現在・・・・日本全国で使われている、小学3年だか4年だかの国語の教科書のほとんどに掲載されている「ごんぎつね」。新見南吉という人が書いた、有名な物語だ。いたずらばかりして、村の人々を困らせていた「ごん」だったが、兵十という若者に出会い、彼の母親が亡くなったのは自分のせいだと、償いの気持ちから、あれこれとやるのだけど、結句、兵十の手にした火縄銃で撃ち殺されてしまう。兵十も「ごん」を殺してしまってから、「ごん」の真意に気付くという、「気持ちのすれ違い」を巧妙に描いた秀逸な童話だと思う。あたくしも、やっぱり小学3〜4年の頃に、この物語とは教科書で出会っている。そして、少しばかりリサーチしてみると、この間のミュージカルで共演した高校生たちもまた、小学校の頃に国語の授業で「ごんぎつね」には触れており、とても印象深い作品として挙げているのである。そして、最近の子供たちはご多分に漏れず、およそ9割以上の国語の教科書が何らかの形で、この作品を取り上げているので、知らない子はまずいない。ということは、だ。ここ30年くらい、この作品は常に、子供の目の届くところに存在しており、小学生たちが必ずといっていいほど学校で習う作品として、長く息衝いているということになる。そんな「ごんぎつね」が、今購読している、大手地方紙にて連載を開始した。元々、作者の新見南吉は愛知県にゆかりの深い人で、それで取り上げられるようになったのかなぁ・・・・とも思ったが、つい先日、テレビの情報番組でも追っていたように、「ごんぎつね」の普及率が100%に近い状態だったので、大人たちも今一度触れてみるのも悪くないだろう・・・・という思惑もあったのかもしれない。どちらにせよ、この試みは悪くないと思う。前に、「声に出して読みたい日本語」という書籍が、大ベストセラーになったことがあったが、あの中には確か、「ごんぎつね」のくだりはなかったように思われる。しかし、あたくしは新聞の文面を見て、コレこそ「声に出して読むべき」作品かも・・・・と思った。そんなわけで、あたくしの日課のひとつに、ぷよ2が出社してから、新聞に一通り目を通し、改めて、「ごんぎつね」のみを音読する・・・・というのが加わった。音読してみると、柔らかい音が連なっているので、自分の耳にも心地いい。リズムやテンポを考えられたところに、きちんと句読点も存在するので、文脈や息継ぎのタイミングも、実に軽快に見出すことが出来るし、初見でもあんまり早口ならず、ゆっくりと読み進めていけば、すらすらと読み下せる。これが、先に記した、教科書に掲載される理由のひとつなのかもしれない。最近の小学校では、児童に音読・朗読をさせないところもあるようだが、それこそ「声に出して・・・・」がベストセラーになって以来、その考え方も根本的に見直されてきたようだ。これなら、小学生にとって難しい言葉も少ないし、何より、心理描写が繊細だ。あたくしも、20年前にタイムスリップした感じになった(笑)。実際に教科書を掲げて、この作品を朗読していた頃と変わらず、作品はここに存在する。色あせるどころか、ますます色鮮やかになって、脈々と息衝いている。凄いことだなぁと思った。・・・・なぁんて、久々に文芸ジャンルにふさわしいことなんか書いておりますが(爆)。いい物語ですよ、「ごんぎつね」。教科書に載っていたから・・・・という理由でちょっと毛嫌いしていた作品も、今思い返すと、死ぬほど音読を重ねたので、頭から離れない物語や小説、エッセイもいくつかある。小学2年の国語の教科書に載っていた「スイミー」。これはきっと、知っている人も多々いると思う。あと、狂言の「附子」(ぶす)。一休さんの水あめのくだりによく似た物語だった。そうして、教科書を通して数々の物語に出会ってきているわけだが、我々の使っていた教科書の、中学2年の国語の中に「盆土産」という物語があった。あたくしの弟も、今でも鮮明に覚えている、何か強烈な物語で、作品自体はそれほど長くないのだけどポイントポイントの描写が頭から離れない。どんな物語かというと、母親を早くになくした少年とその弟だったか妹・・・・そして父親に祖母という構成で暮らしている家族があり、父親がある日、東京に出稼ぎに行くことになるのだ。お盆休みには帰ってくると、父親からの便りにはあって、そこには、「土産に、エビフライを持って帰る。」と記してあるのだった。少年らはまだ、エビフライがどんなものか知らない。祖母も食べたことがないという。小エビの掻揚げてんぷらみたいなものを想像しながら、兄弟は父親の帰りと、父親が持ってくる「エビフライ」という謎の「お土産」に、胸を膨らませて指折り数えお盆が来るのを待ち焦がれるのである。父親が帰ってきた!!見たこともないような大きな大きなエビに、もうパン粉(衣)がついた状態で冷凍パックにしてそのお土産も父親の手から炊事をする祖母の手に渡った。「ただ油で揚げるだけでいいんだよ。」とだけ言われて、祖母も言われたとおりに、きつね色になるまでそのエビを油で揚げる。美味しそうな匂いが部屋中に充満する中、父親が帰ってきた嬉しさと、その日の夕餉への期待が高まる中少年は、出されたエビフライを、ガブリとかじりつくのである。その時の音ときたら・・・・「シャオッ!」あたくしは、国語の時間になり、このくだりにくると、もうどうしてもどうしても、「エビフライ」が食べたくなって仕方がなくなった(爆)。だって、熱々のエビフライを口に頬張って噛み切った瞬間に、「シャオッ!」ですよ!? 「シャオッ!」ここまで正確かつ的確に、エビフライを食べた時の擬音を表現できるなんて凄すぎると思った。しかも、その場にエビフライはなくて、ただ、活字になっている文字と、エビフライを食べた時の音それだけで食欲をそそるという、とんでもなく異色な作品であった。給食も終えて、午後の授業も終えて、部活も終えて、ヘトヘトになって家に帰り、たまさかその日、国語の授業があった日なんかは、サヨコにせがんで、「あぁ〜!! エビフライ食べたいっ! エビフライ〜〜!!」と叫んでいたのだった(笑)。当時、弟はまだ小学生で、この作品には出会っていない。だからあたくしがどうしてそんなにまで「エビフライ」に拘るのかわからなかったらしいのだが、彼も中学2年になり、この作品に出会うや否や、「エビフライ〜〜〜!! エビフライ〜〜〜!!」とやりだしたので、この作品の影響力たるや、日本のエビの消費量をガツリと上げてしまうくらいにものすごいものだったと言える。同級生たちに聞いたら、やっぱりあたくしと同じようなことを思っていたようで、自宅に帰ると「エビフライ〜〜〜!!」と叫んでいたようなので、「盆土産」恐るべし・・・・なのである。しかし、当の「エビフライ」を作ってくれたサヨコにはこの感覚がさっぱり理解できなかったらしく、「どうしてうちの子は、中学2年になると、とり憑かれたように『エビフライ、エビフライ』と騒ぎ出すのか・・・・?」と、しばらく、わけがわかんなかったらしい(笑)。で、この「エビフライ騒動」が兄弟揃って落ち着いた頃、教科書の記述について語り合った時に、必ず話題に上るのが、この「シャオッ!」という表現をした「盆土産」で、落ち着いて話すと、サヨコにも何となく真意が伝わったようで、その日の晩が何故かエビフライになるのであった(爆)( ̄∇ ̄;)今でも我が家では、夕飯にエビフライが出ると、「うぉ〜っ!! 昔と変わらず、シャオッていう〜〜〜!!」という奇妙な興奮が食卓を駆け巡るのである。国語の教科書ひとつでここまで盛り上がれるうちの兄弟は、かなり奇特かもしれないが、今でもこうして、音の表現(=オノマトペ)の凄絶さを実体感できるのは、ありがたいことだと思っている。昨今、教育の方向があちこち変遷しっぱなしのようだが、我々が受けた国語教育は、決して間違ったものではなかったなぁと思う。今でもこうして文章を書いていても、「シャオッ!」以上の擬音を思いつけない自分と比べ、やっぱ、教科書に載るだけあるよなぁ・・・・なんて感心してしまうのである。あれが正しい日本語かどうか、もしくは美しい日本語かどうかというのはさておき、五感に訴えることが出来る「ことば」だったんだなぁということは、今でも忘れない。↑誰かタイトル教えて〜!!大学で、文芸学科の先生の宮沢賢治研究を受講していて、「あ・・・・賢治ワールドってヤバいかも。」と思ったこともあり、以降、あんまり深入りしなかったんだけど、小学生の時は好きだった。「雨ニモマケズ」という遺作ともいえる詩は、20年経った今でも暗誦できる。タイトルを忘れてしまったこの物語は、カニの親子が主人公で、その親子の会話や幻想的な風景描写が特徴的・・・・かなり巧みな作品だったことはよく覚えている。オノマトペの謎は解けないまま今に至るわけだが・・・・っつうか、研究している人にだって、そう簡単に彼の世界観は追究しきれないものがあるので、あたくし如きがわかるわけないんだけど(笑)。教科書に影響されて、星新一のショートショートもかなりの数、読んだなぁ。教科書に載っていたのは「宇宙のあいさつ」というやつで、以後、読んだ中では「妄想銀行」という作品が結構好きだった。で、これもタイトルを忘れてしまったんだけど、ある鍵を手にした人が、それに合う鍵穴をあちこち探して回るんだけど、どうしても見つからなくて、挙句、鍵屋に頼んで、鍵穴を作ってもらい、スッキリした・・・・なんていう作品も好きだった。鍵屋に「で、その鍵と鍵穴はどうするんですか?」と問われ、「俺の旅はやっと終わった・・・・しばらくそっとしておいてくれ。」と、悦に浸るその男の気持ちが何となくわかるんだけど、そもそもが矛盾だらけだったこの物語。実生活にもこんなことがたまにあるんだよなぁ・・・・って、クスクス笑いながら読んでいた。↑いい作品は長く生き残り続けて欲しい!自分にもし子供が生まれたら、絶対に読み聞かせだけは欠かしたくない。たとえ、役者としてあたくしが機能しなくなっても、大学やその他の現場で学んだことは、全て子育てに生かせると、今でも信じている。「窓際のトットちゃん」がそうだったように、あたくしもゆくゆくは、自分の子供に上手に本が読んで上げられるようなトレーニングを、再開するべきなのかもしれないな。だから今日も声に出して読む・・・・「ごんぎつね」。