”BLACK BEAUTY”な日々
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Boogie
2006年04月15日(土) |
夢破れし後に残るもの |
35歳。現在の自分の年齢である。最近になって今まで出会わなかった自分を発見することがある。 それは「過去を振り返る自分」である。 10代、20代は前だけを見ていれば事足りた。しかし30代も半ばを迎えると前だけを見続ける事はできない。ちょっと時間の余裕が出来た時などに、過去の自分を客観的に振り返り、それを未来の自分に生かそうとする知恵を体得したのだと思う。
高校3年生のときに俺が所属していたバンドは60年代のKINKS、THE WHOなどのブリティッシュビート、70年代のドクターフィールグットらのパブロックのカバー、およびオリジナルを演奏するバンドだった。 「ベースメンツ」という名を冠するそのバンドはギタリストの俺が最年少だった。他のメンバーは全員、10歳近く年上だった。 「ベースメンツ」は四谷のフォーバレーを拠点に定期的にライブ活動を行っていた。俺のギターはレスポールではなくテレキャスターだった。
何回目かの四谷フォーバレーのライブ後、当時の店長が何故か俺だけを事務所に呼び出し、こう言った。
「君はステージに立っているだけでどんなギターを弾くのかがストレートに伝わってくる。ギターを弾いてない時でも音が聞こえてくる。これはすごい事なんだよ」
この賞賛を上回る言葉を今現在でさえ聞いた事がない。多分、これからもないだろうと思う。最上級の賛辞だ。
20歳そこそこのガキはこの言葉にしたたかに酔った。そして音楽でメシを食う事を意識し始める。そして10歳年上のメンバーにメジャー志向がない事を悟った後、ベースメンツを脱退する。
プロになるべく最強のバンドを作る為、当時所属していた大学の音楽サークルの仲間達の中からピックアップを行い、メンボの張り紙を都内の楽器店、ライブハウスに張りまくった。
こうしてギター2本のストーンズやエアロスミスと同じ編成のバンドが出来上がった。バンド名は「BQライトニングス」に決定した。 目指す音は「70年代ミックテイラー在籍時のストーンズ」だった。キース役はもちろん俺の担当だった。
そして大学4年生に事務所と契約、CDデビューを目指してスタートしたこのバンドは週3回の夜間パック6時間プラス週1回のミーティングという、音楽漬けの日々が続いた。 しかし、現実はライブ動員は常連のわずか数名で伸びる気配もなく、さまざまな事務所へ送ったデモテープも何らの反応もなかった。
やがて期限である大学4年生の春、メンバー全員が髪を切り、黒く染め、なれないリクルートスーツで身を包んだ。おりしも時代はバブル崩壊。就職氷河期の第一期生が俺たちだった。 なかなか貰えない内定、バンドへの心残りの中、どうにか全員就職を決めた。 バンドは社会人になっても続けようと全員で約束した。しかし、バンドのモチベーションは確実に下がっていく。自分の勤める会社を「ウチ」と表現するなんとも言えない違和感を感じながら話題の殆どが仕事に関する事に傾いていった。
やがて、ドラマーが自宅の酒屋を継ぐべく、東京を離れた。ベーシストも京都の実家へ戻った。ボーカリストは脱退を宣言した。残ったギター弾き二人はギターをエレキからアコースティックに変え、アコースティック系のライブハウスで活動するが、どちらからともなく音信が途絶え、仕事に追われる日々に身を浸すようになった。28歳の時の話だ。
それから2年、全くギターを弾く事のなかった俺が、ジローと島ちゃんと出会い、「Thrill Freaks」を結成する。
今、自分の20代をこんな風に振り返る事ができる。
「夢を追うのは若者のみに許された特権である」また、
「夢に敗れるのもまた、若者のみに与えられた試練である」
それでは、夢に敗れた者は人生の落伍者となるのか?いや、そうではない。
「希望」という二文字。これは年齢にまったく関係なく、全ての人にあらかじめ用意されたものだと思っている。
夢が何万光年も離れた星のまたたきであるのに対し、希望は間接照明のように暖かく、そして穏やかにわが身を照らす光だ。
「希望」今一番好きな言葉だ。
たとえ口に出して言えないような人生でも希望だけは忘れてはならない。
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