頑張る40代!plus

2003年03月31日(月) 3つの3月31日

  春のある日

 何となく生まれた日々と
 何となく育った街が
 夢の中ひとりっきり
 追っかける風と共に

 忘れかけた手作りの歌
 声をあげ風が歌う
 みんなみんな寂しいんだよ
 あんただけじゃないんだよ

  誰かが呼ぶ春の声
  人でなしのか細い声

 春を呼ぶ数々の日々
 春を待つ寄せ合いの街
 雇われた幸せ売りが
 色褪せた口笛を吹く


1977年3月31日、ぼくは博多の街をうろついていた。
職を求めてである。
大学進学を特に希望していたわけではないが、それでもいちおう大学を目指して1年間やってきたので、その失敗はぼくに重くのしかかった。
生まれて初めて味わった挫折と言ってもいい。
その当時、この挫折に耐えきるほどの精神力を、ぼくはまだ持っていなかった。
そのせいで、ぼくはそれから起こる出来事を、すべて挫折感というフィルターを通して受け止めるようになる。

さて、26年前の今日。
職を求めて、とは言いながらも、実は放心状態だった。
博多駅を降りたぼくは、筑紫口側に出た。
そこからずっと歩いて工場街に出た。
空は曇り、吹く風は冷たかった。
そこにある春は、空に鳴くヒバリの声だけだった。


  春のようなしぐさ

 春に舞う鳥になれたら
 いつもぼくは君のそばにいて
 二人で空を翔んでは
 ありったけの愛を歌う

 こんなひとときにも君は
 苦労性に体を動かす
 「それでもいいよ」という君を見てると
 ぼくはとてもやりきれなくて

  笑いながら日々を過ごせたら
  こんなにいいことはないのにね
  それはこの上もない
  幸せだけど

 春のようなしぐさで
 日々を過ごしたいもんだね
 それは届かない夢だろうけど
 こんな小さなひとときだけでも

1982年3月31日、ぼくは小倉の街をうろついていた。
あれから5年経った。
東京ではしゃいでいる間に、挫折感というフィルターはどこかに飛んでいってしまった。
かといって、フィルターを忘れたわけではない。
「77年の自分には戻りたくない」という意識だけは、今も心のどこかにある。

さて、21年前の今日。
その夜、ぼくは小倉の、ある公園で花見をしていた。
就職して2年がたった。
創業以来の仲間と飲む酒は、格別なものだった。
吹く風は暖かく、これからの人生がバラ色に飾られているような気がしていた。


  春の夜に

 午後から降り始めた雨は、
 今日の仕事を終えた。
 雨を運んだ風は、
 次の場所に移った。
 弥生最後の夜
 誰もいない窓に向かって
 ぼく一人だけが焦っている。

2003年3月31日、ぼくは自宅で頭を抱えている。
くそー、まだ出来んわい!
もう3時やん。
参りました。



2003年03月30日(日) ひげ

「ケッ、オラウータンやないか」
実は、この三連休の間、一度もひげを剃ってないのだ。
初日は気になっていたのだが、2日目はそれほど気にならなくなり、3日目の今日はどうでもよくなっていた。
夕方、歯を磨いた。
冒頭のセリフは、その時鏡を見て発したものである。

昨日の日記で、まともな三連休をとったことがないと書いた。
そのため、ひげをここまで伸ばしたこともない。
学生時代は、それほどひげが多くなかったから、2,3日剃らなくても大して目立たなかった。
ところが、歳とともにひげが増えていった。
鼻の下やあごだけに目立っていたひげは、徐々に頬を侵していった。
気がつけばオラウータンである。

東京にいた頃の話だが、ぼくの仲間にHという平尾昌晃似の男がいた。
彼は非常に存在感のある男だった。
目が大きい、まつげが長い、鼻の下が少し長いなど、彼には数々の特徴があった。
それだけでも世間に対して、ある程度の存在感を示すことが出来る。
しかし、それだけでは「非常に」という形容動詞は使えない。

もう一つ彼には特徴があった。
それはひげである。
彼はひげが異常に濃かった。
彼はよく、「すぐにひげが伸びるので、半日に一度剃らないとならないんだよ」と嘆いていた。
しかもひげが堅いために電気カミソリでは役不足で、いつも手剃りのカミソリを使っていた。
そのせいか、青々とした剃り跡には所々で血がにじんでいた。
しかし、ひげが異常に濃いだけなら、探せばそういう人はいくらでもいるものである。

では、何が彼を非常に存在感のある男に仕立てたのか。
それは、その所々に血痕のある青々とした剃り跡と、数々の特徴ある顔とのバランスが、微妙にズレていたということだった。
その微妙なバランスのズレこそが、彼を彼たらしめ、世間に対して非常に存在感のある男に仕立てたのだ。
もし彼を知らない人が彼を見たら、体中が痒くなるか、もしくは笑うかのどちらかだろう。
もし、その顔で流し目でもされたら…。
ああ、思い出しただけでも気味が悪い。

さて、ぼくの三連休も今日で終わりである。
朝になれば、嫌でもひげを剃らなくてはならない。
今、顔全体に7,8ミリのひげが広がっている。
おそらく朝になれば、このひげは1センチに伸びているだろう。
それだけのひげを剃るのだから、けっこう時間がかかることが予想される。
電気カミソリというのは、ひげが起きた状態だと剃りやすいのだが、寝た状態だと非常に剃りにくいものである。
最初は軽く肌に当て、徐々にひげを短くしていく。
ある程度短くなったところで、一気に剃り上げる。
ぼくは手先が器用な方ではないので、この作業に手間取ってしまう。
だいたい、ひげを剃ること自体が面倒くさい。
だから、ぼくは、休みの日にはあまりひげを剃らないのだ。
もしぼくが客商売をやってなかったら、それこそオラウータンの称号をいただくことになるだろう。



2003年03月29日(土) 三連休

実は今、三連休の真っ最中である。
ぼくの店は、二連休だと比較的簡単にとれるのだが、三連休ということになると人員ローテーションの関係から、なかなか難しいものがある。
いや、ぼくの店に限ったことではない。
販売業全体にそうではないのだろうか。

長崎屋にいた頃、福島の友人から「結婚式に出席してくれ」という案内状をもらったことがある。
12月のことだった。
師走の忙しい時期なので上司に相談したのだが、上司は一言「福島なら出席せんでも失礼にならんよ」と言った。
福島に行くためには、最低でも三連休が必要になる。
上司は、暗に「行くな」と言ったのである。

また前の会社にいた時には、三連休をとるために店長の決裁を仰いだものだった。
「三連休!? 結婚でもするんか?」
「そんなんじゃないですけど…」
「とってもいいよ。で、今お前の部門は予算行っとったんかのう?」
「いや…」
「じゃあ、三連休は予算行ってからのことやのう」
「・・・」
という具合に、ことごとく却下された。

しかし、三連休がとれなかったわけではない。
前の会社で、ぼくは一度だけ三連休をとっている。
その会社を辞めた年の、社員旅行の時である。
その年は二泊三日でサイパンに行くのだった。
社員旅行といっても、その間店を休むわけではない。
1便、2便と分けて行くのだ。
当初ぼくは2便で社員旅行に参加するつもりだった。
そのためにパスポートも準備していたのだが、会社を辞めることになったので、ぼくは旅行を辞退し、その代わりに三連休をもらった。
2便が発った次の日からの三連休になった。
初日は一日寝ていた。
二日目、街に出て本屋などをうろうろしていた。
その日の夜のことだった。
突然会社から電話がかかった。
「悪いけど、明日仕事に出てくれんか?」
「え?」
「実は、台風の影響で、サイパンから飛行機が飛ばんらしくて、2便が帰ってくるのは明日の夜になるらしい」
しかたなくぼくは引き受けた。
結局、三連休は、ただの連休になってしまった。

10年ほど前のこと。
今の会社に入って、初めての三連休をとった。
ところが、この三連休も台無しになった。
かねてから病院に入院していた伯父の容態が悪くなり、三連休の前の日に亡くなってしまった。
ということで、三連休は通夜、葬儀、初七日(三日目に行った)と埋まってしまい、自分の時間を持つことが出来なかった。
よほどぼくは三連休と縁がないのだろう。

さて今回、三連休がとれると知った時、せっかく時間がとれるのだから、どこか遠くにでも行こうかと考えてもみた。
しかし、遠出する資金がない。
じゃあ、せっかく時間がとれるのだから、寝ていようということになり、こうやってダラダラと時間を費やしている。



2003年03月28日(金) 峠ラーメン

今日、岡垣町にある『峠ラーメン亭』のチャンポンを食べに行った。
最後に食べたのが、昨年の春だったから、1年ぶりである。
久しぶりに食べた、峠のチャンポンは前にも増しておいしくなっていた。
こういうことも珍しい。

十数年前だったが、夜中に博多まで長浜ラーメンを食べに行っていたことがある。
当時えらくおいしい店があり、腹が減ると無性にそこのラーメンが食べたくなったのだ。
しかし、夜中で道はすいているとはいえ、片道1時間近くかかってしまう。
だんだん疲れてしまい、そのうち行かなくなった。
数年後、福岡ドームに行った時その店に寄ったことがある。
あのおいしい長浜ラーメンの記憶がよみがえる。
ところが、口にしてみると、あの頃と味が違う。
スープに微妙なコクがなく、ただの薄味の豚骨ラーメンになっていた。
この店はぼくが足繁く通っていた後に、テレビなどで取り上げられだした。
おそらくその影響で客足が増えたのだろう。
その結果、数をさばくことに神経を使うようになり、味作りに気が回らなくなったのだと思う。
こういうことはよくあることだ。

ところが、冒頭の『峠ラーメン亭』のチャンポンは違う。
1年前に食べた時以上に味がよくなっているのだ。
ここは先の長浜ラーメンのようにテレビで紹介されたことはない。
その上、店の名前にラーメンと付いているので、どうしてもチャンポンのほうに関心は行かないだろう。
しかし、一度このチャンポンを食べた人なら、そのおいしさを知っている。
おいしい店を知っているとなれば、誰かに教えたくなるのが人情。
ぼくもけっこう多くの人に、ここのチャンポンのことを触れ回った。
食べに行った人からは必ずと言っていいほど、「おいしかった」との答えが返ってくる。
そういった口コミで着々と客足は増えていっているのだ。
それなのに「客足が増える、すなわち味が落ちる」という公式がこの店には当てはまらない。
こういう店も珍しい。

何年か前に、ここのチャンポンを食べた翌日、長崎の平戸までドライブしたことがある。
その平戸で昼食をとろうと、一軒の食堂に入った。
メニューを見ながら何を食べようかと迷っていると、そこの店員が「長崎に来られたんですから、もちろんチャンポンでしょ?」と言った。
「え?」
「旅行で来られた方は、ここで必ずチャンポンを食べて行かれますから」
「そうですか」
それほど言うのなら、よほど味に自信があるのだろう。
「じゃあ、チャンポンにして下さい」

しばらくして、チャンポンが運ばれてきた。
スープはかなりドス黒い。
レンゲにスープを入れ口に運んだ。
「・・・」
チャンポンのチェーン店の味のほうがずっとおいしい。
まあ、チャンポン食べたことのない人なら「チャンポンとは、こんな味なのか」ですませられるかもしれないが、チャンポン歴40年、しかも前日特Aのチャンポンを食べたぼくにはとても食べられたものではなかった。
当然残すことになり、空腹をパンで満たすことにした。

よく旅行などに行くと、「本場」だの「元祖」だのいう看板がやたら目に付く。
しかし、そういうところに限って、あまりおいしいものを食べさせてもらえないものである。
福島の喜多方にラーメンを食べに行った時も、ぼくは地元の人に「どこが一番おいしいか」と聞いて店を選んだものだった。
その時、地元の人が教えてくれたのは、『喜多方ラーメン』の看板を上げている店ではなく、そのへんによくある赤いのれんの中華料理店だった。
もちろん、味は絶品だった。

