日記×エッセイ...みち

 

 

ドメイン・フォーカシングのクラス受講しはじめました - 2018年01月13日(土)

ドメイン・フォーカシングってどんなのか、みたいな内容は特に書いてないので、それを期待して開いたならご期待に沿えてません。よろしくです。



昨晩、ドメイン・フォーカシングのクラスに参加しました。フォーカシングを本格的に学ぶというのはわたしは今回が初めてです。
わたしはフォーカシングのテクニック自体を習いたいという感じではないので、ちゃんと学んでみたかったけどこれまで足を踏み出すことはありませんでした。

わたしって、「何を学べるか」ではなく、「この人から学びたいかどうか」でもなく、「学びたい人かどうか」というのを重視するようで、思い返すとわたしの人生そればかりです。しかもいつも自分ひとりではその人を見つけられません(笑) 誰かから紹介されてそれから調べる、みたいな感じ。(人に限らず動画や本などでもそうですけどもー) 「おもしろいものをどうやって見つけるの?」と聞かれることがよくありますが、わたし自身は見つけられないという・・・(笑) 人を見つけてると言えるかもしれないけど、、、うーん。自分からアクセスするぜ!って感じもないしな・・・(アクセスしてもらえるって感じ)。

自分がどういう人に学びたいと感じるのかというのは、今のところ基準もよくわかりません。その人からは一般的に感じることが多い何かを感じない(感じにくい)というのはわかるのですけど、その「何か」がわからないです。
もしかするとわたしは、その「何か」を持たないというのを学びたいのかもしれないなあ。


昨晩のクラスは、わたしのなかで消化をまだしていない、それどころか食べ終えたのに焼きたてのおいしい匂いは台所でまだしている、そういう感じに似ています。

クラスが始まる前、とても楽しみでした。いただいた資料もおもしろいし(理解はできていないけどおもしろいことはわかるという、ACIMでも感じたことのある類)、すっごくわくわくしていたんですけど。

クラスを受けてみたら、そのわくわくした感じがガラッと変わりました。
楽しみではあるのだけど、始める前に感じていたものよりももっと穏やかで落ち着いていて、まったく想定していなかったもの。これまで感じたことのある「わたしはずっとこれが知りたかったんだ!」という感覚もありません。もっとずっと、とても穏やかなものです。

半年間続くクラスの第1回目。
わたしがハッとしたのは、これまで自分が使っていた「繋がっている」「ひとつ」という言葉の意味合いに、クラスの流れの中で気づいたときです。
わたしはこれまで「別々のものが繋がっていることをひとつという」と思っていたな、と気づきます。ひとつのものを「この部分は」って分けられると思ってたし、そう思っているから出てくる言葉も使ってたなと気づきます。

例えばパソコンのモニターに埃がついている、と。(今まさにそれが目にとまったので例に使います)
それって「パソコンに埃がついてる」と言っても大体同じ感じで伝わりますよね。あまり区別なく言ったりもします。あ、パソコン汚れちゃったーみたいな。だけど、そういった感覚で人に関しては見ていなかったことに気づきました。(伝わりますか?)

書いてみてからもうひとつ気づきましたけど、分けて考えるというのと同時にぜーんぶ一緒!みたいに扱うこともありますね。
例えば何かをして怪我をして、そうしたら罪悪感(わたし全部が悪い)みたいな。
ひとつ、といってもそういう意味とは異なります。罪悪がない状態で区別がないって感じかな。
パソコンに埃がついていたところで、このパソコンのモニターめ!とはならない。そんな感じかなあ。(そうか?)


夜10時から始まったのですけど、なので終わりが0時を過ぎてすごく眠くなりました。
「いつも夜11時くらいに寝てるから眠いよね」と昨日は思ったのですけど、よく考えたら夜勤で眠らないで朝ということもよくあります。だから機能的に起きていられないことはない。だから、「いつもの寝る時間を過ぎたから」とかそういうことではないんだろうなと思いました。

すごく眠くなってすごくよく眠れるということ。それもわたしは久々だってことにも気づきました。

そうか、久々なのか。。。

睡眠欲はわたしにとって大きいし、普段も睡眠のために時間をとろうとしているので自分で書いてて驚きますが、目覚めの時の体の感覚が異なっていて「久々だ」と感じました。


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