ぼくはそれまで、「ジャンジャカ、ジャカ、ジャカ」とピックを使ってストロークばかりやっていた。 しかし、ギターの醍醐味はやはり指で奏でることだろう。 そう思って、ギターを始めた当初から無視してきた教則本にお世話になることにした。 楽器屋に行って、フィンガー・ピッキング奏法中心の教則本を買い、早速挑戦した。 まず、アルペジオから始めた。 案の定、うまくいかない。 音符通りに指が動かない。 一音一音のバランスが取れない。 指に力が入らない。 毎日毎日指を動かす練習をした。 指に重りをつけてもみた。 授業中、入浴中、トイレの中でも指を動かし続けた。 それでもうまくいかない。 「もういい。おれはピック一本でいく」と何度思っただろう。 10日ほどして、何とか指が動くようになった。 教則本に載っていたアルペジオの課題曲は3曲だった。 一応、教則本のアルペジオは出来るようになった。 試しに拓郎の「雨」などをコピーしてみた。 ぎこちないものの、何とかうまくいった。
次に厄介なものが待っていた。 スリーフィンガー奏法である。 リズムの取り方が全然わからない。 しかも課題曲は知らない曲ばかりだ。 当時の教則本というのは、テープやソノシートなどが付いた本などは、ほとんどなかった。 「こればかりは独学ではどうにもならんのか。といって、人から教わるのは好かんし。どうしよう?」 しかし、その頃のぼくには情熱があった。 読めない楽譜を自分なりに読んで、何とかスリーフィンガーのリズムをつかんだ。 「ベースランニング」や「ハンマーリング・オン」「チョーキング」といった高等テクニックは出来なかったが、何とかスリーフィンガーの形にはなった。
さて、スリーフィンガーが出来るようになった頃、一つの事件がおきた。 それは、体育の授業中のことである。 バスケットの試合をやっていた時、相手のボールを捕ろうとして、右手の小指をボールに引っ掛けてしまったのだ。 かなり痛かった。 が、ただの突き指だろうと湿布をしておいた。 もちろん、ギターの練習もした。 翌日、朝起きてから異変に気が付いた。 その指が脹れあがり赤黒くなっているのだ。 小指を曲げると、何か「ギーギー」といっているような感じがする。 「折れたか!」 その時ぼくはすぐに決断した。 「病院には行かん」 元来の病院嫌いである。 骨が折れたのは、生まれて初めてのことだったが、病院に行くとギプスをされる。 そうなるとギターが弾けなくなる。 ということが、すばやく頭の中を駆け巡ったのである。 自分の体のことよりギターを選んだぼくは、その後何十年も右手の小指の痛みと闘わなければならなくなる。
一方、ギターのほうは順調に上達していった。 スリーフィンガーもある程度はマスターした。 しかし、何かが足りない。 テレビで弾き語りをしているのを見ると、左の指がひんぱんに動いているのだ。 それに比べ、ぼくはコード固定で弾いていたため、演奏が一本調子になり面白くない。 ほかの教則本などを見ても、左指の動きなどは書いていない。 「これは何で勉強したらいいんだろう」と思っていた。 いろいろ本などで調べていると、ある広告が目に付いた。 「エレックレコード/はがとまるニューフォークギター教室」という通信講座の広告だった。 「エレックレコードなら間違いないやろう」と資料を取り寄せた。 半年間の講座で、値段もそう高いものではなかった。 さっそくぼくは入会した。
高校一年の5月、ラジオでよしだたくろうの新しいアルバムの特集をやっていた。 「伽草子」である。 何曲か流していたが、その中の一曲にすごい衝撃を受けた。 何か頭をガツンと殴られたような感じがした。 その一曲とは、「制服」という曲だ。 このアルバム中唯一の、ギター一本弾き語りである。 ぼくはそれまでにも拓郎の歌を聞くことはあったが、その他の流行歌のようにただ聞き流すだけだった。 「今日までそして明日から」を聴いても、「ああ、これがフォークソングというんだな」と思う程度だった。 しかしこの歌は違った。 歌詞は単純なのだが、熱く迫ってくるような「語り」であった。 ぼくは、こんな歌を聞いたのは初めてだった。 さらにすごかったのがギターであった。 簡単なフラットピッキング奏法なのだが、ベース音を効果的に使い、説得力がある。 もちろん、こんな演奏を聴くのも初めてであった。 火がついた。 こんなの聴かされたら、一刻も早くギターが欲しくなるものである。 ぼくの「ギター欲しい」は、「ギターを弾きたい」という漠然とした理由から、「オリジナルを作って弾き語りをしたい」という具体的な目標へと変わった。
ぼくがギターを手に入れたのは、それから半年後、11月のことであった。 たしか堀田というメーカーのギターだったと思う。 親戚からもらったものだった。 手に入れた翌日、ぼくは楽器屋に行って、ピック・ピッチパイプ・カポタスト、それと拓郎の楽譜本を買った。 最初から教則本無視である。 楽譜本にはダイアグラムとストロークの仕方が付いていたので、そのとおりに弦を押さえて弾けばいいと思ったのである。 まず、簡単そうな曲を選び、一つ一つコードを覚えていった。 すばやくコード進行が出来るように、繰り返し繰り返し練習した。 最初は一曲あたり、1週間を要した。 だんだん、その間隔も狭くなっていったが、ここでひとつの難関にぶち当たった。 コード「F」である。 いわゆるバレーコードである。 人差し指で、6弦全部を押さえなければならない。 これが出来んのです。 その当時は、ギターがそううまくない奴でも、Fを弾けると聴いただけで「こいつ天才やのう」と感動していた。 そのくらいFは初心者には難しい。 「Fが押さえられなかったから、ギターを断念した」という話を、嫌になるほど聞かされたものである。 とにかく、ギターに対する情熱だけはあったから、「ここで負けるわけはいかん」と、ぼくにしては珍しく根性を見せた。
1ヶ月かかったが、何とか音は出るようになった。 さて、次はリズムである。 むちゃくちゃだった。 何とか弾けるようになった曲を、レコードに合わせて弾くと、だんだん音がずれてくる。 一曲終わった頃に、まだ何小節か残っている状態である。 音にの抑揚がなく、ただ弾いているだけであった。 しかし、ここでもぼくは根性を見せた。 ちゃんとリズムが合うまで、何日間もかかって練習したのである。 当時ギターの練習時間は、毎日4時間を超えていた。 指が切れるまでは行かなかったが、左指の先は弦の錆などで変色してしまっていた。 とにかく、後にも先にも、逃げないで一つのことをやったのは、このギターの練習だけである。 一曲出来たら次の曲、というふうに飽きずに地味な作業をやったものである。 主だった曲を一通り出来るようになったのは、ギターを始めてから3ヶ月くらい経ってからだった。 その後に、もう一つの難関が待っていた。
先日裁判所から、「破産者(K楽器)に対する破産事件について、破産管財人から配当するための財源がないため破産手続きを終了する旨の申し立てがありました。・・・」という通知が来た。 つまりぼくが販売を委託していたギターの代金が、入ってこないということになったわけだ。 「12万円で売れました!」とぬか喜びさせやがって。(7月2日の日記参照) まあ、今回のことは倒産した時点からわかっていたことであるから、そんなにショックは大きくなかったのだが、ただ非常に頭にきたのは確かだった。
さて、もう戻ってこないギターであるが、これは過去から換算して9台目のギターだった。 メーカーはマーチンで、同一メーカーとしては2台目のものだった。 ちなみに、「歌のおにいさん」に収録している歌の演奏は、ほとんどこのギターで弾いている。
ぼくがギターを弾き始めたのは、高校1年の時である。 中学の頃からギターが欲しくて、あの「TVジョッキー」に出ようかと考えたこともある。 きっかけは中学2年の時、文化祭で3年生が岡林信康の歌を弾き語りで歌ったのを聴いたことだった。 それまではギターは難しいものだと思っていたのだが、コードを押さえてストロークするだけの簡単な弾き方もあると知って、俄然ギターに対する情熱が芽生えた。 まあ、最初は漠然と「ギター欲しいのう」と思うだけだったのだが、中学3年の時に友人が学校にギターを持ってきたのを触らせてもらってから、「ギター欲しい」は本物になった。 その友人は何度か学校にギターを持ってきて、ぼくにコードや弾き方を教えてくれた。 しかし、たまにしか持ってこないギターで、コードや弾き方を習ったってすぐに忘れてしまう。 友人が「この間教えたやないか。お前はCのコードひとつ覚えきらんとか!」と言うので、ムッとしたぼくは「じゃあ、覚えてやるけ毎日ギターをもってこい」と言った。 友人は相変わらず、たまにしか持ってこなかった。 ということなので、ぼくも中学を卒業するまでCのコードを覚えきらなかった。
ぼくの通った中学は、それほどギターが盛んではなかった。 そのためレベルも低かった。 他のクラスに、学校中の誰もが認める「フォークギター上手」がいた。 一度弾いているところを聴いたことがあるが、ちゃんとギターを弾いて歌を歌っているのだ。 誰もが「うまい」「さすがやねえ」などと言っている。 ぼくもそれを見て「凄い!」と思っていた。 しかし、それは「凄い!」ことでもなんでもなかった。 彼は、簡単なストローク奏法をしていただけにすぎず、技術的には大したものではなかった。 つまり、彼は「フォークギター上手」ではなかったのだ。 みんな自分がギターを弾けないから、彼を「フォークギター上手」と思っただけにすぎない。 そのことをぼくは、高校に入ってから知ることになる。
高校に入ってから一番衝撃を受けたのは、ギターを弾く人間があまりにも多かったことである。 しかもレベルがかなり高い。 難易度の高かった拓郎の「花嫁になる君に」や「旅の宿」を、いとも簡単に弾く人が何人もいる。 ぼくは、ああいう難しい曲は、レコードの世界の人しか弾けないものだとばかり思っていた。 しかし、それはぼくの認識不足だった。 「お前、それ誰に教えてもらったんか?」と聞くと、「誰にも教えてもらってない。レコードからコピーしただけ」と言う。 「コピ−? コピーちゃなんか?」 「レコードから音を拾うこと」 「え?レコード聴いて覚えたんか?」 「そう」 世界が違う。 「もし『フォークギター上手』がここにいたら、赤恥もんやのう」 と、ぼくはその時思っていた。
毎年この時期になると、学芸会のことを思い出す。 現在こちらの学校では学芸会を2学期にやっているが、ぼくたちの時代は、運動会は2学期、学芸会は3学期と相場が決まっていた。 講堂に漂うナフタリンの匂いが、今でも懐かしい。
ぼくは小学校の学芸会で、六回のうち四回、器楽合奏に参加した。 担当はハーモニカである。 ぼくはおじの影響で、物心ついた時にはすでにハーモニカを吹いていた。 当時流行っていたカントリー&ウェスタンを、よく吹いていたそうだ。 そのおかげで、保育園や小学校の時、ハーモニカだけは誰にも負けなかった、と思う。 小学生の頃の音楽の成績はいつも4であった。 歌は真面目に歌わなかったし、他の教材であるたて笛がそれほど得意ではなかったので、おそらくハーモニカの腕が評価されての成績だったのだろう。
さて、学芸会においてハーモニカというのは、ピアノや大太鼓・小太鼓などに比べると目立たない存在である。 しかしぼくは、たて笛よりはいいと思っていた。 その時の写真が残っているが、たて笛を吹いている奴は、表情が実に暗い。 顔を下に向け、唇をとがらせて笛をくわえ、上目づかいで指揮者を見ているのだ。 それに比べると、ハーモニカを吹いているぼくたちは、ひじを張って明るい表情をしている。 たて笛が得意じゃなくて本当によかった、と今でも思っている。
ところで、残りの二回の学芸会では何をやったのかというと、合唱と劇である。 合唱は二年の時、劇は四年の時だった。 合唱をやったのには理由がある。 実は、最初ぼくは「踊り」に回されていたのだ。 初めての練習の時、先生がどんな踊りをやるかの説明をした。 それは、創作ダンスのようなものだった。 説明が終わり、先生が「じゃあ、基本の練習をしましょう」と言った。 基本の練習とは、なんと「スキップ」なのである。 その日の練習時間は一時間であった。 ぼくたちは一時間、バカみたいに笑顔でスキップをやらされていた。 「こんな女々しいこと誰がするか!」と思い、ぼくは練習が終わってから先生にかけあった。 ぼくが「踊りは嫌ですから、代えて下さい」と言うと、先生は「踊りのどこが嫌なんね。楽しいやろう」と言った。 ぼくがしつこく「代えてくれ」と言ったので、先生もあきらめたのか「じゃあ、何がしたいんね?」と聴いてきた。 「ハーモニカがしたいです」 「器楽はいっぱいやけ、だめ」 「じゃあ、歌でいいです」 ということで、合唱に変えてもらった。 このことがあったからだと思うが、なぜかぼくは踊りが嫌いになった。 後年、ディスコに行っても、飲むだけで踊らなかったのは、この一時間のスキップが影響している、と思っている。
もう一方の劇のほうは、自分から志願したのである。 三年の時、ぼくは同学年の劇を見て「劇のほうが目立つやん」と思っていた。 四年の学芸会の種目分けの時、先生が「劇に出たい人」と言ったので、ぼくはすかさず手を上げた。 難なく劇に決まった。 その年の四年生の劇は「彦市とんち話」であった。 練習初日に、オーディションのようなものがあった。 これで役を決めるのだ。 が、役は最初から決まっていたのだと思う。 いい役に選ばれたメンバーを見てみると、PTAの役員の子供か成績の良い生徒ばかりだったのだ。 子供心に嫌な気がしたものだ。 ぼくに与えられた役は、「その他のたぬき」だった。 セリフも、たぬき全員で「彦市どーん」と言うだけだった。 これを言うだけのために、何日も練習したわけである。
さすがに5年生からは本業(?)に戻った。 ハーモニカ担当は10人ほどいたのだが、ソロパートを吹く3人の中に選ばれた。 やはり自分に自信があったからだと思うが、緊張もしなかった。 たぬきの時は「彦市どーん」一つに、なぜか緊張したものだった。 もしかしたら、今でも人前で「彦市どーん」とは言えないかもしれない。 今度試しに、店に来たお客さんの前で言ってみようか。 しかし、その時は違った意味で緊張するだろうなあ。
昨日だったか、NSPが再結成するというのをラジオで聴いた。 ぼくは別に彼らを好きではなかったので、どんな歌を歌っていたのかは知らないが、ギターで「夕暮れ時はさびしそう」や「さよなら」の練習をしたおかげで、この二つの歌は知っている。 ラジオからは「夕暮れ時はさびしそう」が流れていた。 そういえば、「さよなら」はどんな歌だったろう。 いろいろ思い出してみたが、どうも出てこない。 「さよなら、さよなら」と口の中で繰り返しているうちに、オフコースの歌が出てきたり、拓郎の歌が出てきたりした。 「どんな歌だったろう?」となおも考えていると、ふと頭の中が真っ白になった。 そして次に口の中から出てきた歌は、なんと「さよなら三角」だった。
「さよなら三角、また来て四角、四角は豆腐、豆腐は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるは蛙、蛙は青い、青い葉きゅうり、きゅうりは長い、長い葉エントツ、エントツは暗い、暗いは幽霊、幽霊は消える、消えるは電気、電気は光る、光るは親父のハゲ頭」 小学生の頃、こんな歌をよく歌ったものだった。 そういえば、こんなのもあった。 「そうだ、そうだ、ソーダー会社のソウダさんが死んだそうだ。葬式饅頭、おいしそうだ」 いったい何なんだろう、この歌は? ただごろがいいだけで、何の意味もない。 しかし、小学生の頃は必死に覚え歌っていた。 ああ、こういうのもある。 「一つ二つはいいけれど、三つ三日月ハゲがある。四つ横ちょにハゲがある。五ついくつもハゲがある。六つ向こうにハゲがある。七つ斜めにハゲがある。 八つやっぱりハゲがある。九つここにもハゲがある。十でとうとうハゲちゃった」 数え歌の一種か。 似た歌で、 「いーち芋屋の兄ちゃんと、にー肉屋の姉ちゃんが、さーんさるまた脱ぎ合って、しーしっかり抱き・・・・」 あっ、これは放送禁止歌だった。
歌詞のほうはいろんな地方や地区によって違うだろうが、曲はだいたいいっしょだと思う。 いったいこういうのは誰が作るんだろう? また誰が教えるんだろう? 別にテレビやラジオでやっていたわけでもなかった。 気がついたら小学校で流行っていたのだ。 まさか「カバゴン」こと阿部進先生が教えたわけではないだろう。
しかし、これを歌と呼んでいいものかどうか。 まあ、確かに童謡や唱歌ではない。 ということは「カゴメカゴメ」のような、わらべ歌に属するものだろうか? わらべ歌には、「あんたがたどこさ」とか、「とうりゃんせ」とか、「花いちもんめ」などの遊び歌も含まれるのだから。 他に「大波小波、高山越えて、低山越えて、谷川渡って、ワンツースリー」とか、「郵便屋さん、郵便屋さん、はがきが一枚落ちました。拾ってあげましょ、いーち、にー、さーん、しー、お変わりさん」などという、縄跳びでうたっていた歌もそう呼んでいいと思う。
ちなみに、「郵便屋さん」とは時代を先取りした言葉だと思う。 郵便屋と言うくらいだから、公務員ではない。 民営化を読んでいたのだろうか? 「カゴメカゴメ」もよく予言の歌と言われているし、わらべ歌には何かそういう不思議な力があるのかもしれない。 と言うことは、「いーち芋屋の兄ちゃんと・・・」にも、何か暗示が隠されているのかもしれない。 ああ、この歌全部書きたい!
