・・・だというのに、各務は相変わらず独り者です。これがネルコミに行くしかないのか?(苦笑 昨日は飲み会で、一昨日も飲み会で、各務、ちょっと体内アルコール残滓量が高いらしくハイテンション。そんな中、名倉と二人で拙宅にてコピー本製作。例のナッシュケン本の予約特典です。もう締め切り終了だよ、ちなみに。 それで、かなりいい作品が出来ました。もう、読んでると胸のあたりがかゆくって、口の中がざらざらしてきます。さすが!って、自分を誉めました。天才! あまりにも出来がいいので、特典だけにしておくのがもったいなくなりました。よって、販売もします。しかし、予約してくださった方には、もちろんタダです。皆さんで、砂糖でも砂でも、それ以外のものでもはきまくってください。 しかし、謀ったわけじゃないのに、またまた名倉とコンセプトが一緒になってしまいました。しかも、名倉の続きのようになりましたが、全くの別もんなんです〜。ああ、文才が欲しい・・・(さっきと言ってる事が違う) さ、次はリュウケンだ!
生きているものは、全て電気刺激で動いている。 その電気刺激を体内で発生させる事が不可能になった時、生命体には死が訪れる。 生命体というものは基本的に有機物でできているが、意志を持って動いている時は生命体と呼ばれ、死が訪れた生命体は、ただの有機物の塊にかえる。 お前だってそうだろう? お前の叔父が死んだ時、お前もそう実感していたろう? それともお前、叔父と飼い猫では、猫の方が身近だっただけに、感情的に受け入れられないというのかい?甘ったれだな。 わかっているんだけど、そしたら、死んだその生命体の考えていた事や、感情は、どこに行ってしまうのだろう。 たとえば誰かを好きだという気持ち。 なにかを守りたいという気持ち。 なにかに執着していた気持ち。 伝えたかったこと。 知りたかった事。 全部、どこに行ってしまうのだろう。 記憶も、行動も、感情も、全て脳の中で電気信号として伝えられ、繋がっているのは知っている。そしたら、もう一回電気が流れたとしたら、その感情や記憶は、この世に戻ってくるのだろうか。 戻ってこない。だって、呼吸が止まってから60秒以上経つと、記憶にも支障が出てくるのを知っているから。60秒の間に、記憶はどこかに消えていく。壊れた細胞とともに、本当にただの有機物になる。 でも、あんなに強かった思いは、どこに行ってしまうのだろう・・・ 自分が死ねば分かるのだろうか。 死んでわかっても、誰にも何も言う事ができないまま・・・ 家に帰ったら、修二の寝ていたベットはなくなっていた。買ったやつも、あたしが作った方も。どっちも、いっしょに焼いてきたそうだ。 食器もきれいに洗われてなくなっていた。水のみは捨てて、お椀と残ったペットフードは隣家にあげるらしい。隣家にも猫がいるから。 猫は死んでから数日間、そのまま家の中に留まっていると名倉は言っていたが、あの子が寝るところも食事をするところも、もうこの家には無い。 ベットがなかった時のように、私の布団に入ってきたり、お腹の上で丸まっているならそれでもいい。だが、お腹を減らして食事中に足元で鳴いているのに気づけなかったらかわいそうだし、気づいてしまったら悲しい。 あたしには見えない方がいい。見えてしまったら、きっともっと悲しい。
