頑張る40代!plus

2001年11月30日(金) 鼻が・・・

前から、鼻の中が乾燥しており、なんとなく痛かったのだが、気にせずに放っておいた。
ところが、数日前えらの下がなにか張っているのに気づいた。
「ぐりぐり」が出来ているのだ。
長引いたら面倒だ、ということで、とりあえず鼻の中にメンタムを塗りたくった。

2,3日したら治ると思っていたが、今朝起きてびっくりした。
なんと、鼻が腫れ上がっているではないか!
左の小鼻にできものが出来ているのだ。
時間がたっていくうちに、目が痛くなり、のどが痛くなり、耳がどうも変だ。
まるで風邪を引いた時のような状態である。
もしかしたら、昨日の頭痛もこれから来たのかもしれない。

今日はパソコンショップにハードディスクを買いに行こうと思っていたのだが、この鼻を見ると情けなくなり、今日は予定を変更して、ガソリンを入れに行っただけにとどまった。
まあ、パソコンショップは急いで行かなくてもよかったのだが、来月は忘年会も続けてあることだし、なるべく早く買って設置を終わらせておきたかった。
しかし、この鼻ではねえ。
それも片方だけが腫れているし、しかも、外は乾燥しているから呼吸をするだけでも痛い。

それにしても、鼻が脈を打っているという経験は初めてだ。
小さい頃から、よく汚い手で鼻をほじっていたので、「ぐりぐり」が出来るのはしょっちゅうだったのだが、脈を打つほどの痛みを覚えることはなかった。
成人してからも、鼻毛を抜いて、そこからばい菌が入り化膿することはあったが、脈は打たなかった。
ということは、今回は特別にひどいということなのだろう。
しかし、何度も言うようだが、病院には行きません。
ぼくは自分の治癒力を信じていますから。

それでは、治癒力を高めるために、今日は寝ることにします。



2001年11月29日(木) 頭痛

終日雨で頭が痛くなった。
頭が痛くなることは時々あるのだが、冷房の風に当たったりのぼせたりする以外の頭痛というのは、雨の日が断然多い。
低気圧と何らかの関係があるのだろうか?
雨の日に頭が痛くなった時はいつも、何層も重なった雲が脳を圧迫しているようなイメージを持っている。

さて、どんな痛みの時にも、ぼくは鎮痛剤を飲まないようにしている。
たいがい寝たら治るものだし、薬で胃を荒らされるのも嫌だ。
親知らずを抜いた時も、医者に「これを飲んで寝れ」と言われ渡された“とんぷく”を服用しなかった。
鈍い痛みが一晩中続いたが、ずっとこれに耐えていた。
それでも、いつの間にか眠っていて、起きた頃には痛みは引いていた。
歯医者に行き、医者から「ちゃんと“とんぷく”は飲んだかね?」と聞かれ、「いえ、飲んでません」と答えたら、「あの痛みによく耐えたねえ」と感心していた。
当然今日も、鎮痛剤を飲んでいない。
まあ、いくら痛くても、頭痛ぐらいで鎮痛剤を飲むわけにはいかない。
「痛みに強い」というプライドにかかわる。

ところで、むかしからぼくは頭痛の対処法を研究している。
首筋を揉む、背骨を矯正する、頭のつぼを押さえるなどいろいろやってみたが、一番効果があった方法は肉体と心を分離する方法だ。
これは、江戸時代の禅僧白隠の内観法を応用したもので、例えば風呂などに入ってリラックスした状態で、頭痛を客観視するのだ。
別に心が痛いわけではないので、これは比較的簡単に出来る。
痛みを「痛」という字に置き換えて、「痛」を心で眺めてみるのだ。
集中してやっていくうちに、あら不思議、頭痛が消えていくのがわかる。
頭が割れるような痛みには、比較的「痛」に置き換えやすいので有効である。
ただ、鈍い痛みの時は、痛みを客観視しにくいのであまり効果がない。
今は、この鈍い痛みになった時の対処法を模索しているところである。

同じ頭痛でも、飲みすぎた時の痛みは始末に終えない。
なかなか去ろうとしないのだ。
寝ている間も頭がガンガンする。
翌朝も、痛みは治まらない。
経験上、何か食べて短い時間でもいいから寝るとか、汗を流すとかするとだいたい治るのだが、それでも治らないことがある。
そのときは思い切って、胃の中のものをすべて出してしまうことだ。
全快とまではいかないけど、かなり頭痛からは解放される。

それにしても、今日の頭痛はしつこい。
実は今日の頭痛は、模索中であるところの鈍い痛みなのだ。
ああ、そうだった!
寝れば治るんだった。
じゃあ、寝ることにします。
おやすみなさい。



2001年11月28日(水) 居眠り

今日は早く日記を終わらせて、早く寝ることにしよう。

実は今日、午前3時まで日記を書いていたのがたたったらしく、売場でつい居眠りをしてしまった。
ところが、それをお客さんが見ていたらしく、ぼくに「あんたいいねえ。ここは居眠りする暇があるんやね」と皮肉を言ってきた。
ぼくはカッと目を見開いて、「いいえ、居眠りはしていません。目を瞑っていただけです」とゆっくりと悪びれずに答えた。
ぼくがあまりに堂々と言ったので、相手は「ああ、すいませんでした」と謝って立ち去って行った。

居眠りは得意だった。
小学生の時は、おしゃべりが忙しくて授業中に居眠りするようなことはなかったが、あまりしゃべらなくなった中学の頃は、しょっちゅう居眠りしていた。
そのつど見つかって叱られていたが、そのうち要領を得るようになり、いかにも授業を聞いているような寝方をマスターしていった。
右手でエンピツを持ち、ノートをとっているように見せ、左手で考える人のようにひじをつき、手でおでこを支えるようなポーズをとる。
視線の先に教科書がくるようにした。
傍から見れば「教科書を見ながら考えてノートをとっている図」になる。
この方法を見つけてからは、先生に見つかって叱られるようなことはなくなった。
しかし授業を聞いてないので、「じゃあ、今習ったところの小テストを行う」と言われると焦った。
授業を聞いても、教科書を読んでもないのだから、まったくわからない。
結局居残りさせられて、いつも「お前は真面目に机に向かっとるように見えるが、集中力がないんかのう」と小言を言われた。
当然、この小テストの延長にある中間・期末のテストの点はよくなかった。

高校に入ってからは、そんな小細工をやめ、堂々と居眠りするようになった。
2時間続けて数学がある時などは、2時間続けて居眠りをしていた。
先生も起きていたらうざいと思ったのか、そっと寝させてくれた。

同じ2年の頃、教壇の前の机、つまり前列の真ん中の奴が、リーダーの時間に居眠りをしていたことがある。
この位置は盲点なのか、居眠りしても見つかることはめったにない。
ぼくもこの位置に座っていたことがあるが、やはり見つからなかった。
しかし、ラグビー部顧問のこのリーダーの先生はそれを見逃さなかった。
突然、大声で「ばっかもーん」と言い、出席簿でそいつの頭を力いっぱい叩きつけた。
叩かれた本人は、何があったのかわからなかったらしく、寝ぼけ眼で周りをキョロキョロ見回していた。
その間抜け顔は今でもしっかりと覚えている。

さて、今日はあまりにも眠たかったので、「これではいかん」と思い、バックヤードで少し寝ることにした。
しかし、「さあ、寝るぞ!」と構えるとなかなか眠れない。
結局寝ないまま、また売場に戻った。
売場に戻ると、また眠たくなった。
こんなもんですね。



2001年11月27日(火) ロングホームルーム

高校の頃、ロングホームルーム(LHR)という時間があった。
生徒主体の時間で、下らんことをやっていた。
覚えているのは、2年の時にやったN君について語るものだった。
N君とは同級生で、学校はよく休むし、女たらしだし、クラスでは浮いた存在の男だった。
主旨は「N君の姿勢を正す」といったようなもので、要は吊るし上げだった。
「N君はどうしてクラスに溶け込まないのですか?」
「N君、学校に来て下さい」
「N君はいつもこうじゃないですか!」
「N君は、こういうところが悪いから直してください」
N君を嫌っていた人が中心になって発言していた。
中には、「ぼくは友だちとして言うけど」と前置きして、散々悪口を言っている奴もいた。
ただ、一方的にN君が攻められていたわけではなく、彼も応戦をしていた。
この「N君の姿勢を正す」は2週続けてやったが、結局はただ悪口を言い合っただけの中途半端なものに終わった。

LHRの定番に「Xへの手紙」というのがあった。
クラスのある人の名前が書かれた紙をランダムに渡され、その紙に書かれた名前の人に匿名で手紙を書いていくものだった。
ぼくがもらった手紙で印象に残っているのは、1年の時にもらった手紙だった。
「しんた君は変わってますね。人は付き合ってみないとわからないと言うけど、実際はどういう人なんだろう?・・・今彼女を探しているみたいですね。頑張って下さい」と書かれていた。
書いた人はだいたいわかっていた。
ぼくはその人を彼女にしたかったから、何かピンとくるものがあった。
友人もその手紙を見て「あいつやろう」と言っていた。
でも、そこから何も始まらなかったのが、今となっては悔やまれる。
2年の時にもらった手紙は、スキャンダルまがいのものだった。
「以前Yちゃん(当時ちょっと付き合った人。上の人とは違う)と一緒に帰るのを見かけましたが、その後Yちゃんとはどうなりましたか?」などと書かれていた。
Yちゃんと別れて、けっこう時間がたってからもらった手紙だった。
「馬鹿が。何を今頃言いよるんかのう」とあきれていた。

2年の時、実に下らんことをやった。
タイトルは「男と女、どちらが偉いか?」だった。
こういう内容になると、俄然張り切る女子がいた。
男子が発言するたびに、「それは違う!」と反論する。
最後には男子対俄然張り切る女の戦いになった。
あまりに馬鹿馬鹿しいものだったので、ぼくは議論に参加せず居眠りをしていた。
すると、議長が突然「しんた君はこのことについて、どう思いますか?」と言った。
ぼくは『おれに振るな』と思いながら、「こんなの、止めろうや」と言った。
議長もそう思っていたらしい。
結局この議論は、そこで打ち切りになった。

2年の初めに「このクラスをどういうクラスにしていきたいか?」というのがあった。
ぼくは「そんな計画立てても面白くない。行き当たりばったりやけ面白いんやん」と言った。
この発言について、担任や議長は反論していた。議長はぼくの意見を踏まえて、無理やり「みんなで意見を出し合い、計画性を持って楽しいクラスにしていきましょう」と言った。
じゃあ実際2年の3学期が終わった時点で、議長の言ったようなクラスになったかといえばそうではなく、ぼくが言ったように「計画性のない行き当たりばったりの楽しいクラス」になった。

そんな下らんロングホームルームだったが、ぼくは別に嫌いなわけではなかった。
なぜなら、その時間だけは授業がないからだ。
生徒主体だから、居眠りしても咎められない。
ぼくは授業はよくサボったが、LHRだけはサボったことがなかった。
今でもあの「Xへの手紙」だけはやりたいと思っている。



2001年11月26日(月) 言葉の話

昨日の日記で、「ぎりぎり」という言葉がわからないという声が多数あったので、説明しておきます。
「ぎりぎり」とは「つむじ」のことです。
会社でいろんな人に聞いてみたのだが、半分くらいは知らなかったようだ。
でも、うちの母親は大阪出身なのだが、「大阪にいた頃も“ぎりぎり”と言っていた」と言っていたので、九州の方言ということでもなさそうだ。
ということは、おそらく「つむじ」の古い言い方なのだろう。

方言ではないけれど、その土地特有の言い方というのがある。
東京にいた頃のことだが、ある日友人と池袋の西武百貨店に行った。
その当時、西武の屋上の食堂に評判の料理があったので食べに行ったのだ。
ウエイトレスがオーダーを取りに来たので、その評判の料理とビールを頼んだ。
さらにウエイトレスが「他に何かご注文はありますか?」と聞いたので、ぼくが「何か、腹の太るものを下さい」と言った。
ウエイトレスと友人は声を揃えて、「え?」と言った。
北九州の方では「お腹いっぱいになる」ということを「腹が太る」と言う。(「ぎりぎり」と同じように、使わない人もいるかもしれないが)
しかし、これは方言ではないだろう。
どこに住んでいても日本人なら、よく考えればその意味はわかるはずだ。

