頑張る40代!plus

2003年02月28日(金) 犬をどうにかしろ!

仕事が終わってから家に帰り着くのは、だいたい午後9時頃になる。
さすがにこの時間帯は、街灯やビルや工場の灯りがあるとはいえ、車道以外は暗く感じる。
特に住宅街を人が歩いている場合は、非常に見にくいものだ。

この間帰る途中でのこと、住宅街を運転している時、路肩で白い物が動いているのが見えた。
どうも生き物のようだ。
「犬か?」と思い、少しスピードを緩めて見てみると、思ったとおり小さな犬だった。
その犬の横、歩道の上を人が歩いていた。
飼い主だ。
犬に車道を歩かせ、自分は歩道を歩いていたというわけだ。

ふと考えた。
もしこういう状況で、犬をはねたらどうなるのだろうか。
道交法違反で点数を引かれるのだろうか。
暗い夜道を、それも車道で犬を歩かせているアホな飼い主のおかげで点数を引かれることほど馬鹿らしいことはないだろう。
そういうことは別として、飼い主から「○○ちゃん、○○ちゃん…」などと言って目の前で泣かれ、罵倒され、賠償金を取られるのもシャクである。
そういうことにならないためにも、飼い主は安全な場所で散歩をさせるようにしてもらいたいものである。

それにしても、世の中には「この人は大丈夫か?」と疑問をいだかせるほど、生き物を溺愛する人がいる。
そういう人に限って、人づき合いが下手なように思える。
知り合いに大変な犬好きがいる。
その人のことをよく知らない頃のこと、その人がぼくに愛犬の写真を送ってきた。
別にこちらから送ってくれと言ったわけではなく、あちらが勝手に送りつけてきたのだ。
写真を見ると、その犬も世間一般の溺愛犬と同じように、服を着せられていた。
最初「かわいい犬やね」とお世辞を言ったのが間違いだった。
それで気をよくしたその人は、調子に乗って犬の写真を送ってきた。
こちらとしてはいい迷惑な話だ。
その人が自己中心的な性格で、周りの人とトラブルばかり起こしていると知ったのは、しばらくたってからだった。
相手は犬とはいえ、愛する心を持った人なのだから、もっと周りの人を気遣ってもらいたいものである。

スーパーに行くと、よく「衛生管理上、生き物の持ち込みはお断りしております」という放送がかかっている。
しかし、いるんですねえ、犬を持ち込む大馬鹿者が。
それも、抱えるなり、かごに入れておくのならまだしも、ふつうの散歩のようにひもにつないで歩かせている。
いったいどういう神経をしているのだろう。
おそらく飼い主には、「うちは人間と同じように育てているから、しつけもよく、大変衛生的です」などというような言い分があるのだろうが、しつけがよく、衛生的だと知っているのは、飼い主だけじゃないか。
いくら人間ふうに服を着せていようとも、犬は犬である。
どう見ても衛生的だとは思えない。
だいたいしつけのいい犬だからといって、店の中でおしっこをしないとでも言うのだろうか。
いいにおいがすれば、鼻を近づけてにおってみるのではないだろうか。
そういう無神経なお客は、特に若い人に多い。
お年寄りは、いくら小さなお座敷犬といえども、ちゃんと外につないで待たせているものだ。
英語で犬をしつける暇や、犬の服を作る暇があるのなら、まず飼い主が、世間の常識やマナーを勉強しろ!



2003年02月27日(木) 早起き

予告どおり、翌朝に書いている。
ぼくは小さい時から朝型の人間ではないので、こうやって、いわゆる朝と呼ばれる時間にパソコンの前に座っているのもけっこうきついものがある。
小学校の頃、夏休みの宿題にはよく「朝の涼しいうちにやりましょう」などと書いてあった。
もちろん朝型人間でないぼくは、やったことがない。
夏休みの朝、それは宿題やラジオ体操のためにあるものではない。
ぼくにとってそれは、寝るためにあるものだった。
前の晩に夜更かしし、翌日は9時10時に起き出し、テレビで『夏休みマンガまつり』などを見る毎日だった。
登校日、早起きの辛かったことといったらなかった。
で、宿題はいつやるか?
当然8月末にならないとやらない。

冬休みもいっしょだった。
昔は今よりも寒かった。
また暖房設備も今のように発達しておらず、火鉢とこたつくらいしか家になかったので、どうしても布団に執着する毎日を送るようになる。
そのため、夏休みよりも始末が悪く、起き出すのはいつも昼前だった。

春休みにしても、代わり映えなく、暖かい分少し早く起きた程度である。
まあ、春休みの場合は、夏や冬と比べると精神的に楽な面があった。
夏休みや冬休みは、この世に宿題なんかないといった毎日を送っていたものの、潜在的には「宿題をやらなければならない」という一種の焦りのようなものがあった。
しかし、春休みには宿題がなかったので、その焦りはなかった。
ただ惜しむらくは、春休みは、休みの期間が短かった。
そのため、夏や冬とは違った焦りがあった。
「後何日したら、早起きをしなければならない」という焦りである。

『早起きは三文の得』と言われるが、ぼくは早起きして得した覚えはない。
休みの日に遅くまで寝ていると、時間を損した気になることはあるが、早く起きたからといって決して得したという気にはならない。
眠い目をこすって嫌々起きるのに、何の得があるだろう。
布団の中という一種天国のようなところから、現実という娑婆、いや地獄に出なければならないのだ。
『早起きは三文の得』というのは、実は悪魔の言葉である。
文明の発達とともに夜更かしする人間が多くなった。
そのため悪魔は活動しにくくなってしまった。
「これは困ったことだ」と嘆いた悪魔は、一計を案じた。
欲張りな人間を見つけては、彼の耳元で「早起きすれば、儲かりまっせ」とささやくことにしたのだ。
ところが、世の中には実に欲張りな人間が多い。
一夜にして「早起きすれば、儲かりまっせ」という言葉が広まった。
この言葉をことわざ化するにあたって、「『儲かりまっせ』という表現はあんまりじゃないか」という意見が出たため、『早起きは三文の得』ということになったのだ。
有名なことわざだからといって、鵜呑みにしてはならない。
早起きする人間が多くなれば、その分悪魔が活動しやすくなるのだ。

ところで、先ほどちょっと外に出てみたのだが、実にすがすがしい朝である。
少し肌寒くはあるが、それが妙に心地よい。
今日は午後から曇りという予報が出ているものの、今のところは雲一つない青空が広がっている。
今日はきっと悪魔にささやかれている日なのだろう。
何か得したような気がする。



2003年02月26日(水) ナンバープレース

最近ナンバープレースというものにハマっている。
マスの中に、ダブらないように数字を入れていくパズルである。
文藝春秋や週刊文春を読んでいる人には、『数独』と言ったほうがわかりやすいだろう。
昨年の夏にプリンターを買ったのだが、年賀状を作るでもなし、デジカメで撮った写真をプリントアウトするわけでもなし、宝の持ち腐れ状態になっていた。
この頃せっかくあるのに使わないのももったいないと思うようになった。
じゃあ、何かプリントアウトしてやれと思い、いろいろ印刷する物を探していた。
そういう時、文藝春秋等でよくやっているこのパズルのことを思い出した。
そして、ネット上にあるこのパズルを印刷して、暇な時間にでも解いてみようということになった。
ところが、最近は暇な時間どころか、忙しい時にもやるようになってしまった。
というより、ナンプレをしない時間に他のことをやるようになったのだ。
テレビを見ていても、本を読んでいても、頭の中はいつもナンプレのことでいっぱいだ。
『あそこが9だから、ここには5か6が入ることになる。ということは、ここには7か8が入る』というようなことを考えているわけだ。

一昨日、取引先の人が来たのだが、商談の最中もナンプレのことを考えていた。
「しんたさん、今度新製品が出るので、この商品の処分をお願いしたいのですが」
「(ということは、あそこには8が入らんのか。うーん、わからん)あ、何か言うた?」
「いや、今度新製品が出るので…」
「ああ、新製品ならバイヤーに言うとって」
「いや、処分の件なんですが」
「え、何か処分せないけんと?」
「だからですねぇ…」
心ここにあらずである。
元々ぼくは、あまり人の話を聞かない質なのだが、何かに集中している時にはさらにひどくなる。
結局、この取引先氏は同じことを三度言わされる羽目になった。

ここ数日、日記の更新が遅いのも、このナンプレのせいである。
昨日書いた『宿題』と同じで、先に日記を書いてからナンプレをやればいいものを、ナンプレが終わってから日記を書くものだから遅くなる。
さらに、日記を書いている最中にもナンプレのことを考えているから始末が悪い。
昨日の日記の更新は午前3時を過ぎていた。
おかげで、今日はひどい寝不足で、体調は最悪だった。
しかし、それでもナンプレのことを考えている。
こうなれば、もう病気である。

さて、このナンプレ病はいつまで続くのだろうか。
とりあえず、今日は時間はかかったが、なんとか難易度4をクリアした。
明日は、難易度5に挑戦する。
おそらく、今日以上に時間がかかるだろうと思われる。
もしかしたら、そのせいで明日の日記の更新はその翌日になるかもしれない。
しかし、いくら時間がかかろうとも、難易度5はクリアしたほうがいいと思う。
そうすれば、熱しやすく冷めやすいぼくのことだから、サッとナンプレ熱が冷めるにちがいない。
まあ、仕事や健康に支障を来さないためにも、早く熱を冷ましたほうがいいだろう。



ナンバープレース



2003年02月25日(火) 宿題

小学校に行っていた頃、ぼくは宿題をいつも午後9時頃から始めていた。
「あんた、まだ宿題やってなかったんね。学校から帰ってすぐに宿題をすれば、後でゆっくり遊べるのに、何で早くせんとね」
当時母からよく言われた言葉である。
しかし、それは出来なかった。
なぜか?
それは、学校から帰ってから9時までが、ぼくのゴールデンタイムだったからだ。
帰ってからすぐというのは、友だちと遊ぶためのゴールデンタイムである。
友だちと遊んだ後の時間というのは、テレビでマンガをやるゴールデンタイムである。
風呂に入る、飯を食う、9時頃までダラダラとテレビを見る、というのは生活のゴールデンタイムである。
その間、宿題をやる時間というのはどこにもなかったのだ。

小学生の頃に一番嫌いだった宿題は、漢字の書き取りである。
この宿題が出ると泣きそうになったものだ。
しかし、今考えてみると、あんな簡単な宿題はなかった。
何せ、頭を使わなくていい。
ただ同じ漢字を10字とか20字とか書いていけば、それで終わりなのである。
では、そんな簡単なものが何で嫌いだったのか?
それは、書くペースが人よりも遅かったからである。
ぼくに手作業をさせると、とにかく遅い。
図工・習字・技術・家庭科などは、いつもろくな点数をもらえなかった。
その理由は、作品を作るのが遅かったからだ。
ほとんど時間内でやりあげたことはなかった。
そのため提出するのはいつも未完成作品で、提出しないこともままあった。
そういう理由から、午後9時から始めた漢字の宿題が終わるのは、だいたい11時を過ぎだった。
おかげでぼくは、小学生の頃、既に寝不足に悩む人間だった。

苦手ではなかったが、面倒くさい宿題もあった。
算数の分数や小数点の計算である。
算数ドリルには、「これでもか」というくらい計算問題が載っていた。
計算は速かったが、おっちょこちょいだったのでポカが多かった。
そのため、検算という面倒な作業をしなくてはならない。
検算には時間がかかったものだ。
間違いを見つけると、また計算をやり直さなければならない。
これが嫌だった。
せっかく書いたものを、消しゴムで消すというのもむなしいものである。
また、最初の計算が正しくて、検算のほうが間違っている場合もあったが、その時の悔しさと言ったらなかった。
悔し紛れに消しゴムを投つけて、物を壊したことも一度や二度ではない。

たまには好きな宿題もあった。
社会科である。
ぼくの社会科に対する情熱は、並々ならぬものがあった。
趣味とも言ってよかった。
いまだになぜ社会科が好きだったのかはわからないが、おそらく一番現実味のある教科だったからだろう。
先生が通信簿に「他の授業の時は落ち着きがなくふざけてばかりいますが、社会科の時間だけはまるで人が違ったようになります。とにかく目の色が違います」と書いたほどだった。
それだけ好きだった社会科だから、宿題はすぐに終わった。
あまりにも早く終わるので、時間をもてあましてしまい、予習までやっていたものだ。