修二が死にました。 修二というのは、家で14年くらい飼っていた雌猫の名前です。 朝、妹に起こされて起きると、修二はもう冷たくなっていました。 夕べ、26時半頃母親をトイレに起こし、それから修二は寝たそうです。 肝臓だったか腎臓だったかを患っていて、夕方に病院に連れて行ったときは、元気よく医者の注射にはむかったそうで、その後通常より多い食事すすんで摂ったと、上の妹は言っていました。 しかし、いつもなら早朝5時半頃に母をトイレに起こすのに、今朝は起こさなかったそうです。上の妹が6時ごろに起きても修二は食事を催促しないので、妹は不思議に思いながら勤めに出ました。その30分ほど後、下の妹が起き、修二を触ったら息がなかったそうです。その時はまだ暖かかったと言っていました。 私が彼女に起こされたのは45分ごろ。火のついたストーブの前で、修二は冷たくなっていました。 たった2時間半の間に死んだなんて、嘘のような話だな。そうつぶやいたとたんに、泣けてしまって、抱き上げたら鼻先で「クゥ」と泣いたような気がして、胸に耳を当てたら、ゴトンゴトン音がしました。ベットにおいてもう一度耳を当ててみたけど、もう何も音はしませんでした。修二が死んで、身体の細胞が壊れる音がしたんだ。そう思ったけど、抱き上げるたびに修二は「クゥ」と、肺に残る空気を寝言のようにはき続けました。 フリーターではなく、派遣ながらも社会に勤め始めた以上、仕事を休むわけにも行かず、家を出なければいけない。これが肉親だったら会社など休めるのに、肉親同様であったにもかかわらず、修二の死に仕事を休む事は出来ない。人が14歳といったら、中2に等しい。そんな大きな子供をなくせば、きっと誰もが同情するし、仕事を休むようすすめるだろうが、修二の場合は同情をされても仕事を休めない。不思議なジレンマを感じた。 家に帰ってくると、修二の身体は死後硬直で堅くなっていた。足を曲げてやろうにも曲がらず、触った毛は剥製のようにうそ臭い。救いは顔つきが穏やかになっていることだけだった。 枕もとには、冬なのに真っ白な花の鉢植えが置いてあった。母が車で、昼間、修二のために買いに行ったそうだ。葉っぱが一枚だけ、茶色く変色していて、小さな白い花はしおれているように見えた。修二は眠っているようで、触っていたせいで暖かくなった小さな頭に触れつづけていたら、タオルの下の腹が今にも動きそうで、急いで友達に電話して長話をして、涙をごまかした。 人の歳にして、87歳くらいだそうです。身体を壊した上に風邪をひいていました。仮に健康だったとしても、天寿を全うしたといわれそうな歳です。 あの仔が体調を崩した時にそろえた介護用の品は、全てゴミになるのでしょう。ずっと前から使っていた食器も、誰も食べないペットフードも、結果的に2週間と身体を横たえなかったベットも、全てきっとゴミになるのでしょう。 この市では、愛玩動物を庭に埋める事を条例で禁じています。衛生のためですが、実は知っている人はあまりいません。死んだペットは、生ゴミとして燃えるゴミの日に出す事になります。生肉なので、生ゴミ。 母は、隣の市にある共同火葬場の横にあるペット用の火葬場に修二を連れて行くといいました。骨もそこの共同墓地に埋めるといっています。個人的には、庭に埋めたい。14年のうち、10年以上の毎日を一緒に寝てすごした自分の意見は、今回聞き入れてもらえないようです。部屋にある修二のベットは、この前買ったものではなく、私がダンボールにクッションをのせて作ったお手製。夏まで毎日修二はそこにいたのに・・・あれを、このあとどうすればいいのだろう。 よく考えれば、けしていい飼い主ではなかったと思う。だが、それを伝える事も出来ず、聞くことももはやかなわず、修二はもう何も言わない。 自分の事を猫と思っていなかったらしい修二は、死ぬ前に挨拶もせずに逝ってしまった。死ぬ前に何か変わった行動をとるというが、何も変わらなかった。 所詮、そんなものなのだろうか。 昨日取り付いていた鬱は、今日は割と収まっている。もしかすると、これが俗に言う虫の知らせだったのかもしれない。もしも修二が元気だったら、夕べはきっと一緒に寝ただろうから。そうしたい気分だったけど、修二の病気が悪化しないように、ベットに寝かせていたのだから。 耳を当てると、水の音が聞こえるような気がする。きっと、身体の中の消化酵素が、ゆっくりと内蔵を溶かして水にしている音なんだろう。放って置けば、古いレバーのようにくさい水になってしまうのだ。そうやって身体は地に染み込み、われらを支えるこの星そのものになる。 まだ、一緒にいてくれてありがとうと、修二に言う事が出来ない。 心が痛みに磨耗するまで、きっといえない。
