頑張る40代!plus

2003年06月30日(月) しんたのブランド その1

【Leeのジーンズ】
ぼくは21歳から40歳まで、ずっとLeeのジーンズを愛用していた。
何度も言っているが、21歳の時、ぼくは東京にいた。
ある日、友人と代々木の街を歩いていると、ジーンズの即売会をやっているのに出くわし、興味本位でその会場に入っていった。
狭いながらも、いくつかのブランドがブースを作っていた。
最初は何も買うつもりがなかったので、ただ店の中をぐるぐると回っていたのだが、あるブースの前でぼくは動けなくなった。
そこに、ぼくが長い間イメージし続けてきたジーンズがあったのだ。
そのブースこそが、Leeのコーナーだったのだ。

とにかくファンションに関しては疎いぼくだったので、Leeと言われてもピンと来なかった。
当時ぼくの頭の中にあったジーンズのブランドは、あのエドウィンだけだった。
そこで、ぼくは友人に尋ねた。
「おい、Leeっちゃ何か?」
「有名なブランドだよ」
「リーというくらいだから、香港か韓国のものか?」
「いや、アメリカ製」
「ふーん」
値段を見ると、1万円を超えているではないか。
今でもそうだが、1万円を超えた衣服などを見ると、ぼくは構えてしまうのだ。
「えらく高いのう」
「いや、安いよ。これは」
「でも、1万円を超えとるやん」
「でも、これはお買い得だよ」
「へえ、そうなんか」
ぼくはしばらく悩んだが、買うことにした。
「よし、決めた!」
「え、買うのかい?」
「おう。どうせ買おうと思っとったけ」
ぼくは、バイトで稼いだ1万ちょっとのお金を出し、店の人に渡した。

それから40歳になるまで、ぼくはLeeのジーンズを愛用した。
とはいうものの、Leeを買い足していったわけではない。
その時に買った1本を、19年間はき続けたのである。
会社にはスラックスをはかなくてはならなかったし、家ではジャージをはいていた。
そのため、遊びに行く時以外は、ジーンズをはくことがなかった。
つまり、買う必要がなかったのである。

さて、40歳を境に、ぼくはLeeをはかなくなった。
というより、はけなくなったのだ。
理由は、あまり言いたくないが、ウエストが合わなくなったのだ。
Leeを買った当時のウエストは79センチ、40歳時のウエストは86センチだった。
これではとうていはけない。
ジーンズのほうもかなり痛んでいたので、渋々捨てることにした。

その後、Leeをはくことはなくなった。
40歳から6年間に買ったジーンズといえば、サンバード(長崎屋)製、ユニクロ製、それと最近買ったVAN製の3本である。
いずれも5千円以下の安物である。
確かにLeeは長持ちした。
だけど、もうジーンズに何万円もかける気はない。



2003年06月29日(日) ズボンのポケット

ぼくのズボンのポケットの中は、いつもいっぱいである。
何が入っているかというと、右のポケットには家や車の鍵が入っている。
夏場はタバコとライターも入っている。
タバコはマイルドセブン・スーパーライトBOXである。
箱が角張っているので、どうしてもポケットは膨らんでしまう。
ライター。
愛用しているのは、3本組98円のライターである。
ぼくはZIPPOのライターをいくつか持っているのだが、使ったことはない。
オイルを入れるのが面倒であることと、ポケットに入れるとかさばるからだ。
ポーチか何かに入れて持ち歩けばいいじゃないか、と言う声もある。
しかし、ぼくはそういうものを持ち歩く習慣を持ってないし、基本的におっちょこちょいであるぼくのことだから、ついうっかりして、どこかに忘れてくるに違いない。

左のポケットには、千円程度入った小銭入れ。
お金はそれ以上持ち歩かない。
持っているだけ遣ってしまうからである。
つまり、自分へのセキュリティである。
夏場はその上に携帯電話も入れている。
これも、タバコと同じ理由からである。

後ろの左ポケットには、免許証入れ。
中には免許証・キャッシュカード2枚・クレジットカード2枚・メンバーズカード2枚、数々の領収書・本屋の請求書・お守り袋などが入っている。
なぜか刑事さんの名刺なんかも入っている。
そのため、革の免許証入れは、BOXタイプのタバコの箱より厚くなっている。
領収書や本屋の請求書に関しては、期限が来るまでは入れている。
大切なものなので、別の所に保管していたほうがよさそうなものであるが、ぼくの場合はそうではない。
家で保管する場所といえば、机の引き出しの中である。
しかし、ぼくの机の引き出しは開かない。
なぜなら、ぼくが大切だと思っているものがたくさん入っていて、詰まっているのである。
無理して開けようとすると、書類などはすぐに破れてしまう。
そういう意味で、免許証入れの中が一番安全なのである。

後ろの右ポケットには給料袋。
もちろん明細のみである。
これは給与明細を貰った時、入れるところがないので仕方なくそこに入れているだけのことで、別に深い意味などはない。
ズボンを履き替える時、どういうわけか、鍵や小銭入れと同様に、給与明細も替えたズボンのポケットに入れ直している。
給与明細などは1回しか見ないので、後は別に家に置いていてもいいのだが、その時は何も考えずに入れ直している。
ポケットから出すのは、その愚を悟った時である。
しかし、次の月になると、そのことを忘れ、同じことをやっている。

ふと思ったことだが、美空ひばりの『東京キッド』という歌の一節、「右のポッケにゃ夢がある…」は、右のポッケには何も入ってないということなのではないだろうか。
何もないから夢が持てるのだ。
給与明細や請求書なんかが入っていたら、夢を持てないだろう。



2003年06月28日(土) ひとりぼっち

 『ひとりぼっち』

 気がついてみればいつもひとりぼっち
 気楽につきあっていけそうな皆さんですがね
 振り向いてみれば誰もいなくなってね
 そんな毎日がぼくをつつんでる

 寂しいというのが本音なんだけど
 いつもひとりっきりで強がってみてね
 ひとりぼっちなんですね、もともとが
 そうそう、どこへ行ってみたってね

 だから今だけは笑っていましょうよ
 ね、今夜はとてもビールがおいしいんだから
 ひとりぼっちの部屋で乾杯してね
 青春、ああこれがぼくの青春でしょうよ

 寂しげな街がぼくによく似合う
 なんてかっこいいこと言っているけど
 つまりひとりぼっちのいきがりでしてね
 さよなら、また明日逢いましょうよ

  気がついてみればいつもひとりぼっち
  そんな毎日がぼくをつつんでる


最近、ここもお客さんがめっきり減り、寂しいサイトになったようだ。
ま、元々お客さんを呼ぼうというサイトではなかったんだし、そういう現状を気にせずに頑張ろうと思う。

しかし、考えてみれば、いつもぼくはこうなのだ。
上の詩の通り、気が付いてみたらいつもひとりぼっちなのだ。
泣き言でも負け惜しみでもなく、これがぼくの宿命なのだと思う。
19歳の頃に書いていた日記ノートのタイトルは『孤独と焦燥』であるが、それは、漠然とそういう宿命を感じ取っていたからだろう。

振り返ってみると、ぼくは小学生の頃から、いつもクラスの中心メンバーの一人だったが、そのわりには放課後や休日に、友人たちといっしょに遊んだ記憶というものをあまり持っていない。
いっしょに遊んでいたのは、ほとんど近所のガキである。
ま、別にぼくは除け者にされているわけではなかったので、気にはしなかったのだが、それでも休み明けの月曜日に「昨日○○達と、××に遊びに行ったっちゃ」などと聞くと、あまりいい気持ちはしなかった。

社会に出てからも然りである。
例えば、20代の趣味が中国思想や仏教思想だったというように、人とはちょっと違ったものに興味を持っていたため、同世代の話題について行けないことが多かった。
それでも、他人の趣味に合わせるようなことをしなかったので、そういう人たちとの溝を深めていった。
「しんた、あいつ変っとるけなぁ。考え方も年寄臭いし」
というのが、その当時のおおかたのぼくに対する印象だったようだ。
ところが、最近は逆にぼくの考え方が若返ってしまって、同世代の人たちとの溝が出来てしまっている。

そういう経験を繰り返していくうちに、いつしかぼくは、ひとりぼっちの宿命を持っているんだと思うようになった。
今の会社は中途採用であるが、どうも肝心の所で仲間はずれになっているような気がしている。
まあ、そういうことを気にしても何もならないことを知っているから、極力そのことは考えないようにしているのだが。



2003年06月27日(金) ショートホープ・ブルース(歌詞編 下)

9月になって、例の友人が「ポプコンに応募した?」と聞いてきた。
「いいや」
「どうして?」
「もう、あの歌はうたわん」
「え?」
「難しいんよ。おれにはとうてい歌えん」
「そうか。もったいない…」
ということで、その後『ショートホープ・ブルース』を人前で歌うことはなくなった。

それから10年が経った頃のことである。
ある友人から、「今度結婚するんよ。ぜひ弾き語りやってもらいたいんやけど」と言われた。
「弾き語りか…。拓郎の歌でいいか?」
「いや、しんたのオリジナルがいい」
オリジナルと言われても、ぼくがその頃人前で歌っていた歌は、すべて別れの歌ばかりだった。
「別れの歌しかないぞ」
「いや、あれだけオリジナルがあるんやけ、何かあるやろ」
その時、ぼくの頭に『ショートホープ・ブルース』が浮かんだ。
「ないことはないけど、ずっと歌ってない歌やし…」
「そうか。じゃあ、それ歌って」

「ショートホープ・ブルースか…」
ぼくは途方に暮れた。
10年以上も歌ってない歌である。
しかも、披露宴には200人以上の人が来るという。
渋々引き受けたものの、ぼくはその時から緊張してしまった。

とにかく練習である。
幸い、その当日勤めていた会社には、使っていないスタジオがあった。
ぼくは、仕事が終わったあとで、そのスタジオで練習することにした。
さすが10年のブランクである。
元々うまく歌えない歌が、さらにうまく歌えなくなっている。
それでも、毎日1時間以上は練習した。
家に帰っても練習で、結婚式までの2ヶ月間は、まさに『ショートホープ・ブルース』漬けだった。

そして当日。
午前中、ぼくは家で最後の練習をした。
ところが、その時不思議なことが起きた。
『ショートホープ・ブルース』を歌っている時、急に思考と体がバラバラになるような感じがした。
そのとたん、勝手に口が動き出した。
どこにも力が入ってない。
おそらくこういう状態を自然体と言うのだろう。
ぼくはそう思いながら、勝手に歌う自分の口を見ていた。

さて、いよいよ本番である。
やはり自信がない。
横に後輩が座っていた。
彼はかつてバンドをいっしょにやっていたメンバーで、この『ショートホープ・ブルース』を知る、数少ない人間の一人だった。
「おい、やっぱり他の歌をうたう」
と、ぼくが弱音を吐くと、後輩は「何言いよるんね。ちゃんとショートホープ歌って下さい」と言う。
そこで、ぼくは開き直った。
もう矢でも鉄砲でも持ってこい、といった気分だった。

「では、新郎のお友達を代表して、しろげしんたさんに歌ってもらいましょう」という無責任なMCの声と共にぼくは登場した。
「今日は何を歌ってもらえますか」
「はい、オリジナルで『ショートホープ・ブルース』という歌を」
「では、お願いします」