逆に方言というのは、どう考えても意味が解せないものを言うのだと思う。
福岡県では「さっち」という言葉をよく使う。
「王監督は、さっちが鳥越にバンドをさせて、チャンスを潰すっちゃね」
わかりますか?
「さっち」とは「何かにつけ」とか「決まって」とかいう意味がある。
つまり上の文章は、
「王監督は、決まって鳥越にバンドをさせて、チャンスを潰すんだよ」という意味である。
この「さっち」というのは福岡の純粋な方言だと思う。
以前熊本の人に「熊本では“さっち”という言葉を使いますか?」と聞いたことがあるが、「なんですか?それ」と言われた。
お返しに、その人から「しんたさん、武者んよかですね」と言われた。
今度はこちらが「なんですか?それ」と聞く番だった。
「武者んよか」とは熊本の方言で、「かっこいい」という意味らしい。
「そういえば・・・」と、ダイエーホークスの松中選手が熊本のファンから、「武者んよかですね」と言われていたのを思い出した。
そこでぼくは「熊本の人は、さっちが“武者んよか”を使うんやね」と言ってやった。

柳川ではひな祭りの頃になると、「さげもん」という飾り付けをする。
ちょうどその頃に、川下りに行ったことがあるが、その時船頭さんがその「さげもん」なるものを見せてくれた。
天井から糸で飾り物を吊るしているのだ。
ぼくは、それを見て「さげもん」とは「下げ物」つまり下げた物であることがわかった。
「もの」と言うのをこちらでは「もん」という。
例えば、「わるもの」は「わるもん」である。
「さげもん」とか勿体つけるから、何か特別なものと思ってしまう。
下げた物だと知ると、実に味気のないものである。
せめて「下げ飾り」とかにしてもらいたかった。

沖縄に行った時に聞いた話だが、例の「うちなーぐち」は奈良時代の日本語に近いそうである。
そうであれば、沖縄の人が本土の人間を「やまとんちゅ」というのはおかしい。
沖縄の人も結局は「やまとんちゅ」じゃないか。
沖縄の開祖は鎮西八郎源為朝だというし、琉球王国の時代から文字はひらがなカタカナを使っていたわけだし、立派な「やまとんちゅ」ですよ。
しかし、中国が「沖縄は中国の神聖なる領土である」と言うのは解せませんな。

そういえば子供の頃よく「ぎったんはなふくき」と言っていた。
「うそついたら針千本飲ます」と同じような意味だったと思うが。
友だちと何か約束する時に、「ぎったんね」とかいうふうに使ったような覚えがある。
似たような言葉で「チック、タック」というのがあった。
大ぼら吹いたり、出来もしないような約束をすると、決まって「チックねー(そんなことある<出来る>わけないやろ、といった意味で)」と言って腕をつねる。
「タック」と言うまで離してもらえなかった。
そして、それがうそだったり、出来なかった時は、デコピンの刑が待っていた。
こんなこと、今の子供はしないだろう。
今の子なら、ターゲットはいつも同じ子になり、いじめに繋がるだろう。
ぼくたちの頃は平等だった。
それにしても、する奴はいつも決まっていた。



2001年11月25日(日) 髪型の話

先日、床屋に行った。
毎月人から「どこを切ったん?」と言われるくらいに、あまり髪を短くしないのだが、今回はわりと短く切った。
ぼくが床屋に行っても、いつもまったく気づかない人が、今回は「あ、散髪しとる」と言ったくらいだから、結構雰囲気も変わったんだろう。

そういえば、ぼくの髪型は高校の頃からほとんど変わってない。
もし髪が黒くてもう少し長かったら、高校時代そのものである。
街で同級生などに会っても、「お、しんたやんか。お前変わってないのう」と、きっと言われるはずである。
ああ、でもだめか。
体型が変わってしまっている。

ぼくは額の上の中央に「ぎりぎり」があるので、横分けが出来ない。
小中学生の頃は「坊ちゃん刈り」だったので、前髪は下に垂らしていた。
しかし、高校生になるとしゃれっ気も出てくるので、「坊ちゃん刈り」ではすまされない。
入学当初こそみんな中学の延長だったが、何ヶ月か過ぎるとみな髪を伸ばしだした。
伸ばしてないのは野球部の連中だけであった。
ぼくは柔道部に所属していたが、顧問がいなかった(実際はいたが、全然顔を見せなかった)せいもあり、髪のことでとやかく言われることはなかった。
しかし、夏休みに行われる「金鷲旗高校柔道大会」にはスポーツ刈りにする、という伝統がぼくたちの学校にあったため、ようやく長髪になってきた髪を泣く泣く切ったことがある。
その時、ぼくは「ぎりぎり」のせいで前髪が立たず、先輩たちから「お前、髪切ったんか? ぜんぜん変わってないやないか」と文句を言われた。
このときばかりはぼくも負けてなかった。
「髪が立たんとですよ。前にぎりぎりがあるけ、しかないでしょ。ちゃんとこちらは床屋に“スポーツ刈りにしてくれ”と言ったんですから」と反発し、そのぎりぎりを見せた。
それを見た先輩は、もうそれ以上の追求はしなかった。

金鷲旗が終わってから、またぼくは髪を伸ばしだした。
とうより、それから高校を卒業するまで、床屋には行かなかった。
髪は自分で切るか、母親に切ってもらうかしていた。
髪型は分けやすいように真ん中から分け、「ぎりぎり」から生えている髪を垂らすようにした。
「前髪は眉毛にかからない程度。横は耳がかぶさる程度。後ろは襟にかからない程度」と生徒手帳に書いていたが、完全に無視した。
先生も、髪を切ったら喜ぶ程度で、伸ばしていたからといって別に文句は言わなかった。
3年の金鷲旗の時は、伝統を破って、ロン毛で参加した。
試合は1回戦で負けたが、髪の長さでは誰にも負けてなかった。
ちなみに、この大会にあの山下泰裕も参加していたが、彼は坊主だった。

その時代の髪型が30年近く続いているのである。(もちろん今はロン毛ではない)
その間、「パーマかけたら似合うと思うよ」とか「髪を立たせたらどう?」などとよく言われたが、耳を貸さず、頑固にこの髪型を続けてきた。
これが一番気に入っている、というよりも、この髪型しか出来ないからである。

今は仕事上無理であるが、将来はまた伸ばしたいと思っている。
その際は「しろんげしんた」と名前を変えなければならない。



2001年11月24日(土) いまだに日本は平和です

くだらない思い出話を書いているうちに、11月も後半を迎えている。
この1週間はわりと平和だった。
とくに大きな事件もなかった。

あ、そういえば、19日にちょっとした事件らしきことがあった。
その日は背中が痛く気分が悪かったので、家に帰ってからすぐに横になった。
2時間ほど寝てから、あまりに腹が減ったので、起き出して軽い食事をした。
食事が終わってから、「さあ、また寝ようか」と思った時である。
消防車のサイレンが鳴り出し、こちらの方向に向かってくる。
「お、近くで火事か?」と窓の外を見たが、火や煙が上がっている様子はない。
そうしてるうちにもサイレンは近づいてくる。
そして、ぼくの住んでいる団地内でサイレンは止んだ。
野次馬が続々と集まってくる。
「しかし、何があったんだろう?火事ではなさそうだし」と思っていると、今度は救急車が走ってきて、やはり団地内で止まった。
ここまできて、やっとぼくの野次馬根性が起動した。

はんてんを羽織り、突っ掛けを履いて外に出た。
相変わらず気分は悪かったが、そのことも忘れて、ぼくは小走りにその場所へと向かった。
そこには消防車ではなくレスキュー車が2台止まっており、救急車がその後ろにあった。
ぼくがその場所に着いた時、救急車が担架の準備をして、そのままレスキュー車のほうに向かって行った。
「病人か?」と思ったが、それならレスキュー車が来るはずはない。
「さて、どうしたんだろう?」と思っていると、担架が空で戻ってきた。
その間にも野次馬は集まってくる。
その中にうちの会社でアルバイトをしているおじさんがいた。
おじさんはぼくに、「どうなりました?今電話で市の消防局に確認したら、子供が何かに挟まったとか言ってたんやけど」と言った。
しばらくその人と話していると、レスキュー隊の一人がマイクを手に持ち、笑顔でぼくたちの前に現れた。

彼は一礼をしてから、
「えー、こちらは八幡西消防署です。先ほど“子供がベランダの手すりに頭を挟まれ取れなくなった”と通報がありました。早速駆けつけ救助にあたりましたが、午後11時53分、無事救助いたしました」、そこで少し間をおき、「ご近所の皆様には大変お騒がせしました」と言った。
集まった人たちは「親はこんな時間に、子供をベランダで遊ばせていたのか?」とか「こんな時間にマイクを使うな」などと言っていた。
しかしその時、ぼくはレスキュー隊員の「間」のことを考えていた。
「あの“間”はなんか!? もしかしたら“やったー、みんなおれを見てるぜー”と、一種のスター気取りで、皆様の拍手を待ってたんじゃないのだろうか?」
ぼくは“一人浮かれて皆様の拍手を待つレスキュー隊員の図”を思い浮かべ、「間抜けなレスキュー隊員やのう」と、一人笑っていた。

まあ、こんな間抜けなレスキュー隊員でもちゃんと社会の役に立っている。
日本という国はまだまだ平和です。



2001年11月23日(金) 長崎屋の思い出 6

一日休んだことで、張り詰めていた糸が切れてしまった。
「エアコンはもう終わったな」という思いでいっぱいだった。
翌日からヘルパーの人員整理が始まった。
まずボンが去った。
元々フロアー長から嫌われていたので、メーカーのほうも受け入れ先を早々と決めていた。
HTさんも、契約切れで去って行った。
「まあ、そういう契約やったけ仕方がない。次を探す」と言って辞めて行った。
他のメンバーも次々と辞めて行った。
最後に残ったぼくに、日立のIさんは「お前はどうする?好きなラジカセやってもいいよ」と言ってくれていたが、その頃には燃え尽きてしまっていた。
「どうしようか」と迷ったが、ボンもHTさんもいない店にはもう興味がなかった。
8月20日のことだった。
その日の朝、ぼくは長崎屋に行き、フロアー長に「次の仕事が決まったんで、辞めます」と言って、強引に辞めてしまった。

これでぼくの「長崎屋物語」は終わるはずだったが、運命はぼくを長崎屋から離してくれなかった。
長崎屋を辞めたぼくは、その後雑誌のライターやオーディオのセールスをやるが、何か燃えるものがなかった。
仕事中に、「ああ、長崎屋の人たちは今頃どうしているんだろうか?」などといつも考え、仕事に身が入らない。
ライターは1ヶ月続いたが、オーディオのセールスは1週間ほどで辞めてしまった。
「さて、どうしよう」と思い、働き口を探していたが、いいところが見つからない。

10月になった。
いつものように、ぼくは仕事を探しに職業安定所に行った。
その帰りのことである。
何か後ろから押されているような感じで、ぼくは長崎屋に行った。
フロアー長に会った。
「おう、しんた。今どうしてるの?」
それまでの経緯を話した後にぼくは、思ってもないことを口にした。
「フロアー長、もう一度雇ってもらえませんか?」
フロアー長も唖然とした顔をしていたが、「どこか空きがあったかなあ?」と言っているところに、東芝のセールスのSさんが来た。
フロアー長は「おお、いいところに来た。こいつを雇ってくれない?」と言った。
Sさんは、「ちょうど人を探していたところだけど・・・」と言いながら、ぼくのほうを見て「君、販売できるの?」と言った。
「一応、ここで3ヶ月ほどやってたんですが」
「じゃあ、実力を見せてもらおう」と、ちょうど売場に来ていたお客を指差して、「あの人に売ってみて」と言った。

ついていた。
そのお客はブライダルで店に来たのだった。
結局そのお客は40万円ほど買ってくれた。
それも、そのほとんどは東芝製品だった。
Sさんは目の色を変えてぼくのところに飛んできて、「明日から来て下さい」と言った。
いろいろ条件を出してくれ、給料は東芝でヘルパーに出せる最高の額を提示してくれた。
翌日から、再びぼくの「長崎屋物語」が始まった。