とはいえ、全般的にぼくは宿題というものが嫌いだった。
その後遺症か、今でも仕事を家に持ち込むことをしない。
前の会社で、よく上司から「家でやってこい」と言われていたが、決して家に持って帰るようなことはなかった。
何時になろうが、会社に残ってやったものだ。
今ならなおさらである。
もし、会社から宿題などを出されたら、この日記が書けなくなる。
そういえば、ぼくがもし日記を書く情熱をなくしたら、この日記もただの宿題になってしまう。
それだけは避けなくては…。



2003年02月24日(月) カラオケの定番

ぼくのカラオケの定番を紹介します。

『時の過ぎゆくままに』(沢田研二)
高校の頃に流行ったジュリーの名曲である。
最近よく思うのだが、学生時代は、どうしてあんなに簡単に歌が覚えられたのだろう。
今の歌などは、覚えるのに一苦労する。
歌のスタイルが変わったせいもあるのだろうが、一番大きな原因は、ぼくの記憶力が低下していることにあるのだろう。
この歌は、ぼくの記憶力がまだ良かった頃に流行ったものだ。
聞き覚えというのだろうか、何かのドラマでかかっていたこの歌が自然と耳に入り、記憶に残ったのだ。
ぼくが初めてこの歌を歌ったのは、それから何年か後のことである。
音をはずさずに歌えたのは、やはり若い頃の記憶力のせいだろう。

『夕焼けの歌』(近藤真彦)
マッチはこの曲の前に、『あぁ、グッと』という拓郎の歌を歌っていた。
この『夕焼けの歌』も、その曲調からして拓郎のものと思っていたが、それは違っていた。
しかし、この歌は拓郎ファンのぼくとしては歌いやすいものである。
特にサビの絶叫部分は、嬉しい。
ぼくのカラオケレパートリーで、歌詞を見ないで歌えるのはこの歌くらいだ。
他の歌はうろ覚えでしかない。
普段ぼくはカッコつけて目をつぶって歌っているが、実は片目を開けて歌詞を見ているのだ。

『時代おくれ』(河島英五)
最近はあまり歌わなくなったが、30代の頃によく歌っていた歌である。
小倉のスナックでこの歌を歌った時、誰かがぼくに「あんたの歌やのう」と言った。
あの時代、きっとぼくは、この歌の内容ほど老け込んでいたのだろう。
ということは、最近歌わなくなったのは若返った証拠だということか。


『恋』(松山千春)
カラオケがブームになった頃から、歌っていた歌である。
これも若い頃だったので、それほど努力をしないで覚えた歌の一つだ。
言葉の力は偉大だ、と思い知らされた歌である。
それまでのぼくは、あまり詩の意味を考えずに歌っていた。
ところが、あるスナックで、ぼくがこの歌を歌っている時に、ある女の子が泣き出したのだ。
どうしたんだろうと聞いてみると、詩に感動したと言う。
その時ぼくは、「ああ、言葉にはこういう力があるんだ」と思ったものだ。
彼女が感動したのは、“男はいつも待たせるだけで、女はいつも待ちくたびれて〜♪”の部分である。
確かにそのとおりなのだが、きっと彼女はそれに似た経験をしてきたのだろう。
このことがあって、ぼくは詩の意味をかみしめて歌うことを心がけるようになった。


『津軽平野』(千昌夫)
小倉に一風変わったスナックがあった。
そこのマスターがこの歌が好きでよく歌っていた。
ぼくはこの歌を、そのマスターの歌で好きになった。
その後、作曲者である吉幾三のCDを買って、この歌を覚えた。
しかし、彼のヒット曲『雪国』は、このCDを買った後に流行ったため、当然このCDには入ってない。
ということで、『雪国』今でもは歌えない。
『津軽平野』に関して言えば、この歌は民謡の要素が多分に含まれている。
千昌夫よりも、三橋美智也とか細川たかしが歌ったら、もっと生える歌なのかもしれない。
ぼくは冬になると、よくこの歌を歌っている。
東北が舞台になっている歌は好きだけど、ぼくはこの歌以外は歌えない。
前々から、新沼謙二の『津軽』を歌いたいと思っているが、やはり最近の記憶力では歌を覚えるのに時間がかかるようだ。
で、いまだに歌えないでいる。


『流星』(吉田拓郎)
10年ほど前までは、カラオケボックスのメニューに入っている拓郎の歌というと、『結婚しようよ』と『旅の宿』くらいだった。
しかし、今はけっこう多くの歌が入っている。
中には、アルバム曲の『高円寺』がメニューに入っているところもあるのだから、時代も変わったものである。
さて、この『流星』も、最近のカラオケボックスのメニューには必ず入っている。
この歌はTBSのドラマ『男なら』のテーマソングだった。
北大路欣也主演で、ずうとるびの山田隆夫なんかも出ていた。
ドラマの最後頃に、山田がギターを弾いて他の出演者とこの歌を歌っていた。
あの頃はみんなで歌う歌だったのだ。
しかし、最近この歌を歌うのは、ぼくの周りではぼくしかいない。
前の飲み会でこの歌を歌った時、「誰の歌?」と言われ、寂しく思ったものである。
しかし、それでもぼくはこの歌をうたっている。
気分が乗らない時でも、この歌だけは歌っている。
そう、この歌は数ある拓郎の歌の中で、一番好きな歌なのだ。


ぼくは知っているからといって、闇雲に歌うタイプではない。
気に入った歌しか歌わないタイプだから、そのレパートリーは誰よりも少ない。
レパートリーは、上にあげた歌以外にもあることはあるが、それらの歌はあくまでも、上にあげた歌を歌う前の前奏曲に過ぎない。
ところで、上の歌を歌うのは、だいたい最後の最後、つまり店を出る前である。
時間が押しているのに、前に人が長い歌を歌うと、定番が歌えないこともある。
そういう時、フラストレーションがたまる。
「おれに歌わせろーっ!!」
むなしいものである。



2003年02月23日(日) 伊藤君2

伊藤の車の助手席には『彼女以外乗車禁止』というステッカーが貼っている。
この間、ぼくが伊藤に「お前はバカか。 何か、あのステッカーは」と言うと、生意気にも伊藤は「当然じゃないですか。彼女以外の誰を乗せると言うんですか」と答える。
「じゃあ、一生誰も乗せられんやないか」とぼくが突っ込むと、伊藤は黙っていた。
その後、ぼくはこっそりと『彼女…』の写真を撮り、彼の部署のJ子にメールで送っておいた。

ところが、そのメールがちょっとした問題を起こすことになる。
昨日のこと、何と伊藤の助手席に女の子が乗っていたらしいのだ。
部署の子は、さっそく伊藤にメールを送った。
(しんたさんから写真を送ってもらったんですが、『彼女以外乗車禁止』ということはあの人は彼女ですか)

そして今日。
ぼくが食事をしていると、伊藤が入ってきた。
彼はぼくを見つけるなり、「しんたさん、J子さんに車の写真送ったでしょうが」と言う。
ぼくが「ああ、送ったよ。何かまずかったか」と聞くと、伊藤は「昨日、助手席に女の子を乗せてたのを、J子さんに見られたんですよねぇ。あんな写真送られたら、バレバレじゃないですか」と言った。
「それは彼女か?」
「まあ、いちおう…」
そう言って、伊藤は嬉しそうな顔をした。
彼は、彼女のことをぼくに話したがっているように見えた。
そこで、ぼくはわざとはずしてやった。
「ふーん、よかったやん」
「ええ、まあ…」
「ところで、お前いくつ?」
「え? 今年22歳ですけど…」
「22歳か。小便恋愛やのう」
「え、小便恋愛なんですか?」
「どうせ、またすぐふられるんやろうが」
「いや、今度は…」
「まあ、小便恋愛なんかに興味ないし、別にお前が誰とつき合おうと、おれは気にならんわい」
「はあ、そうですか」
伊藤が答えた後で、ぼくは一呼吸置き無表情に言った。
「で、相手は誰なんか?」
伊藤はあ然とした顔をし、急に笑い出した。
「何がおかしいんか」
「いや、あまりにしんたさんが真顔で言うもんで」
「そうかのう。で、相手はバイトか?」
「はい」
「誰かのう」
「しんたさん、昨日最後までいましたかねえ?」
「ああ、おったよ。あの中におるんか」
「はい」
「M君か?」
「男じゃないですかぁ」
「そうよ」
「…『そうよ』って、ぼくにそんな趣味があるように見えますか?」
「おう」
「ホントにもう…。ぼくはまともです」
「そうなんか」

「ところで、お前の妹は元気か?」
「えっ、妹ですか?」
彼はもっと彼女のことを聞いてほしかったようだが、ぼくが突然彼の妹の話をしだしたので、ちょっと戸惑ったようだった。
彼の妹も、以前うちの店でアルバイトをしていたことがある。
「妹は元気にしてますよ」
「あの子、かわいかったのう。『YAWARA!』に出てくるキョンキョンみたいやった」
「キョンキョン…? 知らないなあ。最近、妹はまた男を変えてですねぇ…」
「で、お前の相手は誰なん?」
「あ、またその話ですか」
伊藤はそう言いながらも、嬉しそうな顔をした。
「もしかして、N子か?」
「N子は、妹と同い年ですよ」
「そうそう、お前の妹は、前に酔っぱらったことがあってのう」
「妹がですか?」
「おう。あの時は大変やったわい」
伊藤は(また妹の話か)と、ちょっとがっかりした顔をした。
そうこうしているうちに、伊藤の休憩時間は終わった。
結局、伊藤はぼくに彼女の名前を告げられなかった。
食事が終わって、店内で伊藤に会ったが、ぼくはわざと彼を無視していた。

実は、ぼくは今朝J子から伊藤のことを聞いて、彼女の名前を知っていたのだ。
伊藤が誰とつき合おうと、大したことではないのだが、彼をからかうには格好のネタになった。
ぼくは、当分の間、伊藤にそのことを触れないでおこうと思っている。
そうすれば、また彼が『伊藤君3』を提供してくれることだろう。



2003年02月22日(土) ギャンブル

昨日は久しぶりに飲みに行った。
12月の忘年会以来である。
年末に風邪を引いてからは家でもあまり飲まなくなったから、少しの酒でもすぐに酔ってしまう。
普通の焼酎のお湯割りがえらく濃く感じたものだった。

さて、酒の席で、Hさんという人の話題が出た。
Hさんは、一昨年まで某大手企業で働いていたが、倒産の憂き目に会い、職を失ってしまった。
その後、失業保険をもらいながら職探しをしていると聞いていたが、50歳を超えたHさんには、就職先がなかなか見つからないということだった。
ぼくたちが「Hさん、大変やねえ」などと話していると、ある人が「何を言いよるんか」と言った。
「あの人凄いんぞ。おれ、あの人が会社を辞めてから、毎日パチンコ屋で会うんやけど、毎月の稼ぎが30万を下らんらしいぞ」
「何しよると?」
「だけ、パチンコ」
「パチンコで? でも、波があるやろうもん。今までの平均で30万やないんね」
「いや、あの人には波はない!」
「じゃあ、毎月コンスタントに30万稼ぎよるということ?」
「おう」
「凄いねえ」
「それだけやないんよ。最近、また一段と凄くなってのう。いつも懐に6,70万は入っとるぞ」
「6,70万!?」
「おう、軍資金らしい。生活費の30万は別でぞ」
「でも、負ける時もあるんやろ?」
「おう。でも、あの人は3万負けたら、見切りつけてさっさと帰るけのう。でも、勝つ時が凄い。30分で10万円分くらいすぐにたまるけのう」
「へえ」
「あの人、博才があったんやのう」
「うん」
ぼくはよくわからないのだが、ここまで来ればプロと呼んでもいいのではないだろうか。

北九州市はギャンブルの街である。
市内には中央競馬場、競輪場(何とドームである)、競艇場といった公営ギャンブル場が揃っている。
中でも特記すべきは競艇場で、ご丁寧に隣の芦屋町にもある。
市内の若松ボートと隣の芦屋ボートの間は、10キロも離れてない
市内にはないものの、オートレース場も、ぼくの家から車で4,50分の飯塚市に行けばある。
また、ぼくの住んでいる地区には大きなパチンコ屋がいくつもあり、パチンコの街と呼ばれている。
ぼくはそういう街に生まれ育ったのだが、なぜかギャンブルには縁がない。
というより、興味がない。
馬券は東京にいた頃に一度だけ買ったことがあるが、それもつき合いで買っただけで、どんな馬がいるのかも知らなかった。
それ以外の競輪や競艇などは一度も券を買ったことがない。