さて、今日の日記も日をまたいでしまった。
すでに、正午を過ぎている。
そろそろ腹が減ってきた。
今日も峠ラーメン亭に行くことにしようかなあ。



2003年03月27日(木) 再び浮浪者

しかし、1日に2編も書くとなるとよほどのことがない限り、違った内容の日記は書けない。
で、今回も浮浪者ネタを書きますわい。

長崎屋に入ったばかりの頃のこと、えらく汚いスーツを着込んだ御仁が店にやって来た。
ぼくがそのスーツ氏を見ていると、上司のHさんが笑いながら「あの人ねえ、この時期になったら来るんよね」と教えてくれた。
さらにHさんは「よく見てん。何か書いた紙を持っとるやろ」と言った。
スーツ氏の手元に目をやると、少し大きめのわら半紙を持っていた。
なるほど、そこに何かメッセージを書いている。
近寄って読んでみると、汚い字で『けっこん 人生』と書いてあった。
Hさんのいるところに戻り、「『けっこん 人生』と書いてました。何ですか、あれ?」と聞くと、Hさんは「よくわからんけど、毎回書いとることが違うんよねえ」と言った。
Hさんの話では、そのスーツ氏は東大を卒業しているという。
「東大出て、何であんな格好してるんですか?」
「よくわからんけど、卒業した後に大企業に勤めよったらしいんやけど、ある時頭を打って、ああなったらしいよ」
頭を打ってから人生観が変わったとでも言うのだろうか。
それにしては、大企業のエリートから浮浪者への転身、えらく大きな変化である。

浮浪者と呼んでいいのかどうかわからないが、以前、黒崎駅前に汚い身なりの乞食が座っていた。
ムシロを敷き、その上でずっと土下座をしている。
彼の前には、空き缶が置いてあり、そこには小銭が入っていた。
昔のドラマやマンガなどで描かれていた、乞食スタイルそのものだった。
人の話によると、その乞食はいつも朝7時にやって来、夜7時に帰るらしい。
12時間労働である。
ある時友人が「あの乞食の後を付けていった人がおってねえ、その人から教えてもらったんやけど、あの乞食、けっこう金持ちらしいよ」と、教えてくれた。
何でもその乞食は、表通りでは腰を曲げ苦しそうにダラダラと歩いているが、裏通りに入ると突然背筋をピンと伸ばして歩くらしい。
彼の行き先は裏通りの駐車場だった。
彼は、そこに止めていた黒塗りのクラウンの鍵を開けた。
そして、車の中に置いてあった荷物取り出して、駐車場内にあるトイレの中に入っていった。
しばらく待っていると、トイレから一人の紳士が出てきた。
横顔を見ると、先ほどの乞食だった。
彼は車に乗り込み、その車を運転して颯爽と駐車場を出ていったということだった。
乞食やってクラウンが買えるのだ。
こうなれば乞食も立派な職業である。
ということは、乞食は浮浪者ではないということになる。
このへんの判断が難しい。

昔読んだ、本宮ひろしのマンガ『男一匹ガキ大将』で、戸川万吉が乞食をやったことがある。
最初はふんぞり返って座っていたが、だんだん謙虚になっていく。
そこで何かをつかんだ万吉は、大きな人間に成長していったのだ。
「乞食を3日やったらやめられない」という。
やはり乞食には、やったことがある人にしかわからない何かがあるのだろう。
長い人生、一度でいいから、何もかも投げ出して乞食をやるのも一興である。
だけど、ぼくには出来ないだろうなあ。



2003年03月26日(水) 更新、大幅に遅れる

夜、近くの居酒屋に飲みに行った。
食べずに飲んでばかりいた。
12時を過ぎ、家に帰ったところまでは覚えている。
いつの間にか眠ってしまっていた。
朝起きて、日記を更新してないことに気が付いた。
さっそく、日記を書き始めたのだが、頭が痛い,、眠たい、 ボーっとしている、完全に二日酔い状態である。
そういう状態の時に限って、早く出勤しなければならない。
仕方なく、朝の更新は断念したが、都合のいいことに、今、店は改装中である。
仕事はほとんどない。
そこでぼくは、午前中くらいで仕事を切り上げて、帰ってからゆっくり日記を書こうと思っていた。
ところが、そういう時に限って、いろいろな仕事が舞い込んでくる。
結局、帰ってきたのは午後5時過ぎである。
今から昨日の日記を書き、それが終わってから、すぐに今日の日記を書かなければならない。

さて、夕刊に載っていたのだが、今福岡県内のホームレスは1187人いるということだ。
福岡市は607人、北九州市が421人いるそうである。
この数字は大阪や東京に比べるとはるかに少ないのではあるが、全国で6位だというから、決して少ない数字とはいえない。
もちろん九州・沖縄地区ではダントツである。
博多や小倉にいるホームレスの数は半端じゃない。

ところで、ぼくは浮浪者のことをホームレスと呼ぶのかと思っていた。
ところが、新聞を読むと若干ニュアンスが違うのだ。
記事の中に、ホームレスの半数近い人が、社会復帰を望んでいると書いている。
とういうことは、彼らは浮浪者じゃないじゃないか。
ぼくは、浮浪者のことを『世捨て人』という意味合いで捉えている。
ホームレスは社会復帰を望んでいるのだから、当然彼らを『世捨て人』と呼ぶことは出来ない。
したがって、ホームレスは浮浪者ではないということになる。
ぼくは認識を改めなくてはならない。

ぼくが東京にいた頃のことである。
ある日、友人と地下街を歩いていた。
突然その友人が「あ、今日はいるなあ」と言った。
「え、何が?」
「有名人」
「有名人?」
「ほら近づいてきた」
十数秒後、ぼくは怪物を目にすることになる。
頭を抱え、「アー」とが「ガー」とかいう叫び声を上げながら、怪物は登場した。
その形相、ただ者ではない!
その臭い、人間ではない!
すごい存在感である。
すごい威圧感である。
彼のいる半径10m以内には誰も近づかない。
近づけない。
彼は、浮浪者の風を装いながら社会復帰を狙っているホームレスと呼ばれる人ではない。
ぼくがこれまで見てきた中では、最強の浮浪者だといってもいい。

ああ、もう午後8時を過ぎた。
もう一編、日記を書かなくては…
ということで、3月26日付けの日記は終わり。



2003年03月25日(火) 光のどけき春の日に

“久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ”(紀友則)
花はまだだが、まさに『光のどけき春の日』という一日だった。
風は少し冷たかったが、春の光はそれを打ち消していた。

今日は月例になっている、銀行回りの日だった。
午後から街に出て、各銀行を回った。
もろもろの支払いをすべてメインの福岡銀行にしておけば、別に給料日明けの休みの日に街に出なくてもいいのだが、いろいろと付き合いもあって、そう簡単にはいかない。
まあ、最近ぼくはあまり街に出なくなっているから、月に一度は街の空気に触れるのも悪いものではない。

いつもなら銀行を回った後で、本屋に立ち寄り、それからすぐに帰るのだが、今日はこの陽気に浮かれて久しぶりに街の探索をすることにした。
街の探索と言っても、メインの通りを歩くのではなく、裏町をぶらぶらと歩くのだ。
ぼくの裏町好きは、小学5年の春休みから続いている。
今はすっかり姿を消しているが、当時の裏町にはいくつかの古本屋があった。
そこには、一般の本屋にある、便意を催すような新しい紙やインクのにおいはなく、赤茶けた紙から発するかびくさいにおいが立ちこめていた。
ぼくはそのにおいが妙に好きだった。
まだ小学生だったにもかかわらず、このにおいを嗅ぐと、なぜか心が落ち着いたものだ。
それから8年後に東京に出るのだが、東京でもそのにおいに触れようとして、神田の古書街に足繁く通っていた。

裏町をぶらぶらと歩く。
春の光はこういう寂れた街にもやさしい。
当然のことではあるが、メインの通りに比べると、人通りは遙かに少ない。
こういう街には、目を怒らして歩いている人など一人もいない。
ただだらだらと、肩の力を抜いて歩いている。
それがまた、裏町の雰囲気を作っている。

裏町をぶらぶらした後で、駅前のデパートに立ち寄った。
そこで『京都展』をやっていたのだ。
今日が初日らしい。

京都展といえば、7,8年前までは毎年行っていた。
それは線香を買うためである。
ぼくは、毎年鼻の中にできものを作っているような鼻の弱い人間であるが、なぜかにおいだけには敏感である。
ちょっとしたにおいの違いならすぐにわかる。
そういう人間にとって何が一番辛いかと言えば、それは線香のにおいである。
特に飯時にやられるとたまらない。
飯がまずく感じる。
そういう理由で、においの少ない線香というものを、長い間探していたのだ。
ある時、何気なく立ち寄った京都展にそれは売っていた。
においが全くないわけではない。
しかし、そのにおいに違和感を感じないのだ。
元々生活の中にあったような、郷愁が漂うにおいである。
その線香を見つけてから何年かの間、ぼくは毎年そのデパートで行われている京都展に通い続けた。

今日久しぶりに京都展を覗いてみると、裏町とはうってかわってすごい人だかりだった。
それもそのはず、「当地では7年ぶりの開催です」と係の人が言っていた。
なるほど、ぼくが京都展に通わなくなった時期と重なる。
その間、みんな待っていたのだろう。
ぼくは、他のものには目をくれず、その線香の売っているところに行った。
そこでお目当ての線香を買い求め、その喧噪の中を立ち去った。

午後4時を過ぎていたが、さすがにまだ日は高い。
ぼくは車を止めてある駐車場に向かって、光のどけき春を堪能しながらゆっくりと歩いて行った。



2003年03月24日(月) 改装初日

今日が改装初日となったのだが、ぼく以外は初めての作業のせいか、気が張っているし、テンションも高い。
いよいよ始まったな、という感じがする。
ところがぼくは、相変わらずのマイペースだ。
2月末からずっとこのペースで来ているので、どうも周りの雰囲気になじめない。
それに、生まれつき一匹狼的な性格のせいか、他の人と仕事をするというのが、ぼくは苦手なのだ。
ちゃんといついつまでにこの仕事をやり終えるから、作業は一人でけっこう、自分のペースでやらせてくれ、というのが本音である。

たくさんの人の力を借りて、あるいはその道の専門家の力を借りてやると、たしかに時間も早くすむだろう。
その余った時間で、他の仕事も出来るだろう。
しかしぼくはだめなのだ。
たくさんの人が応援に来ると、その現場の主であるぼくが「ああしろ、こうしろ」と指図をしなければならない。
人の尻をたたく、ぼくはこれが嫌いである。

応援者の中には『仕切りたがり屋』という人もいて、やたら声を張り上げ、ピント外れな指示を出している。
そういう人はえてして頭が回らないものである。
これといった考えもなく、思いつきでその場限りの指示ばかり出すものだから、だんだんつじつまが合わなくなってくる。
「これはどうするんですか?」
「次は何をしたらいいんですか?」
などという質問に答えられなくなり、いつの間にかその場からいなくなっている。
こういう人がいると疲れる。
「よけいなことを言わんでいいから、あんたは一人で出来る仕事をやってくれ」とつい思ってしまう。

ところで、今日は職人技というものを見せてもらった。
什器専門の職人さんで、とにかく仕事が早い。
昨年の夏、初めてぼくが什器をばらした時、2時間かかった。
その後、何度か什器をばらす機会があったのだが、試行錯誤しているうちに要領を得、今回の改装準備では1台5分ほどでばらせるようになった。
素人ならこの早さで充分である。
しかし、上には上がいる。
その職人さんは、何と1台を1分足らずで什器をばらしてしまうのだ。
ぼくが1台ばらしている間に、5台の什器をばらし終えていた。
ばらしただけではない。
後日、再び組み立てやすいようにと、部材のメンテまでやっているのだ。
さすがその道で飯を食っている人だ、と感動しきりだった。

こういう時にいつも思うことだが、お偉いさんというのはいったい何をしに来るのだろう。
いかにも視察するといった趣で、店内をうろうろしている。
せっかく来たのだからと言って、廃材一つ運ぶわけでもない。
「○○君。頑張ってよ」などと激励するのはいいが、そのために激励された人の手が止まり、せっかくつかんだ仕事のペースが狂ってしまう。
その結果、作業が遅れてしまう。
こういう理屈がまったくわかっていない。

とにかく、今日から改装工事が始まった。



2003年03月23日(日) SLと笠谷

ぼくが直方に行ったのは、1972年2月11日のことだった。
ちょうどその日、札幌オリンピックでスキー90m級ジャンプが行われていた。
その5日前に、あの「笠谷、金野、青地」が70m級ジャンプで金銀銅を独占したのだ。
90m級も、笠谷に金の期待がかかる。
1回目は成功ジャンプだった。
しかし、2回目のジャンプで、風による失速。
結局、メダルには至らなかった。

さて、その日、直方に何をしに行ったのかといえば、友人たちと直方駅にある機関庫にSLを見に行ったのだ。
冒頭の、札幌オリンピックの模様は、ラジオで聴いていた。
機関庫からSLが走り出すところを撮るために、場所を移動していた時だった。