それから、就職が決まる2月まで長崎屋に勤めることになる。
長崎屋を辞めるまでの5ヶ月間は、自分でもよく働いたと思う。
売場は自分から希望して、暖房機の売場に行った。
エアコンで不完全燃焼していたせいもあり、季節商品にこだわった。
エアコンの不満を暖房機にぶっつけるように、よく売った。
汚れ役も自分から進んでやっていた。
とにかく手抜きせず自分でもよくやったと思う。
先の3ヶ月と違っていたのは、家電のある6階だけではなく他の階の人とも仲良くなったことだ。
おかげで何か買うときはいろいろ便宜を図ってくれた。
まあ、店長など上の人に挨拶をするほうではなかったので、そういう人たちからはあまり好かれてなかったが、そういうことは気にはならなかった。

2月に就職活動をしていた時に、フロアー長から「長崎屋に残らんか?行く行くは社員にしてあげるから」と言われ一応考えてはみたが、今考えると残らなくてよかったと思う。
就職が決まってから、東芝からも「社員にならんか」と言われたが、もはやヘルパーという稼業に未練はなかった。
ということで、2月末、ぼくの「長崎屋物語」は終わった。

その後も、嫌なことがあるといつも長崎屋に行っていた。
11年後その就職先を辞めた時も、長崎屋に「アルバイトさせてくれませんか?」と言いに行ったりもした。
もちろん「長崎屋物語」は終わっていたので、それは叶わなかったが。
とにかく定年後は「またここで働きたいな」と思っていただけに、今回の閉鎖は非常に残念である。



2001年11月22日(木) 長崎屋の思い出 5

ラジカセ売場にいたのは、5月から7月中旬までだった。
その間もフロアー長とヘルパーの確執は続いていた。
フロアー長は以前からいるヘルパーを一人一人商談室に呼び出し、面談していった。
以前のフロアー長の息のかかった者に、忠誠を誓わせるのが目的だったようだ。
以前登場したMさんなどは、頭にきて壁を殴り、指の骨にひびが入ってしまった。

以前からいるヘルパーといえば、ボンもその一人だった。
フロアー長は以前からボンを嫌っていた。
ボンはフロアー長に呼び出されて、「ここを辞めてくれ」と露骨に言われたそうで、その日一緒に飲みに行ったHTさんとぼくにそのことを言った。
ボンはあまり深刻に考えるタイプの人間ではなかったので、あっけらかんとしていた。
聞いているぼくたちも、あまり深刻に人の話を聞くタイプの人間ではないので、HTさんとぼくは面白がって、「それで、何と答えたんね?」と訊いた。
するとボンは、「“はい、頑張ります”と答えた。こう答えるしかないやろ」と言った。
ぼくたちはそこを突っ込んだ。
「“頑張ります”? 何を頑張るんね?」
「一生懸命に仕事をやる、ということよ」
「それはおかしい。“辞めてくれ”と言われて、“はい、頑張ります”と答えたら、『辞めることを頑張る』ということになるやないね」
「そういうニュアンスで言ったんやないんやけど・・・」
「いや、誰が聞いても、そう受け取るやろう」
「そうかのう?」
・・・その後も、ぼくたち3人で飲みに行く時には、いつも「あの時の“頑張ります”はおかしい」と言って、ボンをからかっている。

さて7月中旬、ぼくはラジカセ売場を離れた。
前にも言ったが、ぼくは元々エアコンを売るために日立から派遣されていた。
エアコン売場のほうも、それを見越して日立のエアコンを仕入れていた。
しかし、ぼくが小物やラジカセの売場に行ったため、在庫が残ってしまっている状況だった。
見かねてエアコン売場の責任者が、「しんた君、日立のエアコンどうするんね? 売れ残っても返品できんよ」とぼくに言ってきた。
日立のIさんからも、「エアコンシーズンが終わったら、ラジカセに戻ってもいいけ、とにかくシーズン中はエアコンを売ってくれ」と言われるようになった。
梅雨明け間近だった。
エアコン販売は、梅雨明け後1週間が勝負と言われている。
ということで、ぼくも意を決してラジカセ売場を離れた。

とは言うものの、この3ヶ月エアコン売場から離れていたので、ろくにエアコンを売ったことがない。
売り方のノウハウも知らないが、「とにかく気合だ」ということで、積極的に売りに出た。
すると、面白いように売れていく。
やったこともない工事の見積りまで買って出た。
「見積りに行くなら、タクシー使ってもいいよ」と言われ、交通の便のいい所までタクシーを使った。
のちに、事務所から「家電はタクシーの利用が多い」と注意されたそうだ。
その大半は、ぼくが領収書を持って帰ったものだった。

とにかく、梅雨明け後の1週間はよく売った。
が、ぼくには「何台売った」と言って喜んでいる余裕はなかった。
売場の責任者や日立からプレッシャーをかけられていたので、「何台売った」よりも「あと在庫が何台残っている」というほうに関心があった。

売れたのは、本当に1週間だった。
その後は曇りの日が続き、気温も上がらなかった。
しかし、ぼくは「奇跡が起こる」と思って、休まなかった。
結局振り返ってみたら、梅雨明け前から全然休まず、26日間ぶっ通しで働いていた。
休まないようになって20日ばかり過ぎた頃から、売場の責任者に「しんた君、もういい加減に休め」と言われだした。
それでも在庫がなかなか減らなかったから、「まだ大丈夫です」と言って店に出た。
もうエアコン販売のピーク時期は過ぎていたが、「1台でも多く在庫を減らす」という観念が休ませてくれないのだ。
そのうち、責任者も「今年はおかしいねえ。例年だとまだまだエアコンが売れるのに」と言いだした。
そして、休まなくなって26日目に、気象庁が「今年は記録的な冷夏です」と
発表した。
27日目、ぼくは店に行かなかった。



2001年11月21日(水) 長崎屋の思い出 4

あれだけぼくを目の敵にしていたフロアー長だったが、ぼくが売り上げを上げだしてから、徐々にぼくに話しかけるようになった。
ある日のこと、フロアー長が声をかけてきた。
「しんた君、今日空いてる?」
「はあ」
「ぼくは黒崎をあまりよく知らないから、HT君と案内してくれない?」
飲みのお誘いだった。
実はフロアー長は、ぼくが長崎屋で働き出す少し前に黒崎店に赴任したのである。社員の人とは打ち解けてなかったし、ヘルパーとは対立していたし、寂しい思いをしていたようだ。
ぼくは別に断る理由もなかったので、HTさんも行くのなら、と承諾した。
もちろん奢りだった。

仕事が終わって、3人が向かったのは長崎屋の隣にある焼き鳥屋だった。
いくら生まれ育った土地とはいえ、20代前半では焼き鳥屋に案内するのが精一杯だった。
別段何という話をしたわけではないのだが、HTさんとぼくは結構本音でものを言っていた。フロアー長も別に怒ることもなく、二人の話を聞いていた。
いろいろ語ったが、フロアー長もそれほど悪い人でないのがわかった。
その後、フロアー長と個人で飲みに行くことはなかったが、数年後にHTさんが、その頃伊丹に転勤していたフロアー長に会いに行ったことがある。
その時、「君たちと飲みに行ったことは、今でも忘れないよ」と言っていたという。

それからほどなく、フロアー長から「しんた、もう小物はしなくていいよ。君は音物(オーディオ関係)が好きそうだから、ラジカセを売ってみないか?」と言われた。
確かに興味のある部門だったが、ぼくにはエアコン販売という足枷があった。
ぼくが「しかし、日立の建前エアコンを売らないと・・・」と言うと、フロアー長は、「何を売らせるのかを決めるのは店だから、君は気にしなくていいよ」と言った。
小物と掛け持ちでということで、ぼくはラジカセの売り場に行った。

ぼくがラジカセにこだわったのには理由があった。
前年に発売されたソニーの「ウォークマン」が、爆発的な人気を得ていた頃である。
当然、音楽好きのぼくがそれを見逃すことはなく、いつかは欲しいと思っていた商品であった。
そのウォークマンに直に触れられる売場に行くのが、前々からの夢であったわけである。
しかし、その売場に行った時に愕然とした。
なんとそのウォークマンは売れすぎて、商品が入ってこない状況にあるというのだ。
担当の社員に「いつ入ってくるんですか?」と尋ねると、「さあ、よくわからない」と言うことであった。
そのうち、ソニーのセールスの人と仲良くなったが、その人も「いつ入るのかわからない」と言う。
どうしても1台欲しかったぼくは、他のメーカーのを買うことにした。

当時は各メーカーが似たようなものを出していた。
店にあったのは、アイワと東芝とビクターの分であった。
他に長崎屋には置いてなかったのだが、松下の「旅カセ」というのがあった。
他社がウォークマンと似た形をしていたのに対し、これはユニークな形をしていた。
テープデッキのカセットの部分だけを切り取ったような形をしており、それにハンドルを付けていた。 もちろんヘッドホンを差し込むようになっていたのだが、後ろにはピンコードを差し込むジャックがあり、オーディオアンプと接続できるようになっていた。 つまり小型のテープデッキだった。 
さて、いろいろ音を聞き比べ悩んだ結果、ぼくが買ったのはアイワの「カセットボーイ」だった。
なぜこれを選んだかといえば、当時としては珍しく録音機能が付いていたのだ。
この機能は他のメーカにはなかった。 どこのメーカーもソニーの真似で、再生専用だった。
その当時ぼくはオーディオ機器を持ってなかったので、これは魅力だった。
しかし、買ってから何日かたってから、ある事実を知って落胆する。
録音の音が悪い!
ひどいものだった。 ノイズはザーザー入るし、音量は低いし、「こんなの買わんほうがよかった」と思ったが、後の祭りだった。
そのことに気づいて2,3日たってから、ソニーのウォークマンが入ってきた。
ソニーの音を聞いたときに、アイワが嫌いになった。
その後は、あまり「カセットボーイ」を聴くことはなくなった。
ぼくがソニーのウォークマンを手にするのは、それから2年後のことである。



2001年11月20日(火) 長崎屋の思い出 3

その日、HTさんという人が入ってきた。
『この人どこかで見たことがあるなあ』というのが第一印象だった。
それもそのはず、Hさんは高校の1級上の先輩だった。
最初は気づかなかったが、話していくうちにそのことがわかった。
高校時代は話したこともなく、たまに顔を見る程度の人だったので、その日が初対面と言ってもよかった。
ぼくはこの人とも馬が合った。
その後、ボンとHTさんとぼくの3人は、一緒に飲みに行くようになる。
今なお続く腐れ縁は、そのときから始まった。

さて、1週間たっても日立からは何も連絡がなく、結局ぼくは長崎屋に居座ることとなった。
1ヶ月ほど過ぎた頃、鼻の大きなフロアー長とぼくたちヘルパーの対立が激しくなった。
あるメーカーのヘルパーが辞めた時のことである。
ちょうどその人が辞めた日は、フロアー長が出張の日であった。
その日、ぼくたちはささやかな送別会を開いた。 もちろんフロアー長抜きで。
翌日そのことがフロアー長の耳に入った。
それからフロアー長とヘルパーの対立が始まったのである。

そのヘルパーの中でも、特にぼくは目の敵にされた。
そもそもぼくは、エアコンなどの季節品を売るために派遣されていたのだが、時期的なことと、販売に慣れてないということが重なって、売り上げが他の人に比べてきわめて低かった。
そこに目をつけたフロアー長は、他のヘルパーへの見せしめのために、ぼくをよく叱っていた。
ぼくは叱られても、いつもヘラヘラしている人間だから、さらに頭に来たのかぼくを叩いたことがあった。
他のヘルパーはぼくを慰めてくれたが、ぼくはこういうことは子どもの頃から慣れており、そういう目に合うと逆に「今に見とけよ」と思う性質である。
このときは「今に見とけよ。仕事で見返してやる」と思っていた。

