日記×エッセイ...みち

 

 

夢と猫さん的な毛布 - 2016年11月11日(金)

昨日見た夢は、わたしが苦手としてるAさん(仮)が「今日飲み会があるけど参加だよね?」と言ってくるというものでした。
夢の中のわたしはとっさに断っていて、どうにでもなること、変更もできること、今日じゃなくてもいい予定、実際予定はしていたけど特に今日の予定にはしていなかった予定を使って、「もう予定があるので行きません」と言いました。

起きた後に、これは何だろうなあ、と思いました。
親しい個人で飲むなら別ですが、「大勢での」飲み会というものがあまりわたしは好きではないところがあります。


・・・別なことを書こうと思ってこうして書いていたのですが、「あ、大勢での飲み会、わたし好きじゃないわ」と書いていて今、気づきました。

これまで、親しくしている人の誘いの時にも乗り気じゃない感覚がふっと現れてきていて、飲み会自体が嫌いなわけではないのもあったので自分を気分屋だと思うことが多かったのですが、なんかそれが少し解決というか腑に落ちたというか。
意識していない部分でなにかがあったぞと。それがなにかは今のところわからないけど、ここら辺にあるのだな、とわかっただけだけど、楽な感じがしました。
「自分は気分屋だ」という評価に罪悪感が絡んでいたので、「あ、罪悪感いらないんだな」と感じられて、それが楽なのかな?


Web日記ではない、自分用の日記も書いているのですが。
昨日の日中、わたしは咄嗟に怒りが出てきて、表現はしなかったけれど怒りが出てきて、これはなんでかな?と、昨日日記を書きながらわたしは見ていました。
そして、何かを恐れている、という結論は出たのですけれどそれは何かはわからなかったので、「その何かが知りたい」と文をしめました。

気分屋という判断と罪悪感の関係に気づいたわけですが、それを踏まえて、昨日の事柄には罪悪感が絡んでいるかな?と、改めて昨日書いた日記を今もう一度読んでみました。

そうしたら、もう言葉として自分で書いていることに気づきました。
昨日のわたしはわからなかった、わたしが恐れていたものが何かということがわからなかった、でもその「何か」は自分の筆跡で書かれてありました。
昨日のわたしはそれを恐れとしては扱っていませんでした。「こうしたくない」と思っている事柄として書いていました。

わたしは「こうしたくない」ことを「してしまうこと」を恐れていました。「こうしたくない」だけではなかった。
ということが今、こうやって書いていて判明しました。

自分で書いてわかって、自分で書いたのを読んでわかって。
わたしはなにやってんのかな?と思いつつ、楽になったからまあいいかとします。



今日見た夢では、亡くなった父と母が家に親戚を招いて新年会(つまりは飲み会)をするというもので。
うへえ、となりました。

その場合のわたしは真っ先に断るという行動にはならなかったのだけど、じわじわと「やっぱり出たくないなー。その時間は外に出かけてようかなー。もしくは覚悟して出るか・・・。」と迷い始める、と。

父と母はわたしにとって苦手な人ではないので、苦手なAさんと何が違っていて、どうしたことでAさんをわたしは苦手と感じてるのかな?ということも見てみました。違いは何かなー、断れるか断りにくいか、というところがあるなーとか。
(個人的には、なぜ断りにくいと感じているかな、と続きます。)

今日の夢の中では、昔恐れていたことも出てきて、今は恐れていないのにその恐れだけ今も使っているな、ということに気づいたりもしました。

こんな感じで、「気づく」ということに関して、わたしは夢を超使っています。



以前ジャックさんにボディワークの個人セッションをしていただいた時のこと。
その時わたしは母を亡くしたばかりで敏感になっていたということもありますが、マッサージテーブルや上にかけていただいた毛布の柔らかさにわたしはすごく感動しました。
(しかもお値段据え置き・・・)

セッションで、より体の感覚に意識を向けるようになって、セッションを終えて、ジャックさんの手がわたしの体から離れて、わたしはわたしだけで自分の体の感覚を内側から感じてみるという時間に、そのベッドと毛布の柔らかさがまるでやさしさのように感じられました。
本当に、ふんわりと包まれている、心が満足するそういう感覚を、外側からも味わえました。

今、セッションを始められるように準備中で、セッション用に毛布を手に入れようとする時にそのセッションの時に受けた感覚を思い出して選びました。同じ感覚というわけではないのですけれど、同じ方向のものを選ぶぞと。

で、自分用にも同じものを買いました。

もうこの2、3日使っているのですけれど、その毛布がまるで猫さんのようで。
猫さんといるみたいで、やわらかくて、幸せ・・・。そんな感じで眠っています。猫さん好きなので最高です。

その感覚は夢にも影響しています。

亡くなった父と母に夢で会って、それは全く生前と変わりないもので。
実際にそう関わっていた時は気づいていないし夢を見ている最中は気づいていないのですけれど、こうやって夢から覚めると、ずうっとそこに存在していた感覚というものが見えて、その感覚は毛布のやわらかさとつながっています。うまく言えないのだけど、そこにいたわたしたちをふんわりそのまま包んでくれている、みたいな感覚。

夢の中のわたしはいつも夢の続きをしていて、
「いつもお父さんをもう死んじゃったものと思っちゃうのをどうしたものか・・・。」
と思います。
あ、死んじゃったと思ってたけど死んでなかった、夢の中の記憶をそのまま使ってる、と夢の中で思います。
母は去年亡くしたばかりなためか、夢の中のわたしは母が死んじゃっていることすら気づいていません。

でもそっちが本当なのかもなあ、とこうして日記を書いているわたしは思ったりもします。
というか、何度も夢でも現実でも「あ、これ夢で見た記憶か」とやっているので、若干その境がゲシュタルト崩壊ぎみではあります。どっちでもいいよもう、みたいな。


今日の朝、目覚めた時にわたしは自分の腕を抱きしめていたのですけれど。
それがまるで赤ちゃんが抱っこされている時に、自然に重さをくれている時のような感覚がして、ああ、この感じか、と思いました。知りたかったんですよ、この感じを。
体がゆだねている感じ。体にゆだねられている感じ。

その頃には猫さんの毛布は、ベッドの端っことかどこかへ行っています。
ああ、つれない。


...




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