2004年12月11日(土)
ジーニアス


昨日、2人の全くベクトルの違うジーニアスから、名言の数々を聞き、
(それは直接的にあたくし向けられたものとは限らないのだけど)
そして、風邪でうつろいゆく意識の中で今日、「相田みつを物語」を見ながら、
ジーニアスって、遠いところにいるようで、実は身近にいて、加えてとっても人間臭い
そういう人たちなのかもしれないな・・・・と、新しいものを突きつけられたような感じで、
いつもは、スラスラとここに書く言葉が浮かんでくるのに、今日の自分は何を書いても
薄っぺらで、つまらないな・・・・と思ってしまう。


哲学的に言うと、「生き方が定まらず、動けぬ人間」がものを言うというのが愚かしい、
理想と野望は必要不可欠な要素ではあるけれど、「何となく」でも暮らしていける・・・・
この2つの真逆の「何か」がジレンマとしてグルグルとあたくしの頭の中を巡り、
グルグルが止まらない。
発作の時のグルグルとは違うので、それはまだマシなこととして、でも、その上でだ。

どうして、「あぁしたい」「こうしたい」という欲望はたっぷりと湛えているのに、
自分がそれを行動に移せていないのか、少し発想を切り替えれば、もっと何かがあふれてくるのに、
貪欲にそれを追求しないでおくのは何でだ? みたいな禅問答とぶち当たるのである。


完全に板を降りる勇気もない、断筆するなどもっての他、誰かと繋がりあっていたい。
そういう気持ちは人一倍あるのに、
板の上で表現をするだけの体力、もっと新しい言葉の開拓、創る時の孤独。
これらが、一気に身に降りかかってくると、あたくしは恐ろしくて身動きができなくなるみたいだ。


これだけ風邪をこじらせ、かつ治りが遅いというのは、もう根本的な体力が明らかに衰えているんだ。
それ以前に、ものを食べるという行為を億劫がったり、薬に頼らなければ
日永一日をまっとうに生きられない「基本」が崩れた生活。ダメでしょ、最悪でしょ。


没頭して、貧乏して、時間を忘れるほどに創作に熱中して、食べられなかった時代とは違う。
今は、食指を伸ばせば何か食べるものがそこにあるし、ぷよ2だって稼いできてくれている。
あたくしは怖いんだ。
あと何回か訪れるであろう、自分を完全に淘汰するかのような出来事が。
でもそれを潜り抜けないと、自分が上に這い上がれないことをもう知ってしまっている。
昨夜、「漢」が語ってくれた中に、清い努力は欠片もなく、でも執念じみた愛みたいなものは感じた。
何に対する愛かというと、時にそれは家族であったり、時にそれは仕事であったり、
そして時にそれは並々ならない愛を注ぐ対象として「自分」であったり、
この鬼才は、淘汰される度に何か「愛」を手に入れて、ぐわっと今を生きている。
でも、コレが、ビックリするくらい輝いているんだよなぁ。
(頭がスキンヘッドだからとかいうんじゃなくて・・・・)


体力と虚勢に任せた喧嘩や、許容量を遥かに越える酒、自分が落ちていくための薬、愛しぬいた女、
淘汰されるために十分な要素と量が揃っていて、尚且つ這い上がってきているなんて
まるであたくしが昔、自分で作り出した小説の中で生き生きと飛び回らせていた少女のようで、
それが現実世界の中で生きている人とダブると、あたくしはとっても凹む( ̄∇ ̄;)
だって、この「漢」・・・・ジーニアスと言っていい「漢」は時に、あたくしが思い描いていた
少女のような瞳でこちらを見ることもあるのだ。
何度も何度も、人生にリセットボタンが登場すると、風貌はそのままでも、
素直さを要求される。
信念や渇望寸前の野望はキッチリ備わっているのに、何度もやってくるジレンマに苦しめられつつ、
それでも明日笑っていられる、明日板の上にいられる、そういう儚い希望だけが
支えだというのに、今日も、残りのパワーで精一杯、生き抜こうとしているのだもんなぁ。


