日記×エッセイ...みち

 

 

片づけと内観 - 2016年11月15日(火)

ボディワークのセッションができる空間を確保するために、片づけをしていました。

いらないけど捨てるのが面倒くさかったもの、買ったときは高かったもの、今は使わないけど使えるから置いておいたもの、あることすら忘れていたもの、などなどを片づけていました。

片づけ期間、いろんな感覚が出てきました。

今日は母関連の書類を処分しましたが、大部分処分するけどまだ少し残しておくことにしました。
ひとつひとつ書類を見ていきながら捨てていったのですけど、この時には母はどんなだったなとか、わたしはこんなことを感じていたなとか、そういうのが病院の名前だったりわたしの書いたメモだったりから、ひとつひとつ感じられて。
捨ててしまうことでなかったことになってしまうような気持ちがしてきて、少し残すことにしました。
なかったことにならなくしよう、というか、もう母に対してではないけど、別の誰かに対しての機会、わたしの準備ができて消化できるという機会に向けて、そのヒントに残しておこう、と思いました。
あの頃の自分の感覚を思い出せるように。仮に忘れてしまったとしても。


全部をいっぺんに出す、置き場所をまず決めて、何があるのかを全部見る、みたいな片づけ方をしたので、部屋の中は一時すごい状況になりました。
その状況から思い出されることがあって、わたしはそれを思い出したくないのだなあ、と感じました。

思い出したくないのだなあ、と感じていたら、これまで全く意識していなかったこともふたつほど出てきました。

ひとつは、わたしが片づけが苦手だったそのルーツがわかった、みたいなこと。
簡単に言えば、わたしの父はすっきりと片づけていました。わたしの母は片づけを始めると結果的に散らかしてそのまま終わっていました。子供の頃のわたしは、父のやり方のほうがいいと思っていました。
でもわたしの好きなやり方は、母のやり方経由で結果父のように終える、というやり方なんだな、ということに気づいた感じがします。最初の部分の母のやり方に対して否定的だったので、わたしは「片づけが苦手」だったのだろうなあと思います。


意識していなかったことのもうひとつは、自分が我慢していたことに気づいたということです。
わたしが我慢していたことって、今我慢する必要が本当にないことだったりしていました。子供の頃に我慢した、そのままずっと本当に引きずっていたなということがわかります。
しかも、「え、わたしが我慢するのってそういうことに対してなの?」と自分で意表を突かれた感じがしていて、個人的にはそこが興味深かったところです。
気にならない人は気にならないだろうけど、嫌だという人は普通あんまりそういうの我慢しないんじゃないかな・・・というようなこと。


例えば、風呂場の足ふきマットが濡れたままなのが嫌だけどそのまま使う、とか、そういう感覚というか、住み心地的な類のものをわたしは我慢しやすいことに気づきました。

もうね、自分で洗って干して、あるいは新しいのを買ってもいいし、自分の気持ちよいように使っていい、使えるにもかかわらず、そうできるということに気づかない。そして「もうちょっとなら我慢できるかな・・・」とか感覚を使っていました。
・・・こうやって書いているとその我慢をする意味が謎ですが、実際そうなんですよね〜。(~_~;)

変な話、なんかちょっと感動的でもありますが。こんなに気づかないんだ!ってことが。
ミステリ物が好きなわたしとしては我ながらほれぼれしました。

子供の頃に嫌だって感じてたのだな、慣れて嫌ではなくなるのではなく嫌だったことに慣れた、その嫌な状態が普通だと思ったんだな〜、と振り返ったりしました。


片づけをしていたある日は、とても時間が長く感じました。
三、四時間くらい、いつもに比べて時間があるように感じました。その日は、一日二十七時間はあったような体感。
不思議なことに、朝ゆっくり起きても、のびのびとさぼっていても、ずっと集中していても、時間が思っているよりも全く進まなかった日。
時間がないように感じやすいわたしは、とてもうれしい一日でした。

ちょっと思ったのは、住み心地、居心地と体感時間って関係しているのかなーと。
あの感覚でいつも過ごしたいです。


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