さらにフロアー長のぼくに対するいじめは続く。
日立のIさんを呼び出して、「しんたを辞めさせろ」と言い出した。
Iさんはその時、「ヘルパーは1ヶ月で判断したらいけません。ぼくはしんたを辞めさせるつもりはありません」と言ったらしい。
そのあとIさんはぼくのところに来て、「おれはお前を辞めさせるつもりはないけ、とにかくフロアー長のことは我慢してくれ」と言った。

Iさんとの話し合いが不満足だったのか、フロアー長は最後の手段に出た。
ぼくをエアコンの売り場から外したのだ。
「しんた君。君にはしばらく小物のほうをやってもらうよ」と言ってきた。
エアコン販売で派遣されたものが、他の売り場、それも小物に回されるということは、窓際に回されるようなもので、つまり「辞めれ」ということだった。
でも、ぼくはIさんの言葉を信じて辞めなかった。
とにかくフロアー長の言うことは無視して仕事に専念した。
毎日毎日雑巾を持って商品を磨き上げ、カタログを見ては商品勉強をしていった。
小物ということでお客さんも多く、他の売り場の何倍も接客をしなければならない。
ぼくは徐々に販売というものを覚えていった。
小物ながら売り上げが上がっていくと、周りの目も変わってくる。
特に見る目が変わってきた人がいた。
フロアー長だった。



2001年11月19日(月) 長崎屋の思い出 2

東京から戻ってきたぼくは、いろいろと就職を探していたのだが、結局これといったところが見つからなかった。
そんなおり、以前アルバイトで一緒だった女性から電話がかかった。
「ねえ、就職決まった?」
「いや、なかなかなくて」と、そこまでの経緯を話した。
「私、今ジャスコで働いてるんだけど、うちの取引先の人がアルバイトを探しているんよね。よかったら会ってみらん?」
「何の仕事?」
「電化製品の販売。その人日立の人」
もうすぐ4月である。
その時期に仕事を探そうとしても、いいところは見つからない。
「まあ、焦って変な所に行くよりも、アルバイトでもしながらいいところを探したほうがいいと思うよ」というその人の言葉に、「じゃあ、その人に会ってみようか」という気になった。
とりあえず履歴書をその人に預け、連絡を待った。
何日かしてその人から、翌日の10時にジャスコに来てくれという連絡が入った。

翌日、ジャスコ開店と同時に店に入ったぼくは、日立の人を待った。
30分ほどして、日立の人がやってきた。
「君がしんた君?」
「はい、よろしくお願いします」
「Iと言います。よろしく。君は販売をやったことはあるかね」
「いいえ初めてですけど」
I氏はちょっと困った顔をしていたが、「まあいいか。覚えるやろう」と独り言を言っていた。
そしてぼくに「じゃあ、行こうか?」と言った。
「え?どこにですか?」
「君は初めてだから、1週間ばかり他の店で研修してもらう」
「どこですか?」
「まあ、行ったらわかる」と言われ、ぼくはI氏の車に乗った。
『どこに連れて行くんだろう?』と思っていると、車はすぐに止まった。
長崎屋の地下の駐車場だった。
車を降り、6階まで社員用のエレベーターで行き、商談室と書いた部屋に入っていった。

そこには鼻の大きな福耳の男の人がいた。
「フロアー長、連れてきました」
「ああ、この人。ふーん」
そのフロアー長という人は、ぼくの履歴書を見ながら「経験あるの?」と言った。
I氏は「いや初めてですけど、若いからすぐに慣れますよ」と答えていた。
商談室を出、I氏は他の従業員にぼくを紹介して回った。
その中に、だらーっとエアコンを掃除している人がいた。
I氏は「おい、ボン」と声をかけ、「今日からうちのヘルパーになった、しんた君だ。よろしく頼む」と言った。
ぼくが「しんたです。よろしくお願いします」と言うと、そのボンと呼ばれた人は、こちらも向かずに「ボンでーす。よろしくー」と言った。
『なんか、こいつは?嫌な奴やのう』というのが、ぼくのボンに対する第一印象だった。
彼はぼくより3歳年上だった。その後付き合っていく過程でわかっていくのだが、無茶苦茶いい加減な男だった。が、どういうわけか馬が合った。

長崎屋で勤めた最初の頃は、嫌で嫌でたまらなかった。
あまりそこの人に馴染めなかったこともあったし、販売という業務に慣れていなかったせいもあった。
嫌になった時はいつも「どうせ1週間したらジャスコに行くんやけ」と思っていた。
しかし、1週間たった日に俄然楽しくなったのだ。
その日、初めて10万円を超える商品を売った。
おそらくそのせいだろう。急にハイになったのだ。
それから、元来のおしゃべりになって、そこの人たちに溶け込んでいった。



2001年11月18日(日) 長崎屋の思い出 1

先日閉鎖が決まった長崎屋黒崎店には、いろいろ思い出がある。
オープンはぼくが高校2年の時、つまり1974年(昭和49年)だった。
当時ぼくらのクラスでは、オープンしてすぐに行くのは田舎者だという認識があった。 そのせいもあって、クラスで「長崎屋に行った」という声は聞かれなかった。 もちろんぼくも、バス停の横にあったにもかかわらず行ってない。
初めて長崎屋に足を踏み入れたのは、翌年、高校3年のことだった。 店の中は、ぼくの予想とは違わなかったので、別に何ということもなかったが、その頃興味があったオーディオ商品の数の多さにはビックリさせられた。 おそらく、当時長崎屋の横にあった「北九無線」と同等の品揃えではなかったのではないだろうか。
この品揃えというのは、既存の「井筒屋」「ダイエー」「ユニード」にはないものだった。

ある日、長崎屋でひとつの事件があった。
友人と長崎屋の6階のオーディオ売り場でぶらぶらしていた時、急に周りの雰囲気が変わった。
K女子高の制服の女の子10人ほどに囲まれてしまったのだ。 顔見知りの子は一人もいなかった。 その中のリーダー的な女の子が、ぼくを指差して、「この人ね」と一人の女の子に確認している。 その子が「うん」と答えると、リーダーは「何ね、3年生やないね」と言った。
ぼくは『何か、こいつらは? おれ、何かしたかのう?』と思い、怖くて胸がドキドキしていた。 男に囲まれたことはあるけど、女に囲まれたのは初めてである。 男に囲まれるのは嫌なものだが、女の場合はもっと嫌である。
リーダーがぼくのほうを向いて、「あの子と付き合ってやり」と言った。付き合ってやりも何も、その子とは初対面である。 よく知りもしない人と付き合うなんていうことは、ぼくの主義に反している。
『さて、どう断ったものか』と考えて出た言葉が、「おれ、付き合いよる人がおるけ」だった。 後にも先にもこんなことを言ったことはない。 しかし、この言葉はその子を諦めさせるのには充分だったようだ。 「何ね。付き合いよる人がおるんやん」と、その子たちはさっと引き上げていった。
ぼくは友人と顔を見合わせて、「怖かったねえ」と言った。
その後、高校を卒業するまで何度か長崎屋の6階に行ったが、その子たちに会うことは2度となかった。 いや、会ったのかもしれないが、前にも言ったとおり、ぼくは人の顔を覚えることが苦手なので、わからなかっただけかもしれない。

高校を卒業して予備校に通いだしてからは、もっぱら隣の井筒屋ばかり行って、長崎屋に行くことは少なかった。 行った覚えがあるのは、ある日突然トーストが食べたくなって、トースターを買いに行ったことくらいか。
大学を諦めたその翌年は、井筒屋でアルバイトをしたりしていたが、長崎屋に行くことはなかった。
そんなに足繁く通ったわけでもない長崎屋に、どうして思い出を持っているのか? それは、それから2年後、ぼくが東京から帰ってきてから始まる。



2001年11月17日(土) 今日一日

今日は休みだった。
実は夜中、日記を書いた後に、昨日発売になった「Windows xp」をインストールしていたのだ。
とにかく時間がかかった。結局インストールが終わったのは、朝の5時を過ぎていた。
昼まで寝ようと思いながら寝たのだが、起きたのは平常通りの午前8時だった。いつものように、携帯電話にセットしているアラームが8時に鳴り出したのだ。ちなみにアラーム音にしているのは「ラジオ体操第一」である。
8時に起きてから、昨日日記に書いた「シンプルバージョン」を作ったりしていた。シンプルといいながらも、センスの悪さは相変わらずで、色合いやレイアウトはほとんど変わっていない。ただ、バナーや余計な掲示板を外しているので、かなり軽くなったとは思う。
まあ、そのうち公開します。

結局その作業が12時までかかってしまった。
少しは寝ようと思っていたが、それも「シンプル」のおかげで寝られなくなった。どうもぼくは「シンプル」な休みの過ごし方はできないようだ。
その後昼食を取り、昨日黒崎にオープンした「COM CITY」に行った。
ここはJR黒崎駅の西側にできた、地下2階地上12階のターミナルビルだ。
ここと先日移転オープンした「井筒屋黒崎店」で、「JR黒崎駅」を挟むような格好になっている。
このターミナルビルの構想は、もう20年前からあったもので、当時から関心を持っていた人にとっては「やっとオープンですか」という感じである。
行ってみると、さすがにオープン2日目だけに人が多い。
ここは1階のバスターミナルと筑豊電鉄の駅を除く、地下1階から地上6階までが専門店街、7階が「子どもの館(館長はカズ山本)」、8階から上はホテルになっている。
ビルに入ってまず感じたことは、通路が狭い。人が多いせいでそう思えたのかもしれないが、それでも3人並んでは通れない。もしかしたら人通りを多く見せるための戦略なのかもしれない。
いろいろ見て回ったが、まあこんなもんだろう。どこにでもある商業ビルだった。

この人の賑わいと対照的だったのが、先日閉鎖を発表した長崎屋がある駅前通りだ。
土曜日というのにあまり人がいなかった。昔は一番賑わっていた通りなので、すごい寂しさを感じた。このまま街が発展していけばいいのだが、長崎屋の跡地をどうするかも決まってないのだから、発展は当分ないのかもしれない。このままJR九州内の駅の乗降客数第3位の街は、駅ビルだけの街になるのだろうか。
とくに黒崎という町は、ぼくが生まれた頃に住んでいたという理由もあって、いろいろ思い入れの多い場所である。廃れていくのを見るのは忍びない。
とにかく、新しくできたビルを素直に喜べなかった一日であった。

さて、家に帰ったのは午後5時を過ぎていた。
「ちょっと寝ようか?」と思いながらも、今度は日記に取り組んでいた。
それがまだ書いているのだから、ぼくの頭の中は確実に廃れている。
とにかく眠たい。



2001年11月16日(金) テーマが決まらん

ぽつんとパソコンの前に座っている。
今日は何も書くことがないのだ。
もう10ヶ月以上日記を書き続けているので、たまにはこんなこともある。
じゃあ、いつも書くことがあって日記を書いているのかといえば、そうでもない。
「よし、今日はこれを書くぞ!」と意気込んで書くことも、たまにある程度である。
だいたいは行き当たりばったりで書いている。
以前は新聞などを読んで、ネタ集めに専念したものであるが、最近は疲れているせいか、それもやっていない。
新聞は朝の空いた時間に、地元のニュースとテレビ欄を見る程度である。
しかし、長崎屋が撤退になってからは、地元ニュースも飛ばしている状態である。
テレビもお気に入りのドラマを見る程度だ。
のぼせから、いよいよやる気も失せたんだろうか?
いや、そんなことはない。
元来の新しい物好きは健在である。
今日も、MSNエクスプローラーのダウンロードを真剣に取り組んでいた。
今日記を書いているブラウザは、IE6,0ではなくMSN6,1である。
これをIEで見たらどう見えるか楽しみにしている。
まあ、大して変わらないだろうが。

