7月31日午前11頃だった。 後ろの方から「しんたさん、バケツ持ってきてっ!!」という声がした。 何事かと振り向くと、ぼくの売場の並びにある化粧品コーナーが大変なことになっていた。 天井のいたる所から水がジャージャーと、滝のごとくに落ちているのだ。 床は当然水浸しになっている。
ぼくは思わず外を見た。 先々週の大雨の時も、この売場はやられている。 その大雨の再来かと思ったのだ。 ところが、外は真夏の日差しがいっぱいに照りつけている。 「では、何の水漏れなのか?」 そんなことを考える暇はなかった。 自然とぼくの体は倉庫に向かっていた。 モップを取りに行ったのである。 改装前は、何度もぼくの売場が被害に遭っていた。 そのため、倉庫のどこに何があるかということは充分に把握している。 モップ、水切りモップ、ほうき、ちりとりなど、そこにあるもの全部を化粧品コーナーに持って行った。
それらの掃除用具を化粧品コーナーに置くと、ぼくは再び倉庫に走った。 化粧品コーナーの照明を切りに行ったのだ。 すでに照明器具の中に水が進入しており、蛍光灯がついたり消えたりしていた。 このままでは漏電してしまう。 ところが、配電盤のどこを切っていいのかわからない。 とりあえず、ここにレジの電源があるから、並びから言ってここだろうと、当てずっぽにスイッチを切ってみた。 が、外れだった。 他の売場の電気を消してしまった。 もう一度挑戦した。 今度は正解だった。
次にぼくは、こういう日のために用意しておいた秘密兵器、バキュームクリーナーを取りに行った。 昨年購入したこの機械は、雨が降るたびに水に浸るバックヤードで、その力を遺憾なく発揮した。 4月の改装で、ぼくの売場のバックヤードが閉鎖されたため、4ヶ月近くも男子更衣室のロッカーの上に眠っていた。 久しぶりの始動である。 ぼくは、けっこう重量のあるバキュームクリーナーを急いで下ろし、売場まで持って行った。 ところがここで困ったことが起きた。 コンセントがない。 いや、あることはあるのだが、水浸しになる可能性があるようなコンセントは使えない。 他の場所を探した。 3メートルほど離れたところに一つあった。 コードが足りるかと思ったが、さすがに緊急時用のクリーナーである。 かなり長いコードが付いている。 関係者、野次馬など、かなりの数のギャラリーが売場周りに集まっている。 ぼくは、そのギャラリー達の目の前で、「バキュームクリーナーの威力を見よ」とばかりにスイッチを入れた。 人々の目がバキュームクリーナーに集まる。 バキュームクリーナーは期待通りに水を吸い取る。 その感触が手に伝わる。 まさに快感である。
会社に行く準備をしている時だった。 ふと鏡を見ていると、鼻毛の先が出ている。 ハサミを持ってきて、さっそく処理したのだが、この鼻毛なかなか手強くうまく切れない。 「何で、時間のない時に限って、こんなのが出てくるんか!」 数分間、これにかかり切りだったが、結局イライラが募るばかりで、埒が明かない。 しかたなく、「会社に行ってから処理しよう」ということにして、いったん除去作業を打ち切った。 ところが、会社に向かう車中でも、鼻毛が気になってしかたない。 何度も何度もルームミラーをのぞき込んでいた。
さて、会社に着いてから愕然とした。 鼻毛処理用のハサミを、家に忘れてきたのだ。 しかたがないので、そのへんのあったハサミを持ってきてやってみた。 が、ぜんぜんだめである。 専用の細かいハサミでさえ切れないものが、工作で使うような大雑把なハサミで切れるはずがない。 結局、何もせずに一日を過ごした。 家に帰ってから、専用のハサミで心ゆくまで鼻毛を切っていた。 ということで、今日は人に会うのが嫌な一日であった。
かつて、北九州は大気汚染に悩まされていた。 その頃は、ぼくの鼻毛も伸びるのが早かった。 「えっ、この間処理したばかりなのに、もう出てきた!」、という経験を何度もしたものだ。 それも1本や2本ならともかく、数本が束になって出てくるのである。 家にいる時に気づけばハサミで処理するのだが、例えば出先などで気づいた時は、もう抜くしか方法はなかった。 ところが、ぼくは鼻の中の皮膚が弱いせいで、いつも炎症を起こす。 炎症を起こすと、すぐに首のあたりのリンパが腫れる。 そのためにいつも熱っぽく、気分が晴れなかったものである。
その後、何かの本に「鼻毛を抜いてはいけない」と書いていたのを見て、ぼくは鼻毛を抜くことを止めた。 その代わりに鼻毛カッターなるもの利用することにした。 しかし、この鼻毛カッター、鼻の皮膚が弱いぼくには不向きだった。 使った後にヒリヒリするのだ。 もし、そのために炎症など起こしたら、抜くのを止めた意味がない。 さらに刈った後の毛は鼻の中に残るので、後の処理に時間がかかったものである。 そのため、買ってからしばらくは使っていたが、電池が切れると同時に使わなくなった。 それ以降は、ずっと鼻毛用のハサミを使っている。
ちなみに、使わなくなった鼻毛カッターだが、今も実家のどこかに眠っているはずである。 もう錆びているだろうけど、まだ使えるとは思う。 もし欲しい人がいたら、抽選で一名様にさしあげます。
梅雨明けして4日目、またもや大雨だった。 別段暑くない毎日といい、梅雨明け宣言は、いったい何だったのだろう。 8月に入ると、台風シーズンも到来することだし、今年の夏は本当に大丈夫なのだろうかという気がしてくる。
ところで、ぼくは夏になるといつも楽しみにしていることがある。 それは休みの日の午前中にする、森林浴である。 近くの貯水池を散策するのだ。 午前中と言っても、真夏時はすでに暑い。 そのため、散策し始めてすぐに汗だくになるのだが、木陰に入るとひんやりとした風が吹き、実に心地いいものである。 池の周り6キロほどの小径を散策すると、気分的にもすっきりするし、散策後のビールがことのほかおいしい。
ところが、今日のように雨が降ると、その楽しみを奪われる。 外に出るのも億劫になるから、もう一眠りしようかということになってしまう。 気がつくともう午後である。 その時点で、気分的に休みは終わりなのだ。 午後になると、明日の準備をしなくてはならない。 また最近では、今日を終えるために、日記のネタを考えるという作業まで加わった。 ここでぼくは声を聞く。 「せっかくの休みだし、日記3日分くらい書きだめしておいたらどうか」 『せっかくの休みを、日記に奪われていいのか?』 「もっと他のことを書いてみてはどうだろう」 『もっと他にやることあるだろう』 「本の感想でもいい」 『本も読めないじゃないか』 「もうすぐ日記も1000回目になる。もう少し頑張れ」 『一日ぐらい日記を休んでも、体勢に影響はない。どうせ大したサイトでもないんだし』 などと、神と悪魔が交互にぼくに語りかけてくる。 ぼくは、そういう言葉の板挟みになって、悩んでしまう。 結局は、神の声に押され、ぼくは日記を書いているのだが。 あ、もしかしたら、それが悪魔の声かも…。
とにかく、雨が降るとやることがない。 気はくさくさするし、ギターを弾く気にもならない。 元々掃除などをする人間ではないのに、そういう日に限って「掃除でもやるか」などという気が起きる。 パソコン周りを整理して、床に落ちているタバコの灰や、そのへんに散らばっている本やCDを片つけて、掃除機をかける計画を立てる。 だが、いつも途中で挫折してしまう。 今日も、そういう気持ちになることはなったが、結局何もやらなかった。
ということで、今、一日の仕上げである日記を書いている。 ま、朝の更新になることが多いこの頃は、仕上げというより、一日の始まりになっているのではあるが。
ネズミが嫌いということは書いたが、そのついでにぼくの嫌いな物を羅列しておく。
【病院】 嫌いと言ってすぐに思い出すのは、言うまでもなく病院である。 これはエッセイなどにも書いているので、別に説明の必要もないだろう。 で、病院のどこが嫌いなのかといえば、すべてである。 病院の臭いが嫌いである。 注射が嫌いである。 薬が嫌いである。 医者が嫌いである。 看護婦が嫌いである。 ・・・である。
【ピースご飯】 次に、食べ物で嫌いなものはといえば、これも前に書いたことのあるピースご飯である。 炊きあがった時の臭いといい、食感といい、あんなに人を小バカにした料理はない。 だいたいご飯というのは、あのネチャッとした歯ごたえを楽しむものである。 そこにグリーンピースのような、歯ごたえのない物が混ざっていると、楽しさも美味しさもなくなってしまう。 ま、これに反論されても困るので、ぼくだけの感じ方だと言っておこう。
【ゴルフ】 スポーツではゴルフ。 前の会社にいた時、それまで無趣味だった同期の男が、急にゴルフを始めた。 本人は「前から興味があった」などと言っていたが、その男の興味はゴルフにあったのではなかった。 上司の嗜好に合わせることに興味を持っていたのだ。 彼のごますりは露骨だった。 上司の言われるままに動いていた。 だから受けは抜群によかった。 ひねくれ者のしんたをはじめ、同期の者を尻目に、彼はドンドン出世していった。 でも、こういう奴は下から嫌われる。 彼の部下から、何度もグチを聞かされたものである。 元々ゴルフに興味のないぼくだったが、この男のせいで嫌いになった。 もちろん、ぼくはゴルフをやらない。
【日曜日の午後3時半頃】 野球シーズンの日曜日の昼間は、KBC(九州朝日放送)ラジオで野球中継をやっている。 ところが、3時半頃になると、突然「ここから○分間、競馬中継をお送りします」というアナウンスが入り、野球中継が中断される。 この間の、ダイエーが安打数の日本記録を作った時にも中断された。 この秋、もし日曜日のその時間帯で、ダイエーの優勝が決まるとしても、KBCは競馬中継をやるのだろうか。 もしもそうなら、ダイエーファンとして断固抗議する。 実に迷惑な話である。 だいたい競馬なんかは、結果を言えば事足りるのである。 わざわざ中継なんかする必要はないじゃないか。
【パチンコ屋】 元々ぼくはギャンブルに興味がない。 前の会社にいる時、電車の時間待ちでパチンコをやったことがあるが、目の色を変えてやっていたわけではなく、ゲーム感覚でやっていたのだった。 だから、勝っても負けても、せいぜい千円止まり。 それ以上の欲が沸かないのだ。 前の会社を辞めてからは、まったくパチンコ屋には足を運んでいない。 そのパチンコ屋に嫌悪感を抱くのにはわけがある。 ぼくの住んでいる地区には、大きなパチンコ屋が5店建っている。 仕事の行き帰りや、買い物に行く時には、必ずその前を通らなければならない。 ところが、パチンコ屋から出入りする車のマナーが、まったくなってないのである。 パチンコ屋に入る車は車間も考えずに割り込んでくるし、駐車場から出てくる車は左右を確認せずに飛び出してくる。 「何で、遊んでいる奴らのために、こちらがヒヤヒヤしなければならんとか!?」 ぼくはパチンコ屋の前を通るたびに、パチンコ屋から出てくる車を睨み付けている。 もちろん、入れてあげない。
さて、最後に気がついたことがある。 今日の日記を書いていて、何かしっくり来ないものがある。 「何だろう?」といろいろ考えていたのだが、それがようやくわかった。 それは『嫌い』という言葉にあった。 北九州の人間は、日常『嫌い』という言葉をあまり使わない。 例えば、取引先のTという人間が嫌いだとする。 その時「Tさんは嫌いだ」とは言わない。 では何と言うか? 「Tさんは好かん」と言うのだ。 「嫌いだから、来ないでほしい」ではなく、「好かんけ、来んでほしい」である。 『嫌い』だと、何か冷たい感じがする。 一方の『好かん』のほうは、少しは温もりがある。 ということで、『嫌い』を全部『好かん』に訂正しようかと思ったが、面倒なことは好かんからやめておく。
