つらつら - 2017年04月28日(金) 自分がこっちに行きたい、というのは明らかにわかってるのだけど、ずうっとその方向を向いていることができない、そちらを向いて受け取るということがなかなかできないなあと自覚中。 ループになっていて、「自分がコントロールしたいというのが外せない」「その割に自分でコントロールしたことが上手くいった感はない」というのをぐるぐるしてるなーと思ったり。 で、これどうすればいいっすかねー、と尋ねたら思い出しました。 あ、そうそう。 「自分で何かをしよう」としてこれまでは煮詰まるだけだったけど、一見逆だけど「自分が相手から受け取ってみよう」としてみたら、それで結果的に自分は何かを自然に相手にしてあげられてたりすることあるじゃん? 最近それを感じられることあるじゃん? と思いました。 これをしたい!という時はもうまっしぐらにそこに行くけど、これをするために具体的に何をする?というのがわたしには難しい。 自分にとっての理想、目的ははっきりしてるんだけどねえ・・・。 具体的にどうするかっていうのをこれまで自分で考えようとしてたけど(そして基本的にわたしの興味がそこにないので、案の定何もいい案がでない)、それならここをみんな任せたらいいんじゃね?みたいな考えがちらほら出てきました。 外注外注!せいれいさんに外注ですよ。(正確に言えば「外」注ではないかもしれませんが) そうしてたら、自分で考える、ということの、わたしにとっての変な価値の高さに気づきました。 あー。 なんかこれ、自我が、ひらめきとかさ、そういうお風呂に入ってたら降りてくる的なものを、自分の手柄にしたっぽい。 そういうふうに執着するのか。 あることに関して、久々に恐れが来ました。 それは、すんごくなじみがある恐れで。 今は体調がだいぶ回復してるので、恐れた時に相手の言動のせいにするというよりは、よし!これを見るぜ、ということが、それが起きたリアルタイム時にしやすいです。 体調がよくなかった時期も見ようとはしてたけど、リアルタイムではできなかったというか、体の感覚は味わわないようにして見ようとしていたなあということが、今振り返るとわかります。 (その時は、自分はできてると思ってやってます。「できてるつもり」とも思っていない。) これの何が怖いんだ?と、その恐れの体感、ひやーっとした体感を感じながらその質問をしてみました。 一緒にその恐れと、同じ時間を過ごしてみます。 わたしに恐れが出たのは、 「先に忠告をした。自分はこの先それに関して何かが起きても参加をしない。」 というような意味合いの言葉を聞いた時でした。 なんてことない内容です。わたし個人に向けて言われたわけでもありませんが、それに対して恐れが出ました。 それの何に恐れたかというと、「他の意見は人でなし」みたいに聞こえた言葉の響きに対してでした。 その人は正しいことを言っているのだけど、そうしない人の人格を否定するような言い方をしていて、それに対してわたしは恐れたようでした。 自覚なく、警告することに人の恐れを使う、その感じに対してわたしは恐れました。 (たぶん、自覚がある人に対してはこの恐れは出ません。反発はしそうですが。) ちなみに、その警告はその後に別の人を通して言葉にされたのですが、すんなりと「こうしましょう」とだけ翻訳されました。 そこから受ける印象の差にわたしは笑いたくなってしまいました。 そこには恐れがありません。 で。 改めて考えてみるとそれの何が怖いのかわからなくて、しばらくわたしはなんだろう?なんだろう?とやっていたのですが、どうやら、人格を否定されることに恐れたみたいだ、ということが段々わかってきました。 人格。 エゴが攻撃されたと受け取ってしまいやすい状況になってたってことかな。 にゃるほど。 ACIM的に言うなら、「わたしが攻撃されることはあり得ること、ということを信じていた」ってことですね。 ちなみに、今日のLessonは110でした。 I am as God created me. His Son can suffer nothing. And I am His Son. これに気づいてたらどうなるか、観察します。 小沢健二のライナーノーツ(Love music)の録画を見返しました。 小沢健二について話している方々やそのVTRを受けて話す小沢健二の言葉、それから表情を見落としたくなくて、何かをしながら見るということができないことが1回見てわかったので2回目なかなか見られませんでした。 聞き手に恵まれている、って小沢さんが言ってたのがよく理解できた感じ。VTRで話している方々がまず素晴らしい。すごく当たり前のようにさらりと話してる、そういう、内容というより「そもそもこう思ってるからその言葉が出る」みたいな感じにわたしはとても栄養をもらいます。 2回目見て書き留めたのは、 ・別のものを共有するための代償 ・「しばし別れる」という歌詞からの死生観 ・(上手いとか下手とかわからなくて、という言葉から続く)歌うことの目的 ・マイク → とらえるもの 岡崎さんのことを話すときの言葉の選び方の繊細さとか、「さよならなんて云えないよ」「ある光」についてのこと、、、すべてにわたしが反応するのを感じます。 歌うことの目的については、わたしが今考えていることととても重なるのもあって、わたしの内側から動かされます。 1回目に番組を見た時はぼろぼろ泣いて、2回目見た今日は泣かなかったけど、こうして思い返しながら書いていると、じんわりじんわり、わたしの心にどんどん響くのがわかります。 ...
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