とはいうものの、一度だけパチンコに凝ったことがある。
東京にいた時だ。
夕方になると、いつもぼくは仲間と新宿歌舞伎町のパチンコ屋に入り浸っていた。
パチンコのほうは1勝1敗といったところだが、何よりも仲間といることが楽しかった。
ある日のこと、丸井に用があり、パチンコ屋にバッグを置いたまま出かけた。
仲間がいたので安心していたのである。
ところが、30分ほどして戻ってくると、その鞄はなくなっていた。
中には、お気に入りの写真と、数編の自作詩が入っていた。
どちらももう二度とお目にかかれない。
また、それから数ヶ月後のこと、上着の胸のポケットの入れておいた財布がなくなっていた。
中には、定期券と丸井のカードと生活費2万円が入っていた。
一度も上着を脱いだ覚えはない。
パチンコ屋の中を歩き回った覚えもない。
座ったままスリにやられたのだ。
ぼくはその都度、歌舞伎町交番に被害届を出したのだが、結局どちらも出てこなかった。

また、こちらに戻ってからのことだった。
その日、仕事が早く終わった。
あまり早く帰るのも何だから、というので久しぶりにパチンコでもやってみようという気になった。
ところが、財布を見ると500円しか入ってない。
「じゃあ、バス賃だけ残して、300円だけしよう」ということで、パチンコを始めた。
3分と持たなかった。
「あと100円だけ」
しかし、結果は同じである。
「あと100円」
ついにぼくの財布は空になった。
しかたなく、ぼくは小倉から歩いて帰った。
2時間かかった。

そういった苦い出来事の積み重ねは、自然とぼくの足をパチンコ屋から遠ざかせた。
よく周りでギャンブルの話などをしているのを聞く。
どれも景気のいいものばかりである。
確かに、Hさんのように、短時間に何万ものお金を手に入れるというのは魅力ではある。
しかし、ぼくには出来ないことである。
自分に博才がないのを充分に自覚している。
勝った覚えがないから、イメージがわかない。
イメージがわかないことをやるほどの性根を、ぼくは持たない。
何よりも、ギャンブルが好きではない。
そのへんのところは、占いにも出ている。



2003年02月21日(金) 好きな言葉 その2

『皇国の興廃この一戦にあり』
「各員いっそう奮励努力せよ」という言葉が続く、日本海海戦での東郷平八郎の言葉である。
今の日本に欠けるもの、それはこの言葉の背景にある危機感だろう。
日本よりも中国や韓国の反日感情を大切に思っている人や、いまだに革命などと口走っている人には関係のない言葉だろうが、日本を愛する人たちはぜひともこの言葉を吟味してもらいたいものである。
最近この皇国は、いつも興廃の危機に曝されている。
心ある国民は一歩踏み込んだ覚悟が必要だ。

『無為にして為さざるなし』
ぼくの老子好きはこの言葉から始まった。
無為と言えば「何もしないこと」と思われがちだが、ここには「何もしないことを為す」という意味が隠されている。
元来は政治論であるこの老子が、「何もしないことが最高」などと言うことはない。
要は無為という作為である。
攻撃的な無為である。
この呼吸が難しい。
何かを為そうと思う人は、一度すべてを捨て去って、無為に徹するべきだ。
そうすれば何かが見えてくる。

『随処に主となれば、立処みな真なり』
臨済禄にある言葉で、前に書いた「一灯を頼め」と同意である。
主、即ち主体。
しかしどこかの国の主体思想とかいう、とってつけたような低次元なものではない。
ここでいう主とは、心の主体、真の自分である。
真の自分の発見は、そのまますべてを真に変えることとなる。
さて、その真とは何か?
観の目である。
見るもの、聞くもの、感じるもの、すべてがこの観の目に帰する。
そして、これこそが観音の本体である。
前に日記に書いた、『観音の三大パワー』などと言うかぶれた宗教人は、その語呂がいいから使っていただけだのことだ。
きっと観音の本体も知らなかったに違いない。

『ゼロから数字を生んでやらう』
高村光太郎の『天文学の話』という詩の一節である。
高校を卒業した頃、『あこがれ共同体』というドラマをやっていた。
主題歌の前に、郷ひろみがこの詩の朗読をやっていた。
「それはずつとずつと先の事だ。
 太陽が少しは冷たくなる頃の事だ。
 その時さういふ此の世がある為には、
 ゼロから数字を生んでやらうと誰かが言ふのだ。」
この後、山田パンダの『風の街』という歌がかかる。
高村光太郎については、いろいろな思い入れがある。
高校時代、現代国語で同じく高村光太郎の『ぼろぼろな駝鳥』という詩を習ったことがある。
が、この詩が反戦詩だと教えられ、また「『駝鳥』は何を意味するか」というちんぷんかんぷんな暗号解読授業ため、今ひとつ光太郎に興味がわかないでいた。
ところが、この詩の朗読を聞いてから、光太郎に対する見方が変わった。
さっそく光太郎詩集なるものを買い込んで、吟味しだした。
何度も読んでいくうちに、光太郎の頑固な面が大いに気に入った。
以来、ぼくは光太郎詩集が手放せないでいる。
それはともかく、この言葉、いい言葉ではないですか。
目を輝かせて、こういう言葉を吐いてみたいものだ。



2003年02月20日(木) 好きな言葉 その1

『柔よく剛を制す』
ぼくはこの言葉を知って、柔道を始めた。
弱い者が強い者に勝てる方法があるのなら、ぜひ学んでおかねばならない、という好奇心から、ぼくは柔道を始めた。
だからぼくは自分から攻撃を仕掛けることは嫌いだった。
技も正当な攻撃技はあまり好きになれなかった。
どちらかというと、「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」で、捨て身技を好んでやった。
だから相手が仕掛けてこない限り、ぼくの技は冴えなかった。
ぼくの柔道人生最後の試合は、全国大会(自由参加)の金鷲旗高校柔道大会だった。
その試合で、ポイントにはならなかったものの、100キロ近い男を捨て身技でひっくり返した。
当時のぼくの体重は62キロだった。
まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。
が、そのまま押さえ込まれ、結局は負けた。

『自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人といえども吾れ往かん』
自分が間違ってないと思うのなら、人がどう言おうと、自分の信じる方向に歩いていく。
孟子の有名な言葉である。
就職して以来、威圧的な上司にたくさん出会った。
彼らは力ずくで、自分の意見に従わせようとする。
ぼくはそういうのが大嫌いだ。
そこで、彼らに流されないようにしようと思い、精神修養を始めた。
精神修養、ぼくの場合、それは中国思想の勉強であった。
20代から30代にかけて、とにかく中国の古典を読みまくった。
この言葉はその時に出会った。
かの吉田松陰は、獄中で孟子の講義をやっている。
おそらく、この言葉を教える時は、力が入っただろう。

『断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く』
上の言葉に続いて、この言葉に出会った。
確かこれは、史記にある言葉だ。
前の会社にいた時、ぼくは「強気の男」で通っていた。
その強気はこの言葉によって養われた、と言っても過言ではない。
なるほど、断じて行えば誰も文句を言わないものである。
いまだに自分を曲げない偏屈な面がぼくにはあるが、それはおそらく上記の孟子の言葉とこの言葉の影響だろう。

『ただ一灯を頼め』
江戸時代の儒学者、佐藤一斎の有名な言葉である。
全文を紹介すると「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ、だた一灯を頼め」となる。
確固たる自分を持つことが肝要だということだ。
確固たる自分を確立しておけば、決して人に流されることはない。
前の会社にいた時、「強気の男」で通っていたぼくだったが、その反面、風当たりは強かった。
左遷の憂き目にあったこともある。
この言葉に出会ったのはそういう時だった。
ぼくはこの言葉に出会う運命を持っていたことを、素直に喜んだものである。
くじけそうになった時、何度この言葉に助けられただろう。
そのおかげで、自分を見失うことなくやることができた。
そうこうしていると、自然に評価が好転してきた。
彼らは「しんたは変わった」と言っていたが、ぼくが変わったのではない。
変わったのは彼らのぼくを見る目だった。



2003年02月19日(水) たまに聴いてみたくなる懐かしい声

毎日でもその歌を聴いてみたいというほどでもないのだが、たまに聴いてみたくなる懐かしい声がある。
ぼくの場合、それはボブ・ディランである。
曲がとりわけていいとは思わない。
詩は何を言っているのか、さっぱりわからない。
肝心の彼の歌声はというと、決して洗練されたものではない。
どちらかというと野暮ったい。
しかし、その野暮ったさが味となっている。
時に優しく、時に怒っているように聞こえる彼の歌は、時にぼくの心をいやしてくれる。

ぼくがボブ・ディランを知ったのは中学3年の時で、あのガロの歌った『学生街の喫茶店』を聴いてからだった。
「ボブ・ディランとは何者?」という疑問を抱いたが、ぼくの周りにはボブ・ディランのことを知っている者はいなかった。
ぼくとしても、それほど興味を持ったわけではなかった。
例えば、キダムのCMで「象は出ないの」と言っているのは「辻か?加護か?」くらいの軽い疑問で、別に知らなくてもどうということはなかった。

ところが高校に入ってから事情が変わってくる。
高校1年の時、『たくろうオンステージ第2集』というアルバムを聴いた時、なぜか引っかかるものがあった。
そのアルバムのトップに『準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響』という歌があるのだが、そのメロディはボブ・ディランの『ハッティ・キャロルの寂しい死』だと拓郎が言っていた。
またその歌の歌詞の中に“その頃ぼくはボブ・ディランを知った”というフレーズが出てくる。
「ボブ・ディラン? そういえば前にも聞いたことがある名前だ。いったいどんな人なんだろう?」
この時初めて、ボブ・ディランという名前に興味を持った。
さっそくぼくはレコード屋に走った。
そのレコード屋にはそれほど多くディランのLPを置いてなかったのだが、それでも拓郎の言っていた『ハッティ・キャロルの寂しい死』の入ったアルバムはあった。

『時代は変わる』というアルバムだった。
ジャケットはモノクロで、一人の疲れたおっさんが写っている。
「もしかして、これがボブ・ディラン? ガロや拓郎はこんなおっさんに夢中になっていたのか」
そう思いつつ、ぼくはそのレコードを買った。
家に帰り、レコードに針を落としてみた。
「何か、この声は!」
これがディランの歌を初めて聴いた時の、ぼくの第一印象である。
アルバム全体を覆うけだるさ。
どちらかというと暗い曲調。
はっきり言って何も感動しなかった。
こんなレコード買わなければよかったとも思った。

次の日、何となくまたそのアルバムを聴いてみた。
その日は2度聴いた。
しかし、やはり何も感動しない。
相変わらず「こんなののどこがいいんだろう」と思っていた。
ところが、レコードを買って3日目の朝のこと。
無性にディランが聴きたくなったのだ。
さっそく、レコードをかけた。
それまで、けだるいとか暗いとか思っていた歌が、やけに新鮮に聞こえる。
耳障りなディランの声も、その日は心地よいものに思えた。
ディランの何かに触れた瞬間だった。

それから30年近く経つ。
あのアルバムのおっさんはやはりディランで、ただ写真写りでああなっただけだというのが判明した。
実際のディランは、もっとかっこいいこともわかった。
ディランに、かなり入れ込んだ時期もある。
そのファッションを真似たこともある。
コンサートを見に行ったこともある。
そして今、ぼくにとってのディランは、「たまに聴いてみたくなる懐かしい声」である。
ということで、今日は「たまに聴いてみたくなった」ので、ディランを聴いた。

最近、高校の頃に触れた「ディランの何か」について考えることがよくある。
あれはいったい何だったのだろう。
相変わらず疑問は解決しないが、一つだけわかったことがある。
それは、あの時ぼくの耳がディランの声に慣れた、ということである。
まあ、それはそうだろう。
もし慣れていなかったら、「たまに聴いてみたくなる懐かしい声」などとは言わないだろうから。



2003年02月18日(火) ルールマン

パソコンの前に座って、もう1時間が経つ。
その間、文章を書いては消し、文章を書いては消し、その繰り返しばかりやっている。
結局テーマが定まらないままに、この文章を書いている。

