日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2016年10月29日(土)

今日は、職場で大変お世話になった方の送別会でした。
いろんなことが思い出されてきました。時間を長く共有してきたけれど、共有したのは時間だけではないんだなあって思います。

お別れが寂しくて泣くのを我慢している子がいたので、泣いてこい!と押してみました。
こういうのはちゃんと体験した方がいいとわたしは思っているので。
その光景は見ていて、とても甘やかなものに感じました。

送別会に参加された方の中には、久々にお会いしてお話しする方も多くて、それはそれでとても懐かしい感覚もしました。



楽しい時間を過ごして家に帰ってきたら、はたと、わたしはずうっと何かから逃げようとしてきたのだなあと感じました。

何かというのは、ACIMで言うならば「愛」ってなっちゃうのですけど、「愛」って言っちゃえば簡単ですけど、でも「わたしにとってそれがどういうものなのか」というのが言語化できるくらいにはわかっていないなあ、わたしはそれが知りたいなと思いました。

わかることといったら、それは一緒に関わる瞬間があって、共有するものがあって、生まれてくる感覚というか・・・、というぼんやりした感じ。それをよりどころに見つめてみました。

この感覚と、エゴによる「人と一緒にいたいというもの、寂しさみたいなもの」との区別がよくわからないなあ、って思いました。



わたしは、自分のやりたいことを自由にできない、と感じがちなところがあって、それはなぜかといえば、誰かといるとその人とのやりとりをすることなく早々に何かを我慢をすることにしてしまったり、自分のしたいことを脊髄反射で後回しにしてしまうような癖がある、と。

だから、一人になる時間をとてもほしがります。



で。
今日を過ごして感じたのは、わたしは何かを勘違いしている感じがする、ということでした。

めんどうくさくて、わかってもらえなくて、自分の嫌な部分を見て(ジャッジをして)、だからずっとずっと避けていたものがあって。

でもそれ、勘違いしてるよね、とふんわり感覚が出てきました。



そういうのがあるなあ、なんだろうなー、と思って、いつものように自分の日記に書き、そのうち(いつかはわからないけど)わかるだろう、とノートを閉じようとしたら浮かんだことがありました。

わたしにとって「愛」というのは、「つながり」自体なのかもしれないな、ということ。

正直、「絆」とかあんまり好きじゃないんですけど、それをわたしが嫌うのは「つながったから何かが得られる保証になる」とか、「つながった方がいい、正しいことだ、それを望んでいない人もその人の意思は関係なく皆をつなげよう」とか、そういうものが見える時ということなだけで、だからってつながり自体を自分から離そうとすることはなかったんだな、と感じました。



相手の価値観を尊重したい。
それで正直になれないことがあって、嘘をつくことが自分自身を攻撃しているように感じるところがあるので、しんどいと感じる状況にすることもあります。
わたしの価値観もどちらも尊重してつなぐ、つなごうとしてみる。
それがうまくいくかどうか、それは別のこととして。

それだけだったなーと、着地しました。


自分が何を感じているのかを、もっと言語化できるようになりたいものです。



ちなみに。
セルフでプレゼンシングソマティクスをしてる時に気づいたのですけど、
体に置いている手の温度を感じたり、
圧を感じたり、
あるいはそれと作用して手の置かれている体の内部から感じるものを感覚したり、
ということはよくしているのですけど、
「手自体、手の存在自体」の感覚を感じようとする、
それをわたしはあまりしてないなーと感じまして、意識してそれを最近試しているところだったんですね。

これをした感覚というのが、今日感じた「甘やかさ」だったり「つながり」だったりの感覚と似ている感じがしています。
感覚が似ているけど共通項がわからない。

なんだろうなあ。なんで似ているって感じてるんだろう。


...




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