この間、美容院でカラーを済ませた後、少しだけ本屋を覗いた。図書券があったので、衝動買いで、矢沢あい大先生の「NANA」のイラスト集を何の迷いもなく買ってしまった( ̄∇ ̄;)熱狂的矢沢教信者(永ちゃんの方ではない(爆))としては、もっと昔の・・・・線が物凄く繊細で主人公の涙が痛々しいくらいの描写をしている頃の作品が好きだったりするんだけど、あんまり深く語ると、本当に年齢詐称と思われてしまうので、やめとく(笑)。ただ、今、「NANA」 「パラキス」にどっぷりの若者たちよ・・・・一度でいいから、「エスケープ」あたりの話を読んでみるべし( ̄^ ̄)多分、あなた方の感覚では、謎めいた部分も多かろうと思うのですが、主人公たちの真髄は、ナナもハチも紫も実和子も、みんな昔のキャラクターとそう変わんないですから。ただ、時代とともに、表出する何かが違ってくる・・・・というだけで、絶対に楽しめると思うから。そんなこんなで、日に日に矢沢ワールドが少女世代の中に浸透しつつある今日この頃・・・・。矢沢で育ったあたくしは、今尚連載中の作品のイラスト集なんか買ってしまったわけだけどこれは、何かの「証」みたいなもので、例えば最初のコミック、「15年目」を読んで育った年代も今連載中のものをリアルタイムで読んでいる年代も、違うのはファッションと携帯の有無くらいでそれらを取り払った、核の部分ってあんまり変わらないと信じているんだ。高校時代、丁度「マリンブルーの風に抱かれて」の連載真っ只中で、よく、授業中に回し読みしたものだ(爆)。矢沢コミックの提供者はあたくしで、この他に同時巡回していたのは、「B.B.B」(ばっくれ・・・・)とか「ナチュラル」とか「ロンタイ・ベイベー」などなど嗜好の違う作品が、それぞれの提供者の手から離れて、教室のあちこちで、特に数学や生物の時間に読まれていた(爆笑)。高口作品(あすか組とかロンタイとか)は直撃世代ではないものの、あの世代の丁度末端にいる・・・・ということで、うちらの間では何気に人気があった。まだ、制服のスカートをどれだけ長く出来るか!? というのに挑戦していた最後の時代、というわけ。で、だ。今でこそ、矢沢作品にはそれら、昔の名残の改造制服モノは出てこないものの、昔は作者自身が制服改造派で頑張った口らしく(どこで仕入れてきたんだ、そんなネタ)当初の登場人物たちは、どんなにいい子ちゃんでも、結構頑張った格好をしていた。今、制服といえば、どの学校もスカートが短くて、ブレザー形式が多いけれど15〜20年前といえば、くるぶし丈のスカートは当たり前(苦笑)。ボックスプリーツの学校の子なんか、プリーツを半分くらいまで縫い付けて、プリーツスカートをタイトスカートに改造するという、手の込んだ荒業を披露する輩もいたほどだ(爆)。今の矢沢作品を見ていると、どの子もみんな可愛くてお洒落な格好をしているけれど、風刺というか、コレが現代の事情なんだな・・・・と容易に汲み取れる。矢沢大先生は、世に流出すべき影響と実情の狭間を描くのが本当に上手い。こんな格好をしている子がその辺にゴロゴロいるとは思えないけれど、いずれ、コレとよく似た格好をした子が田舎にも現れるに違いない・・・・都会では当たり前・・・・みたいな微妙な狭間だ。最近では、めっきり「りぼん」で作品を発表しなくなってしまったけれど、ま、これは「りぼん」に限って言えた話ではなく、「ジャンプ」もまた然りで、要するに「S英社」の少年・少女誌の編集部が少しずつえげつなくなってきた・・・・ってことで。残念なことだが、これも読者の需要と編集部からの供給のバランスを俯瞰視すれば仕方のないことなのかもしれない。作品や作者が流動的であるのは極々当然なことなのかもしれないが、「大家」と呼ばれし漫画家たちが、古巣に見切りをつけて、どんどん離れるあの有様は、我々に夢を与え続けてくれた人々が、奇妙なほどに人間臭く見えてしまう瞬間でもあり、移籍後、きちんとした作品を発表しているのを垣間見たりすると、驕りとかそういうのではなくて、結局、住みにくくなった川から離れる魚と一緒だった・・・・という、あんまり信じたくない「現実」がそこにあるだけ。出版界が荒波に揉まれているのは先刻承知だが、「温故知新」の「温故」の部分が欠落したばっかりに起きた結果・・・・のような気がして、気分は複雑だ。まぁ、あたくしなどにしてみれば、住み心地のいい場所で、安定した作品提供が出来るのであれば、プロとして、こんなにいいことはない♪ と反面では思っているのではあるが・・・・(苦笑)。↑平成だ・・・・平成16年なんだ(爆)そもそも、この「昔」って、いつ時代だよっ??