日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2016年11月09日(水)

前回の日記に書いてから聖霊さんに渡そうと思ってはいるものの、何かが起きた時はスポンと渡すことを忘れます。
忘れたことに気づくことから始めています。(仕方がないので〜)


それから、渡すことにしてからいくつか気づいたことがあります。

ひとつは、これまでわたしはエゴの相談役をしようとしていたのだなということ。
いやあ、そんなできるはずがないことを。
エゴさんも先輩にお任せするのだわ。


もうひとつは、嫌だなっていつも思っていたことがあったのですけど、それを渡すと思った時に、

「それはどうなの? 感じないようにしてるんじゃないの? ちゃんと感覚しないとダメなんじゃないの?」

というのが出てきました。

自分から出てきた考えなのに、それが頭に浮かんだ時にわたしは怪しく感じました。
いつもそういうふうな思考パターンがあるのに、怪しく感じました。
それほんとかよ?って。

何を怪しく思ったのかというと、「嫌なそれを感覚しないといけない」と思いながら、本当にそれを感覚しているのかどうか・・・、と疑問を感じたのでした。
というのは、どこか「変化させないようにわたしはしているんじゃないか?」と思ったからです。
なぜそう思ったかというと、感覚しているのならそれに変化が起こらないというのはおかしいぞ?と思ったからです。
感覚することから変化していく現象を、ボディワークを通してここ数年散々体験しているので、いやあそんなはずないな、と感覚で思ったのでした。


というわけで。
「ずっと変わらず嫌なことのままにしておきたい」という、すごく矛盾した望みを自分の中に見つけました。

ずっと変わらなければ、それのせいにしておける。
ずっと変わらなければ、それを攻撃していられる。



愚痴を言うことや悪口を聞くことがこれまで好きではなかったのですけど、渡すぞと決めてから、あまり気にならなくなりました。
気にならなくなったというか、楽になりました。

わたしは何が好きでなかったかというと、愚痴や誰かの悪口で「楽しくなる」ということ。
でも、自分が思っていることを共感してもらえることは好きなこと。
ここで葛藤していました。

楽しく時間を過ごすために、掛け合いや反応するように言葉を交わすことも、よくやります。
それは本当に相手の話に耳を傾けていることではないけれど。
楽しさを優先しちゃうことがあります。
相手の話に耳を傾けるというよりは、相手が言った言葉にどう返そうか、というような会話。



聖霊さんに渡そうと意識してから、それらがわかった感じです。

これまでも、理屈では自分の中で何が葛藤しているかわかってはいましたが、これまでとの違いとしては、今は整理してそれぞれの棚に入れた、って感じ。

AもBもどちらも持っていて、AとBをそれぞれをそれぞれの置き場所に置いた、置いたものを眺めて「こういうふうに置いてあるんだな」とわかった、という感じ。

これまでは、AもBもどちらも同じ場所にぐちゃーっとあって、それを「持っていること」と思っていたって感じ。


そのせいなのか、久々に嫌いな自分が出てきました。
昔と違うのは、それを直そう、無くそう、と思わないところ。
なんか、他人を見てるように自分を見て、そういうところ好きじゃないけどでもそこがおもしろいところなんだよね、と思いました。

おもしろい。楽しい。
それをどこまでにするか。
それぞれを置く棚を作る、棚の幅を決める、その棚に収まるように選別する、というのが、わたしには大事なのかもしれないなとも思いました。


...




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