いったい、日記は毎日書くものと誰が決めたんだろう。
別に誰に強要されて書いているわけではない。
もし強要している者がいるとしたら、それは自分である。
勝手に自分でそういうルールを作って、それに縛られているだけのことだ。
自分で作ったルールだから、書くことがない時や書きたくない時はルールを変更すればいいのだ。
別にルールを変更したからといって、誰も咎めないだろう。

そういえば、ぼくの周りにもたくさんのルールに縛られている人が多くいる。
前に紹介したアルバイト君は、『クリスマスにはプレゼントを贈らなければならない』というルールを自分で勝手に作っている。
そしてルールに縛られている。
彼を見ていると、人にプレゼントを贈らないと気が落ち着かないようである。
バレンタインデーの時も、「男の価値はチョコの数」とでも思っているのか、彼は『チョコレートをたくさんもらわなければならない』というルールを作っていたようだ。
そのため、パートさんにも「チョコレート下さい」とねだっていたようだ。
結局チョコレートを13個もらったらしいが、多くもらわなければならないルールに縛られた彼は、きっとその数に満足できず、ストレスを溜めたことだろう。

ぼくはだいたい一日に一箱のペースでタバコを吸っている。
別に一日一箱というルールを作っているわけではないので、一日二箱吸っても、「吸いすぎた」と思うくらいで、別にストレスが溜まるわけではない。
ところが、タバコにルールを作っている人もいる。
前の会社にいた時、毎日3箱タバコを吸うというヘビースモーカーがいた。
ある時彼は、「おれはこれから1時間に1本しかタバコを吸わんことにする」と宣言した。
彼はその言葉どおり、1時間に1本しかタバコを吸わなかったが、10分置きにイライラしていた。
自分でルールを決めて、自分に縛られ、あげくにストレスを溜める、いい見本である。
ぼくが「別に1時間1本とか決めんで、少し控えめにする程度でいいんやないね」と言うと、「いいや、おれはそう決めたんやけ」と言って、意地になってそれを続けていた。
しかし、彼は妙に時計を気にするようになり、時計を見ては「まだか」とつぶやくようになった。
そのうち、時計に向かって八つ当たりする姿も見かけるようになった。
こうなれば病気である。
その後彼は自分のバカさ加減に気がついたのか、また以前のヘビースモーカーに戻っていた。
おかげで、時計に八つ当たりする姿は見られなくなった。

同じくタバコのルールマンがいる。
その人は、「何分置きにタバコを吸う」というルールを決め、タバコを吸った時間をメモしていた。
そうすれば前に吸った時間が確認できるので、自ずとタバコを吸う本数が減ると言っていた。
これを始めた当初のこと。
本人は気づかなかっただろうが、メモを取るための紙やペンがないと、彼は不機嫌な顔をしていたものである。
その時点で、彼はルールに縛られていたのだろう。
が、確かに彼の言うとおり、タバコを吸う本数は減ったようで、試みは成功したように見える。
そのせいか、彼はいまだにこれをやっているようだ。
今は前のように紙やペンがなくても、不機嫌な顔をすることはなくなったようだ。
おそらく、ルールを通り越し習慣になったのだろう。
その根気強さには感服している。

さて、この日記だが、そろそろルールに縛られるのはやめることにしよう。
ぼくは上記の彼のように根気強くないので、到底習慣化されることはないだろうから。



2003年02月17日(月) ズボン下

ぼくたちの小学校は制服がなく、みな私服で学校に行っていた。
もちろん男子は、夏は半ズボン、冬は長ズボンをはいてくる者がほとんどだった。
ところが隣の地区の小学校は違っていた。
そこは制服着用だった。
ぼくたちの学校と同じく集団登校だったが、同じ服を着た集団が歩いている姿は異様なものがあった。
冬も半ズボンをはかなくてはならず、寒さはハイソックスでしのいでいたようだ。
ぼくたちはそれを見るたびに、「あんな格好で寒くないんかのう」などと言っていた。
ぼくたちは長ズボンだけでは耐えきれず、ズボン下をはいていたのだった。

ぼくは当初、ラクダ色のズボン下をはいていた。
地が厚くて暖かいのだ。
ところが、体育の着替えの時に周りを見てみると、みな白いズボン下をはいている。
「これはいかん」と思ったぼくは、さっそく母にねだり白のズボン下にしてもらった。
しかし、白のズボン下はラクダのそれに比べると地が薄く、寒かった。
慣れるまでにけっこう時間を要したものだった。

中学・高校はもちろん制服着用だった。
ところが、それまで夏場は半ズボンで暮らしていたので、ちょっと困ったことになった。
夏のくそ暑い時期に長ズボンは耐えられない。
体育のある日などは、短パンになるので嫌でもブリーフをはかなければならない。
その日は地獄だった。
長ズボンでただでさえ暑いのに、ブリーフが通気を悪くし蒸れてしまう。
おかげで、ならなくてもいい病気にかかってしまった。

さて、その頃になると、さすがに冬場にズボン下をはいてくる者はいなくなった。
『おっさん臭い』というのがその理由だった。
ぼくは何度かシャレでズボン下をはいて学校に行ったことはあったが、継続はしなかった。
寒さよりも、見た目を気にする年頃なのだ。
いくらズボンをはいていても、ズボン下をはくとお尻の部分が張ってしまうのでわかってしまう。
女性がジーンズの下にガードルをはいているとすぐにわかるが、それと同じことである。

以来、ぼくはズボン下をはいたことがない。
今は車で通勤しているのでそれほどでもないが、JRで通勤していた頃はやはり冬場は寒くてたまらなかった。
充分厚着はしているものの、それは上半身だけのことで、下半身はズボン一枚だけだった。
駅まで自転車で行っていたこともあるが、太腿を刺す風が痛かった。
太腿用のサポーターでもしようかとは考えたことはあるものの、ズボン下をはいて行こうかとは一度も考えたことはない。

小学生の頃、デパートやスーパーの肌着売場に行くと、マネキンにふんどしをはかせ展示していた。
さすがに今はふんどしを置いている店は見かけなくなった。
が、相変わらずズボン下は健在である。
ラクダの上下をマネキンに着せている店もある。
『ももひき』『タイツ』など種類がいろいろあるようだが、いったいどう違うのだろう。
どれもズボン下に変わりがないのだから、ズボン下で統一したらいいのに。
それにしても、『タイツ』はやめて欲しいものだ。
『タイツ』というと、ぼくはすぐに小学生の頃、女子がはいていた色気のないタイツを思い起こしてしまい、思わず吹き出してしまう。
ズボン下でいいじゃないか、ズボン下で。



2003年02月16日(日) お客さんの家にて

午後5時を過ぎた頃、電話がかかってきた。
「あのう、昼間ビデオを買った者ですが」
そういえば昼間、年配の夫婦がビデオデッキを買って行った。
電話はそのご主人からだった。
「ああ、さっきのお客さんですね。どうされましたか?」
「いや、持って帰ってから繋いでみたけど、映らんのよねえ」
「え、映らない?」
「はあ、もう何時間もかかりっきりなんやけど。家に来て繋いでもらえませんか」
「いいですけど、いつがいいですか?」
「出来たら、今から来て欲しいんですが」
今日は全員出勤なので、ぼく一人抜けたくらいでなんということはない。
「わかりました。じゃあ、今から行きます。ご住所はどちらでしょう?」
ぼくは住所を聞き出し、さっそくお客さんの家に向かった。

お客さんの家まで行くと、奥さんが玄関の前に立っていた。
「お忙しいのにすいません」
「いいえ」
「さっきから主人が悪戦苦闘してましてねえ」
「そうですか」
「ま、お上がり下さい」
家に上がってみると、なるほどご主人は悪戦苦闘している様子だった。
ビデオデッキの取扱説明書はもちろんのこと、テレビの説明書まで広げていた。

「こんにちは」
「ああ、すいませんねえ。これだけやってもだめということは、ビデオがおかしいんやないやろうか」
「ちょっと見せて下さい」
なるほどこれでは映らない。
ビデオの入力と出力を間違えて繋いでいたのだ。
繋ぎ直すと、何とか声が出るようになった。
しかし、画が出ない。
今度はテレビの裏を見てみた。
映像入力にピンが刺さってない。
で、ピンを差し込むと画像が出てきた。

「リモコンも効かないんですけど」
いったいこのおっさんは何を触ったのだろう。
リモコンモードが変わっている。
リモコンモードなど、普通の人はめったに触らない場所である。
ぼくは、リモコンモードを元に戻し、最後に無茶苦茶になっていたチャンネルを合わせた。
「これで大丈夫です」
「ああ、すいません。助かりました」

「じゃあ、何かありましたら、また連絡して下さい」と言って、ぼくが帰ろうとすると、奥さんが「にいちゃん、ちょっと待って」と言う。
何だろうと思って待っていると、奥さんはビニール袋にビールやミカンを詰めだした。
「にいちゃん、これ持って帰って」
「いや、いいですよ。そんなことしないで下さい」
「忙しい時間にわざわざ来てもらったのに、手ぶらで帰らせるわけはいかん。ね、にいちゃん持って帰って」
ぼくが困った顔をしていると、ご主人が口を挟んだ。
「こら、“にいちゃん”とか失礼やないか!」
「だって、“にいちゃん”やん。何と呼んだらいいんね」
ご主人は、一呼吸置いて言った。
「“おじさん”と言いなさい」
「“おじさん”じゃないでしょ!」
「じゃあ、何と呼ぶんか」
「“にいちゃん”でしょうが」
「だから、それは失礼だと言いよるやないか。“おじさん”やろうが」
このまま夫婦の論争につき合うのも面倒なので、「じゃあ、もらっていきます。ありがとうございました」と言って、さっさとその家を出た。

そのお客さんが今度店に来た時、ぼくのことを果たして何と呼ぶのだろうか。
ぼくとしては、“にいちゃん”と呼んでもらいたいのだが。



2003年02月15日(土) 浦島太郎

漂流していたゴムボートを助けたことから、すべては始まった。
ゴムボートの乗務員を家に泊め、手厚くもてなした。
翌朝、彼らはぼくの部屋にやってきて、「ぜひお礼がしたい」と言った。
ぼくは「別にそんなことしなくていいですよ」と言って断ったのだが、彼らは聞かない。
「そう言わずにいっしょに来て下さい」
彼らはそう言いながら、ぼくを無理矢理外に連れ出した。
「こちらです」
そこには、昨日漂流していたゴムボートがあった。
「どうぞ、お乗り下さい」
彼らは、ぼくをゴムボートに乗せた。

ゴムボートは沖に出た。
「いったい、どこに行くのですか?」と、ぼくは訪ねた。
「とってもいいところですよ」
乗務員は4人だった。
顔は日本人とそっくりであるが、雰囲気が日本人のそれではない。
そういえば、ぼくに話しかけるのは、いつも同じ男だ。
どうも他の男たちは日本語が話せないようだ。
ぼくが一言言うたびに、例の男が通訳している。
聞いたことのない言葉である。

さて、ゴムボートに乗って小一時間たった頃だろうか。
向こうに見えていた漁船らしきものが、ゴムボートに近づいてきた。
ゴムボートにあと30メートル位の位置に近づいた時、その船の名前を確認することが出来た。
『竜宮丸』と書いてある。
それにしても古びた漁船である。
日本ならおそらく廃船になっているだろう。

しばらくすると、漁船から人が出てきた。
ゴムボートの乗務員と何か言葉を交わしている。
もちろん、何を言っているのかはわからない。
5分ほどして、漁船から縄ばしごが下りてきた。
例の男がぼくのところに来て、「さあ、お乗り下さい」と言った。
ぼくは言われるままに、縄ばしごを登った。

何時間かがたった。
船はある港に着いた。
船を下りたぼくたちは、近くの駅から汽車に乗った。
また何時間かが過ぎた。
「ここからはこれをして下さい」
例の男がぼくにアイマスクを手渡した。
そこから車に乗せられ、どこかに向かった。
道はでこぼこで、お世辞にも快適なドライブとは言えない。
しばらくすると、車は停まった。
そこからぼくは、手を引かれて歩いた。