もうひとつ、やっていることがある。
先日、ある本に「ジオシティーズ」の著作権の問題が載っていた。
どうも、ジオにコンテンツを置くと、著作者本人が自由に転用できなくなるということらしい。
ぼくも一応ジオに詩のサイトを持っているので、他人事ではないなと思い始めた。
そこで、いろいろなホームページサービスを探していたのだが、やっといいところが見つかった。
そこはなんと100MB借りれるのだ。
まあ、ぼくのサイトのような文章だけのところは100MBも必要はない。
今現在「頑張る40代!」のPC用と携帯用、それと「吹く風」を合わせても1MBにも満たないのだから、ASAHIネットの5MBで充分である。
しかし、100MBというと、何か夢があるように思えてならない。
今は、「頑張る…」のシンプルバージョンと日記一本のサイトを併設しようということ考えている。
「汚いトップページなんか見たくない」「おまえの独り言など読みたくない!」と言う人はシンプルバージョンに飛べばいいし、「トップの更新をやらないのなら、おれは日記だけでいい」「いろいろ御託を並べやがって、要は日記のサイトじゃないか」と言う人は日記一本に飛べばいい。
それとは別に、日記の別冊も作れる。
とりとめのない内容の日記を、テーマ別に分けていったら読みやすいだろう。
ぼく自身が読み返すときに都合がいい。

ということで、このサイトはまだまだ続きます。
辛抱してお付き合いして下さい。



2001年11月15日(木) 運命を語る

ぼくは姓名判断をやっているせいか、噂を聞きつけた人がよく「私の名前を見て下さい」とやってくる。
「子供の名前を付けて下さい」と言ってくる人もいる。
中には「離婚して自立したいのだけど、そういう名前はありませんか?」という人までやってくる。
ぼくは基本的に、名前を見ることは拒まない主義なので、時間があれば見てあげることにしている。

ぼくの姓名判断は、本に載っているような「運命」や「運勢」を鑑定するものではなく、その名前に現れる「性格」を判断するものである。
姓名判断を始めたきっかけが人間観察だったから、そういうふうに流れたのだと思う。
一口に性格といっても、考え方の性格・行動の性格・自分で感じている性格・他人から見た性格などいろいろある。
それらを一つ一つ、指摘していく。
まあ、だいたい当たっているようだ。
しかし、必ず最後に受ける質問がある。
「私はどういう運命をたどりますか?」または「私の運勢はどうですか?」というものだ。
先にも言ったように、ぼくの姓名判断は性格を見るもので、運命を見るものではないので、答えるのにいつも窮している。
姓名判断の本に載っているように答えれば楽なのだろうが、同じ画数でも違う人生をたどるのだから、そんな無責任なことは言えない。
例えば、「総画数24画の人は大金持ちになる運命だ」と本では書いているのだが、この画数で多額の借金を背負ったまま死んだ人も実際いるので、「あなたは大金持ちになりますよ」などと不確定なことを言うことは出来ない。
そこでぼくは、ぼくの姓名判断の中の「運命」というものを考えてみた。
十数年かかって出した答が「運命とは人生の性格である」だった。
つまり上の24画の例で言えば、「あなたの人生は、お金に左右されやすい性格だと言えます」である。

さて、上の運命の結論は姓名判断の結論であって、ぼくは別に運命を否定しているわけではない。
逆に「運命を否定する人」を否定している。
よくいるでしょう?「私は運命なんて信じません。運命は自分で切り開くものと思ってますから」と言う人が。
しかしそれは視野の狭い人が言うことだ。
もっと広い視野に立てば、そんな間抜けなことは言えないはずだ。
そういう人がいたら、ぼくはいつもこう答える。
「はい、よくわかりました。あなたの運命は『運命は自分で切り開くこと』と思う運命です。そう答えるぼくも、そう答える運命なのです」と。
まあ、こう言ってもその人は視野の狭い間抜けな人だから納得はしないのだが。
ぼくは「これからどんな運命が待っているのか?」と考えるより、「今どういう運命をたどっているのか?」と考えるほうが好きだ。
今たどっている運命。
はい、もう午前1時を過ぎたのに、まだ日記が出来ずに「ヒーヒー」言っている運命です。



2001年11月14日(水) のぼせ

ぼくの所属する売場は、自動販売機の真後ろにある。
午前中はそうでもないのだが、昼過ぎあたりから自販機の放熱板から出される熱が売場に溜まっていき、夕方ともなればもう蒸し風呂状態だ。
ぼくはのぼせやすい体質なのか、この状態になった時に肩が凝ったり頭が痛くなったりする。
こんな場所であるから、冬でもめったに暖房を入れることはない。

最近これに関して、困っていることがある。
冬場は外気も下がるので、売場の温度もそれに比例して下がってくれるのだが、11月はそれほど寒いわけではないから、当然蒸し風呂状態になるのだ。
10月までは事務所のほうで冷房を入れてくれるのだが、11月になるとその冷房を入れてくれなくなる。
だからこの時期は、暑いと感じたら事務所に行き冷房のスイッチを入れるようにしているのだが、お客の相手などをしていて、そのタイミングを外すことがある。
気がついた時には、もうのぼせが始まっており、肩が重くなり、頭がうずきだす。
そうなったらいくら冷房で冷ましても、その日一日はその症状と闘わなければならない。

さて、タイミングよく冷房をつけたとしても、「おお、この寒いのに冷房が入っとる」とスイッチを切ってくれたり、中にはわざわざ暖房に切り替えてくれる御仁もいる。
本人は気を利かしてやってくれているのだろうけど、こちらとしては実に迷惑な話である。
「ちぇっ、冷房切りやがって」とまた事務所に行って、冷房のスイッチを入れなければならない。
さらに、一度切ってしまうと、冷房が入るまでにはけっこう時間がかかる。
その間にのぼせがきたら、おしまいである。
そうなった時、その苦しみはどこにぶっつけたらいいのだろう?
悪意があってやったわけではないのだから、その人にあたるわけもいかない。

実は今日、ぼくは軽い風邪を引いて若干の微熱があったのだが、これには参った。
冷房を入れていると、寒気が倍増する。
でも、入れないとのぼせてしまう。
「どちらにしようか?」と迷ったあげく、のぼせのほうを採ってしまった。
はい、寒気と肩こりと頭痛がいっぺんにきました。

今日は最悪な一日だった。



2001年11月13日(火) 自転車の思い出 3

予備校はほとんど毎日自転車で通った。
大雨であろうが台風であろうが、頓着しなかった。
この時代に乗っていた自転車は、人生初の新車だった。
ブリジストン製だったと記憶している。
超軽量・10段変則のスポーツ車で、ハンドルはドロップハンドルだった。
しかし、この頃にはもうドロップハンドルに対する苦手意識はなかった。

毎日、ぎりぎりに家を出ていたため、かなりスピードを出していた。
そのため転ぶこともしょっちゅうだった。
バスから人がこちらを見ていると、それが気になって電柱にぶつかる。
道路の白線の上を走ろうとして、バランスを失い倒れてしまう。
原付に抜かれて頭に来たので、猛スピードで追いかけて行き、ハンドルを取られ、ガードレールに接触して倒れる。
とにかく情緒不安定だったから、いつもこんな状態だった。

結局この自転車に乗ったのは4年間だった。
実は情緒不安定のせいで、4年後に乗れなくなったのだ。
4年後、ぼくは近くの運送会社でアルバイトをしていた。
そこにも自転車で通っていた。
ある日、仕事が終わってから本屋に行った。
その帰りのことだ。
あたりは暗くなっていたので、早く家に帰ろうと全力で自転車を漕いでいた。
ちょうど坂道を下っていた時だ。
そこでも全力で走っていたぼくの斜め後ろから、「プップッ」と車のクラクションが聞こえた。
「誰だろう?知り合いか?」と思い、ぼくは後ろを振り向いた。
運転席を見ると、別に知り合いでもなんでもない。
「知りもせんくせに、クラクションならすな!」と怒鳴って前を振り向いた時、目の前に黒い大きな物体が見えた。
その瞬間、体が宙を舞っていた。
実にスローモーションだった。何がなんだかわからないくせに、「これは前受身をとったらいいのか、それとも回転受身を取るか?」などと考える余裕があった。
結局、前受身をとった。
地面を両手で強く叩いた。
一瞬立ち上がれずにいた。
クラクションの車が止まった。こちらを眺めているのがわかった。
ぼくが何秒か後に、「痛てー」と立ち上がったので、その車は立ち去った。
「さて、一体どうなったんだろう?」とぶつかった物の正体を見ると、それはなんと工事用の大型のローラーだった。
よく見ると、ちょうどぶつかったところの上に突起物があった。
「おいおい、もしまともにぶつかっていたら、額を直撃で死んどったのう」と思いながら、ぼくは自転車を立たせた。
そして行こうとした時、何か自転車がおかしい。
真っ直ぐ進まないのだ。
衝突の震動で、あの堅いフレームの部分が「クニャ」と折れ曲がっている。
このまま家に自転車を押していくことは出来ないだろうから、しかたなくバイト先にその自転車を持って行った。
会社に残った人はそれを見て「どしたんね?事故?」と聞いてきたので、ぼくは照れながら「はあ、こけました」と言った。
「自転車がこういう状態のに、よく生きとったねえ」と言われた。
確かにタイヤは折れ曲がっているし、チェーンも切れている。
「この状態なら修理も高くつくやろう。もう捨てたほうがいいよ」と言われたので、ぼくはそうすることにした。

その後就職するまで、ぼくは自転車には乗らなかった。
就職して何年か経ってから、新しい自転車を買った。
バスが時間どおりに来ないし、駅前が渋滞して電車の時間に間に合わないので、自転車で駅まで行くことにしたのだ。
しかし、駅まで行くことは行くのだが、帰りがあまりにも遅いので、何日かに一度しか乗って帰らないようになった。
ある日、警察から電話がかかったことがある。
「もしもし、しんたさんかね」
「はい、そうですけど」
「あんた、いつも駐輪所に自転車を置きっぱなしで帰っとるが、どうやって帰っとるんかね?」
「はあ、タクシーで帰ってるんですけど」
「え?タクシー?学生のくせにタクシーで帰るんかね」
「え?学生じゃないですけど」
「学生じゃない?」
「はあ、もう30歳に近いんですけど」
「それは失礼しました。自転車に住所と名前が書いているので、てっきり学生かと思って。でも、たまには乗って帰って下さい。盗難が多いですから」
盗難が多いのはわかっていた。
実はその自転車は、就職してから買った4台目の自転車だった。
前の3台は、盗られたのだ。特に2台目は買ってから3日目で盗られた。
「はい、わかりました」と言って電話を切ったが、結局その自転車も盗られてしまった。

その後、今に至るまで自転車を買ってない。
運動不足解消にはちょうどいいと思ってはいるのだが、また盗られたら嫌だし。
そういえば、この間のチラシで折りたたみ自転車が9800円で売っていた。
今度はそれにしてみようかなあ。



2001年11月12日(月) 自転車の思い出 2

小学5年生の時、初めてドロップハンドルの自転車に乗った。
夏休みに学校のプールに泳ぎに行った時、海パンを忘れてしまった。
その日、Kという友達が自転車に乗って来ていたので、「Kちゃん、ちょっと自転車貸して」と無理矢理借りて、家に海パンを取りに帰った。
そのKちゃんの自転車がドロップハンドルだった。しかも26インチ。
初めてなので前傾で乗るのが難しく、また足も届かなかったので、何度も転びそうになった。が、それでも何とか家に着いた。

しかし、それは学校に戻る途中に起こった。
ぼくの家から小学校に行くのには国道を横切らなければならない。
そこは通学路であったから、当然信号機も備わっていた。
ちょうどぼくが信号にさしかかった時、信号は黄色になっていた。
そこで止まればよかったのだが、慣れない自転車で、しかも足も届かなかったから、一度止まると乗るのに時間を食ってしまう。
ということでぼくは強行突破を決意した。
ところが、あと3メートルで横断歩道を渡り終えるところで転んでしまった。
信号はもう赤になっていた。
そこに大型のダンプが突っ込んできた。
「わ、死ぬ!」と思った。が、ダンプはぼくの2メートルほど手前で止まった。
「馬鹿野郎っ!!!」とダンプの運ちゃんは怒鳴った。
ぼくは立ち上がり、「すいませーん。ぼくは馬鹿でーす」と自転車を押してその場を去った。
学校に着くまで、胸はドキドキと高鳴っていた。
そして「もう2度とドロップハンドルには乗らん!」と心に決めた。
それから18歳までぼくはドロップハンドルには乗らなかった。