2003年07月27日(日) |
ねずみ通り15番地 後編 |
それからしばらくの間、ぼくはネズミ恐怖症に襲われた。 家に入るのに怯え、ガサッという音に怯えた。 その後、駆除したせいで、家の中でネズミを見ることはなかった。 が、それでも心休まることはなかった。
再びネズミにお目にかかったのは、ずっと後のこと。 社会に出てからだった。 小倉の旦過市場付近の屋台でラーメンを食べている時、体長50センチほどの生き物がウロウロしているのが見えた。 一瞬、ぼくは固まった。 ラーメン屋の親父に、「あれは何ですか?」と尋ねると、親父は「ああ、あれはドブネズミ。大きいやろ」と言う。 何でも、市場に住んでいるせいで、食べ物に不自由せず、あそこまで大きくなったとのことだった。 小学生の頃の記憶がよみがえる。 さすがに、ネズミ恐怖症に陥ることはなかったが、それでも数日間はその大きなネズミの姿が目に焼き付いて離れなかった。
話は戻る。 ぼくは嫌々ながら、休憩室に向かった。 「しんたさん、そこです」 見ると、小さなネズミがいた。 生まれたばかりだろうか、目も開いてない状態だった。 しかし、一人前にネズミ色の毛が生えていた。 どうしたものか、と思ったが、このままにしておくわけにはいかない。 ぼくは休憩室をいったん出て、倉庫に段ボールを取りに行った。 戻ってから、そこにあった割り箸を手に持ち、恐る恐る子ネズミをつまんだ。 プニュっという感触がして気味が悪い。 そして、持ってきた段ボールの切れ端に子ネズミを移し、そのまま外に捨てに行った。 途中風にあおられ、子ネズミがアスファルトの地面に落ちた。 痛かったのだろう。 悶えている。 しかし、ぼくは情を殺し、店の前にある土手に子ネズミを捨てた。
ぼくが売場に戻って、ホッとしたのもつかの間。 数分後、また電話がかかった。 もう一匹出たとのことだった。 再びぼくは、休憩室に向かった。 今度は店長がいた。 ぼくは店長が始末してくれるものと、内心ホッとした。 店長はティッシュを何枚か取った。 そのままつかんで捨てるのかと思いきや、そのティッシュをぼくに渡した。 ぼくにつかめというのだ。 もうどうにでもなれという気になった。 ぼくはティッシュを受け取り、子ネズミをつかんだ。 箸でつまんだ時より鮮明にプニュ感が伝わる。 そして、またさっきの場所に捨てに行った。
この子ネズミも、捨てたのは店の前にある土手だった。 そこに捨てた理由は、そこにある豊富な植物と水気で、もしかしたら生き延びるかもしれない、と思ったからである。 しかし、目も開いてないことだし、鳥や昆虫に襲われて死ぬことも考えられる。 なぜか、「悪いことをした」と懺悔の気持ちになった。
ネズミをティッシュを通してだがつかんだ時には、すでに恐怖心などはなかった。 しかし、これでネズミ恐怖症は克服されたのだろうか? その問には、クエスチョンマークがつく。 家で走り回られると、やはり怖いに違いない。
2003年07月26日(土) |
ねずみ通り15番地 前編 |
『ねずみ通り15番地』 ― 部屋の灯りが消える おれたちの世界が始まる
小さな穴から抜け出して 大きな箱を横切って 台所の街まで急ぐんだ 寝坊したらお終いだ もうご馳走は残ってない 今日一日は飯抜きだ ここはおれたちの天国 ねずみ通り15番地
ところでメリーはおれの生きがい みんなが彼女を狙っている 彼女の家は戸棚の向こう 犬の遠吠えが激しくなると そろそろメリーのお出ましだ みんな彼女のご機嫌をとる ここはおれたちの天国 ねずみ通り15番地
ホントは誰もメリーを愛してないんだ ただ、彼女と一発やりたいだけ。
― でも、おれの愛は本物だ ここはおれたちの天国 ねずみ通り15番地
我ながら、実に楽しい詩だと思っている。 高校3年の時に書いたものである。 ネズミに、プラトニックな自分の気持ちを託したのだ。 実はここにイメージするネズミは、ネズミであってネズミではない。 『トムとジェリー』のジェリーである。 そう、マンガ化されたネズミである。 ぼくの中にある本物のネズミ像は、こんなにかわいいものではない。
売場に立っている時だった。 携帯電話が鳴った。 誰からだろうと見てみると、その時間食事に行っている、うちの部署の子からだった。 「しんたさん、今、休憩室に、ネズミの赤ちゃんがいるんですよ」 「え、ネズミ? 早く外に捨てるか殺すかせんと、後々大変なことになるぞ」 「それが、ここにいる人、誰も触れないんですよ」 「触れる奴なんかおらんやろ。箸かなんかでつまんで、外に捨てたらいいやろ」 「でも…、かわいいですよ」 「かわいいとか言うとる暇はないやろ」
要はぼくに退治してくれと言ってきたのだ。 ぼくはこれまで、スズメバチ、ムカデ、ゴキブリなど、人が嫌がる虫を退治したことがある。 また、益虫と言われるトンボや蜘蛛は、手づかみで外に逃がしたりしてきた。 店の中に迷い込んだ鳩にも、はたまた犬の糞にも、勇敢(?)に立ち向かってきた。 そういう実績を見込んで、ぼくに言ってきたのだろう。 しかし、そんなぼくにもだめなものがあるのだ。 その最たるものが、ネズミである。
小学6年のある日のこと。 学校から戻り、家の中に入った時だった。 突然、ガサッと言ういう音が聞こえた。 音のする方を見てみると、一匹の大きなネズミが走り回っていた。 ぼくが入ってくると、ネズミは立ち止まり、じっとこちらを凝視した。 そのとたん、ぼくは固まってしまった。 生まれて初めて見るネズミは、想像した以上に大きく、想像した以上に汚い。 「どうしよう?」という思考より、「怖い!」という感情が先に立った。 胸はドキドキ、足はワナワナしだした。 なすすべもなく、ぼくはしばらくそこに立ちつくしていた。 が、そのままでは何も出来ない。 そこで、ぼくは猫の鳴き真似をした。 ところが、ネズミは動じない。 何か物を投げようと思ったが、近くに何もなかった。 しかたなく、ぼくはネズミが去るのを待った。 ようやくネズミが動いたのは、それから10分ほど経ってからだった。 その後も、ぼくは震えが止まらなかった。
今、半病人状態である。 右側の背中から首にかけて、かなり痛みが走っている。 おそらく、背骨のどこかがずれたのだろう。 首を動かすと痛い。 腕を動かすと痛い。 当然、マウスやキーボードを扱うのが辛い。
今日は朝からこの状態で、寝たり起きたりしていた。 体を動かさないのがいけないのだと思い、ラジオ体操やストレッチを繰り返してみたが、一向に良くなる気配がない。
ガソリンがE付近までになっていたので、ガソリンを入れに行かなければならないし、そのガソリン代がなかったので、お金を下ろしに銀行にも行かなければならない。 車を運転するだけだから、別に大した労力は使わないし、そう時間のかかることでもない。 しかし、どこか痛い時というのは、こんな大した労力を使わないことでも億劫になってくる。 痛みをかばうから動きはぎこちなくなり、腕が振れないから歩き方も変である。 変な人と思われないように、なるべく人とは目を合わさないようにしていた。
家に帰ってから寝ることにした。 自然矯正を期待したわけである。 寝ること1時間半。 起きてみると、あら不思議、痛みがなくなっているではないか。 立ち上がってみた。 調子がいい。 これで楽になったと思い、パソコンに向かった。 ところが、しばらくやっていると、また肩が痛くなってきた。 その痛みが、背中に走った。 首も痛い。 元に戻ったのである。
温浴療法も試みてみた。 ぬるま湯に長い時間浸かっていた。 これで筋肉や筋がほぐれ、痛みが半減するかもしれない。 風呂から上がると、期待通り痛みは半減した。 しかし、体が冷えてくるとまた痛みが復活する。 「今日はもうだめばい」 と諦めて、日記を書くことにした。
いったい何が原因で、こんなことになったのだろう。 おそらく、昨日の寝相のせいだろうと思う。 普段ぼくは、寝る前に、寝るための準備運動をしている。 その運動というのがラジオ体操であるが、それをやって寝ると、寝疲れしない。 そのおかげで、数週間前にあれだけ悩んでいた腰痛も、かなり緩和されたのだ。 ところが、昨日は酒を飲み過ぎたせいか、食事が終わると、すぐに横になってしまい、そのまま寝てしまった。 それがいけなかったのか、起きた時、腰に鈍い痛みがあった。 その痛みを変な姿勢でかばったために、背中に負担がかかり、骨がずれたのかもしれない。
さて、「今日はもうだめばい」と宣言したから、今日はこれで日記を終わることにしよう。 明日は早出だし、湿布を貼って、さっさと寝ることにしますわい。
昨日の夕方のことだ。 店の入口前に犬の糞が落ちていた。 二つ転がっていたようで、ぼくが気がついた時、一つの固まりにはもう何人かの人が踏んだあとがあった。 放っておくわけにはいかないので、ぼくはトイレットペーパーを持ってきて、まず踏まれてない固まりをわしづかみにし、トイレまで持って行った。 まだ少し温もりが残っているようで、何となく気持ち悪かった。
一方の踏まれたほうは、水を引っかけて、デッキブラシで磨こうと思った。 が、そのデッキブラシが見当たらない。 その代用となるような物もない。 しかたがないので、これもトイレットペーパーで拭くことにした。 店の前はレンガが敷いてあるのだが、その目地に入った糞がこびりついて取れない。 水を少しずつ流しながら、慎重にやったのだが、それでもだめだ。 しかも悪いことに、トイレットペーパーは水が染みこむと溶けていく。 指に水の感触がするたびに、指を臭っていた。 そのうち面倒になってきて、最後は水をバシャーっと流して終わりにした。
あとで話を聞くと、ぼくが糞に気がつく少し前に、大きな犬が入口付近にいたとのことだった。 飼い主がついていたらしい。 こういう場合、ちゃんと飼い主が始末をするのが筋ではないだろうか。 ペットを飼う人のマナーはなってないと、よく囁かれている。 自分が他の犬の糞を踏んだ時のことを考えてみろ、というのだ。 マナーの悪い人に限って自己中心的な人が多いから、きっと目くじらを立てて怒るだろう。 たちの悪い奴なら、慰謝料を請求してくるかもしれない。
そういえば、以前もこんなことがあった。 ある若い男性客が飼い猫を抱いて買い物にきていた。 そのお客が、ぼくの売場の前を通りかかった時である。 手が疲れたのか、猫を床におろしたのだ。 その瞬間だった。 猫は小便をした。 ぼくは、その光景を見ていたのだが、その客が慌ててポケットの中を探ったりしていたので、てっきり後始末をするものだと思っていた。 ところがである。 何と、そのお客はその猫を再び抱えて、こちらの方を睨み付け、その場を立ち去った。 追いかけて行って一言言ってやろうと思ったが、そのまま濡れた床を放っておくわけにもいかず、キッチンペーパーを持ってきて、拭き上げた。 そのお客はさっさと出て行ったようで、もう店の中にはいなかった。
まあ、ペットを連れてくる人すべてが、こんなマナーのない人たちではない。 中には、「すいません。犬がおしっこをしたので、何か拭く物貸して下さい」と言ってくる人もいる。 こちらが「手伝いましょうか」と言っても、「いいえ、うちの犬がやったことですから」とちゃんと自分で後始末をやっている。
ペットは人間性を映す鏡だとも言われる。 ペットに、己のマナーの悪さを語ってもらうのも、寂しいものである。