ぼくは歌い始めた。
昼間の状態がまだ続いているようで、勝手に口が動き出した。
意識は、そこにいる人、一人一人を見る余裕があった。
およそ4分後、歌い終わったぼくに待っていたものは、大きな拍手だった。
人前で歌って、これほど感動したことはなかった。
席に戻ると、友人たちがぼくに駆け寄った。
「しんた、よかったぞ」
彼らは異口同音に、ぼくの歌を讃えてくれた。

それ以来、ぼくは人の結婚式で歌を依頼されると、決まってこの歌をうたってきた。
なぜなら、生まれてからこの方、一番多く歌った歌であるからだ。
あいかわらず自分のものにはなってないが、練習の重みはどのオリジナル曲よりも勝っている。
その分、この歌の持つ独特の特徴や癖を熟知しているつもりである。
おそらくこの先も、この歌をうたっていくだろう。
いつか、「やさしすぎる君の頬」に再開する日のために。

ちなみに、歌のおにいさんに入っている『ショートホープ・ブルース』は39歳の時に録音したものである。



2003年06月26日(木) ショートホープ・ブルース(歌詞編 上)

前にも話したが、ぼくは高校時代から8年間想い続けた人がいた。
『ショートホープ・ブルース』を書いたのは21歳の時だから、その真っ最中に書いたということになる。。
当然、ここに出てくる『君』はその人のことだ。
その人のどこが好きだったのか?
まあ、そういうことは一概には言えないが、その要素の一つに頬というのがあった。
その頬を見ると、なぜか落ち着いた。
今で言う『癒し』ということになるだろうか。
その頬を見るたびに、優しくなれる自分がいた。
この歌詞は、そんな自分を思い出しながら作ったものである。

さて、歌詞と言うくらいだから、当然この歌詞には曲がついている。
あらかじめストックしてあった曲を引っ張り出して、この歌詞で歌ってみた。
数ある曲を引っ張り出してみたのだが、何か一つピンと来ない。
そこで、新たに曲を作ることにした。
モチーフはサディスティック・ミカ・バンドの『さよなら』という曲だった。
いろいろとギターコードをいじくりながら作った。
出来上がってみると、なかなかいい。
曲が出来た直後、「これは人に聞いてもらわないと」と思い、さっそくギターを持ち出して、代々木公園で歌いに行った。
ところがである。
歌のおにいさんを聴いてもらったらわかるが、この曲は派手な曲でない上に、ガンガンやる曲でもない。
そのため、あの広い代々木公園では誰一人見向きもしなかった。

数日後、何人かの友人の前で歌う機会があったので、この歌をうたってみた。
歌い終わったあと、「どうせ目立たん歌やし」などと悲観していると、友人の一人が「もう一度歌って」というアンコールがかかった。
二度目を歌い終わったあと、その友人が言った。
「この歌、いけるよ。ポプコンか何かに出してみたら?」
「そんなに良かった?」
「ああ。コード進行がユニークだ」

おれを聞いて気をよくしたぼくは、この曲でポプコンを受けようと思い立った。
ところがである。
この曲は単調な曲ではあるが、細かい節回しが所々にある。
そのため、歌うのが非常に難しいのだ。
もし、その節回しを適当にやってしまうと、この歌は生きてこない。
そこで、練習する必要が出てきた。
しかし、狭い下宿で練習をしていると、下宿のおばさんからは小言を言われ、他の部屋の人たちから白い目で見られる。
スタジオでも借りて、とは思ったものの先立つものがない。
考えたあげく、思いついたのはトラックの荷台であった。

当時、ぼくは運送会社でアルバイトをしていた。
帰りにいつもトラックの荷台に乗せてもらっていたのだが、そこでだったら、どんなに大きな声を出しても誰も咎めない。
ということで、トラック荷台はスタジオと化した。
バイトは3ヶ月半やったので、その間毎日荷台で歌っていたことになる。

ところがこの曲、歌えば歌うほど難しくなっていくのだ。
それまで歌ってきた曲はすべて消化出来ていたのだが、この歌だけはどうも消化出来ない。
そのうち、ぼくはこの歌をうたうことに嫌気がさしてきた。
バイトを辞めた頃は、すでに諦めていた。



2003年06月25日(水) ショートホープ・ブルース(タバコ編)

 『ショートホープ・ブルース』

 ねえ、ちょっと目を閉じると
 君の姿が見えてくるんだよ
 ねえ、ちょっと君が笑ってくれると
 ぼくはまた眠れなくなるよ

 ねえ、寝付かれない日々だけど
 いつもぼくはショートホープを
 ねえ、いつか君にあげたいんだけど
 君にはとってもわからないだろうね

  ねえ、だからさ わからない君に
  ブルースを歌ってあげるよ
  ねえ、優しすぎる君の頬に
  ショートホープ・ブルースを

 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープ・ブルース
 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープブルース

  つかの間の夢に うつむいたぼくの心を
  静かになだめてくれる
  ねえ、だからそんな君の頬に
  ショートホープ・ブルースを

 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープ・ブルース
 ねえ、いつか君と暮らすんだよ
 だからぼくはショートホープブルース


『ショートホープ・ブルース』、無理矢理和訳すれば『短望節』になる。
これを作ったのは1978年だから、もう25年前になる。
ちょうどぼくが東京に出た年である。
ようやく一人暮らしにも慣れてきた頃だった。

当時、ぼくはマイルドセブンを吸っていた。
それがどうしてショートホープなのかというと、それは一種の憧れからである。
高校時代から、ぼくはショートホープにカッコ良さを感じていた。
「これぞ男のタバコ!」という感じである。
もちろん、当初はこのタバコを吸っていた。
味も好きだったし、安かったし。
だけど、どうもぼくにはきつかった。
そのうち、当時の流行りだったセブンスターに換え、マイルドセブンが発売されるとそれに換えていった。
吸いたいけど吸えないジレンマが、一種の憧れを作ってしまったと言ってもいいだろう。

とはいえ、その後、ぼくは何度かショートホープを口にしている。
ただし、軽くするために市販のフィルターをつけてである。
しかし、フィルターをつけると味は落ちる。
何本か吸っていると、ヤニがたまり、さらに味がまずくなる。
自動販売機で2箱買うのだが、どうしても1箱余ってしまう。
そのうち、馬鹿らしくなって止めてしまった。
ところが、何年か後に、また『憧れ』が頭を持ち上げてくる。
そしてまた同じことを繰り返している。

さすがに最近は、ショートホープを吸うのを遠慮している。
やはり、馬鹿らしいからである。
体がマイルドセブン・スーパーライトに慣れすぎたせいもあるだろう。
たまに他のタバコを吸ったりすることもあるのだが、どうも体が受け付けないのだ。
そうはいうものの、やはり心のどこかに、ショートホープの憧れというのは残っている。
いつかまた挑戦してみたいものだ、と密かに思っている。



2003年06月24日(火) ぶっつけ本番

現在、翌朝の7時44分である。
実は、今から昨日の日記を書き出すのだ。
許された時間は、午前8時40に出かける準備をするので、あと56分である。
「どうせ下書きしてるんだろう」と思われるかもしれないが、下書きはしてない。
「でも、ネタくらいはあるだろう」
ネタもない。
つまり、ぶっつけ本番である。

『ぶっつけ本番』
ぼくは、何度この言葉を実践したことだろう。
古くは学生時代。
中間や期末といった定期考査の時は、ほとんどこの『ぶっつけ本番』をやっていた。
しかし、授業をまともに聞いてないし、「予習復習はもってのほか」と思っていたぼくにとって、この『ぶっつけ本番』はちと荷が重かった。
元々基礎がないものだから、つぶしがきかない。
ということで、この『ぶっつけ本番』は、いつも玉砕に終わった。

卒業してからの『ぶっつけ本番』といえば、就職活動をしていた時の面接があった。
最初は「おれのすべてをぶっつけてやる!」などと意気込んでいったため、ここでもあえなく玉砕。
しかし、幾度も実践で鍛えていくうちに、面接の要領を得ることになる。
20歳の頃の面接成功率が10%に満たなかったのに対し、22歳の頃の面接成功率はほぼ100%であった。
前に勤めていた会社の面接の時は、髪の毛が長いという理由から、危うく落とされそうになった。
「やばい!」とは思ったが、そこは面接の『ぶっつけ本番』慣れしている身。
ぼくはとっさに話題をかえ、そちらのほうに相手の関心を持っていかせた。
その話題とは、それまでのアルバイト遍歴である。
それをとうとうと述べ、合格に結びつけた。

30代半ばに転職したのだが、その時の就職活動も、すべて『ぶっつけ本番』だった。
その頃になると、面接などというものはもう余裕であった。
履歴書にそれまでのキャリアを詳しく書いていたので、それを説明するだけですんだ。
あとは企業がそのキャリアを好むかどうかの問題である。

『ぶっつけ本番』といえば、ぼくはよくライブの夢を見る。
内容はいつも同じで、これからステージ本番という時に、歌詞やギターコードを忘れてしまって、焦る夢である。
「えーい、なるようになれ!」と開き直っている。
で、幕が開くところで目が覚める。
けっこうリアルな夢なので、目が覚めたあとも、しばらく興奮していることが多い。

その焦りというのは、人の結婚式に行って、係員から「突然で申し訳ありませんが、新郎が『ぜひ、しんたさんに歌ってもらいたい』と言っておりますので、ここで歌ってもらえませんでしょうか」と言われた時の焦りである。
こちらは歌うつもりで言ってないので、何も準備してない。
周りを見回すと、100人以上のお客である。
昼間なので、当然昼酒を飲んでいるため気分が悪い。
新郎の頼みなら、無碍に断ることも出来ない。
そこで、「えーい、なるようになれ」と開き直るのである。
歌ったあともしばらくは興奮している。
おそらく、その夢は、その経験を再現したものだろう。

さて…
あ、もう予定時間を過ぎている。
現在、8時46分である。
これはいかん。
あと14分で出かける仕度をしなくてはならない。
ここからが、ぶっつけ本番である。



2003年06月23日(月) 見張り塔からずっと

「いつの頃からだったろう、君の存在に気づいたのは」
(またその話か)
「いや、今日こそははっきりしておきたいんだ」
(別にそんなことどうでもいいじゃないか)
「じゃあ、君はいつからここにいるのか覚えていると言うのかい?」
(そういうことも忘れたなあ。ごく最近と言えばそんな気もするし、ずっと以前からと言えばそういう気もする)
「わからないな」
(そう、それでいいんだよ。ぼくは君が気づく前から、君のそばにいるんだから)

「生まれた時のぼくはどうだった?」
(どうだったって、今と何ら変わらないよ。見えるものを見て、聞こえるものを聞いていただけなんだから)
「生まれた時と変わらないってことはないと思うんだけど」
(変わってないよ。変わったと思うのは君の錯覚だよ)
「でも、現にぼくは成長しているじゃないか」
(成長ねえ。ただ服を着替えただけと思うんだけど)
「ああ、毎日服は着替えているよ」
(そういう意味じゃない。人は誰も、存在という服を着ているのだ。その時その時、その場その場で、その服は変わっていく。しかし、服はいつも変わるけど、それを着る人はいつも同じなんだ)
「よくわからない」
(わからなくていいんだ)

「ぼくには多くの敵がいる。いったいどう対処したらいいんだろう」
(気にするな)
「気にするなと言われても、気になるものはしょうがない」
(君が敵だと思うから敵なんだ。敵と思わなければ気にならないだろ)
「敵と思うななんて、そんなことできるわけないじゃないか」
(相手の存在が嫌なんだろ?)
「そうだよ」
(『嫌』を心の中から追い出せばいいじゃないか)
「そんなこと出来るはずないだろ」
(じゃあ、『嫌』を楽しんだらどうだい)