そういうのを見て、「自分にはできない」という言葉を吐くのが許されない、あたくし。
言うなよ、言ったらおしまいなんだよ・・・・とまるで亡霊のようにあたくしにつきまとっている
ひとつの「芯」がコレで、今まで何度も、できもしないことを「できます、やります」と言って、
結果オーライとはいえ乗り越えてきた。・・・・そしてとうとう、人生でこれほど遅すぎる1度目の破綻。
なので、2度目の破綻が怖くて仕方がないのだ。


酒を飲んで自暴自棄になろうにも、あたくしの限界的許容量はたかが知れていて、
自棄になって絡む前に、撃沈してしまう。胸襟を開いてうつも吐けない。
今さら、薬は懲り懲りだ。合法だろうと違法だろうと、もう薬はお腹いっぱい。
情熱の限り愛した男は、今どこで何をしているのやら・・・・。
そして、溜まりに溜まった鬱憤は、あたくしの意識下ではないどこかで、暴れまわって発散される。
もう、こんなシステムが嫌で嫌で仕方がないのに、長いトンネルのように、明日もこんな暮らしが
続いていくのだろう。


一方、テレビで見たもう1人のジーニアスは、とても普遍的なのに、
普遍的であることを善しとした時点で、普遍的でなくなっていった。
ジーニアスになった。
彼はそれを望んでいたのだろうか? 昨日の「漢」の逞しくて寂しい背中と彼の姿が重なる。
そして彼は、筆を持つ書家だという立場で己を表現していくわけなんだけど、
若くして亡くなられたその最期まで、御自分がジーニアスであったことには興味も何もなかったみたいだ。


食とか住いとか衣服とか、そういうんで贅沢したいんじゃない。
あたくしがしたい贅沢は、もっと別のところにある。
あの「漢」のように、齢を重ねても尚、苦悩をするジーニアス(鬼才)になりたいわけじゃない。
もう1人の「漢」加藤氏のように、自信たっぷりに自分がジーニアスであることを
自覚したいわけでもない。
テレビで見た、相田氏のような言葉をつむぎだせるようなジーニアスになりたいわけでもない。


ある人には「莫迦」と言われたり、またある人には羨ましがられたり、
そして時に、誰かの中で「ジーニアス」として君臨したり・・・・というのを繰り返しながら、
夫のてのひらの中で、自由気儘に創ることに専念し、たまに自暴自棄にも陥り、
食うに困るくらい何かに没頭し、自分が欲しい「何か」のためには食すら擲って渇望状態になり、
自慰行為も良しとし、受け入れられるだけの度量をもち、少年のように遊べる女になる。。。。
これが目下、あたくしが「ジーニアス」になるよりももっと求めてならない1つの贅沢三昧スタイル。


そんな調子のいい話が、世の中にあるわけがないじゃないか、と叱咤される前に、
本当は世の中にはそういうチャンスがゴロゴロ転がっているんだけど、誰も気付かないだけなんだ
と、言いたい。
あたくしは虎視眈々とそのチャンスを狙って、今は安らかに。凡人でもいいから大人しく。

あれこれ考えると、風邪とは違う頭痛が到来するので、それだけは勘弁して欲しいのだ。

↑寝て待っても果報は来たらず!


その証拠に、昨日、「漢」たちに会わなかったら、あたくしはいつまで経ってもこの田舎町で燻るしか
選択肢を持たない、つまらない女になるところだったのだ。
風邪をこじらせているのだから、寝てろ・・・・と普段なら角を生やすぷよ2なんだけど、
きっと、何か閃くものがあったのかもしれない。
点滴に筋肉注射まで打って、とにかく待ち合わせの劇場までつれていってくれた彼には、
やっぱり感謝しないといけない。
ジーニアスと近いところにいるへんてこな女を妻にした男の宿命だとも思う(苦笑)。

あさみ


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