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【今日の一本】明るい農村 - 2005年05月30日(月)
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明るい農村【あかるいのうそん】 さつま霧島酒造(鹿児島県霧島町) 25度 芋(コガネセンガン) 黒麹8:白麹2(米)
◆今日は、実はあまりこの酒の話はしない。 ◆この酒、僕の芋焼酎棚には、かなり初期に並んだもの。 その頃は、これを入れて2、3本しかなかったはず。 で、その時の感想は、「芋臭いなあ、でもなんか美味いなあ」だった。 ◆それから数ヶ月。 久しぶりに今日、棚から出してロックで飲む。 驚いた。 ◆全然芋臭くないのである。 ◆ほんとうに。 全然「芋臭く」ないのだ。 むしろ甘口の香りで、非常に取っつきやすい。 これを芋臭いと思ってたら、「旭萬年白麹」ははっきり言ってスカウターが壊れる。 ◆蒸留酒である焼酎が短期間で味を激変させることはそうないはずなので、 変わったのは、間違いなく僕のパースペクティヴなのだろう。 ◆つまり僕にとって、あの時の「芋臭い」と、今の「芋臭い」は、 まったく別の香り、味わいのことを指す概念になったとしか考えられない。 ◆この数ヶ月間で、自分でも呆れるくらい芋焼酎を呑んだ。 そのうちのほとんどは覚えていないが、 それでも、ひとつひとつ呑む度に、自分の中に 味わいを分解し、言葉に落としていくための評価軸が立っていったのだと思う。 その中で、「芋臭い」という評価軸が明らかに変化したのだろう。 ◆単純に言えば、 「これは芋臭いと思う」しかし「それよりもこれの方がもっと芋臭いと思った」。 ところが「これはもっともっと芋臭いと感じた」。 そうこうしているうちに、「芋臭さ」の基準が塗り替えられていったのである。 ◆すると、こうなのではないか。 「味わう」というのは、おそらく比較する作業なのだ。 (また別の機会に書くかもしれないが、「味わう」のは味覚だけによる作業ではない。諸感覚の統合による、極めて高次の作業だと思う) ただ「うまい!」と思うだけなら単純な作業だが、 これのどういうところが美味いのか、なぜ美味いのかを突き止めようとすると、 「前の○○と比べて今のこれがどうなのか」ということを考えざるを得なくなる。 ◆そうすると、その「○○」が「どう」なのかを覚えていなければならないわけで、 そこに「言葉にする」ことの重要性が出てくる。 言葉は記憶の手がかりなのである。 「記憶の引き出し」とはよく言うが、 言葉とは、その引き出しにつける取っ手なのだと思う。 ◆さらに言えば、僕は人より味覚が鋭敏だとは到底思えない。 だからなおさら、言葉にしなければこぼれ落ちてしまう「味」が山ほどあるように思えるのだ。 ◆加えて、味覚だけに頼ることに限界を感じるからこそ、 酒の造りや蔵のことについてできるだけ勉強している。 そういう知識を背景にすれば、酒を味わう時の情報量が少しでも増えるからだ。 知識だけで呑むのは愚かだと思うが、 僕は知識なしで呑むほど自分の感覚を信用できない。 (ここに「知識と感覚の衝突」「知識による感覚の阻害」という問題が存在していることはもちろん承知だが、これは難題なので当面後回し。上で示唆しておいた「味わうとは何か」、もっと言えば「味」とは何か、ということを考えるときには触れざるを得ないだろう) ◆悪い癖で、話が拡散していく気配がする。 が、拡散ついでに一つだけ。 なぜ、「味わう」のか。 「うまい!」「まずい!」だけでいいではないか。 僕はそうは思わない。 自分にとって最高にうまいもの。それにたどり着くためには、 やっぱり、自分がどういうものを美味いと感じるのか、 それはなぜなのかを、ある程度理論的に考えておいた方がよいと思うのだ。
◆こうして「明るい農村」は、いろいろなことを考えるきっかけをくれた。 そして今日ロックで呑んだこの酒、うまいのである。 芋焼酎の味の重要な評価軸の一つに「甘みと苦みのバランス」がある、 という気が最近しているが、、、 もう今日はやめておこう。 ◆明るい農村はうまい。よい酒である。 と、こんなオチでいかがでしょうか。
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