という突っ込みはナシで( ̄∇ ̄;)実際、あたくしはその値段で買ってましたから(爆)。コミック1冊買うにも、子供たちのお小遣い事情を考えると、結構大変よね・・・・なぁんて、アサミンジャーは思いつつ、BOOK ●FFをオススメします(爆笑)♪さて・・・・。漫画の話はさておき。このイラスト集をレジに持っていくその道中で、物凄く主張の強い、熱いタイトルの新刊を発見。その名も、「二時間目 国語」。何で二時間目やねん!?「国語」だけでは確かにパンチがないけれども、「二時間目」をつけるだけで、こんなにイメージが変わるのか!?そいで、内容はっ!?と、ついつい、そのタイトルに負けて、その本を手にとってしまった(笑)。目次の羅列を見て、新刊だというのにこの懐かしさは一体何なんだ・・・・?「スーホの白い馬」 「スイミー」 「注文の多い料理店」 「ごん狐」 「こころ」「高瀬舟」 「月に吠える」 「檸檬」 「大造じいさんとガン」エトセトラエトセトラ・・・・ぜ〜んぶ、昔、教科書で見た作品ばっかり!!(「盆土産」がないのが非常に惜しい(爆))最近、教科書掲載作品については、この日記にも少しずつ書いてきて、新聞にもその傾向等が分析発表されていたので、それについては触れていきたいと思っていたけれど、この「二時間目 国語」・・・・正に他人の褌で相撲をとる著書で(爆)これほどに、大人たちの心をくすぐるものはなく、またこれほどに編纂がラクな書籍はない。少し前、「声に出して読みたい日本語」という本が空前の大ヒットになったけれど、あれを編纂した、明治大学の先生は、あれこれと試行錯誤の上、本当に音として響きのいい日本語、流れとして美しい日本語、また、文字から伝わってくる何かがある日本語を随分と研究されて、抜粋編纂にかなりの時間をおかけになり、実際、子供たちに寿限無を暗誦させたり声を出すことにどれだけの効果があるかをじっくりと現場に出て研究なさった上であの本の刊行に至った。そうしたら物凄い反響があって「パート2」、三色ボールペンを使った読み下す力を育むバージョン、等々次々と新しいものが出ては、飛ぶように売れた。また、コレに便乗するように、民話を方言のまま読み下すものや、斉藤先生の手柄を横取りするように、「懐かしい物語」系を滅多やたらにかき集めて作った本などが次々と出て、遂には書店に「国語コーナー」なる一角を作り上げるほどの新ジャンルとしてガッツリと定着してしまった。あたくしは、斉藤先生の成果はとっても認めているけれど、コレに便乗してしまったその他の朗読系書籍には見向きもしていない。が・・・・。「二時間目 国語」にだけはやられてしまった(苦笑)。巻頭は、あの大詩人・谷川俊太郎氏の「朝のリレー」であった。実は、谷川俊太郎氏の詩は、あちこちで触れる機会があり、かの大学受験でも、即興演技の下りで、谷川氏の詩を渡され、それを読んで想像されるシーンを2人で作れ・・・・という大学受験にしては異色の課題が実技試験で出されたのであった。確か・・・・題名は「瀬戸大橋に寄せる」だったかなぁ・・・・。試験でどんなことをやったかというのは刻銘に覚えているのだけど、詩の事細かな内容は本当に印象が薄くなってしまって・・・・作者先生には申し訳ないが、夕暮れ時の母と子のやりとりが目に浮かんだ・・・・以外、何も覚えていない。どんな言葉が使ってあったか、どんな表現がその時、胸を貫いたか、そういう肝心な部分が全く思い出せない。ただ、瀬戸大橋という自分の地元ではない「場所」というのを的確に表現することに頭も体も傾けすぎてしまったこと、そして、あたくしと一緒に組んだ子は、この試験で落とされてしまったこと、このことくらいしか甦ってこないのであった。コレとは逆に、「朝のリレー」は題名そのものを忘れていたのだが、その冒頭を見た瞬間に、それこそ暗誦も叶うほどに「あっっ!!!」と電光石火に思い出した。 カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウインクする この地球では いつもどこかで朝がはじまっている ぼくらは朝をリレーするのだ 経度から経度へと そうしていわば交替で地球を守る 眠る前のひととき耳をすますと どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる それはあなたの送った朝を 誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ中学1年生の国語の授業、最初にやったのは、この谷川俊太郎氏の「朝のリレー」に間違いない。