当時、SLブームの真っ盛りだった。
全国のSLが次々と廃止になる中、その雄姿を惜しむ人たちが、カメラを持ってSLに殺到した。
だが、ぼくはSLには興味がなかった。
直方に行ったのも、別にSLが見たかったわけではなく、ただのつき合いだった。
その日のぼく関心事は、何といっても笠谷のジャンプだったのだ。

さて、SLのことだが、最初にその言葉を聞いた時、何のことかわからなかった。
「SLちゃ何か?」
「蒸気機関車のことたい」
「なーんか、汽車のことか」
SLなどと言うので、何か特別なものと思っていた。
小学生の頃、毎日学校の行き帰りに見ていた汽車に、何で友人たちが「デゴイチ」だの「Cのチョンチョン」だのわけのわからないことを言って騒いでいるのか、ぼくには理解できなかった。

当時ぼくが持っていたSLのイメージというのは、『薄汚れたおっさん』である。
だからSLブームの時も、「わざわざ『薄汚れたおっさん』なんか、撮りに行かんでもいいやんか」と思っていた。
「どうせ写真も撮らないから、カメラなんか必要ない」
そう思って、直方行きには、カメラの代わりにラジオを持って行った。

「お、次は笠谷」というぼくの声にも、SLファンの友人たちは反応しない。
しきりに地図を片手にポイントを探している。
(笠谷のジャーンプッ!)
「飛んだ!」
友人たちは「この天気だから、あまりいい写真が撮れないかもしれん」などと言っている。
(ああ、風が…。距離が伸びない!)
「あーあ、だめかぁ…」
「しんた、何がだめなんか」
「笠谷」
「笠谷? 優勝したやないか」
「それはこの間の話。今日は90m級」
「ふーん」
ぼくがSLなんかどうでもいいように、彼らは笠谷なんかどうでもよかったのだ。

札幌オリンピックが終わってから、ぼくの笠谷熱は冷めていった。
それから少し後に、友人たちのSL熱も冷めていったようだ。
どちらも『にわかファン』だったのだろう。



2003年03月22日(土) 自画自賛

たしか昨年末に、ホームページを変えようか、という日記を書いたことがある。
あれ以来ぼくはそのことを気にかけていた。
公約を守らないのは大した問題ではない。
しかし、指摘される前にやっておこうと思い、時間を見つけてはホームページ作りに励んでいた。
はい、ようやく出来たです。

今まで、『頑張る40代!』のトップページにうんざりしていた方にはうってつけのホームページである。

第一に、ごちゃごちゃしてない。
とにかく、『頑張る40代!』のトップはごちゃごちゃしすぎている。
とくに『世代を自慢する(序に代えて)』は「続く」とは書いてあるものの、オープン以来続きを書いたことがない。
メニューにあるコンテンツを、わざわざトップページで説明までしている。
あれを見るたびに、「見ればわかるだろ」という皆さんの声が聞こえてくるようである。
それを解消しようと、新しいサイトはなるべくシンプルになるように心がけた。
まあ、シンプルすぎるきらいもあるが。

第二に、しろげしんたの顔を見なくてもよい。
毎日あの顔を見ると嫌悪感を感じる方はいませんか?
「せっかく『頑張る40代!』を見てやっているのに、どうもしんたに見られているような気がするわい」と思っている方はいませんか?
だから外しました!
もうあなたは、しろげしんたの顔を見なくてすむのです。

第三に、『頑張る40代!』より少し軽い。
そうそう、『頑張る40代!』にはたくさんのバナーが貼ってある。
有名なところから、それほどでもないようなところまで。
そのため、表示までにわりと時間がかかっていた。
今回作ったサイトは、まったくバナーを貼ってない。
それが一つのウリではあるのだが、大したウリにはなってないのが寂しい。

第四に、目が疲れない。
配色に気を遣った。
なるべく目の疲れない色を使ったつもりである。
このサイトは、夜中に見る方が多いので、見ている方のはもちろんのこと、やってる本人も疲れないに越したことはない。
いつも『頑張る40代!』の画面を見ていると眠たくなり、日記を書いている合間に居眠りをしてしまう。
これは『頑張る40代!』のトップ画面の影響もあるのだと思う。
目が疲れない配色には、居眠り防止の意味もあるのだ。

第五に、それでも『頑張る40代!』の内容と変わらない。
『月明り掲示板』以外の主要なコンテンツは、いちおう揃えている。
日記も読める。
詩も読める。
エッセイも読める。
歌も聴ける。
新しい掲示板もある。
しろげしんたの主張に関しては、これで充分だろう。

こんなにすてきな特徴があるサイトを、今なら何と無料でお見せします。

で、URLは?
さて、どこにあるでしょう。
探してみて下さい。



2003年03月21日(金) 販売業も危険な職種である

販売の仕事といえば、危険のない業種だと思われている。
ところがそうではない。
表では、危険とは無縁の接客に明け暮れているようだが、一歩裏に入ると、そこは危険地帯である。
そういう場所で、ぼくたち販売員は危険を伴う作業をやっている。
重たいものを持ったり、高いところに上ったり、什器を壊したり、時には高圧電線と隣り合わせになることもある。
例えばテレビなどは、重さ50キロを超えるものはざらである。
こういった商品を、倉庫で積み上げたりしている。
貧しい店なので、倉庫用のフォークリフトなどない。
すべて手作業である。
この間、32型のハイビジョンテレビ積み上げたのだが、その重さが65キロだった。
部門に男はぼくだけしかいないので、こういう倉庫整理はいつも一人でやっている。

また、在庫が置いてあるのは倉庫だけではない。
屋根裏にも置いてあるのだが、そこに上るための階段やはしごは用意されていない。
そのため、商品や什器を使って上っている。
一つ間違えば、転落事故につながりかねない。

什器を壊したり組み立てたりすることもある。
今回の改装準備でその作業をやっているのだが、什器はそのほとんどがスチール製である。
手を切ったりすることはしょっちゅうで、他にも指を挟んだり、時には骨組みが倒れてくることさえある。
前にいた会社でリニューアルをやった時、業者のアルバイトがこの什器で指を落としかけたことがある。
素早く処置をしたので、指を切断することはなかったのだが、慎重にやらないとこういう事故も起こりうる。

さて、こういう作業の時には、軍手をしてやるのが普通である。
若い頃、運送会社でアルバイトをしたことがあるのだが、その時、冷蔵庫や家具といった重くかさばるものをお客さんの家によく運んだものだ。
一戸建ちの家は重いだけですんだのだが、問題は公営や公団の団地である。
エレベーターがあれば問題はない。
しかし、そうそうエレベーターつきの団地などはない。
ほとんどの団地は階段のみである。
しかも狭い。
階段がまっすぐなら問題はない。
しかし、こういう場所は必ず踊り場から折り返しになっている。
そのため、踊り場で、品物を切り返さなくてはならない。
広い階段ならさほどでもないのだが、これが狭い階段だと大変である。
うまく切れないから、いったん品物を立てて持ち直すのだ。
その時、品物を壁に当ててはならない。
「手は傷ついてもいいけど、品物には傷を入れるな」とよく言われたものだ。
その言葉をぼくは忠実に守り、何度も壁で手をすりむいた。
時には深く皮がむけて、白身が見えることさえあった。

そういう怪我を極力抑えてくれるのが軍手である。
しかし、ぼくはいつもそれをしていなかった。
ぼくも最初は、軍手をはめていた。
ところが、軍手をしていると、指先の感覚がなくなったように思え、作業に差し支えがあるのだ。
重たいものを持つ時も、軍手が気になって力が入らない。
そういう理由から、ぼくは軍手を着けない。
そのため、いくら怪我しても文句は言えなかった。
しかし、そのうちに手の皮が厚くなり、少々切っても血が出るようなことはなくなった。

さて、昨日もお話ししたとおり、今、改装の準備という大変危険な作業を行っている。
重たいものを持っている。
高いところに上がっている。
什器を壊している。
いつも高圧電線と隣り合わせだ。
あと3日で、今やっている作業を終わらせなくてはならないのだが、それまで無事に過ごせるかどうかが問題だ。
軍手をしなくてもいい手に、すべてをかけるしかない。



2003年03月20日(木) 改装夜話

《頑張る肉屋!》
隣のスーパーに、肉の惣菜屋がある。
10年前のオープンの時から、ずっとそのスーパーに入っているテナントである。
社長は女性で、かなりのやり手だという。
多くの顧客を持ち、売り上げもかなりいいと聞いている。

さて、今回の改装で、スーパー側から「改装後は自社で肉の惣菜をやりたいので、出て行ってくれ」という話が出た。
それを聞いた女社長は烈火のごとく怒り、「絶対出て行かん!」と言い張った。
「出て行けというのは、うちに廃業しろというのに等しい。うちは少数ながらも人を雇ってやっている。もし廃業となると、その人たちは職を失うことになる。その人たちの生活のことを考えると、出て行くわけはいかんじゃないか」
というのが、肉屋側の言い分である。
一方のスーパー側は、
「他のテナントさんも、すべて撤退してもらっている。お宅だけ特別というわけにはいかない」
という、理の通らない苦しい言い分になっている。
その話が出てから2ヶ月以上たつが、いまだ解決してない。
スーパー側は「外に店を構えてやるから」などと譲歩案を出しているのだが、女社長は「絶対に出て行かん」の一点張りだ。
あげくに裁判に持ち込むという話まで出てきた。

ここまでは、ぼくの店にとっては対岸の火事程度の話だった。
ところが、その火事がうちの店まで飛び火してきたのだ。
このテナントが退かないと、改装工事に入れないというのだ。
改装工事が出来ないとなると、ぼくが3週間近くやってきた作業はすべて無駄になってしまうが、そんなことは大したことではない。

店は閉めているのに工事をしないということになれば、ぼくたちは会社に来ても何も仕事がないことになる。
ということは、決着がつくまで休まなくてはならない。
休みともなれば、月の公休を消化してしまえば、あとは有給休暇を使うことになる。
もちろん有給であるから、給料はもらえる。
しかし、そんなに多く休暇は残ってない。
もし、有給休暇を使い果たしてしまえば、今度はぼくたちがおマンマの食い上げになるのだ。
しかも、会社には「アルバイトをしてはならない」という規約がある。
もし有給休暇を使い果たしたら、いったいどうすればいいのだろう。
こちらだって生活がかかっているんだから、早く決着をつけてくれ。

《マイペース》
ぼくが「人をあてにせん!」と宣言し、売場の人間だけで改装準備を始めてから、もう20日目になる。
売場は3人体制なのだが、休みのローテーションがあるので、この3人が顔を揃えるのは、週に2日である。
まあ、そのことを度外視して計算してみると、1日3人だから、延べ人数は3人×20日で60人ということになる。
もし今日までの作業を一日でやろうとすると、60人の人を集めなければならない計算である。
どの店も忙しいのに、たかだか100坪程度の売場を手伝うのに60人もの人員を手配してくれるはずはない。
作業効率を考えると、確かに作業ははかどらないが、人員手配のことを考えると、ぼくの宣言は正しかったと思える。

ま、そんな自慢話はどうでもいいのだが、この作業を通じて感じたことなのだが、ぼくはわりとマイペースな人間である。
自分の考えたことを自分の中で吟味し、それを自分で実行している。
よほどのことがない限り、人の手を借りることはないし、また人に手を貸すこともない。
とにかく、自分のペースを守り、楽しみながら作業をやっている。
改めて、「ふーん、おれにはこんなところがあったんだ」と思った次第である。



2003年03月19日(水) 唱歌(後編)

『花』
小学生の頃だった。
家に帰ると、近所の中学生の兄ちゃんが母を訪ねて来ていた。
その兄ちゃんとうちの母親との接点を探したのだが、どうも見あたらない。
何しに来たんだろうと思っていると、兄ちゃんは急に鼻歌を歌い出した。
母は「ふん、ふん」と言ってうなずいて聞いている。
「この歌なんですけど」
「その歌ねえ・・。曲名を聞かれても、すぐには出てこんね」
しばらく母は考え込んでいた。
「“春のうららの、隅田川・・”やったよねえ」
「そうです。そんな歌詞でした」
「・・、ああ、それは『花』よ。たしか滝廉太郎の曲だったと思うけど。」
「そうです。滝廉太郎だと言ってました。そうか『花』か。わかりました。ありがとうございました」
そう言って兄ちゃんは帰って行った。
「あの兄ちゃん、何しに来たと?」
「学校の宿題か何かやろうね。突然『曲名がわからんけ教えてください』と言ってきたんよ」
「そんなこと自分の親に聞けばいいのにねえ」
しかし、宿題とすれば変である。
兄ちゃんの先生は鼻歌を歌って、「この曲名は何か、調べてこい」とでも言ったのだろうか。
すぐに曲を覚えられる人ならいいだろうけど、ぼくなんか一度聞いても覚えられないので、もしこんな宿題を出されたら困ったことになっていた。

