なのだ。 いつも「ありがとうございました」と言っている職業に就いているので、お礼を言うことは慣れているだろうと思われがちだが、私生活に関してはそうではない。 普段知っている人にお礼など、なかなか言えるものではない。 第一、照れるじゃないか。
次に、お祝いをもらったらお返しをしなければならない。 これがまた苦手である。 ありきたりのものをお返しするのは、ぼくの主義に反している。 「ああ、これは便利だ」と思われるものをお返しとして選ぶため、時間がかかってしまうのだ。
お返しを買ったあとは、先方に行って渡してこなければならない。 元々出不精なので、これも苦手である。 宅急便などで送れば何ということはないが、贈答ではなくてお祝いのお返しなのだ。 多少遠くても持って行くのが筋である。
ということで、今日はお返しを買いに行き、その足で先方に伺おうと思っていた。 先方は夜しかいないので、夕方からデパートに行くことにした。
デパートの着いてみると、駐車場は満車状態だった。 「平日なのに多いなあ。さすが師走だ」などと思っていたら、それもそのはず、今日はお得意様招待セールをやっていたのだ。 店内はかなりの人出で賑わっている。 そのため、どこの売場に行っても、満足に品定め出来ない。 しかたなく、いったんデパートを出て、別館のほうに行った。 そこにはインテリア商品が置いてある。
別館は8階建てで、4階までは本や文具関係を置いてある。 インテリア関係はそれから上の階にある。 ぼくは4階まではよく利用するのだが、5階以上の階に行ったのは今日が初めてだった。 初めてなので当然期待が膨らむ。
そこには家具やインテリア商品が整然と並べられていた。 ところが、その値段を見て驚いた。 ちょっとした小物が3万円以上もする。 勉強机は安いもので10万円台。 テレビ台の価格が25万円、もはや液晶テレビ並みの値段である。 まさに「お呼びでない」という世界だった。 ぼくはそそくさとその店を後にした。
ということで、今日はお返しを買うのを断念した。 今度またゆっくりした時に、ゆっくり品定めをすることにしよう。
さて、そういう懐かしいアーティストの数ある曲の中で、ぼくが注目している一つの曲がある。 それが上に書いたボブ・ディランの『北国の少女』である。 一般にあまり知られてない曲なのだが、この曲の歌詞の一部がある有名なアーティストの、有名な曲に使われている。 「She once was a true love of mine」 これを書いてピンとくる方は、かなりのS&G通だろう。 そう、この歌詞はS&Gのあの『スカボロ・フェアー』で使われているのだ。 後にディランが、S&Gの『ボクサー』を歌っているくらいだから、何らかの接点があるのだと思う。
ところで、上の『北国の少女』は、ぼくが学生時代に訳したものである。 当時は詩の勉強の意味で、よくビートルズやディランの訳詞をやっていたものだ。 まあ、ビートルズのほうは訳詩集なんかが出ていたせいで、訳の参考にすることができた。 ところが、ディランのほうは訳詩集もなく、頼りになるのがレコードの歌詞集だけだった。 しかし、この歌詞集の訳だと、あまりに言葉が飛びすぎて大変わかりづらい。 英語圏に住む人しか理解出来ないことを、むりやり日本語に訳しているのだから、とうてい理解出来ない。 結局、その訳詞を見た時点で、突飛な歌詞の訳は避けることにした。 まあ、そういった詩は、ディランがレコーディングに間に合わすためにタクシーの中で走り書きしたものが多いらしいから、別に訳しても何の意味もなかったと言える。 やはり、ディランの詩は初期のフォーク時代のほうが、意味も通じるし、日本語の詩として体裁が整えやすかったので、その時期のものが中心になった。
そういった訳詞は、ほとんどが消失している。 上の『北国の少女』も、探しまくってやっとノートの端っこに書いてあったものを見つけたしだいである。。 あと残っているものといえば、ディランものでは『くよくよするなよ』や『いつもの朝に』他数編だけだ。 このへんも機会があったら、ここに書いてみたいと思っている。
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