ACIM自習とACIM勉強会 - 2018年01月07日(日) ACIM勉強会に参加しました。 今回は勉強会の内容とは別として、自分では大したことではないと思っている自分のしてる行動というものに気づきました。 前回の日記にも書きましたけど、宿題「人間関係の中で自分が恐れが出てくる状況を見る」というものをしてる期間に、わたしは自分から出てきたその恐れを一覧にしました。 自分としては、それらのたくさんの恐れをそれぞれではなくて全体を眺めたらどんな印象がするのかな?と思って、ざっと見てみたかったから一覧にしました。 見たいんです。全体ではどのように動いていて、細かな部分ではどう動いてるのか、というようなお互いの関わりみたいなものが。 だから別に労力ではなくわたしはこういうことをやるんだよなーということに気づきました。(よくやります) 一覧を作るまでしない、という周りの反応を見て逆に、あ、そうなの?と思うのですよね。自分にとっては自然なことなので。 勉強会での話の中で「こういう恐れを自分が持っている、ということを誰かに知られること」を恐れることもある、ということを聞いて、ああそういうところわかるなあと思ったのですけど、その言葉を聞いてむしろわたしは、、、と気づいたことがありました。 知られたくないというより、むしろわたしは「こんなことを伝えたところで相手にとってはつまらないだろう」と思ってることに気づきました。 今回のことで言えば、わたしがまとめた恐れ一覧を見られたところで怖くはありません。 別におもしろさはないだろうから見せる感じがないというだけで。 ここでの「おもしろいこと」って、ワイドショー的な意味合いなんですよね。つまりは「周りはそういうものを求めている」「そういうネタの手持ちはないからおもしろくはない」と思っているんだよな、わたしは。 (ワイドショー的案件を自分に求めていないのに、そういう自己を否定してるというわけのわからなさ) なので、そっか、「つまらないこと」としてるのか、と気づいたのでした。 よく考えてみればわたしも本を読んで、わたしはどうかな、ここは著者と少し違うかな、ここはとてもわかるな、と自分自身を見ていくことをよくするのですよね。そういうことを自分がよくしているのにもかかわらず、「つまらないこと」としていることに気づいたのでした。 「おもしろい」っていろんな種類がありますよねえ。。。いまさらですけど。 気づいていなかったので、「そういうのを書いて本にして出すといい」と言われて、「え!」と思ったのでした。 自分が欲しかったから作っておいて「つまらないもの」って妙な話で・・・。 わたしは自分の欲するものの価値を、ほんとうにほんとうに低いものにしていたんだなということに気づくのです。 つまりは自分自身に対してもそういう価値観で見ていたということを気づくのです。 だから、自分がこれまで好きになったものに対しても随分失礼だったよなこれは、と思っているところ。 これもある種の「特別な関係性」なのかも? こうして勉強会みたいな形で共に学べるということ自体、とてもありがたいです。 気づけるから。 「こういう生活をしている人は、自分とは違う」と自分がこれまで無意識に設定してたことに気づいたりとか、わたしの両親はもう他界してますけど、他の方たちの親御さんとのやり取りを伺って、自分と親とのやり取りで好きだった事柄について今のわたしとして改めて見てみたら、以前とはまた別の視点が加わって深みを増したその「好き」を感じられたりとか。 今回の勉強会だと、こういったシェアがありました。 当時は良かれと思って親はそれを行って、でも子供としてそれを受けた自分としてはそうではなかった、という事柄があって、それについて親を責めたり糾弾したりせず普段の何気ない会話でそれを伝えられた、相手にも自分にも罪悪感を感じることなくそれができた、そういうシェアがありました。 わたしはそれを聞いて、自分の母とのやり取りを思い出しました。 わたしが母にされて嫌だったことを伝え、それを聞いた母は無邪気にけらけらーと笑う、というやり取り。 この、けらけらと笑う母がわたしはとても好きでした。 子供みたいな表情で「ほんとうだ!」って楽しそうに笑うのを見て、わたしも自分が単に漫才のツッコミ役をしてるみたいな感じで伝えられてて、それってとても楽しいやり取りの記憶なのですけど。 ごめんねとかそういうのもなしで、単に発見の驚きと笑いがあるみたいなそういうやり取りを、罪悪感がどうのだの恐れがどうのだの執着がどうのだの、こうしていろいろ学んできた今改めてそれを思い出すと、なかなかパワフルなものだったなあってことを感じざるを得ないのです。 そういうきっかけをいただけています。 そして今年はまたそういった参加するグループがひとつ増えます・・・すげえ。 ...
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