「ぼくは小さい頃から、ほら吹きって言われてるんだけど」
(それはしかたないだろう)
「何で?」
(ぼくがガイドラインだからさ)
「誰がそんなこと決めたんだ?」
(誰がって、君が生まれる前から決まっていたことさ)
「誰が決めたんだ?」
(君だよ)
「ぼくが生まれる前に、君をガイドラインと決めたというのか?」
(ああ、そうだよ)
「それはおかしい」
(どうして?)
「無の状態のぼくが、君を認識するわけがないじゃないか」
(もちろんだ。だけど、君はちゃんとぼくを選んだんだよ。というより、生まれる前から、君はぼくで、ぼくは君だったんだ)
「君は君、ぼくはぼくじゃないか」
(それは違う)
「どう違うんだい」
(ぼくは君だから、ぼくでありうるんだ)
「またわからないことを言う」
(わからなくていいよ)
「君はいったい何者なんだ?」
(ぼくか。ぼくはペテン師さ)



2003年06月22日(日) 昼酒

披露宴でのこと。
困ったことが起きた。
ぼくが座っていたテーブルに5本のビールが運ばれてきたのだが、そのテーブルに座っていた人は、ぼく以外誰も酒を飲めなかったのだ。
乾杯の後、親戚の一人が「しんちゃん、このビール、あんた全部飲まなよ」という。
ただでさえ、寝不足や腰痛に悩んでいる身に酒は応えるのに、今日は慣れない礼服を着、窮屈なネクタイをしている。
普段のラフな格好で飲むのとは、勝手が違う。
飲む時は、無意識のうちに適度な運動をしているものである。
そのため、酒の攻撃をもろに受けないですむのだ。
しかし、窮屈な格好をしていると、それも出来ない。
しかも、昼間である。
ぼくは夜の酒は強い方なのだが、なぜか昼間の酒には弱い。
かつて、昼間にビール1杯飲んだだけで、吐いたことがある。
その晩、また飲み直しをしたのだが、その時はビール3本を空けたのにケロッとしていた。
体調が悪いわけではなかったのに、なぜ昼間吐いたのか、理由がわからなかった。
ぼくが昼酒に弱いと悟ったのは、ずっと後のことである。

「このビール、他のテーブルに回わすとか、人に注ぎに行くとかすればいいやん」
「だめ、あんたが全部飲み!」
しかたなくビールを飲んでいると、他の親戚の者が、「しんちゃんは日本酒のほうがいいやろ」などと言って、日本酒を注文した。
ビールでさえ手こずっているのに、この上日本酒なんて飲めるはずがない。
しかし、その時はすでに、「もう、どうにでもなれ」という気分でいた。

ということで、ぼくは注がれるままにビールや酒を飲んでいった。
最初は気分がよかったのだが、宴たけなわの頃、ついにやってきた。
下腹が痛い。
それも、激痛である。
ぼくは慌ててトイレに駆け込んだ。
下痢状態だった。
しかし、用を足した後、腹のほうはすっきりした。
「もう大丈夫」と思った矢先だった。
今度は頭痛が襲ってきたのだ。
後頭部が脈打ちだし、だんだんそれは頭全体を覆ってきた。
経験上、この頭痛は翌朝まで治らないのを知っている。
「明日の朝まで、この頭痛と闘わなければならないのか」、と思うと憂鬱になった。

披露宴が終わった後で2次会に誘われたのだが、ぼくはそれをキャンセルし、タクシーに乗って家まで帰った。
激しい頭痛が襲ってくる。
他にすることがなかったので、とりあえず寝ることにした。

起きてみると、もう午後8時である。
5時間ほど寝入っていたようだ。
まだ頭痛は続いている。
しかし、翌朝までこれは治らないとわかっているから、それについてもう頓着しなかった。
「飲み直し」
そう言って、ぼくはまた盃をとった。



2003年06月21日(土) 礼服と革靴

明日、親戚の結婚式がある。
実を言うと、行きたくない。
しゃちこばった結婚式や披露宴も嫌だが、何よりも嫌なものは、あの礼服である。
仕事上必要がないので、ぼくはスーツを持っていない。
いや、あることはあるのだが、前の会社にいた時に作ったものなので、体型が変ってしまった今、もはや着ることは出来ないだろう。
何せ、その当時の体重は68キロ、今の体重は79キロなのだから。
それに伴い、ウエストは5センチもアップしている。
もはや、人に譲るか、もしくは『青山』や『はるやま』に買い取ってもらうしか、方法は残っていない。

まあ、スーツは持たなくても不自由しないのだが、冠婚葬祭時に普段着で行くのもなんである。
ということで、礼服だけは持っている。
何度か着たことはあるのだが、スーツを着慣れないせいか、どうも様にならない。
そのせいで、なぜか人目を気にしてしまう。
そういうことが気になってくると、冷静に自分が見えなくなり、自分が自分でなくなるような気がするものである。

また、礼服にスニーカーを履くわけにはいかず、どうしてもあの堅い革靴を履かなければならない。
前の会社は、スニーカーなどはもってのほかというような風潮があった。
ぼくはそれが嫌だったので、「楽器屋やレコード屋にネクタイや革靴は似合わんでしょうが」と上司に食いついていた。
が、上司は耳を貸さなかった。
ジーンズ・スニーカーが認められたのは、ぼくが辞める2年前からだった。
ぼくはそのために何度も稟議書を提出したものだった。

なぜ、革靴が嫌かというと、それは昨日書いた腰痛に関係がある。
かかとの部分が堅いために、どうしても腰に負担がかかるのだ。
前の会社にいた頃、昨日書いたような状態になったことは何度もある。
しかも、かかとの堅い革靴なんかを履いているので、歩くたびに強い衝撃が走った。
会社を辞めた時、「もう革靴を履かなくていい」と思うと、ホッとしたものだった。

今、翌朝の9時20分である。
そろそろ時間である。
10時半挙式なので、準備して出かけなければならない。
まあ、タクシーを使って式場まで行くので、その間の人目は気にしなくていいのだが、革靴だけはどうしようもない。
なるべく腰に負担のかからないものを履いていくつもりだが、例の電気風呂に入ってから、よけいに痛みが増したような気がする。
サポーターなんかをして行ったら、礼服が入らないだろうし…。
こうなったら、杖でもついて行くかなあ。



2003年06月20日(金) 腰痛ブギ

何度かここで書いているが、ぼくは腰痛持ちである。
元々が立ち仕事である上、大型テレビやエアコンの室外機といった重たい物を20年以上も抱えてきたため、腰にかなりの負担がかかってしまったのだ。
さらに最近は、パソコンの前に座ったまま動かない生活まで加わった。
同じ姿勢のままでいることが、腰や肩に負担がかかるということを体験的に知ったのは、ついこの間のことである。
それまでは、正しい姿勢をとり続けていることで、腰痛や肩こりは治ると思っていたのだから、何と長い間、腰や肩に悪いことを続けてきたことかと思っている。

6月に入ってのことだが、また腰に鈍い痛み、というより重いだるさが出てきた。
まあ、雨期という特別な気候のせいもあるのだろうが、要は運動不足である。
そこで、だるさを軽減しようとして、つい無理な体勢をとったり、よかれと思って変な体操をやったり、自己流のマッサージをやったりしている。
それがまた腰に負担をかけているのだ。
まさに悪循環である。

さて、今日のことである。
今日は昨日とはうってかわって、終日青空の広がるいい天気だった。
おまけに、休みときている。
今日が給料日ということもあり、さっそく月例になっている銀行回りをすることにした。
いつもは銀行の駐車場に停めているのだが、腰にいい運動になると思って、今日は少し遠くの駐車場に停め、そこから歩くことにした。
ところがである。
今日は新しいサンダルを履いていったのだが、慣れないせいで、足にまめを作ってしまった。
当然、痛みをかばうため歩き方が変になり、そのせいでまた腰が痛くなり始めた。

これはどうにかしなくては、と思いついたのが、例のスーパー銭湯である。
温泉の効用に、腰痛・肩こりにいいと書いてあったし、そこには泡風呂やジェット風呂・電気風呂といった、数々のマッサージ風呂がある。
これを利用しない手はない。
と、銀行から帰り、すぐさまスーパー温泉に向かった。

金曜日だからということでもないだろうが、今日は人が多かった。
おかげで、マッサージ風呂にはなかなか入れなかった。
とりあえず体を洗い、順番を待った。
風呂に入ってから30分ほど過ぎた頃、ようやく一つの風呂が空いた。
それは電気風呂である。
『電電の湯』と書かれたこの風呂、実は低周波の風呂だった。
さっそくぼくは電極と電極の間に座った。
その時、「ズン!!」という衝撃が走った。
ちょうど腰の部分、というより骨盤の部分である。
腰が抜けるような、重い痛みだった。
しばらくその風呂につかっていたが、腰の痛みは増すばかりである。
我慢が出来なくなって、そこから出ようとした。
ところが立てない。
少し立ち上がると、また沈んでしまう。
沈むたびに、腰に痛みが走る。
風呂の縁に手を当て、何とか這い出した。

風呂から出ても、しばらく痛みは続いた。
以前、他の銭湯で、こういう風呂に入ったことがあるのだが、その時はピリピリする程度で、こんな痛みが走るようなことはなかった。
かなり腰が悪くなっているようだ。
「次の休みは、整骨院に行くか」
そんなことを考えながら、ぼくは銭湯を出た。



2003年06月19日(木) 続・台風6号

【8時40分】
いつもより早く出勤した。
もちろん渋滞を恐れてのこともあったし、木曜日は商品の搬入日であるからだ。
ラジオでは「北九州地区を除く福岡県全域の西鉄バスは運休」と言っている。
これは、北九州地区が県内で一番東側に位置しているので、雨風による影響が他の地域に比べるとまだ少ないためである。
しかし、台風が東に向かっている以上、ほどなくこちらも交通機関はストップするだろう。
そう思って車を進めて行った。

渋滞はまったくなく、車の数は普段より少ないくらいだった。
ところが、今日はタイミングが悪かった。
途中信号で何度も捕まった。
結局、通勤時間はいつもと変らなかった。

【9時20分】
会社に着き、「さてテレビで台風情報でも見ようか」と思った矢先のことである。
店長がぼくを呼んだ。
『何だろう?』と思い、事務所に行ってみると、店長が「今日からの売出価格のデータが全部飛んだんよね。リスト持ってきて、打ち直してくれん」と言う。
「えっ!」
台風情報どころの話ではない。
100件近いデータを、開店の10時までに入れ込んでしまわなければならない。
開店までじっくりと台風情報を見ようというぼくの計画は、そこで吹き飛んでしまった。

【11時】
こういう天気なので客足は悪いと思っていたが、案に違い、かなりの人出だった。
そのため、開店から接客に追われ、なかなか台風情報を見る暇がなかった。
台風情報にたどり着いたのは、まもなく11時になろうという時だった。
見ると、北九州の交通機関はすべてストップしている。
台風は、長崎の五島列島を通過したとのことだった。
しばらく台風情報を見た後で、ぼくは外の状況を見に行った。
「始まった!」
大雨である。
街が白く濁っている。
思わずぼくは、店の外に出た。
大雨を体感したかったのである。
雨がぼくの体を濡らしていく。
ところが、雨の勢いとは裏腹に、雨の粒が細かいのだ。
「ドドー」という滝のような雨ではない。
ただの「ザーザー」雨が激しく降っているだけだ。
「まだまだやなあ」と思いながら、ぼくは店の中に入った。