こちらのサティは、今頃8割引セールをやっている。 おかげで今日、うちの店は暇だった。 店長いわく、「潰れた会社が、市場を荒らすようなことをするな!!」 たしかにその通りである。 潰れた会社は、細々とやっていってもらいたいものである。 そうしないと、こちらの身が危なくなってくる。
そういえば、ぼくが前に勤めていた会社の同僚の中に、サティに行った人間が何人かいる。 聞くところによると、そのほとんどが人員整理にあったそうである。 その中の何人かは、まだ再就職先が決まってないということだ。 現在北九州では、企業の求人募集がかなり減っている。 販売業などは、ほとんどないと言っていいだろう。 そのため、職種を限定したり、選り好みをしたりすると、仕事は見つからない。 どういうわけか、彼らは以前勤めていた会社 ―ぼくもいた会社― に、職を求めているというのだ。 それなら、何で辞めたんだ!? 一度辞めた会社に復帰した場合、よほどの功績を立てない限り、評価はもらえない。 後足で砂をかけるような真似をした人間に、当然企業はいい顔をするはずがない。 何かあれば、またリストラの対象にされるのがオチだ。
それを考えると、彼らとほぼ同時期に前の会社を辞めたぼくは、いい企業を選択したと思う。 と言っても、今のところは、であるが。 しかし、ぼくも今年からリストラ対象の歳になるのだ。 決して楽観してはいられない。 何か手を打っておかなければ。 人に使われるのはもう真っ平だから、何か個人でやって行きたいと思ってはいるのだが、悲しいかな、ぼくにはその下地がない。 新たに何かを始める根性もない。 かといって、またサラリーマンというのも芸がないし。 このジレンマに、たまに悩んでいる、今日この頃である。
しかし、実際そうなったらどうしようか? とりあえず、何かを始めないと、当面の生活に困る。 個人でやるとしたら、いわゆるフリーターにはなりたくない。 現段階で確実にできることと言えば、朝は宛名書き、昼はコイル巻き、夜はストリートミュージシャン、夜中はチラシ配り、という道しかない。 いったい、これでいくらになるんだろうか? おそらく、今よりはずっと収入が減るだろう。 もう少し実入りを増やすとしたら、あれしかない。 ホームページにバナー広告を入れて、訪れた人にクリックしてもらう。 しかし、「頑張る40代!」は神聖な領域であるから、ここでそれをやることは出来ない。 別に「裏しんた 頑張れ40代!」という、スケベな出会い系サイトを作ってみるか。 そしたら、それ系の人がやってきてクリックしてくれるだろう。 ぼくは面倒なのが嫌いだから、きっとやらないだろうが。
いっそ、姓名判断でもやるか。 神棚作って、白装束に身を固め、髪を伸ばし、ひげをたくわえ、線香を焚き、いかにもそれらしく振舞う。 肩書きを「白毛流日庵派姓名術 四十代宗家」と、いかにもそれらしくしておく。 来る人来る人に、「あなたは、今までは苦労の連続だったけど、これからは幸運が舞い込んでくるでしょう」と占ってやれば、誰も悪い気がしないから、「あそこは当たる!」と評判になるだろう。 年寄りを騙しさえしなければ、警察に捕まることもない。 「しろげ先生」と呼ばれるし、こちらも悪い気はしない。 これなら今以上の収入を得られること請け合いだ。 もしかしたら、一財産稼げるかもしれん。 そうなると、税金対策が必要になる。 専属の税理士を雇うか。
2002年01月25日(金) |
本のことを語り出すときりがない |
昨日の日記を書き終えたのが、今日の午前7時過ぎ、その後レスなどをやって、寝たのは8時を過ぎていた。 午後2時に起きようと思っていたのだが、目が覚めたのは午前11時だった。 窓から日が差し込むと、習性なのか、すぐ目が覚めてしまう。 きっと人間という動物は、日が昇ってからは熟睡できないように出来ているんだろう。
さて、今日は相変わらず寒かったものの、久々に青空が広がっていた。 目が覚めてから、すぐに身支度をして、灯油を買いに行った。 年末に買った灯油6缶が、ついに底をついたのである。 先日友人から「あの店、年明けてから、灯油の値段が上がとったよ」と聞いていたので、後日値段が下がることもあると思い、今回は3缶だけ買うことにした。 ところが店に行ってみると、値段は前回と同じ1缶(18リットル)498円であった。 これなら6缶にしておいたほうがよかったかも。 後日値段が上がることもあるかもしれないし。
灯油を買って帰り、昼食を取ったあと、給料日後恒例になっている黒崎の銀行回りに行った。 「しんたは、いつも『銀行に行った』と日記に書いているが、いったい何をしに行くんだろう?」と思う方もおられるだろう。 ストッキングを頭からかぶり、モデルガンを片手に銀行に行く、わけではないのでご安心を。 実は、預金通帳を片手に、各支払いの振り分けをしに行くのだ。 光熱費の支払いやクレジットの返済といった主だったものは、メインバンクでの引き落としにしているので、面倒なことはないのだが、ごく一部の支払いを他の銀行でやっているために、毎月の行事になってしまったのだ。 まあ、インターネットバンキングをやっているので、わざわざ銀行に足を運ぶ必要はないのであるが、銀行回りの後のお楽しみがあるので、これだけはやめるわけはいかない。
いつものようにJRで黒崎まで行き、銀行4行を回り、その後のお楽しみである井筒屋ブックセンターに行った。 普通の本屋なら会社帰りにでも行けるのであるが、ブックセンターはデパートの一部であるから、午後8時までしか開いていない。 とにかくここは、近郊の他の本屋と比べると取り扱いの本の量がかなり多い。 専門書や各社の文庫本を扱っているというのも魅力の一つである。 つまり、変な本ばかり探しているぼくにとって、うってつけの店なのである。
ぼくと本屋との付き合いは長い。 小学生の頃から、街に出ると、おもちゃ屋などにはわき目も振らず、本屋ばかりに行っていた。 古本屋、貸本屋など、本屋と名がつくところならどこにでも行った。 一度「○○本店」という看板の店に入って、恥をかいたこともある。 この本屋好きの性格はその後も変わらず、東京に出た時、下宿を決める第一条件に「本屋の近く」をあげたほどである。 その時は、不動産屋が紹介してくれた、高田馬場のけっこう大きな本屋の近くに決めた。 就職を街中に選んだのも、本屋が近いからである。 もちろん、今の職場の近くにも本屋がある。
ぼくが今気に入っている本は、専門書ではない。 小学館文庫である。 他の文庫と違い、内容が自分に合っているからだ。 ぼくは小説は読まないので、小説系の文庫は最初から敬遠している。 まず、店に入ると、小学館文庫のところに行く。 その後、歴史書やパソコン関係の本が置いてある2Fに行く。 だいたいこのパターンである。 しかし今日は、探している本があったので、まず3Fに行った。 3Fはコミックの売場である。 探している本というのは、チャンピオンコミックの「熱笑!!花沢高校」である。 が、古いせいかなかった。 ということは、近々福岡の「紀伊国屋」に行くことになるだろう。
しかたなく1Fの小学館文庫のある場所に行った。 一応小学館文庫を一通り見て、それから2Fに行った。 歴史書である。 これといったものがない。 しかし、数ヶ月前はあれだけ「歴史教科書」で盛り上がったコーナーが、今は鳴りを潜めている。 相変わらず「新しい歴史教科書」は小積んであったが、それに関する批判本はほとんどなかった。 やはり、ただの便乗本だったわけか。 「ああいう揚げ足取りの本を誰が買うのだろうか?」と思ってはいた。 たしかに、教科書採択に間に合わせただけの安易な本であった。 何か報告書のような薄っぺらい本で、紙も粗悪なものだった。 書いている人は左翼系の人だから、イデオロギー本であることは間違いないだろう。 しかし、時期を限定したのであるなら、国民に訴えるというのがある反面、金儲けに走ったとも考えられる。 何せ、「新しい歴史教科書」は60万部のベストセラーだったわけだから。 根性の腐った奴らだ。 そういうことを踏まえて、今日は小学館文庫の“迫りくる「全体主義」の跫音”(西尾幹二著)を買うことにした。 教科書採択の時のことがいろいろ書かれている。
さて、今日は2冊買おうと思っていたので、あと1冊を探した。 こういうとき、なかなか決まらんのですよね。 小学館文庫でほしい本は他になかった。 文庫のところをぐるっと回ってみると、「おっ!」と思う文庫があった。 気がつかなかった。あの学研が文庫を出していたのだ。 しかも「ムー」とは関係のない本ばかりである。 文庫創刊のご祝儀買いというわけではないが、ここから残りの1冊を選んだ。 「徒然草・方丈記」である。 学研文庫の古典は特長がある。 普通古典は、原文→読み下し文→語訳→訳→解説というふうになっている。 これが非常に読みにくい。 だいたい文庫本はテキストや参考書ではないので、訳のみで充分である。 例えば、フランス文学に、こういう原文から解説までの順序を踏んでいる本があるだろうか? たしかに言い回しはいいかもしれないが、これでは意味が伝わらないし、読んで面白くない。 日本や中国の古典を訳している人のほとんどは学者なのである。 いくら権威とはいえ、こういう世俗を超越した人たちの文章を、誰が喜んでみるだろうか。 しかし、この学研文庫の古典は、そういういらんものがいっさい付いてない。 普通の読み物になっている。 そこが気に入ったのである。 今日見たところでは、学研文庫の古典はまだ5冊しか出てないようである。 これからが楽しみである。
おお、長くなりましたなあ。 本のことを語り出すときりがない。
おお、4時過ぎている。 寝てましたな。 パソコンの前に座る気力もなかった。 明日は休みだし、ちょっとだけ寝てから日記を書こうと、横になっていた。 2時には起きようと思っていたのだが、寝過ごしてしまったか。
寝過ごしたといえば、前の会社にいた時、電車で寝過ごしてとんでもないところに行ったことがある。 ぼくは電車に乗ると寝る癖がある。 いつもは目的駅の手前で目が覚めるのだが、その時はよほど疲れていたのだろう。 その日、最終の「南福岡行」に乗って帰った。 いつものように寝入ってしまい、いつものように黒崎駅のひとつ手前の八幡駅で目が覚めた。 「お、八幡か。もう着くな」と思っていた。 普段ならここで降りる準備をするのだが、その日はなぜかもう一度目を閉じた のだ。 これが命取りだった。 次に目を開けた時、「あかま(赤間)」という声が聞こえた。 「お、いかん。寝過ごした」と、慌てて電車を降りた。 赤間というのは黒崎から数えて6つ目の駅で、車で行けば家から2,30分の場所である。 「ここからタクシーで帰るか」と思いながら、改札口に向かって歩いていると、どうも勝手が違うのだ。 ホームの感じが違うし、階段もなんとなく新しく感じた。 「改築でもしたんかなあ」と何気なく駅名を見てみると、「ささばる(笹原)」と書いてあった。 「え、笹原?」、聞いたことのない名前である。 「たしか『赤間』と言ったよなあ。駅名を変えたのか」などと思いながら、改札口にさしかかった。 「清算せないけんなあ」とポケットを探っていると、なんとそこは無人駅だった。 「ラッキー」と思いそのまま出た。(JRの方、すいません。でも、もう時効です。悪しからず)
駅舎を見てみると、たしかに「笹原駅」と書いてある。 周囲の風景から見ると、赤間ではないようだ。 「ここはどこなんだろう?『南福岡行』なんだから、遠くても福岡市内だとは思うが」と思いながら通りに出た。 道路の向こうに線路が見えた。 「西鉄か?ということは、福岡市内か」 通りを歩いていると、「西鉄井尻駅」の看板が見えた。 「井尻かあ。南区(福岡市)やないか」 ここいてもどうしようもない。 「とりあえず博多駅まで行こう」とタクシーをつかまえた。 タクシーの運転手さんに、電車を乗り過ごしたことなどを話し、「いいホテルはないですか」と尋ねた。 運転手さんは「ホテルに泊まるくらいなら、このまま北九州まで帰ったほうがいいですよ。値段はそう変わらんでしょうから」と言った。 それもそうだと思ったぼくは、「今1万円しか持ってないけど、それで行ってくれるか」と聞いた。 運転手さんはOKしてくれた。 しかも、その運転手さんはいい人で、「早く帰りたいでしょうから」と高速を使ってくれた。 当時、普通の道を走っても1万2,3千円はかかっただろう。 道々運転手さんといろんなことを話しながら帰ったが、その話の中で、笹原駅のことも出た。 実はその駅は2日前に開業したとのことだった。 ぼくが知らなくても当然だった。
そんなことがあってから、1週間ほどしてのこと。 また、乗り過ごしてしまった。 まあ、その時は筑豊線だったから、隣の直方までですんだのだが、後が大変だった。 ぼくが酔っていたのと、タクシーの運転手の早とちりが災いして、全然別の場所に連れて行かれたのだ。 ぼくは「ヤハタのHに行ってくれ」と言い、そのまま寝てしまった。 何十分走ったのだろうか、運転手が「お客さん、着きましたよ。この辺でしょう?」と言った。 しかし風景が違う。 ぼくの住んでいるところは、ネオンや街灯などでかなり明るいのだが、着いた場所は明かりが一つもない田舎だった。 「え?ここ違う」 「ミヤタのHと言われたでしょ?」 「ちゃんと、ヤハタと言いました」 「たしかに、ミヤタと聞いたんですけど」 どうやらぼくが連れて来られたのは、鞍手郡宮田町らしかった。 結局余計な金と時間を費やしてしまった。