【べろーん】 明日、梅雨明けするという。 が、あいかわらずの雨である。 それにしても、今年の梅雨は雨が多すぎる。 先日テレビで、そのことの説明をしていた。 東シナ海方面で大陸と太平洋からの風が合流して湿気が集中、それが舌状に延びて、九州地区を覆ったために積乱雲が次々と発生し、今回のような大雨をもたらしたという。 そのことを専門用語で「湿舌(しつぜつ)」というのだそうだ。 九州は「べろーん」と舐められたというわけだ。
【坊ちゃん刈り】 さて、昨日は床屋に行った。 1ヶ月半ぶりになるだろうか。 ある人から「髪の長さがちょうど良くなったね」と言われたのが、たしか先々週だった。 それから一気に伸びた。 ぼくの髪は癖があって、髪が伸びると、まっすぐに下に降りずに、カーブを描きながら降りていく。 そのために、おひな様のように頭が膨らんだような形になる。 元々堅い髪質であるため、こうなると、どう手を施してもおひな様からは逃れられない。 ぼくが床屋に行く時というのは、そういう時である。
その前日、パソコンと格闘していたために、ほとんど寝てない。 そのせいもあって、床屋のいすに座り、「ちょっと短くして」と言うと同時に、ぼくは眠ってしまった。 途中「頭洗いますよ」などという声に目が覚めたものの、ほとんど寝ていた。 完全に目が覚めたのは、床屋の人から「はい、出来ました」と声をかけられた時だった。 目を開けてみると、鏡には、おひな様から坊ちゃん刈りに変化したしんたが映っていた。 「短くしすぎだ!」と思ったものの、もう取り返しがつかない。 今年のしんたの髪型夏バージョンは、坊ちゃん刈りで決まりとなった。
【契約の箱】 先日、アーメン系の保育園主催の祭があり、そこで御神輿を担いでいたということを書いた。 異質の文化が合流したような風景である。 が、実はここには深いつながりがあるのだ。 あの御神輿というものは、元々イスラエル(ユダヤ)人が持っていた『契約の箱』の名残だという説がある。 ということは、日本人とイスラエル人は、歴史のどこかで交流があったことになる。 『祇園』は『シオン』の訛ったものだとか、『太秦』はイエス・メシアを意味する『イシュ・マシャ』から来たとか、日本とユダヤの関係を暗示する言葉は、枚挙にいとまがないほどだと言われている。 風習にしても然りである。 神道行事はそのままユダヤの行事だとも言われている。 キリストは日本で死んでいるという説までも存在する。 あげくに、日本人は聖書の民だという説まで飛び出している。 もしこういうことがすべて本当ならば、アーメン系の保育園は、隠された日本人の歴史をかいま見せたことになる。 ま、このことは改めて書くことにしよう。
2003年07月22日(火) |
通勤風景に見る歴史 後編 |
黒崎を過ぎ、数分走ったところ右手に、帆柱連山がそびえている。 この帆柱というのも神功皇后ゆかりの地で、新羅征伐の際、この連山の杉を朝鮮半島に渡る船の帆柱に使ったという言い伝えがある。
その連山の一つに、花尾山というのがある。 ここは昔、山城があったところで、今も尚、その当時の井戸の跡や、階段が残っている。 高校時代、ぼくはよくこの山に登っていた。 階段がくせもので、細かい石がたくさん敷き詰めてある。 そのため、靴を履いて上っても足の裏が痛い。 昔は草鞋くらいしか履き物がなかったはず。 よくこの痛さを我慢出来たものだと思う。 よく友人と「その頃の人は、階段を上り下りするたびに、『痛いでござる』とか言いよったんかねえ」と、冗談を言ったものだった。
さらに進んで、左手に新日鐵八幡製鉄所がある。 日本史の教科書に、官営八幡製鉄所の溶鉱炉を建設中に撮った写真(下記参照)が掲載されているが、あの溶鉱炉、実はまだあるんです。 真っ白に化粧をされて、『1901』という看板がついている。 つまり、1901年創業というわけだ。 写真を見ればわかるが、その当時の写真には、溶鉱炉の他は何も写ってない。 まことに殺風景である。 まあ、九州の一寒村に、インフラ整備もないまま一大製鉄所が出来たのだから、それもしかたないことではあるが。 で、今はどうなっているかといえば、その上を都市高速が走り、その後ろをJRが走っている。 その差が百年の歴史である。
さて、その溶鉱炉の隣には、北九州市最大のテーマパーク、スペースワールドがある。 スペースキャンプが体験出来るというのが売りだったこのテーマパークも、今ではそのへんのテーマパークと同じくアトラクションでしかお客を呼べない状況になっている。 あいかわらずお客さんは多く入っているようだが、もしも予定通り県内にパラマウント映画のテーマパークが出来たら、終えてしまうだろう。 ぼくは会社帰り、いつもそこにあるアトラクションの一つである大観覧車を眺めている。 しかし、それを眺めてこころを癒やしているのではない。 この観覧車は、夜になると色とりどりのネオンがつくのだが、そのネオンがたまに所々切れていることがあるのだ。 それが気になって、つい眺めてしまう。 「あのネオンを付け替えるのは大変やろう」「脚立で上るんやろか」「落ちたら死ぬわい」などと思いながら、見入っている。
スペースワールドから先はバイパスを通っていく。 このバイパスは、ぼくが小学生の頃に開通した。 その頃の社会科の副読本『よい子の社会』には、そのことが誇らしげに書いてあった。 バイパスとはいうものの、曲がりくねって走りにくい道である。 しかし慣れとは恐ろしいもので、みんなここを時速80キロ以上出して走っている。 また、大型トラックなどが頻繁に走るため、水はけが悪くなっている。 雨の日は、決まって対向車線から跳ね飛んできて、一瞬何も見えなくなってしまうが、これが怖い。 その上、毎年交通量が増えているにもかかわらず、出来た当時からずっと片道二車線である。 土地がないといえばそれまでだが、主要幹線なのだから、何らかの手を打って欲しいものである。
さて、ぼくの家から会社までの所要時間はおよそ20分である。 今まで見てきたように、その20分の間に、千年以上の旅をしていることになる。 何気なく走っている道ではあるが、その歴史は実に重い。
ちなみに、ぼくの住んでいる場所であるが、源平の合戦の時、源氏側が平家を迎え撃つために立てた城があったという。 実際、壇ノ浦で敗れた平家が、ここまで落ち延びたどうかは知らない。
(官営八幡製鉄所)
2003年07月21日(月) |
通勤風景に見る歴史 前編 |
何気なく通っている通勤路だが、今日ふと、いろいろな歴史を持っているというのに気づいた。
家を出て、まず最初に目に映るのが洞海湾である。 昔は「洞海(くきのうみ)」と呼ばれたところで、その名は日本書紀にも見えている。 熊襲征伐の時、仲哀天皇は神功皇后を同行した。 その際、仲哀天皇は筑前芦屋(芦屋釜で有名である)の山鹿を経由し、神功皇后は洞海を経由して九州入りしたという。 日本書紀には載ってないが、その時、神功皇后が海の中で光るものを見つけた。 引き上げてみると、それは石であった。 神功皇后は丁重にその石をお祭りしたという。 それが、若松恵比寿神社のご神体だと言われている。
洞海湾から工場地帯に入っていく。 三菱マテリアル・三菱化学といった大工場を過ぎると、黒崎に入る。 この黒崎には、長崎街道の面影が残っている。 北九州プリンスホテルの横に、曲里の松並木という通りがあるのだが、そこがそうである。 江戸時代、下関から黒崎へ行く連絡船があった。 豊前に入らずに、直接筑前に入る船である。 太宰府などに行く場合は、そちらのほうが速い。 以前、小倉から黒崎まで歩いたことがあるのだが、およそ2時間かかった。 門司港からだと、3〜4時間は優にかかるだろう。 しかも、江戸時代は今みたいに道路の整備などされてなかっただろうし、国境には関所もあっただろうから、そんなに早く黒崎に着くことはなかったのではないだろうか。 船だとその時間が短縮される。 あの坂本龍馬もその船を利用したと、司馬遼太郎の『竜馬が行く』に書いてあった。
黒崎にはもう一つ歴史がある。 話は古代に戻る。 神武天皇が東征の際、拠点としたのが筑紫の国・岡水門(おかのみなと)である。 現在、この岡水門は、遠賀郡芦屋町にある岡湊神社のことというのが定説になっている。 しかし、黒崎の岡田神社という説もある。 ぼくはその説をとる。 なぜなら、神武天皇は豊前宇佐から登ってきたと言われている。 ということは陸伝いでも海伝いでも、地理的には黒崎のほうが手前にあるということだ。 東に攻め入るのに、わざわざ遠い場所を選ぶだろうか。 また、洞海湾は自然が作った要塞である。 現在若戸大橋がかかっているところが自然の水門になっている。 そこを固めておけば、そうそう敵に侵入されることもない。 しかるに、芦屋の場合はどう見ても門という感じではない。 ただの河口である。 これでは敵の侵入をやすやすと受け入れてしまう。 この岡湊神社と岡田神社、どちらも祭神は神武天皇だと聞く。 ちなみに、岡湊・岡田の岡は、遠賀の旧名である。
午後11時26分。 今、閃光が走り、ドガーンと言う音がした。 爆弾でも落ちたんじゃないか、と思わせるほどの凄い音だった。
昨日はいい天気だったが、ここ数日の雨は半端じゃない。 昨年も大雨はあったが、単発的で、今年のように毎日災害を引き起こすような雨ではなかった。 気候も変である。 夜は蒸し暑いが、朝方は寒いときている。 いったい、どういう布団を準備をして、どういう服装で寝ていいのかがわからない。 そういうことに無頓着なぼくであるゆえ、いつも出勤時にはくしゃみを繰り返している。 この時期は、上半身裸・タオルケット1枚で充分です、といった気候であってほしい。 まあ、天候に愚痴っても仕方がないが、もういい加減に梅雨明けしてもらいたいものである。
話は変わる。 前に言ったかもしれないが、ぼくの通った保育園は、いわゆる「アーメン」系の保育園である。 そのことで、ちょっと気になったことがある。
昨日、飲み会のために早く仕事を上がったことを書いた。 午後6時15分に店を出た。 多少渋滞もあって、家の駐車場に着いたのは6時40分を過ぎた頃だった。 約束は7時だったので、ぼくは慌てて家に向かった。 そして、ちょうど玄関の鍵を開けようとした時だった。 どこからともなく、太鼓を叩く音が聞こえた。 何だろうと思って外を見てみると、二,三十人ほどの子供たちが、「わっしょい、わっしょい」と言いながら、法被姿で歩いている。 祭をやっているらしい。 しかし、祭にしては盛り上がりに欠けている。 もう少し見ていたかったのだが、時間もなかったので、ぼくは家の中に入った。
約束の時間まであと15分ばかり、早く着替えて、家を出なければ間に合わない。 そう思って急いでズボンを履き替えていると、また先ほどの太鼓の音が聞こえてきた。 窓からその光景を見てみると、幟を立てた軽トラックが御輿を先導している。 「わっしょい」という声は、この軽トラックから発していたものだ。 その「わっしょい」の後から、御輿を担いだ子供たちや、その後ろにいる父兄たちが、つられて「わっしょい」と言っている。
さて、この話の最初に気になったことであると書いたが、それはこの幟のことである。 軽トラックの幟には、「『アーメン系』保育園」と書かれていた。 そう、この祭はアーメン系保育園が主催していたものなのだ。 アーメンと御輿、どう結びつくのだろう。 キリスト教は排他的な宗教であるがゆえ、歴史上幾度も宗教戦争を繰り返しているし、今もなお、その歴史は繰り返されている。 それが日本に来ると、御輿を担ぐのである。 家に仏壇があるから自分の宗教は仏教だ、と思っているような日本人がクリスマスを祝う。 それと同じことをキリスト教側がやっている、ということだ。 おそらくこれも外国人には理解できないことだろう。 まあ、子供たちのためのイベントだと言ってしまえば、それまでであるが。
