この日記は1月1日に書いている。 なぜ12月31日に書かなかったかというと、この日には毎年、ぼく恒例の行事があるからだ。 それは、風呂に入って年を越すことだ。 つまり、「除夜の風呂」ということだ。 大晦日は、風呂の中で何か特別なことでもやっているのかといえば、そうではない。 ただいつものように長湯しているだけだ。 ああ、そういえば今日は、クリスマスにある人からもらった「アヒル隊長」といっしょに風呂に入っていた。 いつもと違うことといえば、このくらいか。 風呂から上がってから、いつものように食事をし、いつものようにパソコンの前に座っている。
ところで、この日記をつけ始めて、考え方が変わったことが一つある。 それは一日の捉え方だ。 今までは単純に「午前0時に一日が始まる」と思っていた。 しかし、日記をつけ始めてから、「それはおかしい」と考えるようになった。 日記を書くというのは、朝起きてから寝るまでの出来事や考えたことを文にするということだから、午前0時に一日が始まるとちょっと困るのである。 もし通常通りに一日を捉えると、今日の日記は、 「昨日の日記を書いている途中に今日は始まった。 午前2時までかかって、やっと日記を書き終えた。 それから20分後に寝た。 起きたのは午前7時40分であった。 ・・・・ いつものように仕事を終え、途中本屋に寄ったりしたので、帰るのが少し遅くなった。 今日は大晦日ということで、恒例の“除夜の風呂”を決行しなければならない。 ・・・・ ということで、“除夜の風呂”の途中に今日は終わった」 となるだろう。 何かおかしいでしょう? この文章は、午前0時を一日の始まりとすることが、いかに愚かなことかということを示していると思う。
そこでぼくは、日記をまともなものにするために、一日の始まりを「朝起きてから」にした。 そうすれば、無理なく日記が書ける。 「今日は朝7時40分に目が覚めた。 昨日寝るのが2時を過ぎていたため、かなり寝起きが辛かった。 ・・・・ いつものように仕事を終え、途中本屋に寄ったりしたので、帰るのが少し遅くなった。 今日は大晦日ということで、恒例の“除夜の風呂”を決行しなければならない。 ということで、いつものように風呂の中で年を越したのだった」 これなら無理がない。 一日というのは、朝起きてから次の朝起きるまで。 そうすれば、「今朝見た夢」も、「昨日の夢」で片付けられるから楽だ。
さて、今日の日記はこれでおしまいです。 一年間、このこじつけ日記にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。 来年は、さらにこじつけに磨きをかけ、邁進する所存でございます。 来年もよろしくお願いいたします。
しろげしんた
今年もあと1日。 しかし、ぼくたちは日常生活を強いられている。 世間は年末であわただしそうだが、ぼくたちは平常通りの仕事をやっている。 正月休みにしろ、3日から営業であるから、ただの2連休を取るにすぎない。 正月が明けたら、たっぷり休暇を取れるのかといえば、そうでもない。 別に他の日に定休日を設けているわけでもないので、いつものようにローテーションによる休みしか取れない。 これはお盆でも同じことだ。 つまり年中、同じ生活をやっているということである。
ぼくはこんな生活を22年間やってきたわけである。 もちろんこの間、転職した時を除いて、長期休暇など取ったことはない。 前の会社では数字の関係上休むことが出来ず、今の会社では人数の関係上休むことが出来ない。 病気にかかっても、他の人に迷惑がかかるから休むわけにはいかない。 今は週2日確実に休みを取っているので、「まあいいか」と思うことができるのだが、前の会社の時は月に3,4回しか休みが取れないことがざらだったので、かなりフラストレーションがたまっていた。 しかも、毎日朝8時から夜10時過ぎまで拘束され、週一度は7時出勤だった。 そんなに早く行って何をするかといえば、会議である。 そんなに遅くまで残って何をするかといえば、会議である。 何の会議かといえば、数字のツメである。 数字とは、売上数字のことである。 この数字さえよければ何のことはないのだが、数字が常時いい部門などはない。仮にあったとしたら、それは不正をやっている部門である。 会議といっても、数字の悪い部門の「報告」、それに対する「罵倒」の繰り返しばかりやっていた。 そんな疲れの溜まることを毎日やっていて、仕事の効率が上がるはずがない。
一度切れたことがあった。 夜の会議が終わったあとのこと、時間はすでに午後10時半を回っていた。 「やれやれ、やっと帰れるか」と思っていると、販促係の人間が店内放送で「今から販促会議をやります。各売場の販促委員の方はお集まり下さい」と言い出した。 上の者にいい顔したいがためのパフォーマンスであった。 その時はぼくも販促委員だったので、当然参加しなければならなかった。 「冗談じゃない」とぼくは食いついたが、「すぐ終わらせますから」と言うので、しぶしぶ参加した。 もちろん疲れていることもあったが、その当時ぼくはJRで通勤していたので、電車の時刻と、乗り継ぎのバスのことが気になっていた。 JRのほうは0時過ぎまであるが、バスのほうは最終が23時14分だったので22時50分のJRに乗らないと間に合わない。 これに間に合わないと、タクシーで帰らなければならないのだ。 「しかたない。今日はタクシーで帰るか」と思いながらの参加であった。 ところがこの会議、いつまでたっても終わりそうにない。 時間は刻々と過ぎていく。 いつの間にか、JRの最終の時間も迫っていた。 そこでぼくは、「この会議、いつになったら終わるんですか?」と尋ねた。 するとその販促係は、「あと30分ほどで終わりますから」と言った。 「話が違うやん。すぐ終わると言うけ参加したのに。JRの時間がないけ、もう帰る!」と怒鳴り、ぼくは会議室を出て、さっさと帰った。
前の会社がこんな具合だったので、たとえ人数が少なくても、今の会社で勤まるわけだ。 ただ、最初に言ったように、ここも「盆も正月もない」という意味では同じである。 販売業22年生、まだまだ日常生活は続く。
「よいお年を」 社会に出てから、この言葉を何度口にしただろう。 それまでは、一度も口にしたことのない言葉だった。 どうして覚えたのだろう。 別に「年末の挨拶は“よいお年を”と言わなければならん」などと強要された覚えはない。 ということは、見よう見まねで覚えた挨拶なのだろう。 では、それまではいったい年末の挨拶はなんと言っていたのだろうか? おそらく、普段の別れの挨拶をしていたのだろう。
そういえば、別れの挨拶の言葉も、年をとるにつれ変わってきている。 高校を卒業する頃までは、いつも「バイバイ」だった。 その後、社会に出るまでは「じゃあね」とか「またね」だった。 社会に出てからは、「お疲れさん」だ。 社会に出てから、「バイバイ」などと言ったことはない。 これも強要されてこういうふうに言い出したわけではなく、また高校を卒業したから「じゃあね」と言おうとか、社会に出たから「お疲れさん」と言おうとか決めていたわけでもない。 それは流れの中で変化してきたものだ。 ちなみに、友だちに「さようなら」と言ったことはない。 そんなこと、馬鹿らしくて言えん。
ということは、社会に出る前の年末の挨拶は、「バイバイ」や「じゃあね」ですませていたわけだ。
社会に出てからは、以前からの友だちにも「よいお年を」などと言っているが、これがまた照れ臭い。 言う前から、「何で、こいつに挨拶せないけんとか」と思ってしまう。 言っている最中も、ニヤニヤして「ばーか」などと思いながらやっているので、ありがたみも何もないだろう。 まあ、相手もそう思いながらやっているんだろうけど。
ところで、「よいお年を」のあとの続く言葉が何であるかを、真剣に悩んでいた時期がある。 もちろん、「よいお年をお迎え下さい」が正しいのであるが、その頃は、そう続くことに違和感を感じていた。 「よいお年をお過ごし下さい」、この言葉を使うのは年が明けた後だろう。 「よいお年をお取り下さい」なら、年寄りに向かって言っているようである。 やはり「よいお年をお迎え下さい」が妥当なのか。 でも、言い回しがどうもしっくりこない。 「よい年でありますように」ではいけないのだろうか? 「幸せな一年を」ではいけないのだろうか? しかし、これらの言葉を「よいお年を」のように略して言うとすると、「よい年で」や「幸せな」となってしまって、逆におかしくなってしまう。 いろいろ考えたあげく、「よいお年を」だけでいいじゃないか、というところにおさまった。 後の文章は「余計だ」と思うに至ったわけである。 それから、自信を持って(?)、「よいお年を」と言えるようになった。
ということで、皆さんよいお年を。
・・・? ああ、あと二日あったんだ。
2001年12月28日(金) |
年末という言葉に騙されるな |
午後から近くの米屋に灯油を買いに行った。 年末年始分ということで6缶買った。 今日は18リットルで税抜き498円だった。 米をいっしょに買うと、さらに200円安くなるらしい。 先日ラジオでこの店を紹介していたが、その時そう言っていた。
全国で見ると、どうなのかはわからないが、ぼくはわりとガソリンや灯油が安い地区に住んでいる。 例えば、ガソリンがリッター82,8円というスタンドがある。 テレビなどでよく「セルフ」というのを売り物にして、「激安スタンド」などと紹介されている店がある。 レポーターも「ここはなんと、ガソリン1リットル85円!」などと大げさに言っている。 その店の人も、「セルフだからここまで出来るんですよ」と答えている。 確かに他の店と比べたらそうなのかもしれないが、ぼくが利用しているスタンドは、セルフではないのにセルフよりも安い。 その「激安スタンド」の人は、「セルフにしなくても安く出来る」というのを勉強しておいたほうがいいだろう。
しかし、最近はその「激安以上に安い店」も口コミで伝わったのか、いつ行っても満車状態である。 この間ガソリンを入れに行った時は、待っている車が道路まではみ出していた。 時間がなかったので、しかたなく他の店で入れたが、なんとその店はリッター90円だった。 その時入れた量が50リットルだったから、860円も損をしたことになる。 この差は大きい。 こういう時のために、サブメインの店も決めておかなければならない。
しかし今日は、いくら年末とはいえ、灯油6缶というのは買いすぎた気もする。 別に「年始はずっと休みです」、というわけではないのだから、その半分にしておけばよかったのかもしれない。 ぼくの家は団地の3階なので、灯油を両手に持って3往復しなければならなかった。 おかげで、今は腕が痛い。 おまけに、約40kgを持って階段を上がったわけだから、ひざの裏も痛くなっている。 きっと年末という言葉に騙されたんだろうなあ。 よくよく考えてみたら、そこも店なんだから、1週間も休むはずがないのだ。 年内は31日まで、年明けは遅くても4日には開くだろうから、たかだか4日間の休みである。 別に毎日灯油を買いに行くわけではないので、1週間分も買っておけば充分だったのだ。 何で焦る必要があったのだろうか?
これは店の側でもよくあることだ。 年末という言葉に騙されて、ついつい多めに在庫を取ってしまう。 でも、考えてみたら取引先の休みというのは1週間かそこらしかないのだ。 いくら年末はお客が増えるといっても、よくて通常の倍であろう。 ということは、2、3週間分の在庫を抱えておけば、充分なのである。 それを何を焦ってか、気がついたら1か月分以上の在庫を抱えていた、ということはよくあることである。 取引先も年末という言葉に騙されて、「年末年始は、これで充分ですか?」などと言ってくる。 こちらはその言葉に騙されるわけだが、その取引先だって12月に無理をしたつけが1月に回ってくる、というのをすっかり忘れてしまっているわけだ。 つまり、こちらは在庫過多で泣き、あちらは返品で泣くということだ。 今年もあと3日、今ごろ冷静になってももう遅いのだが、来年の戒めとして、このことは頭に入れておこう。 と、毎年思っている。
毎週木曜日は、大量の入荷があるので、いつも荷出しには時間がかかる。 今日は年内最後の木曜日ということで、通常の倍の入荷があり大変だった。 お客さんは通常より多いし、電話もひっきりなしにかかる。 しかも、こんな日に限って、取引先の営業が「売れてますか?」などと言ってのこのこ登場したり、本社のお偉いさんが売場チェックをしにきたりする。 取引先は軽くあしらっておけばいいのだが、本社のお偉いさんはそうはいかない。 彼らは現場のことがまるでわかってないので、手を休めて、いちいち細かく説明しなければならない。 これにまた時間を食ってしまう。 なんとか一段落着いて、食事に行ったのは、もう午後4時半を回っていた。 食事がすむと、いつものように昼寝。 売場に戻ったのは5時半だった。 それから、明日からの売り出しの準備をしなければらなかった。 くだらんことを聴いてくるお客さん。 相変わらず、鳴りまくる電話のベル。 もう勘弁してほしかった。 放心状態で店を出たのは、いつものように8時20分だった。
以上のような状況だったので、日記のことを考える暇がまったくなかった。 さて何を書こうか?