この歌は中学に入ってすぐに習った。
宿題は出なかったものの、この歌の歌唱テストがあった。
二人一組になり、この歌をハモれというのだ。
それまで音楽で習った歌で、ハモるようなものがなかったので戸惑ってしまった。
相手につられないように歌わなくてはならない上に、この歌の副旋律は2番と3番で若干曲が違う。
主旋律で歌うならともかく、副旋律だととうてい歌えそうにない。
できたら主旋律の方に回りたかった。
しかし音楽の神様は、ぼくに試練を与えた。
何とか副旋律が歌えるようになったものの、いざハモってみるとどうしても相手につられてしまう。
結局練習で一度もハモれないまま、テストを受けることになった。
テストの途中に、ぼくは音をはずしてしまった。
それを気にせずに、そのまま流していればよかったものを、そのはずし方が我ながらおかしくて、思わず吹き出してしまった。
相手もそれにつられて笑い出してしまった。
何度かやり直しをさせられたのだが、うまくいかず、あまりいい点をもらえなかった。
しかも、先生からは「やる気なし」と叱られるわ、相方からは「しんたが笑うけたい!」となじられるわで、もう散々だった。
ちなみに、ぼくがバンドに走らず、ワンマンで歌をやっていた理由は、ハモりがだめだったからである。

唱歌に関しては、いろいろと思い入れがあるが、『花』一曲でこれだけ長くなってしまう。
このテーマは、また別の機会に改めて書くことにします。



2003年03月18日(火) 唱歌(前編)

おとといの日記を読んだ知り合いから、「あの歌、そんなエピソードがあったと? わりと好きな曲だったから、ショック」と言われた。
それを聞いて、ぼくもショックだった。
しかし、歌の起源なんてそんなものだろう。
あの童謡の『しゃぼん玉』も、野口雨情の子供が死んだ時に作った詩だという。

話は変わるが、ぼくは昔から童謡『赤い靴』が嫌いだ。
何か怖いものがある。
「いーじんさんに つーれられーて いーーちゃーったー」
強制連行の歌である。

また『青い目の人形』も好きではない。
これも野口雨情作詞だが、「やさしい日本の嬢ちゃんよ」という言い回しに引っかかるのだ。
時代的なものはあるにしろ、「嬢ちゃんよ」は「お嬢ちゃん」でもよかったのではないだろうか。
「嬢ちゃんよ」と書かれると、何かお年寄りが呼びかけているように思えてならない。

まあ、ぼくは歌謡曲テレビの主題歌を子守歌代わりに聴いて育っているので、童謡というとどうもピンとこない。
そのため、童謡に関してはあまり好きな歌は見あたらない。
強いて好きな童謡をあげるとしたら、うーん、やっぱりない。

ところが、唱歌となると話は変わる。
ぼくは大の唱歌ファンである。
『蛍の光』は、4番まで知っている。
「台湾のはても 樺太も
 やしまのうちの守りなり
 いたらん国にいくさをしく
 つとめよわがせ つつがなく」
これは昭和初期までの歌詞なのだが、戦後は歌われなくなった。

唱歌で好きな歌といえば、まず一番にあげるのが『おぼろ月夜』である。
ちょうど今時期の歌ということになる。
文語調ではあるが、この歌に関しては違和感がない。
歌詞だけ聴いても、その情景が目に浮かぶ。
まさに名曲と言えるだろう。

『冬景色』という歌も好きである。
が、この歌詞はいささか難しい。
「さ霧消ゆる湊江の
 舟に白し、朝の霜。
 ただ水鳥の聲はして、
 いまだ覚めず、岸の家」
実にきれいな詩ではあるが、今の小中学生は理解できないだろう。

『早春賦』
ぼくが高校の頃に習った歌である。
その頃すでに『知床旅情』を知っていたので、この歌がパクったのかと思っていた。
が、実際は森繁のじいさんがパクっていたのだった。
ぼくが音楽の教科書で見る歌詞は、楽譜の下に書いているひらがなの歌詞のみだった。
「はーるはなーのみーのーかぜーのさむさやー」
ぼくはこれを「春花の実の 風の寒さや」と読んでしまった。
これでは意味が通じないが、音楽で習う歌なんてこんなもんだろうと思い、これで通していた。
「春は名のみの 風の寒さや」と知ったのは、ずっと後のことである。

『港』
「どれみっちゃん はな垂れ 目はドングリ目」という歌である。
もちろんこれは替え歌であるが。
ま、替え歌と言っても、歌詞の替え歌ではない。
これは音階の発展系である。
「ドレミミ ミファソソ・・・」から来ているのだ。
そういえば、『スキー』という歌の替え歌もあった。
「山はしろがね 朝日を浴びて/滑るスキーの 風切る速さ・・・」
を、
「朝は早よから 空弁当下げて/家を出て行く 親父の姿/ずぼんちゃ破けて ふんどし見えて/ああ、情けない 親父の姿」
と歌っていた。

『埴生の宿(ホーム・スウィート・ホーム)』
幼い頃、近くの三菱セメント(今の三菱マテリアル)から、いつもミュージックサイレンが流れていた。
何曲かあったのだが、その中でもこの曲が一番好きだった。
今でもこの曲を聴くと郷愁を感じるのは、幼い頃の記憶によるものだろうか。
その曲名が『埴生の宿』だと知ったのは、映画『ビルマの竪琴』を見た時である。



2003年03月17日(月) 小ネタ集

《西から風が吹いてきたら 続編》

東京から戻ったぼくは、仕事を探しながらも、ふるさとを満喫していた。
やはりふるさとはいい。
それまで、力んでいた生活が一気に溶けたのだ。
妙な孤独感もなかった。
すぐに友だちに会うことも出来る。
もしかしたらあの人に会えるかもしれない、という確率も大である。
こちらに帰って1週間ほどたった頃に、ぼくは一つの歌を作った。

「さわやかな 春の風
 懐かしい 海の香り
 ぼくはここで 暮らすよ
 そばに聞く 君の声と

 少しだけ 大人の君と
 少しだけ 子供のぼくと
 小さな家を 建てよう
 二人だけの 家を

  華やいだ 春の夢
  かけまわる 雲の上を
  君とぼく 二人だけで
  他にはもう 誰もいない

 暖かな 春の日よ
 優しく つつんでおくれ
 君をもう 離さないから
 優しく つつんでおくれ」

『西から風が吹いてきたら』を書いてから、まだ1ヶ月もたってなかった。
この心境の変化。
ふるさとの力は、何と偉大なんだろう。
もはやぼくは、何が起ころうとも北九州を離れるまいという気持ちになっていた。
そして、その気持ちは今もまだ続いている。


《改装》

いよいよ来週、ぼくの店は改装にはいる。
今は在庫商品の最終処分で大忙しの状態だ。
以前接客した人が、続々と店に現れる。
ぼくが今の店に移ってからもうすぐ5年目に突入するが、顔なじみのお客さんがけっこう多くいることに初めて気づいた。
そのお客さんたちには、「いらっしゃいませ」などという商売人の挨拶ではなく、「こんにちは」という自然な挨拶を交わしている。
昨日、そういうお客さんの一人が商品を買った。
60歳前後の方である。
配達を頼まれて、伝票に住所や名前を書いている時に、そのお客さんが言った。
「よく、こういう店に来ると、『サレ』と書いた紙がぶら下がっとるけど、あれは何かね」
「『サレ』ですか?」
「ああ、『サレ』」
「『サティ』の間違いじゃないんですか?」
「いや、『サレ』。ほらそこにもある」
「どこですか?」
「ほら」
と、そのお客さんは天井を指さした。
しかし、『サレ』などと書いた紙は見あたらない。
「どこですかねえ」
「そこそこ。ほら、ローマ字で『エス、エー、エル、イー』と書いとるやろ」
「『S、A、L、E』・・、ああ、セールですね」
「あれはセールと書いとるんかね」
「そうですよ」
「どういう意味かね」
「『売り出し』という意味です」
「なんか、売り出しか。英語はよくわからん」
今、ぼくの店は、来週の改装に向けて、最終処分サレ中である。


『改装中の話』

処分セールが終わると、約1ヶ月間、店は休みに入る。
パートやアルバイトは、その間休めるのだが、ぼくたち社員はそういうわけにはいかない。
交代で、改装中の店に行かなければならない。
先日、店長から改装中のあらましを聞いたのだが、そこで意外な事実を知った。
それは、改装中は全館停電になり、しかも水も出ないということだ。
事務所にいても、薄暗い。
おそらく、店内は真っ暗だろう。
交代で店に来るのはいいのだが、その状態で何が出来るというのだろうか。
「何も出来んじゃないですか」
「うん、出来んやろうね」
「何をすればいいんですか?」
「朝来てから、すぐ帰ったらいいよ」
「えっ? じゃあ、来んほうがいいじゃないですか」
「でも、いちおうコンピュータは起動させれということやけ」
「で、いつ閉じたらいいんですか」
「すぐ閉じるのもなんやけ、1時間ほどして閉じたらいい」
「で、それから帰るんですか」
「うん」
「・・・」
実労一時間、しかもすることは時間稼ぎ。
そういう状態が、来週から1ヶ月続く。



2003年03月16日(日) 西から風が吹いてきたら(後編)

ある時、ぼくは友人AにN美のことでグチを聞いてもらった。
友人Aは言った。
「やったのか?」
「・・・あのねえ、つき合ってもないのに、何でやらんといけんの?」
「いやー、やっちゃうと大変だよ。あとが」
「だから、やってないって」
言うんじゃなかった。

しかし、結果的にはそれがよかった。
あるコンパの席で、酔っぱらった友人AがN美にそのことで絡み出した。
友人Aが何を言ったのか知らないが、N美は泣きながら「しんたなんて信じられない」と言い捨てて出て行った。

翌日、N美がぼくのところに来て、「話があるんですけど」と言った。
ぼくも言いたいことがたくさんあったので、近くの喫茶店で話し合うことにした。
N美は開口一番、「どうして別れるなら、別れるって言ってくれないの?」と言った。
「別れる? 誰からそんなこと聞いた?」
「Aさん」
「Aが?」
「そうよ。どうしてAさんなんかに相談するの?」
「相談なんかしてない」
「どうしてちゃんと私に言ってくれなかったの?」
「何を?」
「別れるってこと」
「はっきりさせておきたいんやけど、いつおれがつき合うと言った?」
「それは・・・。最初に喫茶店に行った時よ」
「そんなこと言った覚えはない!」
「口にしなかったかもしれないけど、私あの時わかったの」
「何が?」
「しんたが私のこと好きだってこと」
初めて喫茶店に行った時は、N美の相談に乗ってやったのだ。
こちらは真面目に受け答えしていたのに、どこをどう間違ってそんな勘違いをしたのだろう。
ぼくは、そんなに物欲しそうな目をしていたのだろうか。

「悪いけど、そんなことこれっぽっちも思ったことはない」
「つき合ってる時も?」
「だから、つき合ってない!」
「だって、つき合ったじゃない」
「いっしょに喫茶店に行くことがつき合うことか。それならおれは何人もの人と同時につき合ったことになる」
「えっ、何人もの人と同時につき合ったの?」
「・・・。おれは誰ともつき合ってないし、N美はおれにとって、特別な人でも何でもない」
「じゃあ、つき合ってないってこと?」
「そう」
「・・そうなの。じゃあ、別れるのね」
「つき合ってもないのに、どうして別れる別れんの話になるんか?」
「別れるならはっきり言ってほしいの」
ほとほと参った。
この会話が、そのあと30分は続く。

しびれを切らして、ぼくは言った。
「別れると言ってほしいのなら、別れよう」
「・・別れるのね。別れるのね」
そう言ってN美は泣き出した。
うんざりだ。
ぼくはもう、ここにいたくなかった。

