毎度どうも。
この2週間、発作らしい発作も出ず、一時は熱も37℃を切ることもあり、
何となく健康的だったアサミンジャー。
オーアエの転院に伴い、患者たちは色々な場所へと振り分けられるわけだが、
あたくしは、今通っている大病院と目の鼻の先にある小さなクリニックに通うことが決まって、
ホッと胸を撫で下ろしているところだった。
しかし、このクリニックにオーアエが現れるのは週1回。
火曜日だけ。
それ以外で何か変調が起ころうものなら、それこそ天変地異的なパニックがあたくしを襲うのだろうけれど
とりあえず、自分の主治医を信頼して、2週間というヤマをのりきる方法を
あたくしなりに考えて、生活しようと心に決めた。
本日の診察は、例の「アヤちゃんコンプレックス」に焦点が当てられた。
が、前に自分自身でこの日記にも書いたように、少しはそのことに関して
整理整頓がついていたので、その旨をオーアエに話しておく。
自分の中での自己評価と、社会からの評価にギャップがありすぎのは
明らかに家庭の中に問題があったと、オーアエは指摘した。
仰るとおり、あたくしのことをコテンパンにしたのは、何を隠そう
もう逝去して随分経つ、同居していた祖母である。
物心がつく頃から、社会的に色々と影響を受けている最中のあたくしの面倒を
ずっと見てきたのは祖母だし、その間、母親は何をしていたかというと、
共働きで、会社勤め。
弟が生まれて、落ち着いたら、すぐに会社に戻っていった。
かわいくて素直な役割は、弟が。
小憎たらしくて頑固な役割は、あたくしが。
と、このような図式が我が家にはあり、あたくしがアイデンティティを確立させた頃、
つまるところ就学してしばらく経つまで、その役割は全く変わることなく維持された。
愚図で、のろまで、お片づけも下手糞で、素直な弟に比べて常に反抗的で、
「ごめんなさい」を絶対に言わなかったあたくしに比べて、
その様子をじっくり見てきていた弟が、自然と要領が良くなり
ポイントごとに「ごめんなさい」を連発してかわいがられるという現実は
少なからずとも、第一子として生まれた宿命だとも思っていた。
そんな中、就学してしばらくは、授業中に挙手することすら苦手だったくらいに
主張に薄いあたくしだったのだが、
小学1年の時の担任の先生が、あたくしの得意分野を鋭く見抜いてくれたのをきっかけに
あたくしは、自分の得意分野が「国語」だということに気付く。
そういえば、本を読んだりするのは大好きだし、物語とか童話を書くのも大好きだし、
朗読だって、他の子に比べればスラスラと読めた。
そうか・・・・あたくしは「国語」が得意なのか。
初めて社会的に認められた瞬間だった。
それまでは、幼稚園の先生にいじめられていたのもあったし、
運動とか走るのとかも苦手で、お片づけも下手で・・・・。
だから、家の中でも外でもさして評価は変わらなかったので
なるべく目立たない位置を維持するのに必死だったので、
自分が社会的にきちんとした評価を受けたことに、物凄く感激したのだった。
以来。家の中で、愚図で何もできないあたくしだったが、
学校での勉強とかは、最低限頑張るようにした結果、「優等生」というありがた迷惑なレールに
乗るハメになってしまった( ̄∇ ̄;)
あたくしを貶めていたはずの祖母は、あたくしが小学4年の秋に脳腫瘍が原因で倒れた。
父親は当時、岐阜市内で喫茶店を経営していたし、
母親もすぐには会社を辞められない。
そんな状況下、母親の負担を少しでも軽くするために、
朝は父親が出かける頃にはきちんと起きて、自分たちで朝食の支度をし、
お洗濯もして、それを干して、学校から帰ってきたらそれを取り込み、
入院している祖母のところに届けるものは、きちんと区分けして、あたくしが届けていた。
食事の後片付けもちゃんとやったし、掃除も苦手だったけどそれなりにやった。
母親が会社を辞めるまでは、一所懸命働いた。
この時ばかりは、弟もあたくしの言う事を良く聞いた。
朝も母親が不在のことが多かったので、弟の忘れ物がないかをチェックするのは
あたくしの役割だったし、施錠するのもあたくしの役割だった。
そういう生活が、3〜4ヶ月は続いたと思う。
今まで、ずっと祖母に掛かりっきりだったことを反省していた。
だから、苦手なお掃除やお片付けなんかも頑張ったのだ。
母が仕事を辞めて、祖母も自宅で療養することになった時、
あたくしはそれまでの緊張が全て解けたように、また家の事は何もしなくなっていた。
母は言った。
「何にもできへんクセに・・・・とは言えんしな。」