そういえば、明日は今年最後の休みなのだが、何も予定がない。 とりあえず、灯油を買いに行くことだけは決まっているのだが。 銀行は先週すませたし、本は大量に買い込んだし、黒崎に出て年末風景でも見に行くか。 ぼくは、年末の街とかお祭りとか、とにかく、人がたくさんいるのを見るのが好きだ。 なんとなく躍動感というものを感じる。 そんな人ごみの中にいると、何かホッとするものがあるのだ。 販売という職業に就いたのも、きっと「人が集まるところが好き」という潜在的なものが働いたのだろう。 24年前の暮れは、デパートの井筒屋でアルバイトをして、人ごみを満喫していたし、22、23年前の暮れは、毎日のように新宿の人ごみの中を練り歩いていた。 21年前、長崎屋でアルバイトをしていた頃は、台車を押して年末の人ごみの中を走り回っていた。 10年前、前の会社を辞めた年の暮れも、無職の身でありながら、そんなことを気にもせず、年末の街に触れに行った。 おそらく今日のことも、何年か経つと、ぼくの中の年末の風景として残るのだろう。 まあ、明日は21世紀の年末を充分満喫することにします。 それにしても、この不景気、人ごみというのはあるのかなあ?
ところで、来年の3月のことなのだが、黒崎そごう跡に移転した井筒屋の、前の店舗跡に、市内で一番大きな本屋が出来るらしい。 九州でも3番目に大きな本屋だということだ。 8階建てのデパートの半分、つまり4フロアが本屋になるという。 デパートの1フロアはけっこう広いものである。 それが4つも重なると思うと、嬉しくてたまらない。 欲しい本があったら、小倉・博多はもちろん、東京までも行くぼくにとっては、これは朗報である。 ちなみに、小倉は「クエスト」、福岡は「紀伊国屋」、東京は神田神保町の古書街に出没しています。
しかし、3月か。 その前に、寒い冬を越さなければならない。 これが嫌なんです。 「来春発売」とか、「来年の夏オープン」とかいうCMを見ると、いつも「ああ、冬を越さなければならん」と思ってしまう。 ぼくにとって、冬というのは関所みたいなものなのである。 冬さえなければ、すべてはうまくいくように思えてしまう。 ウィンタースポーツなどをしないぼくにとっては、冬の寒さというのは苦痛以外の何者でもない。
そうだった。 明日何をするのかを考えていたのだった。 とりあえず、明日は灯油を買って・・・・ そうだ! 昨日日記に書いた、モバイルを見に行こう。 まだ、買えないけど。 でも、見たら欲しくなるんです。 ああ、この手があった。
ということで、明日は灯油を買って、お金とカードをいっさい持たず、モバイルを見に行くことにします。
2001年12月26日(水) |
年が明けてしたいこと |
「モバイルが欲しい」 何度も言っているが、ぼくは、毎晩2時3時までかかって日記を更新している。 時には居眠りをしながら書くこともある。 出来上がった時は、一気に眠気が襲ってくるので、当然読み直したりはしない。 だいたい、日記を読み直すのは翌日、暇な時にiモードを使ってやっている。 そこで、誤字脱字や表現の不十分なところ、文法的におかしなところなどをチェックするのだ。 しかしである。 この日記レンタル「エンピツ」は、iモードでは修正できないのである。 ということで、この日記を皆さんがあらかた読み終えた後に、この日記の修正が始まるわけである。 これは困ったことだ。 この日記の真意が伝わらないままになってしまう。 そういうわけで、今すごくモバイルが欲しい。 今月はあと一度休みがあるが、所用があるので行けそうにないので、来月にでも。 来月になれば、カードで夏のボーナス払いができるし。 とりあえず、この日記の修正が出来る機械なら、ノートパソコンでなくてもいい。
「iモードを買い替えたい」 モバイルもさることながら、iモードのほうも買い替えの時期が来ている。 スクロールやクリックがうまくいかないのだ。 スクロール出来なかったり、スクロールしていると勝手にクリック状態になり、「受信中です」の表示が出てしまう。 今の機種に取り替えたのが、今年の6月だったから、7月から換算すると12月いっぱいで半年使ったことになる。 半年経つと、取替えが安くなる。 で、1月になったらさっそく買いに行こうと、今日知り合いのいるドコモショップに電話した。 「正月はいつから開きますか?」 「正月はありません。ずっと開いてます」 「えっ、元日から!?」 「はい」 まあ、三が日については、営業時間は午前11時から午後3時までということだったが、それにしても可哀想だ。 せめて元日ぐらいは休みたいよなあ。
ぼくも前の会社の時に、当番で元日出勤をさせられたことがあるが、あんなに面白くないことはなかった。 午後5時であがるつもりが、その日に限って退店のセットが出来ずに、結局帰ったのが午後11時を過ぎていた。 おまけに翌日から初売りで、結局年末から10日間ほど出ずっぱりだった。 そういう嫌な思い出があるので、元日から出勤している人を見ると、可哀想に思えてくるのだ。 正月に買い替えようと思っていたが、しかたない、正月明けにするか。
「あゝ日本海 ウクレレ夫婦旅」 雷波少年のこの企画も最終章に近づいている。 青森県から山口県まで日本海側を南下して、各所でライブを行い、その観客動員数合計が1万人を下回ったら離婚しなければならない。 期間は3ヶ月、10月から始まったから、今月までということになる。 今週の放送までに、動員数合計は5000人前後だったと思う。 残されたライブはあと2回ということだった。 今週の放送では、鳥取市でライブをやっていたから、あと島根と山口か。 といって、この二つの県で5000人を集めるほどの大都市はないし。 いったいどうするんだろう? 玄界灘も日本海ということで、福岡まで足を伸ばすのか? と思っていたところに、ニュースが入ってきた。 バイトの甘栗ちゃんが、「昨日、小倉で“ウクレレえいじ”を見た」と言うのだ。 葉津紀さんと二人で、チラシを配っていたらしい。 下関だけだと心もとないので、100万都市北九州を狙ったか? で、最後のライブは1月1日午後10時から、場所は下関の「海峡夢広場」ということだった。 おそらく、電波・雷波の特番の中でやるのだろう。
しかし下関か、行ってみたい気もするなあ。 この企画が始まった時から応援していたし。 葉津紀さん、きれいだし。 うーん、行きたいなあ。 でも、そこに行くと、テレビでこの中継が見れんしなあ。 悩むところである。
親戚から「今日パソコンを購入したので、いろいろ教えてほしい」との連絡があった。 ぼくが教えられることといえば、インターネットのつなぎ方ぐらいしかないが、とりあえず「行ってみよう」と言うことになった。 家に行ってみると、もはやパソコンは設置してあり、電話回線も午前中にNTTの人が来て、つないで帰ったらしい。 「別に教えることはないやん」と思っていると、「『ハリー・ポッターと賢者の石』のCD−ROMが見たいんだけど、“QuickTime Player”がないと見れない、と書いてある。どうにか見れるようにしてくれ」と言う。 それで、それをダウンロードして、インストールした。 ぼくがやった作業としてはそれだけだった。 あとは、メールの送受信の仕方や、検索の仕方などを教えた。
あ、今日はそういう話をするんじゃなかった。 今日の話は、犬の話です。 その家は、ミニダックスを飼っている。 ぼくが親戚の家に着き、その家の玄関の扉を開くと、突然「ワンワン」というご挨拶がきた。 かなり気の弱い犬のようだ。 後ずさりしながら吼えている。 いっときの間、彼はぼくを警戒している様子だった。
その後、ぼくがパソコンの作業を終えた頃に、彼はフォローにやってきた。 尻尾を振り、ぼくの足や股間を嗅ぎまわり、手や顔を舐めてきた。 ぼくが寝転ぶと、この白髪頭まで舐め回していた。 「ぼくの白髪はおいしいんだろうか?」などと思いながら、しばらく彼のしたいようにさせていた。 すると、彼はぼくを気に入ったのか、ぼくが帰るまでぼくのそばから離れようとしなかった。 トイレに行けば、トイレに付いてくる。 何と、トイレをノックまでしている。 「ぼくのどこが気に入ったんだろう?」と思っていると、彼はぼくの手を顎で、自分の体の下に持っていった。 「わかった!トキコさんだ」(エッセイ「トキコさんは48歳」参照) 彼はぼくの腕に前足を巻きつけ、腰を振ろうとしていたのだ。 そこでぼくは、彼の要求を受け入れないことにした。 手を後ろに持っていき、もう片方の手で、頭を軽く叩いてやった。 ぼくに拒否された彼は、寂しそうに自分の股間を舐めていた。
しかし、彼は懲りない。 何度も何度もやってくる。 ぼくが腕で体を支えて座っていると、腕をめがけてやってくる。 ひざを立てて寝ていると、ひざをめがけてやってくる。 そのつどぼくは、腕を引っ込めたり、ひざを伸ばしたりして対応した。 彼は、ぼくに拒否されるたびに、例の股間舐めを始める。 ぼくが帰る間際まで、彼はこの作業を繰り返していた。 そして、ぼくが帰る時彼は、靴を履くぼくの姿を恨めしそうに眺めていた。
ということで、ぼくは今日は犯されずにすんだわけだ。 帰りの車の中で思った。 「あほやのう、犬は」
「正当防衛射撃」 こんな間抜けな日本語は聞いたことがない。 あまりに解説めいた事務的な言葉である。 というより、ダサい。 それに、自分たちで編集したビデオに、わざわざこんな下手なタイトルをつけていること自体おかしい。 まさか彼らは、この言葉に酔っているのではないだろうか? こんな間抜けなネーミングしか出来ないのなら、「射撃!」とか「応戦中」とかにしておけばいいじゃないか。 もしくは、それに見合った言葉を民間から公募しろ。 全国には公募マニアといわれる人が腐るほどいるのだから、ネーミングはそういう暇な人たちに任せて、海上保安庁は職務に専念しろ。 まったく、くだらん言葉を作りやがって、「新聞」や「経済」といった後世に残る新語を、続々と作りだした祖先に対し、恥ずかしいとは思わないのだろうか?
「田代まさし」 テレビで活躍していた頃の田代を、面白いと思った人はいるだろうか? ギャグのセンスはヤクルトの高津以下である。 まあ、高津の場合は本職じゃないので許されるが、歌を捨てた田代は人を笑わせることを本職として選んだじゃないか。 くだらん駄洒落ばかり言いやがって、そのクラスの人間ならうちの会社にもたくさんおるわい。 と、ぼくは思っていた。 しかし、それは大きな間違いだった。 こいつほど面白い男はいなかった。 次から次に、いろんな事件を起こしてくれる。 そのつどワイドショーは、時間を割き田代の特集をやる。 某テレビ局は、その特集の中で、学者を登場させ、田代の顔の表情や行動を分析させていた。 その学者は、散々ひどいことを言っていたが、あげくに「彼は性的不能者でしょう」とまで言うしまつだった。 これには笑ってしまった。 会ったこともない人から、「性的不能者」呼ばわりされるほど面白い奴だったのか、田代は!
