ACIM Lesson27 「何よりも自分は見たいと望んでいる」 - 2017年02月04日(土) ACIM。今日のワークはLesson27でした。 15分ごとに今日の想念を使う、というワークです。 今日の想念は、「何よりも自分は見たいと望んでいる」(Above all else I want to see.) わたしは単語帳にメモして今日のワークをポケットに持っています。15分ごとに今日の想念を使うというのも時間自体は意外にそんなに忘れないのだけど(何回かは忘れる)、今回はやっていてすんごくしんどかったです。 朝、家を出る前にこのワークを開始して、職場まで車を運転しているときにふとわたしに疑問が上がってきました。 その疑問は今思い出せないのだけど、それはわたしは初めて思った疑問で、まあ考えてもわからなそうなので、これってどうすればいいの?と問いかけて放っておきました。 問いかけておくとその内に答えがやってくる、それは読んでた本の続きに書いてあるときもあるし、誰かがそれを話してくれることもあるのですが、何かしらの形で答えがやってくる、そういった信頼をわたしは持っているのでそうしました。 そして、それは答えが来ました。 このワークをしているある時間に、わたしには聞きたくない内容の話し声が聞こえてきました。 今日のワークの想念は、「何よりも自分は見たいと望んでいる」なので、そのワークの想念を胸の中で読み上げると自然と、意識が積極的にその「私の聞きたくない内容の話し声」に向かう感覚になりました。それがわたしにはしんどかった。 でもそれが今日のワークなので、わたしはその聞きたくない話を耳を澄ませて聞いていました。 いつもならわたしは、ああ嫌だ、こういう考え方好きじゃない・・・と聞かないように、聞こえないふり、そういった心の動きをさせます。 好きな話ではないので、今日も特にそこに参加はしないのですが、聞こえてくる言葉をちゃんと聞くことにしました。 そうしたら胸が痛くて、胸が苦しくて、しんどい! いやまじで、しんどい! こんな風にこういった言葉を聞いていたら、わたしは死んでしまうがな! この先ずっとこうして「見たいと望んで」いたら死んでしまう!と思いました。 そう叫びだす一方で、わたしの中のどこかで「まあ、苦しくても死なないか」とふっと思いました。 それと、「その、今見えているものの向こうに、わたしが見たいと望んでるものがある」とも思いました。 それで、そうか、苦しくても死ぬわけじゃないか、とどこか安心したので、その胸が痛い、胸が苦しい体の感覚を積極的に感じてみることにしました。 感覚していたら、次第にその苦しい体感覚はなくなっていきました。 その上、いつものような、逃げるような耳をふさごうとしているような、そういった感覚も使っていなかったからありませんでした。 そして、 「ああそうだ、わたしの見たいものはそれを避けていては見れないんだ」 「見たいものは、その避けているものを通り抜けたその奥にある」 「避けているもの自体は望んでるものとは別のものだけど、それで見えなくしているだけでそこの奥にある」 そう感じました。 それが朝のわたしの疑問の答えとなりました。 あ、答えだ、というのは感覚としてわかるのですけど、そもそもどんな疑問だったか内容を忘れているので、どんな疑問にどんな答えだったのかというように言葉で説明ができないという・・・。 お風呂とか運転中とかってひらめきやすいですけど、メモが取りにくい・・・。 次に「見たくない」「聞きたくない」ような状況が来たとして、そのときどうなるかまた試してみたいなあと思っています。 ...
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