【13時】
それからしばらくして雨は小降りになった。
風もそこまで強くない。
台風情報を見ると、福岡市の状況が映し出されていた。
「えっ!?」
何と、通行人の傘が吹き飛ばされているではないか。
しかも、強風で沿道の樹木が倒れたと言っている。
それに比べて、こちらは何だ!?
風は強くなっているものの、樹木の上の方が揺れているだけである。

【13時40分】
ついにやってきた。
沿道の樹木がかなり強く揺れている。
再びぼくは外に出てみた。
「おおーー!!」
体ごと持って行かれそうな風である。
地面の砂が吹き上げて、ぼくの顔を殴りつける。
久しぶりの感触である。
ぼくは必死でこの風を受け止めようとした。
が、風の勢いは強く、2,3歩退いた。
もう一度、ぼくはチャレンジした。
しかし、あいかわらず風がぼくの体を持って行く。
その体感を楽しんでいると、店の窓から店長の声がした。
「あんた、何しよるんね」
「風と闘っています」
店長はあきれて笑っていた。

風の状況を説明しようと売場に戻った時だった。
正面玄関のドアが開き、空のカートが2台、店の中に飛ばされてきた。
カートは10メートルほど店の中を走ったあと、静に停まった。
こんな面白い光景にお目にかかれるとは、さすが台風である。

その時だった。
「男子従業員は店頭に集合」という店内放送が入った。
行ってみると、エクステリアのひさしが落ちている。
風でひさしを支えているフレームが折れたのだ。
いよいよすごい風になった。
この機を逃すものかと、ぼくは2階の屋上駐車場に駆け上がった。
そして、風を受け止めた。
1階の差ではない。
かなり強い風である。

そこでぼくは、一つの実験をした。
それは垂直跳びである。
跳び上がって、元の位置に戻れるかどうか確かめたかったのだ。
やってみると、50センチほど先に着地した。
風に押されている、いや飛ばされているのだ。
何度やっても、同じ結果になる。
快感だった。

【午後3時40分】
風は収まり、真っ青な夏空が広がった。
暑い。
今の季節が夏だということを、改めて思い知らされた。
台風はすでに山口県沖に移動し、日本海に抜けたという。
交通機関は徐々に回復に向かっている。
ようやく祭りは終わった。



2003年06月18日(水) 台風6号

【23時46分】
明日、台風6号が北部九州を直撃するということで、今からワクワクしている。
現在こちらの天気はというと、ほとんど無風状態で、雨も降っているのかどうなのかは定かではない。
福岡市や北九州市の小中学校は、早々と明日の休校を決めているが、もし直撃しなかったらどうするのだろうか。
まさか、土曜日に振替えるようなことはしないだろうなあ。

それにしても、台風が北部九州を直撃するというのは、久しぶりである。
1991(平成3)年の台風19号以来だ、と、ぼくの記憶はなっているが、おそらくそれ以降も台風は来たと思う。
しかし、あまりにその年の台風19号が印象的だったので、それ以降の台風のことを忘れてしまっているのだ。
その年の台風19号のことは、前にも書いたことがあるので割愛するが、ぼくが前の会社を辞める決意をしたのが、この台風19号が吹き荒れた日だった。
この台風、社会的には、青森リンゴが被害を受けたことで有名である。

さて、この台風が、その時並の猛威をふるうかどうかは未定である。
実際そうなっては困るが、久しぶりに興奮を味わいたいと思っている自分もいる。
何せ、かつて台風の時にわざわざ船に乗りに行き、甲板に出てその風を受けたこともあるくらいだから、こういう天変地異をどれだけ待ちわびている人間かがわかると思う。
ただ、困るのは、明日は仕事なのである。
たぶん九州道や都市高速はストップするだろうから、一般道の大渋滞は避けられないだろう。
ということは、早く寝ないとならないということか。
これから、せっかく台風情報をお知らせしようと思ったのに、残念である。

今、窓の外に手をかざしてみたのだが、一粒の雨も手に触れない。
これで本当に台風が来ているというのだろうか?
さっきから、窓から風が入って来るようになったのだが、台風を予想させるようななま暖かく強い風ではなく、真夏に涼を運ぶような、少し冷たいそよ風である。
もしかしたら、「ああ、暴れ疲れたわい」と言って、温帯低気圧に変るのかもしれない。

【翌7時00分】
ニュースでは、台風は現在、鹿児島の枕崎にあるらしく、九州西側を北上中とのこと。
いよいよやってくる。
しかし、こちらのほうは雨は降っているものの、まだ風はない。
昨晩同様、そよ風程度の風である。
高速道路は、まだ通行止めにはなってない模様。
この程度の雨風で、通行止めになってもらっても困るが、気まぐれな道路公団のこと、いつ通行止めにするかわからない。
せめて、会社に行くまではやらないでほしいものだ。

しかし、このままのペースだと、今回の台風がこちらを直撃するのは、予定通り午後3時頃になりそうだ。
その時間、ぼくは会社の中にいる。
会社の中からは、外は見えない。
ということは、久々の直撃台風を体感出来ないかもしれない。
こうなれば、配達とか何とか理由をつけて、外に出るしかない。



2003年06月17日(火) 面白くない!

いつものように日記は明日の朝書くことにして、一度寝ようと床に就いた。
ところが、変な夢を見た後に目が冴えて、眠れなくなった。
その夢の内容は忘れたが、あまり気持ちのいい夢ではなかった。

いったん目が覚めてから、眠ろうと努めたが、外はあいにくの雨。
雨が降ると、通りに面したぼくの家は悲惨である。
その通りは夜中でも車がひっきりなしに通って、ただでさえうるさい。
さらに雨が降ると、濡れた地面を車が跳ねていく音まで加わる。
普段は「ブーーー、ガーーー」なのだが、雨の日は「ブーーー、ガーーー、シャーーー」となるわけである。
ぼくはその通りは南北に伸びている。
ぼくは南向きに、通りと平行した形で寝ている。
そのため、音は頭から足、あるいは足から頭に移動していく。
寝ている時に、南から来た音に何度パンチを喰らわせ、北から来た音に何度蹴りを入れたことだろう。

窓を閉めていてさえその音は聞こえてくるので、夜は窓を開けることが出来ない。
しかも、この季節である。
暑くてやりきれない。
かといって、エアコンを付けるにはまだ早すぎる。
しかたなく扇風機で涼をとっている。

さて、寝ようと努めていた時、いろいろなことが頭をよぎった。
日記のテーマを何にしようかとか、そういえば、昼間にあんなことがあったなどである。

そういえば今日、昨日の日記を書いている時に電話がかかった。
「はい、しんたです」
「初めまして、私○○証券のものですが」
女性の声である。
「はあ」
「今、お時間よろしいでしょうか?」
「はあ、かまいませんが」
「ありがとうございます」
「ところで、どちらにおかけですか?」
「え!? しんたさんのところですけど…」
「何で調べたんですか?」
「はい…、電話帳でですけど…」
「そうですか。興味ありませんから、これで切りますね。ガチャッ」
その時、ぼくが興味あったのは、日記のネタだけである。
電話帳で調べたくらいだから、話もマニュアル通りになるだろう。
面白くない。

と、そこに「ピーン、ポーン」という間延びした音が聞こえた。
インターフォンである。
「はーい」
「あ、お忙しいところすいません」
またしても、女性である。
しかも、老け声。
「私、○グループの者ですけど」
「○グループって何ですか?」
「ああ、冠婚葬祭ですけど…」
「ああ、そうですか。冠婚葬祭の。はいはい。残念でしたねえ」
「え?」
「実は昨日、他の冠婚葬祭に入ったんですよ」
「ああ、そうなんですか」
「ホント残念でしたねえ。失礼しまーす。ガチャッ」
誰が玄関を開けるか!
冠婚葬祭の該当者なんか誰もおらんわい!
面白くない。

今日は休みだったが、今にも降り出しそうな天気だったし、下らん電話は入るし、老け声の女性は来るし、その上眠れないときている。
面白くない!



2003年06月16日(月) 窓から見える風景

夕べ飲み過ぎて不覚にも眠ってしまったため、またもや翌朝にこの日記を書いている。

午前5時前に目が覚めた。
空がまだ薄暗い中、鳥たちはすでに目覚め、朝のさえずりを聞かせていた。
それからほどなく夜は明け、朝の風景がぼくの部屋の窓一杯に広がった。

ぼくの部屋の真正面には公園がある。
小学6年の頃、友だちとブランコで遊んでいた。
そこにクラスの女の子がやってきた。
ぼくは格好つけて、ブランコから飛び降りた。
ところが、着地の時にバランスを崩してしまい、こけてしまった。
翌日、クラスでそのことが話題になり、ぼくはクラス中の笑い者になってしまった。
ブランコは、今も変らず同じ位置に設置してある。

また、中学の頃、その公園に牛が繋がれていたことがある。
ぼくと友人は、恐る恐る、その牛に近づいていった。
ぼくたちと牛との距離は、およそ1メートルになった。
そんなに近くで牛を見るのは、生まれて初めてだった。
さすがに牛を触る勇気はなかった。
しかし、せっかくの初体験である。
見ているだけではもったいないと思ったぼくは、「バーカ」と言ってみた。
すると友人は、「バカとか言うて、わかるわけないやないか」と言った。
「じゃあ、何と言えばいいんか?」
「こういう時は…、アホやの」
「変らんやないか」
「いや、アホでいいんよ」
彼は牛に向かって「アホー!!」と怒鳴った。
すると、牛の鼻息が急に荒くなった。
そして前脚で地面をかき始めた。
「おい、お前がいらんこと言うけ、怒り出したやないか」
「知るかっ!」
ぼくたちは慌てて逃げていった。
そういった思い出を持つ公園である。

その公園に十数本の樹木が植えてある。
秋になると、赤や黄色に色づき、見応えがあるのだが、今は緑に覆われている。
その緑が、ずっと森まで続いている。
その緑の中に、百姓成金のような家の屋根が見える。

その森の向こうに、新興住宅地が見える。
ぼくが小学校に通っていた頃、そのへん一帯は田んぼだった。
農閑期には藁が積んであって、そこでぼくたちは空中回転やバク転の練習をしたものだった。
友人Kが野グソをたれた場所も、ここからはっきりと見えている。

そのまた向こうには、ぼくの通った小学校が見える。
ぼくが通った頃の汚い木造校舎とは違い、近代的な鉄筋校舎である。
今の校舎は、かつての運動場のあった位置に建ててある。
かつて校舎のあった位置が、今の運動場である。
あの頃はかなり広く感じた運動場も、今行ってみると狭く感じる。

その小学校の裏に小さな山があった。
理科の時間に、ドングリや松ぼっくりを拾いに行った山だ。
小学校から狭い道を抜けてその山に入ったのだが、今は狭い道を抜けると、そこに広いバイパスが出来ている。
通りには、レストランやカラオケボックスなどが、所狭しと並んでいる。
以前この日記で紹介したスーパー銭湯も、この並びにある。

バイパスの向こうは相変わらずの風景だ。
裏山からずっと、小高い山が続いている。
小学校の横に、小さな神社がある。
その神社の横に細い道があった。
そこから、その一連の山に入って行く。
かつて、その山の途中に池があった。
その奥には牧場があった。
それらが今どうなっているのかは知らない。
知っているのは、そこが今、学術研究都市になっている、ということだけである。