「しかし、ここまで来ると田代も終わりだ」 と思っていたら、意外なところで彼は蘇った。 その場所は、あの米誌「TIME」であった。 なんと「今年の人」のオンライン投票で、1位に輝いたのだ。 もちろん日本人の組織票だったらしいが、あのビンラディンに大差をつけての、堂々の1位だったらしい。 こういったことも、田代の面白さがさせる業であろう。 「もっと田代の面白い余罪を探してくれんかなあ」と思うしだいである。
「サッチー逮捕」 ワイドショーでサッチーの特集をやるたびに、いつも気になる人が出てくる。 フルネームは忘れたが、元南海ホークスマネージャーのS氏である。 以前、「サッチーVSミッチー」の時に、突然この人が出てきて、「克ちゃん、目を覚ませ」とか「克ちゃん、帰って来い」などと言って泣いていたのが不思議でならなかった。 野村前監督の前妻正子さんのことも、涙ながらに語っていたが、「結局この人は、正子さんのことが好きじゃなかったのか?」とぼくは思いながら見ていた。 今回「サッチー逮捕」の時も、S氏は登場していた。 あの頃よりは少し老けたように感じたが、杉浦節は健在であった。 しかも、まだ泣いていた。 この間、南海時代の野村前監督とS氏の2ショットの写真を、テレビで紹介していたが、ただの男二人の写真には見えなかった。 何か、ちがった世界があるように見えたのだ。 それが愛情だったのか、嫉妬だったのかはわからないが。
2001年12月23日(日) |
昨日のニュースを見て |
久しぶりに胸がすく思いがした。 昨日の奄美沖の事件のことである。 おそらく真珠湾攻撃のニュースを聴いた日本人も、こんな気持ちだったのかもしれない。 昨日からのニュースを、ぼくは食い入るように見ていた。 この調子で尖閣諸島の中国の調査船や、竹島の韓国船も射撃してやればいいのに。 わがままな国にはこの方法が一番だろう。
調べたわけではないので何とも言えないが、国がやった船に対する射撃というのは、おそらく大東亜戦争以来じゃないのか? そうであれば、昨日の事件は歴史的なことである。 かつての世界に冠する海軍国の片鱗は残っていたわけだ。 海上自衛隊も「今中国海軍と戦っても負けない」と言っているし、海に対する守りはまだまだ捨てたもんじゃない。
しかし、どうして政府やマスコミは「正当防衛」にこだわるのだろうか? そんな次元の低い問題じゃないだろう。 国にとっての一大事なんだから、どちらが先に撃ったとかいうのとは違う話だ。 「不法に侵入して来たから撃った」、それですむじゃないか。 それに相手が先に発砲しなくても、この場合の正当防衛は成り立つはずだ。 なぜなら「侵入」という攻撃を受けたのだから。 もし家に誰かが侵入してきたら、相手からの攻撃を受けない限り、こちらは黙って見ているだろうか? よっぽど気が弱い人でもないかぎり、こちらから攻撃を仕掛けるはずだ。 戦後の日本はこういうことを避けてきたので、危機管理の何たるかがわからなくなってしまった。 だから正当防衛などという、個人レベルの話にすりかわってしまうのだろう。
10年ほど前、社員旅行で沖縄に行った時の話である。 仲間と本島北部をドライブをしていたのだが、道に迷ってしまった。 気がつくと目の前に嘉手納の米軍基地があった。 あそこでUターンさせてもらおうと、車を進めていたら、突然門のところにいた兵隊が、こちらに銃を向けた。 慌ててハンドルを切り、手前でUターンしたので撃たれなくてすんだのだが。 あの時、もしぼくらが撃たれて殺されたとしても、何も文句は言えなかっただろう。 なぜなら、理由はどうであれ、侵入者になるのだから。 アメリカだけに限らず、他の国はそこまでやるのだ。
大東亜戦争後、近隣諸国、つまり東アジアの国々は、日本をなめ続けてきた。 これを機会に、毅然とした態度を取り戻して欲しいものである。
午後8時20分、いつものように会社を出たぼくは、今日も寄り道をせずまっすぐ家路を急いだ。 朝方時折雪に変わった雨も午後にはやみ、今夜は星もはっきりと見えた。 スペースワールドの観覧車のネオンは今日もきれいだ。 平日に比べると、あまり飛ばしている車も見当たらないし、べた付けしてくる車もない。 などと考えていると、毎週楽しみにしているラジオ番組が始まった。
土曜日の夜は、KBCラジオの「ポピュラーベスト10」という番組を聴きながら帰っている。 この番組は30年以上も前からやっている番組で、以前は日曜日の午後にやっていた。 ぼくがこの番組を最初に聴いたのは、小学5年の時だった。 当時は「タッチ・ミー」・「ホワイト・ルーム」・「ヘイ・ジュード」などが ベストテンに入っていた。 本格的に聴きいたのは、中学から高校卒業くらいまでだった。 思いつくままいえば、「愛するハーモニー」・「マイ・スィート・ロード」・「魔法」・「遥かなる影」・「サインはピース」・「ビートでジャンプ」・「喜びの世界」・「イマジン」・「明日にかける橋」・「アローン・アゲイン」・「ブラック・アンド・ホワイト」・「名前のない馬」・「愛するアンサー」・「秋はひとりぼっち」・「サムデイ・ネバー・カムズ」・「幸せの黄色いリボン」・「スタンド・バイ・ミー(J・レノン)」・「太陽を背に受けて」・「天使のささやき」・「歌にたくして」・「キラー・クイーン」・・・などなど。 懐かしいなあ。 しかし、高校を卒業してからは、興味が他に移っていったため、あまりその番組を聴くことはなくなった。
そういえば79年の年末のこと、「ポピュラーベスト10」の拡大版として、「70年代のポピュラーベスト100」というのをやっていた。 アルバイトの合間に聴いていたのだが、1位は「ホテル・カリフォルニア」だった。 まあ、これはうなずけたものの、意外だったのは2位が「レット・イット・ビー」だったことだ。 「なぜこの歌が入ってるだろう?」というちょっとした驚きがあった。 確かにこの曲は70年に発売されたものではあるが、79年当時にはもうスタンダードナンバーになっていたため、70年代という新鮮さを欠いていたと思う。 作ったのは69年というのはあまりにも有名な話だし。 ぼくがこの曲を好きじゃないというのもある。 いろいろな意味で、ぼくはいまだにこの曲を70年代の第2位として認めていない。 などと考えながら黒崎を通過した。
今日は毎日渋滞する黒崎駅前も比較的すいていたようだ。 「今日は早く着くぞ」と思い、3号線を右折して市道に入った。 ところが、2つ目の信号のところで渋滞しているのだ。 前の車が次々とウインカーを上げ、右車線に入ろうとしている。 「事故か?それとも故障車か?」と思いながら、ぼくも前に習ってウインカーを上げた。 そして20メートルほど行ったところでわかりました。原因が。 年末になるといるんですね、こんな馬鹿が。 はい、酔っ払いです。 ほとんどバイパスといっていい車道で、スーツ姿のおっさんが片手を振り回し、ふらふらしながら立小便をしている。 あの調子だと、ズボンはびしょ濡れだろう。 いい歳して何やっているんだろう。 女房子供もいるんだろうに。 帰ってから奥さんに何と言い訳するんだろうか? 子供の前でズボンを脱がされ、パンツ一枚で正座させられるんじゃないのだろうか?情けない。 などと考えているうちに家に着いたのだった。
最近休みの日は、家でごろごろしているか、本屋に行くかのどちらかである。 今日は雨にもかかわらず、JRに乗って本屋に行った。 JRといっても遠くへ行くのではなく、次の駅(黒崎、約2分の距離)までである。 車で行っても、渋滞さえなければ5分しかかからないのだが、休みは歩くことを重視しているので、約10分間の駅までの道のりをいつも歩いている。 それに駐車料金などを考えると、車で行くよりはJRで行ったほうが安くつくという利点もあるのだ。
午後一時の電車に乗ったのだが、今日は学生が非常に多かった。 「今日は平日なのにおかしいなあ?今日は学校行事で半ドンか?」などと思っていた。 約2分後、電車は駅に着いた。 学生たちもぞろぞろ降りてくる。 そして、互いに「よいお年を」などと言い合っている。 「え?今日は終業式か?まだ21日じゃないか!」 しかしよく考えてみると、明日22日は第4土曜日、23日は祝日、24日は振り替え休日だ。 「なるほど、それで今日が終業式というわけか」と一通り納得したところで、今度は怒りがこみ上げてきた。 「おれたちの頃、一日早く終業式をしたのは24日が日曜日の時だけだったのに、なんだこの差は!ゲームとカラオケしか知らんガキどもに、休みなんか増やしてやる必要があるか!宿題を倍にしろ!」と、けっこう本気になって一人で怒っていた。 ぼくは怒ると顔が赤くなるたちなので、周りにいた人は「なんだ、この人は!急に顔を真っ赤にして。危ない人かも知れん。近寄らんどこ」などと思っていたかもしれない。
しかし、最近の子供は優遇されているよなあ。 休みはぼくたちの頃よりずっと増えているし、物は満ち溢れているし。 「ここまで過保護にしなくてもいいのに」と思うことがよくある。 例えば、先生から体罰を受けたらクレームをつける親。 子供の言い分だけしか聞かず、一方的に学校が悪いと決めつけ、非があっても「うちの子がそんなことをするはずがない。うちではとってもいい子なのに」とやる。 あほか!お前が「いい子」と思っているから「悪い子」なのだ。
過保護の最たるものが「人権」と言ってもいいだろう。 何かあれば、すぐに「子供の人権」などというわけのわからないことを言う。 万引きしたガキまでが、悪びれず「人権蹂躙」などとほざく。 だいたい人権というのは、人身売買される子供を守ろうということが発端になっているのだ。 犯罪を犯した子供をかばうためのものでも、制服を着なくていいようにするためのものでもない。 犯罪を犯したら、ちゃんと社会のルールどおりに相応の刑を受けさせなければならない。 万引きも立派な犯罪なのだから、窃盗犯として処罰してもらいたいものだ。 「たかが万引きぐらいで」などと軽く扱うから、大きな犯罪も平然と行うようになるのだ。 制服は最初から学校で決められていたルールであり、その子にだけ当てはめたものではなのだから、「着てこない」などというのは、当然その子のわがままに過ぎない。 そういうことを許していたら、思慮のないガキのことだから図に乗るばかりだ。 それが子供の成長や自立のため、などと思っていたら大間違いだ。 あほな大人が後ろで知恵をつけているだけの話じゃないか。
だいたいなあ、・・・ ・・・・・ ああ、また顔が赤くなってきた。 このままだと眠れなくなりそうだ。 ということで、今日はここまで。
毎日、毎日、毎日、クリスマスソングが鳴っている。 いささかうんざり状態である。 「他人の誕生日を賛美して、何がいったい楽しいんだろうか」と、つい愚痴をこぼしてみたくもなる。
しかし、世の中どうしてこうクリスマスソングだらけなのか。 欧米ならクリスマスといえば国民行事ということになるのだから、「みなさん、そろそろクリスマスですよ。準備は出来てますか?」という意味での、宗教的な盛り上げ効果になるのだろうが、日本の場合は少し勝手が違っている。 日本のクリスマスというのは、「クリスマス商戦」という言葉が示すとおり、すべてが商売に結びついていると言っても過言ではない。 そのためクリスマスソングにしても、売らんがための安易な歌が多い。 なぜクリスマスは恋人と過ごしたり、ふられたりしなければならないのか? クリスマスは一人静かにマンガを読んでいてもいいじゃないか! ゆっくり風呂につかっててもいいじゃないか! 結局は、マンガを読んだり風呂につかったりする歌は売れないから、すぐに色恋に走ってしまう。 つまり売れ筋分析を充分にやっているということだ。 そしていつしか「クリスマスソングを作って一発当てよう」プロジェクトみたいなのが出来、いかにも「らしい」言葉を使い、曲をパクり、安易なクリスマス商戦の歌が世に送り出される。 しょせんクリスマス商戦のための商品に過ぎない。 到底、達郎は超えられないだろう。
さて、J−POPのクリスマスソングは腐るほどあるが、日本人の手によって作られた童謡や唱歌のクリスマスソングというのは聞いたことがない。 クリスマスの定番である「ジングルベル」や「きよしこの夜」などは、どれも輸入品である。 逆に日本の伝統行事である正月は、童謡唱歌では歌われているが、J−POPの歌が見当たらない。 「ひとりぼっちの初詣」とか、「あなたのキスがお年玉」とか、「一枚の年賀状」とか、「三ヶ日は休ませて」などという歌があってもよさそうなものである。 なぜ、J−POPは正月を無視するのかなあ? たしか、お盆の歌は演歌にあったような気がする。 「盆と正月が・・・」という言葉もあるくらいだから、対等に扱わないとバチがあたるだろう。
そういえば、同じ国民行事なのに、童謡唱歌やJ−POPから完全に無視されているものもある。 お彼岸である。 彼岸花をあつかった歌はあるが、これはお彼岸とは関係がない。 もしお彼岸の歌があったとしたら、 「こんにちは。お彼岸の中日、どうお過ごしでしょうか? 今日はお彼岸の歌特集でお楽しみ下さい。 まず最初の曲は『雨のお墓で』、2曲目は『先祖に告げた恋』。 2曲続けてお送りします」 と、こんな特集をやるラジオ番組もあるだろう。
成人の日も、桃の節句も、端午の節句も、J−POPは完全に無視している。 欧米人のお祝いを賛美する歌ばかり作らないで、少しは日本の行事にも目を向けたらどうだ?