メキシコやニューヨーク、ローマが大体どんなところなのか・・・・というのは発想が貧困でもそのお国柄から何となく想像がついたが、詩の冒頭、「カムチャツカ」が一体どんなところで、どうしてそこに住んでいる若者が「きりんの夢」を見ているのか、それを学ぶ行程で、そうか・・・・カムチャツカというのは寒い処できりんなどには会えない環境なんだな・・・・などということや、国語の時間なのに大きな大きな世界地図を持参でやってきた先生が、「ここがカムチャッカ半島です。」と説明してくれたそんな細かいことまで全て思い出した。国語の授業の間は、この詩の本当の意味なんてわからなかったけれども、今読んでみると、実にスケールが大きくて、雄大で、温かい詩だよなぁ・・・・なんてことを思う。それと同時に、その当時はなかなかわかろうとしても詰め込み気味になってしまっていた「勉強」の「国語」だったのが、ちゃんとひとつの文芸作品としてじわりじわりとしみこんでくる。「スイミー」の翻訳も、我々は谷川氏のもので慣れ親しんでいる。「スーホの白い馬」同様、小学2年生の時の国語の授業の様子がまるで昨日のことのように甦ってくる。この本は買わなかった。何故なら、それぞれの作品の冒頭部分を少し読んだだけで、その当時のことのほとんどが鮮明に甦り、再読する必要がなくなってしまったからだ。あたくしの成績は、主に国語で底上げされていたようなもので、国語の分野で苦手だったのは、主に「説明文」と呼ばれるものと、「読書感想文」。あとは、ほとんどオールラウンダーでこなした。特に中学までは、国語で退屈したことがなかったし、数学よりも満点がとるのが難しいといわれている国語の考査で、ほぼ満点に近い点数をたたき出したり、学年ほとんど全滅だった補助問題を一人だけ正解したり・・・・と、喰らい付き様もハンパではなかった。その代わり、一般論を求められる模擬試験などでは、あたくしの非凡さはかなりな勢いで否定され、まぁ、そうこうしているうちに、模試で点数が安定して取れない国語に足を引っ張られ、志望校を変えたくらいなんだけど( ̄∇ ̄;)高校に入ってからも、国語では絶対に退屈しなかったけれども、古文だの漢文だのが進入してきて、そもそも漢文なんて、ホントに国語かいな??と、些か疑問だったものの、考査には出るので、いやいや勉強していた(苦笑)。ただ、主に現代文や近代文学史を教えてくれていた先生が、本当に面白い人だったので、今になっても、いらんことまで、よく覚えているので始末に終えない(笑)。人間、多感な時期に刷り込まれた色んなことって、本当に良く覚えているものなんだなぁ・・・・と感心した。↑後者の記憶力はハンパではない(爆)何にせよ、昨今、国語教育が何たるかという見直しがされているけれども、要するに、大人になってからでも、少し冒頭部分に触れれば「あ♪」と物語そのものを思い出せるようなそういう教育ならば、文献が何であろうが、形式が何であろうが、あたくしは間違いはないと思っている。朗読を避けたがる学校もあるそうだけど、朗読の正しい方法を教えられる教諭に恵まれていないだけで、大人たちが勉強をしようと思えば、もっともっと国語教育は奥の深いものになると思うし、文部科学省が提示している「達成目標」みたいなものに到達しなくても、その文献に持つ思いは人それぞれなので、そういうものを引き出せたなら、それでいいじゃん♪とか、あたくしは短絡的に思ってしまう。だって、そこに「感情」が何かしら生まれたのであれば、それは立派な成果だと思うから。上手に表出させることが出来るか否かについては、個人差はあると思うけれど、国語の教育はもっと柔和で、大人たちがボーダーを引くようなそんな生易しいものではないと思うのだ。漢字を書いたり読んだり・・・・というのは決定的な暗記力と、使用能力にかかってくるが、情緒を育むといった点や、残された文献から何かを拾う・・・・という作業は、もっと柔らかいもののはずだ。長いスパンをかけて、繰り返し声に出して読んだり、目で触れるだけでも、本当は十分に「国語」の授業をまっとうできているはずなんだ。文科省は焦りすぎなのかな・・・・?国語力が乏しくなっていると言われて久しいが、昔のやり方のままでも、例えば、文献を覚えている・・・・という成果が大人になっても残り続けるから、下手に改善を見込むよりも、地道な指導の努力、要は教師の手腕にかかってきているのかもしれない。最近の調査によれば、義務教育の間で、教師が一番教えるのが難しいと思っている教科は、「国語」なんだそうだ。日本の大人たちよ・・・・こんなことでどうする!?子供たちの国語力の低下は、大人たちが真剣でない証拠。頑張るのは、大人たちなんだよ・・・・。