後日、その一連の話を得意がって友人にした。 ところが上には上がいるものである。 その友人の勤めている会社の人にもそういう人がいるということだった。 しかし、その人はぼくとはスケールが違っていた。 小倉から博多まで特急を使って帰る途中寝過ごしてしまい、着いた所がなんと鹿児島だったというのだ。 いくら特急とはいえ、普通なら熊本あたりで気がつくだろう。 おそらくその人も疲れていたんだろう。 「翌日は仕事だっただろうに、遅刻せずにすんだのだろうか?」といらん心配をしたものだった。
しかし、電車の中で寝るのはホント気持ちがいい。 あの電車の揺れが眠気を誘うんだろう。 そのままずっと眠っていたいものである。 そういう眠るだけの旅も、面白いかもしれない。 JRは『日本全国を眠る旅』というのを企画したらいいのに。
最近スカパーで、「おひかえあそばせ」という古いドラマを見ている。 昭和46年の作品で、石立鉄男、大坂志郎、富士真奈美、宮本信子、岡田可愛などが出演している。 昭和46年というと、ぼくは14歳、中学2年の頃である。 テーマ曲はなんとなく覚えがあるが、当時この番組を見ていたという記憶がない。 調べてみると、このドラマが一連の石立鉄男シリーズの第一弾である。 このドラマの次が「気になる嫁さん(S46)」、その後「パパと呼ばないで(S47)」「雑居時代(S48)」「水もれ甲介(S49)」「気まぐれ天使(S51)」「気まぐれ本格派(S52)」と続いていく。 最後の「気まぐれ本格派」は、ぼくが20歳の時である。 14歳から20歳、まさにぼくの青春時代である。
以前日記にも書いたが、ぼくは石立鉄男ファンである。 実は、石立ファンになったのは、「気になる嫁さん」を見だしてからのことである。 上記の通り、この「おひかえあそばせ」はよく覚えてない。 それ以前に出演していた「おくさまは18歳」は、富士真奈美や寺尾聡の印象が強すぎたせいで、石立鉄男の印象はあまり残ってない。 二枚目をやっていたせいもあるだろう。 やはり、石立鉄男は二枚目半か三枚目くらいがよく似合っている。 「気になる嫁さん」の後の、「パパと呼ばないで」で完全にハマってしまった。 さらに「雑居時代」でそれは憧れに変わった。 このドラマを見ていた人は、いつ十一(石立)が、ケンカ相手の夏代(大原麗子)と結ばれるかが最大の関心事だったに違いない。 それほど、二人の恋に落ちる過程が、面白く描かれていた。 当時ぼくたちの間では、「雑居時代のような恋」というのが一つの流行でもあった。 ぼくはほんの一時期、カメラマンになりたいと思ったことがあるが、それは「雑居時代」の影響である。
ぼくがスカパーに入ったのは、この「パパと呼ばないで」と「雑居時代」を録画しておきたいという理由からであった。 この二つのドラマを録画してしまったので、それまで契約していたスカパーのチャンネルをすべて解約してしまった。 1年以上のブランクの後、最近またスカパーを再開した。 なぜ再開したのかというと、「おひかえあそばせ」をやっていたからだ。 はっきり言って、このドラマは「雑居時代」と内容はほとんど変わらない。 出演者も、石立鉄男、大坂志郎、富士真奈美はいっしょである。 また、その役柄もまったくいっしょである。 つまり、今ぼくは「雑居時代」の原型を見ているということになる。 そういう理由から、新鮮な目でこのドラマを見れないというのは、少し寂しい気がする。 しかし、石立シリーズを見れるということで、よしということにしておこう。
ところで、この石立シリーズの配役だが、女性人は当時およびその後に大活躍した人がかなり出ている。 「おひかえあそばせ」・・・宮本信子、岡田可愛、鳥居恵子(懐かしい) 「気になる嫁さん」・・・榊原るみ、水野久美、浦辺粂子 「パパと呼ばないで」・・・杉田かおる、三崎千恵子、松尾嘉代 「雑居時代」・・・大原麗子、山口いずみ 「水もれ甲介」・・・赤木春恵、村地弘美(これも懐かしい) 「気まぐれ天使」・・・酒井和歌子、樹木希林 「気まぐれ本格派」・・・三ツ矢歌子 などである。 このメンバーなら、まだやれるじゃないか。 例えば、「パパと呼ばないで2」なんかがあってもいいと思う。 村地弘美はどうしているんだろう? たしか同い年だったと思うが。 ということは、彼女も今、頑張る40代を演じているわけか。
そういえば、赤木春恵は「水もれ甲介」の時はやさしいお母さんだったのに、 「幸楽」に行ってずいぶん意地が悪くなったなあ。
参考資料 http://www.necoweb.com/neco/apart/ishidate-tetsuo/ および
2日前、バイパスで事故があり、1車線が通行止めになっていた。 その日が日曜であったため、さして渋滞はしていなかったが、みな警察官の誘導の元、もう一方の車線をノロノロと走って行った。 別に車線が狭いわけでもないので、ノロノロと走る必要もない。 さっさと通り越してしまえばいいようなものだが、事故現場が気になるのか、みな事故現場のほうを見ながら運転している。 中には事故なんかどうでもいい人だっているはずだ。 しかし、そういう人も一応はその現場を確認している。 やはり人には本来、野次馬根性が備わっているのだろう。
さて、事故車の横を通る時、「なぜこの車は、こういう状態で停まっているのだろう?」と思うことがよくある。 まず、進行方向と逆向きに停まっている車。 おそらく、ぶつかった時に回転してこちら向きになったのだろうが、それにしても、まるで逆走してきてそこに停まっているかのように、ピタリと車線内に収まっている。 今回の事故もそうなっていた。
次に、中央分離帯に乗り上げている車。 これは別におかしなことではないが、たまに「よくこれで停まったものだ」と思われる事故車を見かける。 以前、中央分離帯の上に真横を向いて停まっている事故車を見た。 ちょうど、中央分離帯の中に、きれいに駐車した形になっている。 あの段差があるのに、よくこういう状態で停まれたものだ。 これなんかは、「もう一度、この状態で停まってくれ」と頼んでも、到底出来ることではないだろう。
江頭2:50のような格好で停まっている車。 つまり、片方の肩で倒立しているような格好になっているのだ。 車の中には誰も乗っていない。 運転者はどうやってそこから脱出したのだろう? それに、そこから脱出するさいに、車はバランスを崩して倒れるはずだ。 そうなってないのはなぜだ?
これも事故に入るのだろうが、何年か前に本屋の駐車場で見た話である。 その本屋には、駐車場の車止めの後ろに、高さ50センチほどの花壇がある。 なんとその花壇の上に、車が腹を乗せて停まっているのだ。 つまり、花壇の上に乗り上げているのだ。 おそらく、停車しようとブレーキを踏もうとして、誤ってアクセルを踏んでしまったのだと思う。 しかし、花壇の高さが50センチもあるのだから、そういう場合は車止めを乗り越えて、花壇の壁に激突するはずではないか。 これはもう、人知を超えた力が働いたとしか考えられない。 決して店のパフォーマンスでやっていたのではない。 乗り上げた車の後ろで困った顔をして必死に電話をしている姿があった。 おそらく、その車の持ち主だったのだろう。 「信じられんかもしれんけど、・・・。・・・、信じられん」と、しきりに「信じられん」を連発していた。 その時その人は、「きっとこれは、神か宇宙人の力に違いない」と思っていたのかもしれない。
ぼく自身はそんな事故の経験はないのだが、車の運転で一、二度変なことがあった。 郵便局に書留を取りに行ったときのことだ。 駐車場はいっぱいだったので、しかたなく歩道に駐車していた。 用を終え、車を動かそうとバックをした時だった。 車の後ろから「ガガー」と車をこする音がした。 「あーあ、やってしまった」と車を降りて見てみたのだが、車には何も傷はなかった。 おかしいなと思い、周りを見てみたのだが、何も車をこするような障害物はないのだ。 空き缶を踏んだわけでもなかった。 「他の車がやったのか?」と思ったが、ぼくの車の周りには車はなかった。 納得いかないぼくは、家に帰ってから、再度車を点検した。 やはり何もなっていない。 さらに車の裏も確認したのだが、ここも無傷だった。 「まあ、無傷だからいいや」と思ったが、何か納得がいかなかった。
夜、車で山道を下っていた時のこと。 視界が悪かったので、ライトをハイにした時だった。 ライトに向かって何かが走ってきているのが見えた。 「お、猫か?」と思った時には、もう遅かった。 確かに前輪で、その「猫」のようなものを踏んだ感触があった。 「やった!」と思いブレーキをかけ停車した。 しかしである。 辺りを見回したが、何もいない。 「ここじゃなかったかも」と少し後戻りしてみたけど、やはりそれらしきものはない。 「逃げたのか?」とも思ったが、血の後もない。 「おかしいな」と思いながら、家に帰った。 例のごとく、車を確認したが、血痕などはついていなかった。 一応、塩をまいておいた。 翌朝も、車を確認したのだが、何もそれらしきものはなかった。 いろいろ考えたあげく、「あれは猫ではなくて、狐だったのだ」という結論が出た。 つまり、ぼくは化かされたのだ。
それはともかく、お互い事故には気をつけましょう。 以上、西部警察からでした。
[その1] 大物で思い出したが、中学2年の時のことである。 国語の授業で、「大きな人」という話になった。 先生が、「どんな人を“大きな人”というか?」と言って、中井という奴をあてた。 「中井の知っとる大きな人を言うてみ」 中井はすかさず、「ジャイアント馬場」と答えた。 「いや、そういう意味の大きな人じゃなくて、人間的に大きな人がおるやろうが」 中井はいっとき黙っていたが、先生がしつこく「中井、答えんか」などと言うのでパニくってしまい、早口で「モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)」と言い捨てて、座った。 先生は「モンスター・ロシモフ」を知らなかったのか、中井が座った後に、「おう、そういう人やのう」と言っていた。 ぼくらは小声で言い合っていた。 「変わらんやん」
[その2] モリタ君(エッセイ参照)登場である。 ある日のこと、モリタ君がいつものように遅刻をしてきた。 その日来たのは午後2時ごろであった。 ぼくが「また、あんた遅刻か。今日は何で遅れたんね」と聞くと、モリタ君は下を向いて「ね、熱が出ました」と答えた。 「熱がでたあ?いったい何度あったんね」 モリタ君は目をキョロキョロさせながら、憮然として言った。 「29度です!」 「え、29度!?」 「はい、29度です」 「ほんとに29度やったんやね」 「はい!」 「・・・、あんたは爬虫類か?」
[その3] 前の会社にいた頃、ちょっと変わったおっさんが、毎日のように来ていた。 目が小さく、すごい出っ歯であった。 いつも、小さな声でぶつぶつと独り言を言っている。 お客を接客していると、わざわざ横に来て、こちらの顔を覗き込む。 バイクの免許も持ってないくせに、フルフェイスのバイクのヘルメットをかぶり店の中を歩きまわる。 ・・・など、店にとっては大変迷惑なおっさんであった。 いつだったか、こんなことがあった。 いつものように、ヘルメットをかぶっておっさんが登場した。 しかし、その日は服装が違っていた。 なんと、ヘビメタの革ジャンを着込んでいるのだ。 そして、変に肩を怒らせて歩いている。 周りを見回しては、「ガー」などと言って威嚇している。 ぼくたちは、「相変わらずバカやのう」などと言い合っていた。 一人の小学生がおっさんを見ていた。 それが気に入らなかったのか、おっさんは小学生に駆け寄って行った。 そして、その小学生に向かって何か言っていた。 小学生は「ばーか」と言って、こちらに逃げてきた。 ぼくが「どうしたんね」と聴くと、「あのおいちゃんが、黒い手帳を見せて『逮捕する!』と言った」と答えた。 「手帳?」 「うん、『西部警察手帳』やった」
世に大物と呼ばれる人がいる。 特に芸能界に、そう呼ばれる人が多いような気がする。 ワイドショーなどでよく「大物俳優○○、不倫発覚!」などとやっている。 「○○のどこが大物なんだ?!」と、ぼくはいつもひねた目で見ている。 たまたま若い頃からいい役回りをしてきて、それを長年やってきただけの人じゃないか。 確かに素質もあったのだろう。 確かに努力もしたのだろう。 しかし、そのくらいで大物と呼ばれるのはおかしい。 それなら、仕事上手の年配の人、すべてを大物と呼んでもいいじゃないか。 ベテラン芸能人だから大物なのだろうか? いつも主役を張っているから大物なのだろうか? テレビに出るから大物なのだろうか? もしそうであれば、あまりに安易過ぎる。