この日記は、だいたい午後11時を過ぎてから書き始める。 つまり、食事を終えてから書き始めるのである。 ぼくの食事というのは、お酒の時間である。 お酒が入っているということは、少しは酔いも回っているということである。 酔いが回るというのは、眠たいということである。 そう、日記の書き始めはいつも睡魔との闘いなのである。 この酔いが醒める頃に、やっと脳が活動しだす。 そして、日記の構想が出来てくる。 それから書くのだから、当然日記が遅くなる。 こうやって講釈を垂れているのも、つまりは酔いが醒めてないからである。 脳の動きが活発ではなく、今日の日記の構想が出来てない証拠である。
さて、昨日タバコのことを書いたので、今日はお酒でいくことにします。 ぼくとお酒の付き合いは、タバコの比ではなく、もう43年になる。 伝え聞いた話によれば、1歳の頃親父の晩酌の日本酒を取り上げ、2合空けたということだ。 その伝説(?)から、「おれは酒が強いんだ」という錯覚が始まる。 小学1年の時、お盆で来たお客さんのビールの残りを飲みまくり、気がついたら3本近く飲んでいた。 それでも平然としていたので、親戚一同から「血は争えんのう」と言われた。 小学3年生の時、親戚の結婚式で名古屋に行った。 その帰りの汽車の中でビールを6本開けた。 他の乗客がぼくを見て唖然としていたが、気にせずマンガを読んでいた。 小学6年生の時、家の中で空中回転の練習をしていた。 のどが渇いたので、冷蔵庫の中を覗いてみると、カクテルが冷やしてあった。 他にジュースなどなかったので、ぼくはそのカクテルを一気飲みした。 そしてまた空中回転の練習をしたのだが、効いた。 トイレに駆け込み、何度も戻した。 酒を飲んで吐いたのは、これが初めてだった。 ここからぼくは酒が弱くなってくる。
ぼくが晩酌を始めたのは高校2年からである。 東京にいた2年間を除いて、25年間晩酌をやっていることになる。 うちの親は、タバコには目くじらを立てていたが、お酒に関しては寛容だった。(これは今でもそうである。タバコを吸っていると、今でも嫌な顔をされる) 晩酌も、最初はビールだったが、徐々に日本酒や洋酒に変わっていった。 高校3年の時は主に日本酒を飲んでいた。 予備校時代はウィスキーのお湯割りだった。 東京から戻ってきてからは、バーボンやブランデーなどを口にするようになった。 その後、紹興酒、泡盛、地酒などを経て、今の黒砂糖焼酎に至る。 よく「どの酒が一番おいしいか?」などと聞かれるが、どの酒も飲むほどに味が出てくるので、「これが一番!」とは言い難いものである。
ところで、今ぼくは「おれは酒が強いんだ」などとは思っていない。 「酒が強い」というのが錯覚だったとわかったのは、社会に出てからだった。 世の中には酒の強い人が山ほどいる。 ボトル2本をストレートで空けて平気な人。 ビールを毎日1ダース空ける人。 一升瓶を一気に空ける人。 こんな人たちを目の当たりにしたら、「おれは酒が強い!」なんて自慢は出来ない。 彼らから見れば、ぼくなんかはヒヨッ子である。
40歳を過ぎてから、酒がだんだん弱くなっているのを感じる。 最近は二日酔いすることはないのだが、宴会などで飲むと、決まってその日は寝るまで頭が痛い。 そこまで深酒はしてないつもりだが、晩酌よりも量が多いのは否めない。 しかし、量が多いと言ったて、たかだか3〜5合程度である。 10年ほど前なら、そのあと仕事をしても平気だったのに。 体が酒を拒むようになったのかなあ?
おかしいなあ。 今日はまだ酒が抜けていない。 結局、脳は活動しないままだった。
いかん! またタバコの量が増えている。 ぼくは、だいたい一日一箱のペースでタバコを吸っている。 しかし、休みの日には手持ちぶさたのせいなのか、パソコンに向かっている時のストレスのせいなのか、ついつい手がタバコに行ってしまい、その倍の本数を吸ってしまう。 なぜ一日一箱と決めているのかというと、もちろん健康によくないということもあるのだが、給料日に一ヵ月分のタバコ(つまり30箱)をまとめて買っているので、一日一箱のペースを守らないと、追徴金を払わなければならなくなってしまうからだ。 今のように切り詰めた生活をしていると、追徴金の精神的なダメージは大きい。
ぼくがタバコを吸い始めてから、もう30年近くになる。 最初に吸ったのは高校2年の時だった。 「朝日」というフィルターなしのタバコで、当時一番強いタバコだった。 吸うと急にのどが痒くなり、気分が悪くなった。 それでも続けて吸っていると、ニコチンが舌に滴り落ちてくる。 「これは体に悪いや」と思い、その後「朝日」を口にすることはなかった。 その次が「ハイライト」だった。 その頃、「ハイライト エキスポート」という25本入りのお徳用が売っていた。 金がない高校生にはうってつけの代物だったが、これも比較的強いタバコで、初心者向きではなかった。 最終的に定着したのは「セブンスター」だった。 人気といい、軽さといい、当時としてはぼくにとって最高のタバコだった。 しかし、当時このタバコを手に入れるのは至難の業だった。 もちろん高校生には売ってくれないということもあったが、当時の「セブンスター」は異常な人気商品で、慢性的な品薄状態だった。 ぼくの誕生日に友人がこの「セブンスター」をどこからか手に入れてきて、ぼくにプレゼントしてくれたことがある。 その時の嬉しさは、今もなお忘れていない。 しかし、その時期の喫煙というのは、俗に言う「若気の至り」というやつで、本気においしいと思って吸っていたわけではなかった。 言い換えれば「カッコつけ」だったわけだ。 そのことを悟ってから、ぼくはタバコを吸うことをやめた。
ぼくが本格的にタバコを吸うのは、19歳後半からであった。 ちょうど「マイルドセブン」が発売になった時期である。 バイト先でなんとなく口寂しさを覚え、仲間からタバコをもらったことに始まった。 その頃は2日に一箱のペースだったが、徐々にその間隔が狭まり、東京在住の頃、現在のような日に一箱のペースになった。 タバコも徐々に軽いものに変わっていった。 「マイルドセブン・ライト」が発売になってから、すぐにそれに変えた。 出端はタバコセンターにしか売ってなかったので、ぼくは仕事の途中に抜け出して、自転車に乗って買いに行っていた。 「マイルドセブン・スーパーライト」が発売になった時もそうだった。 とにかく「マイルドセブン」系の新種が出れば、すぐに飛びついていった。 で、今は「マイルドセブン・スーパーライト・ボックス」を吸っている。 おそらくこの先もこの路線のタバコを選んでいくだろう。
さて、19歳から現在までずっとタバコを吸い続けているのかといえば、そうではなく、ちゃんと禁煙した時期もあったのだ。 しかし、よく人が言う「おれは禁煙するぞ!」という意志からではなくて、「これ以上吸いきらん」という体からのメッセージを悟っての決断だった。 その時は、タバコをくわえることでさえ体が拒んだのだ。 吸っても吸っても、タバコをおいしいとは感じられなかった。 それを悟ってから、ぼくは2年間タバコを吸わなかった。 しかし、そのためにストレスがたまるようなことはなかったし、太るようなことはなかった。 きっとその時期は、運命がタバコを避けさせたのだろう。 2年後、「禁煙はたやすいもの」という自信を得たぼくは、再びタバコを口にした。 そして今に至っている。
話は最初に戻るが、月に最低8回ある休みのたびに、2箱も吸ってしまうということは、2000円以上の出費になってしまうということだ。 給料前の2000円の出費は実に痛い。 どうにかしてこの状況を打破しないといけない。 といっても、現在体はタバコを拒んでないので、禁煙という作戦をとるわけにもいかない。 無理に禁煙をやったところで、結果は目に見えている。 タバコを吸う時間を守るという方法もあるが、出来ないことは始めからしない主義だ。 飴玉などでごまかすということも考えられるが、あとでデブとか糖尿という余計なおまけが付いてくる。 さて、どうしたものだろうか。
夕方のことだった。 取引先の人と話していた時、前をアベックが通り過ぎて行った。 その直後、鼻を突く嫌な臭いがしてきた。 香水の匂いである。 女性のほうがつけているようだった。 ぼくはあの匂いがだめなのである。
予備校に通っていた頃の話だが、よく昼食をラーメン屋でとっていた。 ある日のこと、いつものようにラーメンが来るのを待っていると、ラーメンの出汁の匂いのはざ間に、香水の匂いがしてくるではないか。 よく見ると、カウンターにブランド物で着飾った厚化粧のおばさんが座っている。 匂いの元はこのおばさんであった。 この時、ぼくと一緒にラーメン屋に行っていた者は、みんな不快な顔をしていた。 ぼくたちは、小声で「ラーメンを食いに来るのに香水をつけてくるな!」と言い合っていた。 しばらくしてラーメンが運ばれてきたが、ぼくはもうその頃には香水の匂いに酔ってしまっていて、ラーメンを食うどころではなかった。 ちょっとは箸をつけたが、ほとんど食べずに店を出た。 その後、現在に至るまでそのラーメン屋には足を運んでないのは言うまでもない。 そこからぼくの香水嫌いは始まった。
だいたい香水というのは、よく知られているように、西洋の女性の体臭隠しのために作られたものである。 一説によれば、おしっこの臭いもこれで隠していたそうである。 つまり香水とは、その匂いで体臭を中和させ、他人に嫌な思いをさせないための小道具である。 西洋人に比べ体臭の少ない日本人が、それをつけるというのは、嫌味以外の何ものでもない。 香水が中和すべき対象を持たない場合、その匂いというのは新たな体臭を作る。 この理がわからないのだろうか? それともわかっていてしているのだろうか? もしも香水の匂いが個性だと思っているのなら、それは大きな勘違いである。 匂いに個性はあっても、その匂いはその人ではないからだ。
日本には昔から匂い袋というものがあるが、それは匂いを発散させるものではなく、ほのかに香るように忍ばせるものだ。 ほのかに香る匂いといえば、風呂上り女性のほのかに香る石鹸の香り、これほど男心をくすぐるものはない。 ほのかに香る匂いの中にこそ、本当の女の色気があるのではないだろうか? それは女の「粋さ」と言ってもいいだろう。 ぼくは香水によって作られた匂いの中に、色気というものをまったく感じない。 これから出会う女性の方たち、せめてぼくの前に現れる時は、香水をつけてこないで下さいませ。
今日はさすがに忙しかった。 年末商戦の真っ只中である。 ここ数年感じていることがある。 それは、お客の質が年々悪くなっていることだ。 店を選ぶのはお客の自由であるので、こちらとしては何も言えないが、常識知らずのお客が増えているのには閉口してしまう。 今日もいましたねえ、質の悪いお客さんが。
「店の中で痰を吐くな!」 ぼくと同じような白髪頭の中年男性が、ぼくの売場で「がーっ、ぺっ」とやったのだ。 身なりはきちんとしていたので、こちらとしては何も言わなかった。 しかし、ハンカチかティッシュぐらいは用意して来い。 いったい、小学校で何を勉強してきたんだ!? あんたたちの学校では、検査しなかったのか? 爪、ハンカチ、ちり紙は常識だろが! もし忘れて来たのなら、トイレでも行って吐いてくるのが普通だろう。 もう一度小学校に行って勉強しなおして来い!
「大声で怒鳴るな!」 相変わらず、わけのわからないクレームをつけてくる人がいる。 「さっき電話した時はあるといったじゃないか!?」 「確かにお客さんが電話された時にはありましたよ。でも、あれから何時間たってますか?お客さんはこちらに『確保してくれ』と言いましたか?」 「じゃあ、何でさっきあると言ったんだ!わざわざここまで来たのに」 こちらは理の通ったことを言っているのだ。 結局はあんたのわがままでしょう? 自分の意見が通らないくらいで目くじらを立てるなよ。 ないものはないのだ。 小さな子が、「あれ買ってー」と言って駄々をこねているのとなんら変わらない。 恥ずかしいとは思わないのか。 もっと、社会人としての自覚を持てよ。 いい大人が往来で自分の主張をするもんじゃない。 大声を出すことで、あんたの主張が通ると思ったら大間違いだ。
「寝るな!」 休憩所のベンチでおっさんが横になって寝ている。 あほか、お前は! 常識で考えろ! ここはお前の家か!? ほかのお客さんの迷惑も考えろ! 眠たいのなら、こんなところに来ないで、ぼくみたいに家でじっとしてろ!
「先客優先」 接客をしていると、横から割り込んで話しかけてくる人がいる。 『見たらわかるでしょ?こちらは遊んでいるわけではないんですよ。ちゃんとお客さんの相手をしているんですよ。あんただけがお客さんじゃないんですよ。終わったらちゃんと相手をしてやるから待ってなさい』 ほんと声に出して言いたいですよ。 接客の基本は「先客優先」。 自分が接客を受けている時に、横から割り込んで話しかけてくる人がいたら、 あんたは嫌でしょうが。 そのお客さんだって嫌なんですよ。 孔子も言っているでしょう。 「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と。 よくこの言葉を吟味しなさい!
あと半月年末商戦は続く。 その後は初売りが待っている。 こちらとしては、至らないかもしれないが、出来る範囲でお客さんの気分を損ねないように細心の注意を払っているわけだから、お客さんの側も最低のルールやマナーくらいは守ってもらいたいものである。
久しぶりに土曜日の休みだった。 昨日の日記を書いた後、更新作業をやっていたので、寝たのは朝の4時を過ぎていた。 いつものように「昼まで寝るぞ!」と意気込んで寝たのはいいが、いつものように8時にセットしている携帯のアラーム(ラジオ体操の音楽)に起こされた。 しばらくネットでニュースなどを見ていたが、10時ごろに眠気がさしてきたので、また布団にもぐった。 途中何度か目が覚めて、「今何時か?」と時間を確認しては、また眠りに着いた。 結局目が覚めたのは、午後2時を過ぎていた。
食事を済ましてから、「さて、灯油でも買いに行こうか」などと思ってはみたが、なんとなく気が乗らない。 パソコンショップにも本屋にも行く気がしない。 とにかく今日は外に出るのがおっくうなのだ。 パソコンの前に座るも、もはややることがない。 テレビのスイッチを入れてみたが、土曜の午後というのは日曜の午後と同じく、あまりいい番組をやっていない。 録りだめしているビデオも見る気がしない。 以前読んだ本を読み返してもみたが、結末がわかっているせいか、30分もたてば読み飽きてしまう。 仕方なく、また布団の中にもぐりこんだ。
これで一日が終わってしまった。 目が覚めると、もはや外は真っ暗になっていた。 腰は痛くなるし、肩は凝るし、足はふらついている。 これでは半病人になるために休みを取っているようなものだ。
要は休みの過ごし方が下手なのだろう。 断片的に寝るから熟睡が出来ない。したがって疲れが取れない。 疲れが取れないから、何をする気も起こらない。 ひげも剃らなければ、歯も磨かない。 トイレに行くタイミングさえ狂ってしまう。 あれもこれも、しなくてはならないことはたくさんあるのだが、「今日は時間がたっぷりある」という錯覚が、すべてを後回しにしてしまう。 ということで日記もこんな時間に書いている。 さらに疲れがたまっていく。 完全に悪循環だ。
「休み下手」のことを以前人に語ったことがあるのだが、「仕方ないよ。もう歳なんだから」で片付けられた。 しかし、こういうことまでが「歳のせいだ」とはぼくは思わない。 なぜなら、こういう休みの過ごし方を20年以上も続けてきたからだ。 ということは、今日の疲れは20年以上の重みがあるということになる。
20年以上蓄積された疲れというのは、いったいどうやったら取れるのだろう? 適度な運動と睡眠がいいとはよく言うが、その「適度」というのはいったいどの程度のものだろうか? ぼくが体にいいと言われる運動をやると、必ずと言っていいほど筋を痛める。 きっと「適度」の度を越えているからなのだろう。 「適度」に睡眠をとろうとしても、今日のような中途半端なただ寝るだけの状態になってしまう。 適度、適度、適度・・・、誰か「適度」を教えて下さい。
2001年12月14日(金) |
朝日新聞の世論調査の一員に選ばれた |
会社から帰って、久しぶりに郵便受けを開けてみた。 1週間ほど取ってないので、けっこうたまっていた。 中身は相変わらず、チラシの類やDMが多かった。 「保険に入って下さい」「お金を借りて下さい(消費者金融系)」「美容院の割引券」「寿司屋開店。出前いたします」などなど。 こんなチラシがたくさん入っていた。 一方DMのほうは、こちらも負けずに「お金を借りて下さい(銀行・信販会社系)」が多い。銀行からのDMには、なんと「お見積書」まで付いていた。 「上得意様セール(百貨店・専門店)」や「作務衣を買ってくれ」というDMもあった。
その中にひとつ驚いたはがきが入っていた。 あの朝日新聞からだった。 「世論調査のお知らせ」と書いてあった。 「全国から3000人の方をランダムに選ばせていただき、世論調査を行っています」という内容のものだった。 「9日か10日に、アルバイトを使って実施いたしますので、ご協力お願いいたします」とあった。が、もう過ぎている。 これは残念なことをしましたなあ。 朝日の悪口を言ってやるチャンスだったのに。 最後に「これ以外の日がご希望の方はご連絡下さい」と書いてあったが、そこまでする必要もないだろう。
しかし、新聞を取っているわけでもないのに、なぜぼくのところに世論調査を言ってくるのだろう? 販売店に同級生がいるのだが、差出人は「朝日新聞西部本社」となっているので、関係はないだろう。 ということは、「ASAHIネット」がらみか? しかし良心的な「ASAHIネット」が、個人の情報を教えるようなことをするだろうか? 他に朝日関連といえば、フリーメールの「clubA&A」があった。 そうか、あそこならやりかねんなあ。 「列島ニュースメール」というメルマガも購読しているし。 あとでちょっと調べてみるか。
ところで何の世論調査だろうか? “賛成か反対を聞く”と書いてあったので、おそらくは「小泉首相の支持率」とか「アフガニスタン情勢について」とか「経済はどうなるのか」などといった内容だろう。 例の円グラフに、「賛成」「反対」「どちらでもない」と書いてあるあれである。 それに協力したら、ぼくもその何パーセントの一人になるのだろう。
「住所や名前は出しません」と書いていたが、当たり前じゃないか。 3000人もの住所や名前を出していたら、一面つぶれてしまう。 別に「○○高等学校の創立○年記念にお名前を載せませんか?」というものじゃないんだから、そんなことは断らなくてもわかっている。 まあ、ランダムに回答者を選ぶわけだから、中には「世論調査に協力したのに、おれの住所と名前が載ってないじゃないか!」とクレームつける人もいるのだろう。 おそらく実際にそういうことがあったから、わざわざわかりきったことを書いているのだと思う。 これは電化製品の取扱説明書でも同じことが言える。 ずっと以前に日記にも書いた、日立の全自動洗濯機の「作動中の洗濯機の下に、手や足を入れないで下さい」という説明書きも、「手を入れる奴はおるかもしれんけど、足を入れる奴はおらんやろう」とは思うが、書いてあるくらいだから実際に足を入れて「おおごと」になった人がいるのかもしれない。 そう考えてみると、新聞の3面記事よりも、電化製品などの取扱説明書に書いてある「使用上の注意」を読んだほうが笑えるかもしれない。 「こんなこと書いてるくらいだから、やった奴がおるんやろう。馬鹿やのう」と思えば充分に笑える。
日記のネタを提供してくれるとは、さすが天下の朝日である。 敬意を込めてこのはがきは捨てさせてもらいます。
“いつのまにかの静けさがぼくに 淡い恋心を落としていった 思いもかけないことのように 君を好きになっていた” (しろげしんた「初恋」より)
今日、本を読んでいたら、読者の初恋のページがあった。 何気なく読んでいたのだが、そこに書かれていたのは、「幼稚園にいっしょに通っっていた子」「小学校の頃、隣の席に座っていた子」「私は遅かった。20歳の頃、いっしょにバイトしていた人」などという、いつものお決まりパターンだった。 しかし、初恋にはけっこう個人差があるものだ。
「ぼくの初恋はいつなんだろう?」と思うことがよくある。 保育園の頃、ぼくがよくスカートをまくっていた子か? 詳しく覚えてはいないが、あの頃好きな女の子のスカートをまくるというのが流行っていた。 中には先生のスカートをまくった馬鹿もした。 おそらくそのノリで、ぼくはスカートまくりをやっていたのだ思うのだが、はたしてそれは初恋だったのか?
小学校1年の頃に初めてキスをした子か? 1年生の頃は教室の掃除を4年生がやってくれていた。 ぼくは4年生にけっこう知り合いが多かったせいか、よくからかわれていた。 その当時、ぼくの隣の席はYちゃんという子が座っていた。 家が近くだったこともあり、仲がよかった。 ある日、Yちゃんとしゃべっていた時に4年生に捉まった。 「おい、しんた。お前こいつと仲がいいのう。好きなんか?」 「うん」 「好きならキスしてみ」 「いや」 「本当は好きやないんやろう。好きならキスぐらい出来るはずやけどのう」 「好きと言いよるやろ」 「じゃあ、キスせ」 「わかった!」 と、ぼくはYちゃんとキスをした。 Yちゃんは目を閉じていた。 しかし、それでYちゃんと気まずくなるようなことはなかった。 よくいっしょに遊んだものだった。 1年の途中でYちゃんは転校してしまった。 別にその時に寂しさなんかなかったと思う。 意地でやった初キス、はたしてそれは初恋だったのか?
同じく2年の頃、隣の席に座っていた子か? この子とは、同じクラスの子のあだ名を付けたり、うんこの話で盛り上がったりした。 よく家に遊びに行ったりもした。 しかしそれだけの付き合いだった。 これは初恋とは言えないだろう。
3年の頃、同じクラスになんとなく気になる子がいた。 Kという名前だった。 席が近くだったこともあり、すぐに仲良くなった。 その頃「お嫁においで」という歌が流行ったせいか、よく友だち同士で「おれはあいつをお嫁さんにする」などと言っていた。 「しんた、お前は誰と結婚するんか?」と聞かれると、いつも「おれはKがいい」と言っていた。 ついにはそれを家まで持ち込み、「おれ将来Kと結婚する」と言った。 しかし、はたしてそれを初恋と言うのか?
中学に入って、同じクラスに他の小学校から来た子がいた。 ぼくはこの子とは最初から馬が合い、よくしゃべっていた。 2年になってクラスが変わり、それから悶々とした日が続いた。 確かにこれは恋と言えるだろう。 しかし、これが初恋だったと言えるのか?