しばらくして、N美が「腹が痛い」と言い出した。
席を立ち、トイレに駆け込んだ。
何分か後、N美は青い顔をして出てきた。
「大丈夫か」と聞くと、「吐いたの」と言う。
「困ったのう」
「もういい。帰るから」
「大丈夫なんか」
「別れたんだから、しんたには関係ないでしょ!」
そう言って、N美は席を立った。
しかし、ふらついている。
仕方なく、ぼくはN美を駅まで送ってやった。
その間もN美は泣いている。
しかし、ぼくは何も声をかけなかった。

翌日、友人たちの視線がぼくに集まった。
友人Aがぼくに駆け寄ってきた。
「しんた、どうだった?」
「ああ、あくまでもつき合ってると言うから、『じゃあ別れよう』と言った」
「で、N美は?」
「気分が悪くなったとかで、駅まで送っていった」
「そうか・・・。しんた、さっきN美の友だちから聞いたんだけどさあ」
「え?」
「N美、まだしんたのこと狙ってるみたいだよ」
「どういうこと?」
「昨日、気分が悪くなったって言っただろ」
「ああ」
「それ、どうも芝居だったらしいんだ」
「えっ!?」
「しんたのことだから、送ってくれると思ったらしいんだ」
「吐いて、ふらついて・・。それも芝居やったんか?」
「そうみたい。気をつけたほうがいいよ」

この事件は1月末に起きたのだが、それから2ヶ月の間、ぼくはN美を無視し続けた。
毎日顔を合わさなければならなかったので、けっこうきついものがあった。
バレンタインデーの時だったが、N美がぼくにプレゼントを持ってきた。
しかし、ぼくはそれを受け取らなかった。
受け取れば、またN美は勘違いする。
用があっても、直接声をかけることはせず、N美の友人を通じて話すことにした。
いつしかぼくは、「早く東京から去りたい」と思うようになっていた。

「何も告げずに行くよ
 N美もうぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 ホントにもう二度とね」

3月の末、ぼくは北九州に帰った。
羽田を発った時、ぼくは正直ホッとしていた。



2003年03月15日(土) 西から風が吹いてきたら(前編)

  西から風が吹いてきたら

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね

 雨が降ったってかまわないよ
 傘の一本もいらないよ
 だってぼくのふるさとは
 いつだって晴れているんだから

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 何も告げずに行くよ
 恋人よ、ぼくのことは忘れとくれ
 会おうとも思わないでおくれ
 本当に、もう二度とね…

  小さな思い出をたどっても
  ぼくは懐かしいとは思わないよ
  だって東京の風はいつだって
  雨を誘うんだから

 西から風が吹いてきたら
 朝一番の汽車に乗って
 懐かしいふるさとに帰るんだ
 向かい風をたどってね


コンテンツ「歌のおにいさん」に収録している、『西から風が吹いてきたら』の歌詞である。
今年もまた、この歌を思い起こす季節がやってきた。

今考えてみると、東京にいた頃に一番楽しかったのは、上京2年目の春から夏にかけてだった。
前にも書いたが、その頃、浅草橋の運送会社でアルバイトをしていた。
夕方浅草橋の本社に集合して、豊洲埠頭の倉庫に移動する。
そこで荷物の積み下ろしをするのだ。
けっこうハードな仕事だったが、それなりに充実した日々を送っていた。
最後は、作業中の飲酒をチクられて辞める羽目になってしまったのだが、それでも懐かしい思い出がたくさん詰まっている。
生まれて初めて飛行機に乗ったのもその時期だったし、一日に二度も富士山にドライブに行ったのもその時期だった。
バイト時間の都合で銭湯に行けず、毎日下宿の炊事場で頭を洗っていたのもその時期だった。

まあ、そういう楽しい思い出もあれば、辛い思い出もある。
それが、その年の秋から冬にかけてだった。
胃けいれんを起こし、せっかく始めた新しいアルバイトはクビになるし、置き引きにはあうし、あげくにスリにもあってしまった。
まあ、それも懐かしい思い出といえば、いえなくもないが、どうしても思い出したくないことというものは誰にでもある。
ぼくの場合、この歌詞に出てくる『恋人』である。
実はこの『恋人』は恋人ではない。
歌詞の便宜上そう書いただけなのだ。
N美という女の子だった。
背が高く、美人系だった。
10月にN美と二人で喫茶店に行ったのが、ことの起こりだった。
ぼくは東京にいた頃、よく女の子と二人で喫茶店に行っていた。
しかし、それは恋愛感情とか下心とかいうものではなく、ただ単に友だちとして、もしくは相談に乗ってあげる先輩として行っていたに過ぎない。
相手もそのことはわかっていて、ぼくに対してそういう感情は示さなかった。
ところがこのN美は違った。
「いっしょに喫茶店」、即ち「大恋愛!」と思ってしまったのだ。
翌日からN美の態度は変わった。
突然、「しんた!」と呼び捨てである。
何でN美から呼び捨てにされなければならないのかわからなかったが、とりあえず気にしないでおいた。

日がたつにつれ、N美の態度は大きくなる一方だった。
どこかに連れて行けだの、送って帰れだの、わがままばかり言うようになった。
ぼくも甘かった。
最初は何度かN美のわがままを聞いてやったりしていた。
それが彼女の勘違いを助長していったのだろう。



2003年03月14日(金) ガソリン高騰

一昨日ガソリンを入れに行った。
通常1リットル85円前後のスタンドに行ったのだが、何と95円に値上がりしていた。
近くにもっと安いスタンドがあるのだが、友人に聞くと、そこも90円台に跳ね上がっているという話だ。
そういえば、今年は灯油も高かった。
それもこれも、イラク情勢と関係があるのだという。
戦争に突入するにしろ、しないにしろ、早くイラク問題を解決してもらいたいものだ。

今回の米英vs仏独も、表で大量破壊兵器だのテロだのと言っているが、裏を返せば石油がらみだと、何かの本に書いていた。
ということは、「フセイン野郎め。力ずくで石油を奪ってやる」という米英と、「イラクが今あるのは、おれたちが守ってやったからじゃないか。さあ、出すもの出しな」という仏独だということか。
結局はどちらも戦争じゃないか。

しかし、石油が高騰すると、急に寒くなるのはどうしてなんだろう。
昭和48年のオイルショックの時も、けっこう寒い年だった。
今年も、ここ最近の気候からすれば、寒い冬だったと言える。
まさか人間の気分が、気候を左右しているわけでもないだろう。
これも、創造主が人間に与えた試練なんだろうか。

創造主で思い出したが、以前、生きて何度も霊界に行ったというスウェデン・ボルグという人の本を読んだことがある。
彼は元々は学者だったらしいが、ある時彼の前に神が現れた。
それから自由に霊界に出入りできるようになり、現世の人たちのために霊界を紹介していったという。
ぼくは、わりとこういう話が好きなのだが、ひとつだけ首をかしげる部分があった。
それは、最初に神が現れた時の、神の第一声である。
「我は神なり」だった。
文語体の訳だからこうなるのかもしれないが、何かうさんくさい。
口語で言えば「私は神です」、軽いノリで言えば「はーい、神様でーす」、
また北九州の人の口調で言えば「おれは神やけの」となる。
ま、そんなことはどうでもいいが、だいたい神が「神」だと名乗って出てくるのがおかしいじゃないか。
そういう神にはまったく威厳というものが感じられない。
スウェデン・ボルグは一神教の世界の人だから、その神は創造者ということになる。
スウェデン・ボルグが選ばれた人だったとしても、いち人間の前に、創造主がノコノコと現れるだろうか。
しかも「神様でーす」などと言うだろうか。
仮にぼくが一神教を国教としている国に生まれたとしても、そんな軽い神なら信仰しないだろう。
結局その本の一巻は一通り目を通したのだが、そのことに引っかかって、続編は読まなかった。

おそらくそんな創造主だからこそ、フセインやブッシュやシラクや金正日といった、人間凶器を作り出しているのだろう。
どうでもいいけど、石油の価格と気候の因果関係だけはやめてもらいたいものである。



2003年03月13日(木) ハーモニカ

ぼくは小さい頃から、ハーモニカだけは得意だった。
物心ついた時から吹いていたから、小学生の頃にはいちおうベテランになっていた。
音楽の通信簿の点がよかったのは、もちろんハーモニカのおかげだ。
歌はいつも適当に歌っていたし、木琴やたて笛などの指先の器用さが要求される楽器はまったくだめ、おまけに楽譜は読めない。
もしハーモニカがなかったら、ぼくは音楽が苦手科目になっていただろう。

ハーモニカを教えてくれた叔父の影響で、映画音楽などをよく吹いていた。
『黄色いリボン』『テネシーワルツ』『大いなる西部』などが得意な曲だった。
たまには流行歌を吹くこともあったが、愛用のハーモニカが半音のついたものではなかったので、いつも途中まで吹くのだが、半音上がるところで詰まってしまう。
そのため流行歌は、レパートリーには入らなかった。

いつも風呂で吹いていた。
おかげでいつも長風呂だった。
今もなお続く長風呂の癖は、その当時からあった。
6年の時だったか、ぼくがいつものように気持ちよくハーモニカを吹いていると、突然隣の家からハーモニカの音が聞こえてきた。
うまい。
およそ一人で吹いている音とは思えなかった。
ビブラートがかかり、主音の他、副音、ベース音まで入っている。
隣は、引っ越してきたばかりだった。
3人家族で、子供が一人いたが、まだ幼稚園くらいだったので、まさかその子が吹いているとは思えない。
どうやら、その子の親父が吹いているらしかった。
ぼくとしては、夜の独演会を邪魔されたような気がして、あまりいい気分がしない。
そのため、しばらくハーモニカから離れることになる。

家ではそんなことがあり、中学ではハーモニカを音楽の時間にやるようなこともなかった。
小6から中学の3年間、都合4年間、ぼくはハーモニカを吹かなかった。
復活したのは高校に入ってからである。
しかし、その時に吹いたのは『黄色いリボン』でも、『テネシーワルツ』でも、『大いなる西部』でもなかった。
拓郎のコピーである。
それはさらに自分のオリジナルへと続く。
当然機種も、ヤマハの2段ハーモニカではなく、小さなブルースハープに変わった。

小学生の頃と決定的に違ったことは、手で持って吹かなくなったことだ。
あの針金細工のような、ハーモニカホルダーを首にぶら下げて吹くようになった。
手は何をやっているかというと、もちろんギターを弾いている。
ギターを始めた頃は、この動作がうまくいかなかった。
どうしてもギターに気をとられてしまうのだ。
そのため、得意だったはずのハーモニカは無茶苦茶だった。
最初に人前でギターを弾きながらハーモニカを吹いた時、「お前、ハーモニカ下手やのう」と言われたものだ。
それが何とか様になるようになったのは、高校を卒業してからだった。

東京に出ると、またハーモニカを吹く機会がなくなった。
下宿のおばさんからクレームが付いたからだった。
「ただでさえうるさいのに、音はギターだけにして」
公園に行って吹いたりもしていたのだが、ギターを持って吹くことに慣れすぎてしまっていたので、ハーモニカだけだと何か心許ない。
おまけに公園で、一人でハーモニカを吹く青年、という図は寂しいものがある。
結局、東京時代はハーモニカを満足に吹く場所がなかった。

こちらに帰ってきてからもそうだ。
東京に行く前はそうではなかったのだが、なぜか人目が気になるようになっていた。
そのため、ハーモニカを吹くのは、デモテープなどを作る時だけに限られてしまった。
デモテープを作っていたのは40歳くらいまでだったから、その後はまったくハーモニカを吹いてないことになる。

この間の休みに、久しぶりにハーモニカを吹こうと思い取り出してしてみたた。
ところが、ぼくは昔から吹いた後に掃除をしない癖がある。
そのため、ハーモニカの吹き口にいろいろかすが着いている。
いったい、いつの頃のものだろう。
洗ったりするのも面倒なので、結局吹かなかった。
しかし、吹いたところで、かなり腕も落ちているだろう。
タバコを吸っているせいで、息も続かないだろう。

昔はハーモニカだけが得意だったのだが、今はそのハーモニカも吹けないでいる。



2003年03月12日(水) IF NOT FOR YOU

君がいなければ、
もう少し静かな高校時代を送っていただろう。
ギターを弾きたいとは思わなかっただろう。
作曲をしたりしなかっただろう。
詩を書いたりしなかっただろう。
ミュージシャンになりたいなどという野望は持たなかっただろう。
レコードを買う金を少しは貯金に回しただろう。