10分ほど歩いただろうか、例の男の声がした。
「ちょっと痛いけど我慢して下さい」
彼はぼくの腕を取った。
一瞬チクッとしたが、しばらくすると、大変リラックスした気分になった。
「アイマスクをはずして下さい」
またしても彼の声。
アイマスクをはずすと、そこには小太りの作業服を着た男が立っていた。
「ようこそ、竜宮城へ。私はこの城の首領です。部下が大変お世話になったとか」

パーティが始まった。
舞台では、肌をあらわに出した女性たちが、艶めかしく踊っている。
「いかがですか。この女性たちを私どもは『喜び組』と呼んでいます」
「ほう」
「まあ、日本人のあなたにとっては物足りないでしょうが」
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
酒もうまいし、食べ物もうまい、おまけに姉ちゃんもきれいときている。
それにしても気分がいい。
もしかしたら、あの「チクッ」と関係あるのだろうか。
まあ、そんなこと気にしないでおこう。

飲めや歌えやの毎日である。
起きている時は、いつも首領主催のパーティである。
フカフカのベッドが用意されて、美女がマッサージしてくれる。
中でも一番効くのが、あの「チクッ」である。
あれをやると、天にも登る気分になる。
ここは楽園だ。
おそらく世界中探しても、これほどのところはないだろう。
まさに「地上の楽園」である。

しかし、ここに来て何日たつのだろう。
できたらここに留まりたいのだが、そうばかりも言っておれない。
家に帰れば、仕事が山ほどたまっている。
そこでぼくは首領に言った。
「首領様、いつも身に余るもてなしを受け、大変光栄に思っています。
ところで、もうそろそろ家のほうに帰らせて頂きたいのですが」
「何をおっしゃる。私は、あなたにずっとここにいてもらうつもりです」
「そうは言いましても、私には仕事があります」
「どうしても帰りたいのですか」
「はい」
「そうですか。では、お返しすることにしましょう。ただ一つ条件があります」
「何でしょう」
「ここで見たことは、決して口外してはなりません」
「わかりました」

首領は帰りにおみやげをくれた。
小さな箱だった。
しかし、彼は変なことを言った。
「この箱を開けてはいけません」
「…はあ」

ぼくはまた例の男たちに連れられて、来た道を戻っていった。
2日目にゴムボートに乗った場所に着いた。
「さあ、早く帰って仕事をしよう」
ところが、家がない。
街の風景も変わってしまっている。
いったいどうなっているんだ。
通行人に聞いてみた。
「ああ、あの家ね。昔あの家の人が、どこかの国に拉致されたとか言ってたなあ。その後、幽霊屋敷などと呼ばれるようになって、みんな気味悪がって近づかなくなった。で、結局取り壊されたみたい。ところで、おたく誰?」
家はない、周りは知らない人ばかり。
ぼくは落胆した。
やけになり、首領からもらった箱を開けてみた。
すると、そこには鏡が入っていた。
目を疑った。
頭は真っ白、頬はこけ、目の下に隈ができている。
そこに一人の警官がやってきた。
「市民から通報がありまして」と言いながら、彼はぼくの袖をめくった。
「やっぱり」
「え?」
「ちょっと署までご同行願いましょう」
「何なんですか?」
「何だ、この注射の跡は?」
「え?」
ぼくは警察に連行された。


『浦島太郎』、本当はこんな話だったのかもしれない。



2003年02月14日(金) 信教の自由

ぼくの家に金色の正観音像がある。
掃除をしないので、ほこりまみれになっている。
たまに手を合わせている。
ぼくの信仰は、その程度のものである。
かつて、お経や禅の本を読んだことがあるが、それはあくまでも興味本位で読んでいただけであって、別にそういうものにのめり込んだわけではない。
神社や古いお寺に行くのが好きであるが、それはすがすがしい気持ちに浸りたいだけのことで、別に集会に集まったり、寄付したりするわけではない。
だいたいぼくは栄光ある孤立を望む人間だから、団体に属すとか、関わるとかいうことが大嫌いである。
だからこの先も、宗教団体に入ることはないだろうし、家の宗旨である浄土真宗の活動をするようなことは絶対ないだろう。
寄付も嫌だ。

かつて知り合いに宗教団体Sに入っている人がいたが、活動が大変だと言っていた。
入信の勧誘、新聞の勧誘、選挙の時は電話をしていたし、選挙当日にはご丁寧にも投票所に送り迎えまでしていた。
何もそこまでして、宗教団体Sにのめり込まなくてもよさそうなものである。
しかし彼に言わせれば、それが功徳になるのだという。
その後彼の勤め先は潰れたというが、彼は功徳を積んでいるから、そういう逆境もなんのその、さぞ今はいい暮らしをしていることだろう。

ところで、ぼくがまだJRで通勤している頃、よく駅前で宗教の勧誘をしている人を見かけた。
ぼくも何度か声をかけられたことがある。
「あなたの幸せと健康と祈らせて下さい」
見るからに胡散臭い男で、目は完全にイッていた。
「ぼくは幸せで健康です」
そう言っていつも断っていた。

ある時は、「私がお祈りすると、観音様の三大パワーであなたは幸せになります」と言って来る人もいた。
ぼくが意地悪く「三大パワーって何ですか? 観音経にはそんなことは書いてないけど、何のお経にそういうことを書いてましたか? ぜひ読んでみたい」と言うと、その人は相手が悪いと思ったか、「失礼しました」と言い、クルッと背中を向け別の場所に移動した。

伯母にもそういう経験があるという。
ぼくの時と同じように、観音様の三大パワーを説き、「あなたの幸せと健康を祈らせて下さい」と言ったという。
それを聞いて伯母は「へえ、観音様ですか。それはありがたい。どうぞお祈り下さいませ」と言った。
すると、その人は手を伯母の額の上にかざした。
約5分。
その間、伯母は何をやっていたかというと、その手をかざした人に手を合わせ、「マーカーハンニャーハーラー…」と般若心経を唱えていたという。
伯母を相手にした人は戸惑っただろう。
まさかこんな状況になるとは思ってもいなかったはずだ。
しかし、祈り始めたからには止めるわけもいかず…。
その状況を想像しただけでもおかしいものがある。

人に聞くと、あれも新興宗教の一種だという。
ああすることで、その人は功徳を積むのだという。
しかし、知らない人から突然声をかけられるというのは、気味が悪いものである。
はっきり言って迷惑である。
そういう迷惑を実践して、何の功徳が積めるというのだろう。
迷惑に迷惑を重ねるだけの話じゃないか。
もし仮に、そういう行為をぼくの友人がぼくに対してしたとしたら、確実にぼくはその友人を友だちリストから外すだろう。
そして『アホバカ列伝』で紹介するだろう。

まあ、憲法で信教の自由が保証されていることだし、別に誰がどの宗教をやっているからといって文句を言うつもりはない。
「どうぞ、御勝手に」である。
しかし、ぼくには関わらないで欲しい。



2003年02月13日(木) しつこい電話

2週間ほど前から、休みの日になると、決まってクレジット会社から電話がかかってくる。
別に「金を払え」と言ってくるわけではない。
交通傷害保険に入ってくれと言うのだ。

最初は女性からだった。
「こちら○○信販ですけど、しろげしんたさんのお宅ですか?」
「はい」
「しろげしんたさんでいらっしゃいますか?」
「ぼくですが」
「この間、ダイレクトメールでお知らせした交通傷害保険の件でお電話差し上げました。お時間を取らせてもらってよろしいでしょうか?」
「別にかまいませんよ」
彼女は、マニュアルどおり保険の説明を始め、最後に「契約はお電話でもかまいませんが」と言う。
その時ぼくは「考えさせて下さい」と言った。
「では、後日また電話させてもらいますので、ご検討下さいませ」と言って彼女は切った。

次もその女性からだった。
前回と同じ内容だった。
ぼくが「友人が保険の代理店をしているので、その手の保険はそちらから入るようにしているので」と言うと、彼女は「そうですか。しかしこちらのほうもいい保険ですので、ぜひご検討下さいませ」と言う。
ぼくは面倒になって、「はい、考えときます」と言って電話を切った。

次の休み、また電話が入った。
例の女性からだった。
「あのう、この間電話させてもらったのですが、ご検討していただけたでしょうか」
ぼくはすっかりそのことを忘れていた。
というより、もうかかってこないと思っていたのだ。
ずいぶん熱心である。
というより、しつこい。
「いいえ、まだ検討中です」
「ダイレクトメールにもあるとおり、月々1350円と保険料も安く、保証も2千万円まで出る大変いい保険ですから、ぜひご検討下さい。電話で契約を受け付けますから」
「あのですねえ。何回もその件で電話をもらってますが、ぼくはそのダイレクトメールとやらを見てないんです。そういうたぐいのものは見ないで捨てますから」
「そうなんですか」
「ぜひ検討してくれと言うなら、資料を送ってもらえませんか」
「資料ですか?」
「そう。電話で簡単に契約出来る保険なんか信用できんでしょ?」
「わかりました。では、こちらのほうから資料を送らせていただきますから、よろしくお願いします」
そう言って、彼女は電話を切った。

さて、それから3日後、11日のことだった。
午後9時頃に電話が入った。
「もしかしたら」という予感がして、ぼくは電話を取らなかった。
家の者が出た。
「しろげしんたさんのお宅でしょうか?」
「はい、そうですけど」
「しろげしんたさんいらっしゃいますか?」
(しんた、電話よ)
(誰?)
(何とか信販と言いよるけど)
(またかぁ)
「はい、替わりました」
「あ、しろげしんたさんでいらっしゃいますか?」
自信ありげな男性の声である。
ぼくは、こういう自信ありげな声を聞くとからかってみたくなる。
「『しろげしんたさんでいらっしゃいますか』って変ですねえ。あんたが『しろげしんた』と言ったから、ぼくが出たんでしょ? わざわざ確認する必要ないじゃないですか。ぼくが信じられないんですか」
「い、いえ、すみません。あ、あのう、前回DMをお送りした保険の件ですが、ご検討いただけましたでしょうか?」
「検討も何も、まだ、資料が送ってきてないですよ」
「え?」
「前に電話で『資料送ってくれ」と言ったでしょうが。連絡行ってないんですか?」
男は焦った。
「あ…。し、しばらくお待ち下さい」
しばらく待った。
「お待たせいたしました。すぐ資料のほうを送らせていただきますので」
「えーっ!? まだ送ってなかったんですか? せっかく待ってたのに」
「す、すみません」
男はしどろもどろになっていた。
あまりからかうのもかわいそうなので、「じゃあ、早く送って下さい」と言って、ぼくは電話を切った。

さて、明日は休みである。
きっとまた電話がかかってくるだろう。
今度は何と言おうか。
「しろげしんたさんですか?」
「そうとも言います」
とでも言っておこうか。
だんだん、楽しくなってきた。



2003年02月12日(水) 頭を洗う その3

さて、シャンプーは断とうとは思ったものの、そこから何で頭を洗うかが問題になった。
たまたま読んだ『安心』だったか『爽快』だったかに、「天然塩で頭を洗うといい」というようなことが書いてあった。
天然塩に含まれているミネラルが、髪や地肌にいいということだった。
なるほどワカメや昆布といった海の植物は、そのミネラルの中で育っている。
俗にワカメや昆布を食べると髪にいいと言われるが、ミネラルをたっぷり含んでいるからいいのだろう、とぼくなりに解釈した。
実際にこの方法で頭を洗った人の報告も載っており、そこには「今まで白かったところに黒い髪が生えてきた」と書いてあった。
「よし、これだ!」と思ったぼくは、さっそくスーパーに行って『赤穂の天塩』を買ってきた。

塩を頭肌に擦り込むようにしてマッサージしていく。
その後、何分か放置してから洗い流す。
シャンプーのような爽快感はないが、何か髪が健康になっていくような感じがする。
翌日、髪を触ってみると、つるつるしている。
生まれてからそれまで、初めて味わった感触である。
「これはいい」と思ったぼくは、髪に悩みを持つ人に薦めて回った。
しかし、みな半信半疑である。
「あんたの白髪が治ったらやってみる」という声がほとんどだった。
「じゃあ、治してやる」とぼくは断言した。
ところが、この塩による洗髪は長続きしなかった。
ちょっとずつ塩をつまんで地肌に擦り込むため、頭全体をマッサージするのにはかなりの時間を要する。
また完全に洗い流さないと、塩が頭に残ってしまう。
生まれつき面倒くさがり屋のぼくには、これが苦痛になってきた。

そのうち、塩を少量のお湯で溶き、それを頭にかけて洗うようになった。
しかし、この方法では洗った気がしない。
塩はもうやめようと思ったが、今さらシャンプーには戻れない。
そういう時に、知り合いの整体の先生からいい話を聞いた。
この方は、ぼくより4つ年上なのだが、頭は黒々している。
ぼくが「先生、頭真っ黒ですねえ。何か秘訣があるんですか?」と聞くと、先生は「別に秘訣とかないけど。ああ、そういえば若い頃に知り合いの医者から『頭は石鹸で洗ったほうがいい』と教えられてね。それからずっと石鹸で頭を洗いよるだけやけどね」と言った。
「石鹸? 石鹸で頭を洗うと、髪がギシギシするでしょうが」
「最初はね。でも慣れてくると、それほどでもないよ。昔はシャンプーとかなかったけ、みんな石鹸で洗いよったやろ」
「そう言われれば、そうですね」

なるほど石鹸か。
そこでぼくは、石鹸に関する資料を求め本屋に走った。
しかし、石鹸の本などどこにもない。
「困ったなあ」と思っている時だった。
全くジャンルの違うところで、『自然流「せっけん」読本』というタイトルの本を見つけた。
それは、ぼくの家の近くに本社を構える『シャボン玉石けん』の社長が書いた本だった。
それを読むと、無添加石鹸の良さが綿々と綴られており、石鹸なんかみんな同じだという、ぼくの常識は完全に覆された。
そこには、シャンプーと髪の因果関係から正しい頭の洗い方まで、髪についても詳しく書かれていた。

「こうなったらシャボン玉石けんしかない」と思ったぼくは、シャボン玉石けんを買い、さっそく髪を洗った。
やはりギシギシする。
それが1週間ほど続いた後、ようやく石鹸に髪が慣れたのだろう、あまりギシギシしなくなった。
先の読本に「ドライヤーを使うな」と書いてあったので、それも実践した。
乾いた髪を触ってみると、塩でやった時と同じようなつるつる感だった。
ようやくぼくは落ち着くところに落ち着いたのである。

石鹸で頭を洗い始めてから、かなりの年月が過ぎた。
頭は真っ白になったものの、髪の状態は良好だ。
シャンプー時代の悩みの種だった枝毛もなくなり、真っ白な髪は輝いてさえいる。
つやのある髪などシャンプー時代には考えられなかった。
これも石鹸のおかげである。

今日は頭を洗ってから日記を書き始めた。
今、午前1時40分だから、かれこれ2時間が経つ。
ところが、まだ頭は乾いていない。
ドライヤーを使えばすぐにでも乾く湿り具合なのだが、髪を健康に保つため妥協は許されない。
日記を書き終えて、そろそろ寝たいのだが、完全に乾かないまま寝ると、また風邪を引いてしまう。
これが、この洗髪法の難点といえば難点だろう。
ああ、早く寝たい。



2003年02月11日(火) 頭を洗う その2

販売業の道に入ってからは、身だしなみというものをきつく言われるようになった。
他人から指摘されるのが嫌なので、自ら進んで身だしなみを整えるようにした。
その身だしなみの中でも特に気にかけたのが、「臭い」である。
中学の頃の記憶がよみがえる。
女子に言われるぐらいだから、かなり頭が臭かったのだろう。
そう思うと、2日に一度の洗髪では足りないと思うようになった。
そこから毎日の洗髪生活が始まった。
しかし、そのことが後に大きな問題に発展する。

毎日頭を洗うということは、実に爽快だった。
頭を洗った後につける、柑橘系のヘアトニックの香りが、風呂上がりの気分を快いものにした。
ある時、頭を5針縫う大怪我をしたことがある。
その時医者から「1週間ばかり頭を洗わないようにして下さい」と言われた。
秋とはいえ、残暑厳しい折、既に毎日頭を洗う習慣になっているぼくにとって、これは苦痛だった。
怪我をしたその日から頭が痒い。
まあ、その日は痛みも伴っていたから、何とか我慢が出来た。
しかし、翌日から地獄が待っていた。
かゆい、カユイ、痒いっ!!
触ってはいけないのはわかっていたが、つい手が頭に行く。
3日目、気が狂いそうになった。
4日目、軽くではあるが、頭を掻いた。
5日目、とうとう頭を洗う決意をする。
患部から離れた箇所に、少しずつシャンプーを振りかけ、濡れたタオルで、そこを拭いていく。
少しはかゆみは治まったものの、力一杯頭を掻けないことにいらだちを感じた。
6日目、またしても前日と同じことをした。
今度は患部により近いところを攻めた。
おかげで患部に貼ってあるガーゼが少し濡れてしまった。
7日目、ついに抜糸。
医者から「お待たせしました。今日から思いっきり頭を洗って下さい」と言われた。
その後で彼は「痒かったんでしょ?」と言い、ニヤッと笑った。
おそらく、ぼくが頭を洗ったことに気づいていたのだろう。
その日、ぼくは家に帰るなり風呂に直行し、医者の言葉通り、思いっきり頭を洗った。
中学の時、1ヶ月近く頭を洗わずに床屋に行って以来の快感だった。

それから何年かが経った。
世間では『朝シャン』という言葉が流行っていた。
その言葉につられて、ぼくは調子に乗って頭を洗い続けた。
夏場には夜に洗って、朝また洗うこともあった。
そうやって数年過ぎたある日のこと、前髪の一部に白い固まりがあるのに気がついた。
「何じゃ、これは!?」である。
20歳頃から白髪はあったのだが、それほど目立つものではなかった。
それがついに目立つ場所に進出してきたのだ。
白い固まりは、時間を追うごとに広がっていった。
それに併せたように、枝毛も増えていった。
髪も以前に比べ細くなっているように感じる。

「これは何とかしないと」と思い、髪に関する本を読むようになった。
ある時、「シャンプーは健康を害する」という内容の本に出会った。
そこには、「シャンプーで頭を洗った後、よく洗い落とさないでいると、毛穴からシャンプーが浸透し、ついには肝臓を害してしまう」と言うようなことが書かれていた。
また、「ハゲや白髪といった髪のトラブルも、シャンプーが原因になっていることが多い」とも書いてあった。
そういえば、ぼくは髪を洗った後、あまりすすぐことをしなかった。
「ということは、この白髪はシャンプーのせいだったのか。これはいかん!」
そう思ったぼくは、ついにシャンプー断ちを決意した。



2003年02月10日(月) 頭を洗う その1

毎年11月から翌年の5月まで、頭を洗うのは2日に一度と決めている。
もちろん夏場は汗をかくので、毎日洗っている。
こういう習慣になるまでには、紆余曲折があった。
ぼくは中学時代、頭を洗うのが面倒で、ひどい時には1ヶ月近く洗わなかったこともある。
クラスの女子からは、「しんた君、いいかげんに頭洗い」と言われたこともある。
冬場、ストーブにかじりついていると、自分の臭いを感じたものである。
とはいえ、頭を洗うことは嫌いではなかった。
その証拠に、月一度の床屋が妙に嬉しかった。
他人に頭を洗ってもらうのは、実に気持ちいいものである。
もしかしたら、その快感をより深めるために、頭を洗わなかったのかもしれない。

しかし、高校に入ってからは、面倒だとは言っておれなくなった。
ぼくにも少しばかりのしゃれっ気が出てきたのだ。
女子が多い高校だったので、とにかく臭いを気にするようになった。
毎日体を洗うようになったし、頭も3日に一度は洗うことにした。
そして2年の時、毎日頭を洗いたくなるものに出会うことになる。
サンスターのトニックシャンプーである。
あのスースー感は衝撃だった。
「これを使うと、毎日快感を得られるわい」と思ったものだ。

そのサンスターにはトニックリンスというものもあった。
その注意書きに、『洗い流す必要はありません』と書かれていたのを鵜呑みにして、朝、頭にたっぷりリンスを振りかけて登校したことがある。
ところが、いつまでたっても頭は乾かない。
触るとリンスの原液がそのまま残り、ヌルヌルしている。
何よりも困ったのは、その臭いの強さだった。
バスに乗っていた後輩が、「先輩、今日は臭いがきついっすね」と言ってきた。
その言葉が気になって、1時間目の授業をさぼり、柔道部室の横にあるシャワー室で洗い流した。
その日は、一日頭が濡れていたような気がする。

その3日に一度の洗髪は、そのうち2日に一度に変わっていった。
バイト時間のおかげで銭湯にあまり行けなかった東京時代も、2日に一度の洗髪だけはやっていた。
夜中に下宿に戻ると、炊事場でゴシゴシとやっていた。
おそらくその音が隣の部屋に漏れていたのだろう、下宿のおばさんが「しんたさん、夜中に水を流すのはやめて下さい」と言ってきた。
「バイトで遅くなるので銭湯に行けんとです。このくらい目をつぶって下さい!」とぼくは言い、炊事場洗髪をやめなかった。
このおばさんは、それ以前にも「ギターの音はもう少し小さくならないの」とか、「東京ガスの人が『東京で一番汚い部屋を見せてもらいました』と言ってたよ。たまには掃除してね」とか言ってきたことがある。
炊事場洗髪の件で、おばさんとの折り合いはさらに悪化した。
ぼくがギターを持って、友人のアパートや下宿を泊まり歩くようになるのは、それからしばらくしてからのことである。
その友人たちは、大家から干渉されることはまったくないと言っていた。
おかげでぼくは、夜中に思いっきり頭を洗うことが出来たのだった。



2003年02月09日(日) vs「何か」

昨日、日記を書いた後で、しばらく週刊文春に載っていた『八方クロス』というパズルをやっていた。
解き終えたのが午前2時頃だった。
それからすぐに布団に潜り込んだ。
ところが、なかなか寝付けないのだ。
仰向けになってみたり、横になってみたり、いろいろ体勢を変えてみたが、目は冴えていくばかりだった。
前に、寝付けない時に般若心経を唱えたら、快い眠りに落ちたことがある。
それを思い出して、般若心経を唱えてみた。

ところが、そのお経が何かを呼んだ。
一瞬、場が変わったような気がした。
部屋の中で「バシッ!」という音がする。
『もしかして、これはラップ音か?』
そう思った時だった。
急に体の力が抜け、何かが迫ってくる感じがした。
その途端、背中に布団の感触がなくなった。
体がフワフワして、だんだん上に登っていく。
布団に戻ろうとする意志が強ければそこに留まる。
しかし、気を抜くと上に浮かぶ。
『このままいくと天井に当たってしまう。もうだめだ!』
と思ったら、今度は下に降り始めた。
だんだん体が降りていって、背中に布団の感触が戻ってきた。
『今のは何だったんだろう?』
しばらく考えてみたが、結論は出なかった。

それから2,3分ほど経った時、再びラップ音がして、何かが迫ってきた。
布団の感触がなくなり、体が宙に浮いた。
そしてまた元に戻った。

その繰り返しだった。
5度ほどその状態になった時、ついにぼくは頭に来て、「いいかげんにせ!お前たちの相手をするほど、おれは暇やない!」と声にならない声で怒鳴った。
その途端、場が元に戻った。
窓の外から、バイクが遠ざかっていく音が聞こえた。
おそらく、新聞を配達するバイクだろう。
いったい何時なんだと時計を見ると、すでに4時半を回っている。
その頃には、早く寝ようという気持ちも萎えていた。
先ほどの体験で疲れたのだ。
いつの間にか眠ってしまっていた。

さて、朝になった。
眠気はないものの、頭の芯が痛い。
もしかしたら、あの何かが頭の中に入り込んだのか?
朝からこんな調子だと、一日が面白くない。
結局、今日は一日頭痛に悩まされた。
お客の相手をするのもおっくうだ。。
「早く帰って寝たい」
頭の中はそれしかなかった。

ところで、その『何か』とは何だったんだろう。
人の体を浮かび上がらせる妖力の持ち主。
妖怪か、はたまた霊か。
霊なら思い当たる節がある。
以前、この部屋で寝ていた時に、金縛りにあったことがある。
ぼくの枕元には、黄色い袈裟を身にまとったミイラ顔の坊さんがいた。
もしかしたらあいつか。
あの時は、ぼくの般若心経が勝っていたのか、サッと消えていった。
ということは、夜中のはリベンジか。

もしかしたら、今日また一戦交えることになるかもしれない。
もし、明日の日記が更新されていなかったら、負けたということだ。
その時は霊界あたりに飛ばされているのかもしれない。
まあ、万が一そうなったら、この日記を恐怖新聞にでも連載することにしますわい。