さて、周りが「大物」だと持ち上げると、本人も悪い気はしないのか、急に言動が変わってくる。 お笑い系の人までが、大物呼ばわりされだすと、急に人生訓などを語りだす。 いつも馬鹿ばかりやっていたくせに、急に人生訓もないものだ。 結局そういう言動が板についてないから、すぐにボロが出る。 藤山寛美がそうだった。 寛美がトーク番組に出ているのを見たことがあるが、彼の言動には嫌味があった。 とにかくこの人は自慢話が多く、「ああせないかん。こうせないかん」と余計なことまで言っていた。 それを大物ぶって話すものだから、嫌味に感じたものだった。 確かに天才と呼ばれただけあって芸はすごいのだろう。 しかしそれは芸の上だけのことだ。 トークを聴く限りでは、仕事上手を鼻にかけた、ただのおっさんであった。
以前、森繁久弥が若い役者を集めて、「ユダヤのことわざに・・・」などと言っているCMがあった。 若い役者は目を輝かせて聞いている。 まるで、飼い主を見る犬のような目をしていた。 確かコカコーラのCMだったと思うが、ぼくはあれが嫌いだった。 「若い衆集めて説教垂れるなら、ユダヤのことわざよりも自分の意見を言え! 」といつもそのCMを見るたびに思ったものだった。 ぼくの友人に、その森繁久弥の信仰者がいた。 森繁が偉そうなことを言うたびに、「ああ、さすが大きな人の言うことは違う」などと感動していた。 「社長漫遊記のおっさんの、どこが大きいんだろう?」と、ぼくはいつも思っていた。 ぼくは、大物ぶらず、喜劇役者に徹していた、伴淳三郎や由利徹のほうがはるかに好きであった。 大物と呼ばれ、喜劇をやらなくなった森繁とは対照的に、伴淳や由利は最後まで喜劇をやっていた。
貴乃花が結婚した時の話だ。 ワイドショーの女性リポーターが、興奮気味にインタビューをしていた。 「おめでとうございます。今日は横綱の結婚式ということで、日本中が喜んでますよ」などと言って持ち上げていた。 貴乃花はいつもの調子で、よく聞き取れない声でボソボソと言い、ヘラヘラと笑っていた。 「バカ横綱の結婚ぐらいで、日本中は喜ばんわい! 少なくとも、おれと宮沢りえは喜んでないわい!」 と思いながら聞いていたものだ。 そのうちマスコミは、このバカ横綱のことも大物などと呼ぶようになるのだろうが、その頃になっても、この家系は相変わらずスキャンダルだらけだろう。 その際、いったい何を基準にして、マスコミは「大物」と呼ぶんだろう? 生涯成績か? はたまたワイドショーへの露出度か? 仮に貴乃花が「大物」と呼ばれるようになっても、少なくとも、ぼくと宮沢りえは認めないだろう。
しかし、これを書いて思ったが、「大物」と呼ばれる人は、実にバカが多い。 世間知らずばかりだ。 また、この世間知らずを大物と呼ぶマスコミもバカが多い。 いったい何を勉強しているのだろうか? こいつらのおかげで、そのうち日本中が大物だらけになってしまうだろう。
ここ数日よく寝てないので、今ものすごく眠たい。 頭の上に膜が張ったような感じで、それがまぶたまで伸びている。 さあ、どうしようか? このまま寝てから、明日の朝日記を書こうか? それとも、書くだけ書いてしまって、それから寝ることにしようか? 遠のく意識の中で、そんなことを考えている。 とりあえず、書けるところまで書いて、いよいよだめなら寝てしまおう。 と、いつ寝てもいいように布団を敷いた。
実は、ぼくはベッドがだめな人間なのである。 あれで寝ていると、腰が痛くなってしまう。 それも尋常な痛みではない。 喩えが悪いが、下痢をしている時に下腹を走る激痛、あれに似ている。 ズキーン!!とくる。 おそらく、フカフカのマットの中にお尻だけが陥没してしまい、そのため体の自由が奪われ、寝返りがうてなくなってしまう。 ブリッジしているのと同じような体勢である。 その体勢を何時間もとり続けた結果、腰に負担がかかり、激痛が走るのだろう。 このことを悟ったので、ベッドを使うのをやめた。 ただでさえ爆弾を抱えている腰なので、これ以上悪くすることは出来ない。
前にも話したが、ぼくが腰を痛めたのは、高校の時だ。 ムキになって柔道をやったせいだ。 1年の頃、ぼくは背が高い(178cm)ほうなのに、なぜか背の低い人の技「背負い投げ」の練習ばかりやらされていた。 背負い投げは、相手の懐に低く入り込まなくてはならないので、背の高いぼく がその技をかける場合、どうしても深く沈みこまなくてはならない。 相手に飛び込む時、ちょうど「うさぎ跳び」のような運動になるのだ。 それから相手を背中に背負い、投げるのである。 前かがみでバーベルを持ち、屈伸しているようなものである。 うさぎ跳び→バーベル→屈伸、この一連の作業を繰り返すわけだから、腰が悪くならないほうがおかしい。 それまで体験したことのない「腰痛」というものに襲われてしまった。 「すべては背負い投げのせいだ」、そのことに気づいたぼくは、2年からこの技の練習をやめた。 が、一年間蓄積された腰の痛みが消えるはずはなかった。 その後も痛みは続き、いつしか腰をかばうようになった。 そうなると、当然手抜きをするようになる。 その後やっていた技は、「足払い」である。 文字通り、足を払うだけの作業である。 おかげでぼくは、柔道がメキメキと弱くなった。
柔道部を引退してからは、腰の痛みも徐々に引いていった。 その後、運動らしい運動もせずに社会に出たのだが、それがいけなかった。 ラジオ体操やストレッチくらいの、軽い運動でもいいからやるべきだったのだ。 何度も言っているが、長い浪人の末、ぼくは電気店に就職した。 その電気店で待っていたもの、そう、倉庫整理である。 カラーテレビ・電子レンジ・エアコンの室外機など、重たいものばかりだ。 これを何段も重ねたりするのだ。 多少力が強いので、こういうこともムキになってやってしまう。 当然腰に負担がかかってくる。 忘れていたものが蘇った。 それも以前にも増した痛みで。 柔道部を引退した後、何もやってなかったので、体が硬化してしまっていたのだ。 それを知らずに、ムキになってやったのがいけなかった。 しかもいつも準備運動もせずに、いきなり力仕事を始めるので、当然の結果腰痛に至る。
この腰痛は、一生治らないものだと諦めている。 整体院や整骨院には何度も足を運んだ。 腰痛運動もやってみた。 寝相にも充分に注意を払っている。 しかし、いっこうに良くならない。 まあ、そういう努力のおかげで、それ以上の悪化はしてはいないが。 参考までに、今まで腰痛に一番良かったのは、寝る前の体操である。 つまり、寝るための準備運動である。 ラジオ体操くらいの軽い運動でいい。 これをやると、寝違えたりすることも少なくなる。 他にもいろいろと効能があるようだ。
あと何年生きるかは知らないが、せめて死ぬ時は病院以外で死にたいものである。 ベッドで寝たきりなんて、考えただけでも恐ろしい。 もし病院で死んだとしたら、死因は腰痛であろう。
ああ、嫌だ。 20日は「大寒」だ。 例年暦どおりに、この日前後に寒さがやってくる。 昨年、こちらでは一度だけ積雪があった。 それが「大寒」前後だったのだ。 その日ぼくは、車で会社に行こうとしたのだが、スリップの連続だったので、怖くなって途中で引き返した。 で、今の会社に入って、初めてのJR通勤に相成ったわけである。 あの日は寒かった。 ぼくは、真冬でもTシャツ・ダンガリー・スタジャンの3枚しか着ないのであるが、さすがにその日はユニクロのスエットプルパーカーを1枚重ねて行った。 それでも、かなり寒かったのを覚えている。 また、あの季節が来るのだ。
今日は失敗してしまった。 実は、午前中に床屋に行ったのだが、いつもと同じ長さにしてしまったのだ。 すっかり「大寒」ことを忘れていた。 他の季節ならそれでもいいのだが、この時期に普段と同じ長さというのは命取りである。 しかも、切る前の髪の長さがほとんど高校時の長さくらいあったから、3分の1くらいになってしまっている。 ということは、下着一枚で真冬の寒空の下を歩いているに等しい。 これは大変なことだ。 ぼくは坊主の経験がないし、ハゲの経験もない。 だから頭の寒さには極端に弱い。 今まで引いた風邪も、すべて頭の冷えから来ている。 そういうこともあって、これまでは冬に床屋に行ってもあまり短くしなかったのである。 うかつだった。 床屋のイスに座ると同時に眠るんじゃなかった。 いちいち注文つけて切らせるんだった。
まあ、終わったことを言っても始まらない。 頭対策をしないと。 髪の毛が多いせいで、帽子をかぶっても浮いてしまう。 これは、フード付きのパーカーでも同じことだ。 椿鮒子みたいに、タオルをかぶることも出来ないし。 ああ、そうか。耳対策もしなければならない。 散髪したせいで、耳が完全に出てしまったのだ。 寒いと痛いからなあ。 首もそうだ。 首筋を冷やすと、頭が痛くなる。 うーん、どうしよう。 いっそ、バイクのヘルメットをかぶって歩くか。 だけど、おかしいだろうなあ。 車の中からバイクのヘルメットをかぶったおっさんが出てきたら。 そして、ヘルメットをかぶったまま銀行や本屋に行ったら。 まず、通りがかりの人が警察に通報するのは目に見えている。
冗談は抜きにして、本気で何か考えないと。
2002年01月17日(木) |
県民性について考える |
帰りに本屋に寄って、県民性のことを書いている本を立ち読みした。 福岡県は、昔「筑前」「筑後」「豊前」と3つの国に分かれていたせいか、それぞれ特徴があるようだ。 ぼくは筑前に属しているから、「個人主義者」ということらしい。 筑後は粘り強い性格、同じ北九州市でも旧豊前の小倉は「保守的」ということである。 全体的には、「酒好き」「祭好き」「新しい物好き」「ギャンブル好き」「金遣いが荒い」ということらしい。 ぼくの場合、「ギャンブル好き」以外は当たっている。 つまり「個人主義者」でもあるわけだ。
県民性といえば、博多気質、川筋気質などという分け方もある。 川筋気質というのは、遠賀川流域、いわゆる筑豊の炭鉱気質である。 五木寛之の「青春の門」の世界である。 ぼくは遠賀川の近くに住んでいるので、当然川筋気質というものが入っている。 地元では、多かれ少なかれみなそういう気質を持っているのでわかりづらいのだが、他の地域に行った時にその気質というのが見えてくる。 例えば東京に住んでいた時、「おれはここの人間じゃない」といつも意識させられたものだった。 もちろん言葉の違いもあるが、やはり一番大きかったのは気質だった。 もう少しいたら、その違いも埋まっていたのだろうけど、2年住んでいたくらいでは到底埋まるものではなかった。
しかし、どうして県民性というものが出てくるんだろうか。 福岡県というのは、かつては北九州工業地帯や筑豊や大牟田の炭鉱に、全国から多くの人が集まった場所であり、今も九州の中心地ということで、県外から多くの人が集まってくる。 先日の新聞にも、人口が初めて500万人を超えたと書いていた。 反面、土着の人間の割合は以前に比べ、確実に減っているといえるだろう。 そのくせ、県民性というのはあまり変わってないようである。 江戸時代の本に、国別の気質が書いていたのを読んだことがあるのだが、その時の性格と今の県民性はほとんど変わっていない。 ということは、県民性というのは遺伝ではないようだ。 おそらくそこには、人の気質を形成する、何か地霊のようなものがあるに違いない。 アメリカ人の理想のヒーロー像はインディアンだと言うし、やはりそこには何かがあるのだろう。
ぼくは、その何かを「水」だと見ている。 人間の体の大半は水で占めているのだから、その気質に何らかの影響を与えているのは確かだろう。 その水の象徴が「血」である。 血液占いがあるくらいだから、血は人の性格や気質に多くかかわっているのだろう。 ということは、水が気質を作っているということになるではないか。
よく兄弟を示すのに、「同じ血が流れている」などと言う。 血は水から出来ているのであるから、同じ水から出来ている血は、同じ血であると言うことが出来るだろう。 ということは、出身地が違っていようが、祖国が違おうが、その地域である程度生活した者は、同じ水で血を作っているのだから、みな兄弟ということになる。 だから、気質が似てくるわけだ。 他の土地で出会った人が、同じ出身地だった場合、何か親近感を感じるものである。 それは兄弟だからである。 知らない土地に引っ越しても、いつしかその土地の人間と馴染んでくるのは、その土地の人と同じ血、つまり兄弟になったからである。
ぼくは高校の頃、朝鮮高校の生徒から理由もなく殴られたことがある。 その時は、かなり悔しい思いをしたものだ。 しかし、今ならそのことを許せる。 なぜなら、彼らは同じ遠賀川の水で育った、兄弟であるからだ。
ここ数日、なぜか暖かい。 天気予報では、4月下旬の暖かさだとか、気象台始まって以来3番目の暖かさだとか言っていた。 特に昨日は風も強く、三国志の赤壁の戦いの時に、諸葛孔明が呼んだ風というのがこの風のことではないだろうかと、ぼくは思っていた。 季節もちょうどこの頃だし。 孔明は「データ・マン」だった。 いろいろな資料から、冬のこの時期に乾の方角から、暖かい風が突風になって吹いてくるのを知っていたのだ。 それをわざわざ、自分が祈って風を呼んだような演出をしたのだ。 卑近な例えで言うと、理科の先生が手品で生徒を騙したようなものである。