定期的にして非常に不定期な、例のアレがやって来た。言っておくが、女性特有の生理現象ではない。 最近、とても精神的に疲れているような気がした。誰かに寄りかかりたい。そしてゆっくりと休ませてもらいたい。 自分は弱いので、休ませてくれる腕が必要なのだと最近とみに感じる。しかし、それは求めれば易々と与えられるものではないらしい。少なくても、自分にとっては。 雪のように降り注ぐそれは、最初は己の体温で融けていくが、じわじわと体温を奪い、身体の上に積もり始め、最後には己を埋めて殺してしまうだろう。その時、果たして惜しんでくれる人が現れるほど、価値のある人間になっていられるだろうか。 何も書きたくない。むしろ書けない。 求めるものはいまだ片鱗すら見つけることも出来ないのに、それを表に出す事も出来ないのに、文として表現する事も出来ないのに、どうしてそんな嘘を並べられるのだろう。自分の夢を美化しなければいけないのだろう。 そろそろ、字書き失格の時期かもしれない。もっとも、そんな大層なものも書いてないけど。 「やがて現れるはずだ」 かつて尊敬してやまなかった「Y2」はそう言った。 「それなら、まず自分を愛して、大切だと思わなきゃ」 大切な横浜の「兄」はそう言った。 「そんなもの、なくても大丈夫だよ、たぶんね」 今も特別な「彼女」は、かつてそう言っていたが、今は・・・? 人が動物である以上、子孫を残さなければいけない。 あの日、「先生」はそう言った。 子孫を残すための動機付けとして、遺伝情報の中にプログラミングされている「感情」だ。お前が正常に生物として機能しているという、立派な証明だ。 ・・・だけど。 果たして答えなど、どこにもない気がする。 その思いに捕らわれた時、癒せぬ空しさを抱えてデパートへ足を向け、 欲しかったはずの目的物を前に買うのを躊躇い、 「どこか」へ気持ちを飛ばしてくれる書物を探し、 結局何も持たずに帰ってくる。 「自分が好きでないなら、誰も自分を好きになってくれないよ」 愛すべき「兄」はそういうが、「兄」には恋人がいる。 この前見せてもらった写真は、とても幸せそうだった。 レインボーフラッグが彼らの心にはためいて祝福している。 あの虹の旗。心の中に灯す道標であり、象徴。 私の虹の下には、まだ自分の影以外何も見つけられない。
会社を4連休して(しかも仮病で)冬コミの新刊を入稿したのが木曜日。自分がどうしようもなく間抜けに見えてきます。 しかしせっかく予約をして下さるありがたい方もいらっしゃた手前、いい加減なものも作れない・・・ 予約特典として、ちょっとしたナッシュケンのコピー誌を作る事にした。後日談を作るか、それとは別の話にするかが問題だ。 今の時点でわかっていることといえば、きっとホテルにワープロを持ち込むんだろうという嫌な予想くらい。何考えてんだか。 久し振りにいった職場は、自分の席がなくなっているなんて困った事もなく、相変わらず困ったくんには振り回されるという、全く何にも代わり映えの市内一日だったが、一週間の修羅場のせいか生活リズムが狂っていて、お昼から夕方にかけてひどい眠気に襲われる。途中でうとうと・・・学生か、お前は。 う〜ん、うまく文が作れない。これも修羅場後の特徴よね。参ったなぁ・・・冬コミ用のリュウケンも作りたいのに・・・
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