2004年08月06日(金)
7歳のこの日。


7歳。小学1年生。この年の8月6日。
あたくしの右腕にも、のちにケロイド状になってしまう傷痕ができた。
5歳の5月末、近所の用水に落ちたのが原因で、右肘を複雑骨折し、
この当時はまだ、切開手術に耐えうるだけの体力が保証されなかったため、
少量の全身麻酔で、エコー越しの骨接ぎしかしてもらえなかったのが、小学生になって最初の夏休み、
遂に切開手術をして、完璧に治すプロジェクトが発動した。


あたくしの右手が完璧に元通りの形になるまでの1年間、あたくしは幼稚園で「前ならえ」をしても、
肘の関節がおかしかったせいで、普通に手を上げているつもりでも、掌が外を向いてしまっていた。
そのせいで、同じクラスの男の子にからかわれたりしたけれど、自分ではこれが普通だと思っていたので
別段、堪える事はなく、いつも意地悪な先生も、あたくしの右手のことになると
意地悪なことは言わなくて、素知らぬ振りだったので、ホントに自分は正常なんだと信じていた。
この意地悪な先生だけでなく、大人たちは皆、あたくしの右手のことは何にも言わなかったから。


なので、手術が決まってからはめちゃくちゃブルーで、
そうでなくても左手が常人より器用だったせいもあって、日常生活に不便さを感じていなかったので、
自分から、「治そう」だなんて微塵も思わなかったわけなんだけど、
親は相当あたくしのことを不憫な目で見ていたようで・・・・手術が物理的に叶う年齢になったら
すぐにでも治療に取り掛かる決意でいたようだ。
あたくしがどんなに嫌だと言っても、その主張は通らず、あたくしは自分の意に反し、
勝手に入院させられて、夏休みのほとんど、病院で暮らした。


全身麻酔というものは、ホントに気分のいいものではない。
やった人でないとわからないとは思うけれど、バリバリに意識があるのを無理矢理に眠らせるわけだから
効果としてはクロロホルムみたいなもんだ(爆)。
で、最近では、子供用に、メロンの香りがするのとか、バナナ、イチゴ、オレンジと
子供が好みそうな香りをつけた麻酔というのがあるらしいんだけど、あたくしの頃は
子供だろうが大人だろうが、麻酔は麻酔で(苦笑)、あたくしはこれが嫌で嫌でたまらなかった。


寝ている間に手術は終了して、あたくしの右手にはギプスがグルグル巻きにされ、
夏場、恐ろしい痒みと闘いながら、重いギプスを首から吊った状態でしばらく過ごしていた。
コイツのおかげで、夏休みの宿題はほぼ免除に近い状態になり、利き腕が封じられているので、
新学期も皆に半月ほど遅れてからの合流となった。


そんな入院中。
担任の井口先生がお見舞いに現れて、あたくしに1冊の絵本をくれた。
「千羽鶴のねがい」という本だった。
8月6日。朝の8時15分。広島という街に、原子爆弾が落とされて、沢山の人が死んでいった。
難を逃れて、戦争は終わったけれど、主人公の「さだこ」という少女はある日突然、
沢山の血を吐いて、病院に入院しなければならなくなった。白血病という病気らしい。
「さだこ」は毎日飲む薬の薬包紙をずっと大事にとっておいて、それで折鶴を作り始めた。
「この鶴が千羽になったら、きっと自分の病気も良くなって、退院できる」
と信じて、鶴を折り続けた。
ある日、「さだこ」は鶴を千羽折りきることなく、亡くなってしまった。
「さだちゃんの願いを引き継ごう!」と、学校のお友達が残りを協力して全部で千羽にして、
それをお墓にお供えした・・・・確かそんなお話だった。

第二次世界大戦の詳細や、「リトルボーイ」の脅威、そして被爆者たちが白血病にかかって
戦後もどんどん亡くなっていったという事実は、もっとずっと後に学校でも習うことになるんだけど、
7歳のあたくしには、それがどんなことなのかまだわからなかった。

ただ、現在の広島平和記念公園にある千羽鶴が沢山飾られている平和の塔の一番上の部分に、
折鶴を掲げた少女の像があるのだけど、あれが、在りし日のさだこさんにそっくりだ・・・・という
後日談までがその絵本には描いてあった。


あたくしは、指の第2関節までギプスで固められた手で器用に折り紙をしながら遊んでいたりしたので、
この時に読んだこの絵本に触発されて、同室でお隣のベッドに入院していたお兄ちゃんに、
鶴を沢山・・・・といっても、10羽か20羽程度なんだけど、作ってそれを糸で繋げて、
自分が退院してからお見舞いに持っていったくらいだった。


あれから20年以上経って、あたくしもヒロシマやナガサキに落とされた爆弾の本質を知るようになり、
実際、大学ではナガサキで被爆されたとかいう先生に教鞭をとってもらっていたりしたので、
戦争がより一層身近に感じられたが、最初のアプローチは、井口先生にもらった1冊の絵本だった。


あたくしの完全治療プロジェクトは、1回の切開治療では完治せず、
本来ならばきちんとそれで治るはずだったのだけど、支柱になっていたワイヤーが
ギプスの中でずれたため、2度も同じところを切開したため、傷痕が結構エグいケロイド状になった。
高校時代の修学旅行で、原爆ドーム等を見学したのだけど、その時に展示してあった火傷の痕に
自分の傷痕がそっくりだったのが少し衝撃的だった。




ギプスが取れてからは、もう「前へならえ」をしても掌が外を向くことはなくなったが、
肝心の関節部分にきちんと筋肉がついていかなくて、何度も何度も肉離れや捻挫を繰り返し、
年に数回は同じところに包帯を巻いていることが多かった。
その度に、左手は強度と器用さを増していき、右手が封じられている間でも
あまり不自由を感じることなく・・・・それこそ学校の授業にも不便なくついていけたのは
今でも奇蹟だと思っている。


今年、年度始め・・・・。
新しく暮らし始めたこの学区のPTA会報誌に、井口先生の名前と写真を見つけた。
ちょっとびっくりした・・・・この街は狭いので、ここに住んでいる限り、昔の恩師にバッタリと・・・・
という可能性も決して低くはないのだけど、まさか今、目と鼻の先にその先生が勤めているとは・・・・
といった感じで、そして、8月6日はあたくし自身が再生した日でもあるので、何となく懐かしくもあり。

↑狭い街万歳かな(笑)

猶に四半世紀近く経った今でも、変わらないものってあるんだなぁ・・・・。
NO MORE・・・・は、ヒロシマ、ナガサキだけではなく、あたくしの右手もなんだけど(苦笑)。

あさみ


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