ぼくが初めて三国志を読んだのは、20歳の頃だった。 その頃のぼくはやることもなく、いつも暇つぶしに本屋に行っていた。 「どうせ暇だから、長編でも読んでみるか」と手に取ったのが、吉川英二の「三国志」だった。 文庫版全8巻を買い込んで、必死に読んだ。 とにかく登場人物が多く、一度や二度読んだくらいではその関係がつかめなかった。 そうなると当然物語の流れをつかめないので、納得のいくまで繰り返し読んだ。 5回ほど読んで、ようやく物語の流れを把握できた。 しかし、解説などに書いている「すごい感動」を味わうまでにはいたらず、さらに「これを読んだ人は必ず泣く」と言われている、「出師の表」を読んでも泣けない。 「読み方が足りんとかのう」などと思いながら、また何度も読んだ。 10回は読んだだろうか。 それでも、感動を味わえない。泣けない。 諸葛孔明が出てくるまでの前半4巻は疲れるし、孔明が死んでからは面白くない。 すでに内容を知ってしまっているから、感動もくそもない。 結局「三国志は、おれには合わん!」と投げ出してしまった。 「劉備玄徳が人肉を食べた」ということが、変に印象に残っただけだった。
その後も、正史の「三国志」や柴田錬三郎の「柴錬三国志」などを読んでみたが、感動したとか泣いたなどということはなかった。 やはりぼくには「三国志」は合ってなかったのだろう。
それから何年後だったか、前の会社にいた時の話だ。 ぼくの周りが急に「三国志」を読み出したのだ。 なんでも社長が、「三国志」を読んで感動したということで、社員に薦めているらしかった。 その時の店長がみんなに向かって、「お前たちもくだらんマンガばかり読んでないで、三国志のようないい本を読め。こういう本で自分を磨いていけ」などとほざいていた。 しかしそういう店長が読んでいたのは、マンガの「三国志」だった。 社長が「読め」と言うから読むような、そんな主体性のない人間から言われたくない。 自分を磨く本は、ちゃんと自分で探すべきだ。 「社長がいいと言うから三国志を読む」では何のためにもならないということを、「人が感動すると言うから三国志を読んでいた」ぼくは知っていた。
この日記も今日で365回目を迎えた。 つまり1年間やってきたことになる。 昨年の1月16日の深夜、親しい人に、 “ついにHPを開設しました。 URLを書いておきますので、 気が向いたらアクセスしてみて下さい” という内容のメールを送った。 その日の日記が、 「初めまして、今日からこのサイトに登場することになった“しんた”といいます。 気まぐれな性格なので、毎日の更新も怠るかもしれませんが、よろしくお願いしますね」 である。 翌日の日記も、 「慣れないことを始めたので、危うく日記を書き忘れて寝るところだった。 ここ2,3日の雪で、疲れたようです。 あしたも早いし、もう寝ることにします」 おやすみなさい” である。 3日目にいたっては、 「今日で3日目、でも日記は慣れんです。 何を書いていいやら・・・ おーい、誰かつっこんでくれー」 であった。 こんな日記を見せられて、メールをもらった人は「アチャー」と思ったことだろう。 「なんか、この日記は!何かコメントせんと悪いけど、どうしようか?」と気が重くなったに違いない。 やってる本人も、「この調子で、いつまで続くのだろうか?」と思ったものである。 しかし、日を重ねるにつれ、何とか日記らしくなっていき、今では日記を書くことが習慣になって、「これを書かなければ眠れん」という状態になっている。
それにしても、気まぐれな性格は相変わらずだが、日記の更新だけは毎日怠らずやってこれた。 最初の頃は慣れないせいか、日記を書き忘れそうになったこともある。 日記を書く気にならない日もあった。 疲れた日には、翌朝の更新になったこともある。 掲示板に、「日記はまだですか? 早くー早くー」などと書かれたこともある。 体調を崩し、吐きながら書いたこともある。 鼻血を出しながら書いたこともある。 カラオケボックスからアップしたこともある。 日記を書くために、飲み会を断ったこともある。 徹夜して書き上げたこともある。 カナブンや蝉と闘いながら書いたこともある。 まあ、いろいろあったけど、何とか一年やってこれました。 これもひとえに皆様のおかげでございます。 この場を借りて、御礼申し上げます。
「頑張る40代!」、残された時間は、あと5年と10ヶ月。 だらだらと、頑張ります。
ここ何ヶ月か、休みの日の朝食にはいつも明太子を食べている。 これほど、ご飯がおいしく感じられる食べ物はない。 朝食といえば納豆が一般的だろうが、あれは面倒くさい。 とくにぼくは、納豆をムキになってかき混ぜるので、腱鞘炎になりかねない。 ノリの佃煮も確かにおいしいのだが、歯ごたえの点で明太子に遠く及ばない。 あの「プチ」感がたまらなくいい。 以前読んだ「博多っ子純情」というマンガで、「博多の朝食は“おきゅうと”たい」などと言っていたが、あんな味気のないものでは食は進まない。 それに博多のほうでは“おきゅうと”だろうが、北九州のほうでは“おきゅうと”は一般的ではなかったようだ。 ぼくの周りは圧倒的に明太子が多かった。 ぼくが初めて“おきゅうと”を食べたのは20歳を過ぎてからだった。
さて、この明太子、昔はどこの家庭の食卓にも登るほど一般的なものだった。 そのへんの魚屋や乾物屋で売っていたが、今のように一つ一つご丁寧な箱入りにしているのではなく、漬物みたいにまとめて桶に入れて置かれていた。 グラムいくらの量り売りで、他の魚などと同じように、竹の皮に包み新聞紙などで包装していた。 一般的な食べ物だったから、価格も今みたいに高いものではなかった。 高くなったのは、辛子明太子が「福岡のお土産」扱いになってからだ。 ぼくが子供の頃は、明太子なんか土産にする人もいなかっただろう。 そういえば「辛子明太子」なんて言ってなかった。 ただの「明太子」だった。 詳しいことはよくわからないが、おそらく「辛子」とういうのは、土産化する時に付けたのではないだろうか? 例えば「辛子れんこん」のように、語呂がいいということで。
似たような話で、以前ブームになった「モツ鍋」というものがある。 これも福岡発らしいが、こちらでは「ホルモン鍋」と呼んでいた。 だから初めて「モツ鍋」という言葉を聞いた時、「こちらにそんな鍋物あったかのう?」と思ったものだった。 じゃあ話のネタに一度食べに行こうと、仲間と行ったところ、なんとそれは「ホルモン鍋」だったのである。 これなんかも、「ホルモン鍋」よりは「モツ鍋」のほうが宣伝効果があるんじゃないか、という意図があったにちがいない。 そういえば、「キムチ」だって昔は「朝鮮漬け」と呼んでいた。 これも最初聞いた時は、何のことかわからなかった。 店頭に並べられているのを見て、「なんかこれ、朝鮮漬けやないか」と思ったものである。 これも本場の言葉で言ったほうがインパクトがあると考えたのだろう。
ところで、「長浜ラーメン」というものがある。 これはただ福岡の長浜という所にラーメン屋がたくさんあるからそう呼ぶだけで、別に「長浜ラーメン」という特別のブランドがあるわけではない。 細めんを使って、替え玉をしているだけのことで、ただの「ラーメン」である。 最近よく「長浜ラーメンの店」などというのぼりを立てている店を見かけるが、まずおいしくないと考えていいだろう。 十何年か前、まだ「長浜ラーメン」が有名になる前に、夜中に長浜までラーメンを食べに行っていたことがあるが、あの頃の「長浜屋」のラーメンはおいしかった。 テレビで紹介しだしてから、味が落ちたような気がする。
話は明太子に戻るが、ここ八幡に「石原軍団御用達の店」というサブタイトルのついた明太子屋がある。 なんでも、石原裕次郎がここで明太子を買っていたということらしく、今でも石原軍団はここで明太子を買っているらしい。 しかし、である。 石原軍団が買うからおいしいとは限らないのである。 ぼくはこういう売り込み方をする店が嫌いなので、この店の明太子を食べたことがない。 だから味がどうこう言える立場ではないのだが、確かに裕次郎にはおいしく感じたのだろう。 だけど、峰竜太はどうなんだろうか? 海老名みどりは喜んでいるのだろうか? 「軍団の付き合いだから、しかたなく買った」と説明しているのではないのだろうか? 軍団といっしょに写真に写ることが、おいしさの証明になるとは思わないのだが。
日テレ系の「雷波少年」が3月いっぱいで打ち切りになるらしい。 ぼくは、仕事中にはよくテレビを見ているのだが、家に帰ってからはあまり見ることはない。 毎週決まって見ている番組といえば、「電波少年」「雷波少年」それと「ドラえもん」くらいなものである。 元日の特番で「ウクレレ」「鮒子」といった企画が終わってしまったので、次はどんな企画が始まるのだろうかと、今日の「雷波少年」を楽しみにしていたたのだが、新しい企画発表の前に、この発表があったのだ。 これでまた、毎週見る番組がひとつ減るわけだ。
さて、次にどんな企画が始まるかというと、日本の男性ミュージシャン・韓国の女性ミュージシャン・在日韓国人の男性のまったく知らない3人がバンドを組み、シンガポールから韓国ソウルまで車で旅をして、その間に納得のいく1曲を作り上げるというものだ。 そして目的地韓国ソウルで、3月23日にライブを行うという企画、題して「ラストソング」。 今回は、旅の模様を韓国でも放送するということで、けっこう盛り上がるだろう。
しかし、日本人と韓国人、はたしてうまくやっていけるのだろうか? まあ、番組ではだんだん仲良くなっていく過程を映していくのだろうが、人のいい日本人が、自己主張が強すぎるきらいのある韓国人とうまくやっていく、というのは疑問が残る。 番組上では見せないかもしれないが、おそらく韓国人女性と在日男性が、日本人男性を仲間はずれにするだろう。 それほどに彼らは民族意識が強い。 ぼくが好きな韓国人女性呉善花さんが、ある著書で言っていたが、アメリカにいる日本人は地域に溶け込んで、いろんなところに住んでいるらしい。 一方、韓国人や中国人は、一ヵ所に固まって住んでいるという。 日本人が牧師をやっている教会は、いろんな民族の人が集まるが、韓国人牧師がやっている教会は、韓国人しか集まらないということである。 これを見る限りでは、韓国人というのは排他的な性格を持った民族だと言えるだろう。
これも本で読んだことがあるのだが、韓国人は、いいことはすべて韓国人の力だと思い、悪いことはすべて日本人のせいだと思うらしい。 韓国の浦項製鉄所建設の時、多数の日本人が技術協力をした。 しかし、開業の時、日本人は蚊帳の外だったという。 日本人に対する感謝の言葉は、一言も出なかったということだ。 韓国人は、日本が韓国の近代化の道を開いたと言っても過言ではないのに、そういうことには一言も触れず、日本に対する過去の恨み辛みばかり並べている。 恨みが高じてか、挙句の果てには「日本人のほとんどは在日韓国人だ」「万葉集の歌は韓国語だ」「剣道は韓国の武道である」などと言い出す始末だ。 今度のサッカーのW杯でも、わけのわからんイチャモンをつけてくるし。 「JAPAN・KOREA」「KOREA・JAPAN」、どっちでもいいじゃないか。 KOREAの字の色がちょっと違ってたって、別にかまわないじゃないか。 そんな細かいことを言うのなら、 「天皇」のことを「日王」と呼ぶな! 「日本海」を「東海」と呼ぶな! 「チョッパリ」と言うな! こちらが「朝鮮」と言うことのどこが差別だ。 それなら「朝鮮日報」の名前を変えてしまえ! 「Nimda」を送りつけてくるな!
元々日本は「和」の国である。 一方の韓国は「恨」の国である。 「和」と「恨」、お互い深いところで、相容れない仲なのである。 文字だけを見ると、仲良くしようとする日本に対し、恨みで答える韓国、とも読める。 雷波少年最終章「ラストソング」はこういうことを踏まえた企画なのだろうか? それとも、うわべだけのヒューマニズムを追及する企画なのだろうか? 結局は、韓国人の主張に流される日本人という、今の日韓関係そのままが浮き彫りにされていくのではないのだろうか。 とりあえずは、そういう視点から、今度の企画を見ていきたいと思っている。
会社が警備員として雇っているおっさんがいる。 何年か前、関連会社から転籍して来たのだ。 何店舗かをかけ持ちしているので、うちの店に来るのは月に数回である。 ふつう警備員は、制服を着て店内を巡回し、万引きを捕まえないまでも、お客にそういう気を起こさせないようにするのが、本来の仕事である。 ところがこのおっさんの考え方は違う。 このおっさんの巡回というのは、商品を見て歩くことである。 そして、そこに気に入った商品やお買い得品があれば買うことである。 今年の初売りで、3本198円のビデオテープを出していたのだが、このおっさんは仕事中にもかかわらず、買い物かごを2つ持って来て、その中に目いっぱいビデオテープを詰めていた。 ぼくたちがじっと見ていると、おっさんは何を思ったか「ははは、心配せんでもちゃんと残してますよ」と言って、レジに持って行った。 そんな問題じゃないだろ! 仕事をしろ、仕事を!!