今日は飲み会だった。 いつもより早く仕事を上がり、一度家に戻ってから、黒崎まで飲みに出かけた。 久しぶりにタクシーを使ったのだが、料金は1200円程度だった。 11年ほど前、ぼくがよくタクシーを利用していたが、その頃は800円程度だった。 その差400円、つまり11年間で50%値上げしたということだ。 この値上げ率が普通なのか、はたまた高すぎるのかは知らないが、ぼくの収入はその間、10%もアップしてない。
タクシーを降り、会場である焼鳥屋までの道を急いでいると、前から実に幸せそうな顔をした兄ちゃんが現れた。 ニコニコしているのだが、ぼくはその中に不気味さを感じた。 口が忙しなく動いているのだ。 独り言でも言っているのだろうか、何か話している。 すれ違う時、その声が聞こえた。。 それは独り言ではなく、会話だった。 「それでお前はどうしたんだ?」 「・・・」 「ぼくはそうは考えないなあ」 「・・・」 「そうじゃないよ!」 いったい誰と話しているのだろう。 時々こんな人を見かける。 前に勤めていた店にも、この手の人がよくやってきていた。 その人はすごかった。 延々一人で会話しているのだ。 話の内容は、たわいない世間話から、政治や経済にまで及んでいる。 話しているかと思えば、突然怒りだし、「お前がそんなだから、おれは変な目で見られるんだ!」と見えない人に罵声を浴びせている。 かと思えば、「そうやろ。ははは」と仲直りしている。 きっと本人には相手がいるのだろうが、その相手が見えない周りの人は不気味がるばかりだった。
数年前のこと、取引先の人と談笑していた時に、突然その人が「はい○○です」と自分の名前を名乗りだした。 ぼくはあ然として、「どうしたんね」と尋ねたが、目はよそを向いている。 おかしいなと思い彼を凝視していたのだが、ほどなくその理由がわかった。 ハンズフリーである。 最近は見かけなくなったが、以前は車に乗っている時以外も、イヤホンマイクを使って携帯電話をかけている人を時々見かけたものだ。 彼もその一人だった。 彼の場合、少し髪が伸びていたために、そのイヤホンマイクが見えなかったのである。 電話が終わったあとで、「車に乗ってない時は、イヤホンマイクを使わないとか、髪を切ってそれが見えるようにしとかんと、変な人と間違えられるよ」とぼくは言った。 「おかしいですかねえ」 「おかしい」 と、前述の人の話をした。 彼も思い当たることがあったらしく、「そういえばそんなふうに見られたことがあった」と言っていた。
タクシーを降りてから、焼鳥屋までのわずか100メートルの道のり、ぼくは幸せ兄ちゃんを見て、そんなことを思い出していた。
7月18日の日記 【花火大会】 午後10時33分。 今、すごい雨が降っている。 雷鳴が轟き、時折稲光も走る。 昼間から、ずっとこの状態である。 夜になって、大雨洪水警報が発令された。
こんなさなか、予定通り花火大会は行われたようだ。 夕方の時点で諦めていたので、ぼくは行かなかった。 ところが、午後7時半を過ぎた頃、雷の音に混じって、ドンドンという音が聞こえてくる。 最初は雷の音だろうと思い気にしなかったのだが、雷が一時的にやんだ時にもその音は聞こえる。 「もしかしたら」と思い、家の中から花火大会の会場である若戸大橋の方向に目を向けてみた。 すると、上がっているではないか。 家から若戸大橋まではけっこう離れているのだが、はっきりと大きくぼくの目に映った。 なぜかぼくは、正座をしてこの夏の風物詩を眺めていた。
【昨年の日記】 さて、ここまで書いて、もう書くことがなくなった。 ネタ探しに、昨年の日記を読んでみた。 昨年7月18日の日記のタイトルは『今年はいつ梅雨明けするんだろう?』、その前日のタイトルが『通り雨』である。 今年とあまり変らない天候が続いていたようだ。 ところで、今年はいつ梅雨明けするのだろう。 昨年の日記は、そのことが明記されてない。 そういえば、その前の年も書いてないような気がする。 今年こそは書くことにしよう。
【今日買った本】 給料日の20日が日曜日、21日が振替休日、そのため変則的に今日18日が給料日になった。 都合よく、今日は休みだった。 ということで、少し早いが、今日は銀行回りをした。 ところがこの雨である。 濡れるのが嫌だったので、今日は車で出かけた。 デパートに車を停めて、そこにある銀行のキャッシュコーナーですべてをすませた。 さて、帰ろうかと思ったが、このまま帰ると駐車料金がかかってしまう。 このデパートは、2千円分の買い物をすると駐車料金が2時間ただになる。 そこで、本でも買おうと、本の売場に行った。 しかし、いい本が見つからない。 何度も店内をぐるぐる回ったが、ピンとくるものがない。 しかたないので、Tシャツでも買おうと店を出ようとした時だった。 面白そうなタイトルの本を見つけた。 ちくま文庫から出ている、『大正時代の身の上相談』という本である。 大正時代、実際に読売新聞に掲載された身の上相談を編集したもので、そこには今では考えられないような悩みが綴られている。 何せ、初っぱなから「接吻されて汚れた私(婚約前ニ男ニ接吻サレ罪ニオノノク乙女)」である。 もしかしたら、その女性は、手をつないだら子供ができるとでも思っていたのではないだろうか。 今では考えられないような、純粋な女性である。 でも、ぼくはこういう人とはお付き合いしたくない。 疲れるだけである。
他にもいろいろな悩みが書いてあるが、もし今そういう悩みの人がいたら、きっと病気扱いされるだろう。 「これは買う価値のある本だ」と思ったぼくは、この本をレジに持って行った。 そこにあった何冊か雑誌を買い足し、何とか2千円にこぎつけると、予定していたTシャツも買わずに、さっさと店を出た。 早く『大正時代の身の上相談』の続きを読みたくてたまらなかったのである。
午前0時前。 不覚にも眠ってしまった。
夢を見ていた。 同窓会の夢である。 ところが出てきた人は同級生でも何でもない、知らないおばちゃんたちだった。 夢の中とはいえ、「こいつ、本当に同級生だったんかなあ」などと思っていた。
午前4時17分。 目が覚めた。
以降日記に向かっている。 とはいえ、同窓会のことで、頭の中は一杯である。 そういえば、10年前に同窓会に出席してから後は、同窓会という名の付いたものに出席したことがない。 まあ、高校時代の気心の知れた奴らと、集まって飲むことは何度もやっているので、わざわざ同窓会などという形式張ったものに出席しなくても事足りてはいる。 しかし、仲間内で飲むことに不満がないことはない。 特に今の状況が悪いわけではない。 学生時代からずっと付き合っている奴らだから、古い思い出話からごく最近の仕事の話まで気兼ねなく話せるし、何ら気を遣う必要もないので、気分的にはかなりリラックス出来る。 じゃあ、何が不満なのか。 それは、女子が来ないことだ。
19歳から25歳まで、年に1,2度同窓会を催していた。 最初は20人以上集まっていた会も、年々集まりが悪くなっていった。 その中でも目立ったのは、女子の数が減っていったことである。 結婚した人は、それまでと違って自由に外出もできないだろうから、致し方ないだろうが、独身はそれまで通り来られるはずである。 それが来ない。 まあ、行き遅れと思われるのが嫌で、来にくかったのだとは思うが。
あれから20年が経つ。 もうそろそろ、同窓会の再開があってもいいのではないだろうか。 男子も白髪やはげをおして出席するだろうから、女子も体型の変化や肌の荒れなどを気にしないで出席してもらいたいものである。
午前6時30分。 また寝よう。
今度は、祭の夢を見た。 何の祭なのかはわからないが、人が大勢集まっている。 横には、東京時代の友人Kがいる。 「東龍軒のラーメンがおいしいけ、今度食べに行こう」 「東龍軒、知っとうよ。この間行ってきたけ」 友人K、この男東北の人間なのに、夢の中ではなぜか九州弁を使っている。
午前8時15分。 NHK『こころ』のテーマが流れてきたところで起床。
そういえば、明日(18日)から小倉祇園が始まる。 無法松の一生で有名な太鼓祇園である。 同時に若松のみなと祭も始まる。 20日からは、地元の黒崎でも祇園祭が始まる。 『くろげしんた』なるページに、ぼくのガキの頃の写真を貼っているが、そこで着ている衣装は、黒崎祇園の法被である。 来週は戸畑のちょうちん山笠、再来週は北九州市全体の祭である『わっしょい百万夏祭り』と、北九州は祭一色に染まる。 そうか、明日は花火大会もあったんだった。 これから忙しくなるなあ。
それにしても、日記の日にちの都合とはいえ、今日を明日と言い換えるのは、ホント疲れるわい。
7月12日。 ぼくが、その前日に雷ショックを受けたということを日記に書いている時、ぼくは股関節を痛めていた。 その日、何かのおりに、股に力を入れすぎて筋をひねったらしいのだ。 その時は気にならなかったのだが、時間が経つにつれ、歩きにくくなっていった。 あいかわらず腰痛が続いているものだから、それと連動して、歩きにくさに痛みまで加わってしまった。
例えば、肩こりや腰痛の場合は、その場でマッサージもでき、うまくいけば治ることもあるだろう。 だが、痛いのは股関節、つまり股。 場所が場所なだけに、仕事場などでマッサージするわけにはいかない。 しかたがないので、ストレッチで股の筋を伸ばしたりしていたのだが、それが返ってあだになり、痛みは増す一方だった。
半日痛みと闘って、ようやく帰る段階になった。 主に痛いのは左側だったので、オートマチック車の運転には支障がない。 「これで少しは楽になるやろう」と思っていた。 ところが、アクセルやブレーキを踏むと、その振動が左股に伝わる。 そして、痛みが走る。
家に着いてから、さっそく股のマッサージをやろうとした。 ところが、恥骨あたりをまさぐってみたが、どこにも痛みは出てこない。 「そんなことはない」と思い、筋を触ってみたが、そこも痛くない。 で、もう一度立ち上がり歩いてみた。 確かに痛い。 しかし、触るとどこにも痛みはない。 これは不思議である。
しかたないので、股の痛みのことは気にすまいと思った。 気にすると、痛みが増すだけである。 しかし、「気にすまい」と思うと、「『気にすまい』と思う」ことが気になって、結局それが股の痛みに繋がる。 悪循環である。
しばらく寝ころんでいたが、日記を書かなければならない。 日記を書くためには、当然起きなくてはならない。 そこで、起きあがろうとしたのだが、体が言うことをきいてくれない。 どうしても左股をかばってしまうため、思うように起きられないのだ。 しかし、そうはしていられない。 力を振り絞って起きた。 ところが、無理をしたため、今度は背中を痛めてしまった。 さらに、そのせいで首や肩も痛くなった。 首・肩・背中・腰・股、まさに満身創痍である。 これではどうしようもないので、そのまま寝ることにした。
あれから4日が経つ。 何とか元に戻りつつある。 肩は体操で治したし、その体操のおかげで背中の痛みも緩くなった。 腰はあいかわらずだが、毎日お尻の筋肉を付ける運動をやっているので、以前ほどの痛みはない。 股のほうだが、無理に開いたり、屈伸したりすると、まだ痛みは走るが、普通にやっている分には支障はない。
しかし、腰痛から股痛まで、いろんな痛みに襲われた今年の梅雨だった。 もしこれが癖になったら、何年か後の日記に「梅雨に入りました。いよいよ股痛の季節の到来です」と書くかもしれない。 そうならないことを願っている。