「やらないかん時が来たら、やるってことが証明されたでな・・・・。」
ほとんどお手伝いらしいことをやらなかったあたくしを、母は許してくれた。
それまで、10歳にしては苛酷すぎるくらいのことを難なくやってのけたのだから、
母もそれを認めずにはいられなかったのだと思う。
家の中でのあたくしのプライオリティが少しだけ改善された時であった。
・・・・遅すぎるくらいだったけれど。
それまでは、学校の成績や活動で何とか認められるのがやっとで、それでも我が家の中では
「本当にこの子は、外面だけはえぇんやで・・・・」
などと、誉め言葉の続きで必ずこういう言葉が付録としてついてきた。
あたくしもあたくしで、この頃にはもう自分の位置付けやアイデンティティも
ハッキリしていたので、負けじと
「うちの中ではいい子で、外で悪いのよりはマシや!!」
と、ハッキリ主張できるようにはなっていたけど(苦笑)。
母親も、個人面談の時に、
あたくしにしろ弟にしろ、学校では然程手のかからない子として分類されていたので、
1〜5分ほどで、面談が終わってしまうことに気を良くしていた。
優越感とかいうヤツ(笑)。
よその子は、30分経っても出てこないのに、自分の番になると先生はニッコリ笑って
「特に問題ありませんよ♪」
と言うものだから、不安になりつつも一方では嬉しかったらしい。
謙遜して、家の中では手伝いを一切しないような子なんですよ、などと言いつけても
それ以上に、学校では頑張りを効かせていたものだから、あたくしは
こういう面談に関しては、特に先生の言うことに関して不安を抱えなかった。
「死人に口なし」ではないが、あたくしの人格形成時の全てに関わった祖母に
恨み言を言っても始まらない。
今は、幸せで家族にも大事にされている。
祖母が亡くなった時、あたくしは誰よりも激しく泣き続けた。
多分、それが「美しいこと」とわかっていたからだろう。
思惑通り、あたくしの暗い表情や、泣き腫らした顔は、周囲の同情をかった。
祖母への「復讐」は、これで完結したのだ。
そんなことを話している間中、オーアエときたら、自分のカルテを取り寄せて、
勝手に自分の処方箋を書いていた( ̄∇ ̄;)
「最近、頭痛が酷くてさぁ・・・・あ、話はちゃんと聞いてるから大丈夫だよ。」
「もう、信じられない。こんな横着な医者(-。-) ぼそっ」
「仕方ないじゃない。私だって、頭が痛くて大変なんだよ。」
「そうよね・・・・こういうわけのわかんない患者が沢山いるんだもんね。
頭痛も頻発するわよね・・・・。」
「急がなきゃ・・・・コレ早く薬局に回さないと。」
「( ̄∇ ̄;)」
「(看護婦さんに)お〜い、ちょっとコレ、頼むわ。」
「あ〜ぁ。ホントにちゃんと話、聞いてたのかね・・・・?」
「心配するな。ちゃんと聞いてた。」
看護婦さんに処方箋を託したところで、オーアエは自分のカルテを
パタンと閉じた。
カルテの表紙には、名前、生年月日、その他のことが記載されている。
見〜ちゃった♪
「苦節、2年・・・・遂に判明して、あたしゃ嬉しいよ♪」
「な、何だよ。」
「先生、思ったより老けて見えるよ(笑)
いかんよ、それは。心労が祟ってるんだよ(爆)」
「大きなお世話だ!」
「大体さぁ、患者の前で自分のカルテ開いて、
処方箋書くかなぁ・・・・? 無防備すぎるわよ。」
「キミには敵わんな( ̄∇ ̄;)」
そうだよ、先生。
あたくしのことを甘く見てもらっては困るのだ( ̄^ ̄)
全盛期に比べれば、視力もいくらか低下したが、自分が必要だと感じた情報に関しては
とてつもない威力を発揮して、その情報をゲットすべく、いつだって目を光らせているのだ。
で、12月生まれのO型。あたくしの頭の中では、ホントは計算が超苦手なクセして、
暗算でもって、その数字がはじき出される。
含み笑いが止まらない(爆笑)。
自己評価と社会的評価のギャップを埋めるために、自分探しみたいなことをやるのはいいことだ
と、オーアエは言った。
「やってるよ。」とあたくしは答えた。
目的はオーアエの言うようなことではないのだけど、
自己分析をすることで、何となくスッキリするから、なるべく自分と向き合うようにしている。
ここにこうして書く日記のネタにそれを使ったりもする。
今度来るとき、中学時代や高校時代の写真を持ってきてみろ、とオーアエに唆された。
当時のあたくしが、美醜のどちらに区分されるか、第三者の彼が公正な判断を下してやる
というのが目的らしい(笑)。
あたくしは咄嗟に思った。
・・・・この医者に、公正さなどあるものか(-。-) ぼそっ・・・・と(爆笑)。