普通通りに勉強もしていただろう。
遅刻することもなかっただろう。
追試も受けなかっただろう。
少しは英話も出来るようになっていただろう。
化学式もわかるようになっていただろう。
サイン、コサインで苦しむこともなかっただろう。
真面目に補習も受けただろう。
旺文社の模試も進んで受けただろう。
クラスで45人中41番なんて成績は取らなかっただろう。
大学にも行っていただろう。

高校卒業後、5年間も浪人することもなかっただろう。
予備校に通うこともなかっただろう。
予備校をさぼることもなかっただろう。
雨の日に自転車で予備校に通うことはしなかっただろう。
デパートの屋上でボーっとしていることもなかっただろう。
予備校近くの公園で、缶蹴りすることもなかっただろう。
同窓会で酔っぱらうこともなかっただろう。
隣の客の部屋まで行って吐くこともなかっただろう。
その後予備校を辞めることもなかっただろう。
家に引きこもるようなこともなかっただろう。
会社の面接で26回も落ちるようなこともなかっただろう。

東京に出ることもなかっただろう。
3週間を2千円で過ごすこともなかっただろう。
新宿で置き引きに遭うこともなかっただろう。
2万円をすられることもなかっただろう。
いろいろ騒ぎを起こし、人から『事件児』などと呼ばれることもなかっただろう。
下宿中の人から「静かにしろ」などと言われなかっただろう。
東京ガスの人から「東京で一番汚い部屋」などとは言われなかっただろう。
朝日新聞のしつこい勧誘を受けることもなかっただろう。
日刊ゲンダイを買うこともなかっただろう。
夕刊フジを読むこともなかっただろう。
産経新聞に出会うこともなかっただろう。
キャッチセールスから声をかけられることもなかっただろう。
月に一度、浅草寺に行くこともなかっただろう。

販売業には就かなかっただろう。
おそらく公務員にでもなっていただろう。
朝7時から、夜11時まで仕事をしなくてよかっただろう。
会社に住まう変な霊に取り憑かれることもなかっただろう。
モリタ君に会うこともなかっただろう。
ミエコに会うこともなかっただろう。
左遷されることもなかっただろう。
昇格することもなかっただろう。
広島に行くようなこともなかっただろう。
道頓堀に行くこともなかっただろう。
センチュリーハイヤットに泊まることもなかっただろう。
白髪が増えることもなかっただろう。
しょっちゅう店長とぶつかることもなかっただろう。
あげくに会社を辞めることもなかっただろう。
今の会社で働くようなこともなかっただろう。

君がいなければ、
夢を持たない人間になっていただろう。
情熱という言葉も知らなかっただろう。
しろげしんたになることもなかっただろう。
ホームページを作ることもなかっただろう。
こんな日記を書くこともなかっただろう。
君がいなければ。



2003年03月11日(火) ダラダラ

なかなか今日の日記のテーマが見つからない。
今日は休みだったのだが、いったいぼくは何をやっていたのだろう。

午前中は床屋に行った。
帰りにコンビニでキャラメルを買った。
新しいサイトを始めたのだが、エッセイの表示が気に入らないので、手直しをした。
また、このサイトもそうなのだが、詩集は縦書きにしている。
ところが、これをoperaで見ると乱れる。
そこで、別の縦書きエディタでやってみることにした。
4時間ほどかかったが、何とか乱れずに見られるようになった。

夕方からイオンに行った。
オープン当初は家から車で3分ほどで着いていたのだが、年末その通りに新しいパチンコ屋ができた。
それからというもの、渋滞するようになった。
パチンコ屋に出入りする車に通行を妨げられるようになったからである。
一応警備員が道の両端に立って交通整理をやっているのだが、要領が悪い。
行けというのか、止まれというのか、よくわからないような合図を出すのだ。
こういう合図は実に困る。
また、通りを走っている車は警備員の指図通りにやっているのだが、パチンコ屋から出てくる車はマナーが悪い。
警備員が止まれの合図を出しても、無視して突っ込んでくる。
だいたい、賭け事に精を出している奴らのために、道を空けてやる必要もないのだ。
通行の邪魔をせず、堅気の皆さんが通り過ぎるまで、そこで待ってろ!

ということで、イオンに行くのに15分も要してしまった。
イオンにはおいしいパン屋さんがあるのだが、そこで明日の朝食用にとパンを買った。
その後で本屋に寄ろうと思ったが、金がないのでそのまま帰った。
イオンでの滞在時間は15分だった。

それにしてもジャスコはかわいそうな店だ。
3月21日から、何と午後11時まで営業するというのだ。
現在午後10時までなのだが、それでも「大変だなあ」と思っていたところに『午後11時まで営業します』という張り紙だ。
交代制の勤務ということになるのだろうが、いくら朝はゆっくりできると言っても、夜は何もできないだろう。
残務整理などをしていると、帰るのは、おそらく12時を過ぎるだろう。
そんな時間だと焼鳥屋も開いてないだろうから、当然飲みにも行けない。
まあ、キャバレーやスナックなどが開いているといえば開いているが、キャバレーが一次会というのも味気ないものだ。

さて、今日一日何をやっていたのだろう。
こうやって思い返してみると、けっこういろんなことをやっているのだが、別に集中してやっているわけでもないので、ただダラダラと時間が過ぎていっただけのような気がする。



2003年03月10日(月) 般若心経

「ふと我に戻った時、すべてのことがどうでもいいことだということがわかった。
意味があると思われることは、実はどうでもいいことである。
それなのに、人はどうでもいいことに意味を見つけようとする。
ところが、突き詰めれば突き詰めるだけ、わけがわからなくなって、結局は何も出てこない。
どうでもいいことだから出てこないのだ。
つまり、
『気にするな。気にするな。何も気にするな。気にしないということさえ気にするな。そうすれば心は乱れない』
ということですたい。」(『般若心経』しろげしんた訳)

漢文で書かれているから、何かご大層なものと勘違いしてしまうが、実はこのお経はこういうことを言っているのだ。

ぼくが初めて般若心経に触れたのは、高校3年の時だった。
ぼくたちの高校では、放課後のクラブ活動の他に、全員参加のクラブ活動というものがあった。
水曜日の6時間目をその時間に当てていた。
どんなクラブがあったのかは忘れたが、実に多彩な内容だったのを覚えている。
なぜ多彩な内容になったのかと言えば、先生たちが好き勝手に自分の趣味の教室を開いたからだ。
要は先生たちの道楽に生徒が付き合わされていたというわけだ。

その中に、「こんなクラブ有りか」というクラブがあった。
『仏教クラブ』である。
仏教好きの先生が開いていたクラブで、岩波文庫の『般若心経』という本をテキストにして、先生が講釈をたれるクラブだった。
内容が内容だけに、参加者はそれほど多くなかった。
一度そのクラブに属している人に、そのテキストを見せてもらったことがある。
初めて見る『般若心経』だった。

ある日、本屋で『般若心経入門』なる本を見つけ、何の気なしにページをめくっていくと、いろいろといいことが書いてあった。
当時ぼくは、『人生の一冊の本』というのを探していた。
本を読みながら「もしかしてこの本がそうなのかも」と思い、買って帰った。
その後、ことあるたびにこの本を開いていた。

生物の時間に、この本を読んでいるのを先生に見つかったことがある。
しかし、本のタイトルを見て、「そうやなあ。人生こういうものも必要やろ」と言って、お咎めを受けなかった。
これもお経の功徳であろう。

真剣に『般若心経』に取り組んだのは、30代になってからだった。
この頃ぼくは禅に凝っていた。
『悟り』なるものを開いてやろうじゃないか、と思っていたのだ。
『悟り』への一助になればと思い、『般若心経』の勉強も始めた。
まず高校時代に買った本を広げてみたのだが、その時初めてその本が道徳的なことに重点を置き、教義に関してはあまり触れてないことに気がついた。
そこで、『般若心経』に関する本を本屋で買い漁り、読みまくった。
また、心経本文を読んで思索するようなこともやっていた。
「『空』とは何? 『空』『空』『空』・・・」
自分では気がつかなかったが、けっこう深くハマっていたようだ。
ある時、街を歩いていると、知らない人から「あなた、何か哲学をやっているでしょ?」と声をかけられたことがある。
別に哲学などやっているとは思ってなかったので、素直に「いいえ、何もやっていませんけど」と答えると、「そんなことはない。目を見ればわかるんよ」と言われた。
また、取引先の人からも同じようなことを言われたこともある。

そこまでやって、何か得るものはあったのか。
何もなかった。
心は乱れるは、目は悪くなるはで、逆にさんざんな目にあってしまった。
「このままだとおかしくなってしまう」と思ったぼくは、禅から離れ、そういう書物から遠ざかった。
それからしばらくしてから、心の乱れはなくなった。

冒頭の訳は、その時の心境である。
つまり、突き詰めれば突き詰めるだけわけがわからなくなって、こういう訳になったというわけだ。



2003年03月09日(日) 運命が仕向けたもの

前に「ナンバープレースというパズルにハマった」と、この日記に書いたが、なぜああいうものにハマったのかという理由がようやくわかった。

昨日、店の改装のメインがぼくの売場だと書いたが、ぼくの売場が建物のちょうど真ん中に位置しているため、そこを作業場にするというのだ。
処分セールは23日までで、翌日から工事に入る。
当初は閉店した後に1週間ほどかけて、売場を撤去するはずだったのだが、業者の都合で24日の正午までに撤去しなければならなくなった。

それを聞いたのは3月の頭だった。
耳を疑った。
その日の予定は午前9時に集合なので、正午までに撤去となると3時間で作業を終えなければならない。
ぼくの売場だけでも100坪以上はある。
そのスペースに商品や什器がぎっしり詰まっている。
人員は10人程度。
商品を撤去するだけならともかく、什器はバラさなくてはならない。
半年ほど前に一度什器をバラしたことがあるが、それはもう大変だった。
1連の什器をバラすのに、何と2時間を要したのである。
しかも今回は売場全部だから、1連どころではない。
当然「出来るわけないやん」である。

他の男性社員全員からも、「業者を雇うとかせんと、3時間じゃ到底無理」との声が起こった。
そこで店長が本社に掛け合った。
本社からの回答は、「近いうち、業者に見積もりに行ってもらいますから」だった。
「近いうちと言っても、あと3週間しかないのに」
「業者も人員を集められるんか」
「どうせ自分たちは手伝いにこんのやろう」
など、非難ごうごうである。

確かに、あと3週間だ。
このまま業者任せにしても埒があかない。
本社の人間もあてにならない。
店の人は、他の仕事を持っている。
『もういい。人をあてにせん。一人でやってやろうやないか』と思ったぼくは、その日からこつこつと売場を壊している。

当初は「大変だ」と思っていた売場解体作業も、いざやってみると面白い。
倉庫が使えないので、展示してある商品を引っ込めることは出来ない。
しかし、什器は減らさなければならない。
そう、これはパズルである。
商品を減らさずに什器を減らしていく、という実践パズルである。
そのためには、ナンプレのような理詰めで考えるということが要求される。
「この什器を減らすためには、この商品をあの什器に移して…」
「あの什器をこちらに移すのに、一番楽な方法は?」
などとやっている。
また、闇雲に商品を置き換えるだけではだめで、ちゃんと関連性のあるところに収めなくてはならない。
これを考えながらやるところに、この作業のおもしろさがある。

よくよく考えてみると、ぼくが突然ナンプレにハマったのも、わかるような気がする。
それは、運命がぼくにこの売場解体作業させたかったからだ。
そのためには頭を使うことをしなければならない。
きっと運命は『日記ばかり書いている頭じゃだめだ』と思ったので、ぼくの目をナンプレに向けさせたのだろう。

作業は順調で、10日足らずで半分近く終わっている。
しかし、まだ業者は見積もりに来てない。



2003年03月08日(土) キャラメル

最近ハマっているお菓子がある。
別に特別なお菓子ではない。
キャラメルである。
それも、北海道のミルクキャラメルとか鹿児島のサツマイモキャラメルなどといった、凝ったものではない。
ごく普通の、どこにでも売っている、森永のミルクキャラメル、グリコ、明治のクリームキャラメルなど、昔から口になじんだものばかりだ。

ある女子社員から、森永のミルクキャラメルをもらったことがきっかけだった。
その人は、アルバイトのおじさんからもらったと言っていた。
何日間か封を開けずにそのまま机の上に置いてあったのをぼくが見つけて、「お前、これ食わんのなら一つくれ」と言った。
「いいよ、どうせ食べんけ」
ということで、毎日一粒ずつもらっていたのが、そのうち病みつきになってしまった。
「今度は、明治のクリームキャラメル食べたいんやけど」
「自分で買ってくればいいやん」
そういうわけで、今日仕事中に近くのスーパーに行って、その明治のクリームキャラメルを買ってきた。