1ヶ月後。 「主任、先日本社に行ったんで、制作の人にテープ渡してきましたよ。私、ちゃんと押しときましたから」 「そう。ありがとう」 それから、ぼくはM子が来るたびに、「何か言ってきた?」と聞いていた。 しかし、M子からはいい返事がもらえない。 「ああいう人って、けっこういろんな人からデモテープ渡されますからねえ。なかなか聞く暇がないって言ってましたよ」 「じゃあ、聞くまで待つしかないんか」 「そうですねえ。でも、聞いてくれたら大丈夫です。いい歌ですから」
2ヶ月後。 まだ、P社からは何も言ってこない。 ある日、いつもと違う曜日にM子がやってきた。 「主任、すいません。今度転勤になったんです」 「え、転勤!?」 「ええ」 「どこに行くと?」 「喜んで下さい。本社です。これで『月夜待』はバッチリです」 「そうか」 「で、情報は後任に伝えるようにしますから、心配しないで下さい」 「悪いね」 「いいえ、私、主任の歌のファンになりましたから。最後までお付き合いします」 「ありがとう」 ということで、M子は去っていった。
ところが、何ヶ月経っても、M子からは何も言ってこなかった。 後任にそのことを問うと、「ああ、M子さんですか。今度結婚しますよ」とのことだった。 「月夜待は、どうなったんやろ?」 「さあ? 何も言ってきてませんけど」 「…そうか」 結局、その後M子からは何も言ってこなかった。 そのうち、ぼくも会社を辞めることになった。 会社を辞めるについて、ぼくは何も悔いはなかった。 が、ただ一つの失敗は、レコード会社と縁が切れたことだった。 これで、ぼくの『月夜待売込み作戦』はご破算になった。
さてどうしよう。 仕事がなくなった上に、『月夜待』もめどが立たない。 そういうおり、求人情報雑誌に芸能筋の仕事が載っていた。 そこでぼくは、その会社を受けることにした。 面接で、「この会社は、こちらに来た歌手などの接待や、専属歌手のマネージャー業務を主にやっています」・「中国や韓国に支社もあって、そこに出張ということもあります」・「日によっては、夜中の勤務になることもあります」など、いろいろと会社の説明を聞いた。 「で、しんたさんのほうで、何か要望はありますか?」 「はい、私は学生時代からオリジナル曲を作るなど、音楽をかじっているのですが、そういう方面の採用というのはありますか?」 「うちはそういう採用はやっていません」 「そうなんですか…」 ぼくが難色を示すと、相手は急にぼくを引き止めるようなことを言った。 「君は体力ありそうだから、マネージャー業とかに向いてると思うんだけどねえ」 ぼくはその言葉を聞いて、『ハードな仕事だから、人が定着せんのやろう。要は誰でもいいんだ』・『だいたい、初対面の人間に何がわかるというんだ。自分のことも満足に出来ない、おれの性格も見抜けんくせして、よく言うわい』と思った。 そこで、「そうですかねえ。でも、自分は音楽をやるほうが向いていると思いますので…」と言って断った。 また、『月夜待』の夢が壊れた。
あれから10年以上の歳月が流れた。 『月夜待』に振り回された生活も、あの時点で止まっている。
ぼくはそれ以前に、何度かアマチュアコンテストに応募している。 しかし、一度も入選したことがなかった。 それは単に歌がよくなかったと理由からだろうと思っていた。 ということは、歌さえよければ入選するということだ。 そこで、ぼくはこの『月夜待』で挑戦してみることにした。 とはいえ、世はバンドブームであった。 「メジャーな、それもライブ有りのコンテストで、この曲が受けるはずがない」と思ったぼくは、他の道を探すことにした。
とはいえ、そんなコンテストというのは、当時どこにもなかった。 というより、仕事に追われてコンテストを探すどころの騒ぎではなかったのだ。 ようやく、探し当てたのは、30歳を超えた時だった。 音楽雑誌を読んでいると、そこにS社の広告「オリジナルテープ募集」という文字を見つけた。 よく読んでみると、テープ審査で何曲かをエントリーし、その中から入賞曲を選ぶというものだった。 「これなら仕事に差し支えないから大丈夫」と思ったぼくは、さっそくテープデッキに『月夜待』を録音し、S社に送った。
それから何ヶ月か経ったある日、S社からぼくの元に1通のはがきが来た。 そこには、「せっかく応募していただきましたが、当社の音楽性とは異なるので、今回は残念ながら不採用とさしていただきます」と書いてあった。 20代の頃なら、ここでくじけていただろう。 しかし、30代のぼくはくじけなかった。 また他の道を当たってみることにしたのだ。
その頃、ぼくは人事異動で、楽器部門専任からレコード部門兼任となった。 レコード部門を持つということは、レコード会社の人間と親しくなることだ。 そこで、ぼくは『月夜待』の良さをわかってくれる人を待つことにした。 1年後、ようやくそういう人が現れた。 P社の女性セールスM子だった。 メーカーのセールスがくるたびに、ぼくはオリジナルのことを話していた。 その話に食いついたのが、M子だった。 「ぜひ聞いてみたいです」 「じゃあ、今度テープ持ってくるね」 テープは、それ以前にS社に応募したものが残っている。 ぼくは翌日、忘れないようにそのテープを会社に持ってきておいた。 そして翌週、M子がきた時にそのテープを渡した。 「一度聞いただけじゃ、わからんかもしれんけ、何度か聞いてみて」 「はい、わかりました」 M子はテープを持って帰った。
そして次の週。 M子は目を輝かせてやってきた。 「主任、聞きましたよ。いい歌ですね。私ジーンときました」 それを聞いてぼくは下心を出した。 「そうか。そんなによかった?」 「ええ。とっても」 「実はね。これレコード化したいんよ」 「この歌をですか?」 「うん。レコード会社にテープ持って行って、聞いてもらうのが一番なんやろうけど。なかなかそんな暇がなくてね」 「そうでしょうね。いつも主任は忙しいそうだから」 「で、お願いがあるんやけど」 「何ですか?」 「それ、本社に行くことがあったら、持って行ってほしいんよ」 「ああ、そうか。その方法があったか。いいですよ。私、制作に知った人がいますから。売り込んできます!」 「ほんと? じゃあ、お願いします」 ということで、『月夜待』はP社に持ち込まれた。
『月夜待』
君に逢えれば こんなことだって 忘れられると 思ったものさ 笑い話に 君のことを 歌ったことも 昔のことさ
夢はいつも 美しいもので しあわせそうな 二つの影を 映し出しては 消えていった あこがれては 思い悩み
月夜待から 二つの道を 選ぶいとまが 君との川で
流れては 遠くなる恋を 見つめては しあわせなんか こんなおれに くるもんかと つぶやきながら あおる酒よ
月夜待から 二つの道が 出逢うところで 君を夢見た
いつか知らず 時は過ぎていった 君に逢えるのは 夢の中だけと 月夜待に かすかに浮かぶ 月を見ては 君を想う
今日、一つの歌を「歌のおにいさん」にアップした。 『月夜待(つきよまち)』という歌で、上がその歌詞である。 25歳の時、自転車で駅まで通っていたことがある。 ある日の帰り、自転車をこいでいると、突然曲想がわいた。 家までおよそ5分の距離だった。 ぼくは曲を忘れないように、頭の中で繰り返しその曲を思い浮かべ、必死に自転車をこいだ。 家に着き、ぼくは自転車の鍵もかけずに、自分の部屋に向かった。 テープをラジカセの中に入れ、曲を思い浮かべながらテープに吹き込んだ。
『月夜待』という歌を、前々から作ってみたいと思っていた。 月夜待、ぼくの住む北九州に隣接する、水巻町にある地名である。 実にロマンチックな地名である。 ところが、実際はそんな地名とは裏腹に、殺風景な場所である。 元々、水巻は炭坑のあったところである。 実は、その月夜待もボタ山の麓に位置している。 近くに川が流れている。 が、それはどぶ川である。 何一つとっても、この歌のイメージとは合わない。 しかし、ぼくはこの月夜待という地名を利用して、歌を作りたかったのだ。
歌詞は、翌日に作った。 25歳といえば、高校時代からずっと好きだった人の、結婚を知った歳である。 片想いではあったものの、これで一つの恋が終わった。 そういう思いを歌詞に込めた。 出来上がるまでに、そう時間はかからなかった。 1時間足らずだっただろうか。 テーマがはっきりしていたから、作りやすかった。 また、言葉の節々に韻を踏ませたり、古文の手法を使ったりと、けっこうテクニックを駆使している。
さて、歌が出来上がった。 さっそくぼくはそれを録音した。 最初の録音はもうなくなっているが、歌は今のそれとほとんど変わりがない。 その後、「新曲が出来たぞ」と言って、この曲を友人に聞かせた。 ところが、反応は今ひとつだった。 ぼくは友人の反応が悪いと、もうその歌はあまり歌わない。 ということで、何度か歌ったきり、1年近く『月夜待』を歌わなかった。 ところがある日のこと、その友人が「去年聞かせてもらった歌が聴きたい」と言ってきた。 その当時はまだ、けっこう歌を作っていたので、どの歌のことを言っているのかわからなかった。 「どの歌?」 「たしか、月夜待の歌やったと思う」 「ああ、あの歌ね。でも、大した歌やないけ、もう歌わん」 「何で? いい歌やったやん」 いい歌と言われて、気をよくしたぼくは、およそ1年ぶりに『月夜待』を歌った。 そして、この「いい歌」と言われたことが、諦めかけていた夢に、再度火を付けた。
2003年07月12日(土) |
7月11日北九州・遠賀地区に大雨洪水警報 |
昨日、宗像大社に行った。 普段、ここに行くのには海岸線を通っていくのだが、昨日は途中郵便局に寄ったため、3号線を通ることになった。
家を出てから郵便局までは、雨は小降りだった。 郵便局を出て3号線に入った頃から、雨は本降りになっていった。 しかし、空はまだ明るく、しばらくすればやみそうな気配だった。
岡垣バイパスのトンネルを越え、宗像市に入った。 宗像大社に行くには、そのまま3号線をまっすぐ走るコースもあるのだが、右折して旧道を通ることにした。
旧道に入り、福岡教育大前を通過した時だった。 一瞬、空が明るくなった。 稲光である。 そこから徐々に雨脚が強くなった。 そして東郷橋を右折した時に、ついに土砂降りになってしまった。
雨はドンドンと音を立てて、ぼくの車を叩きつける。 目の前は一面灰色になり、あたりの風景を消してしまった。 前が見えない。 道が見えない。 前を走る車のテールランプが唯一の道しるべだった。 その車につかず離れず、一定の車間を保ちながら、ぼくは走った。
水はけの悪い道路は、すでに冠水しており、対向車が容赦なく、祭の勢い水のごとき跳ね水を叩きつける。 その都度ブレーキに足が行く。
普段は10分足らずで着く場所なのに、今日は20分経ってもたどり着かない。 向かう方面の空は、真っ黒だ。 このまま引き返そうとも思ったが、Uターンする場所もない。 しかたなく車を進めていくと、ようやく宗像大社の杜が見えてきた。 しかし、そこからがまた長い。 あいかわらずの徐行運転だ。 気は焦る。
ようやく、宗像大社の駐車場までたどり着いた。 しかし、この雨だ。 ドアを空けたが最後、大量の水が入ってくる。 外に出ることは出来ない しかたなく、小降りになるまで、車の中で寝ることにした。
うつらうつらしながら、5分ほど経ったろうか。 急に空が明るくなった。 その瞬間、「ドドー、ガーン」と、爆音のような音が轟いた。 車が揺れる。 雷だ。 近くに落ちた。 しかし、外を見回したが、雨にかき消されて、どこに落ちたのかはわからない。 それにしても、車が揺れるほどの雷音を聞いたのは、生まれて初めてのことである。
それからしばらくして、雨は小降りになった。 ぼくは神社でトイレを借り、用を済ますと、再び車の中に入った。 もう一度、雷を体験したかったのである。 だが、二度目はなかった。 しかたなく帰路に就いたのだが、さて、ぼくは何をしに宗像大社に行ったのだろう。 土砂降りの雨と雷のおかげで、すっかりそのことを忘れていた。 ようやくその用を思い出したのは、家に着く手前であった。 「そうか、国宝展をやっていたんだ」 しかし、後戻りしても、すでに国宝展会場は閉館している。
ということで、2003年7月11日は、「宗像大社に国宝展を見に行った日」ではなく、「生まれて初めて、車を揺らすほどの雷を体験した一日」として、ぼくの人生の中に刻み込まれた。
ある日のこと、他のクラスと練習試合をやっている時だった。 彼はサードを守っていた。 相手の打ったゴロをさばいて、ファーストに転送した。 ところが、その球が高かったために、ファーストが球を捕れず、ランナーはセーフになった。 ファーストが「おーい、もうちょっと低い球を投げれ」と言うと、Iは「あんな球も捕れんとか!?」と言った。 ファーストはカチンと来た。 しかし、その場は黙っていた。
その後の回である。 再びIのところに球が来た。 ところが、Iはそれを普通通りに投げずに、ゴロで投げた。 そして「ちゃんと、低い球投げたぞ」と言った。 これにはファーストも怒った。 危うくつかみ合いのけんかになりそうになった。 そのあげく、Iは「放棄試合や!」と言って帰っていった。 去っていくIの後ろ姿を見ながら、みんなは「バーカ、早よ帰れ」と言った その後で「さあ、野球始めようか」と、ぼくたちは彼抜きの野球を楽しんだ。
そういう奴と、同じ子供会だったものだから、たまったものじゃない。 試合は7月なのに4月から練習を始めるし、練習を休むと迎えにくるし、雨が降っても練習するし。 また、ぼくは左打ちなのに、左打ちが自分の理論にないためか、無理矢理右で打たせたりした。 そのせいで打てないと、文句を言ってくる。 しかも、たかだか子供会の試合なのに、100本ノックなどをやっている。 練習の後は、ミーティングである。 とにかく、子供会の会長が彼をキャプテンに据えたものだから、ろくなことがなかった。
ある日、Iは練習に星座図鑑を持ってきた。 練習中に彼は、その星座図鑑を開き「よし、これに決めた」と言った。 何だろうと思っていると、Iは「この○座の何番目の星が、おれの巨人の星や!」と言った。 みんな呆れてものが言えなかった。 お前は星飛雄馬か! だいたい、その星が北九州で見えるのか!? その当時、Iの好きな言葉は『根性』だった。 そう、完全に『巨人の星』にかぶれていたのだ。
試合月の7月になった。 空模様は、今年の天候と同じく、「雨時々晴、所により雷雨または大雨の恐れ」といった状況だった。 それでも、Iの横暴は止まなかった。 「いいか、絶対優勝するんやけの!」 みんなもう冷めていた。 優勝なんかどうでもよかった。 とにかく、早くこの馬鹿げた練習から解放されたかった。
そして夏休み。 いよいよ試合が始まった。 1回戦は何とかものにしたが、打席にはいると、Iがいちいち指図するものだから、みんな不満を抱いていた。 それでもIは「いいか、おれの言う通りにやったら、絶対優勝するんやけの!」と言ってはばからなかった。 2回戦、もうみんなやる気がなかった。 しかし、Iは指図してくる。 「いいか、あそこに打つんぞ」 しかし、小学生にそういうことを言っても、そうそう狙い通りに打てるものではない。 結局、試合はIの指図通りの動いた、我がチームの負けであった。
試合が終わった後、一人だけ悔し泣きしている奴がいた。 Iではなかった。 5年生だった。 それを見たI以外の誰もが、「泣かんでいいやないか。喜べ、やっとあの練習から解放されるんぞ」と言って慰めた。 それを聞いて、彼は泣くのを止めた。 ところが、泣きやんだ彼の口から出た言葉は、「来年はもっと練習して、優勝する!」だった。 知らなかった。 バカはもう一人いた。
『ぼくの夏』
大きく開いた 空の下を 夏 君と二人で歩いていく 静かな風は 汗をぬぐって 蝉の輝きは 時を止める
遠くで子供達が 野球をやっている カビの生えた想い出が 日にさらされ 今にも飛び出しそうな ぼくの幼さを 君は笑って 見つめてる
そうだこの夏 海へ行こう 忘れてきた ふるさとの海へ 君と二人で 子供になって 忘れてきた ふるさとの海へ
お祭りの夜 二人で浴衣着て いっしょに 金魚すくいやろうよ
幼い頃の 想い出が ぼくの夏を 駆け巡る 一足早い ぼくの夏を 君は笑って 見つめてる
午前中は曇っていたが、夕方から青空が広がり、真夏の日差しが差し込んできた。 かなり暑い。 もはや、梅雨明けした、と言ってもいいような天気だった。 何日か前から、アブラゼミの鳴く声が聞こえている。 真夏を助長する、あの「ワシワシ…」という声も、もう間もなく聞こえてくるだろう。
さて、ぼくはこの時期になると、決まって小学校6年生の頃のことを思い出す。 夏休みに入って最初の日曜日、ぼくの地区では、毎年子供会のソフトボール大会が行われていた。 そこで優勝したチームが、区の大会に出ることが出来、そこでまた優勝すると市の大会に出ることが出来る。
同じ子供会に、Iという野球バカの男がいた。 その男とはクラスもいっしょだった。 彼は3人兄弟の末っ子ということもあり、親が甘やかしていたのだろう。 実にわがままな性格だった。 確か4年の時だったと思うが、彼は3学期、あるクラスの級長になった。 「人望のない彼がなぜ?」と、みんな噂しあったが、これには裏があった。 彼は、かねてから新しい自転車を欲しがっていた。 いつも親にそのことを言っていたらしいのだが、その頃の自転車というのは、今のように安い買い物ではなかった。 甘い親もさすがに最初は渋っていたらしい。 しかし、そこはかわいい息子のこと、ある条件を付けて自転車を買ってやることにした。 その条件というのが、「級長になること」だった。 そこで、人望のない彼は、クラスの男子を脅しにかかった。 その脅しに屈した奴らが、彼に1票を入れたのだ。 そんな彼の強引なやり方を見て、他のクラスの連中は彼のことを「卑怯者」と罵った。
5年になり、クラス替えがあった。 ぼくが新しい教室に入った時だった。 後ろのほうから「おう、しんた!」という声がした。 振り向くと、そこにIがいた。 「いっしょのクラスやのう」 「おう」と応えながらも、ぼくは『何でこんな奴と同じクラスなんか』と思っていた。
4年の時の所業をみな知っていたので、彼は新しいクラスでは嫌われ者だった。 しかし、野球がうまかったため、無視するわけにも行かず、みんな渋々いっしょに遊んでいた。 ところがその野球をする時は、なまじうまいため、自分のうまさをひけらかす。 あげくに本まで持ってきて、理論を講義する始末だった。 こちらは遊びでやっているのに、くそ真面目に理論まで持ち出すものだから、みんなは白けてしまった。 そのため、彼と他のメンバーはいつもトラブっていた。 他のクラスと試合をやっても、いつも内輪もめばかりしていた。
2003年07月09日(水) |
彼女は自分のことを『クミチン』と呼んでいる |
ぼくの店に、クミチンという女性従業員がいる。 50歳前の普通の主婦なのだが、行動が少し変である。 最初の頃こそ、ぼくも普通に見ていたのだが、時間を追うごとに、彼女の偉大さがわかってきた。 また、それを裏付けるエピソードも耳にするようになった。
ある時、クミチンが「半額だった」と言って、隣のスーパーでペットボトル入りのジュースを10本近く買ってきた。 車もないのに、どうやって持って帰るのかと思っていると、「重たいから、今日は持って帰れない。明日持って帰ろう」と言い、会社に置いて帰った。 ところが翌日、そのジュースをアルバイトの学生に「飲んで下さい」と1本ずつ配ったという。 全員に配り終えた後、クミチンは一言言った。 「ああ、これで軽くなった」
改装の時、ぼくの売場を手伝ってもらった。 「Hさん(クミチンのこと)は、まずこの列の商品の清掃をやって下さい」 この列とは、わずか什器8台分である。 長さにすると、7メートル足らず。 クミチンは無表情にうなずき、清掃を始めた。 1時間後、クミチンは最初の什器にの商品を磨いていた。 2時間後、クミチンはまだ最初の什器の商品を磨いていた。 3時間後、クミチンの相棒は、早くも2列目に取りかかっていた。 クミチンはというと、やっと2台目の什器にさしかかったところだった。 4時間後、休憩。 5時間後、クミチンはまだ2台目をやっていた。 6時間後、ようやく3台目に入ったクミチンは、居眠りを始めた。 7時間後、クミチンの相棒は、すでに3列目に入っている。 クミチンは、まだ3台目をやっていた。 8時間後、「残りは明日しまーす」と言って、帰っていった。 その日クミチンが磨いた商品は、什器3台分だった。
リニューアル・オープンの時、化粧品の宣伝販売をやっていた。 「今日は半額です」という声を聞いたクミチンは、仕事中からそわそわし、「仕事が終わったら、行かないけん」と言っていた。 仕事が終わり、私服に着替えると、クミチンは一目散に化粧品売場に走って行った。 目の色が違っていた。 そこに集まったお客さんは、笑顔で宣伝販売の兄ちゃんの言うことを聞いていた。 しかし、クミチンは違った。 がっしりとした体を左右に揺らしながら、兄ちゃんを食い入るように見つめていた。 「みなさん、手を出して下さい」と言う兄ちゃんの声に反応したクミチンは、後ろのほうから体を乗り出して、一番前に手を突き出した。 あいかわらず、真剣な表情である。 そこで化粧品を手に塗ってもらっていたが、クミチンは満足そうな顔をしていた。
ある日、ぼくの売場のそばをクミチンが歩いていた。 何をしているのだろうと、少し離れたところから見ていると、クミチンは突然立ち止まり、右側を向いた。 どうやら、そこにある商品が気になっている様子だった。 ほどなく動き出したが、やはりその商品が気になっているようで、そちらを見ながら歩いていた。 その時だった。 他のお客さんとぶつかってしまったのだ。 ハッとしたクミチンは、慌てて「すいません」と謝った。 が、あいかわらず顔は右を向いたままだった。
今日のこと。 仕事中にクミチンは、足を床にとんとんと叩きつけていた。 何をやっているのだろうと見ていると、突然クミチンは靴を履いたまま靴下の中に手を入れた。 そして、掻きだした。 どうやら、クミチンは足の裏が痒かったようだ。 しかし普通足が痒い時、それが仕事中といえども、靴を脱いで、靴下の上から掻くものである。 上記のような難しい動作をする人も珍しい。 さすがクミチンである。
ところで、今日の日記のことは、クミチンには何も言ってない。 クミチンのことを知っている人、内緒にしといて下さい。
東京に出た頃、一番感動したのは、空気が予想以上にきれいだったことである。 もちろん排気ガスはひどかったが、北九州のように、工場から出る悪臭というものはなかった。 ある日友人が、「川崎に行ったんだけど、悲惨だったぜ」と言った。 「何が悲惨やったんか?」 「空気さ。ひどい臭いだったぜ」 他の人は「へえ、そうなんだ。で、どんな臭いだった」などと聞いていたが、ぼくには、それがどんな臭いであるかがよくわかった。 工業地帯特有の臭いである。 特にぼくの家は、北九州工業地帯の中心である洞海湾の近くにあるので、ヘドロの臭いというのも混じっており、さらにひどいものだった。 おそらく、ぼくが川崎に行っても、それほど臭いとは感じなかっただろう。