中学の時乗っていた自転車は最悪だった。
どういうわけかよくパンクをする。
ひどい時は、2日で1回のペースだった。
いくら小学生の頃より小遣いが上がったといっても、2日に1回の修理代は痛かった。これではコーラも飲めない。
お金のない時は、修理に出したまま何日も取りに行かなかった。
自転車屋に取りに行った時は、いつも「病気で学校を休んでいたもんで」などと見え透いた言い訳をしていた。
ぼくとこの自転車はよほど相性が悪かったのか、乗ればパンクするようになった時に盗まれてしまった。中学3年の秋のことだった。
ぼくは悔しさよりも、「盗んだ奴も修理代取られるぞ。かわいそうに」などと哀れんでいた。

そういえば、この自転車にもエピソードがある。
隣町にこの自転車で遊びに行っていた時、急に下腹が痛くなった。
一緒に遊んでいた友達に「悪いけど帰る」とダッシュで自転車を漕ぎ家に帰った。
その途中、石か何かに乗り上げてしまい自転車が弾んでしまった。
そして地面に着地した時、その震動が下腹に来た。
生まれて初めて漏らしてしまった。
下していたらしく、ベチョベチョで気持ち悪くてしかたなかった。
そしてズボンに染み込ませないようにと、立ち漕ぎで家まで帰った。

その自転車を盗まれてから、予備校に入るまでの3年半の間、ぼくの家には自転車がなかった。

 つづく



2001年11月11日(日) 自転車の思い出 1

ぼくが初めて自転車に乗ったのは、小学3年生の時だった。
2年までは周りに自転車を持っている人がいなかったので、それほど興味を持たなかったのだが、3年になるとクラスの連中が乗りだしたということもあり、俄然興味を持ち始めた。
当時の自転車の価格は今とほとんど変わらなかったから、当時貰っていた一日10円の小遣いをどう貯めても手が出るものではなかった。
世間ではその頃CMで流れていた「ツンツン、ツノダ」や「ミヤタ」といったブランド品が流行っていたが、あまり裕福でなかった我が家で買ってもらえるような代物ではなかった。

それでも何とか、名も知れぬメーカーの中古自転車を買い与えてもらった。
自転車が来たのは土曜日で、その日は嬉しくて眠れなかったのを覚えている。
明けて日曜日から猛特訓が始まった。
とにかくバランスが取れない。
最初の一漕ぎで倒れてしまう。
何度かの挑戦で、ようやく二漕ぎ三漕ぎ出来るようになったが、それでも10メートルも達せずに倒れてしまう。
今度は親や友達から後ろを持ってもらい、適当なところで手を離してもらったが、
「離すよー」と言われたとたんに倒れてしまう。
何度も何度も倒れて、怪我はするし、ハンドルは曲がってしまうし、結局初日は乗れずじまいだった。

翌日、クラスの嫌いな奴から「おれは一日で乗れるようになったぞ。教えてやろうか?」などと言われたので、頭に来て「お前なんかに頼まん」と言って断った。
家に帰り、友達に手伝ってもらいまた練習したが、全然進歩がなかった。
3日目も同じ状態だった。
「明日は絶対乗れるだろう」と期待していた4日目も同じだった。
お手伝いの友達もさすがに呆れて、「おまえ、下手やのう」と言うしまつ。
ぼくも、さすがにこの時は悔しいやら落ち込むやらで、その友達に「しゃーしい(うるさい)!自転車なんか乗れんでも生きていけるわい」と言って、喧嘩になってしまった。

5日目に奇跡が起きた。
その日は朝から何か体が軽くなったような気がしていた。
家に帰り一人で自転車に乗ってみると、なんとスイスイと漕げるのだ。
「何でこんな簡単なことが出来んかったんやろう?」などと思いながら、その辺を一周した。
「よし、あいつの所に行って驚かしてやろう」と、前日喧嘩した友達の家に自転車で向かった。
彼の家は、ぼくの家から200メートルほど離れた位置にあった。
ぼくが倒れることなくその家の手前まで来た時、その道の真ん中で、小さな子が座り込んで遊んでいた。
「おーい、危ないけ、どけー」と言ったが、聞こえてないのか、道に座り込んだままだ。
しかたないので、ハンドルを切りよけた。
が、何せ初運転、ハンドルを切りすぎてその子の上に倒れてしまい、初事故になってしまった。

その日から、ぼくと自転車との格闘が始まるのだった。



2001年11月10日(土) 誰だ?こいつ

今日、まったく知らない人から、「おーっ!こんにちは」と言われた。
ぼくは『エッ?誰だ?どこで会ったんだろう?』と思いながらも「こんにちはー」と一応頭を下げた。
するとその人が「今日は何事ですか?」などと声をかけてきた。
「はあ・・・?」と言いかけた時、後ろのほうから「いやー、今日は休みで買い物ですよ」と言う声がする。
よく見ると、三人が一直線上に並んでいる。
ぼくがその中間にいるのだ。
端の二人はお互いを見ているのだが、一直線上にいるため、ぼくを見て話しているように見える。
ただの勘違いである。
それにしても、そんな時は話しかける人に寄って行くなどして、ぼくを視線上に入れないで欲しいものだ。
二人が立ち止まって話すものだから、おかしいことになってしまう。

ところで、auのCMではないが、人から親しく「こんにちはー」などと声をかけられた時、『誰だったか?顔は見たことはあるんだけど・・・。お客さんやったか?前の会社の絡みだったか?』と思うことがよくある。
とりあえず、笑顔で「ああ、こんにちはー」と返してはいる。
自慢ではないが、ぼくは人の顔を覚えることが苦手である。
名前は姓名判断をかじっているせいか、わりとよく覚えている。
特にいい名前の人は忘れないものである。
しかし、顔のほうは人相学を勉強してないせいか、一度や二度会った位ではおぼえることが出来ない。

「こんにちは」ぐらいで終わればいいのだが、そこから「お久しぶりでーす。お元気でしたか?」などと話を続けられると、『さて、どう返したものか?』『どういう関係やったかのう?』『タメ口利いてもよかったやろうか?』『敬語の付き合いやったかのう?』と思いながら、とりあえず「はあ、一応」などと言葉短めに、ほとんど敬語で話している。
それから適当に話を合わしていき、その人を雰囲気や話の内容で必死に思い出そうとしている。
知ったものとして話を合わしているので、当然相手の名前は聞けない。
まあ、たいがいは話の流れで思い出すのだが、中にはなかなか思い出せない人もいる。
別れたあとも『で、一体誰やったんかのう?』などと考えているが、そのうち会ったことさえも忘れてしまっている。その程度の付き合いだったのだろう。
しかし、後になって「あ、そうか!あいつか」と思い出すこともたまにある。
その時、ぼくのほうがその人より力関係が上だった場合、「くそー、何であんな奴に敬語を使ったんかのう」などと悔しがっている。

これではいけないと、なるべく人の顔を覚えるようにしようと、むかしから努力はしている。
でも、人の顔は書いて覚えるわけもいかないし、「あなたの顔を覚えきらんから、写真を撮らして下さい」などと言うことも出来ない。
結局イメージで覚えるしかないが、そうそうイメージに残るほど特徴のある顔にはお目にかかれない。
何かいい方法はないものだろうか?



2001年11月09日(金) 盆暮れ男 2

Nさんより何週間か送れて入社したぼくは、地元で1週間ほど教育を受け、この会社の本部がある広島に研修に行かされた。
そこに運命があった。
広島の本部に行くと、受付の人が待っていた。
「ああ、しんたさんですね。所属は隣のビルの1階になりますので、そちらに行って下さい」と言った。
そこに行ってみると、2人の男性がいた。
「今度ここに配属されました。よろしくお願いします」
「しんたさんじゃね、よろしく。お宅の店からもう一人研修生がきとるで。今奥におる。おーい」とその人を呼んだ。
その人は「はいーっ!」と元気のいい声で、その人は出てきた。
「!」
「おう、待っとったで。ワシもお前と一緒の配属じゃ」
Nさんであった。

その日の仕事が終わり、一緒に宿舎に帰った。
帰る途中ぼくは、「Nさんどしたんね?広島弁で喋って」と訊いた。
Nさんは「ワシは順応する性質じゃけえのう」と言った。
いくら順応しやすい性質だからと言って、2週間ほどで自然に広島弁で喋ることが出来るものだろうか?
上に気に入られるために、無理矢理広島弁で喋っていたのだろう。
しかし、いくら広島で研修しているからと言って、広島弁で喋る必要があるのだろうか?
たかだか1ヶ月足らずの研修なのに。
後でわかったのだが、Nさんの意図は別のところにあった。
上の者に取り入って、将来広島の本部で勤務させてもらおうと企んでいたのだ。

その研修も終わり北九州に帰る日、Nさんは突然「あ、お土産買って帰らにゃ」と言いだした。
「えーっと、U専務と、K店長と、S部長と、M部長と・・・」
「なんね、お偉いさんに買って帰るんね?別に買わんでもいいやん」とぼくが言うと、Nさんは「こういう気遣いが必要なんじゃ。お前も買って帰れ」と言った。
Nさんは広島駅で人数分のもみじ饅頭を買った。
しかしぼくは買わなかった。
「買わんとか?まあ、今回はいいけど、お前もサラリーマンになるんやけ、お中元やお歳暮はせんとのう」とNさんはのたまった。
『馬鹿やないんか。この盆暮れ男が!』ぼくはこの時思った。

その後、Nさんは本人の計画通り本社勤務となった。
「本社は忙しいんじゃけえ」とぼくのところに来る度に言っていた。
ぼくが会社を辞めてから聞いた話だが、Nさんはある店の店長になる予定だったらしく、人事から打診があったそうだ。
喜んだNさんは、「わしゃ、今度店長になるけえのう」と、会う人会う人に言っていたらしい。
それが人事の耳に入り、「N君は店長に不向きだ」というレッテルを貼られたという。

何年か前にN屋のOB会で、ぼくは久しぶりにNさんと会った。
Nさんはぼくに「今、年収はどのくらいあるんか?」と訊いてきた。
ぼくが「○百万円くらい」と答えると、Nさんは嘲るように「少ないのう。わしゃ本部勤務じゃけえ、お前の倍は貰いよる」と言った。
ぼくは「おれ、年収とか興味ないけ」と言った。
そして『もう二度とこの人とは飲むまい』と思った。



2001年11月08日(木) 盆暮れ男 1

そろそろお歳暮のシーズンが始まる。
うちの店はあまり関係ないのだが、それでも年末ということで、何かと忙しくなる。

さて、ぼくほどお歳暮に縁のない人間はいないだろう。
あげたこともなければ、貰ったこともないからだ。
若い頃は、「お歳暮なんかする金があったら酒を飲んだほうがましだ!」と、年末は毎日のように夜の街をうそうそしていた。
今となってはそのお金すらない。まあ、あってもお歳暮なんかには遣わない。
とことんそういう儀礼というのが嫌いなのである。
儀礼といえば、社会に出てからは年賀状も出していない。
学生の頃は「年賀状というのは、正月に書かんと意味がない」などと勝手な理由をつけて、来た人だけに出していたのだが、だんだんそれも面倒になって、ついには出さなくなってしまった。

お歳暮といえば、「盆暮れ男N」さんを思い出す。
バイト先のN屋で知り合った人である。
彼も昨日のMさんと一緒の歳で、ぼくより3つ年上だった。
一見すると「いい人顔」をしていおり、目上から信頼されるような風貌だった。
ぼくもそういうイメージで付き合っていたが、ある日この人がぼくに「そんなに根詰めて働かんでもいい。仕事は要領よ」というのを聞いて、この人に対する見方が変わった。
この人をよく観察してみると、どうも上の人に気に入られることばかりしている。
「このお客は店長の知り合いだから大切にしないと」などと言い、一般のお客に対しては「適当にやっとけ」という具合であった。
こういう人だったから、上の受けはよかった。いつも「N君、N君」だった。
しかし同僚からは好かれてなかった。(本人は好かれていると思っていたが)
「なんかこの人は!ごまばかりすりやがって」
ぼくはNさんとは逆で、要領という言葉を好まず、いつも反抗ばかりしており、当然上の人からは嫌われていたが、同僚とは仲良くやっていた。

