日記×エッセイ...みち

 

 

プレゼンシングとわたし - 2016年12月20日(火)

12月初めにジャックさんのクラスに行ってから、理屈では全くついていけていないし、ついていこうという気もないのだけど、なんかいろんなものが自分からボロボロと剥がれていってる感じがしています。

明らかに違うのは、がんばらなくなった。
わたしにとってのがんばらなくなった、これを説明するのは少し難しいのだけど、わたしは自分を追い込んでいくのが結構嫌いではなくて、本気モードになれると快感スイッチが押されるようなところがあるので、ついついがんばってしまうというのがわたしの基本にあります。
まあ今もあるなって感じなのですけれど。

あるんだけど、それに追われる感じがなくなったなあって思います。
正確に言うなら、「がんばることをがんばらなくなった」と言うのか?

「今の自分を、今見ている」
そんな感じがしています。

できなくても、できなかったーで終わる。
こうするとできるんだー、そうなんだー、で終わる。

足りないから努力してできるようにしなきゃ、とか、逆に、わたしはそんなことはしたくない、とか、そういうのがない。
ん? ないわけではないか。出てきてるな。
ないのではなくて、出てきてもそれにこだわらない、ずっとそれを持ち続けようとしない、それが正しいことと守らない、そんな感じかな。
やるかもしれないね、それはやらないで他のことをするのかもしれないね、みたいに自分を眺めている感じ。

理屈でわからないというのは、なんでこうなったのかがわからない。どうやってこういう感覚を感じるようになってるのかがわからない、ということ。
全く違うのですよね。何かが。

プレゼンシングを意識しているからだよ、と言ってしまうと、まあそれはそうなんだろうけど、その言葉はすんごく簡単にまとめてしまっている感じがしてきてしまいます。
わたしにとっては、もっとしっくりくる言葉がありそう、という感じで、プレゼンスに含まれている今のわたしにとっての大切なものが言語化されていなくて見てもらえない状態にしてしまってる、そう感じて何気にイラっとする感覚が出てきます。「理屈でわからない」というところに置くのがいちばん安定します。
(「そのイラっとしてるのを体で感覚してみたらどんな感じだろう」とこれを書きながら思ってみたりしますが)

体の感覚を感じる。
いっぱいに満たしてみたり、空っぽに手放してみてその感覚を感じてみたり。
それだけなのになあ、すごいなあ、って感じています。
シンプルすぎて、こうして学んでこなかったら自分でやろうとしなかったよね、この感覚を知らないままだったよねって思います。

ある部分では「わからない」ですが、これまでわからなかったことがわかってくることもあって、ずっと理解できないと思っていた人が、ああそうか、とわかってきたり。
「こういう反応をするから嫌だ、困る」と怒ったり嘲笑したり、あるいはそういう態度の人を見て嫌だなって思ったり、そうではなくて、「そういう反応をしてしまうのだな」と単にわかるだけというのはとても楽ちんです。

足を痛めている人に椅子を差し出す、そういうことと同じことだよね、きっとね。


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