2003年02月08日(土) アホバカ列伝 教師D

高校2年の頃、ぼくはクラスの担任とすこぶる仲が悪かった。(その担任を先生と認めたくないので、ここでは担任男と呼ぶことにする)
ぼくが何かをしでかしたわけではないのだが、担任男は最初から、極端にぼくのことを嫌っていた。
修学旅行の時、友人がタバコ型のチョコレートを持ってきた。
彼はそれを「先生どうぞ」と担任男に渡した。
ところがシャレがわからないその担任男は、真顔で「おい、それはしんたが持ってきたんか」と言ったという。

物理の時間だったか、何人かの友人と授業をさぼり、図書館に行こうとしていた時だった。
不覚にも、ある先生から見つかってしまったのだ。
ぼくたちは、さっそく担任男から職員室横にある応接室に呼ばれた。
彼は一人一人に事情を聞いていった。
ぼくの番になった。
「とうとう尻尾を捕まえたぞ」と彼は言った。
ぼくが「えっ!?」と言うと、「とぼけるな、何が『え』だ! お前母ちゃん呼んでやろうか」と彼は言った。
ぼくは知らん顔をしていた。
すると、「こら、聞きよるんか!」と怒鳴る。
その後も、ネチネチと文句を言われた。

2学期の終わり頃に、父兄面談があった。
担任男は、生徒各人に希望の時間を聞いていった。
ぼくは母から「出来たら早い時間がいい」と言われていたので、担任男にその通り伝えた。
すると担任男は、「お前はだめ。話が長くなるけ、最後だ」と言った。
翌日学校に行った母に、担任男は開口一番「お宅の息子さんはクラスで一番悪いですよ」と言い、その後もさんざん嫌みを言ったという。
帰ってきた母は憤慨していた。

3学期、大雪が降った日のこと。
交通機関がすべてストップしてしまい、ぼくは歩いて学校まで行った。
学校に着いたのは1時間目が終わった頃だった。
その後、ぼくより遠くに住んでいる人も、次々と学校にやってきた。
全員そろったところで、ホームルームの時間になった。
担任男はぼくに、「お前は休むと思ったけどの」と言った。
ぼくは「ああ、そうですか」と言っておいた。

その担任男が、一度だけ笑顔でぼくのところに来て語りかけたことがある。
「おい、しんた」
「はあ」
「お前の母ちゃん、今度の選挙で誰に入れるか決めとるんか?」
「は?」
「知らんのか?」
『こいつ、おれを利用して、選挙活動をしよるんか』
そう思うと、ぼくは頭に来た。
そこでぼくは、はっきりと「はい、知りません」と言った。
「そうか」
「それがどうかしたんですか」
「いや、まだ決まってないなら、社会党に入れてもらおうと思って」
「そうですか。聞いときましょうか?」
「ああ、そうやった。お前のところは新日鐵やったのう。それなら民社党か…。そうか、そうか」などと言い、一人で納得して戻っていった。
ふざけた男である。
それからぼくは、社会党が嫌いになった。
もちろん今の社民党も嫌いである。
まあ、お笑いネタとしては好きであるが。

さて、その担任男だが、その後、麻雀賭博で検挙され懲戒免職を食らったということだ。
こういう男が担任であったと思うと、実に情けない。



2003年02月07日(金) 万引き

昨日は日記を書きながら眠ってしまっていた。
そのため、日記の更新が、何と今日の午後になってしまった。
雪では遅刻せずにすんだが、日記は遅刻してしまったわけだ。
やはり日記というのは、一気に書いてしまわないとだめである。
一日隔たりがあると、最初の意図とは違ったものになったり、その日書こうと思っていたことを忘れていたりすることがある。
昨日の日記も、昨日のうちに書き上げていたら、また違った趣旨の日記になっていただろう。

さて、本日2度目の日記の開始である。
「今日は一気に書き上げるぞ!」と気合いを入れながらも、「さて何を書いたらいいものか」と迷っている。
一日ゴロゴロしていたので個人的な話題はないし、ニュースもイラク情勢ばかりで面白くない。

そういえば昨日万引きを捕まえた。
午後7時を過ぎた頃だった。
出入り口に置いてある万引き防止装置が発報した。
ぼくが慌てて走っていくと、そこに一人の中年男性が立っている。
その男はぼくを見るなり、「払えばいいんでしょ」と言った。
その言葉を聞いてぼくはムッとしたが、冷静に「こちらに来て下さい」と事務所まで連れて行った。
事務所に行く途中に男が「払うつもりだったんですが」と言ったので、「払うつもりなら服の中なんかに入れないでしょ」と言うと、今度は「もうしませんから見逃して下さい」と言う。
「そういうことは、事務所で言って下さい」
「お願いです。許して下さい」
ぼくはそれに答えず、無言で男を事務所まで連れて行った。

うちの店は悪質な万引きが多いため、捕まえるとすぐに警察に通報することにしている。
ぼくが男を事務所に連れて行くと、さっそく店長代理が警察に電話をかけた。
警察は「いくつぐらいの人ですか」と男の歳を聞いてきた。
代理が「おいさん、いくつね?」と聞くと、男は一瞬躊躇し「あ、ああ50歳です」と言った。
明らかに嘘を言っている。
50代の顔ではあるが、どう見ても50歳には見えない。
もっと上である。
ぼくはそれを聞いた後に事務所を出たので、その後のやりとりは知らないが、男は「歯医者に行かないけんけ、急いで下さい」などとほざいていたそうだ。
結局、男は警察に引き渡されたらしい。

おそらくこの男も、万引きは犯罪ではないと思っている一人だろう。
万引き犯は、自分のことを「泥棒」と呼ばれることに抵抗を持っていると聞く。
しかし、どう見ても万引きは泥棒である。
手軽に盗めるところから盗もうとする卑怯な泥棒である。
先の川崎の万引き事件で、書店に非難や中傷をした人間がいたという。
そういう人も万引きを犯罪と思ってないのだろう。
万引きは立派な犯罪である。
人の物を盗むだけでも死刑になった時代があるのだ。
いったい彼らは何を考えているのだろう。

ぼくは最近の万引き犯罪の多さを、教育のせいだと思っている。
やってはいけないこと、つまり道徳を習わなかったツケが、ここに来て一気に吹き出したのだろう。
万引きで捕まることを「運が悪かった」などと思っている人間に、「万引きは犯罪です」などと言っても、あまり効果はないだろう。
それよりも、今の子供たちに道徳を教え込んでいくほうが、よほど効果的である。
ぼくたち大人が注意するよりも、幼稚園児や小学生などから「物を盗ったらいけんのよねえ」などと咎められるほうが、ずっと堪えるはずだ。
そういう意味でも、道徳の復活は必要だと思っている。



2003年02月06日(木) 九州の雪は常識をも狂わす

また雪だ。
今年に入ってから早くも3度目である。
ひと冬に九州でこれだけ雪が積もる日があるのも珍しい。
雪に慣れてないこの島の人たちは戸惑うばかり。
とにかく少しでも雪が降ると、高速道路はストップする。
おかげで一般道は大渋滞だ。
雪はだいたい夜中に降るから、朝、目が覚めてから初めて積雪を知る。
それも、いつもの時間に起きるため、いくら頑張ったところで通常より10分程度早く出るのが精一杯だ。

ということで、今日はいつもより10分早く家を出た。
しかし、車に積もった雪をかくのに時間がかかり、出発したのは結局いつもの時刻になった。
ラジオをつけると交通情報をやっていた。
案の定、高速道路は九州道、都市高速ともに不通だった。
いつもの通勤路だと渋滞は必至だ。
どうしようかと考えたが、こういう日はどこを通っても同じである。
で、慣れた道を行くことにした。
これが明暗を分けた。

ぼくはかなりの渋滞を予想していた。
予想通りだった。
普段より車の列が長い。
「こりゃ、遅刻だ」と観念した。
ところが、流れがいい。
おかげで、国道に出るまでに、それほど時間はかからなかった。
途中何ヶ所か渋滞していた場所があったが、迂回しなければならないほどひどいものではなく、通常より少し時間がかかったくらいだった。
結局会社に着いたのは、定時内だった。

さて、会社に着いて気がついたのだが、駐車場の車の数が普段より少ない。
今日はこんなに休みは多くなかったはずだがと思い、既に出社していた人に尋ねてみると、「雪で遅れている」との答。
その遅れている一人に、ぼくの家の近くに住む人がいた。
その人の家は、ぼくの家から直線距離にして約2キロ離れている。
彼が国道に出るには、3種類の選択がある。
一つ目は、直接国道に下りるルート。
二つ目は、直接下りた場合より、3キロほど会社寄りに出るルート。
三つ目は、ぼくの通るルートで、二つ目よりさらに3キロほど会社寄りに出る。
彼は普段、一つ目のルートを通っているらしい。
今日もそのルートを通ったらしいのだ。
ところが、そのルートが大渋滞だった。
彼は7時に家を出たという。
着いたのは10時過ぎ、何と彼は3時間も通勤時間に費やしたのだ。
で、走った距離はというと、ぼくよりも6キロ多かっただけだ。
ぼくは40分で着いたから、その差は2時間20分。
つまり、彼はたった6キロを2時間20分かけて走ったことになる。

今日の場合、ぼくはラッキーだった。
しかし、以前、今日と同じような雪の日、渋滞を避けるために道を選んだために、かえってドツボにはまったことがある。
本線が混んでいたので、もう一方の本線に入った。
しかし、そのもう一方の本線も混んでいた。
仕方なく裏道に入った。
ところが、その裏道も混んでいる。
じゃあ、ということで、裏道の裏道に行った。
何とそこは、凍結のため不通になっていた。
結局引き返し、また裏道に戻った。
途中会社から電話が入り、「お前、何しよるんか」と言われた。
事情を説明すると、「馬鹿やのう。本線は途中から流れがよくなっとるぞ」ということだった。
結局渋滞にもまれ、着いたのは昼前だった。
それ以来、ぼくは通勤に関しては基本に忠実になった。
今日の場合も、一瞬迷ったが、基本に忠実に走ったのが勝因だった。
しかし、上の彼も基本どおりに走ったのだ。
これをどう理解したらいいのだろう。
やはり、九州に雪が降ること自体がおかしいんだ。
きっと、九州の雪には常識をも狂わす何かがあるのだろう。



2003年02月05日(水) もしや心霊写真!?

今日も昔の写真を見ていたのだが、その中に変なものが写っている写真があるのに気がついた。
それは、小学校1年と2年の時のクラス写真である。
お見せできないのが残念だが、ぼくの頭の一部分に白く丸いものが写っているのだ。
見ようによっては、円形白毛症のように見える。
しかし、今のぼくの頭が真っ白だといっても、その当時から白髪があったわけではない。
『もしかしたら』と思い母に聞いてみたが、母の答は「そんな小さい時から、白髪があるわけないやん」だった。
それらは、別に心霊スポットと言われるような場所で撮った写真ではない。
写真に細工をしているとも思えない。

いったいその白いものは何だろう。
考えられるのは、光の反射だが、ぼくにはそうとは思えない。
どちらも学校の玄関前で撮ったものだが、時間も違えば、並んでいる位置も違う。
それに光の反射だとしたら、なぜぼくだけが、それも2年続けて反射しているのか、という疑問が残る。

心霊写真ということも考えられる。
もし、心霊写真だとしたら二つの場合が考えられるのだが、その一つは、その霊が障りを起こす霊だということだ。
その写真に写っている霊がそれだとしたら、遅くとも何年か後に何らかの霊障があってもおかしくないのだが、それはなかった。
もう一つは、ぼくに何か語りかけている、もしくはぼくに助けを求めている霊だということだ。
しかし、霊は小学校の低学年のぼくに、何を語りかけ、何の助けを求めているというのだろうか。
また、その内容を、当時のぼくが理解できたとでもいうのだろうか。
仮に理解できるものだったとしても、その頃のぼくは友だちと遊ぶことで忙しかったので、拒否していただろう。
それに、もしそういう理由で出てきているとしたら、こちらが要求をのんでやるまで、毎年出てくるはずだ。
が、1,2年の写真には写り込んでいるが、3年から6年までの写真には何も写ってない。

ということは守護霊か。
「おい、しんた。ちゃんと守っているぞ!」とでも言って出てきたのだろうか。
3年からの写真には写ってないのは、守ることに飽きたということか。
もしそうだとしたら、ぼくの守護霊はぼくの性格と同じように、ムラのある性質の霊だということになる。
もしかしたら、ぼくの『追いかけて』(歌のおにいさん参照)という歌にある、
「まっすぐに歩いてきたけれど、
 いつもいつも、ぼくはつまずいているよ」
という歌詞は、守護霊が書かせたものかもしれない。
しかし、10年ほど前から、ぼくの守護霊は怠けなくなったようだ。
おかげで頭は真っ白になった。



2003年02月04日(火) ただいま勉強中

この間、地元の西日本新聞を取り始めたことを書いたが、それだけでは飽き足らなくなり、iモードを利用して四大紙の購読を始めた。
全紙購読しても400円程度だ。
中でも毎日新聞は、たった100円で朝刊夕刊のほとんどの記事が読めてしまう。
こんなことやって、本業の新聞の販売のほうは大丈夫なんだろうか、と余計ながら思っているが、こんなお得なものはない。
また読売新聞は、巨人情報が満載なのが売りなのだが、ぼくにとってはこういうのは必要ないから、つい半額にしろと思ってしまう。

さて、そんなに新聞を購読して何をしているのか。
別に、北朝鮮情報を仕入れたいからとか、活字に飢えているからとかいう理由だけで購読しているのではない。
実は、今ぼくは文章の勉強をしているのだ。
一昨年の1月から、休まずにこの日記をつけているわけだが、最近、こんな文章表現でいいのだろうかという疑問を持つようになった。
言いたいことをうまく伝える技法というのが、他にあるんじゃないだろうかと思うようになった。
そこで、雑誌や単行本などを読みあさっていたのだが、毎日雑誌が出るわけではないし、単行本は興味のあるもの、あるいは好きな人のものしか読まない。
これでは偏りが出来てしまう。
同じ文章を毎日読もうとは思わないから、当然空きが出来る。
週刊誌でも1日で2,3誌読んでしまうから、週刊新潮と週刊文春しか読まないぼくは、6日の空きを作ってしまうことになる。
読書は1日休むと読解力が鈍ると言われているが、文章の勉強もそれと同じである。
1日やらないと、文章力も落ちてくる。
それを6日もやらないのだから、6日目にはかなり質の悪い文章をお見せすることになる。
これは問題である。。

そこで新聞を読むようにしたわけだ。
新聞なら、いろいろな人が書いた文章を毎日読める。
しかし、一紙だけだと、ここでも偏りが出来てしまう。
だから、ということで、iモードに頼ったわけである。
これだと仕事の合間に読める。
仕事が忙しく、それを読む時間がない場合は、各紙のコラムだけ読むことにしている。

それにしても、文章の勉強は久しぶりだ。
22歳の頃、一時出版会社で働いていたことがあるのだが、その時毎日新聞の内藤国夫の『インタビュー入門』という本をテキストにして勉強していた。
勉強といっても、その本を何度も読み、その文体を真似て文章を書く、といった程度のものだったが。
それで、どのくらい文章力が伸びたのかは、早々と出版会社を辞めたためにわからずじまいだった。
まあ、一応勉強したのだから、少しは伸びたとは思っている。

ということで、ここしばらくは新聞みたいな文章になるかもしれないけど、これも一つの過程だと思って目をつぶって下さい。



2003年02月03日(月) 太宰府

今日は節分。
明日立春から沈丁花の匂う頃までが、ぼくの一番好きな季節である。
まだまだ吹く風は冷たいが、その中に何かほの暖かいものを感じる。

毎年この時期に楽しみにしていることがある。
それは観梅である。
県内に梅の名所はいろいろあるが、その中でも一番好きな場所が太宰府天満宮だ。
境内にある「お石茶屋」で、梅を見ながらやる一杯は格別なものがある。
最近は車で行くことが多くなったので、一杯の楽しみは失われたが、それでも古い歴史を持つ太宰府で、のんびりと風流に浸れることが嬉しい。

ぼくは昔から太宰府が好きで、よく行っている。
そのせいか、いろいろな想い出を持っている。
高校2年の時につき合った人と、最初で最後のデートの場所が太宰府だった。
ただ行って帰るだけのデートで、何も面白くなかったのを覚えている。

「その日太宰府は雨の中にあった
 ただいつもと違うことは傘が二つ
 小さな梅の木はただ雨の中に
 そうやっていつも春を待つんだろう」

何となく白けたムードの中、ぼくはずっと『飛び梅』を見ていた。
そうしないとやりきれなかった。
「何でこの人とつき合ったんだろう」という思いが、ずっと心の中に渦巻いていた。

「騒ぎすぎた日々と別れるように
 今日太宰府は雨の中にあった
 もう今までようなことはないような気がする
 あるとすれば次には君がいる」

そう、バカ騒ぎしていた時期だった。
怖いもの知らずだった。
そのバカ騒ぎの延長上に彼女がいた。
しかし、彼女とつき合いだしてから、日ごと募る思いがあった。
それは、1年の頃諦めたはずの人への思いである。
つき合いは長く続かなかった。

「ここまでだよ線路の行き着いたところは。−今までは行ってみたかった
 でも何だ、このいらだたしさは。−もう自由を失ったように思えて
 ぼくは列車を乗り間違えていたらしい。−そして君も
 ここには散ったばかりの花が。そして『私は見せ物じゃないよ』って
 そうだよここまでだ。ここでゲームは終わってるんだよ

  もう帰ろうよ。さようなら」

授業中、ぼくは衝動に駆られてこんな詩を書いた。
そして休み時間、それを彼女の机の中に入れておいた。
太宰府に行ってから、2週間後のことだった。

そういえば高校3年の時も、浪人時代も、太宰府に行っている。
東京にいる時は、帰省するたびに太宰府に行っている。
こちらに帰ってからも毎年のように行っている。
考えてみると、ぼくの太宰府通いは、あのデートから始まったわけだ。
どの時期から風流を味わうようになったのかは覚えてないが、最初のデートの時でないことだけは確かだ。

さて、今年の太宰府行きはいつにしようか。
昨年行った時には、三分咲き程度だったので、今年は七,八分咲きの頃を狙って行こうと思っている。
おそらく今年は、車ではなく電車を利用して行くことになるだろう。
久しぶりに飲みたいからだ。
それまでに風邪を完全に治しておかなければならない。
それが問題である。

「悠久の 歴史を夢む 梅一輪」
おそまつ。



2003年02月02日(日) 寒中タバコ

風邪を引いても止められないのがタバコである。
相変わらずぼくは外でタバコを吸っているが、最近そのことを『寒中タバコ』と呼んでいる。
別に寒い外で吸わなくても、暖かい暖房の効いた喫煙室で吸えばよさそうなものである。
しかし、心情的にぼくはそれを好まない。
寒波が襲ってきた時にも、ぼくは外でタバコを吸っていた。
雪が降りつけようとも、灰皿代わりに使っているバケツに氷が張ろうとも、ぼくは外でタバコを吸い続けた。

ところで、寒中タバコをやっていると、いろいろな生き物にお目にかかる。
いつもいるのは、犬、猫、すずめ、ハト、ヒヨドリ、カラスといったオーソドックスなものである。
しかし、たまに季節はずれの昆虫や、毛色の違った動物がやってくる。
12月だったか、バッタが飛んでいた。
思わずぼくは、携帯電話でカレンダーを見たものだった。
彼はきっと怠け者のキリギリスだったのだろう。

この間の寒波の時には、見たこともない鳥がやってきた。
小柄な鳥で、全体に茶色い羽毛で覆われているのだが、尾のところだけが赤みがかっていた。
おそらく近くの山から下りてきたのだろう。
家に帰って図鑑を調べてみたが、結局何という鳥かはわからなかった。
ぼくはその鳥を見て、「このクソ寒いのに、よくあれだけの羽毛で耐えれるなあ」と感心したものだった。

さて、今日の話である。
夕方、ぼくが例のごとく寒中タバコをやっていると、後ろの方から「パタパタ」という音がした。
何だろうと振り返ってみると、その音は黒い色とともに、ぼくの横を通り過ぎていった。
猫である。
昨日ぼくに鼻をつままれ迷惑そうな顔をした彼である。
彼は口に何かくわえている。
どうもすずめのようだ。
羽をバタバタさせている。
ぼくは小さい頃から猫が好きで、猫がいるといつも観察するのだが、魚をくわえている猫はしょっちゅう見る。
また、ネズミをくわえた猫も何度か見たことがある。
しかし、すずめをくわえている猫を見るのは初めてだ。
それだけ飛ぶものは、猫でも狩りが難しいということだろう。

猫は大慌てで草むらの中に入って行った。
よほど嬉しかったのだろう。
走っている様が、いかにも「やったぜ〜!」という感じだった。
おそらく、彼の生涯最高の獲物だったに違いない。

一方の雀は不運だった。
その猫は太り気味で、それほど俊敏とも思えない。
そんな奴に捕らえられたのだから、それこそ一生の不覚と言わざるをえない。
しかし、当のすずめは「一生の不覚」なんて考える暇もなかっただろう。
何せ、「あっ!」と思った時には、すでに命を落としていたのだから。
かわいそうではあるが、これも自然淘汰なのだろう。

その後、何度か寒中タバコをしたが、もうその猫にはお目にかからなかった。
普段は店の前に座り、優しい人間様に餌をねだっているのだが、今日はその必要がない。
すでに腹は満たされたから、きっと暖かいねぐらでも探しに行ったのだろう。



2003年02月01日(土) 自己嫌悪

1977年2月1日の日記にこんなことを書いている。

「毎日毎日休みも取らず、戦場に向かっている。
 笑っては馬鹿にされ、泣いては卑怯だと言われる。

 日々の終着は、居眠りでごまかし、
 目覚めれば、また戦場に向かう。

 疲れの報酬は、何もない。
 疲れの報酬は、何もない。」

なんだ、何も変わってないじゃないか。
環境こそ変わったものの、根本は26年前つまり19歳の頃と同じである。
いったい今まで何をやってきたのだろう。
それが人生だと言われればそれまでだが、何かむなしい。

19歳のぼくは、ギターと戯れていた。
45歳のぼくは、パソコンと戯れている。
19歳、ぼくの未来はキラキラと輝いて見えた。
45歳、ぼくの過去はキラキラと輝いて見える。

あの頃から人生設計を立てていた人は、立派になっていることだろう。
今もって人生設計を立てていないぼくは、自己嫌悪に陥っている。

『友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買いきて 妻としたしむ』
石川啄木の有名な歌である。
うん、こんな気分ですな。
しかし、『花を買いきて』なんて、ぼくの性に合わない。
どちらかと言えば、「いじわるばあさん」の中で犬が言っていた、
『友がみな われよりえらく 見ゆる日よ こうやって猫でも いじめてやるんだ』
のほうが、性に合っている。
ということで、今日は店の前に座っていた猫をいじめた。
まあ、いじめると言っても、鼻をつまんでやる程度だったが。
もちろん猫は、迷惑そうな顔をしていた。

何が面白くないかと言うと、すべてが面白くない。
他人のことなんて気にもしたくないのだが、つい気になってしまう。
いつもなら「でも、負けてない」と思っている強気の自分がいるのだが、今日はどうやらお休みのようである。

この自己嫌悪は、どこから来るんだろう。
そういえば、今日また少し熱が出た。
葛根湯を飲んで昼寝したら治ったが、まだまだ体内に菌が生息しているのだろう。
「いいかげんに病院に行け」と言われる。
しかし今日は、「病院なんか、誰が行くか!」という気力もない。
気だるい。
この気だるさが、風邪から来ていることは重々わかっている。
おそらく今日の自己嫌悪も、そこから来ているのだろう。


『自己嫌悪』

 別に変わったことはありません。
 ただ白髪の数が増えただけで
 これといった悩みもなく
 ただ悩めないことにだけ悩んでいます。
 日々考えることは何もなく
 平平凡凡とやっています。
 女に憧れを持つこともなく
 それについての焦りもなく
 本当に平和な毎日ですよ。
 金に困ることもありません。
 仕事も暢気にやっています。
 ほかに何もありません。
 本当に何もありません。
 するべきこともありません。
 やりたいとも思いません。
 別に変わったことはありません。
 ただそれだけの毎日ですよ。


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