さて、どれを初恋と呼んだらいいのだろうか? いつも悩むところである。 将来自叙伝を書いてくれという依頼があったとする。 その時、もし編集者から「初恋のことは特に詳しく書いてください」という注文がついたら、「いくつか初恋と思われるのがあって、その中のどれが本当の初恋かわからない」と書くしかないだろう。 よく「初恋の想い出は美しいもの」などと言うが、ぼくには上のどれも美しいと思ったことはない。 まあ、楽しかったと思っている程度だ。 本当に美しいと思ったのは、高校に入って、ある人と出会ってからの想い出だ。 しかし、それはもう初恋とは呼べないだろう。
“ぼくの初恋はいたずら好きの風が 落としていったおかしな夢 思いもかけないことのように 君を忘れていた” (同上)
今日、小学5,6年の時の担任の先生の夢を見た。 「T先生お久しぶりです」 「ああ、しんた君じゃないね。どうしたの?その頭」 「ははは、いろいろ苦労しまして」 「まあ、あなたのことだから楽しくやってるんだろうね」 「ところで先生。何年か前にうわさで聞いたんですけど、先生は生徒に対してかなり厳しくなったらしいですね」 「おそらく、今の子供たちは厳しいと受け取るんだろうね。あなたたちの頃と何も変わってないよ」 そうだろう。 ぼくたちの頃は、先生に叩かれたりしても、「自分が悪かったんだ」という反省の心があった。 親に言っても、「あんたが悪いけ、先生に叩かれるんよ」と逆に叱られていた。 それが普通だった。 最近は「私は別に体罰が悪いとは思っていません」などと前置きしてから、さんざん先生に文句を言う親が増えていると聞く。 文句を言われる先生も先生だ。 「自分は教師である」という自覚が足りないのだろう。 変な組合に入って政治活動などをする前に、もっと自分を磨くべきだろう。
T先生は敬虔なクリスチャンだった。 生徒には教師という誇りと慈愛を持って、真剣に接してくれた。 おそらく今の子供たちは、そんな先生の本質を見抜けずに、ただ厳しい先生としか写らないのだろう。
変な空を見た。 東側は雲ひとつない青空、西側は青空ひとつない曇天、と真っ二つに分かれていた。 まるで青空の半分に綿を敷き詰めているように見えた。 この空を見た時ぼくは、めったに拝めない現象が見ることが出来たので、「何かいいことあるぞ」と喜んでいた。 ところが夕方の天気予報で、この空を見た人から「これは地震の予兆ではないか?」という問い合わせが、気象台に相次いであったと言っていた。 まったく逆の受け取り方をしている。 ということは、ぼくは「おめでたい奴」なんだろう。
実はこの現象は、温暖前線の最先端の雲が、線上にそろって入ってきたために起きたもので、いい兆しでも、地震の予兆でもないそうである。 昔は日食になると、「この世の終わり」とか「不吉なことが起こる」と言っていたらしいが、これだけ科学の発達した現代でも、尋常でない自然現象を見ると、つい良いことや悪いことを考えてしまう。 科学の著しい発達に、人間はついていけないのかなあ。 少なくともぼくは、前時代の人間であろう。
今日は一日パソコンの前に座ってHPのリニューアルをしていた。 何とか日記のサイトは出来上がったが、肝心のトップがまだまだである。 なるべく早いうちに完成させたいと思っているが、あまりにごたごたしているので、どこから手をつけていいのかがわからない。
だいたいぼくは昔から、掃除や整理というのが大嫌いであった。 小学生の頃、掃除の時間といえば雑巾を振り回して壁を汚していた。 おかげでトイレの掃除に回されたことがある。 その当時、まだトイレは水洗ではなく、かなり臭い中での掃除だった。 しかしぼくがやったことは、ホースでトイレの中を水浸しにすることだけだった。 小学校では「整理整頓」ということを口やかましく言われた。 しかし、ぼくの机の中には、カビの生えた給食のパンの残りや、溶けたマーガリン、ノートや試験の答案用紙などが所狭しと入っており、さながらゴミ箱状態であった。 先生はよく抜き打ちで机の中の検査をしたが、ぼくに対するコメントはいつも無言、そして拳骨だった。
東京にいた頃、ぼくは新宿区の下宿屋に住んでいた。 こういう性格なので、一人暮らしをすればどういう状態になるかは想像がつくと思う。 6畳の部屋だったが、布団を敷く場所がなかった。 もちろん、脱ぎっぱなしの服や下着や靴下、炭素化した残飯、カップラーメンの空きカップ、新聞、本、ノート、ティッシュなどなどが部屋の中に散乱していた。 特に下着や靴下は洗濯もせずに放っておいたので、若干臭かった。 いよいよ替えがなくなると、ごみの中から取り出して臭いを嗅ぎ、「これは1回しか着用してない」と判断したものを履いていた。 他にも、出し忘れのごみが、ビニール袋に入ったまま何週間も置き去りになっていた。 したがって、寝床はドラえもんと同じく押入れの中だった。 ある日、ぼくの留守中に東京ガスの人が点検にやってきた。 その時大家さんが立ち会ったのだが、ぼくが帰ってくると大家さんがやってきて、「今日ガスの点検に来たよ。点検の人が言ってたんだけど、『私も東京中の下宿に行くが、この部屋ほど汚いところはなかった』と言ってたよ」と言った。 大家さんは暗に「部屋を片付けれ」と言っていたのだろうが、ぼくは「はあ、そうでしたか」と気にも留めなかった。
今はさすがにそこまできたない生活はしてない。 が、一人の場である車の中は、かなり汚い。 いつのものかわからないお菓子類が残っている。 また、洗車もぜんぜんしないので、ガソリンを入れに行くと、決まって「そろそろ洗車されませんか?」と言われる。 最初は『あいつら商売やけ』と思っていたが、友人から「そうではない!」と言われた。
もうひとつ、ぼくの被害にあっている物がある。 キーボードである。 こうやって日記を書いている最中にも、お茶をこぼしたり、タバコの灰を落と したりしている。 黒くなっているところはおそらくカビだろう。 モニターもヤニでかなりやられているだろう。 本体には綿ぼこリガたくさん着いている。 これで壊れないのがおかしいくらいだ。
まあ、以上のような性格でございますからして、あのゴミダメのようなトップがいつ整理されるのかは謎です。 あまり、楽しみにしないで待っていて下さい。
気がつけばもう年末という季節に入っている。 昆虫の話をしていたのが、つい昨日のことのように感じる。 さして変わりのない一年だった。 変わったことといえば、HPを立ち上げ、毎日日記に苦しんでいることくらいだ。 そのせいで、「しんたの健康神話」が崩れつつあることも否めない。 幸い病院のお世話になることからは逃れているが、いつ病院に飛び込んでもおかしくない状況にあるのは確かだ。 ここに来ておかしくなった鼻は、まだ治らないでいる。 小鼻の出来物はとうとうかさぶたになり、その状態がもう1週間続いている。 鏡で見ると本当に間抜け顔だ。 おそらくは前歯が一本抜けた間抜け顔と同等だろう。
さて、年末といえば、いろいろなお客がやってくる時期でもある。 この間も日記に書いたが、変なクレームをつけてくるおっさんなどは、そのいい例であろう。 今日も現れました。その手のお客が。 夕方のこと、突然盗難防止の警報が鳴り出した。 従業員は慌てて現場に駆けつけるのであるが、ぼくが駆けつけた時は、まだ女子従業員が一人いただけで、犯人を捜している最中だった。 周りには2,3人の中学生がいたので、「こいつらか?」と思い、まだ盗難品についている警報アラームの音のありかを探した。 しかし、音の出所は、この子達ではなかった。 そのそばに、体格のいい50代の男性がいた。 ぼくがその男に目を向けると、その男は慌てるでもなく、別の店に入っていこうとした。 ぼくはその後ろにべったりとついて、音の確認をしているところに、他の男性従業員Iさんがやってきた。 そしてIさんが、「音が鳴ってますねえ。ポケットの中の物を出してもらえませんか?」と言うと、その男は方向を変え、2階に上がろうとした。 Iさんがその男の腕をつかみ「出して下さい」と言うと、男は手を振り払いながら「時間がない」などと言い出した。 ぼくはその男の後ろにぴったりくっつき、逃げ出せないようにガードしていたのだが、Iさんの手を振り払った時の男の力がかなり強かったので、『これは一戦交えんといかんかなあ』などと思い、少し身構えた。 するとその男は、「ここでは何だから、事務所に行こう」と従業員みたいなことを言い出した。 Iさんが腕をつかんだまま事務所に連れて行ったのだが、暴力を振るうかもしれないと思い、ぼくはそのまま男の後ろにくっついていた。
事務所に入ると男は、商品を取り出した。 口臭チェックの機械だった。 店長が「これを盗ったんですか?」と言うと、男は「この商品は学生から預かったものだ」と言った。 Iさんが「あの中学生ですか?」と聞くと、「いや、その学生はおれにこれを預けると、外に逃げて行った」と言った。 明らかに嘘だった。 仮に学生から預かったとしても、ポケットの中に入っていること自体がおかしい。 店長とIさんが残り、ぼくは売場に戻った。 売場に出ると、さっきの中学生がいた。 そこでぼくは「ぼくたち、さっきの人知っとる?」と聞いてみた。 中学生は「いえ知りません。ぼくたちは目撃者です」と言った。
結局、警察を呼んだらしい。 あとで店長がぼくのところに来て、「あの男、元暴力団の組員で、前科十何犯らしいよ」と言った。 どおりで力が強いはずだ。 もし戦っていたらどうなっていたことか。 警察の人が男に、「お前、他に何も持ってないやろうの」と凶器の確認をしたらしい。 男は何も持っていなかったらしいが、あの手の人はそのへんの物を凶器にすることぐらいわけない。 ぼくがいくら柔道をやっていたといっても、柔道は組む格闘技である。 相手が凶器を持った時に通用するかどうかはわからない。 勝つにしろ、少しは痛い目を味あわなければならなかっただろう。 そんなことを考えている時だった。 店長が、真剣な顔をして言った。 「しんちゃん、命は大切にせんと」 ぼくの心を読んでいたのだろうか? 年末はまだまだ続く。
2001年12月09日(日) |
真珠湾攻撃から60年 |
真珠湾攻撃からもう60年がたつ。 アメリカのメディアでは、相変わらず「同時多発テロ」と「真珠湾攻撃」の比較報道が行われているようだ。 何度も言っているが、「同時多発テロ」は文字通り「テロ」なのであり、正規の戦争だった「真珠湾攻撃」とはその発想も質も違う。 そのへんを彼らはわかってないのだ。 いや、わかろうとしないのだ。 アメリカ人的な捉え方をすれば、「東京大空襲」と「地下鉄サリン事件」は同じものである、ということになるじゃないか。 もし、日本のメディアがこういう報道をしたとすれば、アメリカはさっそく抗議をしてくるに違いない。
なぜ彼らは、先の戦争をこういうふうにしか捉えられないのだろうか? ぼくはそれをアメリカの医療ミスのせいだと思っている。 当時アメリカは日本を「悪性の腫瘍」だと思っていたのだ。 つまり彼らにとって日本とは、アジア進出を邪魔する「腫瘍」だったのだ。 それも悪性の。 別に日本としてはアメリカに敵対しようとは思ってなかった。 しかし、アメリカは自分たちの都合で診断した「悪性の腫瘍」を切除しようと望み、そのための準備を綿密に行った。 「腫瘍」を切除することで、彼らは健康を取り戻せると思っていたのだ。 執ように「腫瘍」を刺激し、ついに手術は始まった。 3年半以上に及ぶ大手術だった。 結果はご存知の通り、大成功だった。 そして彼らは、その患部に2度と再発しないように薬を投与した。 そのおかげで、今のところは再発は認められない。
しかし、それは大いなる誤診だったのだ。 というのは、「悪性」だとばかり思っていた日本は、実は「良性」だったのだ。 「悪性」は他のところにあった。 その「悪性」をけん制していた「良性」を切り取ったことで、「腫瘍」のバランスは完全に崩れ、ついに「悪性腫瘍」の進行は早まった。 「悪性腫瘍」、そう「共産主義」である。 この人類史上最悪のカルト思想は、地球の半分を席巻した。 その治療にアメリカは50年の歳月を費やした。 しかしそれは、いまだ根絶したわけではない。 かつて彼らが健康の根源だと思っていた地域、つまり中国に巣食ってしまった「悪性腫瘍」はなかなか治療できないでいる。 さらに困ったことに、かつては「良性腫瘍」だった日本にも、「悪性腫瘍」が飛び火してしまっている。 これらの「悪性腫瘍」たちは、時にアメリカと同調するから始末が悪い。 そんな中、今また新たな「腫瘍」と戦わなければならない。 このために、彼らの健康は脅かされるばかりだ。