それにしても、高校時代に「ど田舎」と笑われたこの地が、今では区内有数の商業・住宅地になっている。
まあ、30年以上も経っているのだから、別にそうなっていてもおかしくないのだが、ぼくの中では、あまりにも早い進歩である。



2003年06月15日(日) お詫び

晩飯前まで、日記のネタは何もなかった。
食事中に、「さあ、今日はどんなことを書くのだろう」と期待に胸を膨らませていた。
しかし、食事が終わってパソコンの前に座っても、何のネタも出てこない。
さて、今日は日記に何を書くのだろう。

最近、掲示板のレスが滞ってしまっている。
書いてくれた人には申し訳なく思っているのだが、何よりも日記を優先しているので、どうしてもレスは後回しになってしまう。
ところが、ご存知のように、最近の日記は朝の更新になってしまっている。
それも、出勤時間ぎりぎりまでかかって書いている。
そういうわけで、なかなかレスまではたどり着かない。
必ずレスしますので、今しばらくお待ち下さいませ。

「それでも待ちきれない」と言う人のために、しろげしんたは新しいシステムを導入している。
『頑張る40代!(PC版)』をご覧の方はトップ下のポストのアイコンを、『頑張る40代!(携帯版)』をごらんの方は「メール」のところを、また『吹く風』をご覧の方は「吹く風伝言板」のところをクリックすると、メールBOXが出現する。
そこに掲示板の要領でメッセージを書き、送信していただければ、あら不思議、しろげしんたにメールが届く仕組みになっている。
しかも書いた内容は、しんたにしか読めないようになっているという代物。
さすが老舗の『ティーカップ』である。

さて、メールが届けば、しろげしんたは俄然焦り出す。
仕事中であろうとも、早く書いて必ず返事を出すことにしているのだ。
そうしないと落ち着かない。
ということで、こちらがいたずらメールと判断したもの以外は、すべて返事が行くはずである。

これからも役に立ちそうなものは、どんどん取り入れていきたいと思っている。
しかし、それがいくら便利でも、日記の妨げになるようなものなら採用しないだろう。
以前、このサイトにもチャットなんかを置こうと思っていたことがある。
しかし、メインである日記の更新に手間取って、なかなかチャットをやる余裕がない。
そこで断念したわけだ。
もしこのサイトにチャットが置いてあったら、「ああ、とうとうしんたは、日記を書くのに飽きてしまったんだ」と思って下さい。

ということで、今日はこういうことを書いてしまった。
今、翌朝の8時38分になっている。
もうそろそろ出かけなくてはならない。
今からトイレに入って、ひげ剃って、顔洗って、今日も9時前後になりそうだ。
それでは、行ってきます。

・・・・

あっ、そうだった。
日記を更新するのを忘れていた。
ただ今、9時ちょうどである。



2003年06月14日(土) 梅雨遍歴

 『いま』

 いま、いやな時が続いています。
 早くここから抜け出したいのです。

  時の続く限り少しの夢が欲しいのですが、
  時は冷たく過ぎ去っていきます。 

 いま、いやな雨が降り続いています。
 もう傘には穴が開いているのです

  ちょっとだけ傘を修理(なお)す時が欲しいのですが、
  雨はいつまでも降り続いています。

 いま、いやな時が続いています。
 そして時は冷たく過ぎ去っていきます。 (1975年6月作)

学生の頃までは、とにかく雨が嫌いだった。
雨を遊ぶ余裕を持ってなかったのだ。
そういうことなので、梅雨は一年中で一番嫌いな季節だった。
この梅雨と前後して、1学期の中間テストや期末テストがある。
これも梅雨という季節を嫌いにした原因の一つだった。
じめじめした気候に加え、外で遊べないというストレスも加わる。
とにかく学生時代は、梅雨といえば、心身共に非衛生な季節だと思っていた。
「梅雨さえ終われば、楽しい夏休みが来る」などと自分を精一杯励まして、この季節を乗り越えていたものだ。


 『いっしょに歩こう』

 夜も濃くなる街 寂しさだけの遠吠え
 雨もやんだばかり もう傘をたたんで
  通り過ぎていく車 照らしていくネオン
  いっしょに歩こう たった二人だけで

 雲の透き間の月 かすかに影を映し
 夢のようなランデブー 公園のベンチはぬれ
  何もかも忘れ すべては一つ
  いっしょに歩こう たった二人だけで

 時の間に水は落ち 気がつくと空に星
 水たまりに目を落とし まぶしさに目を閉じる
  もうすぐ夜は明ける 小鳥たちは歌う
  いっしょに歩こう たった二人だけで (1976年5月作)

予備校に通っている頃から、梅雨に対する考え方が変ってきた。
「今、もしかしたら人生の梅雨時期なのではないだろうか」、ふとそういう思いが頭の中を巡った。
そう思えるようになったことで、今まで大嫌いだった梅雨に、何となく親しみを抱くようになった。
この時期をいっしょに過ごしてくれという気持ちから、この詩は出来たのである。
別にいやらしい意味はない。


 『雨の降る夜は』

 雨の降る夜は たった一人で
 蚊取り線香の 光を見つめて
 蛙と一緒に 歌を歌うと
 見知らぬ人が 傘を差して通り過ぎる

  街はぬれ 人はぬれ
  あたりは変わり 色は濃く

 遠くの船の 音に惹かれ 
 異国の街に 立っているような

 いま雲の すきまを星が
 瞬きよりも 速く過ぎていった
 声を落として ギターはなく
 耳を澄まして 人はなく

  街はぬれ 人はぬれ
  あたりは変わり 色は濃く

 寂しい雨の 寂しい歌
 ううん楽しい 楽しい雨の歌 (1976年6月作)

6月の天気といえば、あまり雨が降ることがなく、かといって晴れているわけでもなく、いつもどんよりと曇っているというイメージがある。
蒸れたような空気が立ちこめ、息苦しくも感じる。
何となく薄暗く、朝なのに「もう夕方か?」という気分さえしてくる。
『いっしょに歩こう』の時に得た思いを持つ以前は、もちろんこういう天気は嫌いだった。
しかし、この詩を書く頃には、「梅雨の天気もまた良し」という気持ちになっていた。
一度楽しみを見つけると、後はいいところばかりが見えてくるものである。

ということで、梅雨は好きな季節の一つになった。



2003年06月13日(金) 「ピーン、ポーン」二話

【その1】
今日は金曜日、恒例の休みである。
休みといっても、例のごとく何もすることはない。
以前なら、休みといえばドライブということになっていたのだが、最近はそういうこともなくなった。

ということで、朝、普段より少し遅めに起きて、昨日の日記を書いていた。
昨日の日記は、結局今日の午後4時頃の更新になってしまったのだが、それまで何をやっていたかといえば、パソコンで『花札』をずっとやっていたのだ。
別に花札が好きなわけではない。
この間、近くのダイソーに行った時にこのソフトを見つけた。
中学生の頃、ルールもわからずにやっていたの花あわせを思い出し、懐かしくなって買ったのである。
まあ、100円という値段も手伝ったわけだが。

午前11時頃だったろうか。
ちょうど花札に昂じている時だった。
「ピ−ン、ポーン」という間延びした音が聞こえた。
出てみると、郵便局のアルバイトおばさんだった。
「書留でーす。認めお願いしまーす」
慌ててシャチハタを探した。
実は、ぼくは自分の実印以外の印鑑がどこにあるのか知らないのだ。
「ちょっと待ってくださーい、すぐに見つかりますからー」
と、懸命に探した。
しかし見つからない。
別にシャチハタでなく、実印を出せばいいようなものだが、その時ぼくの頭の中にはシャチハタしかなかった。
書類入れの、すべての引き出しを開けてみたが見つからない。
「ここにないとすれば…」
と、ぼくは食器棚の引き出しを開けてみた。
奥の方に黒いものが見えた。
「あった」
おばちゃんが来てから5分ほど経っていた。
「ありましたよー」と喜び勇んで玄関に行くと、おばちゃんは憮然とした顔をしていた。
「あのう、サインでもよかったんですけど…」
そう言われても、ぼくの頭の中にはシャチハタしかなかった。


【その2】
午後2時頃。
ようやく日記を書く気になって、エディタを開いた時だった。
「ピーン、ポーン」
再び間延びした音が聞こえた。
「はーい」
「あのう、上の階に住むものですけど」
「はい」
「お時間いただけますか?」
「別にかまいませんけど」
ぼくは、『近所付き合いが嫌』という理由からマンションを選んだのだ。
そのため、他の住人と話をすることは滅多にない。
町内会費の集金時期でもないのに、今頃何の用だろう。
もしかして、ぼくが何かやらかしたのだろうか?

出てみると、ぼくより年の若い、人の良さそうな男性が立っていた。
「お忙しいとこ、すいません」
「いいえ」
「あのう、私、上の階に住んでいる○○という者ですけど」
「はあ…」
「実は、私、こういうところに勤めていまして」と、彼はぼくに名刺を渡した。
見てみると、車のディーラーの名前が入っている。
「車を買われる際は、ぜひ私にお願いします」
「はあ…。で、何号室にお住まいですか」
「○号室です」
「はい、わかりました」
「じゃあ、お願いします」
彼は帰っていった。

玄関のドアを閉めてから、ぼくは覗き穴から彼の行動を見ていた。
隣にも行ったようだ。
今の車は、今年7年目の車検である。
何度もぶつけたり、ぶつけられたりしているし、すでに走行距離10万キロをオーバーしているので、もうボロボロである。
そのへんを見越して、その人は来たのかと思ったのだが、行動を見る限り、どうやらそうではないようだ。

それにしても、彼は勇気がある。
ぼくも販売に携わっている身だが、販売のために近所を回ることなどとうてい出来ない。
ただのご近所関係が、物を売ったとたんに、販売者と顧客の関係になるのだ。
そのため、顔を合わした時に、「おはようございます」や「こんにちは」ではすまなくなる。
「その後、調子はどうですか?」などという調子伺いは必要になるだろうし、最低でも世間話はしなくてはならなくなる。
ぼくは元々近所づきあいが嫌いなのに、そんなことに耐えきれるはずがない。
また、商品が故障した場合、クレームを受けるのも嫌である。
相手も、言いたいことがあっても言えないだろう。
そういった意味で、彼はまさに営業の鏡であるといえるのではないだろうか。
しかし、いかに彼が営業の鏡とはいえ、ぼくは彼からは買わないだろう。
それは、ご近所さんと気まずい関係を作りたくないという理由からである。



2003年06月12日(木) IP電話(後編)

こうなれば、手は一つしか残ってない。
フレッツではなくて、本家のNTTに連絡して、回線を調べてもらうしかない。
さっそく電話帳を調べ、携帯から電話した。

「あのう、104に電話してたら、突然切れたんですけど…」
「お客さんの電話番号は?」
「○○○××××です」
「ちょっと調べてみますね。少し時間がかかりますから、こちらから折り返し電話します。今かけている電話番号を教えて下さい」

ぼくが携帯の番号を教えてから、約3分後にNTTから電話が入った。
いつもそうなのだが、こういう時のNTTからの電話というのは、決まって非通知である。

「受話器はどうしてますか?」
「ちゃんと置いてますけど」
「なるほど、話し中になっていますねえ」
「そうでしょう?」
「ちょっとスプリッタから、線を外して、直接電話機に差し込んでみて下さい」
言われたようにやってみた。
すると、受話器の向こうから、「おお!」という声がした。
「今、繋いだでしょう?」
「はい」
「こちらで繋いだ音が聞こえましたよ。ははは」
『ははは』ではない。
こちらは急いでいるのだ。