ぼくは1年間このN屋でアルバイトをしたのち、ある大手の電器専門店に就職した。
実は、Nさんが「お前も、いつまでもアルバイトばかりはしておれんやろう。いい所があるけ受けてみらんか?」と誘われたのだ。
ぼくは上の者に嫌われていたくせに、なぜかN屋が気に入っていた。
ぼくとしてはしばらく続けたかったのだが、しょせんアルバイトの身、ボーナスもなければ保険もなかった。
親からいつもそのことを言われていたので、「受けてみるか」という気になった。
ぼくの面接の印象がよくなかったようで、なかなか採用通知が来なかった。
Nさんは、面接後10日ほどで採用通知がきており、さっそくN屋を辞め、新たな職場に向かった。
ぼくの所に採用通知がきたのは、それから2週間ほど経ってからだった。
審議の末、N屋1年のキャリアが認められたということだろう。
これでまた、先に採用が決まったNさんといっしょに仕事をしなくてはならなくなった。
ここからNさんの本領が発揮されるのだ。

 つづく



2001年11月07日(水)

いくら善意から出た行動でも、間の取り方がまずいと怒りを買うことがある。
例えば贈り物などを届けてやっても、相手が出勤前だったり、夜遅かったりした場合、間違いなく相手は気分を害する。
「すいませんねえ、わざわざこんな時間に持ってきてもらって。別の日でもよかったのに」と言いながらも、顔にははっきり「不愉快だ。常識を知れ!」と書いてある。
ちょっとひねくれた人なら、「おれを怒らせるために、わざわざこの時間を選んで来たんじゃないのか?」と疑うだろう。

以前、ぼくの家ではF薬品という会社の置き薬を置いていたのだが、そこのセールスはいつも午前9時前、つまりぼくの出勤直前に来ていた。
いつもぼくは、「すいません。出勤前なので、また別の時間に来てもらえませんか?」と断っていたが、再三この時間に来るので、最後にはぼくも切れて「いいかげんにせ!この時間には来るなと言うとったやろうが!もう二度と取引せんけ、置いとる薬全部持って帰れ!!」と怒鳴りつけた。
相手は初めて、「この時間に来てはいけなかったんだ」と気づいたようで、何度も頭を下げ詫びを入れていたが、ぼくは受付けず、薬を全部持って帰らせた。
いくら間抜けな人間でも、二度同じことを言われたらわかりそうなものである。
つまり彼は、ぼくに対する間を外したのである。

営業や販売にとって、この間の取り方というものが、最も重要な要素となる。
販売技術や商品知識も大切だろう。価格も大切だろう。もちろん人柄も大切だろう。しかし、それだけでは物は売れない。
なぜ売れないか? そう、間の取り方が悪いからだ。
営業や販売の達人という人は、この間をうまく使いこなしている。

22歳の頃、ぼくはNという店で家電販売のアルバイトをやっていた。
その店に、Mさんというぼくより3つ年上の人がいた。
そのMさんの、間の取り方というのが、実に絶妙だった。この人にかかったら売れないものはないと言っても過言ではなかった。

ぼくがこの店に入ったとき、上司や先輩から「物を売るためには、大きな声でいらっしゃいませと言うことが大切だ」と教えられた。
そしてぼくはお客が来ると、教えられたとおりに闇雲に大きな声で「いらっしゃいませ」を連発した。
しかし、全然売れない。
入って2週間ほど経って、上司から「もう慣れたやろ。少しは売れるようになったかね?」と聞かれた。
「いや、大きな声で『いらっしゃいませ』を連発しているんですけど、まったく売れなくて」とぼくは答えた。
「そうか。でも焦らんでいい。そのうち売れるようになる」と慰められた。
しかしその後も売上は思うように伸びなかった。
最初は慰めてくれていた上司も、だんだんぼくを見る目つきが変わっていき、ついには「しんたはだめだ。もう首にしろ」というようになった。
まあ、首にはならなかったが、「しばらく他の売場に行って勉強して来い」といわれ、とうとう配置換えさせられた。
ぼくとしては、言われた通りにやって売れないのだから面白くない。
ふてくされて仕事をやっていた。
いいかげんに、大声で「いらっしゃいませ」を繰り返すだけになっていた。

ぼくがMさんを知ったのは、そういう時だった。
Mさんはぼくが新しく配置された売場の隣の売場にいた。
いつも売上はナンバーワンだった。
「Mさんとどこが違うのだろう?」と思ったぼくは、ある日Mさんをずっと観察した。
「え?」と思った。
Mさんは全然「いらっしゃいませ」と言ってない。
いや、言ってはいるのだが、お客さんに聞こえる程度で、こちらには聞こえないのだ。
それも、お客が来てからすぐには言ってない。
お客が一通り商品を見終わり、次に立ち止まったところを見計らって「いらっしゃいませ」と声をかけている。
それまでMさんは他の仕事などをして、お客に対してプレッシャーを与えないようにしているのだ。
商品説明もだらだらやっていない。
要点だけを説明し、あとはお客の質問に答えているだけだ。
「いらっしゃいませ」から10分程して、20万円の商品が売れた。
次に来たお客には、比較的大きな声で「いらっしゃいませ」を言っている。
このお客も、数分で15万円の商品を買った。
その後も何人か接客していたが、一人一人応対が違う。
しかも、接客した人すべてが買っているのだ。
お客の性格を瞬時に見分け、それの応じて接客方法を変えて行く。
思わず「すごい!これぞプロだ」と唸ってしまった。

それからというものMさんの真似をして接客した。
だんだん売上は伸びて行き、人並みの売上を作れるようになった。
接客に自信を得たぼくは、その後20年以上この仕事を続けている。
しかし、いまだにMさんの間の取り方の域には達してない。
彼は間の取り方の天才だった。



2001年11月06日(火) もうすぐ誕生日

そういえば、もうすぐ誕生日だ。
いよいよ44歳、40代前半も後一年で終わりか。
ということは、この一年で大飛躍があるわけだ。
実は20代の頃、小倉の「ガスライト」というパブで、将来の運勢を見てもらったことがある。
たしかホロスコープで占ったと思うのだが、その時に「あなたは40代前半に大飛躍をします。人も羨む成功を収めるでしょう」と言われた。
その時は「あと20年もあるやないか。面白くないのう」と思っていたが、もうすぐその期限が来るのである。
しっかり鑑定料2000円取られたのだから、当たってくれないと困る。

さて、誕生日がくると、いつも一人の男のことを思い出す。
保育園から中学校までいっしょだった“I”君のことである。
彼とぼくは同じ日に生まれた。
小学校3年になって初めてそのことを知った。
そこから悲劇が始まる。
“I”君は成績優秀で、いつも1学期の級長を任されていた。
先生の受けもよく、生徒の信望も厚くかった。
それに比べてぼくは、おっちょこちょいでおしゃべりで、人の迷惑になるようなことばかりしていた。
当然誕生日が近くなると比較される。
「“I”君はよくできるのに、しんたは馬鹿だ!」
「“I”君は大人しいが、しんたはしゃーしい(せわしい)」
「“I”君は真面目だが、しんたはふざけてばかりいる」
などなど。
先生生徒だけでなく、母親までもがそういうしまつ。
もう、誕生日が来るのが嫌で嫌でたまらなかった。

しかし、ぼくは全敗というわけではなかった。
“I”君に勝つものが二つあった。
一つは社会科である。
ぼくはむかしから社会科が大好きであった。
勉強というより趣味であった。
いくら“I”君が優秀といえども、趣味で社会科をやっているぼくに敵うわけがない。彼の社会科はあくまでも勉強なんだから。
全科目で捉えると歴然とした差があったが、社会科の点数だけは負けなかった。
もう一つはIQである。
5年生の時に行ったIQのテストで、ぼくはかなりの好成績だったらしい。
直接先生から聞いたわけではないが、クラスの子が「IQの結果が出て、しんた君がダントツだったらしいよ。先生が言ってた、『信じられん』って」と言っていた。
ということは、当然“I”君より上だったことになる。
普通のテストとは違って、IQは公表しなかった。
誰もがこの真実を知らないと思うと残念である。
ところで、ぼくはIQのことを聞いてから、さらに怠け者になり、馬鹿なことばかりやるようになっていった。
誰もがこの真実を知っているだけに残念である。

さてその後、“I”君は名門のT高校から九州大学に進学し、順風満帆の人生を送っているらしい。
ぼくはといえば、のちに恋愛学校とかラブラブ学校などと呼ばれるYC高校に進学し、その後は挫折の人生を送ることになる。が、もうすぐ占いの結果が出て、世間をあっと言わせる成功を収めることになる。
ん?待てよ。
“I”君とぼくとは、ホロスコープでいえば同じ星の元に生まれているわけだから、“I”君も40代前半で世間も羨む成功を収めるわけだ。
ということは、いつまでたっても差は埋まらないということになる。
くそー、“I”の奴め!



2001年11月05日(月) 幸せの行方

「はー」とため息をつくと、「幸せが逃げるよ」とよく言われる。
一理あるが、さて、その幸せはどこに逃げるんだろうか?
そしてその幸せを取り戻す方法はあるんだろうか?

幸せとはその人の心の持ちようだという。
「貧乏であっても幸せと思っている人は幸せだし、金持ちであっても不幸せと思っている人は不幸せだ」
幸せを語るときに、よく引き合いに出される喩えだ。
だから「物事をネガティブに捉えずに、ポジティブに考えましょう」という無責任な考えもここから出てくる。
しかし、ぼくの経験から言わせてもらえば、それは不幸せなことなんです。
そういう風に自分の心を縛って、無理矢理ポジティブに考えようとすることが、幸せだと言えるんだろうか?

例えば人通りの多い道を歩いている時に、石につまづいてこけたとしよう。
その時「おお、おれはなんと幸せなんだ!!」と思う人がいるだろうか?
大半の人は「ちぇっ、ついてないのう。恥かいてしまった。今日は不幸な一日やのう」と思うのではないだろうか。
しかしポジティブの考え方から言えば、「これを幸せだと捉えないと」と、こけたことが幸せであるための根拠を探さなければならない。
「そういえば、こけた場所のちょっと先に犬の糞が落ちていたなあ。こけなかったら気がつかんで踏んでいただろう。おれはなんと幸せなんだ!」とか、
「今日こけたということは、次からここを通る時は用心して歩くだろうからこけなくてすむ。なんとおれは幸せなんだ!!」とか、
「おっ、今日のこけ方は決まっていたぞ。おそらく見ていた人も『かっこいい』と思っただろう。うーん、なんといい日だ」などと、「ちぇっ、ついてないのう」の何十倍のことを考えなければならなくなる。

しかも、この幸せに考えようとする癖をつけてしまうと、万事にこの考え方をしなければ気がすまなくなる。
この考え方、つまり「幸せの言い訳」である。
他人から、「変な言い訳するねえ」「回りくどい人やねえ」「素直さが足りんねえ」「いつもヘラヘラ笑いよるねえ」などと言われ変人扱いされてしまう。
そんな陰口を叩かれても、なお「おお、おれは陰口を叩かれている。なんと幸せなんだ!!」と思おうとする。
いや、そう思わないと何か落ち着かなくなってしまう。
ここまでくれば、立派な病気です。
これを不幸と言わずに、何を不幸と言うのだ!?
心の持ちようだの何だの言うが、不幸なものは不幸です!

