日記×エッセイ...みち

 

 

昨日の続き。 - 2017年02月05日(日)

昨日の日記に書いたことの中の、朝に思った疑問とその答えを思い出したので追記の日記です。


昨日の朝、運転中にふと出てきた疑問。

わたしは「ひどい世界」「悲しい世界」を信じてるところがあるよなあ。
そして、それがそういうものだと諦めている。
何もしないという種類の諦めではなくて、知的に理解しちゃってるから諦めていて、でも悔しくて、ぎぎぎ、、、と歯を食いしばる感じ。
この「諦めの感じ」「諦めの感覚」、これってどうにかならないのかなあ。
あまり楽しい感覚ではないし。

という感じのものでした。
ね? 考えてもわかんなそうな疑問でしょ。


そして、日中ワークをしていて経験したことから出てきた、それに対しての答え。わかったこと。

「ひどい世界」「悲しい世界」を信じてるところが、その人はわたしと一緒だということ。
わたしは諦めていて、その人は諦めていないということ。
わたしは諦めているから、そこに文句を言っていても仕方がないと思っているし、文句を言うことでもわたしは自分が消耗する感覚がするので、だから「聞きたくないこと」と知覚する。
それだけの違いだったということ。
つまりは、根本的なところは同じだということ。
それがわかっていなかったということ。
諦めていない、そのパワフルさに触れること、触れて感覚を得ることは、そこに向き合わないと得られないということ。
その人が間違っているわけでも、わたしが間違っているわけでもない、ということ。

そして、その「根本的なところ」が異なるのが、避けていたものの「奥にあるもの」だということ。
避けていたものを通して「奥にあるもの」が重要なのに、その手前にある「避けたい」ものを重要視してしまいがちなんだな、ということ。


これらのことがわかりました。
書いてみると、答えが多いですね。

まとめてみると、それほど居心地がよくない「諦めの感じ」を感じるのは、フォーカスしてるところの違いからなのよ、という感じか。


奥にあるもの。
わたしはそれを、何よりも見たいと望んでいる。


また忘れると思うので言語化しておきます。

こうして書いてみて気づいたのですけど、知的な理解は助けにもなるけど邪魔もするなあと。
ふむふむ。


...




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