しばらく、相手の言われるままに、NTT回線で繋いだり、IP回線で繋いだりやっていた。
「わかりました」
「そうですか」
「はい。こちらの回線には異常はありません」
「えっ? でも、現に繋がらなかったじゃないですか」
「それでも、回線には異常はないので、こちらとしては…」
ああ、もう時間がない。
「はい、わかりました。じゃあ、また何かあったら電話しますので」
ぼくは電話を切った。

しかたなく、回線をNTTのほうに繋ぎ、電話を待った。
ほどなく電話がかかった。
母からだった。
「ずっと話し中やったね」と言う。
「いろいろあってね…」
実は大事な電話というのは、母からだった。
親戚に用があったので、時間の打ち合わせのための電話だった。
30分後に出かけるので、すぐに来てほしいと言う。

その電話を切ってから、もう一度IP回線に接続してみた。
ところが、それまで繋がっていたADSLまでが使えなくなっていた。
もう時間がない。
再びNTT回線に繋ぎなおしてから、ぼくは出かけた。
もし、その間にIP電話のほうにかける人がいたら、その人はずっと話し中だと思うだろうが、しかたない。

家に帰ったのは、午後10時を回っていた。
ぼくはもう一度、IP回線に繋ぎ直してみた。
何と通常に戻っているではないか。
その後、電話をかけようが、かかってこようが、もう切れるようなことはなかった。
いったい、夕方の騒ぎは何だったのだろう。

そこで、冷静に考えてみることにした。
一つ腑に落ちないことがある。
それはNTT回線でもIP回線でもない。
例のK市の○○ガラスである。
もしかしたら、FAXが送信中のままになっていたのではないだろうか。
それなら、話し中になっていてもおかしくはないし、こちらが繋がらないことだって頷ける。
FAXが流れてきたのは、午後6時前だった。
おそらく、FAXの送信ボタンを押したまま、従業員は帰ってしまったため、エラーになってもしばらくの間送信状態が続いていたのではないだろうか。
もしそうなら、人騒がせな会社である。
貴重な日記に、3日間もこんな下らんこと書かせやがって。



2003年06月11日(水) IP電話(中編)

だいたいFAXなどというものは、相手が出るわけではない。
ただ流れさえすればOKなのであって、送った後に確認するようなことはまずしない。
いや、他の人は知らないが、ぼくはしないということだ。
送りっぱなしなのである。
それでも間違ったことがないのは、ファクシミリに搭載されている電話帳機能を存分に使っているからだ。
また、個人の場合はほとんどが電話やメールですますから、わざわざFAXで流す必要がない。
おそらく大半の人が、FAX機能は電話についているおまけとでも思っているのだろう。
せっかく買ったのに、充分に使いこなしてないということになる。
その証拠に、「電話して」と言う人はよくいるが、「FAXして」と言う人はまずいない。

さて、おそらく、ぼくの家に間違いFAXを送った人も、ぼくと同じで、流れればOK派だったに違いない。
だから、一度切れても、間違いだとは思わずに、単に相手方に何らかの支障があったに違いない、と思っていたことだろう。
「切れたばい」
「そうか。じゃあ先方に何か不都合でもあったんやろ。もう一度再ダイヤルして流しときない」
こういうやりとりがあったかどうかは知らないが、とにかくもう一度流してみろということになったのだろう。

一方ぼくのほうは、一刻も早く先方に知らせてやろうと必死である。
104に繋がった。
「あのう、間違いFAXが流れてきたんで、先方に知らせてやりたいんですが、住所がわからないんですよ。わかっているのは、先方の市外番号と会社名だけなんですけど…」
「ああ、そうなんですか。市外局番教えていただけますか?」
「09××です」
「はい、それはK市です。会社名は?」
「○○ガラスになっているんですけど」
「はい、K市の○○ガラスをお知らせします」

[よかった。後は先方に連絡すればいい]
そう思った時だった。
受話器が「ツー、ツー」と言い出した。
切れた。
しかたなくぼくは、もう一度104に電話した。
「ツー、ツー」
話し中である。
[これはおかしい]
今度は子機のほうで試してみた。
「ツー、ツー」
やはり同じだ。
[104に支障が出たのかもしれない]
そう思ったぼくは、自分の携帯にかけたり、実家にかけたりしてみたのだが、状況は同じである。

その時、ぼくの頭に『BBフォンの不都合』という言葉がよぎった。
そういえば、YahooBBの電話はよく切れるという話を何度か聞いたことがある。
前にも書いたが、ぼくの家はIP電話にしている。
もしかしたら、IP電話も同じようなトラブルが起こるのだろうか。
さっそく、ぼくはNTTフレッツに電話をすることにした。

ところが、そういう時に限って、控えておいた電話番号が見つからない。
以前、NTTフレッツのほうから携帯にかかってきたことがあるのだが、その時、もしものことがあった時のためにと、電話帳に登録しておいた。
どういうわけか、それも見当たらない。
[夜、大事な電話が入ってくるのに、よりによって何でこういう時に…]
気は焦るばかりだった。



2003年06月10日(火) IP電話(前編)

晩飯をすませてから、少し横になっていたのだが、そのまま眠ってしまっていた。
気がつけば、もう翌朝の6時になっている。
ボーっとしたままパソコンの前に座っているのだが、意味もなく時間ばかりが過ぎていく。
ああ、そうだった。
まだ風呂にも入っていない。
眠気覚ましの意味でも、風呂に入ってくるか。

ぼくは基本的に朝風呂が好きである。
前の会社を辞めてから、今の会社に就職するまでの半年間はほとんど毎日朝風呂に入っていた。
また、旅行に行った時、そこに大浴場があった場合は、必ず朝も入るようにしている。
以前、阿蘇で泊まった時、早起きして温泉に入りに行った。
前の晩の酒が残っていて、少し頭が痛かったのだが、露天風呂から見える阿蘇の大パロラマを見ているうちに、二日酔いは解消していった。
それ以来、二日酔いの時は、必ず朝風呂に入るようにしている。

・・・・・

風呂から上がってきた。
すっきりした。
しかし、高校時代から続いている、いくら寝ても寝たりないという慢性の寝不足症なので、完全にすっきりしたわけではない。
頭の中にまだもやがかかっている。
このへんはどうやったら解消出来るのだろうか?
朝風呂でも、あまり効果はない。
ラジオ体操でも効果はない。
座禅を組んでもだめ。
頭や顔のつぼを押してもだめ。
目をマッサージしてもだめ。
ドリンクを飲んでもだめ。
いったいどうしたら治るのだろう。
一生こんなものと付き合っていくなんて、まっぴらである。

さて、風呂の中で、昨晩起きたことを思い出していた。
それは電話のことである。
夕方電話の呼び出し音が鳴った。
受話器を取ってみると、「ピー」という音が鳴っている。
FAXだったので、スタートボタンを押した。
用紙を見てみると、それは見慣れない名のガラス会社の見積書だった。
こちらでガラスなど頼んだ覚えはないし、肝心の宛名も違っている。
よく見ると、用紙の片隅に「1/5」と書かれていた。
何と、この間違いFAXはまだ続いてきているのである。
ぼくは慌ててストップボタンを押した。
これで一件落着である。
が、よく考えてみると、ただ切っただけでは、先方は「FAXが違うところに届いたので切られた」などと思わないだろう。
きっと「何かの障害があったから切れたのだろう」と思うに違いない。
そうなると、また同じFAXが流れてくる。

そこで、ぼくは相手に間違いを知らせてやることにした。
とはいえ、用紙には先方のFAX番号は載っているものの、電話番号は書かれていない。
住所も載ってない。
わかっているのは、見慣れない市外局番と会社名だけだ。
こうなれば104である。
ところが、そこから大変なことが始まった。



2003年06月09日(月) プラトニック

 『プラトニック』

 今君がどこにいて、何をしてるかなんて
 ぼくには関心ないことなんだよ
 もっと大事なことは、君を心の中から
 離したくない それだけなんだよ

  いつも、君はぼくの中にいる
  もっと、素敵な笑顔見せてくれ
  早く、もっと早くぼくの前に
  明るい風を吹かせてくれ、いいね

 もう時を急ぐこともない
 ぼくは時を超えているんだから
 今君がどんなに変わり果てていても
 吹き過ぎる風は、ぼくに優しい

  いつも、君はぼくの中にいる
  もっと、素敵な笑顔見せてくれ
  早く、もっと早くぼくの前に
  明るい風を吹かせてくれ、いいね


個人的にはあまり好きなテーマではないのだが、日記の神様が「どうしても書け」というもんだから、今日の日記はこのテーマで書くことにした。

ぼくはあまり恋愛の経験があるほうではない。
同世代の人たちに比べると、ずっと少ないと思う。
その原因は、ずっと一人の人を思っていた、ということにある。
もちろんその間、他の人に目移りをしたことはある。
しかし、いつもその人に目が戻ってしまう。
かといって、別にその人と付き合っていたわけではなく、ただの片思いだけだったのだから、いつしか精神はまた旅をすることになる。
そしてまた元通り。
若い頃は、ずっとこんなことの繰り返しだった。

何がぼくを、その人に縛りつけていたのか?
容姿ではない、生き方でもない、価値観でもない、友だちの延長というものでもない。
それは、ある種のインスピレーションである。
それしか考えられない。
彼女とは、高校1年の時を除いては、会話もほとんどしたことがない。
高校2年と3年の時に交わした会話は、「ちょっと退いてくれん?」だけだった。
卒業後は、一度電話をしたことがあるくらいで、あとはあの忌まわしい『しんた野生の足事件(2003年5月31日付日記参照)』があるくらいだ。
そんな中で、彼女一人を思い続けるのだから、よほど強いインスピレーションだったのだろう。

彼女とはそういう仲だった。
だから、手を握ったことすらない。
それが良かったのか悪かったのかはわからないが、ぼくの恋というものはプラトニックなものになってしまった。
そのおかげで、ぼくは精神世界で遊ぶことを知ることになり、それが歌や詩という形で表現されていった。
その当時の作品というのは、実にインスピレーションに満ちたものだった。
全身で音や言葉を受け止めていた。
彼女の結婚を知り、ようやくその呪縛から冷めてから後は、そういうインスピレーションを感じるようなことはなくなった。



2003年06月08日(日) ムラオカ

ぼくの店に、ムラオカという高校生のアルバイトがいる。
彼は若いのに老眼だという。
頭にはちらほらと白髪も混じっている。
声は異常に低く、いつも赤い顔をしている。

彼は変わった経歴の持ち主である。
洞海湾で泳いだことがあるというのだ。
それが変わった経歴か? と思うかもしれないが、地元の人が聞いたら充分に変わった経歴である。
かつて、多くの工業廃水のせいで死の海と呼ばれ、生態系が一度絶滅した所である。
今は少しはきれいになったものの、市民の持つイメージは相変わらずいいものではない。
「お前、洞海湾で泳いだんか!?」
「はい」
「よく生きとったのう」
「はい、何とか」
「水はきれいやったか?」
「何か、ぬるぬるした感じで…」
「そうやろ。それが毒なんよ。それに、あそこで死んだ人がたくさんおるらしいけ、そういう人たちがお前に憑いとるかもしれんぞ」
「えっ、そうなんですか?」
「当たり前やろ。死にたい人しか泳がんような場所なんやけ」
「・・・」