さて、冒頭の「ため息をつくと、幸せが逃げる」というのは、「『ため息をつくと幸せが逃げる』と思うことが、不幸せ」ということだ。
「あ、ため息ついた。どうしよう?」と思うより、そのことに触れずに歌でもうたっていたほうが賢明である。
幸せはどこに逃げるのか?
― はい、あなたが「幸せが逃げる」と思っているところに逃げます。
  つまり意識がそこに移行するだけの話です。
取り戻す方法は?
― はい、忘れることです。
 忘れることが一番幸せです。



2001年11月04日(日) 怪我のことなど 3

ようやく小倉に着いた。
まだ血は流れている。
ちょっとふらついているが、人に見つからないように平然を装って歩いて行った。
店に着いて、まず事務所に行った。
「すいません。ちょっとこけて怪我したもんで遅れました」
「怪我?どこをね?」
「はあ、頭です」
「頭!?」
総務の次長がぼくの頭を覗き込んだ。
「ああ、ひどいねえ。どこで怪我したんね?」
「はあ、黒崎で」
「えっ!?あんたこの怪我で、黒崎から来たとね?」
「はあ」
「病院行っておいで」
「えっ?」
「すごく切れとるよ」
「そんなことはないでしょう。頭の怪我やけ大げさなだけですよ」
「とにかく病院に行ってきなさい」
しかたなくぼくは事務所の女性に連れられて病院に行った。

病院でも同じ問答を繰り返し縫うと言い出した。
「えっ!?縫うんですか?嫌ですよぉ」
「いや、あんたが縫わんでいいなら縫わんけど。とりあえず写真を撮ってみるから、その写真を見て判断して下さい」
傷口の周辺の髪を剃られ、ポラロイドカメラで写真を撮られた。
見てみると、確かに傷口がパカっと開いている。
「どうするね?」
「縫わんで治す方法はないんですか?」
「ない!」
しかたなく、ぼくは医師の言う事に従った。
縫う間のぼくは饒舌だった。
「先生、電化製品要りませんか?」「今電子レンジが安くなってるんですよ」「分割払いでもOKですよ」などと言って商売をしていた。
結局5針縫った。
包帯を頭にくるくる巻かれ、「今日から抜糸まで絶対に頭を洗ったらいけんよ」と言われた。
夏は過ぎたとはいえ、まだ9月である。それから抜糸までの1週間、あまりの頭の痒さで気が狂いそうだった。

そのあと病院から会社に帰ると、例の次長が「今日はどうするね?帰るね?」と訊いた。
まだ頭は痛かったが、別に帰るほどきつくはなかったので、「仕事しまーす」と部署についた。
上司は「今日は店に立たんほうがいいやろう。なんなら外回りするか?」と言った。
ということで、その日は一日外回りをした。
得意先などを回ったのであるが、行く先々で必ずこう声をかけられた。
「どしたんね?パンツなんかかぶって」



2001年11月03日(土) 怪我のことなど 2

小学生の頃の怪我は、やはり圧倒的に「こけた」というのが多かった。
歩いてこける、走ってこける、自転車でこける、イスに座っていてもこける。
ぼくはさほど運動神経や平衡感覚が悪いほうではないのだが、それにしてもよく「こけた」。
こけた理由は身体的な能力にあったのではなく、性格上の問題にあった。
小学校3年の頃から、通信簿の連絡欄に「おっちょこちょい」という言葉が登場しだした。
「しんた君は人を笑わせることが好きで、クラスでも人気があるが、とにかくおっちょこちょいである」といったような文章が、小学校3年の1学期の通信簿にしんたの歴史上初めて書いてあった。
それ以来小学校を卒業するまで、この「おっちょこちょい」と「おしゃべり」がぼくの通信簿を賑わすことになる。

さて、こけて一番被害にあった場所が「ひざ」である。
ぼくのひざはいつも赤チンだらけだった。
右ひざが治ったと思ったら、今度は左ひざをすりむいてくる。
年中そんな繰り返しだった。
そんな生傷に絶えない中にも、楽しみはあった。
オキシドールである。
オキシドールを塗ると、確かにしみて痛いが、あのブクブクと立つ泡を見るのが好きで好きでたまらなかった。
だって、あの泡でばい菌が死んでいくんだから、こんなに楽しいことはない。
痛みを堪えながら、「死ね、死ねー」といつも言っていた。
傷口がかさぶたで塞がり治りかけている時に、痒くなることがある。
我慢できなくなって掻きむしり、かさぶたが破れて、再び血を見た時は悔しかった。風呂に入る時に、また痛みを我慢しなくてはならない。怪我をして一番辛いのは風呂に入る時だから。
お湯の痛みと石鹸の痛み、嫌でしたねえ。

こけて大怪我をしたこともある。
昭和56年のこと。
当時はバスで黒崎まで行き、そこから国鉄を利用して勤務地小倉まで通っていた。
今は橋上駅になり、エスカレーターやエレベーターで駅のデッキまで行けるようになっているJR黒崎駅だが、国鉄時代は入口が1階にあり、バス停から駅の入口に行くためには、まず当時あった西鉄北九州線の線路を渡るために、歩道橋を利用しなければならなかった。
歩道橋を上って下りて、さらに20メートルほど行って駅の入口に着く。
そこから改札を抜け、また階段を上り下りして、ようやくホームに出たのだ。
つまり階段を二度上り下りしなければならなかった。
9月のある日、ぼくはいつものようにバスに乗って黒崎に向かった。
相変わらずの渋滞である。
バスが黒崎に着いたのは、電車発車の2分前だった。
そこからダッシュである。
歩道橋の階段を駆け上がり、下りようとした時に足がわらになってしまった。
よろけながら下りて行って、歩道橋の手すりに頭をぶっつけた。
「痛てぇ」と思いながらも、ぼくは駅に向かった。
改札を抜け、駅の階段を駆け上がった時、電車は発車してしまった。
「あーあ、遅刻やん。どうしよう?」と思った時、首筋が冷たくなった。
「どうしたんだろう?」と触ってみると、なんと血がべったりと手についているではないか!
「頭ぶっつけた時に切ったか!? でも頭の傷は大げさやけ、すぐに治るやろう」と、ぼくは次の電車を待った。
何分か後に電車は来た。
席は充分に開いていたが、ぼくは座らずに立っていた。
まだ血がどんどん出ているので、もし人に見つかったら救急車で病院に運ばれてしまうと思ったからだ。
そんな状況でも「これで遅刻の言い訳ができる」と喜んでいる自分がいた。
さらに「これで笑いが取れるなあ」などと馬鹿なことを考えていた。

・・・つづく



2001年11月02日(金) 怪我のことなど

今日は休みだった。
前回の休みの時は外に出てなかったので、今日は歩いてヤマダ電機(歩いて15分位の場所)まで行ってみようと思っていたのだが、昨日の背中の痛みがまだ少し残っている。
どうも背骨の関節の噛み合わせが悪いようだ。
イメージとしては、背骨の関節がうまく噛まなくて右にはみ出してしまい、筋に触れているといったところか。
まあ、2,3日背骨の矯正をやれば治るだろう。
そんなわけで、今日も車を移動させたくらいで、ほとんど一日家の中にいたが、いい休養にはなったと思う。

さて、家の中で何をやっていたのかといえば、じっと手相を見ていたのです。
啄木の「 働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりぢっと手を見る」ではないけど、もう少しまともな人生を歩けんかなあと思い、運命線の行き着く先をじっと見ていた。
ところで、ぼくは手相を見るときは生命線を見ないことにしている。
左手の生命線の下のほうに大きな傷跡があるからだ。
それを見ると大変不愉快になる。
2,3歳の時、ヨーグルトのびんを持って便所で遊んでいたら、こけたらしい。
その拍子にびんが割れて出来た傷である。
母が急いで病院に連れて行き縫合したのだが、その縫合した先生というのがじいさん先生だったらしい。
母の話によると、手が震えていたそうである。
そのおかげで生命線が真っ直ぐにつながらず、何ミリかずれている状態である。
親父が早死にしたせいもあり、自分も早死にするんじゃないかと怯えていた時期がある。その時は「早死にしたら、そのじいさんのせいだ」と思っていた。
まあ、早死にはしなかったけど、そういう自分勝手な心の傷が残っているので、今でも生命線を見るのが嫌なのである。

傷といえば、右の眉毛の上にもある。
これは小学1年の時、駄菓子屋で、太目のストローが付いた風船でストローを吹いて風船を膨らまし、空気を出すと「ベー」という音のするおもちゃ(当時5円だった)を買い、喜んで走って帰ってくる途中、石に躓いてこけた。
その時に溝のふちで目の上を打ち、切れた傷である。
2針縫った。
5円の「ベー」のために痛い思いをしたものである。
ちょうどその翌々日が、小学校代表で八幡区の粘土細工大会に出る日だった。
目のところが腫れているし、包帯が邪魔になって粘土どころではなかった。
テーマは「怪獣」だったのだが、結局タヌキみたいなのを作って提出した。
結果は優良だった。
優秀以外はみな優良だったらしい。

怪我といえば、おっちょこちょいだったのでいくつでもネタがある。
あ、でももうこんな時間だ。
明日また続きを書きます。
ということで、今日はここまで。
礼!



2001年11月01日(木) 背中を痛めた

朝のことである。
店が開店し、入荷した商品を出していると、「すいませーん」とお客さんから声がかかった。
「この商品見せてください」と言われ、その商品を取るためにしゃがんだとたん、背筋に激痛が走った。
「ズッキーン」という感じで、息が出来なくなった。
そのとき脳裏に浮かんだのは、『なんか、この痛みは!今日一日が面白くなくなるやんか』だった。
昼出のパートさんにその話をしたら、「面白いとか面白くないとかいう問題やないやろ!大きな病気やったらどうするんね!?」と言われた。
ぼくは『そうか、大きな病気は背中に激痛が走るんか』と思いながら、「大丈夫、筋の痛みやけすぐ治るやろ」と言っておいた。
その後何時間か痛みが続いたが、帰る頃にはすっかり治っていた。

ぼくは自分の病気のことを真剣に考えずに、面白おかしくその状況を説明し、さらに病院に行かないので、いつも人から注意を受けている。
以前ある人の掲示板に「ぼくは20代の頃から親知らずに穴が開いていたんだけど、治療せずに放っておいたら、何年か前から神経がニョキっと出てきて、米を噛んでも痛い(笑)」と書いたことがある。
反響が凄かった。
「私も親知らず、治療してませーん」というレスも二、三あったが、そのほとんどが「虫歯を放っておいたら、菌が頭に回るなどして大変なことになりますよ」や「早く治療して下さい」というものだった。
しかし、それでもぼくは虫歯のことは気にせずに、今もまだ米を噛む痛みと闘っている。

そういえば、最後に歯医者に行ったのはいつだったろうか?
十何年か前にもう一方の親知らずを抜いたことがあったが、その後の記憶はない。
おそらく、それがぼくの20世紀最後の歯医者だっただろう。
たしかその時、歯が「スッポン」と言って抜けたのを覚えている。
医者は、歯を抜いたところにガーゼを詰め、「今日はこちらで物を噛まないように」と言った。
しかしぼくはその言葉を忘れて、しっかりとそちらで物を噛んだ。
すると何かがガーゼに引っかかり、そのままガーゼが抜け落ち、口の中は血だらけになってしまった。
「困った。どうしよう?」と思い、無意識にポケットの中を探っていると一枚のガムが見つかった。
ぼくは血だらけの口でガムを必死に噛み、柔らかくなったのを見計らって、傷跡ににガムを押し込んだ。何とか血は止まった。しかし口の中は気持ち悪かった。

歯医者といえば、その何年か前(20代後半だった)に行った歯医者はちょっと変わっていた。
何が変わっていたかというと、そこの助手達である。
そこには若い女性の助手が4、5人いたのだが、初めてその歯医者に行った時、その中で一番若い子がぼくに付いた。
ところが、ぼくがイスに座ったとたん、「はい、クチュクチュして下さい」と言うのだ。
「え?」とぼくが言うと、「早くクチュクチュして」と言う。
『おいおい、“クチュクチュ”ちゃなんか。お前より年上やろうが!子供やないんぞ!』と思いながら、ぼくはクチュクチュした。
“クチュクチュ”の後に言ったのが、「はーい、大きなお口開けてー」だった。
他の助手にも変わったのがいた。
治療中に「ねえ、しんたさん。わたしねえ、夫とうまくいってないんよ。離婚しようと思いよるやけど、どう思う?でもねー、子供もおるしねえ。どうしようか?」と突然言い出した。
こちらは口を開けていて何も答えることは出来ない。
それに、見ず知らずのただの患者に、こんな大事なことを打ち明けること自体が間違っている。
治療が終わるまで、この二人の「クチュクチュ」と「離婚願望」の攻撃が執拗に続いた。

歯の治療が終わって何週間か立ってから、同僚がその歯医者に通いだした。
やはり彼も、あの歯医者は変わっていると言っていた。
「人をいくつと思っとるんか!」と憤慨していた。
「そういえば、あの助手二人がしんちゃんのこと言いよったよ」
「何て?」
「しんたさんって変わってますね」
その歯医者には二度と行かなかった。


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