彼らは気づいているのだ。 戦前の日本こそが、アメリカが頼れる本当の意味のパートナーだということを。 当時日本ほど人種差別撤廃を訴え、アジア諸国の独立を思い、共産主義と真剣に取り組んでいる国はなかった。 もしそんな日本にアジアを任せていたら、朝鮮動乱も、ベトナム戦争も起こることはなかっただろう。 中東問題にしても、まったく違った形のものになっていただろう。 今のアジア情勢は、すべておせっかいな白人介入が招いたものだ。 アメリカは「すべては誤りだった。もしここに、戦前の日本があったらこんな状況にはならなかっただろうに」と潜在的には思っているだろう。 しかし、彼らのプライドはその過ちを認めようとはしない。 それを認めることは、アメリカの全歴史を否定することになるからだ。 だから、彼らは今でも日本を悪人にするのだ。 つまり、後悔を隠すための強がりである。
午前中、「ストーブの火が上がらない」とお客から電話が入った。 女の子が電話を受けたのだが、うちの店で2年前に買ったものらしい。 お客は女の子にいろいろ悪態をつき、「あんまり使ってないのに壊れるなんて欠陥商品じゃないのか」と言い出したので、「メーカーに連絡して対処させてもらいます」と言って電話を切った。 さっそくメーカーにFAXで修理の依頼をしたが、数分してメーカーから電話が入った。 「お客さんのところに電話したのですが、どうも不良灯油を使っていたようです。それで芯がだめになったんでしょう。お客さんに修理代が6000円ほどかかりますと言ったら、『そんなにかかるのなら新しいのを買う』と言って切られました」ということだった。 とりあえずは解決したので、そのことを忘れていた。
すると午後になって、そのお客から電話が入った。 またしてもその女の子が受けたのだが、「さっき電話したものだけど6000円も取るとはどういうことか」などと難癖をつけてきた。 最後には「責任者と代われ!」言い出した。 そこでぼくと電話を代わった。
「話は聞いたやろ。どうしてくれるんか!?」 かなり酔っているようだ。 ぼくは「『どうしてくれるんか』と言われましても、メーカーさんがそう言うのなら、こちらとしてはそれ以上のことは言えません」と言った。 「お前の店は、2年でだめになるような商品を売っとるんか!?おれはこのストーブを触ったことがないんぞ」 「じゃあ、2年間全然使ってないんですか?」 「・・・いや、去年使った」 「じゃあ、触ってるじゃないですか」 「でも、だめになったやないか。お前の店なんかで買うんやなんかった」 「どこで買っても、不良灯油なんか使ったらだめになりますよ」 「何で不良灯油を使ったらだめになるようなストーブを作るんか!?」 「それはメーカーさんに言って下さい。こちらも迷惑してるんですから」 「もういい。ストーブを持って来い!新しいのを買うけ。そのかわりちゃんと迷惑料は差し引いとけよ」 「じゃあ、こちらに来て選んで下さい。あとでまた欠陥だの何だの言われたら困りますから。それと今は売出し中ですから、迷惑料を差し引かんでも安くなっています」 「うちにストーブが2台あっても困る。どうするんか!」 「いらないなら引き取りますよ。1000円で」 「この上まだ金を取るんか!おれは、お前の所の店長を知っとるんぞ。家に来たこともあるし」
この話を聞いて思い出した。 このお客は、以前も悪くもないストーブのことで難癖をつけてきた人だった。 そういえば、その時も酒を飲んでいた。 そこで、「○○町の××さんですよねえ。ちゃんと覚えてますよ。あの時もいろいろ文句言ってきたでしょうが」とちょっと凄んで言ってみた。 すると相手の態度が急に変わった。 「ああ、そうでしたか。いや、メーカーから6000円と言われたので、ちょっと頭に来てたもんで」 「買うんですか、どうするんですか?」 「いや、何かいい方法はありませんかねえ」 「じゃあ、こちらで芯の交換しましょうか?2000円ぐらいで収まりますけど」 「じゃあ、今日取りに来てくれますか?」 「今日持って帰っても、すぐには芯がありません。火は点くんですか?」 「ああ、ちゃんと点いてます」 「点いてる?じゃあ故障じゃないじゃないですか」 「・・・いや、いい時と悪い時があって・・・」 「まあ、とにかく芯が入ったら換えましょう」 「お願いします」
いちおうこれで収まったようだ。 その後は電話はかからなかった。 しかし、問題は芯が入荷した時である。 今日以上に酔っていて、「寒いけ、1時間以内に修理して持ってこい!」などと言い出したら、また電話口でけんかになる。 逆に、その時はしらふで、「いや、そんな電話はしていませんよ。ストーブは調子がいいです」などと言い出したらどうしよう。芯の返品はきかないし。 どちらにしても、もう一波乱ありそうである。
「今日は二十四節気の一つ“大雪”です」とニュースで何度も言っていた。 今日は昼から銀行に行ったのだが、普段より少し寒く感じた。 いよいよ冬だ。ぼくの一番嫌いな季節がやってきた。 とはいえ、ここ数年の12月は、まだ秋の延長という感じでそこまで寒くならない。 少なくとも、ぼくが高校の頃は12月になるとけっこう雪が降っていた。 当時友人と「寒さを我慢する」という意地の張り合いをよくやっていた。 靴下を履いて行かなかったり、学生服の下に何も着て行かなかったり、とにかく馬鹿なことをよくやっていた。 おかげで風邪もよく引いたものだ。 しかし、今はたまに半袖で過ごせる日もあるし、靴下を履いていると暑く感じることもある。 今日はともかく、数日前はそういう気候だった。
だんだん日本も亜熱帯化しているのかなあ。 寒くないということでいえばそのほうがいいけど、もしそうなれば、梅の花がほころぶ頃の、あのほのかな暖かさを味わえなくなる。 その時期に太宰府などの梅の名所に行って、熱燗をちびちびやるのは格別なものがある。 まあ、この楽しみを知ったので、その季節が好きになったというのもあるが。
また、沈丁花の香りも楽しめなくなる。 あの香りがすると、何かホッとするものがある。 やっと冬が終わった時の喜びといったらない。 こういう喜びも、厳しい寒さに耐えてきたからこそ味わえるものなのだろう。
もし年中真夏だったら、そんな喜びは到底味わえないだろう。 毎日毎日体温にも似た気温の中では、「梅一輪 一輪ほどのあたたかさ(嵐雪)」などという俳句は生まれないだろうし、「夜の秋」といった風情ある季語も生まれてこないだろう。 言い換えれば、日本の文化は四季によって生まれたと言ってもいいだろう。 冬がなかったら、当然雪は降らないから、「合掌造り」の必要もなく、世界遺産がひとつ減っていたことになるだろう。 北斎の画も季節抜きでは生きてこない。 万葉集も古今集も、季節なしでは語れない。 俳句にいたっては、もし季節がなければ、そのほとんどが川柳になっていただろう。 年中夏なら、おでんも生まれなかっただろうし、鍋料理もなかっただろう。 燗をつけて飲むこともなかっただろう。 当然寒造りの新酒は飲めないことになる。これは一大事だ。 四季がはっきりしているからこそ日本は素晴らしい!
しかし、そうは言っても、やはり寒いのは嫌いだ。
それにしても眠たい。 あまりに眠たいので、ちょっと寝てから日記を書こうと思って、さっき少し横になってみたのだが、やはり日記のことが気になっている。 なんと、ネタを探す夢を見たのだ。 それでもいいネタは見つからず、「今日も寝られんのう」と思っているところで目が覚めてしまった。 結局睡眠時間は15分間だった。 今日も寝られんのう・・・。
今日ラジオで夢の話をしていた。 ある人が「砂浜にお金がたくさん落ちている夢とか、龍が昇る夢を見た時、家を建てたりいろいろいいことが重なった。逆に落ちる夢などを見た時には離婚したりしてあまりいいことがなかった」と話していた。 そんなもんか。 ぼくはそんなに人生を暗示するような夢を見たことがないので、何かうらやましく思った。 むかし、家に生えていた木が突然龍に化けた夢を見たことがある。 夢の中で「これは縁起がいい」と思い、龍のうろこをはぎ取って食べた。が、いいことなんて一つもなかった。
その夢を見たのは、長い浪人生活の真っ最中だった。 その時期はいいことが全然なかったので、かなり縁起や占いに頼っていた部分もあった。 夢判断という本に「いいことがある」と書かれた夢を見た時は、さらに「奇門遁甲」という占いで吉の方角を占い、出かけたりした。 しかし、それが吉と出たことはなかった。
結局夢というのは、その時一番気にしていることを視覚化したものだと思う。 例えば、陽が差し込んで「何か暑いなあ」と無意識に思っていると、“暑い”→“夏”→“海”という一連の連想で、「よく晴れた夏の日に港を歩いている」夢を見たりするのだ。 さらにその夢を見ている最中に、外から子供たちの声が聞こえてきたりすれば、この夢が海水浴のシーンに急に飛んだりするのだろう。 まあ、ぼくの見る夢というのは、だいたいこんなものだ。 先の龍の夢だって、その当時三国志に凝っていたから見ただけじゃないだろうか。 諸葛孔明は「臥龍」だったから。
ぼくが見るような夢もあれば、最初に書いたような夢もある。 また、予知夢というのもある。 以前ある本に、海で遭難した人の奥さんの話が載っていた。 それは、その奥さんが見たという夢の話だった。 その夢の中の会話が紹介されていたが、 「あなた、いつ帰ってくるの?」 「○月×日だよ」 はたして、その○月×日にそのご主人が見つかったという。 結構最近の話なので、覚えている人もいると思うが、ぼくはこれを読んだ時、「やはり予知夢というのはあるんだ」と感動したものだった。 こういう方面に憧れのあるぼくは、その記事を読んでから1ヶ月間ほど「予知夢を見るぞ!」と意気込んで寝ていた。 結局予知夢を見ることは出来なかったが、その間、夢を見ることは出来た。
鼻のほうはようやくかさぶたができて、回復に向かっているようだ。 昨日まで鼻の通りもよくなかったが、それも今日鼻の中でむずむずしていたものが塊となって取れたので、何かすっきりした。 「これで全快だ!」と言いたいところだが、ちょっと昨日自信をなくすことがあった。 実は昨日の日記を書いたあと、急に酔いが回ってきて、頭がガンガンしてきたのだ。 「そんなに飲んだわけでもないのにどうしたんだ? ひょっとして酒が弱くなったんかなあ」などと思って落ち込んでしまった。 「最近体調が良くないしのう」と無理に思おうとしたが、結局は体の衰えに思考が走る。 まあ、頭痛のほうは一晩寝たら治ったのだが、おそらく今後一升空けることは不可能だろう。 昨日は家に帰っても飲んだのだが、正味五合でこの低落だった。
昨日酒の上での失敗談を書いたが、別にぼくばかりが迷惑をかけまわっていたわけではない。 酔ってない時はちゃんと酔った人の介抱もしていた。 例えば高校2年の頃、柔道部の打ち上げで部員の一人が酔ってしまって、突然いなくなった。 校内を探していたら、写真部から聞き慣れた声がしてきた。 「ああ、ここにいた」と部室に入っていくと、なんと彼はそこで写真部の子を口説いている真っ最中であった。 それにしても何か変だ。 そして急に「東京弁でしゃべるよ」と言い出した。 『これはいかん』と思ったぼくは、彼を写真部から連れ出し、保健室に連れて行った。 保健室についたとたん彼は「気分が悪い」と言い出し、「洗面器ー」と言い出した。 保健室の先生が洗面器を用意し、「あんたクラブの責任者なんやけ、ちゃんと介抱してやらな」とそれをぼくに渡した。 しかたなく両手で洗面器を持ち、彼を吐かせた。 ぼくは顔を背けていたが、洗面器から伝わってくる温もりと、その時吐いた食べ物(あえて書きません)の臭いは今でも忘れない。
東京にいた頃の話である。 ある日、KTという友人とKSという友人とぼくの3人で新宿に飲みに行った。 その帰りのことだ。 その日ぼくはKTのアパートがある千葉に泊まる予定にしていた。 一方のKSは途中の新小岩でおり家に帰る予定だった。 ところが、KSが錦糸町に着く頃突然「気分が悪い」と言い出し、途中でホームに降りた。 吐く様子はなかったが、夜風にあてて酔いを醒まそうということになった。 30分もいただろうか、場内放送で「まもなく電車が入ります。この電車は最終津田沼行きです」と言いだした。 ぼくはKTに「次最終やんか。それも津田沼までしか行かんぞ。どうするか?」と言った。 「歩いて帰るか」とKTは言った。 冗談じゃない。KTが住んでいたのは千葉市内“稲毛”であった。 ぼくが「おまえ、電車でも結構時間がかかるのに、歩いたら何時間かかると思っとるんか」と言うと、KTは「そりゃそうだ」と言う。 「とにかく津田沼まで行こう。で、KSはどうする? このまま新小岩で降ろすわけもいかんし」 すると、KSは「おれは平気だよ。ちゃんと帰れるよ」と言い出した。 「大丈夫か?」と聞くと、「うん」と言いながらKSは立ち上がったが、そのままこけた。 仕方がないので、KSもKTの家に泊めることにした。