考えることも何か年寄りじみている。
「あのう、自分、ストレスがたまってるんです」
「えっ、ストレス!?」
「はい」
「『はい』って、お前まだ高校生やろが」
「そうですけど」
「どういうストレスがたまっとるんか?」
「いろいろです」
「いろいろじゃわからん」
「家庭内のことで」
「ふーん、そうか。お前、ちょっと名前書いてみ」
「え、名前ですか?」
「おう」
「何かあるんですか?」
「いいけ、書け」
ぼくは、ムラオカに名前を書かせ、それを鑑定した。
「お前、そのストレスは外から来るもんじゃなくて、すべてお前の性格から来とるぞ」
「そんなことはないですよ」
「お前、いろんなやっかいごとを全部自分で引き受けるやろうが。それがお前の心の重しになっとる」
「えっ、何でそういうことがわかるんですか!?」
「ちゃんと名前に書いてある」
「そうなんですか」
「で、お前はそういう自分の性格が嫌いなんやろ」
「はい」
「それを直そうとするけど直らん。それがストレスの原因」
「やっぱり…」
「自分はこんな性格だと割り切って、それを活かすことを考えたほうがいい」
「あ、なるほど」

さて、こういうことがあってから、ぼくはムラオカとよく話すようになった。
最近では、話すだけでは面白くないので、からかうようになった。

昨日のこと。
文房具の売場に、小さな女の子の画が描いてあるノートがあった。
ぼくはそのノートを持って、ムラオカの所に行った。
「おい、ムラオカ。お前、これを見て興奮するか?」
「え、するわけないじゃないですか」
「そうか。残念やのう」
「えっ、どうしてですか?」
「まあいい」
次に、猫の写真が載っているノートを持って行った。
「おい、これは興奮するか?」
「いえ」
「そうか」
「何やってるんですか?」
「そのうちわかる」
ぼくは、次から次に動物の写真が載っているノートを、ムラオカの所に持って行った。
しかし、反応は今ひとつだった。

ぼくが何をやっていたのか。
彼は変な奴だから、もしかしたら小さな女の子や動物に、異常に反応するのではないかと思ったのである。
しかし、その期待は裏切られた。
彼は普通の人だった。

でも、このままでは面白くないので、今日は彼の所に、売場にあった谷村新司と宮史郎と天童よしみの写真の入ったCDを持って行った。
さすがに受けていた。



2003年06月07日(土) 病院嫌い信仰

【その1】
15年ほど前、手のひらに小さなイボのようなものが出来ていたことがある。
邪魔にもならず、痛みなどもなかったので、最初は気にしなかったのだが、だんだんうっとおしく感じてきた。
それ以前に、脚のすねにイボが出来たことがあったのだが、その時はカミソリで切り取った。
しかし、手のひらのイボはそう簡単には取れない。
しかも手のひらは、すねと違って、普段使う場所である。
切り取った跡が治るまでは何かと不便だ。
また、せっかくいい手相をしているのに、下手に傷を入れて、手相が変ってしまうのも嫌だ。
そ思って、気にはなるがそのまま放っておいた。
ところが、ある日手のひらを見てみると、イボがきれいに取れていた。
それも、どこにも傷跡もなく。
取れたと気づいてから、手のひらを見てみたが、どこにもイボの痕跡はなかった。


【その2】
4,5年前から、右足のすねの一部分が変色しているのに気がついた。
この時も、最初は気にしなかった。
ところが、時間が経つにつれ、その部分はだんだん盛り上がってきて、真っ黒になってしまった。
大きなホクロ、といった感じである。
「これはひどい。もしかして皮膚ガンにでもなったのか?」と、ぼくは思った。
家族や親戚からも「あんた、そういうところにホクロがあったかねえ。年とってからのホクロは皮膚ガンの疑いがあるらしいよ。病院に行ってきなさい」と言われる。
また、友人も「お前、それどうしたんか。何か悪い病気にでもかかっとるんやないか? 一度病院で見てもらったほうがいいぞ」と言う。
普通の人なら、この時点で病院に駆け込むだろう。
しかし、普通の人でない上に、大の病院嫌いであるぼくは、その行動をとらなかった。

ホクロのごときものは、いつまでたっても治らない。
「もしかしたら、このまま死んでしまうのかなあ」と弱気になることもあった。
ところが、今年に入ってからのこと。
ふとその部分を見ると、あの忌まわしい真っ黒がなくなっているではないか。
まだ少し痕跡はあるのだが、よく見ないとそれはわからない。


【その3】
これも最近のこと。
このホームページを立ち上げた頃、それまでにはなかった寝不足の状態が続いた。
「なるべく早く寝ないと、今に病気になるかもしれん」と思っていた矢先だった。
急に小便の出が悪くなったのだ。
絞り出すようにしないと、満足に用を達すことができない。
おまけに痛みも伴っている。
最初は膀胱炎かと思っていたのだが、そのことを知り合いに話すと、「いや、それは前立腺の病気やろ」と言う。
そして、例のごとく「早く病院に行ったほうがいいよ」である。
何度も言うが、ぼくは大の病院嫌いなのだ。
しかも、病気にかかると、「自然になった病気なんだから、自然に治る」と信じている人間である。
そのため「こういうやっかいな病気でも、原因がわかっているのだから、それさえ改善していけばいずれは治るだろう」と高をくくっていることにした。
ところが、ぼくはホームページ立ち上げ以来、例の『日記症候群』に陥っているのだ。
おかげで、いつまでたっても寝不足は改善出来ない。
返って寝る時間が減っているように感じる。
それに伴い、前立腺の病気なるものは、日増しに悪くなったような気がする。
そういう折、天皇陛下の前立腺ガンの報道があった。
ぼくはそれを聞いたとたん、「おれもいよいよか」と思ったものだった。

ところが5月に入ってから、急に小便の出がよくなったのだ。
今までの「チョロチョロ」ではなく、若い頃のように「シャー」っと出る。
最初は「今日は機嫌がいいのう」くらいに思っていた。
しかし、その後はずっとその状態が続いており、痛みもなくなっている。


【総括】
これらの報告にあるようなことを自然治癒というのだろう。
それをさせるのは、人間が本来持っている自然治癒力である。
その治癒力はどんな人も持っているのだが、そう簡単に力を発揮してくれない。
その力を効率よく得るためには、ぼくのように信仰の力が必要になってくる。
その信仰とは何か?
それは、『病院嫌い信仰』である。



2003年06月06日(金) ライヴ!

午前5時30分
起床。
一昨日3時間、昨日1、5時間、計4、5時間。
これは、ここ二日間の睡眠時間である。
おかげで今日は、冷や酒1合飲んだだけで、日記を一行も書かずに眠ってしまった。
情けない話である。
とはいえ、今日は十分に睡眠がとれた。

午前6時
しばらく布団の上で放心状態になっていた。
先ほどやっと布団の中から這い出し、今はオロナミンCを飲みながら、パソコンに向かっている。
さて、今から何を書こうか。

午前6時30分
何も思い浮かばない。
30分の時間が空しく過ぎていった。
あっ、そういえば、まだ風呂に入ってなかった。
昨日も入ってない。
どおりで頭が痒いと思ったわい。
今から入ってこよう。

午前7時
風呂から上がってきた。
ふと思い出したのだが、昔読んだ本に『頭が痒いのはバクテリアのせいだ』と書いてあった。
合成洗剤と言ってもいいシャンプーで洗ってでさえ痒くなる、つまり繁殖するのだから、無添加の石鹸で洗っているぼくの頭の繁殖度はすざましいものがあるだろう。
バクテリアたちにとって、公害のないぼくの頭は天国であるということだ。
ハンドルネームを『天国しんた』に変えようかなあ。

午前7時30分
毎週土曜日朝7時から、こちらでは『アルプスの少女ハイジ』の再放送をやっている。
今日は、ぼくの中では、あの「クララが歩いた!」に次いで感動的な場面である、ハイジがフランクフルトから山に戻る話だった。
ぼくがハイジを最初に見たのは30年ほど前であるが、今日またあの感動シーンを見て、同じように感動している自分がいた。
30年たっても変らない感動である。
そのへんが、名作の名作たるゆえんだろう。

午前8時
ああ、そうだった。
一昨日やり残した仕事があった。
ということは、ちょっと早く出なければならない。
休み明けの早出というのは疲れるものだ。
休みの前の日の夜に会社を出てから、休み明けの朝に家を出るまでが、ぼくにとっての休みである。
そういう考えを持っているため、少しでも遅く帰ったり、少しでも早く出たりすることに抵抗を感じる。
きっと、生まれついての怠け者なんだろう。

午前8時10分
あっ、『こころ』を見忘れた。
せっかくBSで見ようと思っていたのに、ハイジに気をとられてしまっていた。
そういう時、普段は15分から地上波のほうを見るのだが、今日はもう出なければならない。
髪の毛もまだ乾いてないし、体の動きも鈍い。
気持ちも休みモードのままである。
ああ億劫だ。



2003年06月05日(木) 嘘つきはどっちだ?

昨年だったか、A子という他の店の女性がやってきて、「本社のBさんが、『しんちゃんは、仕事中にパソコン雑誌ばかり読んで仕事をせん』と言ってたよ」と言った。

その後、Bさんが店にやってきた。
そしてぼくに「A子が以前、『しんたさんは仕事中にパソコン雑誌ばかり読んで、仕事をせん』と言ってたよ」と言った。

4月の話。
またBさんが同じことを言ってきた。
「A子が『しんたさんは仕事中にパソコン雑誌ばかり読んで、仕事をせん』と言ってたよ」

5月の話。
A子がやってきた。
そして同じことを言う。
「本社のBさんが、『しんちゃんは、仕事中にパソコン雑誌ばかり読んで仕事をせん』と言ってたよ」

いったいこの二人、何をやっているのだろう。
この話を最初にA子から聞いた時は、『おそらくBさんはぼくのことが嫌いなんだろう。だからそんな中傷まがいのことを言うんだろう』と思っていた。
ところがBさんから話を聞くと、A子がぼくのことを煙たがって、そういう中傷まがいのことを言っているように聞こえる。
お互いに二度ずつ。
それも交互に。
とくに、今年に入ってからは、忙しくてパソコン雑誌を読むような暇はない。
となると、4月,5月の話はいったい何を根拠にした話なのだろうか。

『仕事中にパソコン雑誌…』についての、ぼくなりの弁解をさせてもらう。
家電の担当者がパソコン雑誌を読んでいることを、さぼっていると言うのかどうかはわからないが、少なくとも店ではそういう関連の商品を扱っているのである。
また、お客さんから、パソコン関係、プロバイダ関係の問い合わせも多い。
ということは、例えそれがぼくの趣味とダブることがあったとしても、そういう勉強は必要なのではないのだろうか。
現に、仕事には十分に役立っているのだ。

前の会社にいた時、アイドルタイムの過ごし方として、「クリーンリネス(清掃)」と「スタデー(商品勉強)」を徹底して教育された。
掃除をしていない時は、よく関連雑誌やカタログを読んでいたものである。
それについて、人から非難されることは一切なかった。
逆に、そういうことをしないことを咎められたものである。
いくら会社を替わろうとも、そういうことは小売業の基本である。
それを非難するということは、小売業という職種を非難しているのと同じことだ。

さて、話は戻るが、A子とBさん、この二人のうちの一方は正直者で、他方は嘘つきだと言える。
いかに正直者とはいえ、こういうことを本人に言ってくる正直者は困りものである。
きっと思いやりがない人なのだろう。
それはともかく、最大の悪党は嘘つきのほうである。
これはもう、愉快犯と言ってもいいだろう。
だいたい何のためにこういうことをやっているだろうか。
ただ一つわかっているのは、犯人が、ぼくと正直者を仲違いさせようとしているということである。
おそらく犯人は、そうすることによって、何らかの利益を得ようとしているのだろうが、いったいそれは何?
それをぼくは追求していこうと思っている。
そうすることによって、どちらが犯人かがはっきりしてくるだろう。
さて、嘘つきはどっちなのだろうか?



