ACIM Lesson72 「不満を抱くことは、神の救いの計画に対する攻撃です」 - 2017年03月21日(火) 2日前の日記で、「モクモクを取るのを手伝ってくださいね」とお願いしてましたけど、そのモクモクを取ってもらえました。 今朝、起きて真っ先に思ったのは、「あー、わたしのやってること、お母さんもやってた!」ということでした。 別にそれについて考えてたというわけでもなく、ぽん!と記憶が出てきました。 最近鍼灸に通っていることから、自分でもお灸やりたーいと思い、火を使わないで貼るだけという簡単なお灸をドラッグストアで買いました。 で、せんねん灸のサイトでツボブックをふむふむと眺め、昨日とおとといとは体に触ってみて、その日に痛みを感じるツボ部分に、例えば腰やみぞおち、背中あたりのいくつかのツボにそれぞれ貼りました。 超気持ちいいー・・・と満喫。痛いところが温かいのは最高です。あー、温かさにならその場所に意識が向けられるー、と温かさを感じていました。 母もやってたわたしのやってること、というのは先日書いた上司の夢の話です。 聞いてくれるのになんか正直に言えない。言ったとしても伝わる気がしない、というもの。 今朝、ぱっと思い出したのは、小学1年の頃のわたしが書道を習いたい!と望んで、それを母に却下されたことでした。 書道じゃなくてそろばんにしたら?みたいなことを言われて、そろばんはわたしは興味を惹かれなかったので嫌ですと答え、でも、だからといって書道がOKされたかというとそうでもなかった。 結局はわたしの望みはかなって書道を習えるんですけど、お金は叔母が払うみたいな形になってたりして、子供の頃のわたしは、あれ?変なことになってる?と思いました。 (今、こうして書いてみると、別に望みがかなう形はその形でもいいんじゃない?とも思いますが、一方でやっぱり気になってもいます) 大人になってから、あの時なんで習うのダメって言ったの?と母に聞いたことがありますが、まだわたしの年齢では必要ないと思ったから、という答えだったかな。 でも、代わりにそろばんは勧めるわけで・・・「ええと?」とどこか納得しなかったのを覚えています。 で。 その感じが上司の夢とつながるのです。 わたしは母が好きだし、とても物事を言いやすい相手でした。 それなのに、伝わる気がしない。正直に言っても伝わらない、というか、「やりたい」ってだけでは伝わらないんだ、みたいな。 やりたいことをやるためにプレゼンして相手に伝わるように伝えて、みたいなことを今のわたしはふわっと思いますが、そういうことじゃない。これね。 重要部分は 「理由がないとやりたいことはしてはいけない、わたしは理由がないとやりたいことはできない」 そういう設定をしてた、ということ。 そして一緒に思い出したのが、母が自分自身のことについて言っていたことです。 これは母がおばあさんになっても言ってたのですが、小さい頃に自分の家のお店の手伝いをしていたと。重いお米を担いで仕事をしていたと。でも母のお姉さんは要領がよくて手伝わなくて自分の好きなことをしていて、親(わたしの祖父母)も姉に対して手伝わせようとしなくて、自分ばっかりが、みたいな内容でした。 いつだったかの日記にも書いたことありますね、これね。 あ!と思ったのが。 母も、自分のやりたいことができなかった、できないって思ってたんだなあということ。 これを追っていくと長くなりそうなので少しで止めておきますが、母の生前、介護が必要になった母にわたしは楽しく時間を過ごしてもらいたくて、やりたいこと、好きなことを聞いたことが何度かあったんですけど、のれんに腕押しみたいな感触で、「別にない」という感じで。 そこで感じた違和感とか。 思い出すわけでした。 なんでわたしが違和感を感じたのか、とか。 やりたいことが出てこなくなったのか、 それとも元々やりたいことがあったわけではなかったのか、 それとも体を使ってやることが母のやりたいことだったのか、、、 などなど、いろいろ推測はしようと思えばできるわけだけど、それらのどれであっても「別にない」ということに対して違和感はあるんだなあって振り返ります。 救いとはなんですかね。 今日のワークは、そうして神に尋ねることですけど。 救いとはなんですか? What is salvation, Father? そう思ってから、今日のワーク部分の文章を読むと、体の奥、深い部分、みたいなところで、言葉にならない何かが、本当に少しだけ反応するのが感じられます。 今朝、朝一でこのワーク(長めの実践時間のほうのワーク)をしたときは、とても気分がよかった。 開かれた感じがして、わたしが10年以上前から思ってきた質問がこれだ、「救いとは何?」と「神さま」に聞くことだ、ということが今朝わかって、、、やっとわかった、みたいな感覚になったのでした。 わかったのは答えというよりも、自分がずっと求め続けていたことが何かということと、どのくらいの時間それを求め続けてきているかということと、質問するのに適した相手が誰かということと、それは本当はどういう質問だったかということなんですけど、それらがいっぺんにわかった感覚がして、すごくうれしい気持ちがしました。 わたしはこれを20代後半からずうっと求めてきていました。 それはACIMなんて全然知らない頃からでした。それも、今日わかりました。 長いな! 一瞬間に過ぎないのかもしれないけど、長いな! ...
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