昔からキャラメルが好きだったが、中学からこちらキャラメルを食べることを敬遠していた。
理由は、銀歯が取れるから、である。
キャラメルやガムをかんでいて、ガリッという感触がした時は最悪である。
それまでの至福の世界から、一気に地獄に突き落とされる気がする。
この感触が嫌だから、これまでキャラメルを避けていた。
また、キャラメルカスが歯にへばりつく感触も、あまり気持ちいいものではない。

ここ10年ばかり歯医者に行ってないので、銀歯は昔よりも外れやすくなっているだろう。
それなのに、なぜぼくはキャラメルにハマってしまったのだろう。
おそらくその答は、疲れているから、だろう。
前に少し話したことがあるが、今月末、店がリニューアルすることになった。
改装のメインはぼくが担当する売場で、業者が「閉店と同時に売場を空にしてくれ」と言ってきた。
そのため、3月に入ってから毎日肉体労働をしている。
疲れる。
きっとその疲れのせいで、体が甘いものを欲しがるようになったのだろう。

甘いもの?
それなら飴でもいいじゃないか。
確かに飴も食べているが、ぼくが食べている飴は、ほとんどがのど飴である。
飴を食べた後に、歯を磨いたような爽やかさが口いっぱいに広がる。
この爽やかさがくせ者で、口の中に入る他の食物の味に干渉してしまう。
しかもこの爽やかさは、けっこう長い時間残るので、食事の前には食べられない。
食事の味を、爽やかさが台無しにしてしまうからだ。
また飴の場合、なめていればいいものを、つい癖で噛んでしまう。
たまにそのかけらで、口の中を切ることがある。
そうなると、飴の味に血の味がミックスされて、実に味気ないものになってしまう。

その点、キャラメルは大丈夫である。
味は地味なので他の食物の味に干渉するようなことはないし、噛んでも口の中を切るようなことはない。
要は、食べる時に、銀歯さえ気をつけておけばいいのである。
手軽で、甘くて、いざという時はすぐに飲み込める。
こんな重宝なお菓子を、今までどうして敬遠していたのだろう。

ところで、今どうしようもなく食べたいキャラメルが一つある。
ぼくが小学生の頃販売していた、森永のソランキャラメルだ。
確か、メロン味だったと記憶している。
もう手に入らんのかなあ…。



2003年03月07日(金) 出張の思い出 その5

その夜、食事が終わってから、大阪を案内してもらった。
大阪の地理がまったくわからないので、どこを歩いているのかわからない。
しばらく行くと、そこに有名な風景があった。
グリコのネオン。
テレビや映画で見たことはあるが、実際に見るのは初めてだった。
有名なものを見せられると、変に感動するものである。

その後、法善寺横丁にも行った。
実に風情があっていいところだ。
ぼくは線香臭いところが好きである。
線香のにおいを嗅ぐと、何か落ち着くのだ。
東京にいる時、月一度浅草寺に行っていたのも、線香のにおいを嗅ぐためだった。
もしまた大阪来るようなことがあれば、法善寺横丁には必ず行きたいと思ったものだ。
しかし、一人では行けないだろう。
前に一度失敗しているし、その出張の時も結局は人の後ろを歩いただけだったからだ。

そういう意味では、東京の出張は楽だった。
あるメーカーさんが「今度、東京で新製品発表会をやりますので、ぜひ来て下さい」と言ってきた。
「東京のどこ?」
「新宿のセンチュリーハイヤットです。場所がわからないと思いますんで、今度地図を持ってきます」
「いや、別にいいよ」
東京の地理は、そこに住んでいた頃いつも歩き回っていたので、充分にわかっている。
『新宿』『センチュリーハイヤット』、この二つのキーワードを聞いたとたん、イメージの中ではそこに行き着いていた。

その東京出張の時は、発表会は午後2時からだったので、そんなに早く出る必要もなかった。
朝9時に家を出、バスで福岡空港に向かった。
搭乗手続きも難なく終わり、12時には東京に着いていた。
モノレールから山手線の乗り換えも慣れたものだった。
新宿駅に着いてから少し時間があったので、久しぶりに中央公園に行ってみた。
それだけ余裕があったわけだ。
東京を離れてかなりの時間がたっていたので、街の風景もかなり変わっていたのだが、戸惑うことはなかった。
やはり土地勘のあるところは違うものだ。
当たり前のことであるが、大阪で感じた地理的な苦手意識はまったくなかった。

その日の宿は、何とそのセンチュリーハイヤットだった。
25階のツインルームを一人で借り切っていた。
もちろんメーカー負担である。
一泊だったのだが、一室3万円ほどかかったと言っていた。
こんなホテルに泊まったことはそれまでもなかったし、これからもおそらくないだろう。
実際、それから3年ほどして再び東京に行ったのだが、その時はお茶の水のカプセルホテルに泊まった。
その時は1週間滞在したが、その料金は3万円ほどだった。

さて、今の会社に入ってからは出張というのがまったくない。
まあ、あっても行きたくはない。
どうせ場所は博多近辺だろうから、当然日帰りだろう。
仮に複数日の出張だったとしても通いになるから、疲れるだけである。
やはりぼくには出張なんて似合わない。
慣れた現場で客のわがままを聞いているのが、変に気を遣わなくていいぶん楽である。。



2003年03月06日(木) 出張の思い出 その4

その会社に入社して10年近くがたっていた。
その当時、ぼくはCDやLDなどのソフトの担当をやっていたのだが、その関係で、毎月一回、広島に日帰りで出張に行っていた。
ソフト担当者の会議である。
会議といっても数字の詰めなどといったハードなものではなく、主に次月の強力新譜の確認や、それを売るための販促計画などを練っていた。
しかし、月一回だけの出張とはいえ、回を重ねるごとに、ひと月がその出張の日を中心に回っているように感じてきだし、嫌気がさしていた。
さらに日帰りというのが、嫌気に拍車をかけた。
新幹線でたったの1時間の距離、それも座っているだけじゃないか、と思われるかもしれない。
しかし、体は小倉から広島まで約200キロ、往復で約400キロの距離を移動しているのだ。
ただ座っているだけとはいえ、確実に負荷はかかっている。
日帰りだと、この負荷が、翌日の仕事にモロに響くのだ。

そういった時に、大阪出張の話が出た。
あるメーカーが、大阪で勉強会をやるので来てくれというのだ。
メーカーの勉強会というのは、勉強会ではない。
接待旅行である。
しかも、一泊ときている。
広島出張の時は、上記の理由から「行けるかどうかわかりません」などと気のない返事をしていたのだが、この話には飛びついた。
とにかく一泊というのがいい。
また大阪にはそれまで三度しか行ったことがなかった。
最初は小学3年生の時だった。
この時は京都を主にまわったため、大阪に着いたのは夜で、梅田駅でうろついただけだった。
二度目は中学の修学旅行だった。
しかし、この時も大阪はバスで流しただけだった。
三度目は東京時代。
帰省中に京都に立ち寄った。
一人で京都の街をぶらぶらしていたら、腹が減ってきた。
せっかくだから、食い倒れの街に行ってみようじゃないかと思い、さっそく電車で大阪に向かった。
ところが大阪に着いたはいいが、地理がわからない。
仕方がないので、大阪駅周辺で何か食べることにした。
結局食い倒れの街大阪でぼくが食べたのは、吉野家の牛丼だった。

ということで、大阪出張は、ぼくの生涯4度目の大阪探検になった。
出張の前の日のことだった。
ぼくは布団の中で、それまでの大阪探検をいろいろと思い出していた。
ところがそれが災いしたのか、眠れなくなった。
気がつけば午前4時を回っていた。
午前6時半には家を出なければならない。
「まあ、大阪まで新幹線で寝ていればいいや」、と思ったとたんに眠りについてしまった。

目が覚めた。
時計を見た。
「ええっ?!」
8時半。
確実に遅刻である。
ぼくは先方に電話を入れ、遅れる旨を伝えた。
「何時頃になりそうですか?」
「昼までには何とか着くと思うのですが」
電話を切ってから、あわてて家を飛び出した。
通りに出てタクシーを拾おうとした。
ところがこんな時に限って、タクシーが1台も通らない。
結局タクシーを拾ったのは20分後だった。
そのおかげで、予定していた新幹線にも乗り遅れた。

新大阪に着いたのは12時を過ぎていた。
ところが、である。
先に書いたとおり、ぼくは大阪の地理がまるでわからない。
とにかく日本橋に来てくれということだったが、その日本橋に行くすべを知らない。
またもや先方に電話を入れ、道順を聞いた。
ようやく着いたのは、午後1時前だった。
そこに集まっていた人たちは、食事も終わりコーヒーなどを飲んでいた。
午後からの勉強会、ぼく一人だけ腹を空かしていた。



2003年03月05日(水) 出張の思い出 その3

翌朝7時半に旅館を出、平和記念公園の中を足早に歩きながら仕事場に向かった。
会議の始まる10分に店に着いた。
もう、他の人は揃っていた。
ぼくが来たのを確認してから、主任は言った。
「じゃあ、行こうか」
(『行こう』?、ここで会議するんじゃないのか。ということは、ちゃんとした会議室でやるのか)
そんなことを思いながら、ぼくはみんなの後をついて行った。
店を出て、隣のビルの階段を上っていった。
そこは喫茶店だった。
(まさか喫茶店で会議をやるんじゃないだろうな)
みんなはバラバラに座った。
「モーニング下さい」と主任が言った。
各自注文を始めた。

(さて、会議か)と思いきや、なんと主任以下全員が、店に置いてある新聞や週刊誌をとってきて読み始めた。
新聞といってもスポーツ新聞である。
週刊誌といってもエロ本あり、マンガありである。
まあ、声を出す者はいなかったが、時折笑い声も聞こえる。
9時までこの状態が続いた。
会議ではなく、ただの朝食会だった。

そのことがあってから、ぼくのその店に対する見方は変わっていった。
まず、『七三分けの刈り上げ』だが、主任は長髪系で真ん中分けだった。
『接客の報告書』、そういう紙はあったが、書いている人を見たことがない。
『お辞儀45度』をやっていたのは最初に会った人だけで、他の人はいい加減なものだった。
『玄関で土下座』などするのはよっぽどの時だろう。
『休みが少ない』、みな有給休暇を気にしていた。
『朝が早く、夜が遅い』、朝は早いがこんなふうである。
夜も仕事が終われば、みなさっさと帰っている。
しばらく勤めていると、そういうことが見えてきた。
騙された、というよりそれらの話は、きっと「そういう人がいた」とか「そういうことがあった」ということが、広まっていく過程で誇張されていった話なのだろう。

心にのしかかった重みがとれた。
ようやく冷静さを取り戻したぼくは、『これで1ヶ月過ごせる』と思った。
ところが、ぼくがそこに出張して2週間ほどたった頃だった。
会社から「戻ってこい」という連絡があった。
ようやくその店に慣れた頃だったので、ちょっと惜しい気がした。

2日後、ぼくは新幹線の中にいた。
いったいこの出張は何だったのだろうか。
世間で『厳しい』と噂されるその会社の中身が『実はいい加減なものだった』、ということがわかっただけで、他に何も得るものはなかった。
会社に戻ってから出張の報告書を提出しなければならなかったのだが、何と書いていいものか、さんざん悩んだものだった。

その後、何度か広島に出張したのだが、最初の出張のことがあったので、どんな会議があろうとも気は楽であった。
しかし、朝早く家を出なければならないことは辛かった。
出張時、常々『この調子だと、今に遅刻してしまう』と思っていたのだが、大阪出張時、それは現実になってしまった。



2003年03月04日(火) 出張の思い出 その2

広島に着いたのは、昼前だった。
とにかく初めての土地なので、右も左もわからない。
「八丁堀の次に紙屋町という電停があるから、そこで降りたらいい。そごうがあってその横に広島球場があるからすぐにわかるよ」
上司から言われたとおりに、駅から路面電車に乗った。
しばらくして八丁堀に着いた。
さあ次だ。
上司の言っていたように、そごうのマークが見えてきた。
なるほど、その向こうに広島球場のナイター照明塔が見える。
「ここが紙屋町か。わりと都会やん」と思いながら、ぼくは電車を降りた。

