日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年09月01日(金)

鍼灸にっき。

自分のからだを触った感覚がふわふわになってきて、それに伴うように「あれー?わたしの日常の表現もいつもと違うぞ?」と自分が自然にした行動やら反応やら使う言葉やらを見たときに思ったりしていたのですが。
(意図してやってないから、自分の言動に自分で見て驚く)

今日は戻りました(笑)
秋になってきて涼しかったからかな? 体の冷えを感じてきたぞ、からだのふわふわさが今日は少ないぞ、おなかが壊れたぞ、と思ってたら、表情の出て来方や話す言葉などなどが、数か月前のわたしになっていました。
からだの感覚の変化に伴う、このマインドの違いはどこの違いなのかしら?

しかしまあ、戻ると懐かしいですね!と思うくらいの感じがしました。少しふわふわの体に慣れてきてるのかもしれません。
あーそうそう!これこれ!こういう感じだった!みたいな感覚になりました。
(ある意味「これがわたしのからだ」という固定したもの、変わらないもの、みたいな感覚を現在のわたしは失っているかもしれません)

そんなわけで、からだとマインド、感情はつながってるよというのが自分の体感からよーくわかります。

なのですが、最近のふわふわのからだの対応マインドがわたしはすっかりお気に入りになってしまったので、またそちらに向かっていきたいと思います。

行きつ戻りつ〜




ACIM勉強会の宿題をしています。
今回の宿題は「わるいこになろう!」。

超!楽です。
いい子ってしんどいわーと思いました。宿題の締め切りになってもそのまま続行しようかなーというくらいに楽です。
わるいこ、超楽だー。罪悪感持たないから超!楽。
自由で、ゆとりがあって、今に生きてるって感じがするのでした。

しかも興味深いのは、わるいこの定義がおかしいところ。
例えば、散らかしたままでいることがいいこ、いらない物をどんどん捨てるのはわるいこ、みたいな定義が自分の中にあることに気づいたりして。。。
(今いらない、もういらないからって捨てると、物を大事にしていないと嫌がられたりしていたなあと思いだしたりして)

人っておもしろいもんです。

一般的・社会的な「わるいこ」と自分の中で持ってる「わるいこ」が一致しないものも一致するものもあるのですけど、一致しないものはそのズレに興味をひかれたし、一致するものは、そのゲームのルールで遊ぶのか、それとも別のゲームをするのか選べるなあと思ったりしました。ゲームによってはわるいこにならない。
サッカーはサッカーの遊び方があるし、バスケにはバスケのルールがあるし、というそれだけのことだなあ、他のゲームに干渉せずとも、他のゲームを否定せずとも(否定されることを選ばなくても)自分のしたいゲームはできるよなあと思いました。

あとは罪悪感のパターンにも気づいたりもしました。
多く使っていると気づいたものとしては、例えば「将来のため」として考えられないような、単に「今のわたしがしたいことをする」ということに対してわたしは罪悪感を持ちがちだなーとか。
今のわたし(のエゴさん)がそれにつながる未来の明るさを考えられないと、「そんな未来はない」としてしまうのだよね。傲慢な自信家ですね。

ちなみに「エゴさんがつながる未来の明るさを考えられないというだけ」と言い捨てる感じになると、それは少しわたしの感覚とは異なる感じです。
考えられないけどそれって本当かな?とか、エゴさんのことをわたしはそうなのかなと思ってるのだけどそれって本当かな?とか、どちらにせよそうやって自分で確かめていく感じが欲しいって感じです。

わたしのエゴさんは、「散財だ」「それをしたら“将来のためにならない”“将来困ることになる”“将来の役には立たない”」とささやいてくるのがわかったので、自分が望んでいるものを指針にちゃんと整理をして、今のわたしがしたいことをしていきたいと思うのであります。


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