おっさんは、万引き警報が鳴っても、そこに行こうとはしない。 あとでのん気に「何かあったんですか?」と聞いてくるだけである。 以前ぼくが万引きを見つけて追いかけていると、わざわざぼくの前に立ちはだかり、「慌ててどうしたんですか?」などと言う始末だ。 ぼくが「万引きされた。いっしょに追いかけて下さい」と言うと、「万引きですか。それは大変だ」などと言って、ぼくのはるか後ろをノコノコ付いて来るだけだった。
警備員というのは、ただ店内を巡回しているだけでも、ある程度の万引きを防ぐことが出来る。 しかし、このおっさんは落ち着きがなく、いつもどこにいるのかわからない。 不審な人物がいても知らん顔である。 そういう人物を見つけたら、すぐに他の場所に行く。 結局ぼくたち従業員が嫌な思いをして、見張っていなければならない。
長々と、このおっさんの悪口を書いたのにはわけがある。 実は今日、いつものように午後4時から遅い昼食をとっていた。 食事が終わり、一服していると、急に便意(大)を催した。 慌ててトイレに駆け込んだが、使用中。 しかたなく食堂に戻り、待つことにした。 5分ほどしてまたトイレに行ったが、まだ使用中。 「長いのう」と思いながら、今度は外で待つことにした。 それから5分して、トイレに行ってみると、あいかわらず扉は閉じたまま。 再び食堂に戻り、そこにいた人達に「さっきからずっとトイレ使用中っちゃね」と言っていると、また催してきた。 「ああ、我慢出きん」とトイレに走って行った。 まだ使っている。 あれからもう20分は経っている。 食堂に戻り、声を荒げて「だいたい、20分もトイレにはいっとる奴がおるか!!」と言った。 周りは笑っていたが、こちらは笑いごとではなかった。 いよいよ我慢できなくなった。 またトイレに駆け込んだ。 あいかわらずだ。 今度はトイレの中で待つことにした。 しばらくすると、個室の鍵が開き、そこから人が出てきた。 何と、警備のおっさんである。 しかも白い手袋をしたままである。 ぼくは、おっさんが出た後、すぐに個室に入るのをためらった。 一度食堂に戻り、そのことを報告することにした。 「警備のおっさんやった。ふざけとるのう、20分も」と言った。 さっきから食堂にいたパートさんが「ああ、あの人ね。しかし、出たんなら何でトイレせんとね」と言うので、ぼくは「あの人が出た後に、すぐに入るようなことはしたくない!わかるやろ?!」と言うと、また爆笑になった。 そして、いよいよ我慢できなくなったので、トイレに行き、個室に入った。 「ん?」、全然臭くないのだ。 「ここで何してたんだろう」と思いながら、ぼくは用を足した。
しかし、考えれば考えるほど頭にくる。 だいたい、手袋をしたままトイレをする奴なんていない。 仮に用を足した後で手袋をするにしろ、いったんは出てから手を洗うはずである。 ということは、やはりトイレ目的で使用してないことになる。 こちらは焦っているのに、あちらは悠然としてトイレ以外のことをしている。 食堂に戻ると、庶務の子がいた。 そこでぼくは「おい、あの警備のおっさんに従業員トイレを使わせんようにせ」と言った。 その子は何のことかわからずに、キョトンとしていた。 「20分も入っとるんよ。20分も!」と一部始終を説明した。 その子も笑っていたが、ぼくは真剣に怒っていた。 会社も、ただ歳だという理由で有能な人をやめさせるのではなく、ああいう生産性のない長便人間こそリストラしてもらいたいものである。
明後日は「成人の日」じゃないか。 ぼくはそのことを忘れて、あいかわらず1月15日だとばかり思っていた。 そうだった、1月の第2月曜日に替わったのだった。
ぼくの成人式は昭和53年、今年と同じ午年だった。 ここ数年、北九州市の成人式は、堅苦しい式典をやめ、新成人にスペースワールドを無料開放して、「適当にやってくれ」ということになっている。 が、当時は旧5市ごとに会場を設け式典をやっていた。 ぼくはその頃、長い浪人時代の真っ最中で、友達に会うことさえも気が引けていた。 その上、そんな堅苦しい式典の場に行くというのは、苦痛以外の何ものでもなかった。 親は朝からしきりに「式に行ってこい」と言っていたのだが、「誰があんなところにいくか!」とぼくは拒んだ。 「じゃあ、せめて親戚だけでも回って来い」と言われ、しぶしぶ慣れないスーツを着て親戚回りをした。 途中、道行く人たちから指を指され、「あっ成人式だ」などと言われて恥ずかしい思いをしたものだ。
親戚に着くと、おばちゃんが「待ってました」とばかりに写真を撮り始めた。 「そちらを向くな」とか「もっと嬉しそうにしろ」とか、いろいろ注文をつけてくる。 ぼくが「もういいやん」と言うと、「何を言いよるんね。今日は記念日やないね。こんなことは一生に一度しかないんよ」と文句を言いながら撮りまくっている。 いい加減うんざりしたが、ご祝儀をくれたので、「まあ、いいか」という気分になりポーズをとった。 帰り際に「写真が出来たら連絡するけ、取りにおいで」と言っていた。 しかし、その後親戚からの連絡はなかった。 それもそのはず、何とおばちゃん、フィルムを入れ忘れていたのだ。 文句を言いながらフィルムなしのカメラのシャッターを押し続ける伯母と、うんざりしながらも笑顔でポーズをとり続ける甥、その間抜けな光景を思い出すと、今でも笑ってしまう。
その日の午後、年末までいっしょにバイトをやっていた連中から、「お前の成人を祝ってやるから来い」と電話があった。 黒崎で待ち合わせ、そこから車である人の家に行った。 その家に、知ってる人知らない人、合わせて十数名の人が集まり、豪華な料理でぼくを祝ってくれた。 「今日から大っぴらに飲めるのう」と何杯も酒を飲まされた。 かなり酔いが回ってきたところで、「今日はお前の歌を聴いてやるから、好きなだけ歌え」と言われた。 調子に乗って、2時間近くも歌いまくった。 酔いも手伝って、何を歌っているのかわからなかったが、とにかく大声を張り上げ歌っていた。 最後には声が枯れてしまい、気分が悪くなった。 さんざん飲み、さんざん歌って、ぼくの成人式は終わった。
そうか、あれからもう24年経つのか。 いったい何やってきたんだろう? あの頃志した道とは、まったく違った道を歩んでいる。 まさか24年後に、こんなに頭が真っ白になるなんて思ってもみなかった。 こうも物忘れがひどくなんて思ってもみなかった。 携帯電話にハマッているなんて思ってもみなかった。 2フィンガーでパソコンをいじくっているなんて思ってもみなかった。 こんなくだらん思い出話を披露しているなんて思ってもみなかった。
昨日うんこネタを書いたので、「あれはウケ狙いか?」と言う声があった。 このことについて、説明しておかなければならない。 あれは本当のことである。 実は、ぼくは幼い頃便秘症だった。 1週間ほど出ないことがざらにあった。 便秘になると、決まって熱が出たものだった。 熱が出ると夢見が悪くなってくる。 「妖怪や悪霊のようなものが出てきて、ぼくを追いかけてくる。 ぼくは怖くなって、暗い森の中まで逃げて行く。 やっと逃げられたと思ってホッとしていると、今度は水道の蛇口が目の前に現れる。 のどが渇いたので水を飲もうとして蛇口をひねると、「ドドドドッー」と音を立てて大量の水が出てくる。 その水を見ていると、だんだん吸い込まれそうになってくる。 怖くなってまた逃げようとすると、目の前にうんこが意味もなく横たわっている。 そのうんこをいつまでも眺めている」 そこでいつも目が覚めた。 熱が出ると、いつもこの夢を見るのである。
うんこネタが出たついでに、お尻ネタを書いておく。 いつも冬のこの時期になると、お尻が痒くなる。 具体的な場所を言うと、お尻のほっぺである。 季節の初めはなんということはないのだが、だんだん冬の寒さが増すにつれて痒くなってくる。 毎年のことなので、出来るだけ掻かないようにしているのだが、無意識にその部分に手が伸びていく。 一度掻いてしまうと、あとは徹底的に掻いてしまう。 ぶつぶつのようなものが出来、かさかさになってくる。 そう、乾燥肌である。 この症状に初めてなったのは、30代の前半であった。 それから何年かは、冬になるといつも「ケツがかいー!」と言っていた。 よく人から、「しんちゃん、“ケツがかいー”季節がやってきたね」とからかわれたものである。 あれから10年以上経つが、いっこうに症状は良くならない。 ぼくにとっての万能薬、であるはずのメンソレータムも、乾燥肌には歯が立たない。 シャボン玉石鹸、馬油、椿油、ローション、みかん、柿の葉、お茶の出がらし、目薬、マキロン、別府で買ったわけのわからん塗り薬、温泉、ウコン風呂、塩塗り、アロエ、ツメで×印をつける、などいろいろ試したが、埒が明かない。 こんどは粘土か何かを塗ってみようと思っている。 もしかしたら、おしっこを塗るというのも一つの方法であるだろう。 が、それは気が進まない。 もちろん、病院には行きたくない!
そういえば、春は花粉に目をやられ、夏は蚊に血を提供し、秋はダニの餌食になり、冬は乾燥肌と格闘している。 日記も含めて、ぼくは年中「かく」ことに多忙である。
2002年01月09日(水) |
風邪に気をつけましょう |
風邪が流行っている。 会社に行くと、回りは風邪を引いている人が多かった。 ぼくも昨日の日記が午前3時過ぎまでかかったせいもあり、体調が充分ではなかった。 朝からコンクリートの塊を頭に乗せられた夢を見て、少し頭痛がしていたのだ。 余談だが、ぼくは体調が優れない時には、決まって変な夢を見る。 胃が悪い時はレコード盤を食べる夢、熱がある時にはうんこの夢を見ることが多い。 とうとう今回、頭痛編の夢まで見るようになったわけである。 こんな夢見を引きずり、頭痛に耐えながらも何とか起きたが、鼻がつまるし、くしゃみも連発して出るしまつだった。
会社に着いて、朝一番に隣の売場のラーさん(2001年1月24日の日記参照)から、「息子が41度の熱を出した」と言うのを聞いた。 ぼくは、「ただでさえ体調が悪いのに、この上風邪菌をもらったらオオゴトだ」と思い、今日はラーさんとお話しすることは遠慮させてもらった。
ラーさんからその話を聞いたあと、昨日買った携帯を見せびらかせにレジに行った。 ここにも風邪引き女がいた。 彼女は顔が脹れ上がり、目がトローンとしている。 話しかけても、返事がワンテンポ遅れて返ってくる。 「ここにも近寄れん」と売場に戻った。
売場に戻ると、うちの女の子が来たところだった。 何か変だ。 せきをしている、声が違う、動きがぎこちない。 「もしかしたら」と思っていると、彼女はおもむろに体温計を出し、「熱がある」と言った。 ここは、自分の持ち場だから逃げようがない。 しかたなく、隣の薬局に葛根湯を買ってきて、風邪予防のために飲んでおいた。
今日は店の中が寒かった。 いつもは暖房が必要ないほど暑い売場である それに外は昨日に比べるとそんなに寒くない。 「これは寒いんじゃなくて、寒気がするんだろう」と思い、めったに入れない暖房を入れた。 それでも寒さが収まらなかったので、トレーナーを一枚着込んだ。 やっとのことで寒さから解放された。 じっとしていると風邪のことを考えてしまうので、仕事に精を出すことにした。 しかし暖房を入れているので、やりすぎると汗をかいてしまう。 ちょっと汗をかくと、倉庫へ行って汗を引かせる。 ここも冷えすぎないようにして、程よいところで売場へ戻る。 このタイミングが難しい。 結局昼食後から、ぼくの体調は回復していった。 若干いがらっぽかった喉も、濃いお茶を飲んだら治ってしまった。 とにかく用心のために、葛根湯を飲んでおいた。 今はなんともない状態である。
そういえば高校2年の時、風邪で高熱を出し大変な目にあったことがある。 2月のある日、前日から熱が出始め、朝起きるとかなりフラフラした状態になっていた。 悪いことにその日は、柔道の県北予選の日であった。 午前9時に、駅前で他の部員と待ち合わせていたが、あまりに熱がひどいので、外に出る気がしない。 しかし当時は今のように携帯電話もなく、「今日は休む」と言うためには、駅前まで行かなければならなかった。 しかたなくタクシーを使って駅前まで行き、そこで事情を説明し、補欠選手に「お前出てくれ」と頼んだ。 そいつは臆病者だった。 「柔道着を用意してない」とか何とか理由を付け断った。 ムッとしたぼくは、「もういい。頼まん!」と、試合に出ることにした。 試合は散々たるものだった。 全然力が入らない。 技をかけても返されてしまう。 何をやっているのかわからないままに、技ありを取られ、押さえ込まれて、合わせての一本負けだった。 1分も持たなかった。 他のメンバーも全滅であった。 だいたい顧問も来ない、真面目に練習もしてない、わが柔道部が勝てるはずもないのだが、その時は変に悔しい思いをしたものだ。
翌日は学校に行ったものの、熱は下がらなかった。 その日、今度は授業で柔道の試合があった。 柔道の授業は一度もサボったことがなかったので、当然その日も出た。 たまたま先生がいなかったのだが、試合は行われた。 そこまでぼくは11戦全勝だった。 ちょうどその日、ぼく以外では一番強いと言われていた者との試合だった。 柔道部のキャプテンとして負けるわけはいかない。 しかしこの熱である。 思うように体が動かない。 いよいよになったら飛び道具を使おうと思っていたが、それを使う暇もなく、試合は時間切れの引き分けに終わった。 もうフラフラだった。
結局2日間の無理がたたり、さらに熱は上昇した。 さらに悪いことに、鼻血が出だしたのである。 延べにして、洗面器一杯分は充分に出ただろう。 その翌日から、ぼくは学校を2日ばかり休んでしまった。 2日間、布団の中で安静にしていた。 もちろん、うんこの夢を見ながら。
今日は正月休み(1日,2日)以来、6日ぶりの休みだった。 ちょっと疲れがたまっていたので、一日寝ておこうかと思ったが、携帯電話の調子がいよいよ悪くなったので、午前中に例のドコモショップに行った。 元日のこと(1月1日の日記参照)があるので、今日は公共の交通機関を使わずに、自分の車を利用した。 ところがである。 けっこう慣れた道なのに、なぜか間違えてしまった。 家を10時半に出たのだが、着いたのは12時ちょうどだった。 普通なら40分もあれば充分に着く距離である。 別に考え事をしていたわけでもないのだが、どこをどう間違えたのか、全然知らない場所に出てしまった。 道がだんだん狭くなっていく。 どうやら山に向かっているようだ。 「これはいかん」と、とりあえず駐車場があったので、そこを利用してUターンし、もと来た道を引き返した。 なんとか幹線に戻れたが、こんなこと市内では初めてのことだった。 いったい何を考えていたんだろう。 それさえも忘れている。
ドコモショップのほうだが、今日はさすがにお客は少なかった。 店に入ると、すぐに手続きをしてくれた。 15分程度で手続きは終わった。 以前は30分はかかっていたのだが、データの移し替えに新しいソフトでも導入したのだろう、かなり時間が短縮されている。 移し替えのソフトといえば、501から502に変えた時は、電話番号しか移すことが出来なかった。 前回変えた時はメールアドレスまで移されていた。 今回はなんとブックマークまでが移されている。 日々技術は進歩してるんだ、と感心しきりだった。
携帯電話を初めて持ったのは、5年ほど前だっただろうか。 最初はDDIを利用していた。 小学生の頃に持っていたトランシーバーに似た、ゴツいタイプだった。 今の携帯電話の2倍ぐらいの厚みがあった。 それでも、ポケットに入れ持ち歩いたものだった。 おかげで、よくズボンのポケットが破れたものだ。 2台目からドコモに変えた。 当時の一番人気の機種は、パナソニック製、つまり「P」シリーズだった。 当時はまだメールなどが普及してなかったので、電話一本で各社がしのぎを削っていた。 電話をかけるということだけで考えたら、品質といいサイズといいこの「P」が一番よかったように思う。 以来ずっと、ぼくは「P」を使っていた。 ドコモを利用しだして、初めて「P」以外の機種にしたのは、前回つまり今朝まで使っていた三菱製の「D」からだ。 まず選んだ基準が、音質だった。 「D」のPCM音源のよさは、知り合いがJ−PHONEの「D」タイプを使っていたので、充分にわかっていた。 今回買い替えたのは、NEC製の「N」だ。 この機種は、FM音源を採用しているが、やはり「D」に比べるとかなり音質は劣る。
じゃあ、なぜ今回「N」にしたかといえば、メールやインターネットに一番適していると思ったからだ。 メールやインターネットは、なんといっても画面に表示される文字数だ。 「N」は、その文字数が210文字と一番多く表示できる。 逆に「D」は、一番少なく99文字である。 99文字といえば、おそらく501シリーズの頃の表示数に毛が生えた程度だろう。 とにかく文字が大きすぎる。 文字が大きいと読みやすそうに思えるが、実はそうではない。 ぼくのようにイメージで文章を読む人間には、一目で多くの文字が見えたほうがいい。 例えば本を読むとき、1ページ1文節で表示してあると読みにくいと思う。 段落で表示されているからこそ、読みやすいのだ。 それに文字が大きいと、必然的にスクロールの回数が多くなる。 スクロールする回数が増えると、雑にボタンを触ってしまうので、それだけ故障しやすくなる。 前の機種が壊れた理由も、実はここにあるのではないかと思っている。(12月26日日記参照)
おそらく、次回買い替える時はFOMAにすると思うので、今回が最後のiモードになるだろう。 けっこう値段が高かったので、元を取るまで充分に使いこなそうと思っている。 しかし、この音の悪さを我慢することが出来るだろうか? それを心配している。
世に「ガンコ親父の店」というのがある。 今でも時々テレビで特集をやっている。 ぼくは、いつもこの手の番組をバカにしながら見ている。 「ガンコ親父の店」、要は「ガンコ親父」が売りの店というだけのこと、肝心の味のほうはわかりはしない。 テレビ局のほうは取材上まずいとは言えない。 だから、いかにもおいしそうな演出をする。 だいたいガンコ親父なら、こんな取材は断るはずだ。 それによく考えてみると、「頑固」というのは、人間が出来てないということだ。 つまり、「ガンコ親父」を売り物にするということは、「人間修行が出来てない、未熟者の親父でございます」というのを、世間に吹聴していることになる。 これは実に恥ずかしいことだ。
こちら北九州にも、「ガンコ親父の店」というのがいくつかあると聞く。 何年か前に一度、その「ガンコ親父の店」なるものに行ったことがある。 テレビで「ガンコ親父の店」がブームになる前には、その店は「ガンコ親父の店」とは呼ばれていなかったはずだったが。 その店に入って、「ガンコ親父」なる人がどの人かを確かめた。 しかし、そこにいたのは「ガンコ親父」ならぬ、妙に女性に馴れ馴れしく話すただの「軟派な親父」がいただけだった。 味のほうはまあまあだったが、ここの親父はひいきをする。 一見と常連の値段に差をつけていたのだ。 ぼくたちは一見だった。 どう見ても、隣のテーブルに座っていた常連の連中よりは、質も量も安く抑えたつもりだった。 隣の席の連中は、別にキープをしていたようではなかった。 しかし、勘定はぼくたちのほうが多くとられた。 「こんな店二度と来るか!」と思ったものである。
ぼくの家の近くに、ちょっとしゃれた居酒屋がある。 2年前のことだが、当時いつも黒崎や小倉といった繁華街でばかり飲んでいたのだが、たまには近くの店も開拓しておこうということで友人とその店に行ってみた。 30代の夫婦二人でやっていた。 奥さんはヤンキー上がりふうに見えたが、気のよさそうな人だった。 問題は主人のほうだった。 なんと、ガンコ親父を気取っているのだ。 立ち振る舞いが、いかにもわざとらしい。 ぼくがメニューを見ていると、突然主人が「ああ、それは常連さんのメニューだから、初心者の方はこちらのメニューで選んでもらうようにしてます」と言い、初心者メニューなるものをぼくに手渡した。 そのメニューを見ると「これは何の料理だ?」と思わせるような名前が書いてあった。 注文するたびに「これは何ですか?」と聞かなければならない。 一方の常連客メニューなるものは、誰が見てもわかる名前で書いている。 まさか、この店は一見の客に二度と来させないということから、こういうわからんメニューを使っているわけでもあるまい。 ということは、「おれの言うことに従え」という主人の意思に違いない。
まあ、そのことを気にせずに飲んでいるうちに、その主人ともぎこちないながらも会話を始めたのだが、よくよく話を聴いてみると、主人はぼくの小中学校の後輩だった。 後輩なら話が早いと思い、「なんか、この初心者メニューちゅうのは!?」などと、さんざん文句を言ってやった。 ぼくが帰る時、主人は深々と頭を下げ、「先輩、また利用してください」と言った。 ぼくは「誰が来るか」と思った。 当然その後その店には足を運んでない。 今後も行くつもりはない。 そちらは「ガンコ者」気取りかもしれないが、ぼくは根っからの「頑固者」なのだ。 なめるんじゃねえ!!
店に勤めていると、いろんなことがあるものだ。 今日、ぼくの販売人生で初めての事件に遭遇した。
午後2時前だった。 ぼくが倉庫から売場に帰ってくる途中、「2階の駐車場に人が倒れている」という情報が入った。 ぼくは、新しく店長代理になったIさんと二人で現場に駆けつけた。 見ると、五十面のおっさんがそこに倒れている。 いびきをかいてなかったので、脳内出血じゃないと楽観していたのが大きな間違いだった。 近寄ってよく見てみると、駐車場の車止めのところに頭を向けていたのだが、頭からけっこう多量の血が溢れ出ている。 洗面器の半分ぐらいの量は出ていただろう。 「死んどるんじゃないんか?」と思いながら、Iさんと二人で声をかけた。 「おいさん、大丈夫ねー」と言っても返事がない。 息をしているかどうか確かめようと近づいた時、そのおっさんの脚が動いた。 どうやら死んではなさそうだ。 しかしこのまま放っておいてはいけない。 と、Iさんが救急車を呼びに行った。
ぼく一人になった。 こういう時、素人は何をしていいのかわからない。 ただわかっているのは、頭を打っているようなので、絶対に動かしてはならない、ということだけだった。 そうこうしているうちに、おっさんが動き出した。 「おいちゃん、動いたらいけんっちゃ」とぼくは軽く体を抑えた。 しかし力だけは、まだあるようだ。 こちらが力を入れて、もしものことがあってはならない。 そこでぼくは手を離し、おっさんの様子を見ていることにした。 ぼくが一人でいた時間は3分ぐらいだったが、えらく長く感じた。
2階に上がるループから、社員のHさんがやってきた。 ぼくはホッとした。 しかし、二人になっても何をするでもない。 ただ、救急車が来るまで、おっさんが動かないように見ているだけである。 ちょっと離れた場所からお客が見ていたが、大の大人が二人で、倒れたおっさんの前で何もせずに立っている姿は、きっと間抜けなものだっただろう。 怪我の応急処置を知らないわけでもないのだが、箇所が頭ともなると止血の仕方もわからない。 まさか首を絞めるわけもいかないし。 ただ、タオルで頭を抑えることしかわからない。 それも、下手に抑えるわけもいかないから、とりあえずおっさんの頭にかぶせておいた。
「しかし、どうして倒れたんかなあ」 初めてどうして倒れたかの話になった。 それまでは、おっさんの状態が気になっていたので、どうして倒れたのかなどと考える余裕はなかった。 「殴られて倒れたんじゃないか」 「犯人は怖くなって逃げたんでしょうかね」 「あ、こんなところに小便しとる」 そのおっさんが倒れていたのは、駐車場の壁面だった。 壁をよく見てみると、小便が流れていた。 どうやら失禁ではなく、立小便をしたようだ。 「さっきから気になっとったけど、この車はなんですかねえ。鍵も付いたままになっているし。もしかして犯人の車ですかねえ」 おっさんの横には、ぼろぼろの車が停まっていた。 車の中を覗いてみると、運転席に靴が脱いであった。 そのおっさんはサンダルを履いていた。 おっさんの横には車の鍵が落ちていた。 謎が謎を呼ぶ事件である。 ぼくは鍵がなくなったら困るだろうと、おっさんのポケットの中に入れておいた。
ぼくたちがいろいろと推理をしているところに、Iさんが戻ってきた。 手にたくさんのタオルを持っていた。 Iさんは、救急隊から「タオルか何かで傷口を押さえとけ」と言われたらしい。 ぼくがタオルを頭にかぶせたのは間違っていなかったようだ。 ただ、手で抑えておかなければならなかった。 Iさんが「そういえば、しんた君店内放送で呼ばれよったよ」と言った。 ぼくは成り行きを見届けたかったのだが、今日は従業員が少なかったので、しかたなく売場に戻った。
用事を終え、現場に行ってみると救急車が来ていた。 「車検証で身元がわかるけど、この人鍵を持ってないかなあ」と言っていたところだった。 ぼくは「この人の横に鍵が落ちていたので、ポケットの中に入れましたよ」と言った。 救急隊がポケットを探っていたが見つからない。 「ないよ!」と履き捨てるように言った。 ぼくはムッとして、「ちゃんと左のポケットに入れた。ちゃんと探して下さい」と言った。 おっさんを救急車に乗せたあとに、ポケットの中からその鍵が出てきたが、役には立たなかったようだ。
救急車が出発してしばらくしてから、警察がやってきた。 ぼくたちが血や小便の後始末をしようとすると、「現場検証が終わるまで、そのままにしておいてください」と言った。 それにしても、すごい血である。 あんな大量の血を見たのは、ぼくが高校の頃に鼻血を出した時以来だ。 まあ、頭の傷だから大げさに出血するのかもしれないけど。 そのうち店長が来て、「もう、売場に戻っていいよ」と言った。
閉店後、事務所に行くと、大量の「清め塩」が置いてあった。 血や小便は、そのままにしているらしかった。 明日掃除して、塩をまくとのこと。 ぼくが「あのおっさん、死んだんですか?」と聞くと、店長は「いや、死んでない」と言った。 ただ、頭蓋骨が陥没していたらしく、くも膜下状態だということだった。 原因はいまだに不明だが、おっさんは酒気帯び運転でうちの店まで来たということだった。 おそらく、こういうことだと思う。 駐車場に車を停めて、靴をサンダルに履き替え外に出たおっさんは、寒さと酔いのために急に小便がしたくなり、車の後ろで立小便をした。 そのあとで、店に行こうとしたが、何かの拍子に転んでしまい、車止めで頭をしたたか打ってしまった。 顔には何も外傷がなかったから、殴られて倒れたわけでもないだろう。 要はただの事故だったわけだ。
しかし、あれだけの血を見ても、ぼくは少しも動揺しなかった。 しかも、そのあとに食事をしたのだが、今日はいつもより弁当がおいしく感じた。 以前なら、気分が悪くなって、弁当も残していただろう。 おそらく、精神的に成長したか、不感症になったかのどちらかであろう。
中学2年の社会科の授業の時のこと。 何かの話から、先生が「この中で神様を信じている人はおるか?」と訊いた。 ぼくは躊躇せずに手を上げた。 「おう、しんたは信じるか。理由を言うてみ」というので、 「はあ、今年の夏休みに宇佐神宮に行ったんです。 『ここは太宰府天満宮に比べると、店の数も少ないし、参拝する人も少ない。面白くないのう」などと文句を言いながら境内を歩いていると、真っ白い馬がいました。 ぼくが近寄ると、「餌をくれ」と言うように馬が首を伸ばしてきたので、そこに売っていた餌を買って、与えました。 しばらく馬の首などをなでていたんですけど、突然馬が何かにとり憑かれたような表情になり、ぼくの腹をめがけて顔を伸ばしてきました。 ぼくはとっさに避けたんですが、へその下あたりを噛みつかれました。 その時『ああ、さっき文句言うたけ、神様が馬を使って噛みつかせたんだ』と思いました。 それで『やっぱり神様はいるんだなあ』と思いました」と答えた。 先生は「そうか、馬に食いつかれたけ、神様を信じるようになったか」と言った。 授業の後、友だちから「そんなことあるわけないやん」と言われたので、「じゃあ見せてやる」と言って、馬の歯型がついている腹を見せた。
しばらく忘れていたが、今年が午年だというので思い出した話である。 歯形はその後も残っていた。 最後に確認したのが、32,3の時だったろうか。 その時もまだうっすらとした傷跡を確認できた。 今日この話を思い出したので、仕事中にバックヤードに行って、十何年かぶりに確認してみた。 さすがにもう傷跡は消えたようだ。 しかし、その傷の箇所だけは、あの時の痛みとともに覚えている。
その後、神社などに行って悪口を言うのはやめることにした。 やはり神様はいると思っているから、バチがあたるのが怖い。 「あの時の馬のおかげで、敬虔なしろげしんたが出来上がった」、と言っても過言ではない。
馬の思い出というのは、この話くらいしかない。 なぜなら、あの出来事が、ぼくを馬嫌いにさせたからだ。 当然、競馬もしない。 テレビに馬が出ていたら、チャンネルを変える。 あの事件からこちら、まじまじと馬を見たのは、宮崎の都井岬で野生の馬を見た時ぐらいだ。 なぜ、まじまじと見たかというと、牡馬が雌馬に交尾を迫っていたからだ。 「こんなシーン、めったに見れん」と思い、しばらく眺めていた。 しかし、その牡馬は嫌われたのか、雌馬から足蹴にされた。 そのあとも何度か挑戦していたが、そのたびに足蹴にされる。 しかしそれを見て、ぼくは「ざまーみろ。バカやのう、馬は」とは思わなかった。 なぜなら、犬と違って、馬はバチがあたるからである。
2002年01月04日(金) |
ボケ始めなんだろうか? |
書類などには、いまだ平成13年と書いてしまうくせに、つい5日前の大晦日が遠い昔のような気がしてならない。 大晦日にしてこの状態であるから、クリスマスにいたっては、もう大昔なのである。 いったいその時何をしていたのか、また考えていたのかを完全に忘れてしまっている。 若い頃から、正月になるといつもこの状態に陥るのだが、40歳を過ぎた頃から「もしかして、これはボケの兆しか?」などと思うようになった。 その時の記憶をたどるには、日記なんかが一番いいのだが、こんな屁理屈ばかり並べている日記では、記憶も蘇らない。 これのどこが「頑張る40代」だ!
