日記×エッセイ...みち

 

 

ACIM Lesson134 「赦しをありのままに知覚することができますように」 - 2017年05月22日(月)

今日はとても好きなワークです。そしておもしろかったです。

「赦す」ということがどういうことかということを説明されています。

「憤りを感じるのは当然なことに対して、不公平な犠牲を負わせること」
「正当化できない不相応な贈り物」
「真実を完全に否定したこと」

赦すというのはそういうことではないよ、ということが説明されています。
それらの導入の文章から、もうわたしはウキウキしてきます。


「錯覚ではなくて、真実を赦さなければならないと信じている」
「罪を本当だと思っているから、赦しをごまかしだと見ている」

そうだよなあ、って思います。

「罪が実在しないということが、赦すことを自然で健全なものとする」

ほんとにそう!
本当に、自然。

「許してください」「許してあげよう」そういうやりとりではなくて。
「私は罪と思っているんです」「罪じゃないですな」みたいなやりとり。

前者だと、やっぱり罪をやり取りしてるんだよなあ。
後者だと、罪の存在がなくなっちゃうから、罪でのやり取りではないんだよなあ。
そしてこのふたつから感じられる感覚も、それぞれからまったく違った感じを得られます。

どちらの感覚が好きかといったら、後者のほう。軽やかで、赦される側でも赦す側でも、すんごく楽ちんな感じがあります。ずっと持っていなくていいし、偉そうにならなくていいし、卑屈にならなくていいし。普通の、体に力みのない、自然の自分でいられる。

今日のワークは、次のようにお願いすること。
「赦しをありのままに知覚させてください」ってお願いすること。

今日は日中なぜかイライラしてきて、この人の発言や行動でわたしはイライラしているな、ということはわかるのだけど、なんでそれで自分がイライラしているのかがわたしにはわかりませんでした。
だから、「わたしはなんでイライラしてるんだろう?」って思っていました。

今日のワークもカードにして、ポケットに入れてたし覚えていたので、
「赦しをありのままに知覚させてください」
と繰り返しました。

そうしたら、あ!と思うことがあって。

最近わたしは、「わたしには、物事や自分の体だったりをコントロールしようとするところがあるなあ」と思っていました。
コントロールできる、というといい意味でも使いますけど、わたしが嫌だなあと思っていたのは流れに沿うのではないコントロールで、例えば自分の体だったら体の傾向を踏まえないで一方的に従わせる、思い通りにする、みたいな、そういうことをするなあ、それもうやりたくないなあ、そう思っていたところでした。

今日の日中のイライラは、わたしのその「コントロールしたがりの部分」が刺激されたのだなと気づきました。
自分がコントロールしたいのに「他人にコントロールされた!」と受け取ってイライラしていたようでした。

意識できる部分では、「わたし、もういろいろコントロールしたくないなあ」と最近しばらく思っていたので、今日、「他者にコントロールされた!(怒)」と反応してる自分を認識できた時、とてもおもしろくなっちゃいました。

えー、これ、コントロールしない練習ができるじゃんねえ!

そう思っておもしろくなっちゃいました。

そうしたら、イライラする(=相手に罪があると思いたくなる)ことが終わってしまいました。

これが今日のわたしの、赦しの知覚です。
赦しのありのまま。
単に、「コントロールしようとした」それだけだったね、という。そこに罪はなかったなあ、という。

対象が同じでも、それを罪にすることもできるし、練習相手にすることもできる、じゃあどちらで扱うのかという、本当にそれだけなんだなあ、みたいな。
そういうことを思った本日でした。


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