東京の下宿のおばさんに初めて会った時、「へえ、八幡出身なの。私は何年か前に八幡製鉄所を見学に行ったことがあるよ」と言っていた。 ところが、夏に帰省してから東京に戻ってくると、「田舎の空気はきれいでしょう」と言う。 「えっ!?」 「東京みたいに空気が汚れてないよねえ」 「きれいじゃないですよ。川崎以上に汚いです」 ぼくがそう言っても、おばさんはしきりに「田舎の空気はおいしいだろうねえ」などと言っていた。 「この人は八幡製鉄所に行って、何を見てきたんだろう」と、ぼくは内心思ったものだった。
ぼくは生まれた時からずっと工業地帯の悪臭の中で暮らしてきたので、そういう臭いがしても特に何も感じない。 ところが、いなかに行くと、突然においに敏感になる。 小学生の頃、夏休みに、郊外の宗像に遊びに行ったことがある。 まだバスに冷房のなかった時代だったので、窓を開けていると、突然嗅いだことのないにおいが飛び込んできた。 母に「これ、何のにおい?」と聞くと、母は「稲穂のにおい」と答えた。 見ると、バスは田んぼの中を走っていた。 ぼくが通った小学校も田んぼの中にあったのだが、稲穂のにおいなどは、工場の臭いと、牛小屋の臭いでかき消されていた。 まさに、生まれて初めて感じる、稲穂のにおいだった。
ところで、最近は郊外に行っても、何もにおいを感じなくなっている。 それだけ、郊外の都市化が進んでいるのだろうが、それと同時に、北九州の空気がきれいになったということも、理由の一つにあげられる。 八幡製鉄所の老朽化に伴い、工場が次々に閉鎖されていった。 そのせいで、我が高校校歌に『八幡の煙、君見ずや』と謳われた、煙がなくなった。 おかげで、悪臭が去り、空気がきれいになったのだ。 もちろん、人間が生活するには、そちらのほうがいいに決まっている。 しかし、明治以来、日本の近代化を支えてきた鉄都八幡の衰退は、高度経済成長という躍動感のある時代を知っている者として、寂しいものがある。
【レインコート】 そういえば、もう一つ雨具があった。 それはレインコートだ。 ぼくが一番レインコートを着用していたのは、保育園の頃だった。 今でもよく見かける、黄色いレインコートである。 保育園卒園と共に、レインコートを着用することはなくなった。
その後二度だけレインコートを着用したことがある。 一度目は中学の修学旅行の時だった。 京都で雨が降り出した。 あらかじめ、雨が降ればレインコートを着用するように決められていたので、なぜか傘をさしている先生以外は、全員がレインコートを着用した。 まあ、レインコートといっても、色付きの大げさなやつではなく透明な携帯用のものだったが。
二度目は10年ほど前のことである。 北九州市民球場にダイエー戦を見に行った時でのことだった。 野球の試合観戦といえば、このごろは福岡ドームしか行かないので、雨に濡れる心配はないのだが、かつて平和台球場や北九州市民球場に通っていた頃は、いつ雨が降ってもいいように、必ずレインコートを携帯して行っていた。 たまたま、北九州の試合で雨が降り出した。 そこで、ぼくは慌てずにレインコートを取り出し、着用した。 これで、体の露出しているところ以外は濡れることはない。 と思っていたら、意外なところに落とし穴があった。 それは、前後左右の人である。 彼らは傘しか持ってきてないのだ。 そのため傘のしずくが、こちらにしたたり落ちてくる。 最初は、それでも「レインコートのおかげで濡れないからいいや」と思っていたのだが、時間が経つにつれ、そのしずくがレインコートの中にしみこんでくるようになった。 おまけに傘のおかげで、試合が見えない。 「こんなマナーの悪い奴らの中で、観戦したくない」と思い帰ってしまった。 帰る道々、「こういう日にレインコートを持ってきてない奴なんて、本当のファンじゃない」と同行者に八つ当たりしたものだった。
【大雨の戒め】 武士道を説いた『葉隠』という書物に、「大雨の戒め」というくだりがある。 「普通、人は急に雨が降り出すと、慌てて走り出したりするものであるが、最初から雨が降るものと覚悟を決めておけば、急に雨が降り出しても慌てないですむ」 中学生の頃に読んだので、あまり詳しく覚えてないのだが、だいたいこういう内容だったと思う。 備えあれば憂いなし、ということを言いたかったのだろう。 まあ、この場合は物の備えではなく、心の備えであるが。
たしかに、雨の日に慌てると、ろくなことがない。 水たまりにはまりこんで靴の中までびっしょり濡れたり、悪くすればこけたりする。 専門家(何の専門家かはわからないが)の話では、歩いても走っても濡れる量は変らないと言っているのだから、走って損をするよりも、ゆっくり冷静に歩いて行ったほうが賢明である。 こういう心がけも、雨具の一つと言っていいだろう。
【傘】 一昨日の日記で、雨でずぶ濡れになったと書いたが、この時ぼくは、およそ20年ぶりに傘を買った。
小倉駅を出た途端に、土砂降りの雨が降り出した。 ぼくは雨宿りのため、慌ててアーケード街に飛び込んだのだが、雨はやみそうにない。 そこで傘を買おうと思い立った。 しかし、傘なんて20年前に買ったっきりで、どこで買っていいのかもわからない。 デパートに行けば手に入るだろうが、そこまで行くには、また濡れなければならない。 「さあ、どうしよう」と迷っていると、そこに『百円均一』の看板が見えた。 そういえば、百均には傘が売っている。 そこで、ぼくは百均に飛び込んだ。 ところが、すでに傘は売り切れていた。 どうしようかと思いながら店を出ると、その前のドラッグストアに傘が置いてあるのが見えた。 さっそくその店に行ってみると、5百円で傘が売っていた。 比較的大きなジャンプ傘で、作りもしっかりしている。 ということで、その傘を買った。
そういえば、ぼくはここしばらく傘をさしたことがない。 雨の日にウソウソすることは滅多にないし、仮にどこかに出かけたとしても、目的地のすぐそばに車を停めるため、傘をさす暇がないのだ。 そのくせ、車の中には5本も傘が眠っている。
雨の中、傘をさして歩くのも久しぶりである。 元々ぼくは傘のさし方が下手なので、いつも体のどこかを濡らしていたのだが、その日も左半身がびしょ濡れになっていた。
【長靴】 さて、雨具といえば、長靴がある。 ぼくは小学校6年生まで履いていたのだが、その後はまったく履いたことがない。 学生時代は、雨の日も雪の日もスニーカーだったし、社会に出てからはずっと革靴だった。 まあ、そのくせ乾かしたりすることはせず、びしょ濡れになっても、ずっと玄関に放っておいた。 スニーカーはまだいいが、革靴は悲惨だった。 そのせいで、革がふやけてしまい、いつも変形していた。 いつの間にかカビが生え、寿命も短いものだった。 そういう時、「長靴があると便利だろうな」などと思っていたが、履く気はさらさら無かった。
実は、ぼくは長靴が嫌いな人間なのだ。 何が嫌いかというと、長靴を履くと、いつもどちらかの靴下が靴の中で脱げるのだ。 かかとのところがダブついてきて、気がつけば靴下の履き口がかかとまで下りてきている。 こうなると、何度靴下を戻してもだめだった。
また、長靴は履き口が広いので、いつも靴の中に水がたまっていた。 靴下は下がるは、靴の中はグチュグチュしているはで、雨の日はもう大変だった。
最近、晩飯を食べた後、ちょっと横になったつもりなのに、そのまま眠ってしまっていたということが多い。 夜中に目が覚めてみると、もう2時や3時を回っている。 「さて、日記を書くか」とは思うのだが、体が言うことをきかず、また眠ってしまう。 朝起きると、もう7時を過ぎていて、それから日記を書いている。 ぼくは夏場に入ってから、食事の後に風呂に入るようにしているのだが、先に書いた通り、食べた後に寝てしまうので、朝に風呂に入ることが多くなった。 つまり、日記を書く合間に風呂に入っているのだ。 当然、仕事に行く準備もしなくてはならない。
ということで、今日もご多分に漏れず、このパターンだった。 10時半頃晩飯を食べ終わり、ちょっと横になったつもりだったのだが、目を開けてみると午前3時前だった。 ただ、今日はいつものように、のどが渇いたとか、トイレに行きたいという理由から目が覚めたのではではなかった。 けたたましいサイレンの音に起こされたのだ。 最初は「火事かな」と思ったのだが、サイレンの先からかなり多くのエンジン音が聞こえる。 暴走族である。
夜中に聞くパトカーのサイレンの音というのはかなり響く。 暴走族はいつものことだから、最近は、そのせいで目が覚めることはない。 しかし、パトカーのサイレン音は、夜中に耳が慣れてないせいで目が覚めてしまう。 つまり、普段は迷惑になっている暴走族が迷惑ではなく、それを取り締まる側の音が迷惑になっているのだ。 普段から取り締まりに力を入れていたとすれば、こちらの耳も慣れているはずだから、目覚めるようなことはないだろう。 しかし、今日のように目覚めてしまうというのは、取り締まりを普段から真面目にやっていない証拠である。 と思われてもしかたないだろう。
サイレンのせいで、寝付くのに1時間以上も要してしまった。 結局、朝起きると8時を過ぎていた。 おかげで日記も、この有様だ。
休みだった。 朝は比較的遅くまで寝ていた。 しかし、普段より1時間ほど多めに寝た程度だ。
昨日から、今日は小倉に行く予定にしていた。 最近発売された気になる楽器があったので、それを見に行くのだ。 HPで検索したら、小倉のS楽器に、それは置いてあると書いてあった。
午前11時40分。 「さて、何時頃家を出ようか」と思っていた矢先、携帯電話が鳴った。 ドコモショップからだった。 先日、FOMAの新機種について問い合わせをしていたのだが、それが入ったとのこと。 そのドコモショップも、都合よく小倉にある。 「じゃあ、後ほど伺いますから」と電話を切った。
実は、今ぼくは、毎月無駄なお金を払っている。 それは携帯電話である。 当初、ぼくの活動範囲でFOMAの電波が届かないことはなかった。 ところが、4月の改装でそうではなくなった。 ところが新しい売場の場所には電波の届かないのだ。
やむなく、ぼくは新しい携帯を持つこととなった。 遊びだけで持つのなら、別に買い足す必要もないのだが、半分は仕事に使っている。 5月のある日、隣の店長が「お前、何で携帯の電源を切っとるんか!」と怒鳴り込んできた。 「いや、切ってないですよ」と言いながらFOMAを見ると、『圏外』表示になっている。 「これはいかん」と思ったぼくは、昨年の12月まで使っていたムーバを復活させることにした。 つまり、携帯電話を2台持つことになったのだ。
仕事と遊びで携帯を分けるというのは、実に面倒である。 とはいえ、どちらも料金を払っている以上、使わないのはもったいない。 そこで、FOMAのほうはプライベート、ムーバのほうを仕事用と分けて使っていた。
数日前、ドコモから機関誌が届いた。 そこに、「FOMAのエリアでも、ムーバのエリアでもこの一台でOK!」という文字を見つけた。 FOMAの電波が入らないところは、自動的にムーバモードに切り替わるという代物である。 直感的に「これは買いだな」と思った。 この機種を手に入れることによって、ムーバのほうは解約出来る。 FOMAだと契約プランも安いので、そうすることによって月に6千円、年間7万2千円が浮く計算になる。