そういえば最近、倉庫に商品を取りに行って、何をしに来たのかさえ忘れてしまっていることがある。 倉庫に着いたら、頭の中が一瞬真っ白になってしまうのだ。 その空白の後、「何しに来たんかなあ?」などと考え込んでしまう。 そこにいる他の人への対面上、そのまま帰るわけにもいかず、タバコを吸ったりトイレに行ったりして、いかにもそのことをしに来たんだというふうに取り繕っている。 ひどい時には、「何をしに来たんかなあ?」とも思わず、ほかの作業をやって、それで満足して帰ったりしている。 そして、帰ってから初めて何をしに行ったのかを思い出すのだ。
以前はぼくも記憶力のいいほうで、覚える必要もないことまで覚えていた。 嫌なことや細かいことも、いつまでも忘れずにいた。 それらが気になって気になって、いつまでもクヨクヨしていたものだ。 おそらく白髪も、そこから来たものではないだろうか。 ある日中国の古典を読んでいると、物忘れのひどい男の話が載っていた。 物忘れのひどい男が「これでは困るので、記憶力をよくしてほしい」と神か何かに頼み込み、その願いを聞き入れてもらった。 それから、その男は、忘れるということがなくなり、記憶していること一つ一つに囚われ、気を病んでしまった。 結局、また神に頼み込み、元に戻してもらった、という話だった。 これを読んで、ぼくは人間は忘れることが大切なんだ、と思うようになった。 それから忘れる努力が始まった。
いったん忘れる癖がつくと、細かいことが気にならなくなるものだ。 それはそれでよかったのだが、ここまで物忘れがひどくなるとは思わなかった。 しかし、いったん忘れる癖がついてしまうと、それが大切なことであろうがなんであろうが、見境なしに忘れていく。 「このことは覚えとかないと」と思っていても、5分も経たないうちに忘れてしまう。 「もう忘れることはやめよう」と思ったりもするのだが、また前みたいにクヨクヨするのも嫌だし、そのことで髪の毛に異変が起きても困る。 髪の毛の異変、ここまで来ると、もはや残っているのは・・・。 言えない。
ぼくは2年前からパソコンを始めたのだが、その始めた理由のひとつに、ボケ防止というのもあった。 ボケ防止には、指を動かすことがいいというのは知っていた。 それまでは、ギターを弾いていたのだが、以前に比べ弾くことが少なくなった。 「このままだとボケるなあ」と思い、それに代わるものを探していたのである。 しかし、2年間やってもこの状態では。 あ、そうか。 ぼくはキーボードを打つ時は、2フィンガーなのだ。 指全部を使うようにしたらいいのかもしれない。 でも、せっかく覚えたその指使いも、すぐに忘れてしまうんだろうなあ。
どうでもいいことなのだが、ぼくが会社から帰りつく時間は、よほどのアクシデントが起こらない限り、だいたい午後8時39分である。 この時間より1分でも早く着いた時は、「ああ、今日は早かった」と何か夕方にでも帰ったような気分になる。 逆に、この時間より1分でも遅く着いた時には、「ちぇっ、遅くなった」とまるで真夜中にでも帰ったような気分になる。 ここ数ヶ月、この帰宅時間を中心に生活が回っているような気がする。
今日帰宅したのは、午後8時37分であった。 2分も早いと、もはや別世界である。 冬の寒さも、風の強さも気にならない。 雲の隙間から見える星でさえが、ぼくを祝福してくれているように思える。 まあ、ちょっと大げさかもしれないが、この2分の差はそれほど大きい、ということだ。
しかし、こんなことを書くと、「ぼくも小市民なのかなあ」などと思ってしまう。 ぼくは以前から嘉門達夫が好きで、車の中でもよく彼のCDを聴いている。 嘉門は「ヤンキーの兄ちゃん」から聴き始め、CDすべては持ってないものの、数枚は持っている。 そういえば、昨年買ったCDは、その嘉門の「図星でしょ☆」とエンヤの新譜2枚だけだった。 ぼくは嘉門の数ある歌(?)の中でも、特に「小市民」シリーズが好きで、車の中でもよく「あるある」などと言っている。 今日の状態を「小市民」ふうに表現すれば、「帰宅時間が2分早いと幸せな気分になる、あああー小市民・・・♪」である。 もしこの元歌を知らない人がいたら、一度聴いてみて下さい。 きっと「あるある」と言ってしまうはずです。
ぼくは小学校に上がる前から、よく人に「変わってる」と言われてきた。 最初は否定していたのだが、あまりに言われ続けてきたので、自分でもその気になっていた。 しかし、ホームページを始めてから、その考えが少しずつ変化してきたのだ。 日記をつけていて、人から「そういうことって自分も経験ある」などと言われると、「おれ、わりとまともやん」などと思い、嬉しくなってくる。 しかし「まとも」を認めてしまうと、「ただのおっさん」に陥ってしまうような気がする。 複雑な心境である。
まあ、人から面と向かって「変わっている」と言われることは、その人から注目されているとも考えられる。 それはそれで嬉しいことだが、そのことが人から人へと伝わり、「変わっている」だけが一人歩きするとなると考えものだ。 あなりよく知らない人から、「あんた変わってるらしいね」と言われた時ほど、ショックを受けたことはない。 「あんたがおれの何を知ってるんだ!?よく知りもせんくせに、人にそんなことを言うあんたのほうが変わっているじゃないか」と言ってやりたかった。
しかし考えてみたら、「変わってる」「変わってない」で一喜一憂している、というのも「小市民」の証ということになるのだろう。 あまりそういうことを気にしないほうがいいかもね。 と思うことも、「小市民」の証か。 ああ、きりがない。
明日から仕事だ。 実は、1月1日,2日というのは、ぼくにとって年に一度しかない連休なのである。 別に連休が取れないわけではないのだが、3勤1休の生活に慣れると、連休をとるとどうも落ち着かない。 旅行などの用事がない限り、うまく連休を過ごせないのだ。 この二日間の連休も、昨日こそ予定を組んでいたものの、今日は何も考えていなかったために、一日中寝ていた。 寒いということもあって、今日は一歩も外に出てないから、おそらく明日は半病人状態だろう。
そういえば、ここ二日間で感じたことだが、外で遊んでいる子供がいない。 ぼくたちが子供の頃は、元日からみんな外に出て、コマ回しや凧揚げをしたものだった。 凧揚げは正月だけの風物詩であったが、コマ回しは、ぼくの住んでいる地区では、唯一のウィンタースポーツであった。 ひと冬通じて、みんなが投げゴマに熱中した。 当時のコマは、今のコマのように民芸品化したものではなく、コマ本体、心(しん)、紐と、駄菓子屋で各パーツごとに売られていた。 コマはベーゴマではなく、木製のものだった。 心を火であぶって本体にさし込み、自分の好きなようにカスタマイズしていく。 相手のコマを割るために心の先を尖らせたり、長く回すために心を短く削ったり、紐を細くしたり、と各自が工夫していた。
ゲームは、ジャンケンで暫定的に将軍を決める。 ジャンケンに負けた順にインビ、ニビ、サンビ・・・、副将という地位になり、勝った者が将軍となった。 将軍が「天下の号令、インビ参れ」と言って、地位の低い者から順番に投げさせていく。 最後まで回っていたものが、次の将軍になる。 ぼくはコマがあまり得意ではなかったので、よくインビをやらされていた。 インビはいろいろと不利であった。 最後の将軍が投げるまで、1分ほどの時間差があるので、当然将軍に勝つことは出来ない。 当てゴマがOKだったので、割られることが多い。 割られたら、他にコマを持ってないものは、当然遊ぶことが出来なくなる。 当時コマ一式で20円ほどだったから、一日10円しかお小遣いをもらってない子供は翌々日までコマを買うことが出来ない。 もしコマをやらないということになると、コマを見るのも辛いし、家にいてもつまらないし、外で遊ぶとすれば女子とゴム跳びをするしかない。 こんなの嫌だったから、お年玉などをもらった時などに、コマの買い置きをしておいた。
そういう遊びも、ぼくたちの世代が最後だったようだ。 ぼくが中学生の時には、この時期に外でコマを回している者はもういなかった。 合わせて、ダンチン(ビー球)やパッチン(メンコ)も廃れていったようだ。 ぼくが小学校高学年の頃から徐々に流行り始めた、ローラースケート(ローラーゲームの影響か?)やボーリング(中山律子の影響か?)など、金を使う遊びが主流になっていったんだろう。 その後はテレビゲームの普及などがあり、その延長に今がある。 そういえば最近、「子供は風の子」という言葉を聞かなくなった。
いよいよ携帯電話の調子が悪くなったので、先日日記に書いた、知り合いのいるドコモショップに行った。 そこは、うちからだとわりと遠い場所にある。 年末に「来年からは、休みの日にはなるべく車に乗らないようにしよう」と思っていたので、今日はJRとモノレールを使って行った。 時間にして40分ほどかかった。 それにしても運賃が高い。 まず、ぼくの家の近くの駅からJRで小倉まで行ったのだが、ここが360円。 小倉駅からそのドコモショップのある駅まで、モノレールで260円。 片道合計620円、往復1240円。 公共の交通機関を使うと、市内の移動だけでこんなにかかるのか。 東京・横浜間でもここまではかからないだろう。どうも納得いかん。
さすがにJRやモノレールは客が少なかった。 初売りをやっている店も少ないようで、黒崎や小倉といった繁華街でも人はまばらだった。 しかし、一ヵ所だけ人が集まっている場所があった。 そこがドコモショップだった。 モノレール駅のすぐそばにあるのだが、ぼくが店に入った時は、20組以上の人が待っていた。 ぼくの受付番号は25番だった。 とりあえず店長と雑談しながら待っていたのだが、なかなか順番が回ってこない。 40分ほど待った時点で、あと15組ほど待たなくてはならない。 このまま待っていても、何時になるかわからないので、「正月明けに、また来ます」と言って帰った。
しかし、今日は待っている間もあまり以前ほどイライラしなかった。 何か、感情を持たずに映画を見ているような、感じがしていた。 そういえば、家を出た時も、夢の中にいるようだった。 元日早々、白昼夢状態か。 いよいよ疲れもピークらしい。
ところで、夢といえば、何で1月2日の朝に見た夢を、初夢というんだろうか? 普通に考えれば、元日の早朝に見た夢こそが、初夢じゃないか。 「納得いかん!」というので、いろいろ考えを巡らせてみた。 そして結論が出た。 きっと「2日の朝に見た夢を初夢と呼ぶ」と決めた人は、ぼくと同じ考えを持っていたのだ。 ぼくと同じ考えとは、そう、昨日の日記に書いた、「一日というのは、朝起きてから次の朝起きるまで」ということである。 朝起きてから2日が始まるのだから、寝ている間は元日ということになる。 そう捉えないと、初夢の説明が出来ない。 おそらく、「2日の朝見る夢を初夢という」と決めた頃は、誰もがそういう考えを持っていたのだろう。 だから、すんなりと「初夢」の概念を受け入れたのだろう。
ということで、今から初夢を見ることにします。 おやすみなさい。
|