日記×エッセイ...みち

 

 

昨日の続き。 - 2017年04月23日(日)

昨日のクラス参加の影響は、今もまだ消化中ですがだいぶ進みました。
ずうっと謎だったことがわかった、ずうっと欠けてたピースがはまった、そんな感じがします。

たとえ、
心が優しくても、
知識を得ても、
経験があっても、
愛することから逃げていたり、愛することを馬鹿にしていたり蔑んでいたり、それでは何も意味がないと思いました。
いいえ、意味がないとかではなくて、それはもはや「私」ではない、と思いました。

わたしは知識を得て、それを経験で確かめるというやり方をします。
でもそれだけではダメだったんだなと。
そのやり方を特に今はやめる気はないけれど、これまでは忘れていたこと(愛するということ、自らそれを求める能動的な)を含めた状態でそれをしようって思います。
そういったことを、ACIMで知識を得て、経験することでわかりました。
すごいわ。寄り添うってすごいわ。ACIMに寄り添われている。

わたしは、フィジカル的な愛と「私」からの愛とが混ざり、フィジカル的な愛からの痛みを「私」からの愛の痛みのように思い、そうしてわたしは愛することをやめました。
やめてはいないか。でも、とてもとてもそれらを薄めました。

ある時にわたしは、「(愛することで)こうはなりたくない」「(愛されることで)面倒になりたくない」と思いました。
それは気づいていました。

で、今回、「愛することをなくして、つまりは本来の自己から外れていたこと」に気づいてから改めて「こうはなりたくない」「面倒になりたくない」それらの思ったことをみてみると、、、
ずうっと愛を忌避してきたわたしにとっては、たとえ間違った方向に行ったとしても、尊敬をもってそれらを見ることができると感じました。
なぜなら避けていたわたしにとって、そこは行くことすらできない場所だったからです。
間違えたいわけじゃないですけど、忌避感がなくなったって感じです。

興味がない。
それはこういう風に気づきがあっても変わらないのだけど、興味がないからといってそれを蔑む、分離する、そういうのはまた別のことだよね、と思いました。
逆のことも起こってたことも理解しました。放っておいてくれていいのに、なんで人のことにまで口出しするのかな?と過去に思うことがありましたが、それはその人にとってわたしの生き方は興味が出るものではなかったから、なのかなって思いました。
自分の見たいものを見たい。人にも自分の見たいものを見てほしい。自分の見たいものを見せてほしい。同じものに興味をもって共有したい。
そうだよなあ、と。
強要してはいけないとか、個人的なことだとか、そういったいろいろな考え・ルールみたいなものを考えるのだけど(全体が流れることを優先する思考回路なので)、それと同時に「そうだよなあ」って部分も持っていたいなと思いました。

愛は、得るもの、奪うもの、与えられたら相手は失うもの、与えたら自分からなくなるもの、自然にいつかはなくなるもの、、、
そう思っていたなあって、超自覚しました。
そうね、フィジカルなことのお話ね。

表現していること、表出していることだけを直そう、ただそうとしても、まあ直らないしすぐ戻るし、わたしのように本人に興味がなかったりします。
でも、その根本になるものを見ることができた、その時には、本当に話は別になるということもわかりました。

人に指摘されては、これを見ることはできない。
自分の言葉を聞けて(聞けるようにサポートしてもらって)、そうしてそれを自分で見つけるから、見ることができるんだなあ、、、と自分の経験を反芻しながらしみじみと消化中。

おもしろいのはですね、反応する体の部分ってのはちゃんと第2チャクラでねえ。お腹が張って仕方がない本日です(笑)
愛、関わり、関係性。
納得と共に感覚しています。


昨日、東京までの道中で読もうとkindleにDLしてた本がありました。それは「7人のシェイクスピア」というマンガでした。
超おもしろくて、これまでシェイクスピアを読んだことがなかった(愛とかだからね)のですが、言葉の美しさと心の機微の繊細さの言語化にメロっと来ました。
物語(ロミジュリとか)への興味はやっぱりないのだけど、ソネット集読んでみたい!とマンガを読んだことから思ったんですね。
で、その流れでこの感じなので、・・・予告?というか、同じテーマがいっぺんに来るね?って感覚です。
お見逃しなく!ってことか?
(kindleのおすすめに現れたときは、ACIMだからシェイクスピアなのかなー程度に受け取っていましたよっと)
相変わらず意味づけが好きなわたくしです。

ソネット集は今日買ってきまーす。


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL