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過去日記読み日記 (エンドネシア感想日記の読み返し) - 2016年10月20日(木)

グーグル先生経由で読まれた日記があったので、何の日記が読まれたのかな?と自分の過去の日記を読み返しました。2001年6月のエンドネシアの感想を書いた日記です。15年前。


いやあ、なんか・・・。すごいなと。

今これを自分で読むと、なんかとても迫ってくるものがありました。

というのは、エンドネシアを当時プレイして感じたことは、今のわたしが人生に対して考えていることととても重なるからです。


確か当時は、人生とゲームは違う、と思っていたと思います。人生を今より重く深刻に捉えていたのだと思いますが、人生とゲームを一緒に捉えるなんてばかじゃないのかと思っていました。
思ってたなあ。


今はどうかというと、人生はゲームだ、とまるきり別の考えになっています。
でも、当時とまるきり反対の意見かといえばそうでもなくて、当時の考えは今と共通するものがあるままなので、発展していって熟成していって今の状態になっている、そんな感覚ではあります。
なのに意見としては見かけ上反対に見えるのが興味深いところです。


今この日の日記を読むと、「あ、こういうところに罪悪感を感じるのだな」というのも見えるのですけれど、それだけではなくて、「うわあ、その通りだ」と今思うことも過去の自分が言っていました。
当時は「ゲームについて」言っていたことですが、人生について言っていると捉えたらすごく新鮮な気持ちになりました。
当時人生とゲームを一緒に捉えるなんて、と思っていたわけですから、人生についてなんて言っていないわけですし(笑)



それはどこの文章だったかというと、3箇所あります。


「もう1度、隅々までエンドネシアの世界を歩みたくなりました。次のプレイはクリアを目的としたものではないから、島の人々と話したり、誰かひとりの10日間の生活について行ったり、ひたすら世界を楽しむ。」

ここを読んで、クリアを目的にした人生の生き方と、クリアを目的としたものではない人生の生き方は全く質感が違うかもしれないな、と思いました。
ゲームをして、クリアを目的として遊んでいる時と、クリアを目的とせずに遊んでいる時との質感を覚えているので、その体感が「今」に重なってきました。
人と話したり、時の流れについて行ったり、ひたすら世界を楽しむ、そんな人生はどんな質感かな、と思い浮かべました。
クリアを目的とした人生はどんな質感かな、と思い浮かべました。



「難しいからブーイングも聞こえて来たりするけれど、それはその人との相性の問題であって、ブーイングが似合うゲームでは、決してない。言い切ります。
早解きしたいタイプの方は、ゲームの中に生活時間の存在しないゲームを選ぶべきさ。」


人生はブーイングが似合うゲームでは決してない、と。
つよい。強い言葉だ。
早く解こうとしていると、不満が出てくる。でも、この「ゲーム」は早く解く性質のものではない、と。



「明日になったら、もうきみはぼく(主人公)のことを知らない。だからそれから、会いに行けませんでした。今度は行くね。はじめましてからはじめましょ。」

自分が昨日会った人は、昨日のままの人だと思っている。
本当は、昨日とは別の人。
新たに会う人。
日々変わっている。
自分も変化している。
お互いに変化しているのに、それを見ずに同じことを繰り返すのはとても変なことだ。
ゲーム内での10日間の流れでも登場人物は変化をしているけど、過去の蓄積もその時点では見ている。

そうではなくて、10日間の流れが終わって全くこれまで会ったことがない、あの感覚を毎日繰り返してみる。
これまで会ったことがない感覚を持ちながら、これまでの記憶は持ちながらそれに振り回されない。
もうきみはぼくのことを知らない。もうぼくはきみのことを知らない。
知ってる、と思っているんだよなあ、とACIMの最初のほうのワークを思い浮かべました。


わたしは何も知らない。わたしは意味のあるものを見ていない。


...




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