2003年06月04日(水) 詩的スランプ

  スランプ

 思い通りにならないことを 
 悩まなくてもいい
 思い通りにならない時は 
 思い通りにならないんだから
 それは流れの中の通過点なんだから
 その場所に自分がいるんだから
 スランプ面なんかしなくてもいい
 無理にいじくらなくてもいい
 思い通りにならないことは
 決して不幸なんかじゃない
 それはその時の自分なんだから


ぼくは中学の頃、詩が書けなかった。
どう書いていいのかわからなかったのだ。
「詩を書いてこい」言われても、何も出てこなかった。
その時提出した詩というのは、どう見ても作文だった。
「・・・・でした」「・・・・します」のオンパレードである。
それでも点をもらえたのは、温情だったのだろう。

詩が書けるようになったのは、高校に入ってからだった。
ある日突然書けたのだ。
それから、面白いように詩が書けるようになった。
何で、こんな簡単なことが今まで出来なかったのだろう、と思ったものだった。

1年のある日、現国の時間に何人かが指名され、「次の現国の時間までに、詩を一編作ってくるように」という宿題を出された。
その中に、ぼくが詩を作っていることを知っている子がいた。
彼女は「しんた君、詩を作ってくれん?」と依頼してきた。
「お前の宿題やろうが。何でおれが書かんといけんのか。自分で書いてこい」
そう言いながらも、詩作の絶頂期であったぼくは、彼女の依頼を引き受けた。
その時書いた詩を読んだ先生は、「平易な言葉だが、訴えるものがある」と誉めていた。
調子に乗ったぼくは、また詩作に励んでいく。

ところが、3年くらい経った頃、また詩が書けなくなった。
そこから苦悩が始まる。
今となってみれば、詩が書けないくらい大したことではないのに、あの時は真剣に悩んだものだった。
そうこうしているうちに、ぼくの人生上のスランプと重なってしまった。

「スランプだなあと思う時がある。
 何かをやっていて、
 ふと、ため息をつく時である。
 仕事を途中で投げ出しては、
 妄想に耽っている。
 いつまでたっても眠れない。
 哀しい時である。
 寂しい時である。
 それが生まれてから今日まで
 ずっと続いていたような気がする。」

合間にこんな泣き言を書いている。
よほど辛かったのだろう。

それ以降徐々にスランプを脱出していくのだが、もはや高校時代のように、面白いように詩を書くことはできなくなった。
その分中身を充実させることにした。

その後も何度かスランプに悩むのだが、そういう時は一切詩のことを考えないようにした。
「詩のことを考えてないのだから、これはスランプではない」という論法である。
そういえば、ここ10年近く、ずっとその論法できている。
というより、今が詩的スランプであるというのも、頭にないのである。
もはや、詩に対する情熱も失せたのだろうか。
ということは、今は情熱スランプだと言い換えることも出来るだろう。
これは困った問題だ。



2003年06月03日(火) 日記症候群、他

 【日記症候群】
昨日の日記を書き終えたのは、今日の午後4時を過ぎていた。
そういうことなので、今日の日記はもういいや、という気分である。
もう十分である。
「今日はもう書けません」
と、書いて終わればいいものを、また今日は今日として書こうとしている。
前にも言ったけど、これは病気ですわい。
日記症候群とでも言ったらいいような。
そのうち
「毎日日付通りに日記を書かなくては気がすまない、こころの病。
生活習慣病の一種。
特に40代に多い」
などと医学全書に載るかもしれない。


 【懐かしい人たち】
1,ラー
ぼくの会社にいる女子従業員。
初期に登場していたが、最近は登場していない。
蚊トンボのようにフワフワと歩くのが特徴である。
魚目(ウオノメ)という痛い名前の小中学校に通ったために、そういう歩き方になったのかもしれない。

彼女は王監督の最大の敵である。
彼女が福岡ダイエーホークスの試合を見に行くと、だいたい負けるのだ。
たまに勝つこともあるのだが、そういう時に限って、選手が怪我をする。
1999年、秋山が西武松坂からデッドボールを受け、頬骨を骨折したことがある。
その時も彼女が応援に行っていた。
そのため、彼女が「福岡ドームに行く」というと、周りにいるホークスファンは一気に青ざめる。
以前は、周りから「ラーさん、行ってもいいけど、後ろ向きにゲートをくぐって下さい」とか、「ホークスの攻撃中は目を瞑っていて下さい」などと言われていた。
先月も、ラーは福岡ドームに行ったのだが、井口は手の甲に死球を受け退場を余儀なくされるは、試合は負けるはで、さんざんな結果となった。
最近、彼女はようやくそのことに気づいたみたいで、時折「私が行くとホークスが負ける」と口走るようになった。
しかし、あいかわらず「今度は○日に応援に行く」などと言っている。
困った人である。


2,甘栗ちゃん
初期に登場していた女子アルバイト。
ぼくが「ハイチューは甘栗から出来ている」というと、「ああ、それで歯にくっつくのか」と素直に納得し、「ねえ、知っとった? ハイチューはねえ、甘栗から出来てるんよ」と得意顔で友だちに教えていたことからこの名前が付いた。
いわゆる天然の部類に属するのだが、ある人から「甘栗ちゃんは天然ボケ?」と聞かれた時、「失礼な!天然じゃありません。地です」と答えたという。
トムとジェリーの歌を「トムとチェリー、仲良くこんにちは」と歌ったり、およげたいやき君を「毎日毎日ぼくらは鉄板の、『海』で焼かれて嫌になっちゃうよ」と歌ったり、いろいろとぼくたちを楽しませてくれた。
登場時は高校生だったが、今は一流ホテルに勤めているという。
いったい、どんな活躍をしているのだろうか?



2003年06月02日(月) これからの生き方

  これからの生き方

 これからの生き方を、変えてみたいと思う
 あまりに落ち込んだ、こんな暮らしをやめて
 疲れた足取りを、軽やかに変えて
 締め切った窓も、大きく開いてみて

 大きな夢という、小さな意地を捨てて
 その中に縛られた、こんな自分を捨てて
 これまでの人生を、素直に受けとめて
 これからの人生に、何をするのか考えて

 つなぎとめていた、恋の未練にも
 別れをつげて、今日からは生きていこう
 これからの出会いを、大切にしていければ
 もうそれ以上に、何も望むことはなく

 いつか来る運命の、中に向かって
 夢を忘れ、恋をわすれ、ただ日々の暮らしに
 いくつとなく転がっている、生きざまを見つけ
 ただそれが夢に、つながればいいと思う


25歳の時に書いたものだ。
あれから20年経つ。
この詩の通りに人生を歩いてきたわけではない。
それまでの人生を素直に受け止められなかったこともあるし、将来に絶望したことだってある。
何よりも悪かったのが、過去にしがみついたことである。
そのために前に進めなかったこともある。

また、大きな夢というのも、いまだくすぶっている。
あいかわらず周りから「そんな夢みたいなこと言ってないで、現実を見ろ」とよく言われている。
しかし、あの頃と違うところは、もはやそれが意地ではないということだ。
しんたがしんたであるための、必要不可欠なものになっているのだ。

恋の未練も、その後かなり長い間引きずっていた。
相手が結婚したとわかっていても、捨てられない未練とは、いったい何だったのだろう。
ぼくの潜在意識は、いったい彼女に何をどうしてほしかったのだろう。
その答が出ないまま、今に至っている。

ただ一つだけ、この詩に書いたことを実践していることがある。
それは『ただ日々の暮らしに いくつとなく転がっている、生きざまを見つけ…』という部分である。
説明するまでもなく、それはこの日記のことである。
その当時は、まさか将来、人様に日記を公開しているなんて夢にも思わなかった。
今までのぼくの人生の中で、今ほど社会や人間を観察するようなことはなかった。
それまでは、たまに面白い事件や面白い人を見つけては、話のネタとして記憶にとどめておく程度だった。
そういうものをすべて吐き出してしまったので、今を追うようになってしまった。
毎日毎日観察しているので、しんたの目はいつも爛々としている。
まあ、それが自分の夢に繋がっているかどうかは別問題ではあるが。

最近、ぼくは、今までのことはすべてプロローグにすぎないと思っている。
つまり、今、ここからがスタートであるという考え方である。
そう思うことで、いつも過去を清算出来、そこから新たなスタートが踏み切れると考えたわけだ。
『日に新たに 日に日に新たに(大学)』である。
これを、これからの生き方としていきたい。



2003年06月01日(日) 汚いのう

午前中、会社でトイレをしていると、突然ドアが開いた。
掃除のおばさんが入ってきたのだ。
ぼくがまだ用を足しているところなのに、おかまいなしである。
堂々と入ってきて、さも当然のように、ぼくの便器の隣の便器を掃除し始めた。
ぼくは「このおばさん、女を捨てとるわい」と思いながら、ぼくはチャックを閉めた。

とはいえ、いちおう女性である。
ちゃんと手を洗って出ないと、変な人扱いをされる。
ということで、ぼくは手を洗って出た。

トイレの後に手を洗う。
ぼくはこのことに疑問を抱いている。
何年か前、親しい人たちとドライブに行った時、トイレの後に手を洗うかどうかで、討論したことがある。
「ええっ? しんちゃん、トイレの後に手を洗わんとぉ? 汚ーい」
「何が汚いか。ちゃんと毎日手入れしよるわい。いつつまんでもいいようにの!」
「でも、ちゃんと洗わんと手にばい菌が付くやん」
「だから、おれのあそこにはばい菌なんかおらんっちゃ。それを言うなら、ばい菌のおる奴に言え!」
おしっこが手に付いたのならともかく、いつも清潔にしているものをつまむだけなのに、どうして事後に手を洗う必要があるのだろうか。

ぼくはトイレの後に手を洗うより、トイレをする前に洗うほうが大切だと思っている。
毎日清潔にしている部分、それも清潔な下着に覆われているのである。
そういうものが汚いとは、到底思えない。
それよりも、いろいろなところを触る手のほうが充分に汚い。
汚い手で触るからこそ、ばい菌が発生するのである。

それとは関係ないことなのだが、ぼくはハンカチを携帯してない。
小学生の頃は毎日先生がチェックをしていたために携帯せざるをえなかったのだが、そういうチェックが行われなくなった中学以降はハンカチを携帯しなくなった。
その理由は、不衛生であるからである。
手を洗いハンカチで拭くという行為は、もちろん清潔な行為である。
しかし、その後、その濡れたハンカチをどうするのだろうか?
普通は、そのまま元あった場所、つまり男性の場合はポケットに入れるだろう。
そうすると、ポケットの中も濡れる。
上着のポケットならともかくも、ズボンのポケットなら水気がそのまま肌に直行する。
それも日に1,2度ならいいが、食事前、トイレに行った時、作業の後、と乾く間もなく使用するのである。
そのため、ポケットに触れている部分の肌は、いつも湿気ている。
常時湿気たままの肌が、健康であるはずがない。

そういった理由から、ぼくはハンカチを持たない。
では、洗った手をどう処理しているのかというと、タオルが常設している場合はそれを使う。
それがない場合は、服で拭いている。
その時充分水気の取れなかったら、手に付いた水を人に引っかけている。
このへんは、小学生のままである。
汚いのう。


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