さっそく知り合いのドコモショップに電話した。 「今置いてありますか」 「いいえ」 「じゃあ、予約しますので、入ったら連絡下さい」 「はい、わかりました」 ということで、「入りました」という電話をもらったのだ。
午後1時の電車に乗って小倉に向かった。 最初に行ったところは、ドコモショップだった。 機種を見せてもらい、納得したところで、契約をした。
ところが、「しんたさん、誠にすいませんが」と言う。 「何でしょう」 「あのう、買い増し(FOMAの場合、買い換えとは言わない)期限がまだ来てないんですけど」 「え?」 「あと1ヶ月お待ち下さい」 今買うと、倍以上の価格になると言う。 しかたなく、8月に買う約束をして、ぼくは店を出た。
この時、何となく嫌な気がした。 「もしかして…」 その予想は当たった。 その後、S楽器に行ったのだが、お目当ての楽器は見つからなかった。 店の人に聞くと、「何ですか、それ」という感じだった。 「ネットで見たんですけど、北九州はここでしか扱ってないようになっているんですが」とぼくが言うと、店の人は「それは、更新されてないからでしょう」と訳のわからないことを言った。 更新されたからこそ、新しい楽器が載っているのではないか。 きっと彼の知識の中には、その楽器はなかったのだ。 だから、そんな受け答えしかできなかったのだろう。 ということで、ぼくはその店を立ち去った。
結局、何一つ目的が達せられなかった。 いったいぼくは、何をしにわざわざ小倉まで行ったのだろう? しかも、小倉では雨に降られて、ずぶ濡れになるしまつである。 そんな中で収穫があったもの、それは二つの『SPIRIT』だろう。 一つはタバコである。 福岡限定の『SPIRIT』というタバコを手に入れたこと。 もう一つはマンガ。 厳密に言えば『SPIRITS』であるが、そこで連載している『20世紀少年』の13巻が出ているのを見つけたことである。 しかし、こういうのは別に小倉まで行かなくても手に入ったわけだし… やっぱり損をした気分で一杯である。
2003年07月03日(木) |
しんたのブランド その4 |
【ZiPPOのライター】 先日ちょっと触れたが、ぼくはZiPPOのライターを3つ持っている。 それらすべて自分で買ったものではなく、海外のお土産とか贈り物のお返しとかでもらったものである。 海外物のZiPPOは、アーミーショップに売っているような渋いZiPPOではなく、例えばハワイのお土産はハイビスカスやマウイ島の画を描いたもの、グアムのお土産は椰子の木が刻印されたもの、といった具合である。 また、お返しでもらったものは、派手な画などは入ってないものの、何か英語が書いていて、いかにも贈答品といった品のいい物に仕上がっている。 やはりZiPPOを持つなら、金か銀無地のオーソドックスなものがいい。
さて、先日も言ったように、ぼくはこれらのライターを一度も使ったことがない。 オイルを入れるのが面倒だし、ポケットに入れるとかさばってしまう、などということは書いたが、実はもう一つの理由があるのだ。 それは、火を点けた時の、あのオイルの臭いである。 ぼくは昔から、あの臭いが嫌いなのだ。 吐き気さえもよおしてくる。
ということで、この3つのZiPPOライターは、長い間机の中に眠ったままである。
【ホープライト】 今年の7月1日、つまりタバコ値上げの日、ぼくはおよそ10年ぶりにタバコを変えた。 それまで吸っていたマイルドセブン・スーパーライトBOXをやめ、ホープライトを吸うことにした。
ぼくがタバコを吸い始めてから、最初に定番にしたのがマイルドセブンだった。 以降、2代目はマイルドセブン・ライト、3代目がマイルドセブン・スーパーライト、4代目マイルドセブン・スーパーライトBOXに次いで5代目のタバコになる。
それまでマイルドセブン系だったのに、どうしてホープに変えたのかというと、先日『ショートホープ・ブルース』のことをこの日記に書いたのだが、その後で急にショートホープが吸いたくなった。 そこでぼくは、翌日ショートホープを購入した。 封を開け吸ってみると、これが美味しいのである。 ほとんど無味に近いスーパーライトBOXと比べると、雲泥の差がある。 「タバコとは、こんなにも美味しいものだったのか」と実感させられたものだ。
あまりの美味しさに、これからホープに変えようとまで思った。 ところが、ニコチンやタールの量を見ると、それまで吸っていたスーパーライトBOXの約3倍もある。 ぼくがこれまでマイルドセブン系にこだわったのは、若い頃憧れたセブンスターの味を継承し、しかも軽いという理由からである。 健康のため、軽ければ軽いほどよかったのだ。 だから、徐々にニコチンやタールの量の低いタバコに変えていった。 それを、美味しいからという理由だけで変えるべきかどうか悩んだ。
その時、ふと頭に浮かんだことがある。 「そういえば、ホープライトというのがあったなあ。あれなら軽いかもしれん」 そこでさっそく、コンビニに買いに行った。 ニコチンやタールの量を見ると、ホープの3分の2、つまりスーパーライトBOXの2倍である。 この量は、マイルドセブンより少ないのだ。 ということは、ぼくのタバコの歴史から見ると許容範囲ということになる。
さて、味のほうであるが、これも及第点だった。 ホープと比べると、若干甘みがあるが、味そのものはさほど変らない。 さらに、10本入りということで、ポケットに入れてもかさばらないというおまけまで付いている。
そういうわけで、7月1日からホープライトを吸うことに決めた。 それを記念して『ホープライト・ブルース』でも作るかなあ。
【その他】 ・・・・ もう、ない。
2003年07月02日(水) |
しんたのブランド その3 |
その間、ぼくは3本のギターを買っている。 一つはタカミネ物で、メインのギターよりも一回り小さなやつだった。 材質も、メインのものと同じく、ハワイアンコア材を使っていた。 このギターは、その後友人に譲った。
もう一つはモーリスだった。 店で弾くギターが一本欲しかったのである。 店に、長い間売れ残っていたギターがあったので、それを買うことにした。 4万円くらいのギターで、音もそこそこよかった。 当初は暇を見つけては店で弾いていたのだが、その後小倉のスナックで歌うことになり、そこに常駐させることにした。 今も、そのギターは、そのスナックにある。はずだ。
3本目はマーチンである。 中古のD28だった。 10万円かそこらで手に入れたのだが、とにかく音がよかった。 「これぞ、マーチン!」という音である。 しかし、このギターはあまり弾かなかった。 弾き込めばまだまだいい音が出たのかもしれないが、恐れ多くて弾けないのだ。 保管にも気を遣った。 とにかく、散らかったぼくの部屋で管理することは、不可能に近かった。 そういった理由から、ぼくは半年もおかず、このギターを売ることにした。 ほとんど弾いてなかったので、価格もそのままでよかった。
33歳の時、メインで使っていたタカミネのアンプが壊れたため、それと同じ機種を買い、それをメインのギターとした。 またサブギターとして、友人に譲った小ぶりのタカミネと同じ機種を再び購入。
39歳の時、取引先でマーチンを取り扱っているという情報を得た。 カタログを送ってもらい、それを見ていると、以前ぼくが持っていた機種D−28が破格値で出ていた。 「これは買わない手はない」と思ったぼくは、さっそく取引先に電話をかけて注文した。 それと同時に、サブである小ぶりのタカミネを、知り合いに売った。
さて、人生二度目のマーチンである。 店に届いたマーチンを、ぼくはさっそく家に持って帰り、メインの座に据えた。 ところが、今回も恐れ多くて弾けない。 だが、いくら破格値だったとはいえ、前回の中古よりも多額の投資をしている。 恐れ多いながらも、せっかく買ったんだからと、なるべくこのギターを弾くように心がけた。 そのおかげで、マーチンの音を残すことが出来た。 「歌のおにいさん」の中の、『ショートホープ・ブルース』のギターの音はマーチンの音である。
ところが購入してから2年が経ったある日、車をぶつけてしまい、修理代が必要になった。 持ち合わせのなかったぼくは、「どうしようか?」と考えたあげく、マーチンを手放すことにした。 よほどぼくはマーチンと縁のない人間なのだろう。
ところで、その時売りに出したマーチンがその後どうなったのかというと、売れることは売れた。 しかし、その代金は振り込まれなかった。 その経緯は2年前の今日の日記に書いているので、興味のある方は、それを見て下さい。
その後ぼくはパソコンにハマってしまい、ギターに関心を抱かなくなった。 現在ぼくの手元にあるギターは、33歳の時に買ったタカミネだけである。 このギターが、ぼくの人生最後のギターとなるかどうかは、まだわからないが、再びギターを買うことがあったとしても、よほどのことがない限り、ぼくはタカミネを選ぶだろう。
2003年07月01日(火) |
しんたのブランド その2 |
【タカミネのギター】 9年間、楽器を販売していた関係上、ギターに関してはこだわりを持っている。 ぼくのギター遍歴は、弾き始めのものは別として、2台目からは名の通ったメーカーものを持つようになった。 今あるかどうかはわからないのだが、2台目はジャンボというメーカーのギターだった。 買ったのは高校3年の頃で、音などはわからなかったが、楽器屋の人が「単板仕様ですから、弾き込んでいくうちに音が良くなっていきますよ」という言葉に惹かれた。 価格も3万円という、予算通りの価格だったので、それに決めた。 『歌のおにいさん』にある曲は、ほとんどこのギターで作っている。
3台目はオベーションだった。 ポール・マッカートニーがオーストラリアやアメリカでライブをやった時に使っていたのを見て、憧れを持ったのだ。 買ったのは21歳の時だった。 20万円を超える代物で、当初夏にアルバイトをしたお金で買おうと思っていたのだが、それだけでは間に合わず、残りを分割払いにした。 パリパリした音が気に入って、その後何年間かメインで使うことになる。
4台目はタカミネだった。 買ったのは23歳の頃だった。 オベーションが現役の時に、もう一台セカンドギターが欲しいと思っていた。 その頃すでにぼくは楽器を販売していた。 そのため、いろいろなギターを試弾することが出来た。 ヤマハ・モーリス・トーカイ・Kヤイリ・Sヤイリ・タカミネ・マーチン・ギブソンなど、そこにあったギターは、全部弾いてみた。 まあ、あくまでもセカンドギターとしてだったので、洋物で高価なマーチンやギブソンといったものは、最初から度外視していた。 予算は6万円前後で、カリカリした音が欲しかった。 その条件に見合ったものが、タカミネとKヤイリだった。 どちらも捨てがたい。 いろいろと迷ったあげく、タカミネに決めた。 決め手になったのは、タカミネのそのギターは、ギターとしては珍しくハワイアンコア材を使っていたからである。 ウクレレにはこの材質を使った物はけっこう多いのだが、ギターはタカミネの他にはマーチンに一機種あるくらいだ。 もう一つの理由は、アンプを内蔵していたからである。 アンプ内蔵のアコースティックギターは、今は主流になっているが、当時はまだ珍しかった。
さて、セカンドギターとして買ったタカミネだったが、すでにオベーションの音に飽きたこともあり、メインとして使っていくようになる。 その後、30歳くらいまで、このギターがメインとして君臨した。
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