津田沼に着き、そこから3人のお金を寄せ集め、稲毛までタクシーで行くことにした。 タクシーの中でついに恐れていたことが起こった。 KSが「吐きそう」と言い出したのだ。 ぼくは「運転手さん、停めてください」と言って、KSを外に連れ出し吐かせた。 KSが「もう大丈夫」と言ったので、またタクシーに乗った。 しばらく時間がたってから、KSが「また吐きそう」と言い出した。 そこでぼくはまた「運転手さん」と言うと、運転手は「ここでは停められないよ」と言った。 といってKSを吐かせるわけにはいかない。 車の中で吐くと、あとが厄介だ。 「どうしよう?」と思った挙句、ぼくは着ていたトレーナーを脱ぎ、「おい、ここに吐け」とKSにトレーナーを渡した。 KSは躊躇しながらも、トレーナーに向かって思いっきり吐いてくれた。 その後は落ち着いたのか、KSのアパートまで何とか吐かずに行った。 もちろん、そのトレーナーは通りのごみ箱に捨てたが、その夜の寒かったことといったらなかった。 翌日ぼくはしっかり風邪を引いた。
ということで昨日と今日の日記は、人生持ちつ持たれつという話でございました。
今日は会社の忘年会だった。 会社の近くの寿司屋でやったのだが、休みの日にわざわざ出て行くのはつらいことである。 いっそ鼻不調を理由に行くまいかとも思ったが、結局行ってしまった。 しかし宴会というのは疲れる。 ぼくは座ったら動かないほうなのだが、「もう来るな!」と言いたくなるほどお酌をしにくる。 注されたらむげに断ることも出来ず、少し飲んでは注いでもらっていた。 ぼくは別にお酒が弱いほうではないので、少々飲んでも酔うようなことはないのだが、今日は珍しく計算しながら飲んでいた。 最近の体調不良を気にしていたこともあったし、JRの時間も気にしていたというのもあったのだが、何よりも気にしていたのは、この日記を書かなければならないということだった。 酔って家に帰ると、当然寝てしまう。 そうなれば、「とりあえず一年間、毎日欠かさずに日記をつける」という目標が崩れてしまう。 お開きになってから人目を避け、さっさと帰ったので、今こうやって書いているのである。(ちなみに帰り着いたのは午後10時30分だった)
さて宴会のほうだが、いまだに「イッキ」などやっている人もいれば、カラオケに命をかけている人もいる。 特に“カラオケ命”の人は、「この日のために練習したのではないのか?」と思わせるほど歌い込んでいるのがわかる。 しかし、宴会の時に前に出て歌うメンバーは、いつも決まっている。 たまには他の人の歌も聴きたいのだが、そうなると自分に回ってくる恐れもあるので、あえてそういうことは言わないようにしている。
ぼくは社会に出てからは、「騒がず、目立たず」をモットーに宴会に臨むようにしている。 ぼくが調子に乗ると「誰も手をつけられない状態になる」というのを過去の経験で自覚しているからだ。
経験その1 予備校にいた頃、黒崎の焼肉屋で高校の同窓会があった。 その時はぼくが幹事をしていたのだが、一人で酔いまくって、わざわざ隣の部屋に入って行き、そこで宴会やっている人の前で吐いた、らしい。 二次会で喫茶店に行ったのだが、一人でピンクレディの「ペッパー警部」を踊っていた、らしい。
経験その2 東京にいた頃、コンパではしゃぎすぎて、あげくに新宿歌舞伎町の「喫茶マイアミ」のふかふかのじゅうたんの上に吐きまくり、周りの人に迷惑をかけたことがある、らしい。
経験その3 その帰りに西武新宿線で「高田馬場はまだかー」と一人で大騒ぎしていた、らしい。
経験その4 さらに、あまりに酔っていたので下宿の大家から締め出しを食らい、仕方なく相模原の友人の家に泊まることになったのだが、そこに行く途中、満員の小田急線の中でも大声で「吐くぞー」とか「押すなー!パンツがズレルやろうが」などと怒鳴っていた、らしい。
こういうことが一度や二度ではなかった、らしい。 後日こういうことを友人に知らされ、「宴会ではあまりはしゃがんようにしよう」と思うに至った。 それから、つまり社会に出てからは、こういう間違いも起きなくなった。 宴会の時は実に大人しいものだ。 宴会中によく思うことがある。 「社会に出る前も、本当は大人しかったんじゃないのか?」と。 それだと面白くないので、友だちが勝手に面白おかしくでっち上げているだけではないだろうか? そうでないと、社会に出てからの宴会中のぼくの大人しさの説明はつかないだろう。 きっとそうなんだ! ・・・そういうことにしておこう。
NHKの大河ドラマ「北条時宗」は来週が最終回である。 昨日が元寇(弘安の役)だった。 このドラマに関しては、方々から「時宗はそんなやわな男じゃない!」とか「これではまるで戦後民主主義で育ったリーダー像じゃないか」などという批判が多い。 ぼくはこのドラマは文永の役から見だしたので、このドラマに関しての詳しいことはわからない。 しかし、一点だけこのドラマに文句をつけたいことがある。 それは方言だ。 九州の武将のセリフのほとんどは九州弁でやっている。 「〜たい」とか「なんば言いよっとか」などであるが、その中にこの時代に絶対使ってはいけない言葉がある。 それは「ばってん」である。 「ばってん」とは、北原白秋も言っているが、オランダ訛りなのである。 時宗の時代は13世紀、オランダ人が長崎にやってくるのは3世紀以上も後のことだから、当然その当時には使われてない言葉である。 風俗や衣装や鎌倉武士の考え方など、十分に考証した上でNHKはこのドラマに臨んだのだろうが、思わぬところに落とし穴があった。
さて、その「ばってん」であるが、英語にすれば「BUT」となる。 おそらくこの言葉は、その当時の西洋かぶれ野郎が使っていたのが、九州全域に広まっていったものだろう。 つまり、九州の方言というよりは、九州の流行語だったわけだ。 ということは、今日発表された流行語大賞の「ブロードバンド」や「ショー・ザ・フラッグ」などと同等の言葉だったということである。 みんなが方言と思っているから廃れないで残っているが、今年流行った言葉だとしたら、2,3年後には、 「え?“ばってん”?、お前古いねえ。それはもう死語やん。いつの時代の人ね」 などと言ってからかわれるようになっていただろう。
そういえば、九州のタレントに「ばってん荒川」という人がいるが、これも考えようによっては「トータス松本」や「ジャニー喜多川」といった「外国語+苗字」のネーミングと同じものだ。 もし江戸時代に「ばってん荒川」などと名乗っていたら、「なん艶つけとうとや!」となっただろう。 今だから許される名前なのだ。 ということは、何世紀か後に「ブロードバンド鈴木」とか「ショー・ザ・フラッグ田中」などという人が現れるかもしれない。
外国語+名前、ぼくも何か考えてみようかなあ・・・ 「ホワイト げしんた」
ようやくエッセイ集をまとめました。 以前の「筋向いの人たち」と、「日記頑張る40代!」から抜粋したものを、ジャンル別に分け、「エッセイ集 日庵」というタイトルをつけました。 面倒なので、あまり補筆などはしてないが、二つあるものを一つにしたり、余計な文章は極力省くようにはしたつもりです。 まあ、以前からあったものなので、「なーんか、これか」と思う人もいるかもしれないが、こうやって並べ替えてみたら新鮮かな、と思って一応作ってみました。 今後はここに書き下ろしなどを書いていこうと思っています。
昨日の午後2時過ぎ、テレビで突然「新宮さま御誕生」の特番が始まった。 そこでさっそく、ぼくは以前から興味のあったことを調べてみた。 この特番をやってない局探しである。 やっていたのは、NHK・衛星第2・日テレ系・テレ朝系・TBS系・フジ系。 やっていなかったのは、NHK教育・衛星第1、そしてやはりやってなかったテレビ東京系。 NHKは4つのチャンネルで似たような番組をやる必要はないと理由だろう。これは納得がいく。 さて、テレビ東京系。ここは以前小泉首相の靖国参拝の時も中継せずに「レディス4」をやっていた。 昨日はなんと競馬やっていました。 先日「番組をパクられた」と大TBSにインネンを吹っかけていたが、ここは他局から真似されるのも、自局が真似するのも嫌なんだろう。
今日の朝刊は、俗に右翼系と言われる「読売」や「産経」はもちろんのこと、あの左翼系で中国や韓国や北朝鮮が好きな「朝日」でさえ一面トップは「御誕生」だった。当然「朝日」寄りの「毎日」もそうだった。 さて、「しんぶん赤旗」はどうだったかというと、新聞を見てないのでなんとも言えないが、HPのトップ項目は“負けてたまるかリストラの職場で”となっている。 しかし、「ご誕生」の記事がないことはない。 何項目目か後に“雅子さんが女児出産”という記事が出ている。 「皇太子夫人の雅子さん(37)が東京・皇居内の宮内庁病院で女子を出産しました」である。 そこには「志位委員長のコメント」も出ていて、「マスコミの求めに応じて」という注釈付きで、「新しい生命の誕生は、ひとしく喜ばしいことです」とある。 相変わらず負け犬の遠吠えとしか思えない記事である。 「皇太子夫人の雅子さん」とはなんだろう? それなら、「志位委員長」などと書かくな!「志位さん」で充分じゃないか。 志位さんが「ひとしく」というのなら、ここは「皇太子妃雅子さま」と書くべきじゃないのか。 共産党は、こういう喜ばしいことが、国の経済を良くしていくという道理がわかってないのではないだろうか? 「御誕生」から「経済上向き」、そして「リストラ減少」となるのではないのだろうか? 労働者のためを思うのなら、「こういう喜ばしいことがあったのだから、当然経済も上向きになるだろう。それが一時的なものになるか、長期的なものになるかは、労働者諸君の頑張りいかんにかかっている。今がチャンスだ!頑張ってリストラのない世の中を作り上げていこう」ということを書くべきだろう。
ということで、この日記もいつかは「エッセイ集 日庵」に転載するだろう。
朝起きたら、鼻がいよいよひどくなっていた。 小鼻が真っ赤にただれているのだ。 鼻の中の出来物が、外に飛び火することなんて今までなかった。 耳鳴りがしている。偏頭痛がしている。のども相変わらず痛い。 「これは大変だ。このまま菌が脳に周り、廃人になったらどうしよう」などという思いが頭の中を駆け巡った。 「そうだ!こういう時は抗生物質に限る」と思ったぼくは、いつも抗生物質を常備しているパートさんから薬をもらい、昼食後に一錠飲んだ。
てきめんだった。 普段あまり薬を飲まないので、こういう時はよく効く。 なかなか腫れの引かなかった「ぐりぐり」が、かなり小さくなってきた。 耳鳴りや偏頭痛も治まった。 「よしこれで治る!」と確信したぼくは、もうこのことは気にしないようにした。
それが間違いだった。 ちょっと本を読んでいたぼくに、小さな虫が顔にまとわりついてきた。 「なんか、こいつは」と追い払っていると、親指の爪が、赤くただれている小鼻を引っかいた。 「!」、のた打ち回った。 血の混じった汁が、鼻から垂れてくる。 手が汚かったので、触るわけもいかない。 慌ててトイレに駆け込んで、手を洗い患部を洗った。 しばらく、ティッシュで患部を抑えていたら、血はおさまったようだが、痛みがひどくなってしまった。 仕方ないので、再びトイレに駆け込み、ティッシュを塗らして、しばらく患部を抑えていた。
帰る頃には痛みはかなり引いていたが、また「ぐりぐり」が腫れだした気がする。 家に帰ったからすぐに風呂に入り、患部を洗って薬を塗っておいた。 おかげで今は痛みもなく、日記を書くのに何の支障もきたしていない。 ただですねえ、こういう状態の時に絶対やってはならないことをやってしまったのです。 焼酎を二合ほど飲んでしまいました。 もう鼻なんかどうでもいいや!
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