研修先はすぐにわかった。
店に入ると、男性従業員が一人いた。
「いらっしゃいませー」
噂に聞いたとおりだった。
お辞儀の角度が45度になっている。
ぼくもこれをさせられるのかと思うと、気が重くなった。
「あのう…」
「はいっ!」
「北九州から来たんですが」
「ああ、聞いてます。たしか、しんたさんでしたね」
「はい」
「今日からですね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「主任を呼びますので、ちょっとお待ち下さい」

少し間をおいて、店の奥から主任が出てきた。
「しんた君か」
「はい」
「ここの責任者をやっとるYじゃ。よろしゅう」
「よろしくお願いします」
「あんたんとこから、もう一人研修生が来とるで」
「あ、そうですか」
「ま、あんたも頑張りんさいよ」
初めて聞く、生の広島弁だった。

さて、もう一人の研修生というのは、ぼくが長崎屋でアルバイトをしていた頃の先輩だった。
ぼくは主任に挨拶をしてから、さっそく仕事についた。
ぞうきんを持って商品の掃除をしている時だった。
後ろから「お、しんたやないか」という声がした。
先輩のNさんだった。
「お前、どうしてここにおるんか」
「ここに行けと言われたけおるんよ」
「そうか。ここは厳しいぞ。長崎屋とはまったく違うけの。それだけは覚悟しとったほうがいいぞ」
「そう…。やっぱりね」
先ほどのお辞儀の角度といい、今のNさんの言葉といい、長崎屋にいた時に聞いた噂は、どうも本当らしい。
『こんなところで1ヶ月か…』
そう思うと、長崎屋を辞めるんじゃなかったという後悔の念がわいた。

仕事が終わり、終礼時に主任が言った。
「明日は早朝会議じゃけ、8時に集合」
おいでなすった。
さっそく早出の洗礼である。
ぼくとしては、会議などはどうでもよかったのだが、早出だけは勘弁してほしかった。
長崎屋にいる時は、9時半までに店に入ればよかったので、朝は8時半まで寝ていた。
8時といえば、10日前ならまだ布団の中にいる時間だった。
そんな時間に会議に行かなければならないとは。
まさに地獄である。



2003年03月03日(月) 出張の思い出 その1

前の会社にいた頃、ぼくはよく出張に行っていた。
たまには東京や大阪という遠方に行くこともあったが、主に行ったのは近場の広島や博多だった。

その広島に初めて行ったのは、入社してからわずか7日後のことだった。
上司から呼ばれた。
「しんた君、明日から広島に行ってきてくれんかね」
「え、広島にですか?」
「ああ。そこの店でしっかり勉強してきてくれ」
「一人で行くんですか?」
「ああ」
「・・・。で、期間はどのくらいですか?」
「期間・・。そうやねえ、1ヶ月ばかりかなあ」
「1ヶ月もですか?」

困ったことになった。
就職する前にアルバイトをしていたところで、広島の店の話をさんざん聞かされていたのだ。
「社員はみな七三分けで刈り上げにせないけんらしい」とか、「一人接客をするたびに報告書を提出せないけん」とか、「お辞儀の時、45度体を曲げんと文句言われる」とか、「お客さんの家に行ったら、玄関で土下座せないけん」とか、「休みが少ない」とか、「朝が早く、夜が遅い」とか、とにかく厳しい店だということだった。
そんなところに1ヶ月もいるのは辛い。

また、ぼくの持つ広島のイメージがひどかった。
映画『仁義なく戦い』の舞台になったくらいの街だから、当然怖いところだというものだった。
つまりぼくの頭の中の広島の図は、『=やくざ』となっていたのだ。
その頃、北九州市内で発砲事件があった。
ニュースでは暴力団の抗争だと言っていた。
北九州市内でもこの状態だ。
『=やくざ』の広島では、こんなことが毎日起こっている思っていた。

「もっと短くならんのですか?」
「ならん」
「どうしても行かないけんのですか?」
「どうしてもって、何か広島に行きたくない理由でもあるんかね」
「ええ、ちょっと」
「別れた彼女でもおるんかね」
「いや、そういうことじゃないですけど」
「じゃあ、どうしてかね」
「気が進まんとです」
「えっ、何で?」
「だってやくざの街なんでしょ?」
さすがに、厳しい店と聞いているので行きたくないとは言えなかった。

「ははは、そんなことか」
「・・・」
「あんた『仁義なき戦い』見たんやろ」
「はい」
「あれは映画の世界での話」
「でも、実話だと言っていましたよ」
「そんなの昔のことやろ。今はそんなことはない」
「やっぱり行かないけんですか?」
「ああ、決まったことやけ。まあ、頑張ってきてくれ」
「・・・、はーい」
最後に上司は言った。
「広島カープの悪口だけは言うなよ」

翌朝、ぼくは新幹線に乗り、広島へと向かった。
3月初旬、まだまだ冷たい風が吹いていた。



2003年03月02日(日) 奇跡

“逢えない人の影をぼくは追っていた。
 いつかめぐり逢えるとトランプをめくった。
  奇跡をいつも夢見てはため息ついた。
  そこから一歩も出ずに” (自作詩『十九の頃』より)

ラジオで、山崎まさよしの『One more time, One more chance』という歌がかかっていた。
この歌を聴きながら信号待ちしていたのだが、ふと19歳の頃のことを思い出した。
あの頃、ぼくもこの歌のように一人の女の人を探していた。
その頃作った詩に、『明日はきっと』という詩がある。
「何もいいことがないから
 こうしてトランプ切るのです
 ほら明日は素晴らしいと出た
 願い事も叶うと出た

 逢いたくても逢えないから
 こうしてトランプ切るのです
 ほら明日は素晴らしいと出た
 明日はきっと逢えると出た

  嘘でもいいんです
  一時しのぎでいいんです
  明日何もなくったって
  またあさってに切るのです

 誰もいない夜だから
 こうしてトランプ切るのです
 ほら明日も素晴らしいと出た
 あの子もぼくを好きだと出た

  明日はきっと… 」

ギターを弾く以外、することがなかったので、いい結果が出るまで何度もトランプ占いをやっていたものだ。
一発でいい結果が出た時などは、「もしかしたら今日逢えるかも」というので、いつも街に出ていた。
なるべく人通りの多いところというので、通りに面した本屋に行っていた。
そこで、「もしかしたら」という奇跡を願っていたわけだ。
しかし、その人と逢うことはなかった。
その時の状況を他の詩に見つけた。
「見たことのある人が、
 笑いながら過ぎて行った。
 振り返ってみても誰もいない。
 ねえ、これが毎日なんだ。」

そういえば、その時本屋でちょっとした出来事があった。
本屋で長い時間立ち読みしていると、タバコが吸いたくなったものだ。
その本屋には喫煙場所がなかったので、タバコを吸う時はいつも外に出ていた。
足も疲れていたので、電柱に寄りかかり、時間をかけてタバコを吸う。
それを何十分か置きにやっていた。
何回目かの喫煙時間だった。
何か視線を感じるのだ。
ふと見ると筋向かいから、こちらを見ている女の人がいる。
何と表現したらいいのか、とにかく「ちょっと・・」という容姿の持ち主だった。
知らない人なので、誰か他の人を見ているのだろうと思っていた。

次の喫煙時間。
ぼくが外に出ると、筋向かいにある商店から、女の人が出てきた。
先ほどの女性だ。
彼女は、やはりこちらを見ている。
ぼくは「どこかであった人かなあ」と思い、目を凝らしてみたが、やはり知らない人だ。
ところが、ぼくが目を凝らして見たのをどう受け止めたのか知らないが、彼女はぼくにニコッとほほえみかけた。
ゾクッとした。
「変な女やなあ」と思ったぼくは、その後は目を合わさないでいた。
しかし彼女は、ぼくがその場を立ち去るまでそこに立っていた。

それから1年後、バイト先で仲良くなった男にその話をしたことがある。
彼は「それ、もしかしたら○商店の娘やないんね」と言った。
「その人有名なん?」
「有名も有名。おれたちの高校で知らん人はおらんかったよ」
「へえ」
「ちょっとおかしいんよ」
「え? 頭が?」
「それもあるんやけど。とにかく男に飢えとるというか、男を見るとニヤッと笑うんよねえ、あの顔で。おそらく、その時しんたのことが好きになったんやろうね」
「・・・」
「いいやん。家は金持ちみたいやけ。どう、つき合ってみたら?」
「冗談やない!」

それから数年後のある日。
高校時代の友人が、「しんた、○商店の娘を知っとるかねえ」と聞いてきた。
「ああ、知っとるよ。ぬりかべみたいな女やろ」
「あの女、結婚するらしいんよね」
「え!? 物好きもおるもんやねえ」
「その相手というのが、うちの会社の人間で」
「へえ、そうなん」
「どうも金目当てらしい」
「そうやろね」
お見合い結婚だったらしい。
夫になる人の心中を、ドラマ『やまとなでしこ』の欧介さんふうに言えば、きっと「あなたの金以外、どこを愛せと言うんですか!?」ということなのだろう。

ところで、断っておくが、ぼくが探していたのは、その女ではない。



2003年03月01日(土) 春一番

このサイトを始めてから、今日で三度目の春を迎えた。
ちょっと過去の日記を読み返していたのだが、今が一番最悪な日記を書いているようだ。
何が最悪かというと、最近の日記はどうも時間に流されてしまっているように思えてならないのだ。
とはいえ、昨年は昨年で時間に流されていたし、一昨年は「日記が書けない」と泣き言まで書いている。
そんなこともすっかり忘れて、春一番の日記を書く。

さて、三度も春を迎えているくせに、ぼくの日記には『春一番』というタイトルがない。
自作詩にはちゃんとある。

「顔を洗って、風が肌を潤すとき
 誰かがささやく、変わったね、あなたも
 うん、もう春だもの
 春一番、ほらもう冬を忘れてる

 ・・・・・

 春風がまわりの冬を追い払うとき
 誰かがささやく、どこに行くの、冬は
 あなたのいないところに
 春一番、ほらもう冬を忘れてる」
  (1975年作“春一番”より)

「暖かな日差しの中に
 風を乗せて、さあ歌おう
 そんな時もあったんだよって
 悔いにも似た想いも乗せて

 吹きすぎる風はいつもそう
 喜びや悲しみを運ぶ
 そんなふうに新しい風は
 新しい想い出を運ぶ

  春一番歌った空に、君はいない
  だけど、もしもそこに君がいたら
  ぼくはもう春をも飛ばしただろう
  これからに夢もなかっただろう

 忘れ去ったひとつの日に日に
 ぼくは風に乗って歌おう
 もう、その時なんてないんだけれど
 もう、その心なんてないんだけれど」
  (1979年作“春一番、歌った空に”)

「あまりに暑くて
 目が覚めた。
 先ほどの雷雨が
 今はやんでいる。
 風も収まったようだ。
 二月も末
 今日はストーブがいらない。
 さて、どうやって眠ろうかと
 悩んではいるのだが
 さて、何をやろうかと
 考えてもいる。」
  (1992年作“春一番”)

何と三つもあった。
これだけ春一番が好きなのに、春一番のいい思い出というものがない。
だから、思い出や現実を重視しているこの日記にそのタイトルがなかったのだともいえる。

毎年、春一番の声を聞くと、キャンディーズの歌ではないが、重いコートを脱いだような気分になる。
それだけ、冬というものにプレッシャーを感じているのだろう。

ところで、今年は春一番は吹いたのだろうか。
何年か前に、2月の早い時期に吹いたことがある。
その時は、今年は春が長いわいと喜んでいた。
しかし、その年の春一番の思い出はない。

「しんた君かね。生物のFだが、残念ながら君には追試を受けてもらうよ」
春一番の思い出といえば、やはり高校1年の時の追試につきる。
突然の電話だった。
その日に春一番が吹いた。
「範囲はどこですか?」と聞くと、「1年間習った全てです」と言う。
『来年も1年か』という思いが駆けめぐった。
それから1週間、『ミトコンドリア』や『デオキシリボ核酸』といった、わけのわからない言葉と格闘しなければならなかった。

さて、久しぶりに春一番を書いてみるか。

「春一番が飛んでくる。
 海を越えて飛んでくる。
 電気もないのに飛んでくる。
 米もないのに飛んでくる。

 ぼくらは黙って見てるだけ。
 笑いながら見てるだけ。
 先生たちも見てるだけ。
 笑いながら見てるだけ。」

どうしてもこちらに行ってしまう。
一触即発。
怖い世の中になったものだ。


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